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しかし、皮肉なもので、③『「気候文明史」 その3 を書き終えたら、80万年前に出アフリカに成功しているという人類史を塗り替える発見があったというニュースが出ました。
 
かなり画期的なニュースですが、殆どの方は興味ないかもしれませんね。
 
でも、80万年前に出アフリカに成功していても、その後の寒冷化で絶滅を余儀無くしていたと思います。
 
 
  
 
 
 
メソポタミアの灌概農業
天水農耕の行きづまりと都市の形成 
p98~99
ピオラ振動が起きた5500年前に話を戻すと、地球規模での寒冷化はメソポタミアやエジプトの天侯を乾燥化させた。気温が低くなると大気が保有できる水蒸気の総量が減り、海水からの水蒸気の蒸発が少なくなるため地球全体での降水量の総量が減少する。このため、一部の地域では厳しい干ばつが発生する。ピオラ振動以降、メソポタミア南部では干ばつが周期的に起きるようになり、イスラエルでも、7000年前頃には農耕が活発に行われていた地域の中で、この時期に砂漠化した地域があった。
ヤンガードリアス.イベント以降に開始された耕作地は主に山麓沿いにあり、そこでは天水に頼る原始的な農耕が行われていた。雨水に頼る天水農耕は250ミリメートル以上の年間降水量を必要とするため、干ばつに対しては極めて脆弱であり、気候変動が激しくなると広い地域で農業を行うことが困難になる。メソポタミア南部には7800年前以降、ウバイド文化とされる小さな定住地が点在していたが、周期的な干ばつにより人々はそれまでの農地を放棄し、大きな河川沿いの低地に集まるようになった。こうして、人口が集中した地域に町が形成されることとなる。
5500年前頃、謎の民族とされるシュメール人が北方からユーフラテス川下流に移住している。
彼らの用いたシュメール語は日本語の「てにをは」のような助詞一付属語)を持つ膠着語で、アッカド語などの現在のアラブ民族までつながるセム系の言語とは異なっており、北部インドや中央アジアにいた民族といわれる。ライアンとピットマンの仮説では、シュメール人の祖先は黒海東岸にいた
人々であり、大洪水によりコーカサス山脈を越えて移民したとみる(第1部第4章)。
シュメール人は周期的な干ばつに対処するため、ユーフラテス川沿いの平地に灌概用水で水を引く農業を普及させていた。彼らは、厳しい干ばつのため周辺地域から棄農した難民が流れこむ状況に対応し、受け入れ側として灌概施設を大規模化していった。秋から冬にかけて運河を掘り、新しい農地
を開墾し、冬期には一カ月に一度の頻度で用水路を開放し農地を潤わせて春以降の農耕に備えた。この巨大な灌概システムを維持するために、指導者や役人という役割が生まれた。
この頃になると、メソポタミアの古代都市ウルクには支配層が統治する階級杜会が形成され、職人や商人といった職種も登場した。最古の模形文字が刻まれた粘土板も、ウルクから出土したものだ。
6平方キロメートルの土地に巨大な神殿が造られ、5万人から8万人の人々が住み着いた。人口規模や人口密度からみて、世界で最初に生まれた都市国家といえる。
日本語の中にシュメールの痕跡を見つけることが出来るという。
【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した
【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ
【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)
【4】シュメール語は膠着語である
シュメール人は旧黒海沿岸で農耕を行っていた民族だった可能性が高い。ということは高天原は黒海沿岸から見た場合のシュメール・・・考えすぎか?
 
北アフリカの砂漠化
変貌する緑のサハラ

今日、サハラといえば生物が生活できない究極の亜熱帯砂漢である。しかし、9000年前から8000年前にかけて、地中海沿岸からの移住が活発化し、狩猟採集を基本としつつ、食糧を安定化させるためにヒツジの牧畜が営まれていた。北大西洋の海底コアにはサハラから風により運ばれた塵が含まれており、この塵の量からサハラ西部では6500年前から乾燥化が始まり、5500年前から降水量が減少し、その後ゆっくりと砂漢化の道を歩んでいったことがわかる。
サハラ砂漠の中央部、アルジェリア南部の山岳地帯にあるタッシリ・ナジェール遺跡の壁画は、少なくとも七〇〇〇年前にさかのぼるものだ。5000年前に描かれた壁画には、川で泳ぐ人の姿やボートやカヌーが描かれており、水量の豊富な地域であったことがわかる。現在でもサハラ砂漢の下には広大な帯水層が存在している。オアシスとよばれる地域は、砂漠地帯の一部で地下水が地上に噴き出た箇所でおよそ90カ所あり、点在する村での農業や生活のために利用されている。
タッシリ・ナジェール遺跡からさらに南方に位置するチャド湖は、8000年前には33万平方キロメートルと現在の20メートルから40メートルも高く、多くの魚が泳いでいた。チャド湖周辺の降水量も、800O年前には年間200ミリメートルから240ミリメートル、5000年前でも年間501ミリメートルから150ミリメートルを維持していたのに対し、現在ではごくまれにしか雨は降らない。サハラ砂漢の南側の草原地帯サヘルも同様で、・・・
今日の地球より温暖化していた約6500年前、サハラ砂漠はエデンの園であった。そして、温暖化が徐々に寒冷化とともに乾燥していった。乾燥化していくにつれ、人々はナイル川河岸へと集まっていった。狭い地域で多くの人口を養うためには、農耕と灌漑技術を発明していったのである。それがエジプト文明なのである。
 
人類は増えた人口に対し寒冷化が襲うたびに、文明を一段階引き上げて生き延びていった。いや文明を引き上げられなかった時期はアフリカ以外は滅亡していったのかもしれません。
 
教科書では、大河が文明を自然発生的に生んだと書いてありますが、人類は生き残るために水を求め大河岸へ人々が避難し、人口が密集した結果、文明が勃興していったのだろう。
 
また、1万年前世界の総人口は1000万人程度であったものが、エジプト・メソポタミアで文明が勃興するようになると2000万人に増加した。
 
1万年前~3万年前の狩猟生活時代の平均身長が成人男子で177cm成人女子が166.5cmであった。ところが農耕が始まった5000年前で男子で10cm女子で15cm平均身長が低下した。19世紀半ばのヨーロッパはもっと低く12~15cm低く現在のアジア人と変らない。農耕が始まると、摂取食物が限られ栄養バランスが悪化したと見られる。
 
農耕に次いで牧畜が始まると牛から天然痘・結核・ジフテリア、犬から麻疹(はしか)水牛からハンセン病などの疫病の被害を受けるようになる。
 
集団生活は集団の戦闘行為戦争へと発展していったのもこの頃です。
 
干ばつに襲われるメソポタミアp110~111
クリミア半島にあるサキ湖の湖底の堆積物を調べると、4200年前からの100年間、ヨーロッパ東部でそれまでの気候と異なる乾燥化が起きている。地中海東部でも長い干ばつが発生し、トルコ東部の湖では水位が30メートルから60メートルほど低下し、当時の死海の水位は現在よりも100m以上低くなった。また、ナイル川上流のモエルス湖やルドルフ湖では4200年前の紀元前2180年から2160年の20年問に湖水の水位が極端に低下しており、上流地域での降水量が減少したと推測される。

メソポタミアの都市国家にとって、長期の干ばつは致命的であつた。人口が集中すると社会は気侯変動に対して脆弱になる。その最初の事例を、シュメール王朝の都布でみることができる。メソポタミア北部のアッカドの都市テル・レイランは、4200年前、巨大な城壁が造られた直後にもかかわらず突然放棄された。人気の全くない地層から強風が吹き、砂塵が厚く積もり、厳しい干ばつが起きたことがわかった。テル・レイランに再び人が住むようになるのは、気侯が湿潤に戻る300年後である。
アッカドでは穀物の配給制が開始され、ウルの場合、統治者は穀物配給量を大幅に削減する決断をしたとの記録が残っている。灌概用水の利用と穀物の纂奪をめぐって、シュメールの都市間では戦争が熾烈を極めていき、同時に異民族グティ人の侵入にさらされた。グティ人の侵入は、気候変動が民族の移動を誘発したもので、民族移動はその後も歴史を変える原動力になっていく。
アッカド王朝は、長い城壁を造って異民族や隣国の進入に備えたものの、10年で打ち破られ、シュメール王名表では「誰が王で、誰が王でなかつたかは定かでない」と記録された混乱期を経て、滅亡していった。混乱は、紀元前2112年にウル・ナンムがシュメール人最後の帝国であるウル第三王朝を築くまで、100年問続いた。
ウル第三王朝の時代も短かった。紀元前2028年以降になると、飢饉が続いたために穀物価格が60倍に高騰した。そして、最後の王イッビ・シンは将軍イシュビ・エラに叛旗を翻され、紀元前2004年に近郊国エラムに捕らえられ、ウル第三王朝は滅亡する。
ファラオの失墜 p115~117
古代のエジプト人も、ナイル川の洪水が自分たちの生命線を握っていることに気づいていた。ファラオが洪水を管理するという世界観は、古王朝よりもさらにさかのぼる先王朝時代の杖頭に彫られた人物像にもみてとれる。
スコーピオン王が鍬を手に持って灌概水路を開く姿が刻まれており、ナイル川の洪水のコントロールが、王国設立当初からファラオの重要な責務であったことを示している。古王国のファラオとは、神として洪水をコントロールできる魔法の力があるとして崇めたてられただけでなく、毎年の洪水を発生させ、その時期を民衆に知らしめる存在でもあった。
実際は、天体観測により太陽暦(シリウス・ナイル暦)を作り、太陽とシリウスが同時に昇る頃にナイル川の氾濫が起きると予測し、毎年の洪水による水位の上昇をニロメーターとよばれる水位計で記録することにより、氾濫の規模まで推定していた。平年であれば予想どおりの時期と規模で洪水が発生したため、民衆はファラオの偉大な力とみなしたのである。
ところが4200年前の干ばつでは、ファラオの予言どおりには洪水が発生しなかった。エジプトは深刻な飢饅に苦しみ、「誰もが自分の子供を食べた」と記録に残っている。民衆はファラオの聖なる力に対して疑問を抱くようになり、暴動が頻発し、古王国はクフ王のピラミッドを築いた400年後に、パピ2世の死去とともに紀元前2184年に滅亡してしまう。ファラオがナイル川をコントロールしたのではなく、ナイル川の洪水を変動させるエルニーニョが、ファラオの神性をコントロールしていたのであった。
 
その後、ナイル川沿いの細長い王国では、第一中間期とよばれる分裂状態が100年以上続き、王都メンフィスは混乱し、各地で州候とよばれる実力者が割拠する時代となる。
 
第一中間期の混乱を収め、紀元前2040年頃にエジプトを再び統一したのがテーべ出身のメンチュホテプ1世で、この第11王朝から中王国が始まる。第12王朝を開いたアメンエムハトー世以降になると、温暖な気侯が戻って洪水の水かさも増し、経済は再び隆盛を迎えた。
 
しかし、中王国のファラオたちは、古王国時代のように洪水を自在に操る絶対的な神には戻ろうとしなかった。彼らは、自らを太陽神ラーから国の統治を委託された者と解釈し、失敗が許される統治者といった制度の中に身を置くことを選んだ。フアラオを民衆を守るヒツジ飼いとみなし、国の管理者という立場で政治を行うようになる。そして、中央集権的な体制と科学技術の発展による農業大国、技術立国を目指した。
ファラオの教訓はどこぞの国の与党のマニフェストのようだ。
出来ないことを出来ると言い張れば、裏切られた民衆は、王(与党)を信用しなくなる。