http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
イメージ 1

私にとって加藤和彦さんは、幼稚園の頃に流行った「帰ってきた酔っ払い」以来のカリスマでした。

1963年生まれの私にとって加藤和彦はフォークルやミカバンドの加藤和彦でもあるが、加藤和彦with安井かずみの印象がつよい。

加藤和彦さんの生き方はフィッツジェラルドの小説「華麗なるギャッビー」の主人公ジェイ・ギャツビーを彷彿させ、その「かっこいい生き方」は、自分にとって憧れでした・・・

アメリカの大恐慌前狂乱の20年代、毎晩のように、上流階級の人間をおおぜい屋敷に招待しては派手なパーティを催していた謎の大富豪ギャツビーは、第一次世界大戦へ出征する際、別れた昔の恋人に会うために、ただそれだけのために8年間、死に物狂いで働いて、ついに億万長者になった。そしてついに億万長者に嫁いだ昔の恋人と再会を果した、ジェイ・ギャツビー・・・

彼の孤独と純愛のストリーは加藤和彦氏の人生にどこか通じるものがある。

【華麗なるギャッビーあらすじ】
http://ameblo.jp/kikuken/entry-10104480515.html

新聞報道や、Wikiなどには、「最近になって鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたという。」と書かれていた。

鬱で自殺をするなんて・・・と思っていたが、本書を読んで確信した、欝だったのでははなく、それが加藤和彦氏の美学だったのだ。

加藤氏にとって富や名声なんて二の次であったろう、多くの人を感動させた彼の音楽は彼の人生そのものであった。その彼の人生と音楽をつむぎだす大切なパートナー安井かずみさんを失った喪失感は埋める事が出来なかったのか・・・

失った自分の魂の半分を一つにするため加藤和彦氏は旅たったのである。

北山修さんの追悼文によれば、加藤さんは、すべて雑事を済ました後、あらかじめ秋の晴れて良い日を選んで、計画的に旅立たれたという。なるほど、用意されていた遺書の文章は推敲を重ねた文章だ。

イメージ 2

                  葬儀場で配られた、個人宛でない加藤和彦氏の遺書


本書も2008年3月加藤氏から聞き手構成の松木直也に自分の本をつくらないかと声をかけてインタビューが始まったという。タイトル通り本書は加藤氏がファンに向けてのラストメッセージであります。


「人生という名の劇場」-加藤和彦の死をめぐって

きたやまおさむ(精神科医・作詞家)
葬儀も終わり、自死の悲報から一週間も経つと、少しずつ涙も枯れてきた。一人になるとすぐに悲しみがこみあげてくる状態だったが、今ではこれだけ人に衝撃を与えて、悲しませたのだから、あいつは「大ばかやろう」だったと大声で言いたい時も出てきた。

そして、これまでの追悼の場では言えなかった彼の死についての思いを、少し距離を置いて語っておきたい。

死んだ加藤は、人生を演劇だと考えていたと思う。実は去年、まさし-「人生という名の劇場」という曲を、作詞が私、作曲加藤で某グループのために作つた時、私の歌詞を見た瞬間にこれ僕らのことだと言っていた。というのも、彼には、舞台で演奏する音楽家であり聴衆に向かって微笑みかける出演者でありながら、同時に舞台の脇から、正面からその演技や演奏を厳しくチェックする演出家が棲みついていたのだ。

加藤のマルチな才能の二重性、多重性がいかんなく発揮された最初の例が「帰つて来たヨッパライ」の音作りで、私の自宅にあった家庭用テープレコーダーで録音した自分の歌声を、自分で早回転させ、その上に私たちのコーラスや神様の声をかぶせるという、多重録音のアイデアと演出によって「新しい音楽」は実現したのである。その上私たちは、作詞作曲し、演奏し、レコードを自主制作し、自らラジオ局に持ち込んでヒットさせるという、完壁な自作白演をや一てのけたのである。

加藤和彦は、作曲し演奏し歌い録音しながら編集する音楽家としてだげではなく、グルメでありながらの料理をするコック、モデルをやりながらのデザイナーであり、普通はあり得ない役割を両立させる天才だった。その結果、この格好いいミュージシャンによって生み出される作品は完成度の非常に高いものとなり、聴衆もそれを喜んだし、私も十分に楽しませてもらっ
た。

しかし、才能豊かな芸術家が陥りやすい不幸なのだが、すべて彼自身の中の批評家がうるさくチェックするので、客は喜んでも、ずっと加藤自身はなかなか十分な満足の得られない状態だったと思う。

そしてこの度は、人生という「作品」の最後においても、きちんと雑事をこなし、仕事を整理した上での計画的自死のようであり、その取り返しのつかない「自作自演」もまた加藤らしいし、精神科医として無念だが、その完壁さは聞いたことがないくらいだ。今、自問自答しても、それは食い止められなかったと思うし、私は未だに、愛すべき故人の演出する「加藤劇場」のシナリオの中にいるんじゃないかと思うくらいである。

彼の半生は日本の音楽シーン後に日本語ロックや今日のJ-popと呼ばれる日本の音楽シーンの黎明期に果した仕事は偉大だ。

p76~p81
――ミカ・バンドの黎明期ですね。

KK 初めて見た人たちは、どう反応していいか判らなかったんだろうね。それは受けとかじゃなくてさ、髪の毛はオレンジで、僕なんかその頃、スウェーデン製の木の靴、サボなんか履いていたときもあって、そういうのもまだ珍しかったからね。髪の毛もオレンジだし、そんな派手な衣装を着たバンドなんかまだ観たことないから、オーディエンスとの距離感はかなりのものがあったね。向こうはアイビー・ファッシヨンが多かったし、多少派手なのがいてもそんなの大したことなかったからさ。

それで、地方へ行くと、サディスティヅク・ミカ・バンドなのに、「加藤和彦とサディスティックニミカ・バンド」と、「加藤和彦と」が付くんだよ。

僕は、嫌だからやめて欲しいって言ったけど、ミカ・バンドだけじゃチケットが全然売れないっていう理由ですぐに却下。僕らを見る人たちはまだフォークルを引きずっていて、ファンが求めているのはフォークルの加藤で、音楽性もファヅションも音量なんかもすべてにギャップがあった。

この頃、はっぴいえんどの細野君(細野晴臣)がやっぱり新しい音楽をやり始めていて、まあ自分で言うのも変だけど、僕と細野君がいなかったら日本の音楽は10年ぐらい遅れていたと思うよ。

当時コンサートでよく顔を合わせていたのがガロで、彼らとは仲良かった。音楽の趣味はイギリスとアメリカで違うところがあったけど、体質としては同じ洋楽をべースにしているからね。そのへんから同じアルファレコード繋がりでムッシュ(かまやつひろし)ともよくイギリスの音楽の話をしていたかな。ムッシュも好きだったから。

つのださんが脱退して、小原礼さんと高橋幸宏さんが入りましたよね?

KK シングルを出してから、つのだ☆ひろが音楽性が違うということでやめると言い出して、そ
のへんですったもんだしているとき二人でスタジオのロビーかなんかで話をしていたら、なぜか泉谷(泉谷しげる)が近くで隠れて聞いていたっていう、あいつの方がな、ぜかよく覚えているんだよね。(笑)これは後から聞いたんだけどさ。

当時も、他の作曲なんかの依頼も多くて、僕は言われたら作る。今と同じだよね。自分の抽斗(ひきだし)はいっぱいあるけどね、どの抽斗もちゃんとやるっていう。

その頃、僕は拓郎(吉田拓郎)や泉谷の、今でいうプロデュースみたいなこともしていて、そのときにスタジオで小原(小原礼)と幸宏(高橋幸宏)に何度も会っていた。ファッションとかを見たらセンスって分かるじゃない。

幸宏はファッションの方にも進みたいと言っていたぐらいだから、お酒落でさすがにいろいろな音楽を知っていたし、小原はしっかりとした音楽的な考えを持っていてのめり込んでいくタイプかな。向こうも気になっていたんじゃないかな。彼らはガロのバックをやっていて何度も演奏を聴いていたし、それで誘ったんだよね。僕が25歳で、小原が21歳、幸宏はまだ武蔵美に通っていて20歳で、高中は19歳か。

それで、メンバーもフィックスし、ちゃんとしたアルバムも作りたくなった。そのときもバンドの仮想敵国はいなくて、でも、このままじゃ多分ロンドンの雰囲気は出ないだろうなって思って、みんなをーカ月ぐらいロンドンヘ遊びに連れて行ったんだよね。コンサートやレコーディング・スタジオヘ連れて行ったり、それこそスーパーへ行ってみんなで買い物して自炊したり、イギリスを肌で学ぶ合宿みたいなもんだよね。で、みんなすっかり染まった感じで帰ってきて、得たものも多かったよ。それで一気に1枚目のアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』のレコーディングに取りかかった。

――ロンドンでは楽器なんかも買ったのですか?

KK それぞれが買い物していたけど、僕もギターやアンプを揃えているうちに、自分がステージで使いたいようなPA(音の拡声機材のオペレーシヨンシステム)がロンドンにはあっても、考えてみたら日本にはまだないということに気が付いてさ、それでPAのいろいろな機材を買えるだけ買って日本に送っちゃったわけね。このときのロンドンでフォークルの印税はほとんど使っちゃった(笑)。

                    (略)

――いよいよ本格的な活動が始まるわけですが、アルバム『サディスティック・ミカ・バンド、は当初日本で売れなかったけど、イギリスで話題になり逆輸入されたかたちで広がっていくんですよね?

KK アルバムが出来てから、僕と、ミカでそれを持ってまたロンドンヘ遊びに行っちゃったん
だよね。プロモーシヨンを兼ねてだけど、このときロンドン中の知り合いにレコードを渡して、そのなかでも特にレット・イット・ロックのマルコムにあげたら凄く気に入ってくれて、方々に聴かせたい奴がいるからって、そのときに持っていたうちの半分ぐらい渡したんだよ。

――そのときは何も動きはなかったのですか?

KK いいと言ってくれる人たちはいたけどね。それから、ロキシー・ミュージヅクを確か南の方のグラストンベリーに聴きに行って、それは当時から仲の良かったコンちゃん(今野雄二)と一緒に行ったと思う。コンちゃんはロキシーが結成した頃からよく知っていて、彼の紹介でブライアン・フェリーたちに会ったと思うんだ。

まだ彼らが売れる前の頃で、初めてステージを見たときは、全然違うところが来たなっていう感じで、下手だけど何かしら凄い世界だなって。ブライアン・イーノのシンセサィザー・デクスター・ロイドのドラム、それだけだよね。下手ウマとかじゃなくて下手(笑)。

格好も最初の頃はケバ派手で、イーノなんて羽根を付けたジャケットなんか着てミュージックシヨーみたいだった。それでロキシーのプロデュサーだったクリス・トーマスも当然紹介されて。それで彼にもレコードをあげたんだよね。

日本のロックの黎明期、かっこよすぎる・・・


TRDIで開発中の無人偵察機が墜落し、Yahoo!ニュースこのブログがリンクされておりました。アクセス件数が軽く1万件を突破してしまいました。

イメージ 3