<11月20日>(火)

フォーリンアフェアーズ誌に、久々に目が覚めるような論文が掲載されている。といっても、わずか6ページの巻頭エッセイなのだが、"Broken BRICs"という。「BRICsって、もう終わっちゃったよ。新興国が台頭して先進国と並び立つ時代が来る、なんてもう忘れた方がいいんじゃないの?」と言っている。この雑誌は、5年に1回くらいの割りで、「文明の衝突」とか「アジアの奇跡という神話」とか、時代を画するような論文を載せる。これもまた、いろんな意味で目からうろこの指摘だと思う。概ね、以下のようなことを言っている。

●エマージング市場の概念は実は新しく、1980年代半ば以降である。台湾、インド、韓国などが矢継ぎ早に外資に門戸を開放し、1994年まではブームが続いた。新興国市場は世界の証券市場の1%から8%にまで急増するが、1994年のメキシコ危機でブームは終焉する。そして2002年までは途上国のGDPシェアは下落する。中国だけが例外だった。エマージング市場、なんてことはほんの1か国で起きたに過ぎない。

●第2次ブームは2003年に始まった。新興国のGDPシェアは20%から34%に駆け上がった。2008年の国際金融危機の落ち込みは、2009年に大方盛り返したものの、そこからが低成長になっている。過去10年のような手軽なマネーと底抜けの楽観主義がなければ、新興国市場は今後は低迷する公算が高い。、

●BRICsという概念ほど混乱を招いたものはない。4か国に共通するものはほとんどない。ブラジルとロシアは資源国、インドは消費国だ。中国を除けば、互いの貿易の結びつきも少ない。2000年代が例外であっただけで、1950年代のベネズエラ、1960年代のパキスタン、1970年代のイラクのような成長は、いずれも長続きはしなった。最近流行の経済予測は、中国とインドが世界のGDPの半分を占めていた17世紀を振り返って、「アジアの世紀が来る」と言っているようなものだ。

●向こう10年、日米欧は低成長だろう。が、中国経済もまた3~4%に成長は鈍化する。農村部の過剰労働力が消える「ルイスの転換点」はもう近づいている。中国がアメリカを抜き去るという懸念は、かつての日本がそうであったように杞憂に終わるだろう。中国や他の先進国の成長が減速すれば、ブラジルなどの輸出主導型成長も止まる。今後、新興国市場が一斉に伸びるということはないだろう。

●新興国市場の成長がばらつき始めると、国際政治も変わることだろう。西側は自信を回復し、ブラジルやロシアは輝きを失う。中国の統制主義的、国有資本主義の成功も怪しくなるだろう。人口動態による配当という考え方も疑問を持たれる。かつてはアジアは日本を、バルトやバルカン諸国はEUを、そしてすべての国がアメリカを目標としたものだ。しかし2008年危機はこれらのモデルの信頼性を失わせた。(略)

●つくづくこの10年が異常であり、こんなことはもう起きないだろう。一人当たり所得2万~2.5万ドルの世界で、今後10年で伸びそうなのはチェコと韓国だけだ。1万~1.5万で期待できそうなのはトルコと、ひょっとしたらポーランドくらい。5000~1万ドルではタイがほぼ唯一の有望株で、あとはインドネシア、ナイジェリア、フィリピン、スリランカ、あとは東アフリカくらいか。先進国の水準に到達する国はほんの一握りであろう。


○言っていることは、実は常識的なことである。ただしその意味するところは重い。2003年に始まったBRICsブームは、ちょうど10年で終わったかもしれないのだ。そしてBRICsという言葉を発明したのはゴールドマンサックスであったが、この論文を書いたRuchir Sharmaは皮肉なことにモルガンスタンレーの人物である。はたして2013年は新興国ブーム終焉の年になるのか。(略)
私はおそらく日本で最初にBRICsは幻想にすぎないと主張していたと思う。

以下2008年10月の記事である。


④にてBRICs諸国に、はたして資本主義の『精神』が存在しているのであろうか?と論じた再度掲載する。



資本主義の『精神』とはドイツの社会学者マックス・ヴェーバーによって1904年~1905年に著された「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」において述べられた、資本主義経済の発展の鍵である。

プロテスタンティズムの倫理が、資本主義を興隆させたという話を知らずして、資本主義を語ることはできない。私も原書で読んだのではなく、岩波の文庫本を読み、それだけでは理解できず、山本七平「日本資本主義の精神」を読み、次に小室直樹の「日本資本主義崩壊の論理」を読み私は理解したつもりになっています。

資本主義とは近代社会が自由にどん欲な利益追求をもたらしたのではない。ヴェーバー曰く、「決して近代人だけが、欲深なわけではなく、利にさといのは人の常である」。どんな時代や国においても、みな限りない欲望(金銭欲)がある。

中国の最初の王朝は「殷」であるが、「商」とも呼ばれ、商売こそが中国の基礎であった。イスラム諸国も、シンドバットの時代から商売上手で、西欧諸国よりも、資本主義成立の条件は整っていたかもしれない。

どん欲さが資本主義を生むなら、いたるところで、資本主義が生まれたはずだろう。1900年当時も中国やインドの方が人口や資源に恵まれていた。にもかかわらずなぜ、当時イギリス・ドイツ・オランダ・ベルギー・北部フランス・アメリカなどのプロテスタントの国だけに資本主義が成立し、繁栄していたのであろうか?人口や資源だけで論じたのであれば、中国やインド、アラブ諸国は、西欧諸国より早く資本主義が成立していてもおかしくはなかった。なぜか?「資本主義の精神」が存在しなかったからである。

ヴェーバーが言う資本主義の精神とは、単なる利益追求や権力や名誉を得る為利益を貯めのものではない。
岩波文庫P342
プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。ピュウリタンをはじめとして、クエイカー派の偉大な護教者バークリーが明らかに証言しているように、肉の欲、外物への執着との戦いは、決して合理的営利との戦いではなく、所有物の非合理的使用に対する戦いなのだった。
資本主義の精神を構成する最も重要な要素は何か。

勤勉に働くのは実は人間の自然状態ではない。資本主義の精神その最も重要な一部分を一言でいえば、それは「勤勉の精神」である。それは、労働を神聖なる宗教的行動とする精神である。とは言っても、それは、全世界をその中に内包するほどの深遠なる意味を有する。労働こそ、いちばん大切な人間行動である。人間は、その人がなす労働によって評価されるべきものである。

また、資本主義の精神とは、利益追求あるいは具体的行動として経済合理性をコントロールする精神のことであり、野放しの貪欲な利益追求は資本主義ではない。

略奪や戦争によって利益を得る、相手を騙して利益を得る、奴隷を酷使して利益を得る。これらはけして資本主義とはいえないのである。単なる儲け主義であるならば、近代以前からずっと存在していたのである。

貪欲な利益追求の果てに金融危機に至ったウォール街は資本主義の精神と乖離していたと私は思ったのだが、小室直樹は、「日本資本主義崩壊の論理」において、
アメリカ病とは、資本主義の精神の欠如による経済の病気ではない。不足、未成熟によるものでもない。資本主義の精神は十分にあるのだが。いやあり余って、燗熟しすぎて腐熟し、腐臭を発しているような経済のことをいう。そのことによって発する経済的病気のことをいう。ソ連病が資本主義の精神の不熟に由る病気だと言えば、アメリカ病は資本主義の精神の腐熟に由る病気と言うべきか。まことに、対蹠的な病気ではある。
ウォール街は資本主義精神の過剰であったか・・・。
一度資本主義が成立すれば、資本主義の精神はご用済みであるとも小室先生は述べている。

ゴールドマンサックスのレポートにあるように、2050年にはBRICs経済が発展し、本当に中国が世界一の経済大国に本当になれるのであろうか?

毒入りギョーザに続き、毒入りインゲン、メラニン混入、次々と信じがたい事件が止むことがない中国に、マックス・ヴェーバーの言う 資本主義の「精神」など存在するとは思えない。

キリスト教国ではない日本にも資本主義の「精神」は存在しないという議論はここでは避けたいが、山本七平「日本資本主義の精神」に記してあるように、江戸時代の思想家鈴木正三の説いた「農業即仏業なり」「何の事業も即仏行なり」の労働の宗教行為化と、禁欲的精神による事業の再生産が資本の蓄積をもたらし、資本主義を成立させたのである。

中国は、日常的に相手を騙して利益を得る社会環境において、資本主義の精神は育まれるとは思えない。共産党の特権階級(貴族)が農村出身の「民工」という名の低賃金「奴隷」を酷使して利益を得る姿は前近代的である。チベットや南シナ海域の島々を略奪して利益を得る、姿は帝国主義ではあるが、資本主義的精神の欠片はまったく見あたらない。

ヴェーバー曰く「富を目的として追求することは邪悪の局地としながらも他方(天職である)職業労働の結果富を獲得するのは神の恩恵だ。この宗教思想からの経済的結論として、禁欲的節約強制による資本形成がなされるのである」資本形成こそ資本主義の要諦であり、拡大再生産し、発展し、成長するのである。

中国の富裕層は伝統的に富を蓄積はするが浪費し、資本主義的節制に程遠いイメージである。中国の庶民は高い貯蓄率にも表れているように奴隷労働の結果資本蓄積を行っているように見えるが、政府共産党の失政により、本当に中国の銀行にその資産が蓄えられているか疑問である。

ロシア。中国と同じく富裕層の資本主義精神の欠如は同類、庶民に至っては目的合理性の精神は見当たらず、石油・天然ガスによる開発独裁経済にすぎない。

カトリック系のラテンの国ブラジルは快楽主義ではあってもプロテスタント的禁欲主義には程遠い。同じくインド、カースト制を克服できない国に資本主義は根づくとは思えない。

アメリカという亡霊資本主義国の没落は、こういった資本主義の精神の欠如するBRICs諸国の拡大再生産は期待しない方が無難と考える。

経済を離陸させるにはその燃料となる新たなるマネーの存在が必要不可欠であるにもかかわらず、金融工学により創造されたデリバティブや、ヘッジファンドといったニューマネーは失墜し、今後BRICs諸国のテイクオフに必要なマネーという燃料が供給されていく保証は無い。

BRICs諸国に私の認識不足で資本主義精神が根付いていたならば亡霊資本主義国が没落しようと関係なく経済は離陸することはできよう。しかし、単に人口が多い、資源がある、成長率が高いことだけをBRICs発展の根拠とする門倉貴史の世界観は、非常に未熟としか言いようが無い。(略)

以上
2008年10月に私が書いた記事ではあるが・・どうだ!という気分でいっぱいである!