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『謎解き「南京事件」』阿羅健一著
【msn産経】2014.1.26 09:30

 昭和12年12月に起こったとされる南京事件。日本軍が南京の一般市民30万人を殺害したなどと、中国が宣伝しているが、実際はどうだったのか。

南京には100万人以上が居住していたが、戦争が始まると80万人が脱出、残留した市民は安全区に残った20万人だけだった。そして南京陥落後には、脱出者が戻ってきて25万人に増えた。これだけをみても30万人虐殺がでっち上げであることが明らかだ。

著者はこのようにして、強姦、略奪、火災などについても実証的に南京事件を検証、事件の真実に迫る。(PHP研究所・1575円)


歴史は日本では「ヒストリー」だが、中国では「プロパガンダ」、韓国では「ファンタジー」であるという話がある。5年前に米スタンフォード大学の研究グループが米国、台湾を加えた各国の歴史教科書を比較研究して得た結論だ。

中国が宣伝する南京事件の真実を追及する阿羅健一氏の力作だ。中国のプロパガンダを裏書きする東京裁判の判決自体、検察側証言だけを採用し、弁護側の反論を一切取り上げない一方的なプロパガンダであったのだ。

1937(昭和12)年12月の南京で起こったとされる「南京事件」の真実は何なのか――「最初の2、3日で男女子供1万2000人が殺害されたか」、「2万人が強姦されたか」、「欲しいものはなんでも奪ったか」、「南京の街の3分の1は燃え落ちたか」、「2万人の一般男性は殺害されたか」、「郊外で5万7000人の一般人が殺戮されたか」、「降伏した3万人の中国兵は殺害されたか」、「20万人以上が殺害されたか」、「日本は事件を認めていたのか」――。

検察側の証言と証拠ばかりが認められ、弁護側の反論はいっさい認められなかった極東国際軍事裁判。争われた事実の真偽をあらためて問う。検察官はどのような証拠を提出したのか。弁護側はどう反論したのか。判決はそれらをどう取り入れたのか。そして、なぜ南京事件は持ち出されたのか。

はじめにp2-5
一九三七(昭和十二)年の七夕、日本軍が北京郊外の盧溝橋で夜間演習していると、どこからか銃弾が飛んできました。それをきっかけに日本と中華民国の問に小競り合いが起こったのです。争いは収束しそうな気配を見せながら、なかなか止まず、七月二十七日、日本は三個師団を動員して短期決着を図ろうとしました。

当時の大陸は中華民国で、竹都は南京だったのですが、最大の都市は上海でした。上海には欧米や日本の租界があって国際都市として繁栄しており、日本人も三万人が住んでいました。小競り合いは遠い北京の出来事でしたが、すぐさま上海に伝わり、上海に伝わると、日本人の生命が危ぶまれるようになったのです。

女T供たち二万人はただちに上海を後にし、残る一万人を海軍特別陸戦隊が守ることになりましたが、陸戦隊は五〇〇〇人で、その周りをI〇倍の蒋介石直系軍が取り巻いています。八月九日、陸戦隊の将校が射殺され、下士官も殺害されるという事件が起きました。十二日、海軍は陸軍に派兵を要請し、翌日、派兵が決まったのです。二個師団からなる上海派遣軍で、司令官に松井石根大将が任ぜられました。

中華民国は、日本と戦うなら、挙げて上海で決戦する作戦を立てていました。なんとしてでも上陸を阻止し、上陸を許したならそこで殲滅する。そういった思想からドイツ軍事顧問団の指導のもとで準備を進めていました。

このため上陸しようとするその瞬間から、日本軍はひどい反撃を受けます。予想以上のことでした。上陸してからも激しい戦いに引きずり込まれました。

二個師聞を派遣してからひと月のうち、日本は三個師団と一個支隊を追加投入しなければなりませんでしたが、それでも上海を制圧できず、さらに第十軍を編成して送ることになりました。上海派遣軍と第十軍の上に中支那方面軍が設けられ、松井石根大将が司令官を兼任します。

ようやく十一月十一日、三ヵ月の期間と、四万一〇〇〇余の戦死傷者を出し、日本軍は上海を押さえることができました。ここに派兵の目的である在留邦人の安全確保が成し遂げられました。

そのころ、北京一帯の戦いは北方に拡大していました。上海から潰走する中国軍を前にして、この際、徹底的に中国軍を叩いて事変の解決を図ろうとする意見が現地軍に生まれたのは当然でしょう。上海のほかに、首都の南京ともう一つの中心地杭州を攻めようという考えでした。

その意見は参謀本部でも取り上げられ、十二月一日、南京攻略が決まりました。
中華民国では、上海が落ちそうになったころから、南京を守るか、あくまで放棄する
か、議論が重ねられていました。六人の軍首脳とドイツの軍事顧問団長が意見を述べることになったとき、戦わずに首都を放棄するのは屈辱ではあるが防衛できる望みはない、と南京放棄論が相次いだのです。

そういったなか、唐生智は南京死守を主張します。するとそれまで聞き役に回っていた軍事委員長の蒋介石が□を開き、唐生智の意見に賛成するとともに、唐生智を南京衛戊軍司令長官に任命しました。

蒋介石の一言で、南京はあくまでも防衛されることになったのです。

南京攻略を決めた日本軍では包囲作戦が立てられ、一部は迂回して背後から向かいはじめました。新たに戦闘に加わった第十軍は積極的で、上海派遣軍も元気を取り戻していました。潰走する中国軍に立て直す余裕はなく、攻撃命令から九日目の十二月九日、鯖江の歩兵第三十六連隊は城門の一つである光華門を攻撃しはじめます。上海の戦いとは違い、南京戦は日本軍の一方的な様相となりました。

大勢は決し、これ以上戦っても中国軍の犠牲が増えるだけです。南京には明の故宮や孫文の陵などもあります。鯖江の歩兵第三十六連隊が攻撃を始めた九日、松井司令官は中国軍に降伏を勧告することにし、ビラをまき、翌十日正午を期限に指定しました。

しかし、中国軍では降伏を認めてなく、唐生智南京衛戌軍司令長官は降伏を拒否しました。

日本軍は攻撃を続け、十二日になると、光華門以外でも城門を挟んだ戦いが繰り広げられるようになったのです。

その日の夕方五時、唐生智は師長たちを集め、日本軍の包囲網を突破して指定した地に集結することを命じます。夜八時、唐生智は揚子江を渡って南京から脱出し、それとともに中国軍の南京脱出が一斉に始まりました。

十三日、日本車は城内に入り、突破脱出しようとする中国軍と戦いになりました。中国軍は壊滅状態となり、夜になって、南京は陥落した、と日本軍は発表しました。
それでも、城の内外にはまだ多くの中国軍がいて、十四日以降、掃蕩戦が続けられ、十六日まで続きました。
p9-13
判決文はそのときの日本の対応を、次のようだったとも述べました。

《日本の大使館貝は、南京にいる宜教師たちに、憲兵はわずか一七名にすぎないと知らせ、大使館員らは日本軍の行動を緩和させようとしているとも話したが、やがて、宜教師のほうから実情を日本内地に知らせてはどうか、と言い出した。

日本軍の不法行為は南京につくられた国際委員会によって抗議され、外交団、新聞記者、日本人使館員たちは上海の日本公使に詳細を報告した。日本の公使はその大要を広田弘毅外務大臣に送った。広田外務大臣はそれらを陸軍省に送り、連絡会議で日本軍の 不法行為について検討された。

軍司令官の松井石根大将は不法行為の報告を受けたが、事態を改善する効果的な方策 を講じなかった。

日本軍の不法行為は新聞報道で広まり、全世界の世論の圧迫によって日本政府は松井司令官と約八〇名の将校を召還した。しかし、処罰はなされなかった〉

こういった事実からも南京事件は明確である、と判決は述べています。
一言で言えば、日本軍の入城直後から、南京では見るに堪えない残虐行為が繰り返されたということです。起訴状で数千人の犠牲者とされていましたが、実際は二桁も違う二〇万以上という大規模なものだったのです。

判決文の朗読は七日間続き、最後の日、被告に対する訴因の判定に移り、松井大将についてこのように判定されました。

《南京で不法行為が広く行われたことは、日本側証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性ある中立的証人の証言は、圧倒的に有力である。松井軍司令官は自分の軍隊に対して行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももた らさなかった。松井司令官は、南京市民を保護する義務と権限を持っていたが、義務の履行を怠った》

このように、不法行為を命令したわけではありませんが、松井は最高司令官として適切な処置をとらなかったと判定しました。また、ここでは事件の全容をこう判定しました。

《昭和十二年十二月十三日から翌年二月上旬までの六、七週間、何千という婦人が強姦
され、一〇万人以上の人が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした》

前の訴因第五五の判決と比べ、強姦の件数は二万人から何千人、殺害の数は二〇万人以上から10万人以上と変わりました。不法行為が大規模なため、このような曖昧な言い方になったようでもあり、この数字だけが松井司令官の責任と言っているかのようでもあります。

南京事件については、外務大臣だった広田弘毅と中支那方面軍参謀副長の武藤章大佐も問われました。広田弘毅外務大臣は、松井大将同様、適切な措置をとらなかったとして有罪とされ、武藤参謀副長はその地位から責任はないとされましたが、そのほかの戦争責任から有罪となります。

朗読の最後に、量刑が宣告され、松井石根は絞首刑を宣告されます。
絞首刑の判決が下りたのは松井石根を含め七人です。松井を除く六人は侵略戦争の全面的共同謀議で有罪とされ、それについて松井は無罪、訴因第五五だけ有罪とされました。

全面的共同謀議で無罪、南京事件だけで死刑を宣告されたことは、南京事件がそれだけの戦争犯罪であることを示していました。

ちなみに広田外務大臣も絞首刑の判決を受けましたが、広田外務大臣は侵略戦争の全面的共同謀議で有罪とされており、南京事件にかかわらず死刑判決が下されたと考えられます。

東京裁判が閉廷すると、弁護側がアメリカ最高裁判所に訴願しました。対してアメリカ最高裁判所は干渉する権限がないと判定、マッカーサー連合国軍最高司令官は予定通り刑の執行を命じ、十二月二十三日、七人は絞首刑に処せられました。

裁判に対する批判は占領軍から禁止されていたため、判決への反論が表明されることはありませんでした。

昭和四十年代になると、改めて南京事件を主張する人が現れました。
それに対して反論が出されます。論争が起き、判決より大規模な犠牲者三〇万人とする意見から、事件は架空というものまで、さまざまな見方が出されました。多くの著作が刊行され、そのなかから本多勝一 『中国の旅』や鈴木明「「南京大虐殺」のまぽろし』といったベストセラーも生まれました。戦後、歴史論争、文学論争、あるいは政治論争などたくさん起きましたが、南京事件は特筆すべき論争となったのです。

南京事件の真実は何か。ここでは、東京裁判で検察官がどのような証拠を提出し、それに弁護側はどう反論したか、そして判決はそれらをどう取り入れたのか、それを振り返り、検討することにします。


まえがき――事件の経緯 1

第一部 東京裁判が判定したことは事実か

第一章 最初の二、三日で男女子供一万二〇〇〇人が殺害されたか 24
対立する死者目撃の証言 24
一万二〇〇〇の死体を完全否定する文書 31
検察側の証言はすべて崩壊した 37
第二章 二万人が強姦されたか 42
前代未聞の不法行為はあったのか 42
ここでも検察側の証言をすべて採用 4
どの資料にも証拠となる記述がない 50
第三章 欲しいものはなんでも奪ったか 58
単なる伝聞の記録を主張する検察 58
掠奪のほとんどは中国人によるものだった 65
第四章 南京の街の三分の一は燃え落ちたか 71
南京の大火災は自作自演だった 71
放火どころか消火に努める日本軍 76
第五章 二万人の一般男性は殺害されたか 83
独り歩きする二万という数字 83
掃蕩戦が明らかにしたものとは 90
戦時国際法を無視する便衣兵の行方 99
第六章 郊外で五万七〇〇〇人の一般人が殺戮されたか 104
たった一人の証言が大量殺戮の証拠に 104
一万五三〇〇余の中国兵を捕らえる 107
偶然が重なった捕虜解放の順末 111
第七章 降伏した三万人の中国兵は殺害されたか 117
これほど荒唐無稽な証言はない 117
城外での遭遇戦がもたらすものとは 120
水増しされた数字と目撃の真相 125
第八章 二〇万人以上が殺害されたか 131
作為された埋葬死体数は何を意味するのか 131
人口の推移から明白になった市民殺戮の嘘 136

慈善団体の活動をここまで偽造するとは 心
第九章 日本は事件を認めていたのか 149
当事者の知り得ないことを法廷が認める 149
一〇か二〇の事件が何百、何千に膨張する 155
召還を不法行為の証拠と見なされる 四

第二部 事件が言い出された理由

第十章 なぜ南京事件は持ち出されたのか 166
1―事件を起こす原因はあつたのか 166
苦戦と日本軍の体質が原因なのか 166
南京戦の戦死傷者は上海戦の一〇分の一以下 170
事件の原因は日本軍が存在したという妄言 175
2―ドイツ人の証言は信用できるのか 179
本当に信憑性のある中立的証人か 179
あまりにも中国寄りの委員長 181
日本との開戦を進言する軍事顧問 184
3―なぜ南京事件は持ち出されたか 188
日本の戦時宣伝は他国に比べて劣っていた 188
中国には「通電」という謀略戦が下地にあった 195
親中宣教師たちの裡造は、ある意味当然だった 万   
4―なぜ中華人民共和国は南京事件を言い出したのか 212
三光政策という批判の対象が変わっていく 212
どんなに日本を非難しても南京事件は持ち出さなかった 217
戦後日本を批判するためだけの道具になった 223

あとがき 227



執筆中