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4月16日午前1時25分、震度6強、M7.3の地震が熊本阿蘇地方を中心に発生した。
M7.3は1995年の阪神大震災と同規模の地震であった。

肥後の国熊本で地震が起きるということは、三陸沖の貞観地震の前後、肥後の地震が起き富士山が爆発し、阿蘇山が噴火、南海トラフ地震、関東地方の地震と相次いだ平安前期の貞観年間859年から877年と同じになってきてしまった。

4月14日夜の発生の熊本地震は2011年の東日本大震災以来の震度7であったが、余震に過ぎず4月16日午前1時25分ごろに発生した震度6強(マグニチュード7.3)の地震が本震だというのだ。「前震」「本震」「余震」の違いは専門家でもわからないのだろう。誰もが震度7の地震がまさか前震とは思わないだろう。

震度6弱以上の地震も14日夜の震度7を含めて7回記録するなど大きな地震が頻発していてどれが本震なのか・・・2004年の新潟県中越地震のように、同規模の地震が複数回起きてどれが本震か判別しにくい群発地震のケースのようです。

突然大地が激しくうねった。14日夜、熊本県を襲った巨大地震。多くの家屋が崩れ、住宅街は停電による暗闇に覆われた。死者9人、けが人は1000人を超えた。東日本大震災以来となる震度7。強い余震はその後も続発し、避難者らは「怖くて家に戻れない」と途方に暮れた。専門家は「この揺れは日本を縦断する巨大活断層『中央構造線』の一部で起きた。南海トラフ、首都直下地震も刺激しかねない」と警鐘を鳴らす。 

 「今まで体験したことのない強さの横揺れを感じた。ぐわんぐわん揺れていた」

 激しい横揺れの後、突き上げるような縦揺れ。熊本市南区の飲食店にいた会社経営者の男性(31)は興奮した様子でその瞬間を振り返った。

 熊本県益城町(ましきまち)で14日午後9時26分ごろに発生した震度7、マグニチュード(M)6・5(推定)の大地震。県警は15日、建物の倒壊などによる9人の死亡を確認したと発表した。同日午前5時現在、県内のけが人は少なくとも860人で、うち53人が重傷。県内約500カ所に一時計約4万4400人が避難した。

 死亡が確認された9人は益城町の61~84歳の男性3人と54~94歳の女性4人、熊本市東区の29歳男性と68歳女性。県警と消防は被災者の救出作業を続け、被害状況の確認を急いでいる。

 倒壊する家屋に陥没する道路。熊本のシンボル、熊本城の屋根瓦は雪崩のように落ち、石垣の一部も崩れた。国内で震度7を観測したのは2011年3月11日の東日本大震災以来で、九州では初めて。15日午前0時3分ごろにも震度6強を観測するなど、余震とみられる強い地震は続き、午前10時までに震度1以上を123回観測した。

 気象庁は「平成28年熊本地震」と命名し、発生メカニズムについては、活断層が南北方向に引っ張られる横ずれ断層型との見解を示した。規模はM6・5と小さかったが、震源の深さが約11キロと浅かったことから、震度7と揺れが大きくなったという。

 東京大地震研究所の佐藤比呂志教授は「今回の地域では『布田川・日奈久(ふたがわ・ひなぐ)断層帯』という、この地域で知られている断層があり、地震や余震の分布から、『日奈久断層』がずれ動いたことによる地震の可能性が高い」と指摘する。

 「日奈久断層は、八代海に至る長い断層で、政府の地震調査委員会からはより規模の大きい地震の発生が想定されていた。今回の地震では、その北端部がずれ動いたと考えられる。今回は断層の北端区間が割れただけとみられ、今後も大きな余震が起きる可能性もある。しばらくは注意が必要だ」(佐藤氏)

 日奈久断層がずれた-。これはショッキングな事実だ。今回の地震は、熊本で起きた局地的なものに限られない恐れがあり、政府が将来必ず発生すると想定する南海トラフ巨大地震、首都直下地震とも無関係ではなくなってくる。

 夕刊フジで「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」を連載する武蔵野学院大の島村英紀特任教授がこう解説する。

 「原因となった活断層(日奈久断層)は『中央構造線』と呼ばれ、今回被害が発生した九州から四国の北部を通り、紀伊半島、愛知県、長野県へと1000キロ以上伸びている。中央構造線はいずれ地震を引き起こすと考えられていたが、歴史上記録が残っていなかった。つまり、今回の地震は日本人が初めて体験する中央構造線による巨大地震といえる」                           
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 気になるのは、他の地域への波及だ。島村氏は「中央構造線が通るほかの地域でも同じような直下型地震が起きる恐れがある。四国の愛媛県には中央構造線から約30キロの近距離に伊方原発があり、福島第一原発のような事故が起きないか懸念される。また、この中央構造線は心配される南海トラフ地震のプレートと並行しており、今回の揺れが何らかの影響を与える恐れもないわけではない」と説明する。

 今回の地震の規模はM6・5だが、島村氏によると、中央構造線によって引き起こされる規模は最大でM7級に及ぶという。

 「実は解明されていないだけで中央構造線は首都圏にも走っている可能性がある。約3000万人が暮らす首都圏でも、今回と同じかそれ以上の直下型地震が起きる恐れも考えられる。人口が多い大阪なども同様だ」(島村氏)

 被災地の益城町から北東約30キロには活火山の阿蘇山もある。島村氏は「地震がマグマの活動にどのように影響を与えるかについては、実態はよく解明されていない。しかし、過去には地震が起きた後に噴火した例もあり、またその逆もある」。十分な備えが必要だ。
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平成24年(2012年)以降の日本は凡そ1150年前、地震や噴火が相次いだ平安前期の貞観年間と似てきた。
850年11月23日(11月27日)(嘉祥3年10月16日) -出羽国地震、M7
863年7月6日(貞観5年6月17日) - 越中越後地震
864年7月 - 富士山の貞観大噴火(2年間)
864年11月 - 阿蘇山噴火
867年3月(貞観9年1月) - 鶴見岳(大分県)噴火
867年6月 - 阿蘇山噴火
868年7月30日(8月3日)(貞観10年7月8日) - 播磨・山城地震、M7、山崎断層か。
869年1月(貞観10年閏12月) - 摂津地震(7月30日の余震が続いていた)
869年7月13日(貞観11年5月26日) - 貞観地震
869年8月29日(貞観11年7月14日)肥後台風被害。同時に津波が襲った可能性あり。
871年5月(貞観13年4月) - 鳥海山(山形県・秋田県)噴火
874年3月25日(貞観16年3月4日)、仁和元年(885年)7月、同8月 - 開聞岳(鹿児島県)が大噴火。
878年10月28日(11月1日)(元慶2年9月29日) - 相模・武蔵地震、M 7.4
880年11月19日(11月23日)(元慶4年10月14日) - 出雲で地震、M 7
887年8月26日(仁和3年7月30日)- 仁和地震南海トラフ巨大地震?)M8.0〜8.5
893年 - 国外の白頭山噴火にともない北日本(東北地方・北海道)に降灰。

(869年=貞観11年)の時期の国家は、旱魃・飢饉・疫病が拡大し、さらに地震が頻発するという不安定な情勢に対して深い恐れをいだいた。この年の年末一二月、清和が各地の神社に提出した「願文」は、それをよく示している。(中略)この清和の願文は、宣命体といって、神主があげる祝詞の文体で書かれている。そのため読みにくいこともあって、これまで見逃されてきたのであるが、この史料は地震史料としても重要なものである。
 該当部分を引用すると、「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり」とある。現代語訳をしておけば、「肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。故老たちもこのような災害は聞いたことがないという。そして、陸奧国からも異常な地震災害について報告があり、さらにその他の国々からも地震災害の報告があった」ということになる。

 これによって、この八六九年(貞観一一)、陸奥沖海溝地震のほかに、肥後国でも、また「自余の国々」(その他の国々)でも地震災害があったということがわかる。まず後者の「自余の国々」の地震が何カ国ほどで、どの程度の地震であったのかが問題であるが、これについては九世紀陸奥沖海溝地震の震源はむしろ遠く北にあったのではないかという前記の石橋克彦の想定、および地震学の平川一臣が同地震による津波の残した砂層が北海道十勝・根室の低湿地まで確認できるとしていることを考慮しなければならない。しかし、陸奥沖海溝地震が陸奥国のみでなく、関東地方でも被害をだした可能性は高いだろう。また三.一一東日本太平洋岸地震は関東から四国・九州まで多数の誘発地震を引き起こしているから、その規模は別として九世紀においても全国的な影響があったことは疑いないだろう。

 そのうちで現在、文献史料をあげることができるのは、陸奥沖海溝地震の約一月半後、七月七日に発生し、京都でも感じられ、大和国南部で断層を露出させた誘発地震である。(中略)

 より大きな誘発地震は、陸奥沖海溝地震の約二月後の七月一四日、肥後国で発生した地震と津波であった。その史料を下記にかかげる。

 この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍・民居、顛倒(てんとう)するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭(ひろ)ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、数百里、陷ちて海となる。(『三代実録』貞観一一年七月一四日条)

 簡単に現代語訳しておくと、「この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、海よりの六郡(玉名・飽田・宇土・益城・八代・葦北)が水没してしまった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百里が沈んで海となった」(数百里の「里」は条里制の里。六町四方の格子状の区画を意味する)ということになろうか。問題は、これまで、この史料には「大風雨」とのみあるため、宇佐美龍夫の『被害地震総覧』が地震であることを疑問とし、同書に依拠した『理科年表』でも被害地震としては数えていないことである。

 しかし、この年の年末にだされた伊勢神宮などへの願文に「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり」とあったことはすでに紹介した通りで、相当の規模の肥後地震があったことは確実である。津波も襲ったに違いない。これまでこの史料が地震学者の目から逃れていたため、マグニチュードはまだ推定されていないが、聖武天皇の時代の七四四年(天平一六)の肥後国地震と同規模とすると、七.〇ほどの大地震となる。ただ、この地震は巨大な台風と重なったもので、台風は海面にかかる気圧を変化させ、高潮をおこすから被害は大きくなる。それ故にこのマグニチュードはあくまでも試論の域をでないが、それにしても、一〇〇年の間をおいて二回も相当規模の地震にやられるというのは、この時代の肥後国はふんだりけったりであった。

 清和は一〇月二三日に勅を発して、全力で徳政を施すことを命じ、国庫の稲穀四千石の緊急給付に支出し、「壊垣・毀屋の下、あるところの残屍、乱骸」などの埋葬を指示している。被害は相当のものであったに違いない。なおこの勅にも「昔、周郊の偃苗、已を罪せしに感じて患を弭め」とあることに注意しておきたい。周の地に偃した苗脈(地脈)の霊が、文王が自分の罪を認めたことに感じて災いをやめたということであって、その典拠は、聖武以来、つねに参照される『呂氏春秋』の一節である。それだけに、清和朝廷は、この勅の起草にあたって、聖武の時代の肥後地震の記録をふり返ったに違いない。そして、聖武の時代の肥後地震の翌年、七四五年(天平一七)に、紫香楽京にいた聖武を美濃地震が直撃したことにも気づいたのではないだろうか。そして、彼らは同じような事態の成り行きをなかば予知し、恐れたのではないかと思う。

 そもそも、肥後国は阿蘇の聳える地域であり、富士山の大爆発の後に、小規模であれ、阿蘇も噴火している。そこを舞台として地震・津波が発生したというのは、火山の中で、阿蘇の動きをきわめて重視していた当時の人々にとって、真剣な顧慮の対象であったはずである。神話的な直観のようなものであったとしても、八・九世紀の人々が、経験を通じて、地震の全国的な連動を直観していたということはいえるのではないだろうか。なお、三・一一の東日本太平洋岸地震においても、そののち熊本県での地震が活発化している。もちろん、陸奥沖の地震と、熊本(肥後)の地震が直接に連動するわけではない。しかし、列島の地殻の全体が不安定性をます中で、肥後地震が誘発されたことは明らかである。
以上のように貞観年間を挟む数十年年間で、三陸沖の地震と津波、富士山の爆発、阿蘇山の噴火と肥後地方の地震、南海トラフ地震、関東地方の地震が立て続けに起きた。歴史をひもとくと、巨大地震は一定のパターンで、繰り返し、起こっていることがわかる。

驚くことにこの40年ほど起きた大地震と見事に符合しているのだ!

◆(1)830年2月3日には出羽国大地震(秋田城が被害)これと近い位置で
  →1983年5月26日に起きた日本海中部地震(M7.7)

◆(2)841年 長野県中部の地震(糸魚川―静岡構造線断層帯に属する松本盆地南東縁の牛伏寺断層などに引き起こされた地震)
  →1984年9月14日 長野県西部地震(M6.3)

◆(3)841年 伊豆半島地震(半島北部を南北に走る北伊豆断層帯から引き起こされた地震)
  →1974年5月9日伊豆半島沖地震(M6.9)

◆(4)850年 出羽国南部の地震
  →2008年6月14日 宮城内陸地震(M7.2)

◆(5)863年7月10日 富山・新潟の地震
  →1964年6月16日 新潟地震(M7.5)、2007年3月25日 能登半島地震(M6.9)、2007年7月16日 新潟県中越沖地震(M6.8)

◆(6)868年8月3日 播磨地震(兵庫、岡山)/869年1月(貞観10年閏12月)
   - 摂津地震(播磨地震の余震?)
  →1995年1月17日 兵庫県南部地震(M7.3)

◆(7)869年7月13日 貞観地震(宮城県沖)
  →2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震(M9.0)

◆(8)869年7月14日 肥後地震(熊本)
  →4月16日 九州中部群発地震(仮称)(M7.3)

恐ろしいことに9世紀に起こって、それに符合する地震がまだ起きていない地域がある。

(1)貞観大噴火 = 864年(貞観6年)~866年(貞観8年)――富士山噴火
(2)相模・武蔵地震 = 878年(元慶2年)          ――関東大地震
(3)仁和地震(東海 東南海 南海連動? M8.0~8.5)= 887年(仁和3年) ――東南海大地震
(4)出雲地震(出雲)=880年11月19日(11月23日)(元慶4年10月14日)
(5)火山噴火 鶴見岳(大分県) 鳥海山(山形県・秋田県) 開聞岳(鹿児島県)

●今後30年間の発生確率が60%に高まっている南海トラフ地震、前回の南海地震(1946年)は規模が小さかったため、今度の南海トラフ地震は東海・東南海との3連動も含め巨大地震の恐れがある。


首都圏。近い将来、あと3回大きな地震が将来確実に予想される。
・マグニチュード(M)8クラスの房総沖地震、
M7クラスの首都圏直下型地震、
M8クラスの東海地震。東海地震はM9クラスかもしれない。

富士山と阿蘇山の噴火
 地震よりも箱根や阿蘇山の破局噴火の方が恐ろしい。
iRONNA】巽好幸(神戸大学海洋底探査センター長、同大学院理学研究科教授)

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一連の貞観の大地震の締めは日本ではなく朝鮮と満州国境の白頭山の大爆発である。

893年 - 国外の白頭山噴火にともない北日本(東北地方・北海道)に降灰。



参考
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10世紀噴火噴出物において2回の噴火での火砕流において、最初の白色の流紋岩質火砕流は高速で流れながら火山体の全周50kmの範囲を薄く(平均の厚さ1m)覆い尽くしました。2回目の火砕流は黒灰色の粗面岩(そめんがん)質火砕流で、火山体から放射状に発達した深さ20mの谷をすべて埋めつくして火口より約25kmの範囲まで流れています。この2回の火砕流によって白頭山山頂から約50kmの範囲の動植物は壊滅的な被害を受けたことは想像に難(かた)くありません。もちろんこの範囲内に集落があったとすると火砕流によって破壊され、焼き尽くされた可能性が高く、渤海王国時代に“白頭山下初洞”の村と称された奶頭山(ないとうさん)遺跡もその可能性があります。

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白頭山の10世紀巨大噴火は、周辺に住む人々に、どのような影響を与えたのでしょう。遠く1000㎞離れた日本の北海道から東北地方にも灰を積もらせるほどですから、大きな被害があったことは想像に難くありません。それほどの噴火がなぜ古文書に残されなかったのかについては、その当時の周辺王国の政治的不安定に起因すると考えられますが、もっと簡単な解釈としては、近いところで噴火に遭遇した者は全て火砕流や土石流で命を落とし、記録を残すことができず、また、遠くで噴火を見た者は、全山ばかりでなく周囲一帯をも覆いつくす噴煙の黒雲のなかで、いったい何が起きているのか判断することができなかった、というのが正しいのではないでしょうか。




お亡くなりになった方々のご冥福を祈ります。また被害に遭われた方々が一日も早く元の生活が出来るよう些少ながら寄付させていただきます。

【緊急募金】平成28年熊本地震災害義援金 期間:2016/04/15〜2016/05/31