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2004年に出た本ですが、たいへん面白かった。★★☆
そして、永井豪は天才だ!そして、うすうす感じてはいたが、スピリチャルチャンネルを持つ「見える」クリエーターだった。

スピルチャル的に見えていなければ描けないと思われるクリエーターとして、他には宮崎駿、手塚治、萩尾望、西岸良平、 横山光輝  藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、大友克洋、士郎正宗、スピルバーグ、ジョージルーカス、デビットリンチ・・・・etc

永井豪先生も見えていて、描いていることを本書の中で告白されています。
デビルマンや鬼シリーズは毎晩見る悪夢や現実夢を作品にした作品のようです。

マンガ界の破壊神 永井豪、かく語りき。

「『デビルマン』に隠された恐怖の未来」「『ハレンチ学園』を教師たちが恐れた理由」「『鉄腕アトム』は誕生しない」――。 初めて明かされたキャラクター誕生の秘密、作品に隠されたメッセージ、奇想天外なアイディア発想法、そしてマンガ創作の技術。 さらにその言葉は、人間論、未来論へと広がる。マンガの常識をことごとく破壊し、再生させた永井豪が贈る、すべてのマンガファン必読の書!

永井豪、衝撃の初エッセイ集、ついに刊行


第1章 ハレンチ学園
―――世紀の問題作―――
   永井豪バッシンクか始まった
   集まる非難、高まる人気
   教師たらは『ハレンチ字園』に恐怖した

第2章 デビルマン
―――メディアミックスから―――
   生まれた異形の英雄
   デビルマン、誕生
   飛鳥了の不思議
   マンガはライヴだ   
   牧村美樹は幸せか?

第3章 マジンガーZシリーズ
―――世界最大のロボット作品―――   
   マジンガーZの設計図
   第3のロボット、『マジンカーZ』
   鉄腕アトムは誕生するか
   マンガとアニメと立体と
   パイオニアはつらいよ

第4章 鬼シリーズ
―――悪夢に苛まれる日々―――
   ヤツは頭の中にやってきた
   悪夢との長い長い戦い
   鬼の正体について考えること
   夢は僕だけのソフトウェア

第5章 バイオレンスジャック   
―――永井豪最長連載作品―――
   長い長いプロローグ
   永井豪オールスターズ
   打ち切り、そして復活
   『バイオレンスジャック』と『デビルマン』

第6章 デビルマンレディー!
―――人間は悪魔に進化する!?―――
   第3のデビルマン作品
   『レディー』と”地獄“と『ダンテ神曲』
   「人外」の魅力
   悪魔とは、何なのか?

第7章 けっこう仮面
―――パロディとエロティシズムと―――
   パロディー大好き
   けっこう仮面がエッチなわけ
   卑猥とエロデダイスム
   美女と野獣

p86-89
”鬼シリーズ”

永井豪最初のシリアスsF作品『鬼-2889年の反乱-』(1970年『週刊少年マガジン』掲載)や、長編『手天童子』(1976年『週刊少年マガジン』で連載開始)など、鬼を題材にしたSF作品群。アメリカの『名110一[[cωH刀βHm口]誌に描き下ろされた『ON-』という短編もあり、日本では講談社で発売された『MAZINGER U.S.A.Version』(1999年)に収録されている。
自ら監督も務めたビデオ作品として『永井豪のこわいソ~ン 怪鬼』(1989年)、『永井豪のこわいソ~ン2 戦鬼』(1990年)がある(ともにバンダイビジュアルより発売)。


〈第1回〉
ヤツは頭の中にやってきた

○突然、毛むくじやらの手が

 気がつくと僕は、板張りの広い広い部屋の中にいた。その広い部屋は、大きな布で仕切られており、布はどこからか吹いてくる風に、かすかに揺れていた。どうやら占い和風の建物の一室で、今にして思えば平安時代のお屋敷のようだった。僕は、ふと天井を9 上げた。天井板にはたくさんの節穴があって、じっと見ているうちに、だんだん人の顔のようにも見えてくる。それが面白くて、しばらく天井を見上げていた。すると突然、僕の真上の天井がものすごい音とともに壊れ、僕の体の数倍もある「手」が、僕の頭めがけてまっすぐに掴みかかってきた。手は毛むくじやらで、長い爪が生えていた、僕は、恐怖に絶叫した。

これは、まだ3歳くらいのときに見た夢なのだけれど、今でも恐怖感とともにはっきりと覚えている。それくらい強烈な夢だった。あまりのショ。クに目が覚めて、僕は火が点いたように泣き叫んだ。それを、母親が「夢なのよ? 夢、夢」となだめてくれたことを覚えている。それ以来、夢に出てきた“毛むくじやらで長い爪の生えた手”はいったい何なのだろうと、ずっと頭の片隅に残っていた。もっと大きくなって、本で初めて鬼の絵を見たときに「あ、これだったのか」と納得した。そう、あれは間違いなく鬼の手だったのだと思う。だから、僕が最初に鬼に「出会った」のは、夢の中でだったのだ。

 3歳のときの恐怖体験のおかげで、僕の頭の中には、ずっと鬼が棲みつくことになった。人間と同じような姿形で、頭に角が生えている、それだけが違う存在。もし鬼が実在するとしたら、角にはいったい何の意味があるのだろう? そういうことをずっと考えていた。その造形といい力強さといい、鬼というキャラクターには、なぜか「いいなあ」と心惹かれるものがあった。架空のモノとして片付けてしまうには、あまりにももったいなかった。いろいろ調べるうちに、西洋にも同じような存在がいることもわかってきた。だから、マンガ家になった僕が、やがて「鬼を描こう」と思ったことは、ごく自然なことだったのだ。

〈第2回〉
悪夢との長い長い戦い

◎ヘンな波動が僕を襲う

 こうして1976年、僕は『週刊少年マガジン』で『手天童子』の連載を開始した。この連載を始めるとき、鬼を描くということのほかに、僕にはもうひとつの目的があった。当時、「ヒロイック・ファンタジーをマンガでやりたい!」という野望があったのだ。ヒロイヨク・ファンタジーとは、簡単に言うと、「剣」と「魔法」の世界を舞台にした英雄譚だ。アメリカでは、『コナンシリーズ』(ロヴァート・E・ハワード)や『ゾンガー』(リンーカータ士など数多くのヒロイックーファンタジー小説があり、1970年代になるとそれをコミック化したものが、マーベル社を中心に次々と出版されていた。

 このヒロイック・ファンタジーは、現在は日本でも『ドラゴンクエスト』などのRPGやアニメでおなじみの世界だけれど、当時は日本ではなぜかジャンルとして根付いていなかった。マンガ的なイメージの宝庫なのに、どうして日本では定着しないんだろう。僕は何とかヒロイック・ファンタジー・マンガをやりたいと、つねづね考えていたのだ。しかし、日本でやるからには、西洋の設定をそのまま持ってきても面白くない。日本独自の世界観を持ち込みたかった。その意味でも、鬼の世界は、日本のヒロイック・ファンタジーの舞台としてピ。タリだと思えた。

 ところが、である。いざ『手大童子』を開始したら、話が勝手にどんどん違った方向へ進み始めた。
当初は、現代に生まれた赤ん坊が主人公となって、現代編はそこそこに、すぐに鬼の世界へ旅立たせて、ヒロイック・ファンタジーを展開するつもりだった。でも、行けないのである。ストーリーを考えると、。鬼”というキーワードに引っ張られて、現代でどんどん事件が起き、主人公の仲間が増えたりしてしまう。そして主人公はずっと現代にとどまったままで、ちっとも予定していた方向に話が進まない。いきあたりばったりで描くのは慣れているはずの僕も、いったい話がどう進むのか、まったくわからなくなり、だんだん不安になってきた。

 仕方なくいろんな鬼を描くと、どれもこれも、迫ってくるくらいに怖かった。作品が怖かったかどうかはわからないが、描いている僕自身が、怖いのだ。それに鬼を描くときになると、ヘンな波動が伝わってくるというか、体がビリビリとしびれる。こんな体験は、『デビルマン』で悪魔を描いているときにもなかったことだ。「あれ? これはなんかヤバイのかなあ」と、僕はゾッ。とした。

◎エスカレートしていく悪夢

 また連載開始直後から、頻繁に鬼の夢を見るようになった。これがまた怖くて怖くて、たまらないものがあった。最初に夢に出てきたのは、身長30センチほどの鬼だった。バリ島の像にあるような姿の小鬼だ。夢の中でその小鬼たちが、じっとうずくまって僕を見ている。以前、ある霊能者の人に、僕の守護霊はお坊さんだと言われたことがあるが、そんなお坊さんも出てきた。いかにも豪傑という風体のお坊さんが、「またやってるな、しようがないな」と言いながら、小鬼たちをブシュッブシュ。と握りつぶす。「はあ、これは僕を護ってくれているのかな?」と思ったが、それだけ危険な夢のように思えた。

 連載が続くにつれ、夢のに甲に出てくる鬼はだんだん大きく、そしてどんどん怖くなっていった。眠るたびに、怖い鬼が出てきて僕を脅かした・鬼が、作品を妨害しようとしている  。ひしひしと、そう感じられた。そういう悪夢を見たあとは、起きると恐怖から動悸が収まらず、ぐったりと疲れてしまう。だが僕は、マンガ家の性で「怖かったけど、今の鬼のギャラは、なかなか力ッコよかったなあ……すぐに絵に描こう」と、マンガの中に登場させた。すると次には、「何をやっているんだあ!」という感じで、もっと怖い姿の鬼が夢に現れた。その繰り返しで、日に日に僕は疲弊していった。


 そのうち夢の中に、「鬼の世界」の具体的な情景が現れるようになってきた。ある時に見た夢は、こんな感じだ。――僕は、京都の寺町の裏通りのような、石畳の道を歩いている。行く手に大きな石塀と門があって、その上に黒い大きなものが見えている。大仏の頭のようだな、と思ってよく見ると、その頭には角が生えている。鬼の大仏なのだ。

「うわ、いかん。鬼の寺に来てしまったようだ」と、僕があわてて引き返そうとすると、門の中から、墨衣を着て丸い笠を被った僧侶たちが現れて、僕を追いかけてくる。必死に逃げるところで、汗をびっしょりかいて目が覚めた。例によって僕は、「あの、”鬼の寺”って面白いな」と疲れた体で考えて、作品の中に描いた。

 今度は、その夢の続きを見た。逃げる僕に向かって、鬼の大仏が動き出したのだ。黒光りした、鉄の固まりのような巨大な足が、ず―んず―んと地響きを立てて、僕を踏みつぶそうと追いかけてきた。疲れ切って、ようやく目を覚ました。しかしその次に寝たときにも、またその夢の続きを見た。夢を見るたびに、場面がエスカレートしていく。

僕も負けず嫌いだから、「チクショウ、こんな夢なんかに負けてたまるもんか!」と力を振り絞り、「絶対にマンガに出してやるぞ!」と、またその情景を描いた。夢を見てはその鬼を出し、また夢を見てはその鬼を出し、とやっているうちに、作品に登場する鬼のキャラクターも、場面も、次第に夢で見たものを取り込むようになった。そしてストーリーは、考えもしなかった方向に引っ張られていった。

 体調は、もう最悪だった。原稿を描き出すと背中にビリビリと来る、波動というか振動が、さらに強くなる。毎日必ず、下痢をする。仕事中、周囲に何か怪しいものが来ているような気がして、悪寒がする。

そして寝ると必ず、怖い鬼の出てくる悪夢を見るのだ。自分の作品なのに、先の展開がまったく読めない。不安で不安でたまらなかった。
 後にも先にも、こんなに苦しい連載は初めてだった。そしてこれがいつ終わるのか、僕自身にも、まったく想像もつかなかった。


〈第3回〉

鬼の正体について考えること

◎アシスタントにも被害が

 ある日、アシスタントに原稿の指示をしているときの話だ。「先生あの、すみません」「ん?」「見ちゃったんです」「何を?」「鬼の夢を……」「え~!」。『手天童子』を描き始めて、鬼の夢にうなされるようになったのは、僕だけではなかったのだ。よくよく話を聞いてみると、鬼の夢を見たという者が、ほかにも何人もいた。「角が5本もある鬼が、出てくるんですよ」とアシスタントの一人。「ほお! そりゃよかったね」と僕。角が5本の鬼は、まだ見てなかったのだ。「よくないですよ! その夢見たら、気持ち悪くなって吐いちゃったんです」「え―。でも、その鬼カッコいいから、今度マンガに出そうかな」「や、やめてくださいっ!」。

 彼らの怖がり方は、尋常じゃなかった。「早く連載をやめてください!」と何度もアシスタントたちに言われた。僕も、鬼の夢を見ているのが自分だけじゃないとわかって、実は内心ゾツとしていた。体がしびれるような怖さたった。でも、作品を途中で投げ出すわけにはいかない。「いや、もう少しで終わるから。もう少しもう少し」と、みんなをなだめながら連載を続けた。もう、毎日が鬼との戦いだった。

「オレは鬼を悪く描こうとしてるんじゃないんだよ!」「怨みを晴らそうと思って描いてるんだからね!」と、誰も聞いてないのにつぶやきながら、それでもストーリー上、鬼たちがたくさん殺される場面を描いていたりした。そして相変わらず先の展開はまったく見えない。僕は、『手大童子』がボロボロの失敗作になることを覚悟した。

 光明は、突然見えてきた。結末に至るきっかけをつくったのは、皮肉なことに、夢で見た鬼の大仏だった。夢で見たイメージをもっとすごくしようと考えていて、ふと「この頭に、女の人が付いていたら面白いな」と思った。なぜそう発想したのかはわからない。すると形がサマになったというか、いい造形になった。兄の泰宇と、この鬼の大仏にすごい名前をつけようと相談した。「仏のいちばんすごいのが如来だから、邪な如来ということで”邪来”というのはどう?」と、兄が思いついた。そこからイメージが広がって、暗黒、死の夜、という言葉をくっつけて「大暗黒死夜邪来」というとんでもなく罰当たりな名前を付けた。

 頭に付いている女性が誰かは、そのときは全然考えてなかったけれど、主人公の母親だということにすると、たくさん謎が出てきて面白いという気がした。そうしたら謎が増えて、ストーリーはますます複雑になった。当たり前たった。「あ―! やっぱりやらなきゃよかった」と後悔したが、結局はこのアイディアが、広げに広げたストーリーを収束してくれた。主人公の母親を重要な役にする必要が生じたので、心を病んで病院にいることにした。鬼に子供(主人公)をさらわれて、ショョクのあまりその時点で精神が止まっているのだ。そして、鬼に対してすさまじい怨念を抱えており、怨みを込めて病室の壁に鬼の絵を描き続けている――。この場面を描いたとき、僕は「あ、できた!」と確信した。主人公・手大童子郎の誕生の秘密が解けたのだ。作品を読んでいない方には、何のことかわからないかもしれないけれど。

◎鬼の「角」とは、何なのか?

 こうして『手天童子』は、無事に最終回にたどりついた。いよいよ最終回かと思ったとき、何かやらなきゃいけなかった使命がひとつ終わったというか、ものすごく救われた感じがした。最終回のネームは喫茶店でやっていたのだが、突然、涙がど1つとあふれてきて止まらなくなった。ほかのお客の目もあるし、こりゃまずいと、左腕で顔を隠しながら描いた。作品に感動したというのではなく、もっと深いところから出てきた涙、とでもいおうか。「オレ、鬼に相当迷惑かけたことがあるのかなあ」と思った。前世というものがあるとしたら、人に大きな怨みをかったことがあるのだろう。その人が、過去の僕を強く怨んで、鬼になったのだろうか。『手天童子』を描いたことが、その蹟罪になったのかもしれない。僕は、そう思った。

 そう、「怨みを持った人が、鬼になる」のだ。僕は、そう考えている。だから、鬼は想像上の存在ではなく、実在したと思っている。といっても、「鬼」という種族や生物がいたという意味ではない。人間こそが、鬼の正体なのだ。鬼については、いろいろな伝承が残っている。巨大であり、赤い色や青い色をしており、悲しいような怨みがましいような形相で、そして頭にいろんな本数の「角」が生えている。あるいは、金棒を持っていたり、虎の皮のフンドシをしているという描写もある。そういう特徴の謂われは、僕にはわからない。

でも、その中でひとつだけ、「角の正体」については、こうではないかと考えていることがある。鬼の角ば、きっと精神的な力が具象化したものだ。オーラの固まり、と言ってもいいかもしれない。人間がものすごい怨念に取り憑かれると、その怒りや怨みが、頭から外部に向かってぐおっと放射され、燃え立つのだ。オーラが見える人がいるらしいが、昔もいたのだろう。その人の目には、頭に角が生えているように見えただろう。激しく怒った人を見ると「頭に角が生えている」と言うではないか。そして精神世界では、そういった激しい怨念を抱えた人は、きっと鬼の姿をしているに違いない。鬼という言葉の語源については、人の世に隠れ忍ぶ存在なので「隠」から来た、という説が強いけれど、僕は「怨念」が「おに」になったんじやないか、と考えている。

 『手天童子』の6年前、『鬼――2889年の反乱―』という短編を描いたとき、本物の人間と区別するために、人造人間の頭に角が付けられた、という設定にした。そして人造人間たちは、人間たちのあまりの非道な扱いに「鬼」となり、人間を殺し尽くすことを誓う。この作品を描いたときには、角の正体については何も考えていなかったけれど、角が怨念の象徴であるという今の考えとも、見事につじつまがあっていたようだ。

〈第4回〉

夢は僕だけのソフトウェア

◎時代劇は、あれでいいのだろうか?

 先に書いたように、鬼とは「怨みのオーラ(角)を発した人間の姿」だと思っている。そして怨みは怨みを呼び、永遠に繰り返される。『鬼――2889年の反乱―』も、人間に残酷な目に遭わされた人造人間が、深い怨みを持ち、遠い過去へさかのげって人間を皆殺しにすることを誓う。彼らは過去の世界で。鬼”と呼ばれることになったのだ。

物語はそこで終わるが、現在も人間は生き残っている。しかし、こうやって人間の中には、鬼に対する怨みと恐怖が残ることになった、という結末にした。

 お伽噺の『桃太郎』では、今度は人間が「鬼征伐」に出かけることになる。『桃太郎』だけれど、尾崎紅葉が続編を書いているのをご存じだろうか。題名を『鬼桃太郎』(1891年)という。お話はというと、桃太郎にぶんどられた鬼の宝を、「鬼の桃太郎」が取り返しにいく、というものだ。考えてみれば、桃太郎は鬼を大勢殺した挙げ句、人間の財産を取り返しただけではなく、鬼の財宝まで取り上げて帰ってくる。これでは、鬼が怨むのも当然だ。

僕も、『桃太郎』のパロディーマンガを描いている。ある日、宇宙人が地球、それも日本に襲来し、皆殺しにしてしまう。最後に生き残った日本人が、自分たちを襲う理由を尋ねる。すると、「オレたちの先祖を殺したからだ」と、頭に角の生えた宇宙人が『桃太郎』の本を差し出す、というオチ。

 殺し合いが起きると、どちらの側も相手に怨みを抱く。だから僕は昔から、マンガのヒーローでも、映画のヒーローでも、悪いヤツを斬り殺しておしまい、ではいけないような気がしていた。『手天童子』の中でも、主人公の手大童子に親を殺され、怨みを抱いて鬼になる人物(アイアンカイザー)を出した。主人公だろうと何だろうと、人を殺せば怨まれるのだ。イラク戦争だって、フセインが悪かろうと何だろうと、親兄弟を殺されたイラクの人が怨むのは、直接手を下したブッシュだろう。

 そういえば子供のころ、時代劇を見ながら、ずっと不思議に思っていたことがある。主人公の侍が、悪の親玉と決着をつけるために、その屋敷に乗り込む。すると悪の手先がわらわらと出てくる。主人公は手先をバ。タバヨタと斬り殺し、悪の親玉に迫る。悪の親玉は敵わないと知るや、「悪かった!」と土下座して謝る。するとどうしたことだろう。なんと主人公は、その親玉を許してやるではないか。「おいおい、いちばん悪い親玉を殺さなくていいのかよ!」と、僕はよく心の中でツッこんだものだ。手下はいわばサラリーマンで、上司に命令されて断れず、やむなく斬りかかったにすぎない。この場合、殺された手下の家族は、悪い上司を怨むだろうか。やっぱり、殺した主人公を怨むんじやないだろうか。

 似たようなことを考えている人が、アメリカにもいた。映画『オースティンーパワーズ』シリーズの中に、こんな場面がある。パワーズが悪の組織に潜入し、敵と撃ち合いになる。一方で、幸せそうな母子が、自宅で仲良く団らんしているシーンが流れる。パワーズが敵の一人を撃ち殺す。すると、その幸せそうな家庭に電話がかかってくる。「今、ご主人がパワーズに殺されました」。幸せな風景は一転し、みんないっせいにわーつと泣き崩れる。それが何度も繰り返されるのだ。「悪の組織の日常を描く」というギャグなのだが、パワーズは相当怨まれていることだろう。       ’

◎僕は、寝るたびに冒険をする

 ところで『干天童子』を書いている間、僕はずっと夢からイメージを受け続けていた。というか、連載中ずっと、悪夢に追いかけ回されていた。こんな極端な例は珍しいのだけれど、僕は必ずと言っていいほど、寝ると夢を見る。しかも僕の見る夢は、常にリアルで、臨場感がすごくて、非常に具体的だ。だから夢を見ているとき、実際に体験しているとしか思えない。「なぜ、ここにいるのだろう。タイムスリップして過去(未来)に来だのかな?」とか「どこかほかの宇宙に飛ばされたのかな?」と思うほどだ。まるで、寝るたびに冒険旅行に出かけているような感じだ。

 中でも多いのが、ファンタジックな世界の夢だ。『千と千尋の神隠し』のように、龍に跨って空を飛んだり、惑星が次々とビルに衝突していく風景を見たり。ゴジラがビルの谷間を悠然と歩いている夢を見たときは、映画どころの迫力じゃなくて、「うわあ、かっこいいなあ!」と嬉しかった。そういうリアルな夢だから、作品を描いているときに、ふと以前に見た夢の風景が甦り、ヒントになったことも多い。でもリアルなだけに、悪夢の世界に行ったときは、それはもう辛い。地獄の夢なんか、本当に怖い。『手大童子』連載のときに見た鬼の夢も、心底怖かった。

 ほかにも、特に強く印象に残っている夢がいくつかある。たとえば、美しいアンドロイドの女性に案内されて、未来の都市を歩く夢。透明な物質でできた未来都市には、なぜか人間の姿はなかった。あるいは、巨大なトンネルの夢。壁にいべつもあるドアが、いろんな時代に繋がつているらしく、ベルサイユ調のドレスを着た女性、原始人、鎧武者など、様々な時代の人が歩いている。これらの夢は、まだ作品の中に描くチャンスがないけれど、いずれどこかで描くかもしれない。

 「夢」 つて、いったい何なのだろう。睡眠中の無意識状態に、脳がいろんなシミュレーションをやっている。それが映像として形成されたものが夢だ、というのが合理的な解釈かもしれない。でも、僕には「異世界の扉を開いちゃったのがな?」としか思えないこともあるし、「親の記憶かな、それとも前世の記憶かな?」と思うときもある。どちらでもいいと思う。とにかく僕にとって、夢は大きな楽しみだし、また作品づくりにも役立っている。いわば夢は、僕だけの映像ソフトウェアというか、コンテンツというか、ライブラリーなのだ。

 もしまた、すごい鬼の夢を見たら、今度こそヒロイック・ファンタジーとしての鬼の世界を……。わー! ウソウソ。ウソだから、もう夢に出てこないで!



執筆中