②『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。その2
引き続き、ヒトラーがいかなる経済政策をおこなったか本書より引用していきます。
政権を奪取したナチスおよびヒトラーは実に巧みな経済政策を行った。善政と言って過言ではない、「痒い所に手が届く」とはヒトラーの経済政策のことをいうのかもしれません。
引き続き、ヒトラーがいかなる経済政策をおこなったか本書より引用していきます。
政権を奪取したナチスおよびヒトラーは実に巧みな経済政策を行った。善政と言って過言ではない、「痒い所に手が届く」とはヒトラーの経済政策のことをいうのかもしれません。
私(Ddog)は基本的に小さな政府で市場原理に任せるべきであるという反ケインジアン派である。その信念の基となっているのが、「政府は政策を常に誤る」「官僚は責任を負わない」「一人の優秀な官僚の頭脳より、多数の平凡な経済人の頭脳が出した答えの平均の方が正しい」というのがその反ケインジアンを標榜する私の基本的な考え方であるが、ナチスの行った経済政策はその信念が揺るがされてしまう。
中小企業貸し渋り対策
1934年信用保証制度の設置 3月ベルリン保証協会設立。
協会が保証人となって中小企業へ資金融資し易くした。融資額1口5000マルク利子5.5%1事業者2口まで。資金用とは運転資金に限定、固定資産購入借金返済には使えない。最長2年であった。つなぎ融資さえ安定すれば金融不安の解消に効果覿面であった。ベルリン保証協会の他に合わせて4協会設立された。
協会が保証人となって中小企業へ資金融資し易くした。融資額1口5000マルク利子5.5%1事業者2口まで。資金用とは運転資金に限定、固定資産購入借金返済には使えない。最長2年であった。つなぎ融資さえ安定すれば金融不安の解消に効果覿面であった。ベルリン保証協会の他に合わせて4協会設立された。
価格統制
一見ナチス政権の負の面のようなイメージがするが、第一次世界大戦後、極端なインフレとデフレを繰り返したドイツ経済を安定させるには有効な対策であった。
P52
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ヒトラーは政権を取るとすぐに穀物価格安定法という法律を作って、穀物の価格を固定した。これは農産物の暴落を防ぐための処置である。 もちろん、まったく固定してしまうと、農家の向上意欲も損なうし、消費者側からの反発もあるので、市民の所得レベルを見ながら目取低価格を設定するという方法が採られた。その価格以上であれば、売買していいという設定である。 また1934年秋には価格管理官という官僚が作られ(以前にもあったものを復活させた)、原料や重要食料品の術格を統制した。 1935年4月には、食料品などに関する不正な値上げを防止する法律が施行されている。 これは肉や穀類の販売値段は、仲買人の手数料から小売商人の利益にいたるまで、法律によって決められるというものである。 もし法定価格以上の値段で販売していた場合、当該官庁にその旨を届け出ると、販売したほうはすぐに営業停止を命じられ、超過した金額は払い戻されることになっていた。 ナチスの物価統制は迅速だった。
農家の借金を凍結する。
当然、ナチスは農家に手厚い保護をした。 (略) そのためナチスは、世襲農場法という法律を作った。 世襲農場法は、一定の条件を満たす農家は、農地を借金のカタに取られないようになり、大きな借金を背負っている場合は、返済できる金額まで引き下げられるという法律だった。 一定の条件というのは、 .7.5ヘクタール以上125ヘクタール以内の農地を経営していること ・正統なドイツ人であること ・男子-人に農場を継がせること などである。 125ヘクタール以内という条件は、ちょっと不思議に思われるかもしれない。ユンカーと呼ばれる貴族的な農場主に対しては、この法律の恩恵を受けさせないようにしたのだ。ナチスは、弱小農民の味方というわけである。 これらの条件を満たせば、ドイツの正統な「農民」と認められ、惜金があったとしても、農地や農機具を取られることはない。 債務を抱えている農家は、新しく作られた「債務償却銀行」に、毎年支払い可能な額を払い込めば、これまでの惜金はそれですべてOKということになった。債務は、「債務償却銀行」が立て替え払いしてくれるというわけだ。 この法律の適用を受けた農民は、その引き換えとして、今後土地の売買はできなくなるし、ドイツの名誉ある農民として、農作物の調整などに進んで協力しなければならなかった。1938年の時点で、この法律の適用を受けた「世襲農場主」の農地は、ドイツの全農地の38%に及んだ。 また、ナチスは半年間・都会の青年有志を農業支援に赴かせた。最近、日本でも都会人がボランティァを兼ねた農業体験をする「援農」がときどき行なわれているが、それを大がかりにしたものだといえる。 1933年から1935年の2年間で、平均10万人の青年が農村に行っている。農家は、宿泊場所と食事だけを提供し、青年たちには職業紹介失業保険局から若干の給料が支払われる。中高年を優先に雇った為青少年の失業対策兼非行防止策である。
日本の農業政策、中小企業対策もナチスを見習うべきである。
オリンピックをビックビジネスに変える。
オリンピツクというと、現在ではすっかりビツグビジネスになっている世界中の国々が目の色を変えて誘致合戦を繰り広げている。 しかし、このオリンピツク、以前は単なるスポーツ大会に過ぎなかった。 オリンピツクをビジネスチヤンスに換え、巨大なイベントにしようとした最初の国がナチス・ドイツだといえる。 ナチスは、オリンピツクに様・な新趣向を持ち込み、世界的な大イベントに変貌させた。 そして「ドイツの復興」と「ナチスの威信」を世界中に向けて発信し・各国の投資家たちの投資意欲をかき立たせたのだ。聖火リレーも記録映画、近代オリンピックはベルリンからと始まると考えてもいいだろう。
9月に2016年のオリンピックの開催地が決まるが、はたして東京はえらばれるだろうか?
少子化対策とニート対策
当時は560万人もの失業者がおり、若くても職に就けないものも多かった。結婚したくてもできない若者も多数おり、それが出生率を下げる要因のひとつになっていたのだ。 この問題を解消するためー933年、ナチスは政権を取るとすぐに、結婚資金貸付法という法律を施行した。 これはお金のない人が結婚するときに資金を貸し付ける制度で、1千マルクを無利子で惜りられた。 当時の1千マルクは労働者の半年分以上の賃金だった。今の日本に置き換えるなら、百数十万円から200万円程度というところだろう。 またこの貸付金は、子供を1人産むごとに返済金の4分の1が免除され、4人産んだ夫婦は全額返済免除となった。 その結果、1932年には51万件だった結婚数が、1933年には63万件、1934年には73万件に増加し、出生数は20%も上がった。 この結婚貸付金の制度は、当初は失業対策でもあった。 当時のドイツには、若い失業者が溢れていた。彼らは何をするわけでもなく、いわば二-トの状態であった。 (略) そこで若い彼らを結婚させ、落ち着かせようとしたわけである。 そしてこの制度を受けるためには、女性は仕事を辞めなければならなかった。つまり女性に結婚退職させ、男の失業を減らそうとしたのだ。 前述したようにナチス政権は、発足当初女性は家庭に帰そうという政策を採った。この結婚貸付制度もその一環であり、女性の職を男性に置きか差ることで、社会不安をなくそうとしたのだ。女性は失業しても社会に与える不安は少ないが、男性が失業すると、大きな社会不安になったからだ.しかし経済復興とともに人手不足となり女性退職の条件は外された。 また結婚貸付金は景気対策でもあった。 結婚貸付金は、現金ではなく「需要喚起券」という証券で支払われた。この需要喚起券は一特定の商店での買い物に使える商品券のようなものだった。 つまりこの制度によって、若い夫婦は補助金を使って家財道具などを買う]それで産業の活性化につながるというのである。
少子化が進み、人口が減少しだしているのに、今日の若者は結婚をしない。しないのではなく出来ない常態でいる。仕事やお金がないために、結婚ができない、結婚どころではないという若者は、日本で確実に増えているのだから。
今日の日本と当時のナチス・ドイツと似たような問題を抱えているわけだが、ナチスの行った政策は、かなり参考にはなるのではないだろうか?
続く