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p417~426
 
所得格差と環境破壊も問題の本質は同じである

ここまで読み進められた読者は、すでにお気づきであろう。グローバル資本主義の問題の根幹とは、今やモノもカネも国境を超えて自由に羽ばたいているのに、それを制御する主体が国家単位に分散しているということにあるのだ。

所得格差が拡大しても、それが国内問題であるかぎりは有権者の意向を受けた政治家がしかるべく手を打とうとするだろう。地方経済が疲弊したということであれば、地方選出の議員が公共事業の拡充に乗り出すだろう。福祉政策が不十分だということであれば、リベラル政党が得票を増し、それなりの手が打たれるはずである。

しかし、グローバル資本の力はそうした国内政治にまで影響を与え、そのような動きを帳消しにしてしまう。

ロバート.ライシュが『暴走する資本主義』の中で言っているように・現代社会では巨大なグローバル資本がさまざまなロビー活動などを通じて、労働者や市民の力を弱体化させ、格差是正の政策を骨抜きにしている。グローバル資本主義にとっては、格差を是正しようとする政治とは、利潤を低下させる「悪い政治」に他ならない。

かりにリベラルな政治が行なわれるのであれば、その国から資本を引き上げるだけのことであり、そうなれば、さらにその国の経済状況は悪化することになるから、格差是正の政策は骨抜きにされてしまう。

このことは先進国よりも後発国のほうがもっと深刻である。国際的な所得格差に対する政策手段としては、せいぜい政府開発援助(ODA)による所得再分配があるだけである。これはたかだか先進国のGDPの一パーセントにも満たない拠出金を世界の途上国に配分しているだけであり、国際間の所得分配を平等化させるという意味ではその力はきわめて弱い。

環境破壊についても同様である。ヨーロツパの一部の国(ドイツや北欧諸国)が厳しい環境規制を敷いても、グローバル資本は環境規制の緩い新興国に投資を集中するから、地球全体としては環境規制は尻抜けになってしまう。

気候変動に関する政府間パネル(略称IPCC)のような、国際的な専門家による、地球温暖化についての科学的データの収集、整理のための政府間機構は存在するが、IPCCには政治的な強制力はない。国連にも気候変動枠組条約締約国会議(COP)のような国際会議はあるが、これにも何の強制力もない。アメリカや中国など、世界撮大のCO2排出国がそっぽを向いてしまえば、それでおしまいなのである。

所得分配にせよ、地球環境問題にせよ、各国がナショナリズムの視点で行動する限り、問題の根本的な解決は望めない。貨幣の問題と同様、今度は強制力を持った「世界中央政府」が必要なのである。

禁断の果実

とにもかくにも、人類はグロiバル資本主義というモンスターに、国境を超えて移動する「自由」を与えてしまった。この自由を与えられたことで、グローバル資本主義は各国の労働・貨幣・土地を商品化し、利潤を追求するチャンスを得た。
 
しかし、「自由」には「規律」が必要である。規律なき自由は無秩序をもたらす。
 
ところが、ナシヨナリズムによって動いている現代此界においては、国際規模での十分に強力な政治権力が存在せず、したがって、国境を超えて自由を満喫しているグローバル資本に対して必要な規律づけをすることができない。
 
必要な規律づけができない状況が続く限り、世界が長期的安定を保つことはできない。
 
ポランニーが『大転換』のなかで労働・貨幣・土地を「商品化」したことによって人類が蒙る被害について警告した内容はここでも十分に適用できるのである。
 
私たちはそろそろ、資本主義原理が求めるままにグローバルな市場取引を何もかも自由にすると、その帰結として大きな「罰」を受けるのだという事実を教訓として真剣に受け止めなければならない。
 
そして、際限なき「自由」を求めてはいけないのだという事実を学ばなければならない。
その意味では、今こそ、人類は精神吏叩・価値観の転換を求められているのである。
 
だが、エデンの園の物語ではないが、「自由」とは禁断の果実であり・ひとたびその美味さを知ってしまった人間が自らを抑制するほどに賢くなっているかどうかは疑わしい。
 
となれば日本としては、グローバル資本主義から受ける傷を最小化するため、まずは自国単位でできることは徹底的にやるべきであるとするしか道はあるまい。
 
たとえば、国内の所得格差をなくす、貧困率を下げる、人々が心のよりどころとすることができる中間的な組織を支援する、環境規制を徹底的に行ない、「森林国家宣言」をし、自然との共生を実践していくということを一つ一つやっていくしかない。
 
中国政府系ファンドが数千年の歴史のある東北地方のブナ林を買い占めるというような動きには、断固反対するのは当然のことである。
 
「自由」ゆえに資本主義は自壊する
 
近代における人間の歴史とは、いかにして国や教会、村落共同体などの制約から個人を自由にするかという闘争の歴史であった。その結果、近代化によって我々は「自由」という禁断の実を手に入れた。
 
しかし、人間は実は「自由になればなるほど不幸になる」という現実にも気づかなければならない。あらゆる制約から白由になったひとは、コミュニティの温かい人間関係を失い、社会の中で孤立してしまう。
 
またそれと同時に、人問は一定の制約の中でそれを克服することで成長し、また、幸せにも感じる厄介な動物なのである。
 
子どもは父親からの理不尽なゲンコツや、社会や学校などからの規制に縛られて、はじめて自我を確立できる。何の摩擦もなく、小さいときから自由気ままに振る舞った子どもは、はたして円満な大人になれるだろうか。
 
グローバル資本主義にもそれと似たところがある。摩擦や規制のない「自由」な市場を追求すればするほど、短期的にはグローバル経済が活性化するように見えるけれども、実はそれはますます資木主義を不安定化し、その副作用を取り返しのつかない程度まで増幅する。際限ない規制緩和と国際的な制度的ハ-モナイゼーションによって、摩擦の存在しないスムースな世界市場ができるとすれば、そのときこそグローバル資本主義が自壊するときなのである。
 
本書のタイトル『資本主義はなぜ自壊したか』は「過去形」の表現になっているが、もちろん、資本主義が全面的に自壊してしまったわけではない。しかし、自由を満喫したグローバル資本が世界経済を不安定化させ、所得格差拡大で不幸な人々を大量に生産し、また、地球環境をもはや修復不可能に近いところまで汚染してしまったという意味で、資本主義の自壊作用はすでに始まっているというべきなのである。
 
チャーチルが民主主義に対して述べた言葉を資本主義に当てはめれば、「資本主義は最悪の経済体制である。これまで人類が経験した他のすべての経済体制を除いては」ということになるだろう。
 
資本主義がわれわれにさまざまな罰を与えているといっても、いまさらすべての自由を諦め、計画経済体制や鎖国体制に戻ることはできない。「自由」という禁断の実を食べた我々はそのために与えられる罰を甘受しながら、しかし、その罰が致命的なものにならないうちに、「自由」の一部を統制に委ねる覚悟が必要である。
 
ブータンやキューバの人たち、あるいは、幕末期における日本の庶民など、資本主義や市場原理を十分使っていない社会の人たちがいかに穏やかで楽しそうに見えるかについてはすでに第三章で詳しく述べた。彼らはまだ「自由」という禁断の実を食べていない。
 
それゆえに、物質的な意味での生活水準は低いが、「自由」がもたらす人間疎外などの「罰」がまだ希薄なのである。しかし、だからといって、禁断の実を食べてしまった我々がそこまで後戻りすることはもはや不可能である。
 
このように考えると、グローバル資本の行動をより自由にする「改革」に血道をあげることだけが正義だという「改革派」の愚は慎まなければならない。むしろ、さらなる「自由」を求める動きに対しては、それがおそらくは資本主義の自壊、さらには人類という種の自滅を早めるだろうことを認識し、欲望の肥大に対して自制の精神を持つように努力することが適切な行動原理になる。
 
 
「相互承認」の考え方
 
実は、ひたすら規制撤廃を求め、市場にすべてを任せようとするアメリカ型の資本主義がむしろ特殊な資本主義の形だという考え方はヨーロッパに根強く存在している。実際、ヨーロッパの国々は、アメリカ型資本主義とは一線を画す独自の資本主義体制を維持しようとしてきた。
 
 
(略)
このことは日本の資本主義にとっても重要である。歴史も文化的伝統もまったく異なるアメリカ型の資本主義を日本がそのまま受け入れる必然性はどこにもないのだ。

日本としては、グローバル資本主義の自壊を防ぐため、「相互承認」の考え方をべースにして、グローバル資本の動きに一定の制限を加える取り決めを欧州とともに協議し、その成果をG7のような場で提案していくべきであろう。アメリカの金融財政政策に対しても、欧州諸国と共同歩調をとってドルの供給が適切になされるように要求していく必要があるだろう。
 
適切な統制が存在すれば、資本主義は何とかよろめきながらも存続できるが、新自由主義が主張するようなまったく摩擦のないグローバルな自由取引市場を作ってしまえば、それは問違いなく人類の滅亡を早めることになるからである。
 
人間の欲望がモンスターを呼びさます
 
二一世紀-グローバル資本主義というモンスターは依然として解き放たれたままである。しかし、そのモンスターは自らの行き過ぎた行動によって傷を受けた。それが今の金融危機である。
 
だが、その傷はけっして致命傷とは言えない。たしかに傷が癒えるまでは、しばらくモンスターはその活動を低下させることになるだろう。だが、放っておけば、モンスターはまた猛威舵振るいはじめる。この怪物が傷の治療をしている今こそ、その行動を制御するための椎(制度)を作り上げるための好機かもしれない。
山、わ井克人氏は言う。
 
、あのアダムスミスの『見えざる手』を曲がりなりにもはたらかせることができたのは、市場経済を『不純』にするさまざまな、外部』の存在が、その本来的な不安定性の発現を一定程度におさえてきたからなのである」(「二十一世紀の資李下義論」八四ぺージ)

外部の存在とは中央銀行や強制力を持った政府のことである。中央銀行が通貨の管理をし、政府が所得再分配政策や環境規制をするといった、市場から見ると「不純」なことが国内経済ではそれなりに存在していた。
 
しかし、グローバル資李王義の下では、そのような強制力を持った「外部」は存在しない。つまり、グローバル資本主義というモンスターには、今のところ天敵はいないのだ。
 
だが、このことを世界中の人々が認識できれば、ひょっとすると我々はこのモンスターに一定の枠をはめる知恵を見出すことができるかもしれない。怪物の動きを拘束する何らかの有効な鎖を作り上げることができるかもしれない。
 
そのためには、まず我々は「欲望の抑制」ということを学ばなければならない。
このまま手をこまねいていれば、やがてはグローバル資本主義というモンスターはふたたび暴れはじめ、己白身をも破壊するほどの猛威を振るうだろう。そして、その災厄は問違いなく我々白身にも降りかかってくる。
 
だがそのときになって初めて気づいても遅すぎるのだ。モンスターを暴走させ、人類を滅びの淵に追いやったのは、欲望を抑えることができなかった、他ならぬ我々自身であると。