イメージ 1シモン・ツァバル 
Shimon Tzabar

1926年イスラエル・テルアビブ生まれ。ハガナ、エッツェル、レヒといった過激派組織を渡りあるいたテロリストで、第2次世界大戦前のパレスチナで対英攻撃に従事した。イスラエル建国後は、第1~3次中東戦争にも加わった。40年ほど前、イスラエルとシリアの戦闘機による空中戦を目撃した著者は、戦争が何をもたらすかを考えるようになった。イスラエル反休制派の雑誌IsraelImperialNewsを創刊し、現在も編集委員。作家として児童書、小説、旅行書、戯曲、詩を執筆。コラムニストとして新聞にも寄稿。現在はロンドンでジャーナリストとして活動するかたわら、アマチュア菌学者としてアセタケとフウセンタケを専門に研究している。他の著作に"PhantomStrikesAgain"(1988)がある。
 
藤井留美
翻訳家。主な訳書に『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)、『サルとすし職人』(原書房)など。
 
 
1989年、バブル全盛の頃、三菱地所がロックフェラーセンターを買収しSONYがコロンビア映画を買収した。米国人達は「第二次世界大戦(大東亜戦争)の真の勝者は日本ではなかったか?」と自問した話は有名である。
p6~7
一般的には、戦争に勝利すればバラ色の戦後が、負ければ悲惨な戦後が待っていると思われている。戦争に勝つための要素と、良い戦後を生みだす要素が同じなら、たしかにそうかもしれない。だが現実には同じでないため、勝利は幸せな戦後を約束しないし、敗北が惨めな戦後をもたらすともかぎらない。

たとえば先の第二次世界大戦では、ドイツと日本が惨敗したわけだが、どちらもその後見事に復興し、戦勝国であるイギリスやフランスよりも豊かな戦後期を迎えた。ここ数百年、負け戦続きの中国も同じである。ロシアも20世紀が始まってから負けっぱなしで、1942年にもドイツ軍に侵攻されたが、このときはドイツのほうが勝利の重みに耐えきれず自壊してしまった。

敗戦には、文化や社会、経済面だけでなく、軍事的にも利点がたくさんある。第二次世界大戦が始まった当時の日本は、封建社会と近代経済が合体した怪物のような国だった。

もし戦争に勝っていたら、怪物はますます巨大化し、いずれは国を滅ぼしただろう。千年という不敗の歴史が育てた怪物は、敗北で倒すしかなかった。広島と長崎に投下された二個の原子爆弾が、それを成し遂げたのである。

敗戦は、日本が異常な社会構造から脱却することを助け、経済や社会生活、芸術などあらゆる分野に利益をもたらした。
いきなり 「広島と長崎に投下された二個の原子爆弾が、それを成し遂げたのである。」 はないだろう。 訳者の藤井留美氏はこれでも抑えて書いたのではなかろうか?しかし、この文章は日本人としてはとても許容できるものではない。原子爆弾による戦争犠牲者を出さないために、戦争には負けてはならないし、軍備を怠ってはならないのである。
 
左翼といわれる、反日日本人はおそらく本書を読むと、感動しカン違いするであろう。ダカラ憲法9条を大切にしようと思うに違いない。9条は日本を確実に弱体化させる根源であるからだ。だが私は三個目の原子爆弾を日本国内で爆発させてもいいとは思っていない。
 
何故保守系ブログにて負け犬根性を賞賛する本書は価値があるのだろうか?と、疑問に感じるでしょう。著者の立場を考え冷静に本書読むとその盛り込まれたアイディア、提案は実に目から鱗が落ちるのであります。 
 
著者は有史以来戦争に負け続けてきたユダヤ人でしたが、第一次~第四次中東戦争に勝ってしまい、パレスチナ政策では世界中から非難され続けているイスラエル人なのです。そしてそのイスラエルの反体制派であるのです。著者は日本の護憲派とは違い、単なる負け犬ではなく、一種の皮肉としてイスラエル政府を非難したのが本書であります。
p8~10
ドイツが戦争に勝利していたら、ヒトラーとその取り巻きによるナチス支配が続き、ドイツだけでなく全世界が破滅を迎えていただろう。
 
もしドイツが戦争に勝っていたら、あれほど急速な経済発展もありえなかった。軍隊を遠い外国に常駐させなければならず、その費用が経済を圧迫したはずだ。戦勝国のフランスやイギリスが、戦後数十年間、頭を悩ませてきたのは、まさにこの問題なのだ。

敗北に関して最も経験豊富なのは、何と言ってもユダヤ民族だろう。二千年ものあいだ、彼らは敗北のプロフェッショナルであり続けてきた。ユダヤ人が関わっていない敗北や降伏、敗走は数えるほどしかない。だがユダヤ民族の歴史は、どんな勝者よりも連綿と続いている。

イスラエルを襲った古代王国の数々は、いまどこにあるだろう?ユダヤ教の会堂を焼き払った古代エジプト人やバビロニア人、ギリシャ人、ローマ人はどこに行ったのか。彼らがみな滅亡し、勢力地図から姿を消したあとも、敗者であるユダヤ人は生き長ら えた。ユダヤ人たちは何度打ち負かされようと、そのたびに気力をみなぎらせて一からやり直してきたのである。

戦争は勝利しない限り最善の結果を得られない。それがこれまでの一般的な見解だった。

だが、その考えに疑問を抱く者もいた。なかでも有名なのが、古代ギリシャのエペイロスを治めていたピュロス王である。ローマ軍を破った彼は、勝利を祝う友人たちに言った。「だが次も勝利すれば、我々はおしまいだ!」
 
皇帝ユスティニアヌス一世のもと、ビザンティン帝国を守って領土拡大に貢献した将軍ベリサリオスも、そのひとりだ。アンティオキア急襲をもくろむサラセン王が、ユーフラテス河沿いを進軍していると聞いて、攻撃を迫る家臣にベリサリオスはこう答えた。「真の勝利とは、自軍の損害を最小限に留めつつ、敵に目的を断念させることだ。それを達成した以上、戦いに勝ったところで得られる利益はない」
 
イギリスの詩人サミュエル・ロジャーズによると、ワーテルローの戦いのあとにウェリントン公はこう言ったそうだ。 「このような勝利は、敗北の次に不幸な出来事である」

ピユロス王やウェリントン公がこんな言葉を残したのも、世間一般の認識と現実が異なることを知って驚いたからだろう。ベリサリオスの言葉はさらに深い。
この偉大な将軍は、勝利抜きでも目的を達成できることを知っていたのである。
 
(略)
 
ナポレオンは輝かしい勝利をいくつもおさめ、ドイツはオーストリアとの戦争(1864、1866年)にも、フランスとの戦い(1870年)にも勝利した。日本も1895年と1905年にそれぞれ中国とロシアを下している。しかしこれらはすべて、フランス、ドイツ、日本がいずれ迎える敗北の予兆にすぎなかった。戦争当事国において重要なのは、最後に行なった戦いの結果のみであるとクラウゼヴイッツは言う。
だが、過去の事実をもとにその言葉を広く解釈するならば、戦場での武勲は、戦争の勝利ではなくむしろ敗戦を招くということになる。
 
(略)
 
アメリカの小説家ジョーゼフ・ヘラーは『キャッチH22』のなかで、もっとはっきり述べている。
 
きみたちは戦争に勝つことばかり重視する:…だが本当に重要なのは負けることであり、どの戦いなら負けていいかを見極めることだ。イタリアは何世紀にもわたって敗北を重ねてきたが、それでもこんなに立派にやっている。
 
いっぽう戦争に勝ち続けているフランスは、つねに危機的な状況にある。ドイツも負けてから繁栄した……イタリアはエチオピアとの戦争に勝ったとたん、深刻な事態に陥った。
 
我々が狂気じみた誇大妄想を抱き、勝つ見込みのない世界大戦に突入したのも、勝利のなせるわざだ。
 
だがいま、我々はふたたび負けようとしている。すべてが良い方向に向かっている。もし、首尾よく負けることができたら、かならずや成功が訪れるだろう。
 
 P16~18
戦争では、いつぽうが降参した瞬間、勝者は敗者のすべてを手に入れる。しかし正義や同情、共感、慈悲はつねに敗者に向けられるため、勝者は少なくともモラル的には負けたことになる。以前の扱いから手のひらを返したように、侵略者のレッテルを貼られることもある。悪辣な主戦論者でさえ、戦争に負ければ同情を集める。戦っているあいだは、正義は立派な主張であり、一種の武器になる。

だがひとたび戦争が終わると、正義は勝者から遠ざかる。勝利でかちとった権力に正義や道徳を持ちこんでも、笑い者になるだけだ。イスラエルは、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)で圧倒的な勝利をおさめたことで、国際世論の支持を一気に失った。

アラブ人の土地を奪ったことをいくら道徳的に正当化しようとも、その主張はうつろに響くだけである。いまもイスラエルは、テロの対抗措置と称してパレスチナを爆撃している。

道徳と正義に見放された勝者には、ありとあらゆる災難が降りかかってくる。人びとの精神は堕落し、若い世代は失望感に襲われ、善人ぶった文化がのさばる。それに責任も重大だ。勝者は自国だけでなく、負けた国の面倒も見なければならない。ひとつの国を統治 するだけでも大仕事で、それができずに倒れた政権は数えきれないというのに、二つの国を取りしきるのがどんなに大変か。それも二つのうちひとつは、敗戦で壊滅状態なのだ。

戦勝国は、敗戦国の経済や産業、警察、軍隊、教育、外交、交通などをすべて管理しなければならない。「悪いけど、そっちにまで手がまわらないんだよ」と言うことは許されないのだ。勝利は責任を意味する。勝った者は支配し、統治するしかない。だがこれが、敗 者にはかりしれない可能性と機会を与える。
 
ローマの詩人ホラティウスは、持ち前の鋭い観察眼でこう書いた。「[ローマ人に]征服されたギリシャは、逆に彼らを征服し、あか抜けないラティウムの地に芸術をもたらした」

敗戦国をいかに統治するかという問題は、とても複雑だ。へたをすると将来の敵をつくったり、対立の種をまくこともありうる。イギリスの陸軍少将J・F・C・フラーは、『制限戦争指導論』でこう述べている。「戦争の歴史のなかで、敵と味方が入れかわる事態がいかに頻繁に起こってきたか。したがって敵を倒したら、立ちなおらせてやることが賢明だ。次の戦争では、かつての敵に助力を仰ぐかもしれないからである」もっとも本書は勝者の手助けをすることが目的ではないので、この問題には深入りしない。
 
ただ、負かした敵の扱いは難しいとだけ言っておく。勝った国は厳しい状況のなかで、経済、行政、社会のあらゆる面で困難な課題に取り組み、問題を解決しなければならない。いっぽう敗戦国はというと、自分たちのことだけ考えていればいい。
朝鮮半島は日本が統治したおかげで、衰退した儒教小中華の後進国から近代化できたのだ。中国も帝国陸軍に連戦連敗したおかげで日米戦の漁夫の利を得たのである。