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また、痛ましい通り魔事件が起きた。本当に痛ましいです。亡くなったお二人の方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。特に亡くなった音楽プロジューサー南野さんには妻と6歳、5歳、2歳の3人の娘がいるという。幸せな家族が一転本当に痛ましい。ご遺族の方々にかける言葉もみつかりません。謹んで哀悼の意を表します。
このような悲惨な事件が起きたとき、我々はいったい何に怒り、怒りはどこにぶつけたらいいのか?日本の社会は、おかしむなってしまったのか?いったい日本はどうすべきか。社会はどうあるべきか?つい自問自答したくなる。

それにしてもおかしな話ではないか!刑務所に入っていたときは住む所と三食ご飯がついているのに、娑婆(社会)に出たら不安で不安でしかたがない。死にたくなるくらい厳しい社会で絶望し死にたいという。犯人は再び刑務所に戻りたかったのだろう、人を殺して死刑になろうというという考えは短絡的すぎる。

何故、自分が死ぬ手段として、他の方法ではなく、他人を巻き添えにした無差別殺人をおこすという方法を選ぼうとおもう者がこうも沢山現れるのか。

池袋通り魔殺人事件秋葉原通り魔事件下関通り魔殺人事件土浦連続殺傷事件附属池田小事件・・・・京都祗園の暴走事件ももしかしたら一種の通り魔だったかもしれない。

か弱い子供を殺傷した 池田小学校事件の宅間守も、喜んで死刑になったという。

精神異常なのか?他人を道連れに殺人事件を引き起こすほどの絶望はいかなるものか?他人を巻き添えにした無差別殺人をおこすという方法を選ぼうとおもう者が現れるのか?

4月のはじめ、私は東急田園都市線の某駅で飛び込み自殺を目撃している。 お年よりだったらしいのだが、一瞬子供がホームから線路に堕ちたように見え、そこへ電車が侵入した。ホームに居た人々は一斉に背を向けたり身を縮め呆然としてしまった。電車が止まって時間も止まった。駅員が駆けつけ様子を見る。落ちたのは子供ではなかった、子供だったら親が半狂乱になっているはずだが、親らしきひとは居ず、他の目撃者の方は皆お年寄りだったとささやいていた。

一瞬でおきたことは何も対処ができない・・・この無差別殺人も周囲の人間も何も出来なかったのであろう・・・

一家心中も通り魔事件も鉄道自殺も全ては深い絶望がそうさせるのだと思う。絆、絆と叫ぶほど、日本には絆がなさ過ぎる事を悟ってしまう。このような事件は再び起こるであろう。

結局は社会が不景気だからなのかもしれないが、怒りと憎しみを共有するだけでは事件から何の教訓も得ることはできないのです。

私も営業職をしていて死にたくなるくらい逃げ出したいことが多々ある。でも必死に死なないことを選んでいます。

今の社会は、誰もが簡単に社会から落ちこぼれ、簡単に阻害される可能性があります。そして一度落ちたら簡単に這い上がれないようにな構造になっています。絶望は破壊的な衝動を生みます。

負の破壊的な衝動が、内へ向かえば自殺となり、外へ向かえば殺人となります。 

21世紀に入ってから、国民総被害者意識みたいな時代になってきているように思います。このブログでも民主党や護憲主義者が悪いとか、官僚が悪いとか中国が悪いとか・・・・確かに誰かを悪者にして心の平穏を保っているのかもしれない。

今日日本中各地で一億相被害者意識みたいな怒りがすごく多い気がします。 やはり日本の経済が失速したこととか、思うように人生を生きられないとか、将来への不安など、今の空気・時代背景があると思います。

小泉ポピュリスト内閣も、民主党政権になって以降も、小沢一郎や小粒な政治屋達は 世の中に媚びる政治家たちがそういう風潮を助長している。彼らはまるで政治がなんでも解決できるかのような言い方で、怒ったり謝ったりする。

怒りに媚びて、政治的に利用する。タチの悪い嘘です。怒れば怒るほど無力な存在になっていく。世の中を怒りが覆っている背景には、社会の激変があるでしょう。年功序列、終身雇用が崩れた。仕組みが壊れ割を食った人たちにしてみれば、すごく不愉快で、怒りが爆発するわけです。

負け組勝ち組もそうですが、そういう怒りが日本を分断し、人と人を分断させるんだと思います。分断すると協力し合うということがなくなる。被害者意識が生まれて足の引っ張り合いが始まったりする。 

大阪の事件の犯人は、出所してきたばかりで職も家も無かったそうです。
もし、私たちの社会が一旦社会からドロップアウトした人間をしっかりサポートする体制が必要です。なぜなら日本は共同体を消失したアノミー社会だからなのです

かつて、農村は村社会という共同体があって人々は不自由であったが帰属する安心感があった。武士は奉公する藩(家)が共同体であった。

日本には宗教が無く、規範が存在しなかった。宗教への帰属意識は無く日本は宗教的共同体がありません。明治維新で藩がなくなり知識層であった武士は共同体を失ってしまった。そこで新政府は天皇を一神教の神に仕立てることにより日本を擬似家族として共同体を保った。

第二次世界大戦を敗戦で迎え、天皇の人間宣言により人々は規範を失ってしまった。三島由紀夫の英霊の声では英霊が人間宣言した天皇陛下へ文句を述べている。

天皇陛下の人間宣言により規範を失ったが、農村では村社会という共同体が宗教に代わる善悪の規範を与え、都市部でもお天道様や世間様という共同体意識が残り善悪の規範が保たれていた。そして企業が擬似共同体として残っていた。

ところが経済成長により農村共同体が破壊され、都市部には農村より雑多な人が集まり都市共同体も消え去った。そしてバブル崩壊後の不況は年功序列や終身雇用といった日本的経営が保てなくなり企業の擬似共同体も破壊してしまいました。これで日本には規範を与える共同体は官僚や公務員ぐらいしかなくなり、日本には急性アノミー状態(無法律状態=アノミアー)になってしまった。

今の日本には規範を回復し、道徳を復活させるには共同体を再生する必要がある。ネットによるソーシャルネットワークもその答えのひとつかもしれないし、3.11以降の絆ブームも人々が共同体を再生したいと願う表れではないかと思うのであります。

私は、常々このブログで書いていますが、戦前のように天皇を家長とする擬似家族を再生するのも一つの答えかもしれないと思っています。



ゲマインシヤフト(共同体)が崩壊すると、人は「アノミー」=無規範(状態)あるいは無連帯(状態)に陥ることが多い。アノミーとは社会的状態だけでなく、それによって生ずる心理的危機をもあわせ意味するのが従来の用語法における慣用である。
 
社会学者のデュルケムは自殺について研究し、社会がアノミー状態のときに自殺率が上昇することを確認した。毎年3万人の自殺者を出す日本をアノミー状態であるで説明することは容易であろう。
 
現代目本における急性アノミーp162~165
\?\᡼\? 1現代日本における急性アノミーは、社会を根底からくつがえす契機を内包しているが、 その源泉は、①天皇の人問宣言、②デモクラシー神話の崩壊、③共産主義神話の崩壊の三者である。もとより、最も致命的であるのは①であり、②も③も、①の原形をたどりつつ急性アノミーに導かれたことに注目されるべきである。
 
つまり、戦後デモクラシーも共産主義も、天皇の人間宣言によって「失われた秩序の再確立」を目指したものではあったが、そのために必要た条件が満たされず、同様た過程をたどりつつ(逆コース。スターリソ批判および中ソ論争)崩壊したと思われる(本稿では、この点に関する分析省略)。ゆえに、以下では①に焦点を合わせて分析を進める。
 
戦前の日本において、「象徴としての、『天皇』は、或は、『神』として宗教的倫理の領域に高昇して価値の絶対的実体として超出し、或は又、温情に溢れた最大最高の『家父』として人問生活の情緒(ゲミユート)の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する。しかし又その間にあって、『天皇』は政治的主権者として万能の『君権』を意味していた」のである。ゆえに、天皇の人間宣言は、根本規範(グルントノルム)の否定であり、全宇宙の秩序の崩壊である。このことによって生じた急性アノミーは致命的なものとならざるをえない。そこで、頂点における天皇シソボルの崩壊によって、「国民の国家意識は、・・・・その古巣へ、つまり社会構造の底辺をなす家族・村落・地方的小集団のなかに還流」することにたる。

このことによってのみ、致命的な急性アノミーによって生じた「孤立感と無力感を癒し」、「大衆の心理空白を充たす」ことが可能であるからである。いかにも、村落共同体(およびそれを原形としてつくられた集団)こそ、底辺から天皇制を支えた日本の基底であった。

ところが、村落共同体もまた安住の地ではありえない。すでに村落共同体は、身分秩序と共同体的生産様式に内在する矛盾の展開により解体の危機に直面していたが、終戦とともに、確実に解体を開始する。そして、この解体過程を全面的なものとし決定的に加速化したものこそ、高度経済成長のスタートである。 
 
共同体的機能集団への再編解体した村落共同体にかわって、組織とくに機能集団が運命共同体的性格を帯びることにたる。これを、共同体的機能集団と浮ぶ。このことこそ、現代日本の最大の組織的特徴であり、現代の危機の構造も、かかる杜会学的特徴をもった共同体的機能集団の独特な運動法則によって規定される。

この、共同体的機能集団こそ、大日本帝国の組織的特徴たる頂点における天皇制的官僚機構と、底辺における(村落)共同体的構造とを再編し、一つに統合するものである。

丸山真男教授は、「日本の近代国家発展のダイナミズムは、一方、中央を起動とする近代化が地方と下層に波及・下降して行くプロセスと、他方、右のような『むら』あるいは『郷党杜会』をモデルとする人問関係と制裁様式…が底辺から立ちのぽってあらゆる国家機構や杜会組織の内部に転位して行くプロセスと、この両方向の無限の往復から成っている」とし、大日本帝国の特徴を、頂点における天皇制官僚機構と、底辺における共同体的構造とその社会的媒介としての共同体を基礎とする地主=名望家支配としてモデル化し、意識的にその結合をイデオロギー化したのが、いわゆる家族国家観であるとする。たお、このような大日本帝国は、「官憲国家としての身分秩序と資本主義経済という相互に矛盾した契機の微妙な均衡を基礎」としつつ存立しえたともいえよう。
 
現在においては、共同体的身分秩序と資本主義的機能集団(としての要請)という相互に矛盾した契機の微妙な均衡は、この共同体的機能集団という同一の集団に基礎をおくこととなる。


今日の日本社会では会社ですらゲマインシヤフト(共同体)ではなくなってしまい、宗教も無い日本は、真性のアノミー状態にあるといえよう。
  
相互扶助は、ある程度政府主導、地方自治体が担わなくてはならない状態にある。従来の共同体への参加は自由意志で行うものではなく、生まれ育ったか、企業による共同体のように、一生忠誠を誓う組織に参加したか否かであった。
 
今後日本が再構築すべき共同体は、町内会的なものなのか、NPO、市民ボランティアなのか未だ見えない。可能性としてはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)によるゲマインシヤフト(共同体)の再構築もありえるが、少々非現実だ。まさにバーチャル!
 
政治レベルで、ゲマインシャフルト(共同体)の再構築を提案を行い、日本社会のグランドデザインを書き換えようという時期にきているのではないだろうか?
 
私、個人的意見としては、憲法を改正し、自主憲法を制定することだろう。天皇陛下を中心とした擬似家族的社会の復活、教育勅語を現代語にて復活させ規範を与える事こそ、日本社会復活の最も近道かもしれないと思うのであります。