①『「資本主義は嫌いですか」副題:それでもマネーは世界を動かす 竹森 俊平 著』を読む-その1
東洋経済2008年経済書ベスト1に選ばれただけのことはある、本当に良書でした。それゆえ図書館で人気が高くなかなか順番が来ずに、漸く順番が回りやっと読み終えました。図書館の順番待ちではなく出版と同時に買うべき1冊でした。次回作は是非とも出版日に買いたいと思います。
【「2008年決定版経済・経営書ベスト100」(週刊東洋経済)】
http://movie.geocities.jp/uwasano_uwasano/touyou-keizaisyo2008-2.html
【「2008年決定版経済・経営書ベスト100」(週刊東洋経済)】
http://movie.geocities.jp/uwasano_uwasano/touyou-keizaisyo2008-2.html
竹森教授の前著「1997年-世界を変えた金融危機」(朝日新書)にも触れた「リスク、不確実性および利潤」(1921年)の経済学者フランク・ナイトの思想が紹介されている。
【フランク・ナイト】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88
【フランク・ナイトの「真の不確実性」】
http://stojkovic.blog20.fc2.com/blog-entry-1132.html
【フランク・ナイト】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88
【フランク・ナイトの「真の不確実性」】
http://stojkovic.blog20.fc2.com/blog-entry-1132.html
ナイト教授はミルトン・フリードマンとは対極的な思想の持ち主だった。なぜなら、彼にとって「予想ができない領域」が存在するという事実こそが、経済学にとって一番大切な認識だったからである。
「発生確率が予想できる危険」を「リスク」といい、それが予想できない危険を「不確実性」というというのが、今日の標準的な用語法にもなっている「リスク」と「不確実性」である。
「発生確率が予想できる危険」を「リスク」といい、それが予想できない危険を「不確実性」というというのが、今日の標準的な用語法にもなっている「リスク」と「不確実性」である。
企業家は確率予想のできない危険、すなわち「不確実性」の領域に踏み込むことによってのみ「利潤」を得られる。なぜなら、事業にかかわる危険が、確率予測のできる「リスク」だけであるならば、事業についての収入と生産費の期待値が計算できてしまい、企業間の熾烈な競争が継続する。その結果、平均的には「利潤」は消滅してしまうのである。
平和な時代が続くことにより経済はデフレへと傾くと私(Ddog)は理解した。
平和な時代が続くことにより経済はデフレへと傾くと私(Ddog)は理解した。
それに対して、危険についての確率予想のできない「不確実性」の領域に踏み込むなら、企業家は、時に「利潤」を得られる。(ブルーオーシャン戦略)なぜなら、「不確実性」の領域では、「利潤」についての確率予想も成り立たないから、他の者から見ればあまりに無謀な事業に乗り出している場合には、他の者はその企業家に「競争」を挑もうとしない。それゆえ、その企業家が「莫大な利潤」をつかむということもありえる。
この「不確実性」に挑戦する事で企業家は初めて利潤を手にする事ができることを資本主義の主要な原理として覚えておこうと思う。
ナイトはこれについて面白いことを言っている。予想のできない世界のことなので、あくまでも白分の直感にすぎないと断った上で、彼は、「企業家は平均的には利潤を得る代わりに、損失を被っている」という推測を述べるのである。彼がそう主張する理由は単純明快だ。「企業家とは、本来、自惚れの強い人間がなる職業だから」と言うのである。ブルーオーシャン戦略は1000円の床屋にその創業者が本を書いて広告が張ってあったが、なるほど「企業家とは、本来、自惚れの強い人間がなる職業」か!その経営者も自分のビジネスモデルを自画自賛していたが、運が良かっただけにすぎない。ホリエモンやヒルズ族はまさに皆自惚れやで愚か者の側面が無ければ企業しないのだろう。日本人に企業家が少ないのも自惚れ屋が生き難い国民性からかもしれない。
本書第Ⅰ部「ゴーンウィズアバブル」で「ミシシッピーバブル」が事例として紹介されていますが、意外と肯定的に捉えています。そして今回のサブプライム・バブルを分析しています。
【ミシシッピー会社事件】
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=167495
【「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」はトンでも本です。-その2】
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/19366408.html
P25~26
P66
【ミシシッピー会社事件】
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=167495
【「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」はトンでも本です。-その2】
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/19366408.html
P25~26
ところで、2008年6月の英フィナンシャル・タイムズ紙に、イギリス人のジェームズ・マクドナルドという評論家が面白い論説を載せている。「サブプライムは1719年にフランスが発明した」と言うのである。与信審査もろくにしない、本来価値の低い住宅ローンである「サブプライム」を、トリプルAの証券に仕立て上げるアメリカの金融機関の手法が、『サブプライム危機』発生このかたよく話題にされるが、無価値な証券を人気のある証券に転換する「錬金術」を初めて開発したということでは、ミシシッピー会社がそのさきがけだという主張である。 気の利いたことを言うものだと感心する。こういうことだ。ここで「無価値な証券」というのは、ずばりフランス国債である。ルイ14世が乱費をしたせいで、1714年の公債桟高はすでに国民生産の100%を超えていたのである。フランスの財政は、まさに破綻の際に立っていた。1715年のルイ14世の死の直前、政府は800万ルーブルの借り入れをするために、なんとその四倍の3200万ルーブルという額面の手形を発行しなければならなかったという事実も、それを裏書きする。というわけで、情けないことに当時のフランス国債のステータスは、今日のジャンク.ボンドよりも低かった。 それを「人気の証券」に転換する。「人気の証券」とは一体、何かといえば、それはミシシッピー会社の「株式」であった。株式に人気があるということならば、その会社の事業内容が何かが気になるところだろう。先に見たようにミシシッピー会社は仏領アメリカにおける通商権、開発権を独占していた。それを足場にして、「人気株」を大量に発行しては事業権の買収を繰り返し、やがては中国貿易の権利も、インド貿易の権利も、さらにはアフリカ貿易の権利も買い占めた。そればかりではない。タバコの専売権も、いや貨幣鋳造権さえ買い取った。さらにジョン・ロウは、フランス国債残高のすべてをミシシッピー会社が買収するという壮大な計画まで発表していた。まあ・「ミシシッピー会社」とは、フランスという強大な帝国そのものをM&Aによって丸ごと乗っ取るプロジェクトの「コード・ネーム(暗号名)」だったと考えていただければ話が早い。それでともかく、一般大衆はミシシッピー会社の株式を買い、ミシシッピー会社はそれで得た金を使ってフランス国債を買う。これで見事、「ジャンク並の国債」を「人気株」に転換する作戦が成功する。人々が望むならば、フランス国債を使って直接、ミシシッピー株を買うことも認められた。 なるほど、このほうが手っ取り早い。 強国「フランス」の買収という気宇壮大な計画を打ち出すことのほかに、ミシシッピー株を「人気株」にするための絶対の「切り札」が、ロウにはもう一枚あった。つまり、彼は「ミシシッピー会社」の支配人であるだけでなく、「バンク・ロワイアル(王立銀行)」という、彼自ら創設した当時のフランスの中央銀行の総裁でもあったので、紙幣の発行を意のままにできたのである。王立銀行総裁としてのロウは、緩和的な金融政策を実行した。つまり紙幣をどんどん発行して、自分が支配人であるミシシッピー会社の株式が市場で順調に消化されることを援護したのである(それはまるで、グリーンスパンの金融政策を見るようだったと、マクドナルドは皮肉っている)。最後には破綻したのだが、私は通貨制度において、いかにただの紙切れを価値があるか、この共同幻想がいかに大切であるのか痛切に思う。
P66
経済学説史の最高の権威であるオーストリアの経済学者、ヨゼフ・シュンペーターのロウについての評価を見てほしい。 「私がいつも思うことだが、ジョン・ロウ(1671~1729)は経済学者として『別格』である。金融の詐欺師たちは(しかしこの実務の天才を彼らの一人に数えるのは適当だろうか?)、 時に政治経済思想らしきものを持つこともある。(略)だが、ロウの場合をそれと同等に扱うことはできない。彼は自分の事業計画の経済学的な側面を、実に見事で、しかも深遠な思想で裏打ちした。この思想は彼を『古今東西の第一級の金融理論家』の位置に据えるものである。もし、ロウの行ったさまざまな事業が成功していたならば、一つの大国の経済活動を金融の基盤から掌握し、改革するというロウの壮大な計画(彼の計画の意図を一言で表現すれば、まさにそういうことになる)は、同世代の者や歴史家たちにきわめて違ったものに映っただろう」 一体、ロウの考えのどこをシュンペーターは「深遠な思想」と呼んだのか。「古今東西の第一級の理論家」とまで彼を評価したのは、なぜなのか。答えはロウの抱いていた「管理通貨」の思想にある。つまり、当時の通貨というものは、金や銀のように、人知によって供給量を白由に調整できないものであったのに、ロウは供給量が必要に応じて自由に調整できるような通貨、すなわち「管理通貨」を確立しようと考えたのである。どのようにしたら「管理通貨」を確立できるのか。人類の歴史において、これに対する答えは一つしか提出されていない。「ただの紙切れ」を通貨として用いるのである。P67
今日ではもちろん、金や銀との見換が保証されない「ただの紙切れ」は、どこの国でも通貨として用いられている。しかるに、「紙幣」とは経済原理からしても、また法律の規定からしても、「国債」と同じように政府の「債務」である。もちろん国債と紙幣の問には大きな違いがある。国債に対して政府は金利を支払わなければならず、満期になれば全額を紙幣で返済しなければならない。それに対して、政府が国民に支払った紙幣に対して、政府がさらに金利を支払う必要はなく、しかも債務としての紙幣には「満期」が存在しない。「紙幣」はファンダメンタルな価値(ほぼゼロ)と乖離した「バブル」が発生することによって初めて、経済の有用性が発揮できる。「バブルが必ずしも経済的害悪でない」のである。全員で価値があると考えるから価値があることが有用なのであって日銀が管理している間は、政府ではない独立した機関が有効に価値を維持し続けることが出来ると思うが、政府発行紙幣となると危険だと私は思う。短絡的に政府発行紙幣を発行増発すればジョン・ロウと同じ結果を招くことは目に見えている。
少し「金融の仕組みはロスチャイルドが全部作った」の話に戻るが、著者の安倍氏の紙幣に対する考え方は、本書の竹森氏と意見の相違という次元ではなく、明らかに安倍氏の無知か、資本主義を否定する意図的なプロパガンダではないだろうか?悪意がないとすれば安倍氏は竹森俊平氏の著作物を読んでから執筆すべきであったろう。
ちなみに、このジョン・ロウこそが、かのゲーテのファウスト(錬金術師)の悪魔「メフィスト」モデルであったとは知らなかった。ただの紙切れを金にも等しい価値を持つ貨幣に換えたのである。