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葛飾北斎が江戸の日本橋を描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
オランダのライデン国立民族学博物館所蔵で、長年作者不明とされてきた6点の絵が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849年)の作品である可能性の高いことが22日、分かった。西欧の水彩画の技法を使った異色の作品で、当時交流があったとされるドイツ人医師、シーボルトらの影響を受け、描いたとみられる。

 長崎市で開かれた「国際シーボルトコレクション会議」で、同博物館シニア研究員のマティ・フォラー氏が報告した。6点のうち5点は和紙に江戸の街並みを描いた風景画で、残る1点は版画。これも江戸の風景が描かれている。

 同博物館はシーボルトが日本からオランダに持ち帰った絵画などのコレクションを所蔵。2年前、シーボルト直筆のコレクションの目録が見つかり、フォラー氏が照会したところ、今回の6点に関し、「北斎がわれわれ(欧州)のスタイルを使って描いたもの」との記述があった。絵の特徴も細かく記されており、北斎作の可能性が高いとみている。(共同)

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葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の品川周辺とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の赤羽橋周辺とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の両国橋とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた石版画。江戸の永代橋とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が江戸の日本橋を描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
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江戸時代の出島を描いた絵、これは?・・・・http://www.webkohbo.com/info3/nagasaki/nagasaki3.html

北斎の肉筆画と判明 「作者不明」西欧の水彩画風の6枚
【YahooNews】西日本新聞10月22日(土)10時10分配信

長崎のオランダ商館で働いていたシーボルトは1826年に江戸に上った際、北斎らと面会したことが分かっている。同博物館には、この6枚とは別に、北斎の肉筆画と認められた11枚が伝わっている。
調べてみたら11枚どころではなく、もっと沢山の北斎肉筆画が海外に流失しておりました。

シーボルトと北斎はなんと交流があり、沢山の肉筆絵画を注文していたと言うのです。
ただし、娘の応為であるとか弟子の魚屋北渓などが画いた北斎工房の作品が混ざっている。
しかしながら、西洋絵画では中世から続く徒弟制度が依然として続けられていた為、例えばレンブラント筆とされる大作の絵画の多くはレンブラント工房の製作、であるように、北斎工房製の絵画はやはり北斎の絵として判断していいかもしれません。
 1999年、アメリカの「ライフ誌」が行ったアンケート調査「この1000年でもっとも偉大な業績を残した世界の100人」で、日本人で唯一選ばれた江戸の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)。印象派などヨーロッパの近代絵画に大いに影響を与えたことが知られる彼は、実は、長崎出島の医官シーボルトとも交流があった!? 現在、江戸東京博物館では、北斎の芸術を一望しながら、彼と出島の外国人たちとの交流も紹介する「北斎―ヨーロッパを魅了した江戸の浮世絵師」が開催中だ(2008年1月27日まで開催)。この北斎とオランダ人との交流の謎を、展覧会の代表者である名古屋市美術館学芸課長の神谷浩氏に聞いた。

 (2008年2月9日~3月23日に名古屋市美術館に巡回、4月5日からは山口県立萩美術館・浦上記念館に巡回する)

展覧会は2部構成


 この展覧会は、オランダ国立民族学博物館のキュレーターであるマティ・フォラーさんが「北斎と長崎出島のオランダ人との交流を紹介したい」と提案したことから始まりました。

 というのは、彼の職場であるライデンのオランダ国立民族学博物館とパリのフランス国立図書館に、北斎が描いたという不思議な絵があったんです。これが今回ご紹介している作品群で、ライデンの方が長崎出島の医官だったシーボルトが民族資料として持ち帰った15点、パリの方が出島の商館長(カピタン)を務めた後、フランスに移住したヨハン・ヴィレム・デ・ステュルレルが持ち帰った25点。北斎画というにはその出来にかなりばらつきがあるので、研究者たちは、この中のどれが北斎の絵で、どれが弟子の絵なんだろうか、なんて首をひねっていたんですが、それをフォラーさんが、とりあえず作者の推定まで一生懸命やってくれたんです。

 そこで、この研究の成果をぜひ日本で紹介したい、ということになりまして、まず第一部で、彼の研究に基づいた展示を行い、第二部で、有名な《冨嶽三十六景》や、新発見の《四季耕作図屏風》などを含めて、北斎の芸術を一望できる展示にした、というのが今回の展覧会の構成です。

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北斎 《四季耕作図屏風》 文化年間(1804-18)中期 紙本著色 107×292センチ 個人蔵

北斎とシーボルト

 展覧会の第一部では、北斎とシーボルトの交流に焦点を当てています。しかし、北斎とシーボルトの接点を物語るような決定的な記録は、残念ながら出てきていません。ただ、いろんな状況証拠から、どう考えても2人は出会っていただろう、と思わざるを得ないんですね。

 例えば、当時、長崎出島のカピタンは、4年に1度の江戸参府が義務付けられていました。北斎も1700年代後半、まだシーボルトが来日する前に、すでに『東遊(あづまあそび)』という狂歌絵本の中で、出島の外国人たちが江戸で定宿としていた「長崎屋」の様子を描いているのですが、ちょうどこの頃、彼は出島のカピタンとトラブルを起こしているんです。

 『古画備考(こがびこう)』(1845年から50年にわたって編集される)という本に書かれている記事には、この頃、北斎はカピタンと彼に同行してきた医者に、日本人の男女の一生、つまり生まれた時からお葬式までの様子を2巻1セットの巻物を2セット描きました。出来上がった絵を彼らの宿に持参すると、カピタンは約束通り150金を支払ったのですが、医者の方は「自分は貧乏だから75金にしてくれ」と値切ってくる。そこで、北斎は、「金がないなら、ないと最初に言ってくれれば、絵の具を安くするとかいくらでもコスト削減の手立てがあったのに」と怒ってね、医師には絵を渡さずに帰ってしまった。すると、奥さんから「なんで75金でOKしなかったのよ」と叱られた、という記事なんですね。

 つまり、北斎は、長崎出島のカピタンのために絵を描いていたことが分かる。そして、もしかしたら、この医師はシーボルトかも知れないんです。シーボルトと北斎が出会っていたとしたら、彼らを引き会わせたのは、おそらく1800年代の初めごろに「出島出入絵師」となっていた川原慶賀(1786-1860以降)だったろう、ということも推測できるんです。

 この人は、シーボルトの資料収集のために、日本の植物や風俗を描いた人で、文政9(1826)年の江戸参府の時にも、彼はシーボルトとともに江戸に来ています。第一部で紹介している北斎の風俗画も、おそらくこの時に同じ絵描きの慶賀がシーボルトを北斎先生に紹介したことで生まれた、と考えると大変自然なんですね。

北斎と北斎工房

 それにしても、カピタンたちは、数多くいた江戸の絵師たちの中で、なぜ北斎に江戸の生活の記録を描かせたのか? シーボルトの「お抱え絵師」であった川原慶賀の存在は無視できないとは言え、これは僕も一番知りたいナゾの1つです。

 もちろん、彼らが北斎を選んだことは大正解でした。よく言われるように狩野派の絵師は、お手本通りに描くことしかやっていなかったわけですから、生きている人間を生きているように描くという点では、北斎は群を抜いていた。その頃に出回っていた画工の見立番付などを見ても、北斎は最上位の「横綱」になったり、それを通り越して「行司」になったり、と、非常に評価が高いんです。江戸でトップの絵描きで、何でも描けて、しかも流派に属さない一匹オオカミ的な存在だった、というところで、外国人たちも頼みやすかったのかもしれません。

 さて、今回、第一部の風俗画は、「北斎工房」の作ということでご紹介しています。「工房」というと、アトリエの中に先生がいて、弟子がいて、分業制で制作しているような西洋の工房を思い浮かべる人が多いと思うんですが、北斎の場合、そこまで厳密ではなかったと思う。まあ、彼は引っ越し魔でしたし、家の中も散らかし放題でぐちゃぐちゃだった、という記録もありますから、彼の家が西洋的な意味での「工房」だったとは思えません。

 たぶん、北斎が受けてきた仕事を、どんなふうに描くか、というところぐらいは皆で相談したとしても、あとは適当に割り振った絵を弟子たちが描いたのではないでしょうか? その時に、北斎が中心に描いたり、娘の応為(おうい)がかかわっていたり、ということで、自然といろんなタイプが出てきたのでしょう。ただ、北斎が確認して「よっしゃ」とOKのハンコを押した時点で、これらは立派な「北斎ブランド」となるわけです。このあたりのニュアンスが伝わりくいようで、「弟子が描いたのなら偽物では?」と聞かれることがあるんですが、これは、北斎がプロデュースした一種のブランド商品、と考えていただければいいかと思います。

「燃える男」北斎の陰影法

 西洋画の技法にも大変興味を持っていた北斎は、自分で油絵の具を作ったこともあるようで、最晩年に出版した『画本彩色通』という本の中で、彼は、油絵の具の作り方を丁寧に説明しています。カピタンたちに発注された風俗画も、絵の具は日本の顔料を使っているんですが(シーボルトのコレクションに関しては、紙はオランダ製)、西洋の絵画をまねて陰影法を採用するなど、従来とは明らかに違った技法で絵を描いていますね。

 実は、当時の日本において、絵に陰影を付けるということはとんでもないことなんです。でも、北斎は「燃える男」なので(笑)、「俺たちだって、あんたたちみたいな写実的な絵が描けるんだよ」という対抗意識から、西洋画の特筆である陰影を作品に施したのかもしれません。

 面白いことに、シーボルトが日本にいた文政年間、北斎は目立った活動をしていません。つまり、この時期は年表に記述が少ない部分なんです。ところが、今回詳しく調べてみると、不毛の時期と思われていた時こそ、この展覧会でスポットの当たる時期だった。それで、マティ・フォラーさんなどは、この時期、北斎は娘の応為が離婚したり、彼自身の老齢(当時60代)がこたえたり、いろんな意味でどん底だった。だから、出島の外国人のために仕事をすることで、次のステップを踏むことができたのではないか、と言っています。

 しかし、僕はその逆で、むしろ北斎は、この時期、出島の外国人たちの仕事に没頭していたのではないかと思っている。立証はできないですけどね。でも、先にも言ったように、北斎はカピタン相手に150金という画料をとっていた。これが「両」とすると大変です。当時、文人画などは、絵の具料込みで10両ぐらいで描かれていた例を思うと破格ですよね。江戸時代後半の貨幣価値を現在の貨幣価値に換算すると、おそらく1両が数万円だったと思いますから、150両といえば数百万円。シーボルトの仕事も量は多いし相当な金額をもらっているはずなので、ほかの仕事をしなくても経済的には全く問題なかったと思われます。それに北斎って、酒も女性もバクチにも興味なさそうだし、一体何にお金を使ったのかと思うんですが、使ったとしたら、おそらく絵の具に相当つぎ込んでいる。今回出品されている作品も、僕の同僚が「何これ。本当に日本の絵の具なの?」と驚いたぐらい、発色のよい、高級な絵の具を使用していました。

 文政11(1828)年、「シーボルト事件」とともに、シーボルトが日本を去った後、北斎は《冨嶽三十六景》、非常に出来の良い『北斎漫画』12編といよいよ傑作を連発してくのですが、これはシーボルトたちの仕事が北斎に様々なインスピレーションをもたらしたとともに、この仕事に没頭するために、いろんな仕事を中断していた、とも考えられるのではないかと思います。

第二部の見どころ

 第二部でまず、見ていただきたいのは『北斎漫画』です。ライデンから借用したこの本の初編から10編までは、文政9(1826)年の江戸参府の折にシーボルトが江戸で購入して、そのまま博物館に入ったもので、「シーボルトと、マティ・フォラーさんの指紋しかついていないんじゃないか」という冗談が出るくらいにピカピカなんです。本の入っていた袋まで大事にとってあるので、こういったものを見るのも面白いと思います。

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北斎 《美人夏姿図》 文化年間(1804-18)中期 絹本著色 85.5×29.4センチ 個人蔵(後期展示)

 また、北斎と言うと、どうしても「赤富士」や「波」が描かれた《冨嶽三十六景》を思い浮かべる人が多いと思うのですが、彼が力を入れたのは、むしろ《冨嶽百景》の方だったと僕は思っている。これは北斎が70代半ばに出版した版本なんですが、構図も素晴しいし、彫り師も、北斎が選んだ当時最高の人を使い、跋文(ばつぶん)では、自分の人生を回顧して、「俺はまだ頑張るぞ」とさらなる決意表明までしています。墨一色の本であるにもかかわらず、状態のいいものを見ると、モノクロームってこんなに表情が豊かなのか、と改めて感心できると思います。

 それから、今回出ている肉筆画に関しては、僕ははっきり言って自慢しますよ。特に今回は新発見の《四季耕作図屏風》や、約30年ぶりに公開される《生首図》、そして《松下群雀図屏風》など、あまり手垢(てあか)の付いていない作品を紹介することができました。その中でも、僕の一番のお気に入りは、東京では後期(2008年1月2日~27日)に展示される《美人夏姿図》。壮年期の北斎が描いた美人画なんですが、ピンクの襟とか、衣が透けている感じが素晴らしくて、どうすればこういう風に描けるのか本当に不思議です。まさに神業というか……。この美人は僕の恋人といっていいぐらいの作品です。

 今回展示室の出口の近くに「悪玉」の面をつけた人間が踊る『踊独稽古』をパネル展示しています。閉館近くなって周りに人が少なくなると、実際にこれを見て踊りだす人がいるんですよね(笑)。試しに踊りたくなってしまうほど、北斎の絵は、骨格がきちんと描けていて、デッサンがしっかりしているんです。

 僕は、北斎に会いに来たのが、シーボルトでなくゴッホだったら、絶対に「素描を描いてください」と言ったと思っている。後世の話ですが、ゴッホは北斎のデッサン力を、大変評価していました。確かに北斎は、眼と手の神経が直結しているのではないか、と思うほど優れたデッサン力の持ち主でした。それに加えて、北斎のコンポジション(構図)とイマジネーションの力も素晴らしい。そして、彼が描いた絵の「量」も考えなければならないと思います。「質より量」というのではなく、北斎は、描き続けるうちに、画力がどんどん上がっていった画家でした。そういった彼の芸術的な特質を、じっくりと考えながら見ていただければ、と思います。
さて、北斎の肉筆洋画発見とのニュースで、海外に流失した北斎の肉筆絵画を検索してみたところ、非常に沢山の画像を発見することができました。

その多くは私が知る北斎の浮世絵や肉筆画と異なり、同時代の印象派画家に影響を与えるだけのことはあって、驚き感動しました。北斎の絵を見たシーボルト達は西洋画家から学んだことが無い極東の端の島国の老画家が生き生きと描く西洋画に唯々驚いたと思います。そして、美しい生の日本そのものを、天然色で本国に伝えたかったのだと思います。



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       年始回り



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    武家 

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     町屋の娘







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            武士と従者