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君が聞かれもしないのに
自分についてしゃべるとき


自分がどれだけがんばったかということや、
自分が成し遂げたことや、
自分が有名人と知り合いであることや、
自分の立派そうな職業について質問されてもないのにしやべる人。
君がそんな生意気な人になるのなら、
優れた人々から君は、「浅ましい」と敬遠されるだろう。
経集782

君が思い上がりの罠にかからないなら

君の心がくつろいで静かに安定しているのなら、
「私はこれをしてあげた」「私はこれほどの人物だ」などと、
自分の業績を誇ったりはしないはず。
君がものごとに成功したのちにも、思い上がりの罠にかからないなら、
優れた人々から君は、「心がきれい」と慕われるだろう。

経集783

愚か者が何かを成し遂げると

何がしかのことを成し遂げると、愚か者はすぐに、
「ねえ、私は、こんなことをしたんだよ」と言い、
「尊敬されたい」
「他人をペコペコさせたい」
「チヤホヤしてもらいたい」
と、物欲しさと浅ましさをむき出しにする。
「みんなに私のしたことをわかってほしい」
「みんなに私の言うとおりにしてほしい」
こんな幼稚な物欲しさにまみれつつ、
愚か者の欲望と傲慢さは
ぶくぶくと肥え太ってゆくだろう。

「誰々の」を忘れるハピネス

「この考えは僕のオリジナルさ」
「これはあの人の発案だ。負けたなあ」
フ」れはあいつの意見だ。けなしてやろう」
これら「誰々の」という狭い見方をすると、
君の心は、我他彼此(ガタビシ)と苦しくなる。
「自分の」。「他人の」。
このふたつを君が忘れ去ったなら、
仮に何も持っていなくても、
しあわせな心でいられるだろう。

自分の考えにこだわらない

自分の考えたアイディアにこだわって、
「私の考えは素晴らしい」と君がしつこく言い張るのなら、
必ず他人にいやがられて批判される。
誰かしら少数の人は納得して褒めてくれるにしても、
つきあいにくい人として敬遠される。

経集895

たとえ君の意見が認められたとしても

君が他人の前で自分の意見を言い張った結果として、
たまたま賛成してもらえたとするならば、
君は「ほIら、私は正しいでしょう」と優越感を刺激されるだろう。
うれしくなり興奮することにより、
そのぶんだけ傲慢な性格になってゆく。
経集829

勝ち負けにこだわらない

「引きわけだね」
「私のほうが優れている!」
「私のほうが劣っている……」
この三種類の思考に支配されると、君は相手を言い負かしたくなり、
いいがかりをつける。
たとえば、「あなたが途中で邪魔するから、仕事の手順が狂ったじや
ない」といったぐあいに、論争をふっかけて、安っぽいプライドを守ろ
うとする。
そして、お互い気分が悪くなる。
引きわけ」「勝ち」「負け」など無視して、まったく気にしなくなるな
らば、生意気な態度も言い争いもぱったり消えて、平和が訪れる。
経集841

競わない

争うこと、競争すること、戦うこと。
そこにはハッピーな人などひとりたりともいやしない。
勝利者が得るのは相手からの恨み。
敗北者はストレスでぐったりする。
ゆえに心を鍛えた人は、
勝敗を気にせず、
生意気な優越感もなく、
グジグジした劣等感もなく、
悠々とハッピーに過ごす。
法句経201

相手に合わせて柔軟に話す

マニアックな単語なんかに、こだわらないで話す。
「実存の絶え圭ない揺らぎ性が超越論的に構成された同一性により回収
される必当然性がナンタラカンタラ」
こんな哲学方言を言われても哲学オタク以外は「はあ?」となる。
「このビジネスモデルにおけるソリューションはあなたのモティベー
ションをシステマティックかつエレガントにキャッチアップします」
こんなビジネス方言で圭くしたてられたなら、ビジネスオタク以外は
「はあ?」となる。
「カーヤーにエッカーガタを向けサンマサンカッパでサティしなさい」
こんな仏教方言を言われても仏教オタク以外は「はあ?」となる。
地方方言なんかにこだわらず、人に合わせて柔軟に話すのが麗しい。
中部経典『無部分別経』

論争の誘いに乗らない

自分の考え方にしがみついている人が、「俺様の考えだけが真理であ
り、貴様は決ちがっている」と論争をしかけてくるなら、「なるほど、
そういう考え方もあるのですねえ。あなたがそう考えたくなる気持ちは
わかるような気がします」と言ってヒョイッとかわしてやるとよい。
相手が敵対しようとしてからんできていても、「あいにく、ここには、
自分の考えにしがみついてあなたに敵対するなんていう面倒なことをし
たい人はおりませんので」とばかりに肩すかしを食らわしてみるといい。
このように自分の考えへの執着を捨てるなら、論争にもとづく苦しみ
は消滅する。
経集832

非難でも賞賛でもなく、法則を語る

他人を褒めてプライドを刺激したり、他人を貶してプライドを剌激し
たりすることが、相手の心を混乱させることを知っておくように。
賞賛することも非難することもなく、「こうすれば、こうなるよ」と
法則のみを指摘するとよい。
たとえば瞑想修行をしている人に、「そういう欲望にふけった愚かな
瞑想法だと自分が苦しくなるだけですよ」という言い方をすると、それ
は非難となり相手をイライラさせる。
「あなたは、欲望にふけった愚かな瞑想法をせずに、苦しむことなく正
しい実践のしかたができていますね」という言い方をすると、それは賞
賛となり相手の心をうわつかせる。
そうした非難や賞賛のかわりに君が単に、「欲望にふけらない瞑想を
すれば、苦しむことのない正しい実践になりますね」という言い方をす
れば、シンプルに法則を語ることになる。
それが、相手のためになり君のためにもなるだろう。
中部経典『無謬分別経』

比べるという行為は人間として必要な行為だと思う。
比べるからこそ、人間は頑張り、活きようとするからだ。

そもそも仏教というのはいかに苦しみから逃れられるか?という問いからその思想が始まっている。

自ら働いて社会を発展させるのではなく、自らは働かず、頑張って働いている人の慈悲によって食べ物を得、自らを正当化させる者達の思想でもあるのだ。

では、ここに書いてある言葉を否定するかといえばそうではない。

日々いやな上司、傍若無人なお客、無理難題を言う取引先、そんなストレスだらけの社会で、皆頑張っているからこそ日本経済は成り立っている。

ブッタの言葉は怠け者には言い訳にしかならないが、働く我々にとってこそ、苦しみやストレスを中和する知恵でもある。