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2014年11月10日 俳優 高倉健さんがお亡くなりました、83歳でした。俳優 高倉健、本名小田剛一さんは最後まで名優 高倉健を演じ続けました。

高倉健さんが亡くなってNHKスペシャル 高倉健という生き方~最後の密着映像100時間~という追悼番組が放送されました。報道ステーションの追悼特集で取り扱われた左翼史観による歪んだ高倉健像と異なり、愚直な日本男児を演じ続け日本人を愛し続けた、高倉健がそこにいました。

これは2012年9月8日放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」を再編集したものです。上記のリンクは直ぐに切れると思います。リンクが着れる前にFC-2動画クリックしてご視聴ください。 切れた後は下のYouTubeで「プロフェッショナル 仕事の流儀」を視聴してください。

抜粋・文字興しby Ddog
――銀幕の中に生きることにこだわり素顔を見せることがほとんどなかった高倉さん 
1:11これから何十年も生きてるわけじゃないんだから 本音の話をちょっと そろそろしておかないと                                      ――― (略)                                          1:51 結局だから 映画が何なのかよくわからない (俳優人生が)始めるときは 生きる為にやっていたんですけどね  良い俳優になりたいとおもったからだろうね。たぶんギャラじゃないよね、それは、そこには来たような気がするね。 

――胸に秘めてきた覚悟の言葉が語られました

――かなり感情がたかぶられているようですが
2:45 まいった

――自ら語った孤高の生き方、名優心の軌跡です                    
高倉健という生き方 ~最後の密着映像100時間~
 
――残された時間についての記者の質問に                        
4:30 ある年齢になると考えだすよね 両親と別れたりさ、いろんな人と別れるじゃないの、そういうのが重なると人の命というのは どう努力したって 限りがあるっていうことを 意識するようになるよね。  

――幼少期生まれ育った九州の炭鉱町で気性が激しい人達にもまれて育った  
8:08 1年に何回も死体を見ましたよ 学校に行くとき けんかで 昨日ここでけんかがあったて ムシロかけられてね。盆踊りとか夏になると必ず1回や2回は死体を見たね。

10:10 米軍の落下傘が開かなくて落ちた死体とか たくさんみましたよ 落ちたところへ消防団より おれ達ガキのほうが勝手知ったる山だから 速かったしね 

なまなましい死体だよ おちたばっかりだもん 死骸を見ても怖くない 今考えればすっさまじいことですよね。 

17:30 ぼくはね ものすごく気が短いんですよ 実は非常に激しい NHKで言うことじゃないですけどね 今までにありましたよ「この野郎 殺してやろうかな」と思うこと 何回もありますよそういうことは だからああいう役をやるんでしょうね やったらお袋が悲しむんですよ 刺青やったりするのね・・・ 僕の中にはとってもあるんです あの血が 血ですねそれは よく今まで罪犯さないでここまで来たなと思いますよ 

――役作りの為に過酷な筋力トレーニングにも取り組みました。任侠映画シリーズは高倉さんをトップスターに押し上げた、毎日朝方まで行われる撮影、それが何年も続くと 高倉さんは心をすり減らしていきます。

20:11 俳優が何だかなんだかわからなくときだったんでしょうね 毎朝遅れてさ 1時くらいしかでないけど9時でだしとけ ・・・って。朝は来ない来てもセリフがロレロレで喋れない そういうのが何年も続き、だんだんなーなーになってくる
まともにやったら体が持たない・・やっぱ自分の体を守る為の防衛本能なのね 理屈を言えばだけど 

――かわいがられていた俳優小林念侍さんは、当時高倉健さんが 失踪騒ぎをおこしたことを明かしました。ポルシェに乗って銭湯に行く途中の助監督を乗っけ3ヶ月旅にでちゃったんですよ・・・それはすごいストレス解消法でしたよ・・・・最高に煮詰まっていたんだろうね。

――そんなある日 高倉さんは映画館に足をはこびます 上映されていたのは自らの主演映画 その客席の様子に衝撃をうけました。                  
22:30 通路も全部(観客が)座っているんだよ ドアが開いちゃって閉らないという 何回か劇場見に行ってね これ何なのかって 思ったことがあるよ わかりません 僕には 何でこんなに熱狂するのかなというのは 明らかに(観客は)観終わったあと 人が違っているものね 

――疲れ果て全力で演じてない自分に 夢中になってくれている人達 湧き上がってくる思いがありました いったい俺は何をやっているのだろう  俳優となって21年目45歳の時 高倉さんは大きな決断をしました。映画会社を辞め独立したのです。       
――敢えて厳しい道を選ばれていますか?                        
23:55 いやー・・・選んだんだね・・・やるって言ったから・・・それは運命ということでしょうね。やっぱり同じパターンのやくざ者ばかり何十本もやってても、それはやっぱ自分が変われないなぁと思って、志願して出てったんだけど・・・それは行った人しかわからない・・・・やっぱり何かそれは良い俳優になりたいと思ったからだね・・・

―― 一本の映画の出演の依頼が着ました、八甲田山、旧陸軍の遭難事故を描いた超大作、舞台は零下30度の冬山、そこで3年にわたる過酷な撮影前代未聞の撮影でした、この映画に高倉さんは俳優人生を掛け臨みました。猛烈な吹雪の中、高倉さんはじめ多くが凍傷になりました。

25:45 それはつらいよね あの雪の中で 体どんどん痩せていくしね じっとしているだけで痩せるんだよね 寒いって 

――3年におよぶ撮影の間 高倉さんは他の仕事をすべて断りました。経済的に苦しくなり次々と財産を処分し現金にかえました。

27:21いまでも覚えているけど 初めて買ったマンションね それからベンツのSL
SLも覚えてるねー・・・・二人乗りの・・・ 売り食いしたんだよ・・・CMもやっていない 何もやらない あれだけにかかりきりでやったから 

――高倉さんは心からやりたいと思える役だけを選び 全身全霊で挑んでいきます不器用だけれど 己の本分を全うしようと 懸命に生きる男を演じ続けました  
31:15笑うとか 泣くとか 怒るとか 刺青入れて 人を斬るとか 芝居には色々あるんだけど こういう人生もあって みなさんどう思いますかという こういう生き方も 悪くないんじゃないですか ということをちょこっと見せたいとかね その人の人生体験と言うか それが俳優さんの価値なんでしょうね 一番勉強されているのは 俺かもしれないね こういうのが良い人間だよということだよと お金もらいながら 教わってきたのかもわからないね 

――しだいに高倉さんは自らに向け一つの問をつきつけるようになります 自分はその役にふさわしい生き方をしているだろうか?

32:32 本人の生き方かな 生き方がやっぱり 出るんでしょうね テクニックではないですよね 柔軟体操も毎日いいトレーニングでやるとやわらかくなる あと本読んで勉強すればある程度の知恵もつくよね ああ、そういう 生き方っていうのは・・・
たぶん一番出るのもその人の・・・普段の生き方じゃないですかね- やー偉そうなこというようですけれど 

――懸命に生きてる人を演じる為には 自らも懸命に生きてはいなければならない
誰よりも映画に打ち込んでいなければならない 高倉さんは最愛の母が危篤になった時も誰にも言わず 撮影を続けました 

34:00 えーでも いま考えたらね 肉親の葬式誰も行ってませんよ それは結構自分に架してる おれはそれで撮影中止にしてもらったことはないよという 俺の中ではそれは あの プライドですね えー言ったら当然中止にしますって・・・3日間4日間中止にしますって なったと思うけど 一度も行ったことが無い 一回もないですね それはどこかで 俺はプロですよと思っていますよ

――苦しいと思われやってこられた?

34:44それは 捨てているもんだと思いますよ 別に捨てなくって やろうと思えばできるんだもんね

――映画の為に多くのものを捨てました 40歳で離婚してからは 家庭的な温かささえ遠ざけ その後独身を貫きました 生きていることは切なく 生きていることは愛おしい 高倉さんはすべてを背負って カメラの前に立ち続けます
演技には生き方が出ると自らを律してきた40年 やわらかい笑顔の向こうに どれだけの日々があったのでしょうか?

――50年以上俳優をやってきて長かったですか?
46:15まあ長かった・・たらながいしね あっというまといえばあっというまだしね

――背負われてきたものは?
46:33まあ無いよそんなもの 

――今の夢は?
46:47夢?なんだろね・・・いろんな国の人と映画を撮りたい。日本だけじゃなくてね それはなんというか強烈な・・・なんというかね 私が出てると日本人だよね そういう俳優になりたい 僕は中国人やりたいとか えーベトナム人になりたいとか思ったことが無い。どんなに舞台が何とかと言われても 何の興味も感じない 
日本人しかやりたくないと思っているから   
映画はかなわないですよ それ以外のピッピッピと刺激するもの 終り 

――高倉健と言う俳優が居ました 信じた生き方を愚直なまでに貫き通した人生でした

このドキュメンタリーを見て驚いたのは、高倉健さんの日常が私の想像していたよりもストイック。プロ中のプロ。現場では座らないで立っている。体を鍛える。ウォーキングを欠かさない。食べ物に気を遣う。酒・タバコはいっさいやらない。それでいて、ロケ現場に見学にきた人たちや撮影スタッフには、限りなく気を遣う。自分には厳しく、他人には優しい。

このドキュメンタリーを見るかぎり、カメラで撮影している間、いつでもどこでも高倉健なのだと・・・・。映画であろうが、密着ドキュメンタリーであろうが、高倉健さんは高倉健さんを演じているかもしえない。いや高倉健さんもやはり生涯、高倉健を演じていたのではないかと思います。それがプロの流儀だと思っていたからこそ、プライベートは明かさず、テレビにもほとんど出演しなかったのかもしれません。


俳優・高倉健さんの訃報が公表され、メディアは連日その死を悼む声を伝えている。高倉さんを30年取材したライターが、その知られざる素顔を明かした。

「本人の生き方が必ず芝居に出るんですよ」
 
 11月10日、悪性リンパ腫のため83歳で亡くなった高倉健さんは口癖のように語っていた。もともと食うために始めた俳優業だった。だが、「悔いなき人生」にこだわり、役になりきり人々を魅了した。出演作205本の大半で、「前科者」、社会の底辺を生きる人々を演じた。

「僕がいちばん大切に思うのは心ある人としての生き方、一つのことを貫く生き方。そういう人間は少なからず孤独な作業に命をさらしている。その状況で揉まれに揉まれ悶え苦しんだ者だけがやさしくてしなやかな心を持つことができる」(「アサヒグラフ」1994年8月5日号)

 ライターとして30年近く取材した谷充代さんは、そんな高倉さんの素顔を見た一人である。その顔は世の中で言われる「寡黙で不器用な男」とは違った。

「高倉さんの一番の趣味はおしゃべりだったと思います。気の置けない人との会話が大好きで、夜型のため、話し始めると、周りを寝かせてくれませんでした」

 人を笑わせるのも好きで、ユーモアのセンスがあった。一度縁を結ぶと、何年たっても冠婚葬祭では贈り物や便りを届けた。その優しさと気づかいの陰には高倉さんの深い孤独があったのではないかと谷さんは見る。

「寂しがり屋で、心を通じ合っていたいというメッセージだと思います。心の奥深いところに埋められない穴があったのではないでしょうか。以前、健さんが愛する人たちを喪(うしな)った悲しみを語ってくれたことがあります」

 高倉さんは、最愛の母が亡くなったとき、撮影中で葬儀にも行けなかった。いつも旅先には鞄に母の写真を忍ばせ、部屋の一番いい場所に飾り、花を手向けたという。

 自宅の全焼、江利チエミさんとの離婚と、「かけがえのないものが一瞬にして消え去る」体験もした。再婚はしなかった。

「情が深い人だったから、人に情をかけると際限なくなるので、自分をあえてストイックな状態に置いたのではないか。まるで修行僧のようでした」

去る11月10日に亡くなっていたことが明らかとなった俳優・高倉健さんを巡る報道について、テレビ朝日系で放送された『報道ステーション』の内容が、あまりに酷すぎると物議を醸している。

これは高倉さんの一斉に死が報じられた、同番組11月18日夜の放送分で、その中で、高倉さんが活躍した時代をなぞるように、「戦後の日本の映像」として学生運動の映像を流したり、当時、こうした運動に参加していた人を「街の声」としてレポートし、その男性から「たった一人の男の思いが時代の革命のエネルギーになっていくのかなという話をしてた」というコメントをピックアップ、高倉さんの功績に関する紹介や死を悼む声とは懸け離れた「別の内容」を紹介していた。そのため、放送直後からネット上では「こじつけだ」「全共闘を美化してやがる」「BPOの審議にかけるべき」といった批判が噴出している。

多くの視聴者が指摘するように、高倉さんが生前に全共闘世代の活動家たちを礼賛した事実はなく、強いて言えば、高倉さんの主演で大ヒットとなった映画の公開時期と、学生運動が盛んであった時期が近かったという程度という接点に過ぎない。同番組に対する批判が相次ぐ中、果たして局側がどのような対応を行うのか、注目されるところだ。

文・葛西敦規  
全共闘を美化した左翼も、反日中国においても高倉健さんは愛されていたようです。もっとも江沢民が反日教育をする前の日中関係は熱烈友好の時代でしたから・・・1979年に中国で公開された高倉健さん主演映画君よ憤怒の河を渉れ』が時代を代表する映画となったようで、あの中国人ですら高倉健さんの魅力に魅せられたようです。

中国人も熱狂、高倉健さんの「生きる流儀」
「プロフェッショナル 仕事の流儀」を見て思う

佐藤 智恵 :作家・コンサルタント  【東洋経済】2014年11月27日

中国で異例の報道
高倉健さんの逝去のニュースを受けて、筆者は海外がどんな反応をするかに注目していました。高倉さんは、『ブラック・レイン』(1989年公開)など、ハリウッドのヒット映画にも出演していたにもかかわらず、欧米メディアはほとんど放送しませんでした。

対照的に大々的に報じたのは中国です。中国では18日夜、国営の中央テレビが、25分間にわたって高倉さんを惜しむ特集を放送。これには驚きました。普段は日本のことを批判してばかりいる放送局が、高倉さんを大々的にたたえたのです。

その後も、外務省が哀悼の意を示したり、共産党系の新聞が追悼記事を掲載したりなど、異例の対応が続いています。そして、よく反日デモの参加者からペンキや卵を投げつけられていた、あの北京の日本大使館に、今、ファンから花が届けられています。

高倉さんは、近年、海外の映画人と映画を制作することに取り組んでいました。NHKのインタビューでも、「いろんな国の人と映画を撮りたい。日本だけじゃなくてね」と夢を語っていました。そうした中で、チャン・イーモウ監督の『単騎、千里を走る。』(2006年日本公開)に出演しました。

しかし、中国人にとって、高倉さんといえば、何と言っても映画『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)です。この映画は、「文化大革命」(1966~1976年)後に中国で初めて公開された外国映画。無実の罪を着せられながらも、真実を追求していく検事を演じ、中国の民衆から圧倒的な支持を受けました。高倉さんは自由の象徴であり、あこがれでした。プロフェッショナルの仕事は国境を超えるのだと、今回の中国での報道を見て思いました。

唐獅子牡丹 全歌詞 作詞・作曲:水城一狼・矢野 亮、唄:高倉健
一.
義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ
俺の心は お見通し
背中(せな)で 吠えてる
唐獅子牡丹(からじしぼたん)

二. 
親の意見を 承知ですねて
曲がりくねった 六区の風よ
つもり重ねた 不孝のかずを
なんと詫びよか おふくろに
背中で泣いてる 唐獅子牡丹

三.
おぼろ月でも 隅田の水に
昔ながらの 濁らぬ光
やがて夜明けの 来るそれまでは
意地でささえる 夢一つ
背中で呼んでる 唐獅子牡丹

四.
エンコ生まれの 浅草育ち
やくざ風情と 言われていても
ドスが怖くて 渡世はできぬ
ショバが命の 男伊達
背中(せな)で吠えてる 唐獅子牡丹

五.
白を黒だと 言わせることも
しょせん畳じゃ 死ねないことも
百も承知の やくざな稼業
何で今さら 悔いはない
ろくでなしよと 夜風が笑う

六.
親にもらった 大事な肌を
入墨(すみ)で汚して 白刃の下で
積もり重ねた 不幸の数を
何と詫びよか おふくろに
背中(せな)で泣いてる 唐獅子牡丹

七.
流れ流れの 旅寝の空で
義理にからんだ 白刃の喧嘩(でいり)
馬鹿な奴だと 笑ってみても
胸に刻んだ 面影が
忘れられよか 唐獅子牡丹

昭和38年生まれの私にとって任侠映画、網走番外地の任侠を演じた高倉健より、昭和52年の八甲田山、幸せの黄色いハンカチ、昭和53年の野生の証明以降の過去の影を背負った愚直な男を演じた高倉健のイメージがつよい。









①高倉健 プロフェッショナル仕事の流儀 2012 追悼 のコピー