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世界が驚いたニッポン! スゴ〜イデスネ!!視察団 (テレビ朝日)」という番組を見ていると、恣意的に日本を持ち上げている番組構成に、私も確かに気持ち悪さを感じてしまうこともある。あと100円ショップグッツを世界に持っ行く番組や、日本の製品を持って帰って現地の家族の様子を見る番組も、見るに堪えないという意見には賛同する。

だが、ネットが普及する2000年位まで、あまりにも日本の似非リベラルのマスコミが、自虐的な自国へのイメージ操作が行われ過ぎて、その反動が昨今のクールジャパンであり、訪日外国人の増加とともに、「日本はすごい」と大ぴらに言える環境になっただけである。

日本称賛番組は、チヤホヤしてもらってご満悦の勘違い野郎と同じで、ナルシストっぽくて、傍から見たらすげー恥ずかしいよ?という場合もあるが、素直に喜ぶことが出来ない人達が、日本には多すぎる。見るに堪えない番組は見なければいいだけで、批判する裏に、屈折した日本の似非リベラルと、日本を愛するが故に、これ以上外国人に来ないでほしいと感じる攘夷的在日外国人の存在を感じる。

日本の似非リベラル側のメンタリティには、どうしても「日本=悪」という図式しか受け入れられないのだと思う。

リベラルという考え方は、世界的には、雇用、労働条件、人権、少数派への寛容、女性の社会進出、社会保障政策、格差、弱者保護、情報公開などに敏感な政治的立場と平和主義なのだが、日本でリベラルという旗を掲げる者は似非リベラルだと感じている。

なぜなら、日本の似非リベラル達は、自国の否定=反日主義が色濃いからである。米国のリベラリストも反日的ではあるが、米国のリベラリストは自分の国を愛している。韓国のリベラルと言われる生き物は当然反日的で、愛国主義者だ。

日本の似非リベラル達だけが、自国を愛することを悪だと考えている。
これは、日本の似非リベラルの思想は、戦前の否定が思想の基盤だからである。

戦後日本の似非リベラル主義者達は、革新とか進歩的とか言っていたが、戦後、日本に民主主義的なリベラルな社会を作ろうとしたのではなく、ソ連などから資金提供を受け、日本を共産主義社会や社会主義社会を作ろうとしていた。しかもそれが政党の一部のリーダーだけではなく、一般市民までそうだった。 
 
1960年に行われた安保闘争。60年安保として有名な激しい闘争が起き、東大の女子大生の樺美智子さんが亡くなるなどという犠牲を出した。

彼らは国会に突入して何をやろうとしたのかというと、国会という議会制民主主義の否定であった。そこで人民集会を開こうとしていたのだ。 
 
国民に選ばれた代表が議論する場である国会を、暴力によって転覆させるという行動を起こしたのが当時の学生たちであり、彼らは共産主義や社会主義の思想にかぶれていたのだ。

そして、当時国会に突入しようとした若者は、年をとって国から年金を貰っているにもかかわらず、民主主義を否定し、国会を取り囲み、ひたすら安倍政権の悪口を言う、最悪の生き物と化してしまっている。自称リベラルのメンタリティには最近の世界的な日本ブームは、自己のメンタリティの否定であって、耐えられない事象なのだと思う。

NEWSWEEKの「日本はすごい」に異議ありは、まさに、日本は凄いを否定したい、反日的な編集者と、高齢リベラルの読者向けに煽動化されたタイトルのような気がします。

NEWSWEEKの記事を読むと、著者達はむしろ日本を愛していて、「日本はすごい」とむしろ強く言っているので、笑ってしまった。海外旅行をしていると、あまり観光地ではない地域に行くと、中国人観光客や、同胞の日本人の集団を見るとむしろがっかりしてしまうことがある。記事執筆者達も、私だけの秘密の日本をこのままにしてほしいという、屈折した心理も感じさせる興味深い記事であった。

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国宝などの保存修理を行う会社を経営していることもあり、行く先々で「日本文化かすごい」という声を聞く。

 確かに日本文化にはすごみがある。書や華などに生涯をささげる修行者の作品は超一流。一挙手一役足にオーラが漂い、作品には深みが宿る。日本文化の根本はその精神性、「魂」にある。

 とはいえ、あまりに無邪気に「日本はすごい」と自慢する人に違和感を覚えることも多い。あなたが自慢する当の文化に魂はあるのか、と。所詮は修行者の動作をマニュアルに沿ってまねただけの「仏作って魂入れず」。中国産漆を塗った「京」漆器。世界遺産登録をしようとしながら糸の98%が中国産で、日本人の手先自慢をしながら仕立ての大半が東南アジアの着物……。中身を伴っていない「文化」が多いのが実像ではないだろうか。

 そう思うに至ったのには茶道との出合いがある。自宅の和室を使った趣味ができればと入門し、今では茶名「宗真」を頂き、のんびりとたしなむなどお茶との付き合いは20年になる。

 茶道を選んだ理由は主に2つある。日本文化の多くは師と一対一、あるいは自己と向き合って深めるのに加えて、一つのことを極める、いわば「縦」の文化だ。その点でお茶は違う。書、華、香、懐石、菓子、焼き物や漆器などが茶室に集う。日本文化を「横串」にできるのだ。お茶は総合芸術とよく言われる。これが魅力の1つだった。

 もう1つは、書や華などと違い、客に給仕するところにある。茶道の魂は人との交流、サロンの場を作ること。
 この文化は非常に深い。小さな茶室に聖地を生み出すために、先人は心を尽くしてきた。「降らずとも雨の用意」「相客に心せよ」という16世紀の千利休の言葉にその精神は残りている。季節や客の個性などその時々に最適な場を作るために、お点前や茶、器といった「道具」を一つ一つ吟味する。

  しかし、総合芸術を実現することは極めて難しい。1人の人物がお茶だけでなく、お花も書も極めるのはほぼ不可能。お花はそれを極めた人にやってもらい、掛け軸に書かれた禅語はお坊さんに語ってもらう。たけている人が集まって、総合芸術となり得る。

人口ピラミッドが招いた変質では、今の茶道に魂はあるのか。茶会を重ねるたびに疑問は深まった。特に一度に数十人の茶席を1日に十数回、計数百人を招く大寄せ茶会は客をもてなすどころか、さばくだけの場だ。

 器に込められた意味や来歴を顧みることなく、「冬だからこれ」「これは夏に使えない」と全てがマニュアル頼みで整えられる。「聖地」にいるうちに、自分たちを日本文化の聖人、真の日本人であるかのように勘違い。他人を「書が読めない」「お花が分からない」「今の日本人は正座ができない」とあげつらい、。「今の日本は文化度が低い」と嘆く。精神を置き去りにし、目線だけが高くなったようだ。

 残念なことに「上から目線」は外国人にも向かう。「正座して」「頭を下げて」「2回回して」―訪日観光客の体験の場でそんな声を投げ掛け、たまに外国文化をけなしながら、「茶の素晴らしさ」を講義する風景はよく見られる。だが外国人は単においしいお茶を飲んで、日本との一期一会を楽しみたいのだ。魂に触れ、その空間を味わい、粗相にならない程度に作法を押さえたいだけだ。そもそも稽古の場と、素人をもてなす場は違うはずだ。

 茶道が利休以来のもてなしの魂を失った転機は、明治維新と第二次大戦にあるかもしれない。
 
そもそも上層階級に支えられたお茶は、明治維新で封建制度という支援者を失った。その生存戦略として上層階級の趣味から、大衆にも分かりやすい「茶道」ヘマニュアル化。それまでは武士があぐらをかいていたのが女性が主流となり、客でも正座が決まりとなった。雇われて裏でお茶をたてていた家元などは表舞台で「先生」となり、「教授」などの免状もできた。

 こうしてお稽古と化した茶道が迎えたのが、戦後の人目増加社会だ。家元を頂点としたピラミッドが膨張し、増加する弟子に対処するにはマニュアルでさばいて稽古するしかない。大寄せ茶会のような光景は人口増がもたらしたものだ。今の茶人が総合芸術をかさに着て、お花、書、お香など本来深い文化をかじった程度であたかも達人のように自慢をする姿は見苦しい。かく言う私自身も、偽物の書の前に深々と頭を下げたり、専門家に披露して恥をかいたりしたこともしばしばだ。

 生存のため道を強調したのを忘れた、魂の宿らないマニュアル作法は総合芸術でも文化でもなく「緑の宗教」だ。 今の日本文化に関して危機感を感じるのは、あまりにも中身を伴わないことだ。「日本家屋がすごい」と言う人の家に畳もない。「日本の神様がすごい」と言う人の家に神棚があるわけでもない。「伝統行事がすごい」と言う人は他国の宗教行事たるハロウィーンをやるが門松は飾らない。日本文化を知らないで自慢だけはやめてほしい。

 自分は面倒だからやらないが、1億数千万人の誰かがやってくれる――。こんな他人任せも、人目増加社会の特徴だ。もはや人目減少でそんな時代は終わった。日本文化を誇って発信したければ、自分でやるしかない。「すごい」と言うなら、自らの手で「すごいもの」を作り出す。そうしなければ、日本文化は自慢ばかりで誰にも担われないまま、衰退してしまう。 お稽古ではなく、日本文化を守るため真に極めるべき時代が来ている。

有名なデービット・アトキンソン氏は、多くの青い目の日本を継ぐ者の代表の方かもしれません。

明治時代に来日した西洋人の多くは、西洋化され、消えていく日本の江戸時代の伝統文化を惜しみ、嘆き悲しんでおりました。

「伝統を大事にしろ」「伝統を守れ」というフレーズ、違和感ありません、その通りです。今の茶道は、魂が無いと嘆くアトキンソン氏の意見はもっともです。

文化財だったり、建物だったりといった「物」だけでなく、芸能やしきたりなどの「形のないもの」も、「伝統」の一種ですが、それを継ぐ者がいなくなることで、「伝統」が失われそうになった時、「伝統を守れ」との声が上がります。

しかし、日本の文化は「伝統」を守りながら、その伝統の本質を守る為、絶えず革新を続けているのです。また、革新を行わない伝統は消えていく傾向にあると思います。

私は「伝統を守るな」と言いたいわけではありません。「伝統の素晴らしさ」は、時代を超えて長期間人々に愛され続け、厳しい選別をくぐり抜けてきたこと、と私は認識しています。つまり、「ずっと生き残ってきた良い物であること」とは、常に革新を行いながら残ってきたものこそ伝統なのだと思っています。

「伝統だから」と、個別の「伝統」自身の魅力でない理由から「伝統」を保護してしまっても、見た目上は「伝統」が続いているように見えるかもしれません。

茶道が、上流階級の芸事が庶民階級に広まったことを嘆くのは、厭らしいエリート意識ではないかと私は思ってしまいます。

むりやり茶道を残したものは、やがて消えていくものなのです。「良い物だから」ではなく「伝統だから」と保護された時点で、自力での生存ではなくなります。これは、本質的には「自力で生き延びてきた」という「伝統」は崩れたと言うべきではないでしょうか。

時に滅びるものがあるからこそ、「残ったこと」の価値が見いだせるのであって、全てを残そうとした時点で「残ったこと」の価値は弱くなります。

「伝統だから」と伝統的なもの全体をただやみくもに守る考え方は、かえって「伝統」の価値を貶めるものと私は思います。茶道は、外人相手のティーセレモニーになったとしても、嘆くべきではない。

茶道が新たな進化をする可能性もゼロではないのだ。

「伝統だから残す」のではなく、「残るから伝統」なんです。「伝統だから残せ」「伝統だから守れ」と声高に言えば言うほど、かえって「伝統」の価値が下がっていく本末転倒になりかねません。

暴力事件や理事長選挙で批判にさらされることが多い大相撲ですが、私は大相撲こそ、なんだかんだ言って、伝統を残しつつグローバル化し成功している例であると思います。日本の未来は大相撲を参考とすべきではないだろうか?

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THE DIGNITY OF SUMIO
相撲は国技で神事で品格あり?
スキャンダルまみれの角界は日本人男性の弱さの表れー
モンゴル出身の文化人類学者が物申す

楊海英(本誌コラムニスト、静岡大学教授)

89年に来日した南モンゴル出身の私には、かれこれ28年にわたる「相撲言説観察史」、という自慢にもならない経歴がある。
 大相撲をめぐる日本での意見を見聞きして、ずっと抱いてきた違和感が3つある。「国技であること」「神事であること」「力士には品格が必要であること」だ。この3つの要素は日本人ファン層、主として男性ファンのあつい愛国心をくすぐってきた。今や「相撲ナショナリズム」の奔流になりっつある様相すら見せている。

 まず、相撲を国技だと定義しておくと、「日本人」しかなし得ない競技がある、という枠組みがっくられてしまう。裸の人間同士が体をぶつけて競い、勝負を決めて周りを喜ばせる興行は人類の誕生とともに、世界各地で同時多発的に現れた。今ではどこが発祥の地かを探し、特定するのも無意味に近い。

 ユーラシアでは既に、紀元前8世紀~前3世紀に活躍した遊牧民スキタイが青銅器に相撲の文様を刻んでいた。
また、10世紀頃に栄えた遼王朝のモンゴル系契丹人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説もある。
それでも、「モンゴル高原が相撲発祥の地」と自慢するモンゴル人はほとんどいない。人類共通の興行だからこそ、大相撲にもモンゴル相撲にも似たような技芸があり、モンゴル人力士はそれを遺伝子のように駆使できるので強いというだけだ。わざわざ近代国家の枠組みに縛られて、「国技」性を強調する必要があるのだろうか。

 次に、「神事」について見てみよう。日本の相撲が独自に進化を遂げたことは事実だが、モンゴルも例外ではない。
私の専門である文化人類学に即して言えば、本来の神事とは宮中の秘儀か、神の前での行いを指す。神社での土俵入りをもって神事とする大相撲同様、モンゴル相撲も寺院や聖地での清めとみそぎを必要とする。

 ルールが複雑となり制度化し、力士の地位が高くなり、国家や宗教界との結び付きが強いのも日本とモンゴルの相撲に共通した特徴と言える。世界中にあったさまざまな興行も近代国民国家の成立に伴ってスポーツに姿を変えたが、生来持っていた宗数的要素は消え去らなかった。

 現にアフリカのサッカーチームには呪術師がいる場合が多い。試合前に相手が負けるよう、公然とグラウンドで呪いをかける風景はワールドカップが日本で開催されたときにも見られた。

キリスト教徒の選手は十字を切り、イスラム教徒はコーランの一節を唱える。 神に頼って勝ちたいし、勝って神を喜ばせたいI。それが興行=スポーツの目的なのだ。何も大相撲だけが神事で、他のスポーツより一段と神聖なわけではない。

しきたりにとらわれない女性客 最後は「品格」の問題だ。近代に入って、興行がスポーツにつくり替えられたときから、選手は「国民の模範」と位置付けられた。国民もまた「優秀なスポーツ選手」のように体を強健にし、国家のために奉仕しなければならないという政治的神話だ。ただ、果た
して国民全体の模範を務められるスポーツ選手などどれほどいるのだろうか。

 そもそも品格という言葉自体が、90年代にバブルが崩壊し経済が停滞するなかで、日本人が進むべき方向を見失った頃からはやり出したものではないか。「女性の品格」どころか、「国家の品格」までもが問われるようになった。

 こうした流行は女性の社会進出が進み、古い縛りが意味を持たなくなったときに男性から発せられた「保守の声」ではないのか。「国家の品格」も
また、欧米化を極端に進めた結果を反省しようと出現した思想にすぎない。

 相撲で気になるのは、「力士が『国技』『神事』の本質が分かっていないので、品格に問題がある」という見方だ。こうした品格論を否定する必要はないが、それが「日本人だけは特別」「日本人のみが優れている」のような発言になると、それこそがナショナリズムの土壌になっているのではないか、と懸念したくなる。

 いわゆる「品格ある女性」も、男性の理想像でしかない。今やそんな理想にとらわれず、古いしきたりに縛られない女性のほうが力士の品格など気にせず、楽しく相撲を観戦している。

 日本で相撲を取れば成功する、というジャパンドリームは世界に広がっている。モンゴルから始まり、琴欧洲と把瑠都の故郷ヨーロッパ、そして栃ノ心の母国は中央ユーラシアのジョージア(グルジア)。まさに東西を超えて日本の相撲界が注目されている。ただし誰も日本風の神事に従事し、日本風の品格を実践したいからではない。皆、日本の宗教信仰に敬意を払い、日本の礼儀正しさを称賛しながら、スポーツを楽しみ、豊かになりたいだけだ。

 どうすれば、「相撲ナショナリズム」が収まるのだろうか。「日本人力士が強くならないといけないだろう」と、先日会ったモンゴルのある遊牧民が話していた。品格ある日本人男性には耳が痛いかもしれないが、これこそが相撲に求められていることだろう。

日本は、日本的な伝統に敬意を払う外国人しか受けいるべきではない。
移民問題は日本に敬意を持ち、日本を愛する者のみに絞るべきであって、日本国内に住んでいるにもかかわらず、反日的な言動を繰り返す外国人はお引き取り願いたい。