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動物はいつから家畜化したのか p57~59
動物の家畜化も、農業の開始と同じような過程をたどっている。一万年前のメソポタミア北部の遺跡でヤギやヒツジの若いオスの骨ばかりが大量に発掘されていることから、その時代に家畜化が行われたことは想像がつく。

http://www.hinerikko.com/img/diary2008/0401.jpg家畜化は、乱獲によりガゼルがいなくなる中で、不足する動物性の食糧を埋め合わせるため他の動物の飼育を試みたことに始まる。野生のガゼルではなく、ヤギやヒツジが選ばれた理由も、農作物の原種と同じく、家畜化可能な動物は実際のところごくわずかしかいなかったからだ。

世界全体でみて、45キログラム以上の体重を持つ哺乳類は148種類ほど存在し、その中の14種類だけが現在、家畜化されている。他の哺乳類の場合、気質が荒い点や食肉の量が少ないといった理由で家畜化に適さなかった。14種類のうち9種がメソポタミア北部で家畜化に成功したもので、「ビッグ・フォー」とよばれるヤギ、ヒツジ、ブタとウシもこの中に含まれる。アフリカ大陸ではシマウマを何度も人の手で繁殖させようとしたが失敗している。

http://hardcoresupersite.com/30541171383.jpg南米大陸の場合、家畜化できたのはラマとその近縁種のアルパカだけだった。両者の野生種は、高地の草原に棲息する動物である。家畜は荷物の運搬だけでなく、農業が不作の際の生きた食糧備蓄として貴重であり、南米大陸の先住民は生活圏を選ぶ際に家畜の都合を優先して高地に住みついた。現在の南米大陸の太平洋側での主要都市の多くが標高3000メートル以上に位置する理由は、ここにある。

ヒツジやウシなどの大型哺乳動物とは異なるが、人類が最初に家畜化した動物はイヌだ。最近のDNA分析によれば、イヌはオオカミを家畜化したものであり、その時期は1万5000年前とされる。いったん家畜化するとまたたくまに広がっていき、シベリアを渡ったアジア系の人々もイヌを引き連れていた。ただし、3万年前から2万年前の遺跡からもオオカミにしては小型の骨がみつかっており、現在広がっているものとは違う種類のイヌを飼っていた可能性がある。頭骨を切られ脳が抜き取られたものもあり、おそらく食用にもされていたのだろう。

なお、家畜化された動物のほとんどが草食動物である。その理由は、肉食動物を家畜化するには、餌として他の動物を捕まえなければならず、二重に手間がかかるためだ。ネコの場合は農作物の貯蓄庫が建てられた時期と一致しており、穀物をネズミから守る目的であったと考えられている。最古の家畜化したネコの骨は、1万年前のキプロスから出土したものだ。
 
 
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約6000年前の関東地方
 
日本では縄文海進(じょうもんかいしん)と呼ばれる完新世の気候最温暖期(かんしんせいのきこうさいおんだんき)が訪れた、およそ7,000年前から5,000年前の間の完新世で最も温暖であった時期を指す。 
北極付近では4℃以上上昇した(シベリアでは冬に3-9℃、夏に2-6℃というデータもある;)
完新世期にはヨーロッパも温暖化となりブリテン島やデンマークあたりまで照葉樹林が覆い、陸亀が生息していた。サハラ砂漠も湿潤な気候となり、緑に覆いつくされていた。
 
この約6000年前にピークであった温暖期には人類の吐き出す二酸化炭素などまるで問題外の時期である。今日の二酸化炭素の排出と温暖化の関係が異常に報道されているかこの事実からでも納得ができる。温暖化は二酸化炭素だけでおきるものではない。
 
またこの海進は、世界各地に残る洪水伝説へと繋がった可能性を本書では言及している。
洪水伝説
洪水伝説は世界各地に残っている。一番有名なエピソードは『旧約聖書』創世記にあるノアの洪水で、ノアが600歳となる誕生日の2月17日から40日40夜降り続いた雨による洪水があったというものだ。また、ギリシャ神話にも、ゼウスと弟のポセイドンが洪水を起こすものの、プロメテウスの息子デウカリオとパンドラの娘ピュラーは生き残るといったエピソードがある。さらに、司馬遷の『史記』夏本紀第二の中に、尭帝時に大洪水が起き、舜帝は22年かけて堤防を完成したと記述され、日本にも東北地方では白髪水、南西諸島南端の波照間島では大津波といった言い伝えがある。その他、北方ゲルマン神話、チベットやアメリカ先住民など、世界の至るところで洪水についての伝承が残されている。一般論として、これらの伝承は、実際に起きた自然災害の教訓を長く子孫に伝えるために語り継がれたものとみられている。
『旧約聖書」創世記の洪水神話について、その由来と思われる物語を4000年前の粘土板に楔形文字で刻まれた『ギルガメシュ叙事詩』の中にみることができる。ギルガメシュとはメソポタミアの都市国家ウルクの王の名前であり、シュメール王名表では4800年前頃に即位していたと記録にある。
この『ギルガメシュ叙事詩』の11書版に洪水伝説として次のようなエピソードが書かれている。
「シュリッパク・…・・ユーフラテス川の岸辺にある町。
偉大な神々は、洪水を起こそうとされた。
家を壊し方舟を造れ。財産を厭い、生命を生かせ。生命あるもののあらゆる種を方舟に導き入れよ。……
そのときがやって来た。わたしは嵐の模様をみやった。嵐は恐怖を与えるかにみえた。
わたしは方舟の中に入り、わが戸を閉じた。
終日、暴風が吹き荒れ、大洪水が大地を襲った。大雨の中で、人々は互いの居場所がわからなくなった。
六日七夜、風が吹き、大洪水と暴風が大地を拭った。七日目になって、暴風と大洪水は戦いを終わらせた。
方舟はニムシュの山に漂着した」
(月本昭夫訳『ギルガメシュ叙事詩』より)
 
この洪水伝説が何を意味するのか。実際に起きた自然災害なのであろうか。気候変動を考慮した、いくつかの説が唱えられてきた。

まずは、完新世の気侯最適期での海面水位の上昇を示したというもので、実際にアラビア湾では1万5000年前から6000年前にかけて海岸線は1000キロメートル以上も陸地に入りこんだ。

また、融水湖の崩壊による急速な海面水位の上昇もあったかもしれない。8200年前イベントによるアガシ湖の最後の崩壊では、一年間に数メートルの海面上昇があったと推定される。氷床による融水湖は、アガシ湖ばかりではない。シベリアにも、エニセイ川とオビ川を堰き止めた白然のダムがあった。融水湖の広さはカスピ海の二倍はあり、1万4000年前までは残っていたことがわかっている。ただし、アガシ湖のように大規模な崩壊をしたのか、そこにあった広大な水がどこに流れていったのかなどについて、考古学的な証拠は残っていない。
 
さらに、暴風雨が到来した際には、強風にあおられ海水が陸地に吹き寄せられるとともに、気圧の低下により海面水位が吸い上げられるように上昇するストーム・サージが発生する。結果として、広い範囲で海水による陸地への浸水が起きたであろう。このような大きな自然災害が洪水伝説になった可能性が提示されてきた。
 
農業を行うには、洪水に襲われる重大な被害と引き換えにしてでも、水の利用が容易な川の近くで暮らす必要があった。当時の人々は、自然災害に恐れつつも川沿いの集落を発展させていったため、子孫への警鐘として洪水のエピソードが語り継がれていったのかもしれない。実際にメソポタミア遺跡から、ウルで6000年前、ウルクで4800年前と推定される二つの洪水層が発見されている。
 
しかし、洪水伝説で描かれた天変地異は、長い年月の間に起きた海進のような緩やかな変化というよりも、何かが劇的に起きた出来事のように思われる。また、『旧約聖書』で全世界が変わるきっかけになるにしては、ウル、ウルクの洪水層では役者が小さいという印象は拭えない。
 
コロンビア大学のウィリアムニフイアンとウォルター・ピットマンは、1997年に黒海にまつわる魅力的な仮説を発表した。
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黒海の氾濫
 
地中海の海面水位は、氷期と間氷期のサイクルの中で上昇と下降を繰り返していたことが知られている。
 
580万年前の寒冷期にジブラルタル海峡が封鎖され、地中海のほとんどが干上がり、塩田と化すというメッシニア塩分危機が起きた。大量の塩が地中海の底に溜まったため、他の海洋の塩分濃度は大幅に低下した。その後、五三〇万年前に地殻の移動によりジブラルタル海峡が開き、再び地中海は海水で満たされた。
 
黒海の場合、最終氷期極寒期以後、雪融け水が流入したことで水位が上昇し、サカリャ川からアナトリアを通ってマルマラ海へと流れていた。ところがヤンガードリアス期になると、乾燥化により降水量が減少したことでサカリャ川の入水口より水位が低下した。
 
1970年頃に、旧ソ連の科学者は、水位が低下して黒海は孤立し、淡水で満たされた時代があったことを発見していた。そして、1993年にブルガリアの科学アカデミーは海底に残る珊瑚礁の跡から、黒海の湖水面も上下動を繰り返しており、9800年前の黒海は淡水湖であったこと、そして湖面水位は現在の水位よりも100メートル低かったとの証拠をつかんでいた。

ライアンとピットマンも1993年から開始した調査で、音響測深技術を用いて海底の地形を調べ上げた結果、地中海から黒海に流れこむ洪水が作った峡谷を発見した。その地層から淡水湖の時代にはなかった海洋性の貝殻を採取し、放射性炭素による年代特定を行うと、渓谷が形成された年代はおよそ7600年前から7500年前の時代との結果を得た。
 
ライアンとピットマンは、これらの調査結果から、地中海の海面水位が完新世の気候最適期の時代にゆっくりと上昇していき、7600年前にマルマラ海の海水が現在のボスポラス海峡周辺の細い陸地を乗り越えて黒海に流れこんだのではないか、との仮説を提唱したのである。
 
黒海沿岸には人々の集落があり、肥沃な三日月地帯から伝わった農業が行われていたと考えられる。8200年前イベントで西アジアの気侯が寒冷・乾燥化したため、農業に適した黒海沿岸に多くの人々が移り住んでいたと想像できる。そして、湖畔に住む彼らに地中海に流入した海水が襲いかかったのだ。
 
黒海の湖水面は2年間にわたって1日平均にして15センチメートルずつ上昇していったため、人々は集落を捨て、ひたすら高地に逃れるしかなかったであろう。この大災害が洪水として人々の記憶に残り、言い伝えとなってノアの洪水伝説になったのではないか、とライアンらは考えた。
 
地中海の海水が流れこむことで黒海沿岸に大洪水が起きたとすると、この大規模な自然災害が、農業を全世界に広めるきっかけになった可能性がある。
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ノアの箱舟の伝説のアララト山の位置と、黒海、肥沃な三日月地帯の位置関係を考えると、黒海洪水説は非常に興味深い学説である。
 
温暖な状態が続いた後は2,000年前位までにかけて徐々に気温が低下していった。