イメージ 1


 東アジアの混乱
 後漢の滅亡と倭国大乱
p147-148
 ローマ帝国が異民族の侵入と自然災害に悩まされはじめる二世紀後半以降、東アジア諸国でも洪水や干ばつの頻度が増し、冷涼な気候に襲われて政治的な混乱が生じた。中国での洪水や干ばつの発生件数をみると、一〇〇年から一五〇年の間と、二五〇年から三四〇年にかけての、二度の期間に頻発している。後漢は、一四四年から冲帝と質帝と幼少の皇帝が続けて即位する中、内蒙古を拠点とする
北方民族の鮮卑の略奪によって大きな被害を受け、その国家体制が揺らいでいった。太平道が農民の支持を集め、教祖の張角が一八四年に起こした黄巾の乱をきっかけに、後漢は二二〇年に滅亡し、魏、呉、蜀による三国分立から長い国家分裂の時代に人る。

三世紀に入っても寒冷な気候が続き、二二五年に淮河が凍結したと歴史書にあり、二八〇年から二八九年の一〇年間の平均気温は現在よりも一度から二度低かったと推定される。農作物も不作で、二八〇年から二八九年に「連年穀麦不収」との記録がある。

中国だけでなく、朝鮮においても気候の悪化が明らかで、『三国史記』によれば、一五〇年から二〇〇年にかけて寒冷化と多雪化の記述が増え、韓、高句麗でも抗争が激化していった。 

倭国大乱とは中国の歴史書で日本の内乱を指す言葉だが、年代的には二度に分かれる。最初が『後 漢書』東夷伝に書かれたもので、「(後漢皇帝の)桓・霊の間、其の国、本亦男子を以って王と為す。住あるところ七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐して年を歴。乃ち共に一女子を立てて王と為し名づけて卑弥呼と日う」とある。桓・霊の即位年代は一四七年から一八九年にあたる。

二度目が『魏書』倭人条に書かれた記述で、最初の戦乱は卑弥呼の登場により収束するが、その死後に「更に男王を立てしも国中服さず。復た卑弥呼の宗女の台与、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる」と記されている。卑弥呼の後継者をめぐる抗争であり、二四〇年代と考えられる。

http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC
二世紀半ば倭国大乱と日本でも戦乱が激化したことは、吉野ヶ里遺跡を含め弥生時代中期以降の遺跡から発掘される人骨の中に、石鏃の刺さったものや首が欠落したものが多数ある。また弓の先の鏃にする石は、シカやイノシシを獲るためには2gより軽いものだったが倭国大乱のころは大きいものでは5gと対人殺傷用のものが現れ、金属性の鏃も増えている。

稲作農業を行うなら、低地に拠点を置くのが理にかなっているのだが、西日本に高地性集落が形成された。一世紀半ばから気候の悪化が到来し、土地や水利をめぐって集落の間の抗争が激化したためと考えられる。

 一般的には、倭国大乱は日本が国家統一をしていく過程での、部族間抗争であると考えられている。しかし、東アジア全域での政治混乱と時期を同じくしている。
東アジアでも二四六年以降に寒冷化傾向を示しており、十四世紀以後の中世の寒冷な時期よりも大きかった可能性がある。


 古墳の時代の大量移民

4世紀末応神天皇の頃に秦公が祖弓月、百二十県の民を率いて帰化せりとある。
4世紀末~5世紀の古墳寒冷期百済からの大量難民が渡来した記述がある。

「謎の雲」がもたらした古代の終焉
世界中の文献に記された大飢饉

 『日本書紀』第一八巻に不思議な記述がある。
「宣化天皇一年五月詔
食者天下之本也。黄金万貫、不可療飢。白玉千箱、何能救冷。
三国屯倉、散在懸隔。・・・・・・聚建那津之口、以備非常、永為民命、令知朕心。」

五三六年五月のものとされるこの詔の中で、宣化天皇は「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒すことはできない。白玉が千箱あっても、凍えから救われることはできない。食糧倉庫は遠く離れている。那津の港に集めて、非常の場合に備え、人民の命の糧となるよう、早急に郡県に命令せよ」と伝えている。深刻な食糧不足を示す内容であり、緊迫した状況であったことがうかがえる。五三六年に始まる異変は、『日本書紀』だけでなく、世界中で三〇以上の古文書にみることができる。

東ローマ帝国将軍ベリサリウスの秘書官プロコピウスは、著書『ヴァンダル戦記』の中で、五三六年冬からの天候について「冬の間カルタゴに滞在したが、恐ろしい出来事の前触れのようなことが起きた。その後一年の間、太陽は輝きを失い月のように弱々しかった。そして太陽ははっきりと見えず、日蝕のようだった。それ以来、誰もが戦争、疫病により死んでいった」と記している。

イタリアにいたカッシオドールズは、五三六年の晩夏から太陽はいつもの陽光ではなく青く光り、正午になっても自分の影ができず、月も同じくたとえ満月でもいつもの輝きがなかった、と書き残している。また、エフェソスのヨーアンネースによる『教会史』第二巻には、「太陽が暗くなり、その暗さは一年半も続いた。太陽は毎日、四時間くらいしか照らなかった。人々は太陽が以前のように輝くことは二度とないのではないかと恐れた」とある。さらに、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルでは、ザカリーヌースコラティコスが、昼の太陽は暗くなり、そして夜の月も暗くなったと歴史書に記述した。

天候異変にともなう飢饉の到来も、日本だけではなかった。ゲール語によるアイルランドの年代記によると、五三六年と五三八年は農作物不作と記述されている。アイルランドでは農耕地が放棄され、人々はクランノッグという湖上住居に移り住み、狩猟や漁猟による生活に戻った可能性がある。

地中海周辺でも同じ状況で、プロコピウスの書には、次のような大飢饉も記録されている。「五三八年は、以前のように豊作ではなく、生えてくる数は少なく、実る数に至ってはもっと少なかった。……自分たちで食する小麦さえも収穫できなくなった農民は、農地を捨て家も捨てた」

南北朝時代の中国では、『北史』に、五三六年九月各地で電が降り大飢饉になったとあり、『南史』には、五三七年七月に厳寒、八月でも雪が降ったとの記録がなされている。その後も天候異変は続き、『北史』では五四八年に干ばつ、『南史』には飢饉が五四九年、五五〇年に発生し、長江南岸で住民が人肉を食べたとある。

古文書の記録だけではなく、天候異変の痕跡は世界各地の年輪に刻まれている。年輪の示す気温の低下は、一八一五年のタンボラ火山の噴火よりも大きい。スカンジナビア半島のカシとカリフォルニア州ホワイトマウンテンのブリストルコーンパインの年輪幅から、〇・五度近い気温の低ドが推測される。シベリアのハタンガのマツから、五三〇年代から五四〇年代のニ○年問は、過去一九〇〇年間の中で極端に樹木の生長が遅れた時代と区分される。屋久杉の年輪でも、急激な気温低下を確認できる。

南半球でも、同様の気候の激変が発見されている。タスマニア高の針柴樹は五四六年から五五二年にかけてあまり生長せず、この時期の気温は六世紀の中で最低であったと推定される。チリのフィッツロイというスギの年輪分析から、五三五年から五三七年に気温が急低下し、五四〇年は過去一六〇〇年間で最も寒い夏であったと推定される。その他にも、ペルーのケルッカヤ氷河の氷床コアから、五四〇年から五七〇年頃に干ばつがきっかけとなる猛烈な砂嵐が発生したことがわかる。
538年とは仏教伝来(仏教公伝)の年である。
蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。536年からの天変地異と仏教公伝は密接な繋がりがありそうです。

この536年からの急激な気温低下の原因は何か、ことローマから中国まで「謎の雲」に覆われ、太陽が霞んでしまった原因は何か。中国の歴史書『南史』には、五三五年11月中旬からご1月下旬にかけて「黄色い塵が雪のように降ってきた」とあり、火山灰が降り注いだことを思わせる記述がある。
五三五年から五三六年にかけて起きたであろう巨大火山の噴火は特定されていない。候補地としては、以下の四つが挙げられている。
   ・パプアーニューギニア・ラバウルの海底火山
   ・ジャワ島・スマトラ島のスンダ海峡・クラカタウ火山
   ・メキシコーチアパス州・エルチチョン火山
   ・カナダーユーコン準州・ホワイト・リバー周辺
しかしながらいずれも地球規模の気温の低下をもたらす規模の噴火に該当しなかった。
著者はツングースに落下したような巨大彗星が大気中で爆発した可能性を示唆している。
私(Ddog)は今年(2013年)ロシアチェリャビンスク州の隕石落下の凄まじさからすると、火山の噴火痕が確認できないのなら隕石の空中爆発+地表にもある程度接触した可能性を支持したい。