日本国憲法について思う事

憲法とは国民が持つべき価値とか規範を表した文書だと思います。聖徳太子の十七条の憲法http://www.shoto9taishi.com/government/constitution.htmlというのはそういった点で、日本人の規範を最初に著した文書として価値あるものだと思います。(十七条の憲法は、近代憲法と異なり、当時の価値観や規範を文書化したというより聖徳太子の施政方針、役人に対する規制の文章であったかもしれません。)

護憲側の9条を守る論理として、憲法とは理想を示したものだという定義づけがあります。一見、尤(もっと)もらしい憲法解釈と思うが、私はこの点をまず異議を唱えたい。理想の無い論理も空疎なものにすぎないが、現実とかけ離れた理想は空理空論でしかない。現実と乖離したものは現実に即しその理想を示すべきであると思う。

護憲を叫ぶ人間は憲法議論する事すら、危険だと言って拒む場合が多いが、憲法論議というものは、国民の理想と現実を摺りあわす意味で大いにするべきであると思う。議論を避ける姿勢を示す護憲論者は、脳細胞が死滅しているか、政治的意図で国民の常識を侮辱しているように思えてならない。

現憲法は、米国が日本の弱体化、骨抜きにする為に押し付けた憲法である経緯はあるものの、その後60年以上改正せず放置しているのは、もはや日本人の責任である。日本の文化というものは、世界に優れて素晴らしいものではあるが、数少ない日本人、日本文化の欠点を挙げるとするならば、自ら規範を変える事が非常に不得意な民族・文化である点だと思う。

勤勉な国民が豊かな自然に囲まれた国土に住めば、大きく規範を変えることなくとも、生命は維持できた歴史風土が、そうさせたのであろうとは思うが、欺瞞の憲法を欺瞞したままで放置する状態は、けして誇れることではない。改憲に踏み切れない現状は、世界に日本の弱点を曝しつづけているようで、私にはとても耐えられない。

憲法といえば、9条問題しか語られていないが、99条(補足をいれ103条)まである全文 http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM を読めば、今の日本人的価値からすれば改憲すべきことは9条に限られたものではないことに気がつくであろう。特に問題なのは前文だ。

憲法前文の『これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。』この部分が、思考を停止する人間が多い日本人の性癖に悪影響を与えていると考えています。

終戦直後の日本が侵略戦争をしたという虚構の歴史観と価値観を持ったGHQ側の立場が近い人間が書いた価値観が、人類普遍の原理と言い放ち、議論すら認めない傲慢な前文はそもそも不要である。深層心理としてこの前文はこの日本国憲法を纏めた人間ですら、この憲法の欠点を認識していたからこそ、付け加えたのだとも読み取れる部分である。

『人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、』についても、平和を愛する諸国民など空想であって、当時のソ連や英国、米国を指すのであったら、その公正と信義は信頼してはいけないだろう。世界中がどこを捜しても、平和を愛する国など空虚な空想でしかない。

前文は、日本国民の合意のもとで、この憲法を発布するとでも書けばよい。長々と口上を述べるものほど怪しい存在だと思わないだろうか?長々と書いたその理由は、憲法を作成した人間達が、この憲法には、日本人が2000年以上の歴史を積み重ねた美徳や常識を破壊する毒素を本能的に感じた為、憲法の能書きを書かざるをえない心理になったのではないだろうか?

第一条から第八条についてだが、象徴天皇は古来からの日本の伝統であるので、この点はまるで問題ないが、日本国民統合の象徴、日本国民の総意とあるが、第十条において『日本国民たる要件は、法律でこれを定める。』にも絡むのだが、グローバル化が進んだ今日、この日本国民の定義をどうすべきか議論すべき点であると思う。当然日本国籍を有しない者は、この総意に含むべきではない。きちんとした日本人の定義、線引きをすることも必要ではないだろうか?(在日の問題であるが、彼らには日本国籍を選ぶか半島へ帰還すべきか自ら選択する時期にきたと思う)

憲法論議の枠ではなく、日本国民の定義について個人的な感情を少し述べたい。日本の歴史伝統に対して敬意を払わない人間(反日日本人)・日本の国益に反することを平気で行う人間には、日本国籍を剥奪しろとまではいわないが、私は日本人だとは思いたくないし、日本人と定義したくもない。また、生物学的に日本人ではなく国籍がどこであろうと、日本の国土伝統文化を愛する者は、広義の日本人であるとしても良いかもしれません。国籍を与える条件としても必要不可欠な点です。

第九条『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』とあるが、戦争とは何かを根本的に理解していないか、欺瞞の部分である。そもそも、戦争とは、正義と正義の主張のぶつかり合い意見の相違を最終決着させる最終手段であって、正義の正体が各国の国益であることを、隠蔽するか欺瞞していると思う。正義と秩序を基調とする国際平和などという概念を受け入れること自体、日本の正義(国益)を保てることが困難となるのである。その為拉致問題や、ソマリア沖の海賊退治問題にしても弊害が生じる元凶でもある。

世界中が戦力武力を持たない国際環境になるなどということは空理空論であって、相手国が武力を保持していないことなど無いのだから、日本が武力を保持しないということは、独立国であることを放棄するに等しい。幸いな事に、戦力を持たないなどということが空理空論であったことに気がついた時の政府と米国は、自衛隊(警察予備隊)を組織したのであった。その時に憲法を改正すれば良かったのだが、改正しないまま今日まで来てしまった点がこの九条問題の根本だと思います。

『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』明らかに自衛隊は憲法九条に対して矛盾する存在であるのだから、自衛隊を解散するのでなく9条を改正すべきなのであるのである。

もう一つ付け加えるならば、憲法九条は、護憲馬鹿が言う世界に誇る日本人の崇高な精神でもなんでもなく、1928年のパリ不戦条約の焼き直しにすぎないのである。
私はこの9条を実は米国が日本に与えた勲章でないかと皮肉的に思ってもいます。米国は真珠湾や神風特攻隊や硫黄島沖縄の戦いで強い恐怖感を味わった為、もう二度と日本と戦いたくなかった為に付け加えたと考えているのです。同じ敗戦国でも弱小のイタリアには9条みたいな憲法を押し付けなかったことからからして、日本軍の凄まじさを評価した結果ではないだろうか?

世界金融恐慌が、次の世界大戦の引き金にならないでいてほしいと切に願うところである。しかし、仮に日本が巻き込まれるような米中が激突するような対戦が起きたとするならば、この日本国憲法を改正していた場合と改正していない場合では、日本人が被る被害は、天地ほどの差が生じているであろう。攻撃されるまで何もしないのと、攻撃をけん制する武威を見せるのと見せないのとでは、日本が攻撃される確率が格段に違ってくるだろう。

学生時代不良(ヤンキー)の行動原理を理解できれば解りやすいだろう。不良連中は、弱そうに見える奴にしか絡まない。強そうな人間に手出しをするようなことは見たことが無い。また、不良同士が喧嘩になった場合でも、一方がその武威に怯むような場合、一方的な袋叩きになった場面を見たことはないか?国家間の問題であっても同じではないかと思う。これこそ普遍的な原理かもしれない。

もっとも護憲的発想をするような脳細胞が死んだ人間には、憲法改正せずにいたほうが戦争に巻き込まれないと思うのだから、議論がかみ合わないかもしれない。

第11条『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。』この基本的人権と『第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』のなかで書かれた、公共の福祉との曖昧な、また矛盾に満ちた関係に関しても、議論すべき点があるのではないかと思う。

憲法を読み下っていくと様々なことを思いつく、そして時代に会わなくなっていたり、書き直すか議論すべき箇所がいくつか私が読んだだけでも幾つか見当たる。ここから103条まで書く気力も無いので一旦ここで筆を下ろすが、憲法論議というものは、タブーとすべきものではなく、おおいに議論すべき対象である。

この文章は、阿修羅掲示板憲法2板http://www.asyura2.com/07/kenpo2/index.htmlに張られた、私の「新世界秩序と日本の進むべき道」
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/22018227.htmlに対する憲法改正の批判に対する回答として、私の憲法に対する今の考えを纏めた文章です。