http://s2.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20140919&t=2&i=974975146&w=450&fh=&fw=&ll=&pl=&r=LYNXMPEA8I114    [エディンバラ 19日 ロイター] - 18日に実施されたスコットランド独立の是非を問う住民投票では、反対票が50%を上回り、独立が否決された。

スコットランドの独立賛成派のリーダーであるサモンド・スコットランド民族党党首は敗北を認めた。

サモンド党首は支持者を前に「スコットランドの人々は現時点で独立をしない決定をした。それを受け入れる」と述べた。

その上で、英国への残留が決定した場合にスコットランドの権限を拡大するという約束について「迅速に履行されることを期待している」と語った。

スコットランド民族党の副党首を務めるスタージョン行政府副首相は、独立が僅差で実現せず失望したと表明。BBCテレビとのインタビューで「スコットランドの多くの住民と同様、私は独立支持キャンペーンに心血を注いできた。ほんの少しのところで独立が実現せず、本当に失望している」と述べた。

キャメロン英首相は、独立が否決されたことを受け、独立反対派リーダーのアリスター・ダーリング氏に祝意を示した。

独立支持派は最大都市グラスゴーなどで優勢となったが、他の選挙区で十分な票を得られなかった。

今回の住民投票では、有権者の97%に相当する428万人が投票手続き登録を行った。投票率は過去最高となった。

英国はさすがにデモクラシーの宗主国、家本である。力づくで国境を書き換えたロシアのクリミア編入とは異なり、極めて民主的な手続きに則って独立の可否が問われた。

投票権者は428万5323人。投票率は英国史上最高の86%という記録的な投票率に達した。

今回のスコットランド独立騒動は、スコットランドと英国(ブリテン連合王国)だけではなく、個人と社会、国家の帰属を考えさせられる問題であった。
有史以来戦乱に次ぐ戦乱を経験したヨーロッパが恒久平和を願って結成したEUであったが、現状、国家の枠を壊し、新たな混乱の種となっているのだ。EUの富める国が貧しいEUの国の経済を吸収して一つの国家としない歪で中途半端なは国家もどきである限り、スコットランドの独立は阻まれたが、今後も国家の枠が崩壊する可能性は依然残されたままだ。

考えてみれば富めるドイツ・フランス・ベネルック三国の国民にとって、欧州が完全な国家となるにはPIIGSや新たに加入した東欧の国々は負担以外の何物ではない。

富める国家の国民が既得権とエゴを捨てない限りいずれEUは空中分解しかねず、今回のような騒ぎはは繰り返されるであろう。

20世紀の秩序である現在の国境線の変更は、民族と国家関係の見直しと国家のあり方にとって大きな変動をもたらし、混乱の時代への転換点となりかねない出来事となったかもしれな。だが、デモクラシイが英国では生きている証明となった。そして無秩序と混乱を予防したり収束させるにはデモクラシイこそが最良の選択権であると世界に示したのではないだろうか?

スコットランド独立騒動は、イスラム国のような虐殺と恐怖で統治を行っている、愚か者達の国々へ強烈なアンチテーゼとなった。

しかしながら、デモクラシイとは天から降ってきたものではない。デモクラシイを成立させるまでに英国では長い歴史と多くの血が流されて確立していったものだ。

英国人の優先順位は1位がプライベートで2位がデモクラシー3位が仕事だとスコットランド独立の是非を問う選挙レポートを送ってきた記者が言っていたのだが、英国人にとってデモクラシイを守ることは、なによりも尊いことであり、膨大なコストを掛け守られるべきものと考えている。民主主義において自由は、たいへんに高価なものであると国民が認識していることに改めて感心した。

英国の歴史とデモクラシイ成立の流れをおさらいします。まず、1215年民主主義の元祖であるマグナカルタが制定された。
ジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失ったにもかかわらず新たに戦を仕掛けて再び敗戦したために、1215年5月5日に貴族の怒りが爆発した。貴族側はジョン王の廃位を求めて結託し、ロンドン市が同調する事態になるとほとんどの貴族と国民は反ジョンでまとまってしまった。当時はこのように臣民の信頼を失った王は自ら退位するか処刑されるしかなく、その後新たな王が立てられるのが通常であったが、このときはジョン王は、王の権限を制限する文書に国王が承諾を与えることで事態の収拾を計ったことで制定された。 
王といえどコモン・ローの下にあり、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力を契約、法で縛り、権力の行使には適正な手続を要するといった点は現代に続く「法の支配」、保守主義、自由主義の原型となった。

1642年にイングランドで清教徒革命が起こった。革命の指導者オリヴァー・クロムウェルは1649年にチャールズ1世を処刑し、王政が廃止された。議会派はクロムウェルを護国卿に任命したが、その死後に護国卿を継承した子のリチャード・クロムウェルには政治力が無く、自ら辞任を申し出た。また、国民全体が清教徒のよく言えば純粋、悪く言えば独善的な行動に嫌気がさしていた。そのため、議会はチャールズ1世の子チャールズ2世に王権を返還し、1660年に王政復古(ステュアート朝が復活)した。そして1688年名誉革命を経て1707年にイングランドとスコットランドの合同法が成立し、両王国はそれまでの同君連合からさらに統合を進め、グレートブリテン王国として一体化した。

英国(グレートブリテン王国)におけるデモクラシイの成立は、高いコストの代償として勝ち取ってきたものである。デモクラシーを守為には戦争や貧困をしてでもあがなう価値のあるものという意識がイギリス国民には浸透している。民主的発想の最も根源的であるところは自由と、豊かさと、平和  「自由か、しからずんば死を与えよ」 (パトリック・ヘンリのアメリカ独立運動の演説1775年)というように、デモクラシーというのは米国や英国においては、最も尊いものである。デモクラシイはイデオロギーに基づく信念であり、デモクラシイを信奉する者にとってある意味で宗教かもしれない。
デモクラシイとは法の支配であって暴民政治ではない。デモクラシイが法の支配を失ったら、あっという間に暴民政治になり、デモクラシイを信奉する英国(グレートブリテン王国)人にとってデモクラシイを失くせば国家が荒廃すると信じているのであろう。

>スコットランドの独立賛成派のリーダーであるサモンド・スコットランド民族党党首は敗北を認め、持者を前に「スコットランドの人々は現時点で独立をしない決定をした。それを受け入れる」と述べた。
たとえ結果が反対であったとしても、イングランド側は結果を尊重したであろう。デモクラシイが浸透した英国(グレートブリテン王国)において結果を不服とした人達が武力的な反乱は起こさず、アラブの春のような未成熟社会が陥っているうような混沌とした混乱に今後陥ることはないはずである。

1707年にイングランドとスコットランドの合同法が成立し、両王国はそれまでの同君連合からさらに統合を進め、グレートブリテン王国として一体化した。
その民主的に成立した英国(グレートブリテン王国)において、民主的にスコットランド独立の可否を投票において問い、敗北した独立派が結果を受け入れることをは、まさにデモクラシイである。英国(グレートブリテン王国)はデモクラシイの灯であり、混沌とする世界において、希望の灯であると私は思った。