阪急阪神ホテルズ(大阪市)がメニュー表記と異なる食材を使っていた問題で、同社の出崎弘社長は28日、記者会見を開き、不祥事の責任を取って社長を辞任することを明らかにした。表記と実際の産地が異なったエビや豚肉、ネギなどを含めた6種類の再調査結果も公表。一部メニューについて「偽装と受け取られても仕方がない」と述べた。問題の発覚から29日で1週間。混乱が続いた一連の不祥事は経営トップの辞任という事態に発展した。

イメージ 1 出崎社長は「偽装とは故意に人を欺くことが前提。客を欺く意図をもって不当な利益を得ようとする考えはなかった」と改めて偽装の意図を否定したが、「阪急阪神ブランドへの信頼の失墜を招いた責任は重い」とし、11月1日付で社長と阪急阪神ホールディングス取締役を辞任するとした。

同社は表記と実際の産地が異なったエビや豚肉、ネギなどを含めた6種類について、調理担当者や購買担当者ら延べ26人を対象に、出崎社長が直接、経緯などを聞き取る再調査を実施。大阪新阪急ホテルで「芝エビ」の代わりにバナメイエビが使われていた事例では、調理担当者が「小さなエビは『芝エビ』と認識していた」という。

このほか、「手作り」をうたいながら既製品のチョコレートソースを使ったデザートの事例では、チョコレートリキュールにコーヒークリームを混ぜる「一手間」に着目し、担当者が「手作り」としたという。

出崎社長はこれまで「偽装」ではなく「誤表示」と強調していたが、再調査した6種類について「すべてお客さまに誤解を与えかねないものだった。前回の私の説明は不適切だった」と修正。これまでの姿勢から一転し、一連の表示について「お客さまにおいては偽装と受け取られても仕方ない」と認めた。



2013.10.28 21:33 
「偽装ではなく誤表示」と強調し、顧客らの批判を浴びた阪急阪神ホテルズのトップが取った選択は、引責辞任だった。同社系列ホテルなどのレストランで、メニューと異なる食材が使われていた問題で28日夜、記者会見した同社の出崎弘社長は、11月1日付で自ら社長職から身を引くことを明らかにし、「多くのお客さまへの裏切り行為にほかならない」と謝罪した。しかし「お客さまをだまそうという意識はなかった」などと偽装の意図を改めて否定。客側のとらえ方と、同社の意識との乖離(かいり)を改めてうかがわせた。

「阪急阪神ブランドへの信頼を広く失墜させた責任を取る」。出崎社長は、神妙な面持ちで辞任の意向を口にした。

この日の会見は、当初29日午前に予定されていたものを急遽(きゅうきょ)前倒しして行われた。会見場は、産地が異なったエビやネギが提供された舞台でもある大阪新阪急ホテル(大阪市北区)の宴会場。深々と一礼して会場に入った出崎社長は、自ら説明にあたった。
同社側は、問題発覚以降、同社がメニュー表記の経緯について再調査した「九条ネギ」や「芝エビ」「霧島ポーク」など6種類についての報告を行った。

このうち、鶏肉料理の添え物として九条ネギの代わりに白ネギや葉物野菜が使われていた事例について、出崎社長は、サービス担当者が「メーンの若鶏が変更されたならばともかく、添え野菜の内容変更まではお客さまに伝えなくても問題ないだろう」と判断していたことを明らかにした。

24日の会見では、感情をあまり現さず「偽装ではなく誤表示」とこだわり続けた出崎社長。しかし、この日は神妙な表情で言葉を選びながら進めた。

しかし、偽装については「故意に人を欺くこと」と定義し、「従業員にはお客さまを欺く意図を持って不当な利益を得る意識はなかった」と改めて強調した。

その上で、出崎社長は「お客さまには理屈は通りません」と述べ、深く頭を下げた。だが、組織を守る意識ばかりが目立つトップの引き際となった。
偽装ではなく誤表示だとこの社長が釈明した瞬間に、名門雪印乳業の解体が頭をよぎった。

出崎社長は危機管理という言葉が脳味噌にに入っていなかったのだろう。
トップが謝罪会見する際は、どんなに世間が理不尽であっても、釈明するのではなく謝罪しなくてはいけない。

国際社会で無条件の謝罪をするとまずいのだが、日本においてはまずは謝罪する。自分が正しかろうと少なくとも世間を騒がせたことについて謝罪をしなければいめない、それが日本のしきたりであり、社会構造である。


世間の厳しい目があるからこそ日本人は社会秩序を保てることができる。日本人は「世間を離れては生きてゆけない」と思っているために、この抑止力は絶対である。

「世間」はもともと、真筆に謝罪する者を「ゆるす」という包摂的側面と同時に、ケガレとして秩序を乱す者を「はずす」という排除的側面をもっているから、まずはなにより謝罪が大切なのだ。

日本における「世間」は、「ゆるし」と「はずし」という、ふたつの行動をとる。日本におけるいじめ問題も実は日本人が持つ社会秩序維持の行動原理の負の副作用であると私は思っています。

普通の日本人であれば「世間」の内部から「はずれ」ないために、つねに細心の注意を払っている。よく考えるとかなり馬鹿げた努力ともいえるのだが、それは、人生における最大の問題であるといってもいいくらいなのだ。山本七平は「空気の研究」において、日本の社会は空気が支配すると発見した。よく相手の能力が劣ると思うと「空気が読めない奴」といって相手を非難する。KYという略語も存在するくらいだ。

『「空気」の研究』
日本社会には「空気」という非常に強固な判断の基準があり、かつて第二次大戦中、無謀であるとわかっていながら戦艦大和を出撃させて海軍力を失い、あるいは戦後公害問題では自動車そのものを悪としたり、その空気によって時に日本社会は致命的なまでの状況に追い込まれることがある。その空気とは一体何か。

「対象と自己、第三者との区別がなくなり、その状態を絶対化して、その状態を阻む障害、または阻んでいると空想した対象を悪として排除しようとする心理状態」=「感情移入の絶対化」によって「物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちのその影響を受けるという状態」=「臨在感的把握」が生まれる。
そして、
あらゆる方向に臨在感的把握を絶対化する対象があり、従って各人はそれらの物心によりあらゆる方向から逆に支配され、その支配の網の目の中で金縛り状態になっている。

つまり、西欧の一神教的社会のように絶対的な規範の下で全てが相対化された社会ではなく、その都度、個々の状況で絶対化される対象が生まれて、一時的に我々を拘束して消えていく。その繰り返しが我々の社会であり、「空気」の支配のメカニズムであると山本七平は言う。
われわれ日本人の世界には原則的に言えば相対化はない。ただ絶対化の対象が無数にあり、従ってある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる――ただし、うまくやれば――世界なのである。
それが絶えず対象から対象へと目移りがして、しかも移った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に別の対象に移れば、前の対象はケロリと忘れる

耳が痛いが的確な洞察だと思う。

「世間」は、西洋のSocial(社会)と異なって、宗教的に明文化はされていないが、暗黙の日本的なルール、しかもきわめて細かいルールからできあがっている。このルールを守らないかぎり、「世間」の一員とはみなされないのだ。

残念ながら出崎社長は「世間」のウチ側にいる多数派の日本人のルールを知らない者とみなされてしまった。

「世間」のルールは、「贈与・互酬の関係」である。メールがきたときに、返信するのが暗黙のシキタリである。きわめて細かいルールにもかかわらず、多くの日本人は、無意識でこのルールを実行している。

日本では「お返し」のルールがちゃんとできない人間は、低く評価され、「世間」からはつまはじきされることになる。

世間は理不尽なのである。世間全てが社会に責任を感じる人々(公民・国民)ではなく、利己の欲望の最大化を求める者も多く含まれている。公民・国民の比率が低い世間様を大衆またプロ市民という。ちなみに反原発を叫ぶ人たちはプロ市民・大衆と私は定義する。世間とは一線隔している。

 日本の大衆は自由、平等、友愛、合理 を絶対視するが、大衆の要望は社会混乱に進むと思う。自由と平等という矛盾する概念の対立を解消するためによく友愛の言葉でその場しのぐ。 だが現実に必要とされ現存するのが秩序、格差、競合、可謬(間違う可能性)である為、結局調整できず組織を維持できないのである。
 努力するものが報われる、だが一概にはそうならない、故に日本では世間への対応・処理能力が求められる社会なのである。

この出崎社長の言い訳がましい会見はとても印象がわるかった。自分は知らなかった、調理の責任者まで会見に出し、責任回避はトップがとってはいけない行動だった。組織のトップとしては最低のレベルだと思う。

日本における組織のトップとは、その組織を代表して切腹するために存在している。だからこそ地位がたかく尊敬され報酬が高いのである。切腹できないトップでは組織をまとめることができない。だから、今回の偽装食材問題が発生した原因なのだ。出崎社長はあんな会見しかできないから、社内の箍(タガ)が緩んでしまったのだろう。
自分が原因であることにまるで気が付いていないのだ。

それにしても、申し出があった顧客に返金に応じるというホテル側の解決策は、また馬鹿というか過去北海道の西友の無条件返金でどういうことになったかの危機意識がない。歴史や経験に学んでいない。危機管理能力ゼロだ!

謝罪会見で 「誤表示」と強弁した出崎弘社長は、ビジネスマンとして感覚全 くずれており、「私は危機管理能力ゼロです」と 全国に宣伝したようなものだ。
釈明も回を重ねれば重ねるほど世間の「ゆるし」のハードルは高くなる。 仏の顔も3度まで・・・記者会見も三度までだ! よく会社には「間違いました」と言えない人がいるが、人は気配り不足、誤解、勉強不足で 間違うこともある。 人は神ではないので時に間違いを起こすのが 行動する人間の宿命。 自分の間違いを認めたくないのはわかるが、自分の間違いを反省出来ない人間がトップになった組織は滅亡する可能性がある。 よくもまあ、あの程度の人間が会社のトップに着けるのか?阪急阪神HDの企業風土を疑いたくなります。 あの会見は社長の辞任で済まされない阪急阪神HD全体を危機的な状況をもたらしてしまった。

今後ビジネススクールの危機管理についての授業で、出崎社長の会見は、悪い典型的な例として何十年も題材になるだろう。歴史的に最低のレベルの謝罪会見であった。
私は性格がたぶん悪いのだろう、あの会見を見て呆れかえったが、余りの愚かさに失笑してしまった。今時あんな言い方で切り抜けるとでも 思っていたのだろうか?
平社員どころか今どきの新入社員としても通用しないだろう。この潔くない引き際だと、顧客離れは必至。最悪倒産はないが、阪急阪神HDから切り離され、身売りもあり得るのではないだろうか? 

組織は劣化に向かう。ピーターの法則係長で優秀な人は課長になる。係長で優秀でも課長に適しているとは限らない。できあがる組織は残された劣った係長と 課長に適さない課長とで構成される。係長としてはダメでも、部長としては優秀な人もいるはずだが 選ばれ難い。 実際は適正を判断して抜擢されるのだろうが、優れた担当者が担当者としてそのまま尊敬・尊重される組織が本当は望ましいのだが、出崎社長は社長の器ではなかった。

かつての家業継承の時代、あらゆる分野(士農工商)に一流人が散在していたが、今、職業選択は自由であるが、泥臭くなくスマートな職業に人は群がる。試験が上手で偏差値が高い人が偏ると組織全体としては衰退に向かうものである。その最たるものが戦前においては帝国陸海軍、戦後においては大蔵/財務省であり官僚組織なのである。