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フロイトは精神分析の見地から、「人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?」という問いに
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
と答えております。
フロイトは言います。文化の発展は人の心の有りように変化をもたらします。
p42~53
人間の衝動は二種類ある。一つは、保持し統一しようとする衝動。プラトンの『饗宴』に出てくる「愛」の話になぞらえ、これをエロス的衝動と呼ぶことができる。場合によっては、性的衝動と呼んでもよい(当然、ここで言われている「エロス」は、一般に言われる「性」という言葉よりも幅広いものを意味する)。もう一方の衝動は、破壊し殺害しようとする衝動。攻撃本能や破壊本能という言葉で捉えられているものである。

お気づきだとは思いますが、今述べた二つの衝動は、あまねく知られている愛と憎しみという対立を理論的に昇華させたものにすぎません。考えてみれば、これらは、古くから知られる引力と斥力という対立(物理学の領域に属する対立)の一つのあらわれかもしれません。

ただし、気をつけねばならないことがあります。ともすれば、こうした対立物の一方を「善」、他方を「悪」と決めつけがちなのですが、そう簡単に「善」と「悪」を決めることはできないのです。どちらの衝動も人間にはなくてはならないものなのです。二つの衝動がお互いを促進し合ったり、お互いに対立し合ったりすることから、生命の様々な現象が生まれ出てくるのです。一方の衝動が他方の衝動と切り離され、単独で活動することなど、ありえないように思えます。どちらの衝動にしても、ある程度はもう一方の衝動と結びついている(混ぜ合わされている)ものなのです。一方の衝動の矛先がもう一方の衝動によって、ある程度変わってしまうこともあります。それどころか、一方の衝動が満たされるには、もう一方の衝動が必要不可欠な時すらあるのです。

例を挙げましょう。自分の身や自分の命を保持したいという衝動は、間違いなくエロス的なものです。ですが、攻撃的な振る舞いができなければ、自分の身を保持することなどできません。愛の衝動というものは何かの対象に向けられているものですが、その対象を手に入れようと思えば、目の前のものを力ずくで奪い取ろうとする衝動が必要になります。両者が結びついているもろもろの現象において二つの衝動を分離するのがきわめて難しかったからこそ、二つの衝動の本性を見抜くことがなかなかできなかったのでした。

私の話にもう少しおつき合い願えるでしょうか。実は、人間の行動はさらに複雑なものなのです。エロスと破壊衝動が結びついてできあがった一つの衝動によって、行動が引き起こされることなどきわめて稀なのです。ほとんどの場合、エロスと破壊衝動が結びついた衝動、それが幾つも合わさって、人間の行動が引き起こされるのです。

このことには、一八世紀の物理学者ゲオルクークリストフーリヒテンベルクがすでに気づいていました。リヒテンベルクはゲッティングン大学で物理学を講じていましたが、物理学者としてよりも、心理学者として大きな業績を残したと言えるのではないでしょうか。彼の言葉を聞いてみましょう。「人間を行動に駆り立てる動機を分類するのは、言ってみれば、風を三二の方向に分類するようなものです。名前のつけ方にしても、風の方向と同じような調子で行うことができます。生活の糧=生活の糧=名声や名声=名声=生活の糧といった調子です」 こうしてリヒテンベルクは、人間の行動を引き起こす複雑な動機についての理論を打ち立てたのです。

すると、人間が戦争に駆り立てられるとしたら、様々なレベルの動機、数多くの動機が何らかの形で戦争に賛同していることになります。高貴な動機も卑賤な動機もあれば、公然と主張される動機も黙して語られない動機もありますが、多くの動機が戦争に応じようとしていることになるのです。人間を戦争に駆り立てる動機をここで列挙することはできないにしても、攻撃や破壊への欲求がその一つに数えられることは間違いありません。

過去の歴史の中にあらわれる無数の残虐な行為、日常生活に見られる夥しい数の残虐な行為を見れば、人間の心にとてつもなく強い破壊衝動があることがわかります。

この破壊への衝動に理想へのアピールやエロス的なものへのアピールが結びつけば、当然容易に破壊行動が引き起こされます。過去の残酷な行為を見ると、理想を求めるという動機は、残虐な欲望を満たすための口実にすぎないのではないかという印象を拭い切れません。また、異端審問の残虐さなどを目にすると、こう思われてきます。理想や理念を求めるという動機が意識の前面に出ているのは間違いないが、破壊への衝動が無意識のレベルに存在し、それが理念的な動機を後押ししているのだ、と。どちらも十分ありうることです。

貴方のご興昧が私たちの理論ではなく、戦争の防止にあるのは承知しております。ですが、今しばらく精神分析の衝動理論におつき合い願いたいと思います。これまで衝動理論に関心が向けられたとしても、衝動理論の重要さに見合うものだったとは言えないからです。

様々な思索を巡らした末に精神分析学者は一つの結論に達しました。破壊への衝動はどのような生物の中にも働いており、生命を崩壊させ、生命のない物質に引き戻そうとします。エロス的衝動が「生への衝動」をあらわすのなら、破壊への衝動は「死への衝動」と呼ぶことができます。「死への衝動」が外の対象に向けられると、「破壊への衝動」になるのです。生命体といえども、異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていくのです。しかし、破壊への衝動の一部は生命体へ内面化されます。精神分析学者たちはこの破壊衝動の内面化から、たくさんの正常な現象と病理学的な現象を説明しようとしました。それだけではありません。冒涜的なことに聞こえるかもしれませんが、精神分析学者の目から見れば、人間の良心すら攻撃性の内面化ということから生まれているはずなのです。

お気づきでしょう。このような内面への攻撃が大規模に行われるなら、ゆゆしき問題となります。ですが、攻撃性が外部世界に向けられるなら、内面への破壊が緩和され、生命体に良い影響を与えます。とすれば、どういうことになるでしょうか。私たちが反対してやまない人間の危険で醜悪な振る舞い、それを生物学的に正当化してしまうことになるのです。生物である以上、仕方がないという言い訳を与えてしまうのです。危険で醜悪な行為に抗うよりは、そのような攻撃的な行為に身を任せるほうが自然だということになるのです(こうなると、私たちが危険で醜悪な行為に対して不快感を覚えるのはなぜかを説明しなければならなくなるでしょう)。

ここまでの私の話を聞いて、どういう印象を持たれるでしょうか。おそらく、精神分析は一種の神話にほかならないと思うのではないでしょうか。

しかも、陰影な神話としか思えないのではないでしょうか。とはいえ、自然科学というものはすべて一種の神話にたどり着くのではないでしょうか。
物理学はどうでしょう。今日ではやはり神話と化しているのではないでしょうか。
以上の議論から、どういう結論が出てくるでしょうか。当面のテーマとの関連で言えば、こういう結論です。
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
なるほど、地球は広大で、自然が人間の望むものを十二分に与えてくれている場所があるとも言われます。そのような土地には、穏やかな生活を送る種族、強制や攻撃などとは縁のない種族が住んでいると言われます。

しかし、そのような人間たちがいるとは、私にはやはり信じられないのです。もし本当にいるのでしたら、彼らについてぜひとも詳しく知りたいと思います。考えてみれば、共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予想していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヅイキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヅイズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。

ともあれ、貴方もご指摘の通り、人間の攻撃性を完全に取り除くことが問題なのではありません。人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです。戦争とは別のはけ口をみつけてやればよいのです。

ですから、戦争を克服する間接的な方法が求められることになります。
そして、精神分析の神話的な衝動理論から出発すれば、そのための公式を見つけるのは難しくはないのです。人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊衝動のなせる難だとしたら、その反対の衝動、つまりエロスを呼び覚ませばよいことになります。だから、人と人の間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはずなのです。

実は、この感情の絆には二つの種類があります。
一つは、愛するものへの絆のようなものです。ただし、絆の相手にむき出しの性的な欲望を向けている必要はありません。ここで「愛」を持ち出したわけですが、精神分析がそのことにやましさを感じることはありません。宗教でも言われているではないですか。汝、隣人を汝自身のごとく愛せよ! 素晴らしい言葉です。しかし、言うは易く行うは難しです。
もう一つの感情の絆は、一体感 や帰属意識によって生み出されます。人と人の間に大きな共通性や類似性があれば、感情レべルでの結びつきも得られるものなのです。こうした結びつきこそ、人間の社会を力強く支えるものなのです。

ところで、貴方は誤った権威の使い方についても言及しました。その批判に関連して、戦争への欲求を間接的に克服する二つ目のヒントを述べたいと思います。

人間は指導者と従属する人間に分かれます。人間というものに生まれつき備わっている性質からして、二つのグループに分かれるのであり、これはいたしかたないことです。どれほど、この差をなくそうとしても、それは無理なことです。人類の圧倒的大多数は、指導者に従う側の人間なのです。彼らには、決定を下してくれる指導者が必要なのです。そうした指導者に彼らはほとんどの場合、全面的に従うのです。

ここで一つ指摘しておかなければならないことがあります。優れた指導層をつくるための努力をこれまで以上に重ねていかねばならないのです。自分の力で考え、威嚇にもひるまず、真実を求めて格闘する人間、自立できない人間を導く人間、そうした人たちを教育するために、多大な努力を払わねばなりません。言うまでもないことでしょうが、政治家が力尽くで国民を支配したり、教会が国民に自分の力で考えることを禁止したりすれば、優れた指導層が育つはずがありません。

では、どのような状況が理想的なのでしょうか。当然、人間が自分の衝動をあますことなく理性のコントロール下に置く状況です。このような状態にたどり着けば、感情の絆は消えるかもしれませんが、人間の社会はいつまでも完全な一体化を見せるに違いありません。しかし、このようなことが可能なのでしょうか。夢想的な希望にすぎないとしか思えません。

戦争を防止する他の方法は間接的なものとはいえ、ずっと現実的で人間が実際に歩みうるものです。ただし、すぐに戦争を根絶させることができるとは思えません。そのことを考えると、悲しい比喩が思い浮かんできてしまいます。ゆっくりと回る製粉機――小麦粉ができる前に人が飢えて命を落としてしまうような製粉機 ―― が浮かんできてしまうのです。

おわかりでしょう。現実の緊急の課題を解決しようとするときに、世俗に疎い理論家に相談してみても、あまり多くのことは得られないのです。個々の具体的なケースにおいては、理論家に相談するよりも、手元にあってすぐに使える方法で対処するほうが望ましいのではないでしょうか?

フロイトは完全に望みを捨てているわけではありません。文化が発展するにつれ、人は戦争に憤り、嫌悪するようになっている、とフロイトは言います。文化の発展は人の心の有りように変化をもたらします。
P59
すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか? この問いに明確な答えを与えることはできません。
…しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。
文化の発展を促せば、戦争の終焉に向けて歩みだすことができる!
まあ、特亜諸国のように反日を国民に植え付けるような国が有る限り、世界平和は達成できない。

このフロイトの指摘を東京裁判史観から未だ覚醒していない護憲論者は耳を傾けるべきだろう。

人間から攻撃的性質を取り除くことはできないのである。我々日本人がいかに平和を好む民族であったとしても、戦前のナチスのように領土を拡大しようとする中国に対しては、平和憲法で臨んでも何等解決できないことは明白である。

消費税などにうつつを抜かしている暇はない、文化が発展していない国々が周辺諸国ににある限り、戦争を防止する為には今すぐ不当な暴力から国民を守る為の戦争ができる憲法に改正すべきと私は思うのです。