この各宗派の批判は逆に優れた仏教の解説書ともなっております。
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「倶舎・成実・律宗は、小乗仏教なのでレベルが低い」と語り、それぞれを解説する。
倶舎宗は「修因感果」を説く。修因感果とは、善根功徳という(原)因は楽という(結)果をもたらし、悪業という因は苦という果をもたらすという因果律のことである。仏教では「自因自果」と言って、自らの行為は自らが責務と結果を背負わねばならないと考える。そしてハビアンは「これはレベルの低い教えである」と切って捨てるのである。ハビアンの眼から見れば、ここには慈悲も救いも説かれてないということなのだろう。

成実宗は「成は能入(悟りに入ること)、実は所入(入る悟りのこと)」のことであり、その悟りとは「空」の義である。つまりすべての現象は「空」であると覚るということ、これは一見大乗仏教のようであるが、最澄や嘉祥などは小乗であるとしている、とハビアンは述べている。

律宗は戒を説く宗派であり、その戒はつきつめれば止持(悪を為さざること)と作持(善を行うこと)との二つである、と解説する。このように、各宗派の体系を「つきつめれば、こうなのである」とか「その体系をたどれば、つまりこういうことを言っているとわかる」というまとめ方は『妙貞問答』に一貫して見られる態度である。このあたりハビアンが「知」「合理」が先行する人間だと評される所以だろう。
この項でハビアンは、「仏教では、救いや善や悪、すべては即"真如"(ありのままの存在。真実の姿)に決着する」と結論づけている。これは、後述のキリシタンとの相違を際立たせるための伏線となっている。

学派仏教
幽貞は、大乗仏教・小乗仏教という大枠を述べた後、当時の仏教諾派をひとつひとつ取り上げて語る。まずは奈良仏教の「法相宗」「三論宗」「華厳宗」である。
(略)
法相宗と三論宗は、一応、大乗仏教とされているが、実は小乗的な部分もあって、「権大乗」と言い、やはりレベルが低いと評している。そして、法相宗の唯識理論を詳述し、「唯心論」だと言って批判する。確かに法相では(ハビアンも書いているが)、すべては心の投影であり、心の外に実体は存在しないと考える。そして、その心(認識)を智慧へと転換することを説くのである(転識得智てんしきとくち)。このあたり、ハビアンの筆は冴える。後に述べられる、「絶対なる神」という衝撃の概念を提示するための前段階だからである。巧妙に、そして着実に論理は組み立てられていく。

(略)
幽貞は、三論宗にも煩瑣な教学があるものの、結局は「執着を捨てて、空を覚ればよいのだと説く」ことを明らかにする。
南都六宗は、現在の宗派のような独立したものではなく、一種の学派である。ゆえに法相を学ぶものは倶舎を学び、成実宗は三論の属宗であった。このあたりの事情も、ハビアンは了解していたようである。
そして幽貞の解説は、稀有壮大な体系をもつ華厳宗へと進む。
(略)
『華厳経』の体系は哲学的思弁的であって、一筋縄ではいかない。ここでは、まず華厳では五教を立てて仏教全体を分類することから解説を始める。そして、「此別教一乗、別於彼三乗(三種類の仏道を説く小乗仏教ではなく、すべての人が平等である一乗すなわち大乗仏教の教えである)」を述べて、事と理の無礙であることを説明し、華厳も「空即是仏」と結論づけ、「何モナキ処、即、仏ト也。アラ勿体ナノ事ヤ」と椰楡する。

こうしてみると、ハビアンが各体系のメインラインを見抜いて分類する手法を取るのは、やはり仏教を学ぶことで鍛え上げられたのではないかと思われる。

(略)

幽貞は、天台宗を「究極の大乗仏教なので、その教えは広大深遠であられます」と賞賛し、次いで「五時四教(通常は五時と八教で考える)」を解説する。

これは有名な天台大師による教相判釈(仏教の体系を整理して各教典や宗派の位置づけを明確にすること)で、成道以降の釈尊の一生を五つの時期に分けて考え、それぞれに仏教経典をあてはめることで『法華経』の優位性を説いたものである。

さらに「四諦(「なぜ苦悩は生じるのか」「どうすれば苦悩を解体できるのか」という仏教の根幹を、四つの因果律の構図で説明したもの)」「十二因縁(人間の苦悩が成立するメカニズムを十二の項目で系統的に説明したもの)」「四向四果(出家者の「四つの修行目標」と「四つの到達境地」)」を述べるあたりは、仏教の基本教理をきちんと押さえながらの解説となっており、ここの章は筆に力が入っていることがわかる。

また幽貞は、日蓮宗のファンダメンタリスティックな傾向を見抜き、『法華経』でなければ助からぬというのは仏法を見誤っている、と批判している。
(略)
妙秀は、これまでの仏教解説を聞いて、仏教は基本的にこの現世の話ばかりであることに気づく(これも後に展開される「キリシタンの教え」との差異を語るための伏線である)。

すなわち、「仏教にも一応の来世観があるものの、すべての現象を心の働きで説明しようとする"唯心論"であって、しかもその心にも本体はないのだから、すべては"空"へと行き着くのだ」というのがハビアンの仏教論なのである。そして、これに対してキリシタンには「絶対なる存在」「来世の救い」がある、という方向へと論を展開していく。

さて、妙秀は、幽貞の天台宗解説を堪能した後、「真言宗は密教と言って、なにやら格別の宗派らしいのですが」と問う。真言宗は「密教」である。つまり、師の導きによって体験しなければ理解できない教えなのだ。

(略)

幽貞は、「おっしゃる通り、一見、密教はその他の宗派とは違うように思えることでしょう。でも、これも天台宗と相違するところがあるわけではありませぬ」と答える。「天台は顕教、真言は密教と言っておりますが、それは、手を握れば拳と呼び、開けば掌と呼ぶのと同じことです」と語っている。

このような、「仏法は各宗派あれども、つきつめれば同じ」という態度に、多分にハビアンの禅僧的体質を読み取ることができる。とりわけ臨済禅の香りがする。臨済宗の禅は、人に本来そなわる仏性(悟りを開く性質)を、禅を通して自覚するという教えを説く。

その自覚へと至るために、坐禅、公案、作務などを修するのである。つまり、究極には「あるがまま」へと至る、と考える傾向が強い。これは道教に大きく影響を受けている理念であり、仏も来世もワシには関係ない、などと言い放つ豪放轟落なところも兼ね備えている。また、仏教にはハビアンが言うように、「すべては無や空だと言ってしまって救いがない」と見えなくもない面がある。

真言では、大日如来こそが本尊であり、この世界そのものであるが、これを「体・相・用」の三つに分けて説明する。

大日の「体」とは六大(地・水・火・風・空・識)である。そのうち四大(地・水・火・風)
は物質であるが、「空」は虚空のことであり、「識」は分別のことである.ハビアンはここで、「識とは、『柳は緑、花は紅』と知り分けることだ」と述べている。これはよく禅僧が「あるがまま」を表現するのに使う言葉である。

また「相」とは、四曼(大曼茶羅・三昧耶曼茶羅・法曼茶羅・羯磨曼茶羅)で、「用」とは、三密(身密・口密・意密)である。身に印を結び、口に真言を唱乏、心を悟りの境地に住する。

つまり、体は本性、相は形相、用は作用のことである。体から相が表出し、相から用が出る。

(略)
密教では、すべての根本である大日如来でさえ、「そんなもの何が尊いのだ」とハビアンが言い放つのも禅的言説の感性なのかもしれない。

いずれにしても、仏教は人間中心の教義であり、キリシタンとはずいぶん違う、と幽貞は述べる。ハビアン(を窓口としたキリシタン教団)が仏教を批判しているのは、「終始一貫して観念的」「人間中心」ということであるようだ。この節でハビアンは妙秀に、「キリシタンの教えこそ、神もなく仏もなし、地獄も天道もないと思っていた」と語らせている。巧妙なレトリックである。

またこの「真言宗之事」では、「阿字観」について解説しているのだが、ここにも注目したい。
ハビアンは、阿字観という瞑想のメカニズムを読み解き、この瞑想の要は息であると考えている。呼吸を整えコントロールすることによって、生命も判断も感情もそこにすべてこめられるのだと述べている。そして、阿弥陀仏も観音菩薩もみんなそこに内包される。

(略)

(禅宗については)
あらゆる現象には本来性は無く、諸条件によって善にも悪にもなる、「これを無法の法もまた法なりと言う」などと幽貞は語っている。そして、善も悪もすべて意味をもたない、という禅的ニヒリズムに言及し、キリシタンから見れば邪法とするしかないと断じる。次に禅の「師資相承」が解説され、中国における「五家七宗(臨済宗・曹洞宗・雲門宗などの禅仏教各派のこと)」を紹介している。「本来無一物」「祖師西来意・庭前の柏樹子」「即心即仏」など、有名な公案が次々と語られていく。臨済の禅は、公案に参ずることで悟りへ導く。

(略)
「浄土宗」に続いて「浄土真宗」にも少し言及している要約すると、「親鸞というだは自ら結婚して世間に隠すこともなかった。この教えは今、えらく世の中に広まっている。しかし、これほど上出来な宗旨もない。なにしろ、持戒も破戒も
ないのだ。こんなお気楽でありがたい教えはない」といった調子で、あからさまに椰楡している。

キリシタンを特徴づける教えのひとつに「倫理」があった。特にセクシュアリティに関する規範はそれまでの日本社会にはそれほど意識されてこなかった部分であった。「キリシタンの教えはいいのだが、一夫一妻などと口うるさいのがかなわん。それさえなければ改宗してもいいのだが」などと当時の大名も言っている。秀吉が「側室を認めるならキリシタンになってやってもよいぞ」という冗談をパードレ(神父)やイルマンに言った話も残っている。この倫理感を盾にキリシタンは仏僧たちを批判したのである。ここでの浄土真宗に対する嘲笑も、その傾向がうかがえる。

実は、浄土仏教はキリスト教のプロテスタントと共通した部分をもつ。その証拠に、来日した修道会の宣教師たちは、浄土真宗を見て、なぜこのようにプロテスタントに似た宗教があるのかと驚愕し、これこそ我らの真の敵であると語っている。『妙貞問答』における浄土真宗の記述は、その当時庶民を中心として日本最大級の規模を誇った仏教教団にしては、あまりに少ない。しかもほとんど『仏法之次第略抜書』を模写している。ハビアンが浄土真宗について深く思索した形跡なし、ということである。なぜハビアンは浄土真宗について語ろうとしなかったのだろうか。

そもそも「上巻」の分量配分から考えて、浄土宗の記述もかなり少ない。さらに浄土真宗は、浄土宗に付属したような扱いで数行書いているのみである。おそらくハビアンは、天台宗や禅仏教などに比べてそれほど浄土仏教に精通していなかったため、このような扱いになったのであろう。

また、浄土宗の教義はシンプルであるし、浄土宗と浄土真宗の教義的な相違が大きくないことも要因のひとつだったかもしれない。

以上、ハビアンの仏教批判は、おおよそ「釈迦や諸仏は人間である」「仏教の本質は空・無である」「仏教ではすべての存在は自分の心が生み出したものとする」といった三点に集約できる。


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