終戦の日 銀座テアトルシネマで『敵こそ、我が友~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~』を観てまいりました。
戦争、平和、国家、個人、善と悪・・・様々なことを考えさせられる深いドキュメンタリー映画の傑作でした。


クラウス・バルビーは、元ナチス親衛隊中尉。独軍占領下のフランスでレジスタンス活動家やユダヤ人を死に追いやり、“リヨンの虐殺者”と呼ばれた。戦後はかつての敵国アメリカに利用され、米陸軍情報部(CIC)の工作員に。偽名でボリビアへ渡り、軍事政権誕生の立役者となった。だが1987年、リヨンで終身刑を宣告された。
 そんなバルビーの足跡を、さまざまな証言と貴重な映像でつづる。優しい父親の側面を語る実の娘、バルビーに父親と妹2人を殺された遺族、拷問の被害者、バルビーと米国との関係を分析する歴史家…証言者は50人にも及ぶ。
 バルビーがチェ・ゲバラの暗殺計画の立案者だったという意外な事実も明かされる。20年間封印されていたバルビー裁判の記録映像も使われている。
 「誰かが座って何かをしゃべる。照明はそこだけに当たっている。華美な要素は一切なく、見えるものより言われていることが重要なドキュメンタリーにしたかった」
 そう語るケヴィン・マクドナルドは、前作「ラストキング・オブ・スコットランド」でウガンダのアミン大統領を劇映画として描いた英国人監督だ。
 「これは、われわれのナチスへの妄執についての映画なんだ。われわれがいかにナチスを悪の権化として、自分たちとは全く違うと思いたがっているか。それでいながら国家としてのわれわれは、バルビーのような人物を利用してきた。道徳の境界線は、白黒はっきり分断できるものではないのです」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080727/tnr0807271029005-n1.htm

クラウス・バルビーの名は知らなかったが、フランスが南米で悪逆非道の限りを尽くした元ナチ戦犯を執念で捕らえ、裁判をしたことはニュースとして頭に残っていた。
この映画のレビューを見て、あの英雄チェゲバラも殺害し、しかも米陸軍情報部(CIC)は彼を雇い、バチカンが彼を南米へ脱出させたというではないか、数奇な彼の人生を映画を通し是非とも見ておこうと思った。

映画では、まずクラウス・バルビーの顔に目が行った。裁判でを受けた後の最晩年のインタビューではひ弱な一老人の姿であったが、おだやかな表情と何かを成し遂げてきた彼の目は、映画に登場する過去の写真やフィルムに残された彼の顔に輝く瞳と同じものであった。一貫して実にいい顔をしているのである。特にボリビアでボリビア海運(ボリビアは海なし国)を興した頃から、第四帝国を南米に築こうと奮闘していた頃~収監直前の顔は輝いていた。間違っても精神障害や人格障害ではない、有能な経営者や医師や弁護士のような全く普通の善良な市民の顔をしているのである。

東京裁判では戦勝国によりBC級戦犯が逮捕され処刑された。私の大叔父二人もこの中に含まれるのだが、処刑されたBC級戦犯の大叔父達の人生と、バルビーを重ね考えさせられる映画であった。

ナチやSSゲシュタポといえば同盟国であった日本ですら戦後、悪逆非道な悪の象徴としてステレオタイプでイメージされている。しかし実態はどうであったのか?バルビー自身よき父親でもあり、善良な国民にすぎなかったのではないか?その前半生は、与えられた仕事を効率的に熱心に打ち込んだだけではないのか?

私は、バルビーの裁判で、彼の弁護を買って出たベトナム系フランス人のジャック・ヴェルジェスの「きれる熱弁」にも感動した。映画では、ジャック・ヴェルジェスを、裁判で相手を論破するのに生きがいを感じる弁護士だと紹介しているが、偏見である。彼こそ東京裁判におけるパール判事と同じく、弁護士の王道を正しく行く弁護士の鏡である。バルビーが命令したと糾弾されたユダヤ人の孤児院のこどもたちを結果的に収容所に送ったのも、両親から引き離さないという”人道的理由”をつけたヴィシー政府、フランス国家の偽善的責任を問うためでもある。

仮に日本が戦争に勝ったとしよう、そしてワシントンあたりで戦勝国による裁判があったとしよう。そのときは原爆を落したB29「エノラゲイ号」の乗員や、東京大空襲を実行したB29の乗員達をBC級戦犯としてすべて処刑するようなものである。 日本のBC級戦犯や、バルビーは敗戦国側の兵士というだけで裁かれている。

家に帰るとNHKでは「果てしなき消耗戦証言記録レイテ決戦」を放送していた。
昭和19年秋フィリピン中央部レイテ島で、太平洋戦争の一大転換点となる決戦が行われた。戦いに投入されたのは日米両軍合わせて30万人以上。現地住民を含め10万もの命が奪われた。とりわけ日本軍は全兵力の97%にあたる8万人という大きな犠牲を払うことになる。その悲惨な戦場を生き抜いた人々が今回、重い口を開いた。

レイテ島を決戦の場とした日本軍は、アメリカ軍が弱体化しているという誤った戦況判断の下に、兵站を軽視した杜撰な作戦を立てていた。そのため一線で戦う兵士たちはアメリカ軍の圧倒的な火力にさらされ、弾薬や食糧の補給もないままに無念の死を遂げていく。間違いに気づいた後も日本軍は作戦を改めず、兵士たちは銃剣を手に敵陣地に突入する「斬り込み」という無謀な戦法を命じられるようになる。一方アメリカ軍も砲撃などを強め、そうした中で多数のレイテの住民が巻きこまれ、命を落としていった。

番組では、日米両軍の元兵士、現地のレイテ住民や対日ゲリラなど、生存者の証言を広範に収集。今もなお戦場の傷の癒えない日米比三国の人々の生々しい証言から、餓死や同士討ちまで起き、徒に多くの人命が失われた過酷なレイテ決戦の実態にせまる。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080815.html

日本陸軍の戦闘実態を奇跡的に帰還した元日本兵と元米系の方々の証言をもとにドキュメンタリーを放送していた。証言されている元兵士の方々は90代の方々で、こういった証言はここ数年で最後になってしまうだろう。NHKの仕事はこういった点で貴重である。

そのなかで、元兵士の方が涙ながらに証言した記録が印象的だった。ある大隊長が米軍の猛攻で撤退を決断したが、命令違反を責められた。大隊長の上官が、もう一度大隊全員で死の切り込み突撃をするか、此の場で俺に射殺されるか選択を迫ったが、大隊長は部下をかばい一人で米軍へ突入していったというのである。もちろん大隊長は帰還しなかったが、その後その死をかけて庇ったはずの大隊には代理の大隊長が任じられ結果全員バンザイ突撃をさせられ、その多くが帰らぬ人となった。それが戦争だった・・・・。

バルビーと日本軍兵士、米兵、そしてガス室で逝った44人のユダヤ人孤児達・・・・戦争は負けたドイツ兵や日本軍が残虐で負けた側の兵士だけが悪いのか?今日暢気にブログを書いている私も、読んでいる貴方も、1940年代の彼らと同じ立場に立ったとしたならば、同じことをしていたはずだろう。私は倫理観があるので、命令を拒否してまでも、人の道を踏み外すことはないと、誰が断言できるであろうか?

バルビーの映画のなかで、チェ・ゲバラは演説していた「帝国主義というものは、人をナチのように残虐非道の戦士に変えてしまう、ベトナムでのアメリカ兵、アルジェのフランス軍士官や、ゴンゴのベルギー落下傘兵・・・」バルビーはゲバラを単なる夢想家であると馬鹿にしていた。レジスタンス活動家を殲滅した残虐非道な兵士であったバルビーの尺度からすればゲバラのレベルは、同じレジスタンスでも素人に近い直ぐに命を落したレジスタンスのレベルであたことを見抜いたか、そう感じたのであろう。

人間を鬼に変えるのは帝国主義でも、ファシズムでも共産主義でもない、悪なる集団が存在するのではなく、内なる個人の「善」それは義務感であり、愛情であり、正義であると思う。私はそう思う。もしバルビーが自分で行った行為に「悪」を感じていたならば、ああいた善良な市民の顔をできない。自分のなかの悪に耐えられなくなりその後の人生はけしてこのような映画になるような人生ではなく、場末の酒場で飲んだっくれているようなつまらない人生であったろう。

バルビーの人生がこのような映画になる人生となったきっかけは、彼がCIC米陸軍情報部に雇われたことにあるだろう。リヨンの屠殺者であったバルビーはドイツ共産主義者の情報も持っていた。戦後の共産主義の脅威から守る善意の為、米国は最も憎むべきゲシュタポであったはずのバルビー達の力を利用しようと考えた。元ゲシュタポの人脈は反共主義の信念は固く共産主義の浸透を防ぐには非常に利用価値が高いと考えたのであろう。

ところが、接触してみると悪魔であるはずのゲシュタポが人格者で有能な軍人であった。彼を知る元CICの老人達の証言は一致している。仕事を通じ皆彼を尊敬していた。だが、フランスにとってレジスタンスの英雄ジャンムーランを拷問の後屠殺したバルビーは許せなかった。彼の存在がレジスタンス運動に己の治世正当権であることを振りかざす新生フランスの政治家にとっては、己の正当性に関わることであった。フランスは米国にバルビーの引渡しを求めた。 バルビーが、単なる「リヨンのブッチャー」に過ぎない性格異常者であったのなら、米国は彼を引き渡してお役御免であったろう。CICはバチカンと結託して彼と彼の家族を南米に逃がしたのである。

最近佐藤優氏のインテリジェンス関係の本を読むと、頻繁に登場するバチカンの裏面の顔が見え隠れする。バチカンは反キリスト反宗教を掲げる共産主義の浸透を防ぐ為、ヒットラーとも結び、米英政府とも反共で繋がっている。ドイツ第四帝国を南米に築こうとした、バルビーとバチカンの繋がりを映画ではさらっと流しているが、単純に脱出幇助の役割だけではなかったはずである。

皮肉なことに、バルビーの戦犯としての価値はBC級戦犯相当であったものから、戦後の彼の活躍によってA級戦犯相当へ戦後格上げとなってしまったのかもしれない。終身刑で1992年獄死した彼の量刑は重かったのであろうか?軽かったのであろうか?私には裁けない。

人間は生存する本能の為に国家や正義、義務、愛などの概念を生み出してきた。愛、正義、義務の名の下に、悪と死と憎悪が生まれ、それらは拡大再生産されていくものである。

我々は、正義や愛、平和といったことを語る純真な主義者が無意識に撒き散らすものの正体が、実は悪や戦争、憎悪をもたらすことに気がつかなくてはならないと思う。此の映画はそのことを気づかせる映画であると思う。ゲシュタポもアルカイダもCIAもKGBもすべて正義という善意の塊なのである。

憲法9条を振りかざし世界遺産へなどと言う奴と護憲団体、反テロリスト戦争を実行する某政権や聖戦を叫ぶテロリスト、反日を叫ぶ特亜諸国のナショナリストすべて善意の塊である。善意であるが故にすべて危険なのである。渋谷の街で見かけるケータイを持った猿達の群れこそ平和の象徴であるのかもしれない・・・・