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 二ーチェの激しい善人批判の
真の矛先は---。
▼善人は児分の弱さを止当化する
▼善人はすぐ弱い者いじめをする
▼善人は群れをなして権カを握る
▼善人は自分と異質なものを排除する
▼善人は同情されたいから同情する
▼公認の被差別者は善人になりえない
 
 
 
 
善人は群れをなして権力を握る
p122~123
善良で弱い者は、たえず胸に不平を抱いている。しかし、その不平を少しでも身の危険のあるところで発散させることはない。積もり積もる不平もまた絶対安全な場所においてのみ表出するのだ。
しかも、彼は同じように弱い輩を見つけて不平を共有しようとする。こうして、彼は、絶対に自分の弱さを変えようとはしないので、しかも自分だけが取り残されることは恐ろしいので、自分と同じように弱い者の共同体を作ろうとする。弱さの被害者同盟を作ろうと企むのだ。
そのためには、単に団結してもダメである。なにせ自分たちは弱いのだから。そのことを悟り、彼らは自分たちこそ「正しい」という武器を手にする。自分たちは弱いから正しい。弱いから善なのだ。こうして、正しくて善い弱者を見殺しにしないこと、配慮し尊重することにこそ、全道徳の基礎があるという信念にたどり着く。
こうした人種を、二ーチェは豚や羊や牛などと同様の「畜群(Herde)」と呼ぶ。
あまりにも長いあいだ、世人は彼ら〔小さい人々〕の言行を是認してきた。そこで、ついには彼らに権力までも与える結果となったのだいまや小さい人々は教える「小さい人々が善と呼ぶものだけが善なのだ」と。
(『ツァラトゥストラ』第四部「最も醜い人間」)
善人“畜群による執念深いカヘの意志とその支配形態を、二ーチェは長々と描き出す。
畜群の本能は、中間のものと中位のものとを、最高であってこのうえなく価個あるものと評価するが、これは、多数者が住みついている場所であり、多数者がこの場所に住みつくやり方である。(『権力への意志』)

善人は弱いことを自覚しているからこそ、最も卑劣で姑息なやり方で権力を求める。つまり、彼らは「数」に訴えるのである。一人ひとりは弱いが、結束すれぱ、団結すれば、山をも動かし、巨悪をも打ち倒すことができよう。
 
(略)
 
善人は公正を求め法律を遵守する

弱い者には、誰か強い者の保護が必要である。それが個人のレベルで求められなくなった近代以降においては、弱いものを保護する制度が必要である。
弱い者を守り、その弱さを責めたてない制度、弱くても生きていける制度、弱い者を見捨てない制度、弱い者に温かい目を注ぐ制度が必要である。
強い者がその強さを誇示することなく、その強さで弱い者を虐げることなく、むしろ自分の強さを「悪」とみなす制度、弱い者はこうした制度を「公正」であると考える。

強い者は強いのだから、弱い者のことを考慮しなければならない。弱い者は弱いのだから自分のことで精一杯である。これでいいのだ。強い者が弱い者のことを考慮するのは、強い者の義務なのだ。その義務を怠ったものを、追及し、詰問し、社会から葬り去ってもいいのだ、「公正(gerecht)」という言葉は「復讐(gracht)
」という言葉と響き合っている。「公正」を求める弱者は強者に復讐したいのだ。強者を臭いドブの中に叩き込んで、自分たちと同じ汚い輩に改造したいのだ。
しかも、弱者は独特の賢明さと鈍感さを併せ持っているので、そういう意図を自分自身から隠す術も心得ている。彼らにあらためて聞けば、そんなことは「夢にも思わない」と答えるであろう。

弱い者は弱い者特有の権力を振りかざす。見えにくい特有の暴力を行使するのだ。つまりタチの悪いことに、自分が権力を持っているなととは夢にも思わないままに、絶大な権力を振り回す。しかも、さらにタチの悪いことに、そうしながら、自分は「公正だ」と思い込んでいる。
善意のあるところ、それと同じだけの弱さを私は見る。正義と同情のあるところ、それと同じだけの弱さを。
彼らは相互に円満で、正直で、親切である。さながら砂粒と砂粒とが互いに円満で、正直で、親切であるように。
(『ツァラトゥストラ」第三部「小さくする徳について」)
(略)
だが、私はきみたちにこう忠告する、私の友たちよ。処罰しようとする衝動が強人であるようないっさいの者たちを信用するな!これは劣悪な種族と血統の徒輩である。彼らの顔つきには死刑執行人の、また探偵の気配が現われている。みずからの正義について多弁を弄するいっさいの者たちを信用するな!まことに、彼らの魂には蜜が欠けているというだけのことではないのだ。
そして、彼らが自分自身を「善にして義なる者たち」と称するとき、忘れるな、パリサイの徒たるべく、彼らに欠けているのはただ権力だけであることを!
(『ツァラトゥストラ」第二部「タラントゥラどもについて」)
「処罰しようとする衝動が強大である」人とは、既存の捷を絶対視する人であり、そのルール違反者に対して不寛容な人である。しかも「正義」の名のもとにおいて。およそ地上のすべての卑劣なこと、醜悪なこと、凶暴的なことは「正義」の名のもとに行われてきた。いかに合理的であっても、理知的であっても、説得的であっても、愛情に満ちていても、自分を一方的に「正義」の側において、それ以外の者を非難し迫害する者は信用してはならない。
「みずからの正義について多弁を弄するいっさいの者たちを信用するな!」と二ーチェは叫ぶ。
 
 ニーチェは神を否定したのであるから、中世キリスト教から生まれ出でた民主主義を否定しても驚きはしない。中世キリスト教から生まれた双子の片割れである資本主義と共に、21世紀初頭の現在民主主義も行き詰っている。
 
 
「タラントゥラ」という毒蜘蛛ども
p133
こういう「幻想的平等主義」を教え込んだ張本人がいる。それは、自分は穴に隠れてこそこそ大衆を操作している卑劣きわまりない毒蜘蛛たちである。
「われわれに対して等しくないすべての者に復讐を誹謗を加えよう」-タラントゥラたちは心を合わせてこう言う。「そして『平等への意志」これこそ将来道徳の名に代わるへきものだ。権力をもつ一切の者に対して、われわれはわれわれの叫び声を上げよう!」
(『ツァラトゥストラ』第二部「タラントゥラどもについて」)
弱者=善人も努力次第で夢は実現される、正直に働き続ければ少なくとも人並みに生きられるという大嘘を教え込み、そのことによって彼ら頭の単純な善人どもの脳みそをかき回し嫉妬を掻き立てる。
自分がこんなに努力しても(これも疑わしいが)いっこうに生活は楽にならず、金は貯まらず、老後は不安であり、これはどうしたことかと真剣に悩む輩を輩出させるのだ。
こういう大衆操作を裏でやってのけるのは「タラントゥラ」という名の踊る毒蜘蛛である。
大衆の嫉妬心や復讐心を煽り立て、その燃え盛る憎悪を巧みに利用して、「平等、平等!」と叫びながら、この毒蜘蛛は踊り続ける。
「タラントゥラ」とは誰であろう?すべてのジャーナリスト、テレビに出て意見を述べるすべての者、いやいまとなってはすべての政治家、すべての官僚、すべての企業家、すべての教育者である。
すなわち、公の席で何かを語る者は、いまやすべて「タラントゥラ」なのだ。それほどの嘘ゲームを、いつまでもせっせと考案して、膨大な数の犠牲者が坤き声を上げているのに、一点の嫌悪感も持たないのは不思議というほかない。
諸君、平等の説教者たちよ!してみれば、権力にありつかない独裁者的狂気が、諸君の中から「平等」を求めて叫んでいるのだ。諸君の深く秘められた独裁者的情欲が、こうした道徳的な言葉の仮面を被っているのだ!・・…・この説教者たちはいかにも感激に駆られている者というふうだ。しかし、彼らを興奮させているのは、純真な感情ではなくて復讐の念なのだ。また、彼らが緻密で冷静になるなら、それは精神がそうさせるのではなくて、彼らの嫉妬が緻密で冷静にさせるのである。
(『ツァラトゥストラ』第二部「タラントゥラどもについて」)
テレビこそ諸悪の根源である。何も考えない(いわゆる)バカでもわかる仕掛けが、(いわゆる)バカに合わせた企画がひしめき合っている。
中でも、「コメンテーター」と自称する者は、お笑い芸人、落語家、漫画家、スポーツ選手、歌手、写真家、外食産業社長など、あっと驚くほどの無教養大集団。その一人ひとりが真顔で、地球温暖化や政権交代や少年犯罪について「コメントする」のだから、あきれ果ててしまう。
余談だが昨日のNHKの日米安保50年もそんなリベラルな人間が製作したせいか、アメリカのジャパンハンド達が日本を嵌めて日米同盟に無理やり引き込んだかを如何にも公正な立場で番組にしましたという姿勢に怒りを感じた。
 
正義の美名が大きいほど信用できない。日米のリベラルと呼ばれる日米両民主党の議員達オバマや菅・鳩山・小沢・仙谷etc、NHK・朝日新聞etcが叫ぶ正義を私が一切信用できない。そんな時代であるからこそ、無限の欲望の塊である人間の行動科学を冷徹に観察したニーチェが今日再評価されているのは時代の必然性のような気がします。