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p202-205
「それが私の心だ」

日本経済新聞が「A級戦犯靖国合祀、昭和天皇が不快感」の大みだしで富田メモをスタープ報道したのは、二〇〇六年(平成十八)七月二十日である。メモの記録者である富田朝彦(一九二〇-二○○三)は警察官僚の出身、一九七四年宮内庁次長、七八年五月から昭和天皇が崩御した半年前の八八年六月まで宮内庁長官の職にあった。

残された在任中の日記とメモを未亡人が旧知の井上亮記者を通じ日経新聞へ託したのが○六年四月で、社内チームが読解に当り、半藤一利と秦(著者)の検証を経て公開した。私たちは一読して徳川元侍従長の回想録などの既存情報と符合し、「やはりそうだったのか」の思いを深め、全体として天皇の肉声を伝える第一級の歴史的記録と判定する。

とくに各方面で衝撃的な反響を呼んだのは、八八年四月二十八日に昭和天皇がA級合祀について語った部分であった。次にメモの原文をそのまま引用したい。

私は 或る時に、A級が合祀されその上松岡、白取(ママ)までも、が、
筑波は慎心に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない、それが私の心だ

 同じ紙面に私が寄せたコメントは「富田氏は政治的な動きをつつしむ気配りの人だったようだそれだけにメモの信頼性は高いと思う。昭和天皇の靖国神社不参拝問題は関係者の証言が乏しく憶測で議論が続いてきたが、今回、決定的とみられるメモが出てきたため、今後はこの〈事実〉を踏まえた議論になるだろう」というものだった。

しかし公開直後は有力な識者の間でもネガテ「多くの人は、見たいと欲する現実
しか見ない」(ユリウスーカエサル)という警句を思いだした。
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私も当初富田メモの信憑性を疑った、だが、富田メモが正しいという決定的な証拠が出た、「ト部亮吾侍従日記」である。私も富田メモを疑ったことを自己批判してする。現在は富田メモの信憑性を信じている。

p207-211
「ト部亮吾侍従日記」(朝日新聞社2007年)で、富田が天皇発言をメモした同じ日(一九八八年四月二十八日)の項に、「お召しにあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発旨のこと」と記されていた。
徳川発言説は最終的に否定されたわけである。関連して二〇〇一年七月と八月のト部日記には、ダメ押しともいえる二つの記事が見つかった。

日記の七月三十一日には「朝日の岩井記者来……靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と、八月十五日にはその日の朝日新聞朝刊、が「陛下は、合祀を聞いた時点で参拝をやめるご意向を示されていた」という元側近談を報じたことについて、「合祀を受け人れた松平永芳は大馬鹿」と書きこんでいた。

もうひとつの新資料は、昭和天皇の作歌を指導していた歌人岡野弘彦が、○六年末に刊行した『昭和天皇御製 四季の歌』の記述である。それによると、徳川侍従長が八六年秋、持参した御製三、四十首のなかに、
この年のこの日にもまた靖国の
みやしろのことにうれひはふかし
(一九八六年八月十五日)
という歌があり「何をどう憂いていられるのか」を尋ねると、徳川は次のように答えたという。

ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を表していられました。ただ、後年、その人達の魂を靖国神社へ合祀せよという意見がおこってきた時、お上はそのことに反対の考えを持っていられました。 その理由は二つあって・・・戦士した人々のみ魂を鎮める社であるのに、その性格が変ると、
もう一つは、あの幟争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとお考えなのです……お上のお気持は、旧皇族のご出身の筑波宮司はよくご承知で、ずっと合祀を押さえてこられたのです、が……松平宮司になるとすぐ、お上のお耳に入れることもなく合祀を決行してし まいました。それからお上は、靖国神社へ参拝なさることも無くなりました。

やや舌足らずの感がなくもない富田メモの核心部分は、徳川の回想録やその後の新資料によって裏付けられ、補足されたと言えよう。すなわち昭和天皇と筑波宮司は対内、対外的配慮からA級合祀に反対であり、松平宮司は「ご内意」を知りつつ、あえて合祀を強行した。そのやり方に不快感というより怒り、嘆きを抱いた昭和天皇は、親拝の中止で翻心を期待した、が、松平に応じる気がなかったのは明らかだ。
富田メモやト部日記を通読しての推測だが、最晩年の昭和天皇がもっとも気にかけ、望んでいたのは沖縄訪問と靖国参拝の再開ではなかったかと私は思う。八八年五月二十日の富田メモにも走り書きながら、四月二十八日のメモとほぼ同主旨の天皇発言があり、参りたくても行けない悩みを富田に伝えておこうとする強い意志を感じるというのが、研究委員会メンバーの共通した見解であった。富田がメモを生前に焼却しなかったのも、昭和天皇の遺志を伝えたいと考えてのことだった可能性も捨て切れない。

十数回に及んだ富田メモの研究委員会で議論を重ねても、なかなか解釈が一致しなかったのは「親の心子知らず」のくだりだった。なにしろ最後の宮内大臣だった松平慶民の日記や資料を継嗣の永芳が焼いてしまい、宮内庁が進めている『昭和天皇紀』の編纂事業に支障を来しているくらいだから、慶民の言行、とくに「平和に強い考があった」かどうかを検証するのは容易でない。

しかし「私心が全く無く、美しい勇気を持ち、天皇の信任が厚かった」(入江相政)ことを推測させる情報は、いくつか見つかった。ひとつは一丸四六年から四八年にかけ天皇退位問題が盛んに論じられていたときの事情を、天皇が稲田周一侍従長に語った記録で、「もし退位した場合は……靖国神社の宮司にまつりあげて何かしようとしている人々もあるとの噂もあり、又摂政になると予期して……動きを見せた皇族もあるから、退位はなさらない方がよいと言ってくれたのは松平慶民言だったというのである。

退位すべきかどうか迷っていた昭和天皇は、この頃には「熟慮の上、苦難に堪え日本再建に尽す決意」を固めていたが、芦田首相をふくむ有力な退位論者は少なくなかった。慶民、が天皇の思いに沿って冷静に手を打ったようすが窺える。四八年四月には、GHQ民政局の意向を受けた芦田首相が松平と大金侍従長の同時更迭を求めるが、昭和天皇は二人とも「よく気が合う」のでと、すぐには承知せず、吉田茂(前首相)は慶民の留任を訴えた手紙をマッカーサー元帥へ送った。

後任の候補は三転、四転する。天皇と松平は小泉信三を希望したが芦田は賛成せず、候補は金森徳次郎、南原繁、堀内謙介と転々して最終的に田島道治へおちついた。
A級合祀はいっのまにか、「ゴルディアスの結び目」さながら解きがたい難題とないてしまった。それを解きほぐすカギは、まだ見つかっていないようである。

私は靖國神社の英霊達に心から感謝をしています。
しかし、A級戦犯の合祀は松平宮司が暴走した感があり、残念でなりません。
昭和天皇のお心内を考えると、松平宮司への静かな抗議が神社への参拝の停止です。

ご神体となってしまったからには今更分社化すると、禽獣国家中国・朝鮮の圧力に畏くも神国日本の神を冒涜したことを認めてしまうことになる。合祀したことは残念であるが現状維持を続けるしかないであろう。