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9・11テロの首謀者はビンラディンではない。 一般にはビンラディンが9・11テロの首謀者と思われているが、じつはもともと90年代に独自の対米テロをいくつも計画・実行し、後にアルカイダに合流して9・11テロを主導したのは、ハリドーシェイクームハマドであり、彼がひとりで発案し、アルカイダを巻き込んで実行したものだった。
 アルカイダの首領であるビンラディン自身は、98年8月の在アフリカ大使館テロ以降、アフガニスタンの秘密拠点に潜伏し、そこでアルカイダ組織の運営と各地のイスラム過激派の支援を行っていたが、自ら先頭に立ってテロ計画を主導することはほとんどなかった。
アルカイダが9・11テロに突き進んでいった過程は、作戦立案者であるムハマドがアルカイダに参加していくプロセスとシンクロしている。この男がもしアルカイダに参加していなければ、9・11テロは起きなかったにちがいない。
 
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その後、ムハマドは、自身の身辺にアメリカ当局の追手が迫ったことから、96年1月にカタールからアフガニスタンに逃亡する。じつは、FBIはその何力月も前に、マニラのアジトに残されていたメモの電話番号からムハマドの身元を特定し、ユセフの共犯者であるとほぼ断定していた。しかし、。犯罪人引渡し条約のない国での強硬措置は国際問題に発展する可能性がある。ということで手をこまねいているうちに、みすみす見逃してしまったのだ。
 
アフガニスタンにわたったムハマドは、その年のうちにムハマドーアテフの引き合いで、やはりスーダンからアフガニスタンに移住してきたばかりのビンラデインを、潜伏先のトラボラの洞穴作に訪ねている。このときビンラデインが、旧知ではあったが疎遠な関係だったムハマドと会おうと決めたのは、ムハマドがかのニューヨーク世界貿易センタービル爆弾テロで知られたラムジーユセフのパートナーだったからだ。
 
ビンラデインと面会したムハマドは、かねてから温めていたアイデアを披露し、要員と資金を出してくれるよう掛け合った。彼がそのとき語ったその壮大なテロ計画とは、以下のような内容だった。
 
「米航空機10機をハイジャックし、そのうち9機でニューヨークの世界貿易センタービル、ワシントン近郊のCIA本部、FBI本部、国防総省、西海岸のカリフォルニア州とワシントン州の最高層ビル、原子力発電所などに体当たりする」
「ムハマド自身は最後の10機目に乗り、空港に着陸した後に乗員・乗客のうち成人男性を全員処刑する。さらにその場でテレビ中継を要求し、華々しくジハード呼びかけの演説を行う」
 
話を聞いたビンラデインは、そのあまりのスケールの大きさに驚いた。しかし、ムハマドの計画は具体的な細部まで検討されたものではなく、そのときは単なる。大ボラ゛にしか聞こえなかった。ビンラディンは結局、そのプランを「非現実的すぎる」として採用しなかった。
p94-95

9・11を決行した「ハンブルク細胞」

ビンラディンとムハマドは、飛行機作戦の実行班リーダーに、ドイツ在住のエジプト人技術者であるムハマドーアタを選んだ。
アタはハンブルクエ科大学留学中に、アラブ人留学生仲間でイスラム過激派グループを作っていて、99年から2000年にかけて数カ月間、アフガニスタンを訪問し、ビンラディンやムハマドと会見している。ビンラディンは、アメリカ国内に潜伏してテロ計画を進めるには、海外経験の豊富な人材のほうが向いていると判断し、ハンブルク在住のアタの仲間グループを実行犯の中核として採用した。このグループを後にFBIは「ハンブルク細胞」と名づけている。

アタと仲間たちは2000年6月から順にアメリカに入国し、民間の航空学校に入学して、飛行機の操縦技術を学んだ。翌01年5月からは、ハイジャック機内制圧担当の戦闘要員も続々とアメリカに入国し、同時テロの準備が整えられていった。送り込まれた実行犯たちは、ハンブルク細胞と、サウジアラビア出身の元ボスニア義勇兵グループなどから構成されていた。

同年9月11日、アタをリーダーとする19人の実行犯たちは、4機の民間航や機をハイジャックし、うち2機をニューヨークの世界貿易センタービル、1機をワシットッ郊外(バージニア州)の国防総省に激突させた。残り1機もワシントンに向かったが、乗客の抵抗により、途中のペンシルベニア州内で墜落した。合わせて約3000人が殺害されるという、アメリカ史上最悪のテロ事件となった。

捜査当局は、空港の監視ビデオ映像の解析などからアラブ系の犯人グループを特定し、まもなく「アルカイダによる組織的なテロ」と断定した。

アメリカはオサマ・ビンラディンの引渡しを、彼を匿っているアフガニスタンのタリバン政権に要求したが、タリバンがそれを拒否したことから、ピンラディッの捕縛・殺害およびタリバン政権の駆逐を目的に、同年10月7日から米軍を中心とする有志連合軍と、アフガニスタンの反タリバン派ゲリラ「北部同盟」軍が、タリバンヘの総攻撃を開始した。
p98-103
大統領に届けられていた「警告」

2001年当時、アメリカ情報機関はすでにアルカイダを。もっとも危険なテロ組織”と認識し、全力でその追跡にあたっていたが、彼らが米国内でハイジャックした航空機による特攻テロを仕掛けようとしていたことを、事前に察知することはできなかった。

しかし、情報機関や捜査機関の末端では、9・リアロの徴候を示す情報がまったくなかったわけではない。

たとえば、01年5月には「ビンラディン支持者が、テロ作戦のために米国入国を図っている」との情報がCIAに入っており、CIAは6月28口と7月10日の2度にわたって、大規模テロの脅威があることをホワイトハウスに報告している。

9・11テロのわずか1ヵ月前の8月6日にブッシュ大統領らに提出されたCIA報告書にも「ビンラディンがアメリカ国内でテロを計画している」と記されていた。ちなにみ、この報告書に関しては、9.11テロの後に「ブッシュ政権はアルカイダのテロ情報を事前にキャッチしていたのに、何の手も打たなかっ」との批判に繋がったが、当時のライス国家安全保障問題担当大統領補佐官らは「具体的な情報ではなかった」と反論している。

このようにアメリカ情報当局は、ビンラディンによる米国内でのテロ計画という情報を断片的に入手していたわけだが、それまでのアルカイダによるテロがもっぱら海外のアメリカ施設を狙うケースばかりだったため、つい国外でのテロのみを警戒するようになってしまっていた。

たとえば国務省は、同年1~9月に9回のテロ警戒警報を発したが、それらのうちの5つは、海外の米政府・軍施設に対する警戒警報だった。そのなかには、在日・在韓米軍への警報もあった。

CIA内で滞っていたテロ関連情報

アメリカ情報当局が海外でのテロばかりを警戒し、国内テロの可能性を軽視したことは、各情報機関のあいだの情報共有という点で、致命的なミスを誘発した。CIAやNSA(国家安全保障局)が海外で人手したテロ関連情報が、国内警備に責任を持つFBIに知らされないというケースがしばしば起こったのだ。

たとえば、98年の在アフリカ大使館テロで逮捕された共犯者が供述したイエメンのアジトの通信をNSAが傍受し、「2000年1月にアルカイダの工作員がマレーシアークアラルップールで会合を開く」という情報を事前にキャッチしたことがある。

そこからCIAは、アルカイダエ作員と推定される2人の要注意人物を特定したが、その情報はFBIにも国務省にも入国管理局にも伝えられなかった。この2人はその後、本名でアメリカ入国ビザを取得し、本名で堂々と入国、滞在した後、9・11]ハイジャックに参加した。仮にFBIが彼らを入国時から監視下に置いていれば、9・11テロは未然に防げたはずだった。

じつはこれは、CIAの手順規則が正しく守られていなかったことを意味する。というのも、CIAのテロ対策センター(CTC)が99年12月にすべてのCTC部員および海外支局・拠点に通達した「テロ問題ガイダンス」には、他の政府機関への情報提供の手順マニュアルが明確に記されていたのだ。


これはひとつの典型例だが、その他にも、FBIなども含めて、アメリカ当局内でテロの危険を示唆する徴候情報が無視されたケースはいくつもあった。

たとえば、離発着技術をまったく憶えようとしない怪しいアラブ人受講生かいることが、航空学校からFBTIミネアポリス支局に通報されていた。同支局ではこれを重大な情報と考えて強制捜査に入ろうとしたが、FB1本部がそれを許可しなかった。

人種や宗教が絡む捜査はマスコミの批判を受けやすく、FB1本部の上層部にはそれを回避したがる傾向があったからだ。

こうした怠慢のいちばんの原因はおそらく、当局側に油断が生じていたためだろう。

大量のテロ警戒情報は日々どんどん報告されていたが、そのほとんどは。ハズレ”の情報だった。情報の海のなかで、情報当局側の感度が自然と鈍くなっていたともいえる。

ちなみに、9月11日以後の数週間に、1500件以上のCTIA秘密報告書が他の情報機関に公開されたが、それによって新たに150人のテロ容疑者が識別され、うち58入のテロ容疑者名が、要監視者リストに追加された。裏を返せば、それだけの”共有されるべき情報”が、9月11日までCIA内で滞っていたということに他ならない。

人材不足だったテロ対策センター
98年8月の在アフリカ大使館テロを機に、CIAはアルカイダとビンラディンを追跡する態勢を格段に強化していた。CIA作戦本部のテロ対策センター(CTC)に設置されていた「ビンラディン追跡班」は、それまでの十数人から約40人にいっきに増員され、CTCから直接ケースオフィサー工作管理官)が現地に派遣されるようにもなった。

しかし、CTIAの現地スパイ網は結局、警戒を強めたアルカイダ側の組織中枢へ浸透することはできなかった。99年12月2日にCIA上級幹部になされたCTCの報告でも、アルカイダヘの浸透の重要性とその困難さが強調されている。

CIAはアルカイダ内部に情報網を作ろうと何度も試みたが、うまくいかなかった。

(略)

CTC全体の陣容は01年までに400人になっていたが、それでもまだまだ足りなかった。
肌年春に、CTCはCIA長官に対し、「莫大な量の情報を分析し、標的追跡戦略を確立するためには、日々の危機問題から切り離された専門グループが必要だ」と報告し、その創設を要求した。その報告は、とくにビンラディン追跡班が資金ではなく人員を必要とすることを指摘していた。カネより人を、ということである。
 
アナリスト不足も深刻だった。CTCの常勤のアルカイダ分析専任アナリストは、98~2000年にはわずか3人、2000~01年でも5人だけである。しかも、CTCのアナリストにはベテランがほとんどおらず、キャリア3年程度のビギナーばかりだった。
真珠湾攻撃は米国の陰謀で日本に攻撃させたのか、新発見があるたびにその真相が二転三転する。

9.11の真相も、単なる米インテリジェンスの油断だったのか、意図的な見逃しがあったのかは後の歴史家の間で激論となるであろう。

ただ、本書を読む限り・・・油断説だが、その裏に人員をわざと配置しない等の裏もあったかとなるとまだ真相はわからない。

WTC爆破といった陰謀論は陰謀ではなく妄想である。