イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3500年前から3000年前地中海文明の滅亡
火山噴火が寒冷化の一因か
p117~118
3500年前から再び寒冷化傾向が現れ、世界各地で干ばつが顕著になった。寒冷化のきっかけになった原因の一つに、大規模な火山噴火がある。火山性の噴出物がグリーンランドや南極の氷床コアから発見されており、これらは紀元前1627年の工ーゲ海サントリー二島の噴火と紀元前1159年のアイスランドにあるヘクラ火山の噴火のものである。
サントリー二島の噴火は、噴火口の大きさが1883年のクラカタウ火山の2倍はあることから、噴出物は少なくともクラカタウ火山の4倍以上と考えられ、1815年のタンボラ火山級と推測される。この火山噴火が起きた後にクレタ島のミノア文明が衰退していったため、プラトンがその著作『クリティアス』で描いたアトランティス大陸の水没は、火山噴火による津波と地震によるミノア文明の惨状を描いたのではないかといわれている。また、アイスランドのヘクラ火山の場合、アイルランドやアナトリアの年輪分析から、顕著な気候変動が起きたことが確認されている。
3500年前に始まる寒冷化の痕跡は、ヨーロッパだけではない。カナダでは100年から200年の間に平均気温が3度低下し、北部の森林限界は3500年前頃に200キロメートルから400キロメートル南方に動いている。また、乾燥化したことで山火事が多発した。カリフォルニア州ホワイトマウンテンのブリストルコーンパインの年輪には、3300年前の急激な寒冷化が残っており、
アラスカでは3500年前から3300年前にかけて氷河が前進している。
 
 
世界最古の大戦争一ヒッタイト対エジプトp123~125
ボスポラス海峡を挟んだミケーネ文明の東側、小アジアのアナトリア高原にあったヒッタイトも、 気候変動により大きな打撃を受けた。鉄の精製を発明したヒッタイトは、軍事帝国であったものの、食糧をシリアやエジプトなど他国からの輸入に依存していたため、地中海東部の干ばつにより輸出国の生産量が減ると、他国に先んじて影響が深刻化した。もともと軍事国家であるだけに食糧を求めて軍を南下させ、シリア北部を支配し、エジプト新王国と国境を接することになる。
紀元前2174年、両国の間でカデシュの戦いが勃発した。ヒッタイトのムワタリが総動員令をかけて兵士4万人と戦車3700両を集結させたのに対し、エジプトのラムセス2世は兵士2万人と戦車2000両で立ち向かう大軍同士の衝突であった。
 
この戦争は、戦闘経緯が後世に残る最古の大戦争としても有名である。ヒッタイト、エジプト双方とも、自国の碑文には勝利したと刻んでいるが、実際は引き分けといったところだろう。ラムセスー世はシリア北部のヒッタイトの領土を攻略できず、膠着状態のまま両軍とも兵を引くこととなった。
 
カデシュの戦いから10年以上を経た紀元前2158年になってようやく両大国は講和条約を結び、戦闘状態は終了した。この講和条約も世界最古のもので正本は銀板に刻まれたとされており、今日でも、ヒッタイト側の粘土板に掘られた楔形文字とエジプト側での碑文に書かれた象形文字により、その内容を知ることができる。
双方の恒久的不戦だけでなく、一方が第三国(おそらく東方の大国アッシリアを想定していただろう)から侵略を受けた際には、もう一方の国王に軍隊の派遣を要請できるといった安全保障の発想がうかがえる。さらに、国王に背き反乱を起こした人間がもう一方の国で捕まった場合は反逆者として引き渡す、といった今日の犯罪者引渡条約を先取りするような事項が盛りこまれている。ただし、両者を比較すると、エジプトの碑文にだけヒッタイトが懇願して条約を結んだとの記述があり、ヒッタイト側に困難が多かったことを暗示している。
 
背景には、ヒッタイト国内の深刻な食糧不足があった。エジプト側に、ヒッタイトの要請を受けて穀物を輸送しているとの記録が残っている。ラムセスn世の子メルエンプタハの碑文には、ヒッタイトが存続するには必要不可欠な措置であったと刻まれている。さらに、ヒッタイト王からの粘土板に刻まれた書簡には、大型船による大量の穀物輸送がなければ、国家そのものが倒れてしまうと緊急事態を思わせる内容がある。
 
エジプトからヒッタイトに向けて支援物資の食糧が送られたものの、飢饅は収まらずヒッタイトの国家体制が揺らでいった。国内各地で内乱が勃発した上、謎の民族とされる「海の民」の襲撃を受けてヒッタイトは紀元前1190年に滅亡する。
鉄の精製はヒッタイトで長らく秘伝とされてきたが、滅亡をきっかけに鉄の使用が世界各地に拡散し、青銅器文化から鉄器文化へと移行することになる。
 
地中海東岸で略奪を行った「海の民」は、小規模の民族が結束して自然発生したグループと考えられている。同じ時期、南西アジアではアーリア人がイランからインドに移住した。また、古代中国では黄河文明から段王朝へと王朝の交代があった際に、内陸部の寒冷化と干ばつにともなって中央アジアから騎馬民族が華北に侵入している。華北での気候の寒冷化は古文書に記録され、藩川が冬季に凍結し、竹林の北限は南方に後退し、コメや果物の収穫時期も遅くなったとある。

このように、3500年前に始まる気候変動による民族の移動は、地中海地域にとどまらずユーラシア大陸全域に及ぶものであった。2800年前に始まる寒冷化では、民族の移動がさらに顕著に現れた。
2800年前から2300年前民族の大移動
気温の低下:太陽活動の一時的減退が原因かp125
2800年前以降、気温の低下が著しくなる。メソポタミアのバビロンでの大麦栽培の収穫期をみると、3800年前から3500年前までの温暖な時代には、三月下旬に刈入れが開始されていたのに対し、2600年前から2400年前になると、5月上旬へと1ヶ月以上も遅くなった。

寒冷な時代の意味するもの一社会や国家の再構築と精神革命p130~132
4200年前、3500年前、2800年前にそれぞれ始まる三つの寒冷期に社会は混乱した。それは人類にとって災難であっただけだろうか。確かにエジプトは王制が一時途絶え、地中海では大国が滅亡した。そして民族移動が文化間の衝突をももたらした。一方で、そうしたマイナスの面ばかりではなく、その後に社会や国家の新たな枠組みが形成されていることにも目を向けたい。

4200年前に始まる干ばつで、エジブトではファラオの王権が変化したことはすでに書いたが、メソポタミアでは3700年前頃に、それまでの慣習法を統一したハンムラビ法典が編纂された。ハンムラビ法典の中には、土地の所有や売買についての記述もある。

経済的取引は、地縁血縁社会での必要性は低い。多くの人が一カ所に集まって物を交換する、あるいは貨幣で売買するという意味での市場は、2800年前以後イオリアとギリシャで発達し、アリストテレスにより「経済」という概念も生まれている。

各民族が交流し、交易が活発化する中で西アジアの各国で両替商が現れ、エジプトでは両替商のネットワークが整備された。有力な両替商が、金銀の小さな塊の重さを保証することから貨幣が生まれたと考えられている。歴史上、最も古い貨幣は2600年前頃のもので、小アジアのリディア王国の砂金を鋳造した金貨である。

寒冷な時代をくぐり抜け、より強固な社会経済組織が構築されてきたのである。
政治や経済ばかりではない。寒冷化と干ばつが起こした民族移動は、人々の精神世界にも影響を与えた。さまざまな地域の民族が入り混じる状況下で、新しい思想が芽生える素地が作られた。こうした中で生まれた宗教は、社会不安や内乱にさいなまれる当時の人々の熱狂的な支持を集めるようにな り、古い生活習慣や支配システムを打ち破る役割を果たしていった。

紀元前五六六年頃にシャカが誕生し、世界初の不殺生宗教とされる仏教を開き、その100年ほど後に生まれたマハーヴィーラはジャイナ教を起こした。北インドの農耕民ヴェーダ人(アーリア人)はもともと半牧畜生活であり、ウシを神への犠牲として捧げながら食用にもしていたが、人口が増加し農業社会に比重が高まったことでウシを農耕にのみ使用し、前に触れたように食材としては禁忌にしていった。
 
中国では、『論語』を通して儒教を確立した孔子(紀元前551-紀元前479)や道教の始祖とされる老子が登場する。ユダヤ教の場合、成立こそ3200年前のモーゼによる出エジプト以前にさかのぼるものの、紀元前600年に始まるネブカドネザル2世によるユダヤ人のバビロン捕囚が極めて重要な事件であり、この時期に流浪の民という宗教的な特徴が確立する。地中海でも、ギリシャ哲学が隆盛を極めるのがこの時代で、ソクラテス(紀元前469-紀元前399)やアリストテレス(紀元前384-紀元前322)が登場した。

キリスト教とイスラム教を除き、今日普及しているほとんどの主要な宗教や哲学が、3000年前に始まる数百年間で誕生するか、あるいは確立したといっても過言ではない。興味深いことに人間は、気候が寒冷化する時代が到来すると精補世界の革新を起こすようで、近世の寒冷化した時代に近代思想が誕生している。