【ワシントン=青木伸行】オバマ米大統領と米政府は、現職大統領として初めて広島市を訪問することを、前向きに検討してきた。国内世論などをなお、精査したうえで最終的に判断する方針だが、来年1月で任期が切れる政権のレガシー(政治的遺産)として「核兵器なき世界」を残し、被爆地訪問を通じ理念を推進するメッセージを発したいとの思いがある。

先に広島市の平和記念資料館(原爆資料館)を訪問したケリー国務長官は帰国後、大統領に被爆地訪問の大切さを伝えた。ホワイトハウスも「核兵器なき世界」の重要性を、「最初に核兵器の犠牲になった広島ほど、強力に象徴する都市はない」(アーネスト大統領報道官)とし、訪問を前向きに検討していることを明らかにしていた。

日米両政府は、オバマ氏が訪問する場合の主な意義を(1)原爆死没者を慰霊し、世界の恒久平和を祈念(2)日米の“歴史問題”の払拭に努め、絆を強化(3)オバマ氏が2009年、プラハ演説で打ち出した「核兵器なき世界」の強調-と位置づけている。

また、オバマ氏が広島を訪問しても「米国と人類の自由のために、第二次大戦で戦った米国人の勇気を支持するという考えに変わりはない」(アーネスト氏)とし、被爆地訪問は「謝罪」には当たらないと、予防線を張っている。

オバマ氏は核削減に向けたロシアとの交渉や、北朝鮮の核開発問題など「残された課題は多い」としている。広島を訪問すれば、道半ばの核軍縮を後押しするうえで意義は大きい。

米紙ワシントン・ポスト電子版は15日、1945年に広島、長崎に原爆が投下されて以来、核兵器が使われなかったという「偉業」を次の70年も続けるための土台を築くべきだとする社説を掲載し、オバマ米大統領に広島訪問を促した。

ニューヨーク・タイムズ紙もオバマ氏の広島訪問に賛同する社説を掲載したばかり。現職米大統領による初の被爆地訪問に、肯定論が広がっているようだ。

ポスト紙は、オバマ氏は広島で、核の恐ろしさに警鐘を鳴らし続けてきた被爆者や日本の人々に対する敬意を表明するべきだと主張。米国による原爆投下の是非に踏み込む必要はないはずだと指摘した。

広島訪問には、米大統領選の共和党指名確保を目指す実業家トランプ氏らの批判が予想されるが、核兵器が使われない時代を継続するには「献身」が必要だとして、オバマ氏に決断を求めた。(共同)
ホワイトハウス高官によれば、国家安全保障会議(NSC)がアメリカの世論が大統領の広島訪問を「前向き」に受け止めていると判断し、大統領に訪問案を提示しているようだが、今度は米国内の保守派が反対の立場を言い出した、はたしてオバマは本当に広島に行くのであろうか?

2009年(平成21年)の4月5日、就任早々のオバマは、チェコの首都プラハ・フラチャニ広場で演説し、

「核保有国として、核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任があります。米国だけではこの活動で成功を収めることはできませんが、その先頭に立つことはできます。その活動を始めることはできます。従って本日、私は、米国が核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意であることを、信念を持って明言いたします」

と、アメリカが核兵器廃絶の先頭に立つことを宣言し、ノーベル平和賞を貰ったものの予想通り、まったくその任期中に核廃絶どころか、まったくその動きを米国はしなかった。北朝鮮が核実験を強行したり、トランプ次期大統領候補が日韓に核兵器保有を容認する発言をするなど、世界は核兵器が拡散し使われるリスクが高まった。
私はオバマ就任前より演説が上手いだけの口先だけの大統領とこのブログで書いているが、まったくその通りだった。

何の成果のないオバマは、伊勢志摩サミット終了後の5月27日にアメリカ軍のヘリを使い、広島に移動することで調整している。広島に数時間ほど滞在し、平和記念公園での献花や、大統領就任直後の2009年に世界に核軍縮を呼びかけた「プラハ演説」のような演説をすることも検討されている。安倍首相も同行する方向らしい。

オバマ大統領の広島訪問を巡っては、ジョン・ケリー国務長官が4月11日、広島市の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し「すべての人が広島に来るべきだ。大統領にもその一人になってほしい」と述べて地ならしを行った。

いくら演説しても金正恩にはまったく無駄だろう。むしろ二度と広島のような悲劇を起こさないよう北朝鮮中国を牽制する演説の方が広島ではふさわしいでしょう。

オバマ米大統領、広島訪問明言せず
【産経ニュース】2016.4.24 11:57

 【ワシントン=加納宏幸】オバマ米大統領が5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席に合わせて広島を訪問する見通しになっていることについて、訪英中のオバマ氏は22日、記者の質問に「アジアに行くまでアジアについて尋ねるのは待ってほしい」と述べ、明言を控えた。

一方、佐々江賢一郎駐米大使は22日、ワシントンでの記者会見でオバマ氏の広島訪問に関し、「何も決まっていない。日米間で調整していることもなく、米政府が判断することだ」と語った。日本側からの訪問要請についても否定した。
最終的にオバマは広島に行かないのではないかと思っている。もし行ったとしても、絶対に原爆投下についてアポロジャイズはないと思う。

もし行って謝罪したならば、米国人のアイデンティティは崩壊してしまうからだ。
米国人も広島や長崎の原爆、東京大空襲は明らかに犯罪行為であると薄々感じていて、謝罪は自分達の犯罪行為を認めてしまうことになる。

米国の世論調査でアメリカ人の相対的多数が、日本に対する原爆使用をいまだに支持しているにもかかわらず、圧倒的に多くのアメリカ人は、核兵器の発明は良くないことだったと答えている。相反する見方が存在している。

このような相反する見方は、原爆を投下しなくても、アメリカが戦争に勝利していたことは疑いがない。兵士の犠牲が抑えられた、という説についても検討した上で、事実をすべて考慮すると、原爆の使用はおそらく不必要だった、マッカーサー元帥自らが、原爆投下は誤りだったと考えていた。

米国社会は本音と建前の社会である、そしてうっかり謝罪するととんでもない目に遭ってしまうのが米国社会の本質であり、良心があっても発動しにくい社会だ。

家内がDVDでザ・ホワイトハウスという米国のTVドラマを視ている。
お茶を飲みに居間に降りていくたびに部分的に視てしまうのだが、世論調査と、政府の様々な機関、政府高官の人間関係で様々なことが決まっていく印象だ。
『ザ・ホワイトハウス』(The West Wing)は、アメリカの放送局NBCで1999年から2006年にかけて放送されたドラマで、ホワイトハウスを舞台に大統領とその側近達を中心に描いた政治ドラマである。
エミー賞史上、多くの記録を樹立したテレビドラマとして知られる。エミー賞の最優秀作品賞を4年連続受賞し、ドラマシリーズ全体では計26回受賞(史上最多)、ファーストシーズンでは9個受賞(史上最多)、単一シリーズでも9個受賞(史上最多)などの史上最多記録した。また、ゴールデングローブ賞最優秀作品賞では2000年に受賞し、他に1999年・2001年・2002年・2003年の計4度ノミネートしている。くわえて、全米映画俳優組合賞最優秀アンサンブル演技賞(ドラマ部門)を2年連続で受賞。
フィクションを真に受けるわけではないが、全知全能のスーパーマン達が世界を動かしているわけではないので、ホワイトハウス内の実状もドラマのような俗物的なドタバタがあるように思う。

日中戦争は「日米戦争」だった
【週刊新潮】2012年5月31日<変見自在> 高山正之 

 米国は十九世紀末、日本封じ込めの一環としてフィリピンを植民地にした。
米国支配を嫌う原住民はみな殺しにした。米国の自己申告では「殺した地元民は二十万人くらい」(上院公聴会)という。
米国は恐怖で屈服させたフィリピン人に今度は銃を持たせて訓練した。日本軍がきたとき彼らを米兵の盾にして戦わせるためだった。

四十年後、予想通り日本車四万余がリンガエン湾に上陸した。マッカーサー以下三万人の米軍は十二万人の現地兵を盾に戦ったが、殲滅されてしまった。
この戦いを日本車は「米軍と戦った」と記録する。戦ったのは半分以上現地兵だったが、フィリピンと戦った」意識はない。

マレー半島では日本車は英印軍十万をやっつけてシンガポールを落とし穴。
この戦いも日本はあくまで英国と戦った。英軍の前衛はインド兵だが、インドと戦ったつもりはない。
日本は中国大陸でも戦った。そこの中国人とはかつて日清戦争で戦った。

その後は彼らを日本に留学させ、国造りを支援したが、あるときから彼らは反抗的になった。なぜかは中国だけ見ていても分からない。
たとえば米国を見る。この国は日本が日露戦争に勝つとすぐ北京に清華大を建て、日本に流れる留学生を顎足つきで米国に誘った。
米国から戻ってきた留学生は蒋介石につき、米国の意向に沿った反日政策を遂行した。
孔祥煕や胡適がその代表格で、とくに胡適は「米国を引き込め」と盛んに蒋介石に吹き込んでいる。
日本を潰さないとアジアの利権が危うくなると欧米諸国は認識していた。

それでドイツは中国陸軍を強くして日本にぶつけた。それが第二次上海事変だ。
米国は中国に空軍を持たせて日本を叩くことを考えた。操縦は難しいが、歩兵がやっとのフィリピン人よりまだ中国人は使えると思ったからだ。

で、第一次上海事変直後に米国は杭州に飛行学校を作り、教官にクレア・シェッノートら を派遣した。
その成果が第二次上海事変たった。日本車はドイツ製の火器やトーチカ群にてこずったが所詮、中国軍は中国軍だった。二十倍の兵力でも殲滅されてしまった。

米国が養成しか中国空軍はもっとお粗末だった。黄浦江にいた巡洋艦「出雲」をカーチス・ホークⅡとノースロップ爆撃鉄で襲わせたが、三機が撃墜され、二機は「出雲の弾幕が怖くて」(ジョン・パウエル『在支二十五年』)適当に爆弾を落とし、外灘(バンド)にいた中国人ら数百人を殺した。

呉服付近では中国空軍機が英巡洋艦を間違って爆撃したが、この中にシェッノートもいて危うく撃ち落とされそうになったと自伝にある。

中国人の操縦下手にルーズベルトも呆れ、米軍操縦士に中国人を装わせて飛行機を飛ばすことになる。世に言う「フライングータイガー」がそれだ。

そのころにはドイツが手を引き、米国が代わって中国地上軍の強化も担当した。つまりここもフィリピンと同じに米国が装備から訓練まで面倒見て、中国兵を米軍の代りに日本軍と戦わせた。

それが見える形になったのが援蒋ルートの要衝、龍陵の攻防戦だった。
そこで戦った五十三師団の平出敏夫と現地を歩いた。
「中国兵は三日攻撃し三日休んだ。指揮する米兵の休暇に合わせていた」「二万の中国兵が我々の守る山に取りついた。十分引き付けて撃った。見る間に彼らは死体の山を築いた」浮足立つ中国兵に後方から米兵の「突っ込め」という声が聞こえ、軽機銃の発射音が続いた。督戦隊が逃げる兵を撃つ音だった。

靄が晴れたとき、遠くに白マント姿の米兵を平田は見た。「米兵は一個中隊に一人がついていた。中国兵はほとんど子供だった」。
米軍は子供でも鉄砲は撃てることを知っていた。
龍陵にはここで戦死した米兵二十八人を祀る記念館があり、息子ブッシュの「日本と戦った中国との友情」を謳う手紙が飾られていた。

中国で日本は米国と戦った。蒋介石も毛沢東も単に現地兵の一人だったのだ。
(二〇一二年五月三十一日号)
広島長崎は日本が真珠湾を襲った結果からか?日中戦争の裏には米国が糸を引いていたのである。日本に戦争を仕掛けてきたのは米国の方である。

アメリカも原爆投下を、正当化してきた。原爆投下が戦争を早期に終結させ、多くの人命が救われたというのはウソだ。戦争を早く終結するために、原爆を用いる必要はまったくなかった。

朝鮮戦争後解任されたマッカーサーは米国上院外交防衛委員会などで、東京裁判が不正だったことを、マッカーサー本人が認めたものだ。 マッカーサーは朝鮮戦争を戦って、初めて日本が自衛戦争を戦ったことに、気づかされた。日本の主張、が正しかったことがわかった。

 米国のウソをヒロシマは忘れない
【週刊新潮】2012年8月9日<変見自在> 高山正之 

 昭和十九年春、日本車はビルマからインド東部インパールに進攻を始めた。
狙いは二つ。中国への補給路、いわゆる援蒋ルートの起点ディマプールを叩く。
併せて英国支配下のインド人を覚醒させ、独立を促すはずだった。

しかし日本に時の利はなかった。発進地となるビルマのアウンサンは「インド人は英国の手先になってビルマを苛めてきたから」と協力を断ってきたどころか、彼は敗勢の日本をとっくに見切って「英国側に内通していた」(ルイス・アレン『日本車が銃をおいた日』)。

戦力も不利だった。日本側は制空権もなく、加えてディマプールには米国の新鋭戦車M4までもが続々送り込まれ、貧相な装備の日本車を待ち受けていた。
それでも八万将兵はチンドウィン川を渡り、コヒマ、インパールを攻めた。
M4戦車は日本の対戦車砲弾を弾き返し、急な山の斜面も駆け上がって塹壕に籠る日本兵をキャタピラでミンチにした。

激戦地の一つミッションヒルでは英軍機が野戦病院にまで銃撃を加えた。
地上の英即軍が生き残った者を担架ごと運びだし道路に並べた。
英軍将校が検分し、士官クラスを見つけるとトラックの上に運ばせた。
「捕虜として尋問するのだろう。残りはと見るとグルカ兵が担架にガソリンをかけて点火した。一瞬火が走り、悲鳴が上がった」(伊藤桂一 『遥かなインパール』)

トラックで運ばれた日本車士官のその後は分かっていない。尋問された後、やはりガソリンをかけられ焼き殺されたのだろうか。

彼らの消息について九〇年代、バングラデシュのチッタゴンで地元紙「アザデ」の主筆ムハマドーハレドからあるいはと思われる話を聞いた。

「小学生のころあの戦争があった」という主筆は街の上を飛んでいく日本軍機に手を振り、撒いていったビラも「人事に隠し持っていた」という。

バングラデシュはベンガル人の国という意味だ。彼らはインド人に、さらにその上の英国人にも好きにいたぶられた。日本車はその地獄から解放してくれると信じられていた。
飛んできたのはアキャブに進出した加藤隼戦闘隊だろう。戦史叢書には偵察飛行の折に宣伝ビラを撒いたとある。

それほど心待ちした日本車はついにこなかったが、戦争末期「日本車の捕虜が後送されてこの地で亡くなった」という。
どこの戦場かは不明だが、チッタゴンはインパールとは直線にして三百五十キロほど。あのトラックがここにきた可能性は高い。
日本兵の遺体処理を任された父たちは「英印軍墓地の一角に埋葬した」と。
墓地を訪ねると階段状に墓石が並ぶ最上段の「陽の昇る側」に二十五本の墓標が並んでいた。遺品の片仮名をなぞったらしい仮名文字がその上に刻まれていた。
「我々が日本車にできたのはそれだけだった」
ずっとあと、ベンガル人が自分たちの国を立ち上げたころ、ポールーチペッツが講演にきた。広島に原爆を投下したエノラゲイの機長だった男だ。
「日本人十万人を殺した。それが自慢の男の来訪に私の新聞は反対した。他の新聞もそれに倣い、チペッツは講演もしないで帰って行った」。新聞人なら当たり前のことだと主筆は言った。

チペッツに原爆を投下させたのはトルーマンだ。彼はやむを得ない選択と言いながら、実験を兼ねて長崎にも別タイプのプルトニウム爆弾を落とした。

嘘つき大統領について東京裁判判事のレーリンクは「彼は二十五世紀に宛てたタイムカプセルに『広島市民には投下前に三度も避難勧告をした』という大嘘を入れさせた。米国の残虐さを隠すために」と著書で告発する。
今年の原爆忌にそのトルーマンの孫クリフトン・トルーマン・ダニェルが来日する。

日本の馬鹿なNGOが呼んだというが、呼ばれた孫はどの面下げて何をしゃべくりにくるのか。
祖父の嘘を上塗りするだけなら、はっきり言おう。日本に来るな。
(二○一二年八月九日号)
 日本の護憲勢力の主張もおかしい。どうして原爆を落とされた側か、「過ちは二度とおかしません」と誓わなくてはならないのか。謝罪すべきは、アメリカだ。東京裁判でのアメリカ人弁護人が抗弁したように、裁かれるべきは、アメリカだった。アメリカが原爆投下について、謝罪をしたことはない。「核なき世界」を掲げてノーベル平和賞を受賞したオバマも広島に行ったとしても謝罪はしないだろう。

戦後50年目の1995年、ワシントンのスミソニアン宇宙航空博物館が企画した広島・長崎の原爆展は退役軍人会や米議会、ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズをはじめ米メディアの猛批判を受けて中止に追い込まれた。

「米国は原爆を日本に投下したのは『戦争終結のために必要だった』との立場を崩していない。戦争終結後、当時のトルーマン大統領は専門家の分析をもとに、『原爆投下がなければ戦争が長引いて数十万人の米兵がさらに命を落とした』と公言し、米国民の間に“他に選択肢がなかった”という方便が広く浸透してしまっている。

大統領や政府高官が原爆投下について日本に謝罪するのは『タブー』なのである。