[第三使徒サキエル]
人類は太古の昔より病原菌に襲撃され淘汰を繰り返してきた。ウィルスという神の審判により生存を許され、運よく生き残っているのが我々だ。ウィルスと人類は太古の昔より聖戦を戦ってきた。
例えばネイティブアメリカンを絶望的状況に追いやったのは、白人達が土地を奪い更にカスター将軍の奇兵隊がバンバン銃で撃ち殺したからではない。白人がヨーロッパから持ち込んだウィルスだったことはもはや定説である。
紀元前5世紀地中海都市国家群のリーダーアテネは全盛を迎えていた。ライバルのスパルが盟主のペロポネソス同盟と戦争を始めたが、アテネは包囲されていた頃エチオピア方面から入り込んできた疫病(チフスや猩紅熱に似ているが今日の病気ではない)で人口の半分が死亡し、結果その後の地中海の歴史は変わった。歴史書では、スパルタの兵士には罹らずアテネ市民ばかりが倒れたとある。まるで神が罰を下すように、ウィルスは特定の遺伝子を持つ人間を選好して発症することもあるのだ。
英雄ナポレオンが20年間不敗の栄光の記録を保持して、1812年ロシアに30万の軍隊が侵攻した。ところがロシアに到着できたのは9万人に過ぎず、その9万人も有名な冬将軍に完膚なきまで叩きのめされ悲惨な末路をたどった。慣れぬ雪道に足を取られ補給が拙かった点もあるが、虱(しらみ)の大量発生による発疹チフスがその大敗の原因であった。日本のインパール作戦や南方で多くの日本兵の命を奪ったのは連合軍の銃弾ではなくマラリヤによる病死であったのだ。
例えばネイティブアメリカンを絶望的状況に追いやったのは、白人達が土地を奪い更にカスター将軍の奇兵隊がバンバン銃で撃ち殺したからではない。白人がヨーロッパから持ち込んだウィルスだったことはもはや定説である。
紀元前5世紀地中海都市国家群のリーダーアテネは全盛を迎えていた。ライバルのスパルが盟主のペロポネソス同盟と戦争を始めたが、アテネは包囲されていた頃エチオピア方面から入り込んできた疫病(チフスや猩紅熱に似ているが今日の病気ではない)で人口の半分が死亡し、結果その後の地中海の歴史は変わった。歴史書では、スパルタの兵士には罹らずアテネ市民ばかりが倒れたとある。まるで神が罰を下すように、ウィルスは特定の遺伝子を持つ人間を選好して発症することもあるのだ。
英雄ナポレオンが20年間不敗の栄光の記録を保持して、1812年ロシアに30万の軍隊が侵攻した。ところがロシアに到着できたのは9万人に過ぎず、その9万人も有名な冬将軍に完膚なきまで叩きのめされ悲惨な末路をたどった。慣れぬ雪道に足を取られ補給が拙かった点もあるが、虱(しらみ)の大量発生による発疹チフスがその大敗の原因であった。日本のインパール作戦や南方で多くの日本兵の命を奪ったのは連合軍の銃弾ではなくマラリヤによる病死であったのだ。
ヒトの病原菌とのかかわりは黒死病(ブラック・デス)=ペストのことを語らなくてはならない。
村上陽一郎の『ペスト大流行』岩波新書
「ちょっと病人と話をしたり、ときどき訪ねて行ったりしただけでも、健康体に感染して、同じように死んでしまったり、甚だしきは、病人の着物とか、病人のさわったり使ったりしたものはなんでも、それにさわると、たちまち感染するのでございました。……一日千人以上も罹病しました。看病してくれる人もなく、何らの手当を加えることもないので、皆果敢なく死んで行きました。また街路で死ぬ人も夜昼とも数多くありました。また多くの人は、家の中で死んでも死体が腐敗して悪臭を発するまでは、隣人にはわからないという有様でした。 上に述べましたような移しい数の死体が、どの寺にも、日々、刻々、競争のように運びこまれましたものですから、…墓地だけでは埋葬しきれなくなりまして、どこも墓場が満員になると、非常に大きな壕を掘って、その中に一度に何百と新しく到着した死体を入れ、船の貨物のように幾段にも積み重わて、一段ごとに僅かな土をその上からかぶせましたが、しまいには壕もいっぱいに詰まってしまいました」
古代から欧州は4回ペストのパンでミック( pandemic )を経験した。
ペストが、最初にヨーロッパを襲ったのは、西暦542年~548年にかけて東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルが、ペストの最初の洗礼を受けたのである。
わずか四ヶ月のあいだに20~30万人の死者を出し、東ローマ人全体の半分が死んだとさえ推定されている。当時の皇帝ユスティニアヌスの悪政のせいだということで、ユスティニアヌス病と名づけられた。
股(また)の付け根や脇(わき)の下のリンパ腺がはれあがり、全身に暗紫色の斑点があらわれて、ひどい膿疱(のうほう)ができる。中世ヨーロッパで名づけられた黒死病という名称は、死体の膿疱の「黒さ」からきている。
症状は急性で、1日から6日の潜伏期の後、あっというまもなく40度以上にも達する高熱を発し、熱のために脳神経系までもが冒されてしまう。ノミが媒介するペスト菌が原因である。
このため、ギリシア、ペルシア帝国、ローマ帝国と、もともとヨーロッパよりはるかに先進文化圏だった地中海沿岸は、この後、長いこと西ヨーロッパや北ヨーロッパに遅れをとることになる。7世紀、イスラム帝国は、この地中海沿岸の混乱に乗じて、かすめとるようにしてこの地域を占領したが、ペスト菌まで占領してしまった。ペルシャのクテシフォンに大流行が起きた(628年)。東ローマ軍に敗れたペルシャはペストに苦しめられ、ついにサラセンへ滅ぼされることになる。
最大の流行は14世紀のもので、当時の全人口(1億人)のうち3千万人近くが黒死病で死んだと推定されている。ヨーロッパ中世に終焉をもたらした真の主役は、ほかならぬペスト菌だった。
【村上陽一郎の『ペスト大流行』岩波新書】
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books150.htm
http://jp.encarta.msn.com/text_761572742__1/content.html
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books150.htm
大流行の端緒は中国(元)だった。1320年代の終わりから天候不順が続き、1334年に杭州で大地震が起こり、この時「悪疫」で500万人が死んだとの記録がある。これが天山北路経由で西に持ち込まれた。1337年にはクリミヤ半島やエーゲ海沿岸でペストの流行が見られた。1347年にはコンスタンチノープルや地中海の主要な港町に広がり、アビニヨン、フィレンチェ、ロンドンに伝播した後、スエーデン、ポーランドそしてロシアまで拡大している。この時代の欧州人口は1億人とされるが、2500~3000万人がペストで死んだと推定されている。結局、14世紀のヨーロッパ全体で2500~3000万人の死者が出て、全人口の1/4ないし1/3が死んだ。イタリア全土では1/12の人が死に、1349年 黒死病(ペスト)の大流行イングランドでは、全人口の半分もの人間が死に絶えてしまった。
ペストによる人口の激減は、ヨーロッパの中世農村社会の仕組みを根本からくつがえすことになった。ドイツの一部地域などでは、耕地や居住地が放棄される「廃村」現象がみられた。さらに、労働人口の激減の結果、労働者の賃金が上昇したのに対して、食料・穀物需要の減少は農産物価格の下落をひきおこしたので、農村における領主の所領経営(→ 領主制)は危機におちいった。これが14~15世紀のヨーロッパ社会を特徴づける「農業危機」とか「封建領主制の危機」とよばれる事態である。【黒死病】
http://jp.encarta.msn.com/text_761572742__1/content.html
ペストは全ヨーロッパ~アラビア~中国に広がり、10年~14年の周期で流行を繰り返した。つまり、ペスト菌は、ある時、一気に活性を高めて大量にヒトに感染し致死させ、ヒトの免疫性が高まっているあいだは潜伏して、再び登場するという歴史を繰り返した、というわけである。
ヨーロッパにおける黒死病とヒトとの関係から、今日のヨーロッパ人は、ペスト菌が宿主として、「好む」タイプの人たち、すなわち感染してはいれるけど、発病しない人びとや、発病しても死なない人びとだけが残された。
病気は必ずある種の体質の人びと、ある一定の遺伝上の特質を持つ人びとのグループを直撃するこのも記録されている。つまリ、ウィルスやバクテリアが登場して活躍すると、死ぬべき体質の人は死ぬ。生き残った人の免疫は高まっており一旦鎮まる。しばらくすると、また発病すべき体質の人が出て死亡する。
その病原体たるバクテリアやウィルスをヒト全員に故意に接種したとしても、発病率は絶対100%にはならないし、もちろん、体力のあるなしが発病に影響することはあるが、100%の致死率には至らない。そうやって人類は病原菌やウィルスと戦って、淘汰され生き残ってきたのだ。
ヨーロッパであれだけの人が死んだということは、ほぼ100%の人が感染していたはずで、だとすれば、生き残った人は、ペスト菌という神か閻魔の審判によって生を許されたのかもしれない。大多数の宗教が崇め奉っている神とは、ペスト菌かもしれないのではない。
日本の北里柴三郎がペスト菌を発見したのは、19世紀末の歴史上最後の大流行の最中であった。ノーベル医学賞の第一号となっても何等遜色のない偉業であったと思うが、西洋以外野蛮人の国だと思っていた時期に、ヨーロッパ人の天敵を東洋人に発見されたのは屈辱であったのかもしれません。
ペスト菌が人類の手によって克服された後、神は新たなる使徒「インフルエンザ」を使わした。
Wikiより引用
日本の北里柴三郎がペスト菌を発見したのは、19世紀末の歴史上最後の大流行の最中であった。ノーベル医学賞の第一号となっても何等遜色のない偉業であったと思うが、西洋以外野蛮人の国だと思っていた時期に、ヨーロッパ人の天敵を東洋人に発見されたのは屈辱であったのかもしれません。
ペスト菌が人類の手によって克服された後、神は新たなる使徒「インフルエンザ」を使わした。
Wikiより引用
インフルエンザと人類の関わりは古く、古代エジプト時代にはすでにこの感染症が知られていたことが記録に残っている。1876年のコッホによる炭疽菌の発見以降、さまざまな感染症についてその病原体が分離・発見されていったが、インフルエンザ病原体の発見は困難をきわめた。 1892年、北里柴三郎らがインフルエンザ患者の気道から病原体の候補となる細菌を分離し、Haemophillus influenzae(インフルエンザ菌)と名付けたが、コッホの原則に基づいた証明には至らなかった。当時はまだウイルス自体が認知されておらず、ディミトリ・イワノフスキーによってウイルスの存在が初めて報告されたのが、北里の発見と同じ1892年のことである。 1918年から1919年にかけて、スペインかぜの大流行が発生。人類は初めてインフルエンザの世界的大流行に遭遇した。このときの感染者数は6億人、死者は4000-5000万人にのぼると言われるが、候補となる細菌やウイルスが報告されたものの、マウスやウサギなどの一般的な実験動物で病気を再現することができなかったため、その病原体の証明には誰も成功しなかった。 1933年、ワシントンで発生したインフルエンザの患者から分離されたウイルスを使って、フェレットの気道に感染させてヒトのインフルエンザとよく似た症状を再現できることが実験的に示された。この実験によって、インフルエンザの病原体がウイルスであることが明らかとなり、インフルエンザウイルス(後にA型インフルエンザウイルス)と名付けられた。後に、この当時の流行株に対する抗体が、スペインかぜのときに採取されていた患者血清から検出され、スペインかぜの病原体がこれと同じもの(H1N1亜型のA型インフルエンザウイルス)であることが明らかになった。 1940年、インフルエンザ患者から従来とは抗原性が異なるウイルスが分離され、B型インフルエンザウイルスと名付けられた。 1946年、鼻かぜ症状を呈した患者からA、B型と異なるウイルスが分離され、1950年に病原性が証明されてC型インフルエンザウイルスと名付けられた。 1968年、香港かぜの世界的大流行。H3N2亜型に属する新型ウイルスであった。同時にH2N2亜型のものは姿を消した。 1977年、ソ連かぜが流行。これはスペインかぜと同じH1N1亜型に属するものであった。アジアかぜ以降姿を消していたH1N1型が再び出現した理由は明らかになっていない(一説には、アザラシなどヒト以外の生物が保存していたためとも言われている)。このときはH3N2亜型は姿を消すことなく、以後H1N1とH3N2が毎年流行を起こすようになっている。 1997年、香港でH5N1亜型という新型の、しかも高病原性インフルエンザウイルスが、トリからヒトに直接感染して死者が発生した。トリからヒトへの直接感染は起きないというそれまでの定説を覆すものであり、世界的大流行が危惧されたが、ヒトの間での伝染力が低かったため大流行には至らなかった。