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本書は超人類の誕生を一つのテーマとしている。 本書のピグミーの子供の超人類ヌース (アキリおよび姉エマ)は、完璧な神に近い「2001年宇宙の旅」の宇宙船コンピューターHAL9000を髣髴とさせます。
超人類とは著者の鬱屈した人格が解放されるメシアではないかと私は思った。

著者は日本人を憎む日本人であるだけでなく、超大国米国を憎み、資本主義も憎んでいるかもしれない。だが、この世界は資本主義であり、著者は今の平和な社会は先達達が犠牲となって、平和とは、誰かが悪役となって維持されていることに理解をしない、単なる偽善者である。

p214-219
 アーサー・ルーペンスが幼稚園の入園テストを受けた時、彼の両親は園長に呼び出され、「お宅の息子 さんのIQは測定不能です」と告げられた。もちろん、それが良い意昧での「測定不能」であったために、メリーランド州で小規模のレストラン・チェーンを経営する父と専業主婦の母は大いに喜んだ。

(略)

ところが周囲の期待とは裏腹に、ルーペンスが自分の能力を見限るのも早かっか。十代半ばを前にして、すでに自分は独創性に欠けていると気づいていた。先人たちが打ち立てた学問的業績を受け継ぐことはできても、そこに革新的な知見を加えることはできない。人類の歴史において、高度な科学文明を築き上げてきたのは天才たちの頭脳に宿った一瞬の閃きであり、そのような天啓を受け取るアンテナが自分の頭には立っていないことを、人生の早い段階で悟ったのだった。

そんな訳で、十四歳でジョージタウン大学に進学したルーペンスは、自ら神童の座から降りて秀才の地位に収まった。(略)彼を魅了したのは科学史だった。紀元前六世紀の自然哲学の誕生から二十世紀の理論物理学の発展まで、人類が集積した知の全貌を辿る旅は、何物にも代え難いほどの面白い娯楽となった。 (略)

勉学については申し分のない学生生活だったが、その他の面では最悪だった。ルーペンスの若さと頭脳、それにプロットに彩られた端整な顔立ちは、年長の学生たちの嫉みを買うのに十分なほど突出していた。悪ふざけを仕掛けてくる年上の同級生の眼の底には、いつも拭い難い敵意が潜んでいたし、とりわけ閉口したのは、童貞であることを殊更に強調されることだった゜嫉妬にまみれた男たちの、冗談めかして本気で他者を低めようとする醜い笑顔を何度も見せつけられているうち、ルーベンスは一つの傾向に気づいた。知的に劣る男ほど、性的な面で優位に立とうとするのが歴然と見て取れたのだった。ルーベンスが女子学生と親しくしようものなら、嫌がらせはより陰湿になった。愚かな男たちの姿は、大きな角を突き合わせてメスを奪い合う獣の姿を連想させた。

以来、ルーベンスは、残酷な観察者となった。愚鈍を装い、他人の悪意に気づかぬ振りをして接していると、相手はますます図に乗って心の中の獣性をさらけ出してくる゜すべてを見透かされているとも知らずに、自分たちが動物の一種であってそれ以上の存在ではないことを自ら暴露する。 

ルーベンスの見たところ、社会生活の中に見られるあらゆる競争の原動力は、ただ二つの欲望に還元されるようだった。食欲と性欲だ。当人よりも多く食べ、あるいは貯め込み、より魅力的な異性を獲得するために、人間は他者を低め、朧落とそうとするご獣性を保持した人間ほど、俯瞰や謀略といった手段を用いて、組織と名付けられた群れのボスにのし上がろうとする”資本主義”が保障する自由競争は、こうした暴力性を経済活動のエネルギーヘとすり替える巧妙なシステムなのだ。法で規制し、福祉国家を目指さない限り、資本主義が内包する獣欲を抑え込むことはできない。とにかくヒトという動物は、原初的な欲求を知性によって装飾し、隠蔽し、自己正当化を図ろうとする欺瞞に満ちた存在なのだった。

大学に入ってから六年後、二十歳の若さでルーべンスは数学基礎論の研究で哲学の博士号を取り、女性の美しさと優しさを初めて肉体的に知り、それから住み慣れたジヨージタウンを後にした。ロスアラモス研究所で博士研究員(ポスドク)として働へさらに複雑系という科学の新しい潮流を学ぶためにサンタフェ研究所に赴いた。そこのカフェでたまたま知り合った心理学者から、ルーべンスはその後の進路を決定づける興味深い話を聞かされた。アメリカ軍兵士の、戦場における発砲率の研究である。

「第二次世界大戦中、近距離で敵兵と遭遇したアメリカ軍兵士が、どれくらいの割合で銃の引き金を引いたと思うかね?」

茶飲み話で発せられた質問に、ルーべンスは深く考えることもなく答えた。「七割くらいですか?」

「違う。たったの二割だ」

ルーべンスの順に浮かんだ驚きと疑念を見て取って、心理学者は続けた。

「残りの八割は、弾薬補給などの口実を見つけて殺人行為を忌避していたんだ。この数字は、日本車の玉砕攻撃にさらされた場合でさえも変わらなかった。最前線の兵士たちは、自分が殺されるという恐怖よりも、敵を殺すストレスのほうを強く感じていたのさ」

「意外な話ですね。人間は、もっと野蛮な生物かと思つてました」

すると心理学者は、にやっと笑って、「まだ続きがあるんだ」と言った。「この調査結果に慌てたのは軍部だ。兵士が道徳的であってはまずいのだ。そこで発砲率を高めるべく心理学的研究が行なわれ、べトナム戦争での発砲率は九十五パーセントにまで急上昇した」

「軍部はどんなことをやったんです?」

「簡単なことさ。射撃訓練の的を丸型標的から大型標的に変え、本物の人間のように自動的に起き上がるようにした。さらに射撃の成績によって、軽い懲罰を科したり報酬を与えたりした」

「オべラント条件付けですか」

「そう。給餌機のレバーを押すようにネズミを仕向けるのと同じことだ。ところが――」と心理学者は、少しだけ顔を曇らせた。この「敵を見たら反射的に発砲する」ための訓練方法には、大きな欠陥があった。兵士の心理的障壁が取り除かれるのは発砲する時点までであり、敵を殺しか後に生じる精神的外傷(トラウマ)までは考慮されていなかったのである。結果、べトナム戦争では、帰還兵の間に大量のPTSD患者を生み出すこととなった。

「しかし」と、ルーべンスは疑問を口にした。

「人間がそこまで殺人行為を嫌悪しているのなら、どうしてこの世から戦争がなくならないんです? そもそもたった二割の発砲率で、どうしてアメリカは第二次世界大戦に勝てたんです?」

「まず、人を殺してもまったく精神的打撃を受けない”生まれついての殺人者”が男性兵士の二パーセントを占める。精神病質者だ。だが彼らの大半は、一般社会に戻れば普通の市民生活を送る。戦時においてのみ、後悔も自責の念も持たずに殺人を行なうことのできる”理想的な兵士”なんだ」

「しかし、それがたったのニパーセントでは、戦争には勝てないでしょう?」

「残りの九十八パーセントを殺人者に仕立て上げるのも、実は簡単なことだと分かった。まずは権威者への服従や帰属集団への同一化などで、個としての主体性を奪う。それからもう一つ、殺す相手との距離を隔てるのが重要となる」

「距離?」

「ああ。この言葉は二つの概念から成る。心理的距離と、物理的距離だ」

例えば敵が人種的に異なり、言語も宗教もイデオロギーも違うとなれば心理的距離は遠くなり、それだけ殺しやすくなる。そもそも平時からすでに他民族との心理的距離をとっている人間、つまり自らが所属する民族集団の優位性を信じ、他民族を劣等と感じている人間は、戦時においてはたやすく殺人者へと変貌する。普段の生活の中で周囲を見回せば、そんな人間の一人や二人はすぐに見つかるはずである。さらに戦う相手が倫理的にも劣った、鬼畜に等しい連中だと徹底的に教え込めば、正義のための殺戮(サツリク)か開始される。こうした洗脳教育は、あらゆる戦争で、あるいは平時にも、伝統的に行なわれてきた。敵国人にジャップやディンクなどといった凡称をつけるのが、その第一歩である。

「物理的距離を保つためには」と心理学者は続けた。「兵器というテクノロジーが必要になる」

戦闘の最前線で発砲をためらう兵士も、敵を直接見ることのできない遠距離にいるだけで、より破壊力のある攻撃手段――迫撃砲の発射や艦砲射撃、航空機からの爆撃など――を躊躇なく使えるようになる。目前の敵を射殺した兵士が生涯癒えぬ心の傷を負うのに対し、空襲に参加して百人の命を奪った爆撃手は何の痛痒(ツウヨウ)も感じないのである。

「人間と他の動物を隔てるのは、想像力の有無だと言った学者がいた。だが兵器を使う際には、ヒトとしての最低限の想像力も麻痺する。爆撃鉄の下で逃げ惑っている人々が、どんな悲惨な死を遂げるかは眼中にないのさ。こうした倒錯が起こるのは軍人だけじゃない。一般市民の間にも見られる普遍的な心理だ。分かるだろう?」

ルーペンスは頷いた。人々は、敵兵を銃剣で刺し殺した兵士を白眼視する一方で、敵機を十機撃墜したパイロットは英雄視する。

「殺戮兵器の開発は、敵をいかに遠ざけ、より簡単に大量の犠牲者を出すかに主眼が置かれてきた。素手で殴り殺すよりも刃物を、さらには銃器を、砲弾を、爆撃機を、果ては核弾頭を積んだ大陸間弾道ミサイルを、だ。しかもアメリカの場合、これが国を支える基幹産業の一つになっている。だから戦争は、なくならないのさ」

こうした研究に接しかルーペンスは、現代における戦争には共通した構造があることに気づいた。

戦争当事者の中で、もっとも残忍な意思を持つ人間、つまり戦争開始を決定する最高権力者ほど、敵からの心理的・物理的距離が離れた位置に置かれているということである。ホワイトハウスで晩餐会に出席している大統領は、敵の返り血を浴びることも、肉体を破壊された戦友が発する断末魔の叫びを聞くこともない。殺人にまつわる精神的負荷をほとんど被らない環境にいるからこそ、生来の残虐性を解き放つことができるのだ。軍隊組織がこのような形態に進化し、兵器が科学技術によって改良されてきた以上、近代戦において殺戮が激化するのは当然たった。戦争の意思決定者は、良心の呵責を感じることなく大規模空爆を命令できるのだ。

では、数十万人を殺すことになると分かっていながら戦争を指示する一国の指導者は、その残虐性において普通の人間なのだろうか。それとも、やはり彼らは異常な人間で、人並み外れた攻撃性を社交的な微笑の後ろに隠し持っているのだろうか。

ルーペンスは後者だろうと推論した。権勢欲に取り憑かれ、あらゆる政治的闘争を勝ち抜いていく人間は、正常の範囲から逸脱した好戦的な資質を有しているはずだ。しかしその反面、民主主義国家では、そうした人間をリーダーとして送出するシステムが民意によって作り上げられているので、選ばれた人間こそが集団の意思を体現しているとも言えるのである。となれば、戦争の心理学は、権力者の心理学に置き換えることが可能だ。人はなぜ戦争をするのかという疑問に答えるためには、戦争を命じる人間の精神病理の解明が不可欠なのである。
※ルーベンスとはこのフィクションの超人類抹殺計画の責任者である。

高野は本書でかつて日本軍が南京や戦場で虐殺の限りを尽くした邪悪な民族であると宣伝しているが・・・戦前の日本軍は「オべラント条件付け」などしていない。
皇軍が南京で大虐殺など行えるわけがない。

自らが所属する民族集団の優位性を信じ、他民族を劣等と感じている人間は、戦時においてはたやすく殺人者へと変貌する。普段の生活の中で周囲を見回せば、そんな人間の一人や二人はすぐに見つかるはずである。

この著者は私のような保守層に完全に喧嘩を売っている!反日教育を行っている
朝鮮人や中国人は日常から犯罪者で残虐な行為を平気で日本人にしている。
著者は一方的な反日的物語を書いたが、私はこの物語から、ありもしない南京大虐殺のプロパガンダを行い反日教育をしている中国および朝鮮は、もし戦争になれば日本人を平気でジェノサイドしかねないというこを私は警告したい。