山岸俊男(やまきしとしお)
一九四八年、愛知県名古屋市に生まれる。社会心理学者。一橋大学社会学部、同大学大学院を経て、一九八一年ワシントン大学社会学博士。北海道犬学大学院文学研究科教授、同犬学社会科学実蹟研究センター長。社会的ジレンマ、侶薫、社会的知性など.心と社会の関係について、認知科学、心理学、社会学、経済学などの多くの側面から、実験調査、コンピュータを通じて総合的に研究。二〇〇四年、紫綬褒章受賞。著書に『信頼の構造』(東京大学出版会)、『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)、『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル)などがある。
一九四八年、愛知県名古屋市に生まれる。社会心理学者。一橋大学社会学部、同大学大学院を経て、一九八一年ワシントン大学社会学博士。北海道犬学大学院文学研究科教授、同犬学社会科学実蹟研究センター長。社会的ジレンマ、侶薫、社会的知性など.心と社会の関係について、認知科学、心理学、社会学、経済学などの多くの側面から、実験調査、コンピュータを通じて総合的に研究。二〇〇四年、紫綬褒章受賞。著書に『信頼の構造』(東京大学出版会)、『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)、『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル)などがある。
メアリー・C・ブリントン
ハーバード大学社会学部長兼ライシャワー日本研究所教授。シカゴ大学、コーネル大学を経て、二〇〇三年より現職。主な研究テーマは、ジェンダーの不平等、労働市場、教育、目本社会など。一九九〇年代に日本に長期間滞在し、日木の経済状況の変化が若者の雇用環境にもたらした影讐を研究。『失われた場を探してーロストジェネレーションの社会学』(NTT出版)が話題となる。
ハーバード大学社会学部長兼ライシャワー日本研究所教授。シカゴ大学、コーネル大学を経て、二〇〇三年より現職。主な研究テーマは、ジェンダーの不平等、労働市場、教育、目本社会など。一九九〇年代に日本に長期間滞在し、日木の経済状況の変化が若者の雇用環境にもたらした影讐を研究。『失われた場を探してーロストジェネレーションの社会学』(NTT出版)が話題となる。
本書のテーマは、二ートやひきこもりに代表される若者の「リスク回避傾向」が、実は若者だけではなくて、日本社会全体を特徴づけているという点にある。
日本人に内向きな傾向が強まっているとか、日本人のリスク回避傾向が強いという点は、これまでにも多くの方々がすでに指摘している。
日本人に内向きな傾向が強まっているとか、日本人のリスク回避傾向が強いという点は、これまでにも多くの方々がすでに指摘している。
若者だけではなく日本人全体を特徴づけるこの「リスク回避傾向」の原因が、日本社会ではさまざまなリスクが大きすぎることにあるとしている点を指摘している。
常識的には、アメリカ社会のほうが日本社会よりもリスクが大きな社会だと思われているが、それはむしろ逆である
p46~48
山岸 最近、心理学でよく使われる言葉に、「プロモーション志向」と「プリベンション志向」があります。要するに、加点法的な考え方と、減点法的な考え方という違い。プロモーション志向の強い人は、何かを得ることに向かって行動する。プリベンション志向の強い人は、何かを失うことを避けるように行動する。
メアリー アメリカ人はプロモーション志向が強く、日本人はプリベンション志向が強いように思いますね。
山岸 そうです。プロモーション志向とプリベンション志向の文化差を調べた研究では、そうした違いが見られています。
ここでなぜこんな心理学の言葉を持ち出したかというと、ゲーム・プレイヤーというのは、まわりの人たちをうまく動かして何かを得ようとする人たちなので、ブロモーション志向が強く、同時にほかの人たちの行動を読みながら行動している人たちだということができます。
ゲーム・プレイヤーでない人たちというのは、プリベンション志向の強い人たちだと言ってよいでしょう。自分がめざす目的を達成するためにほかの人たちを動かすというよりは、まわりの人たちから嫌われたらやっていけないのではないかという不安から、他人から嫌われたり、社会関係を失わないことだけに気を取られてしまっている人たちです。プロモーション志向とプリベンション志向という言葉を、ほかの人たちとの関係の作り方にあてはめたのが、ゲーム.プレイヤーと、プレーをしようとしない人たちである「非プレイヤー」との違いなんだ。
メアリー だけど、日本人はお互いの気持ちを察するのが得意な繊細な心の持ち主で、アメリカ人はそうした繊細さに欠けるガサツな連中だと思われているんじゃないですか?
山岸 メアリーも言っていたけど、気持ちを察するとか気遣いをするということと、自分の考えや意図を相手に伝えるということは違うってことなんだ。気遣いというのは、相手の気持ちを害しないよう行動するということであって、そのことで自分が悪く思われないようにというプリベンションの行動。相手の行動を変えさせるという意味でのプ回モーシ ョンの行動ではない。
ゲーム・プレイヤーにとって重要なのは、プロモーションのためのコミュニケーションなんだよ。
メアリー確か、「ひきこもり」の話をしていたんだと思いますが。ひきこもりになるのはブリベンション志向の強い非プレイヤーだということですか?山岸そうですね。ひきこもりは究極のプリベンションだから。ほかの人と会わなければ、イヤな目にあうことはありません。何も得られなくなってしまうけど、それよりもイヤな目にあうことを避けるほうに気を取られてしまっている。日本人は一般にプリベンション志向が強いけど、ひきこもりの若者は、そういう意味で究極の日本人。だから、ひきこもり対策は、実は、いまの日本人対策でもあるんだと思う。メアリーひきこもっている若者に対して、「もっと積極的に生きるようにしたほうがいいですよ」と忠告しても、そんな忠告は役に立たないでしょ?そんな忠告をされたぐらいで積極的に生きることができるのなら、そもそもひきこもりになってはいないはずだから。同じことが、日本人に対しても言えるんじゃないでしょうか?リストラされたら次がないと思って職場にしがみついて生きるよりも、自分を労働市場で売り込める実力をつけたほうがいいですよと忠告しても、それができれぼいいに決まってるけど、だけどそれができないから苦労してるんじゃないかと一言われてしまいますね。
新干年紀世代と失われた世代
p71~74
メアリー 新千年紀世代というのは、一九八○年以降に生まれた世代のことで、新千年紀(西暦二〇〇一年からの一〇〇〇年間)に入ってから大人になった初めての世代(二〇一〇年現在で一八~二九歳)だということで、こう呼ばれるようになったんです。アメリカを代表する世論調査会社「ピュー研究センター」が最近実施した調査(「新千年紀世代」二〇一〇年二月)で、この世代の考え方が、「X世代」(一九六五~八○年生まれ)、「ベビーブーマー世代」(一九四六~六四年生まれ、私の世代です)、そして「沈黙の世代」(一九二八~四五年生まれ)の考え方と比較されています。興味深い結果が出ているので、ここで紹介しておきましょう。沈黙の世代というのは、大恐慌から第二次世界大戦にかけての時代に生まれた人たちで、あまり声高に自己主張することがなく、社会のためになる生き方を好ましいと思っている人たちです。ベビーブーマー世代は、一部は日本の団塊世代に当たりますが、一九五〇年代のはじめにベビーブームが終わってしまった日本よりも長く続いています。ベビーブームが終わってから生まれた人たちがX世代と呼ばれる人たちで、それに続くのが新千年紀世代です。日本の団塊ジュニア世代よりも、ちょうど一〇年ほど遅れて生まれた、アメリカ版の団塊ジュニアの世代だと一言ってもいいと思います。まずびっくりするのは、若い世代の人たちが、自分が親になることをたいせつだと思っていることです。人生で何がたいせつだと思うかという質問に対して、新千年紀世代の五二パーセントが、人生で一番たいせつなことの一つとして「良い親になること」を選んでいるんですね。それに続くのが「良い結婚をすること」(三〇パーセント)なんです。こうした回答は、「助けを必要としている人たちに援助を与えること」(二一パーセント)、「家を手に入れること」(二〇バーセント)、「宗教的な生活を送ること」(一五パーセント)、「高給の仕事に就くこと」(一五パーセント)、「自由な時問を手に入れること」(九パーセント)、「有名になること」(一パーセント)よりもたいせつだと思われています。私が自分の学生たちにたずねても、男子学生の場合でも女子学生の場合でも、結婚する気がないと答えた学生はほとんどいないし、子どもを作りたいとは思わないと答えた学生もほとんどいません。新千年紀世代のもう一つの特徴は、移民に対して寛容だという点です。移民はアメリカを強くすると答えている人の比率は、三〇歳以上では四割ですが、新千年紀世代では六割に達しています。もう一つの興味深い結果として、「アメリカでは、いろいろなことがうまく進行している」という意見に賛成する人の比率が、新千年紀世代の若者のほう(四一パーセント)が、三〇歳以上の人たち(二六パーセント)よりも高いということです。若者と三〇歳以上の人たちとの差はピュー研究センターが調査を始めた一九九〇年以降で一番大き<なっているんです。二〇〇八年の金融危機以来、就職状況がきわめて厳しくなっていることを考えると、そんなに多くの若者たちが「世の中はうまくいっている」と思っているのは、ちょっと驚きですね。とくに、私が『失われた場を探して』の中でロストジェネレーションと呼んだ、希望を失っているように見える同世代の日本の若者たちとくらべると、この違いはとても印象的です。
自分探し
p74~76
山岸メアリーがロストジェネレーシヨンと呼んでいる日本の若者たちの特徴の一つに、「自分探し」があるんじゃないだろうか。「自分探し」というのは、自分はほんとうは何をしたいんだろう、どういった人問になりたいんだろう、どういった人問になって何をすれ ば幸せになれるんだろうといった、自分の個人的な「成功」を求めているんだと思う。
だけど、そうした「自分探し」はけっしてうまくいかないと思う。自分探しをする若者たちは、「ほんとうの自分」というものがあるはずだと思って、それを探そうとしているから。「ほんとうの自分」を見つけることさえできれば、何をしたいのかが分かるだろう、と。でも、そもそも「ほんとうの自分」がどこか心の奥底にあると考えること自体がおかしい。「ほんとうの自分」はそこに「ある」ものではなくて、「作る」ものなんだから。
ただ、日本には人々の行動を縛りつける社会的なコンストレイント(制約・狗束)、つまり世問のしがらみがたくさんあって、それがすごく強いから、自分がなりたい人間になる、自分がほんとうにしたいことをするためには、まず外部にあるコンストレイントから逃れないといけないという思いが強いのは理解できる。だから、そうしたコンストレイントを取り去った後に残ったものがほんとうの自分なんだという気持ちがあるんだと思う。それが「自分探し」の意味ではないかな。まわりからの期待にこたえる「私」がいて、それをいやだなあと思っている。そんな「私」は私じゃなくて、「ほんとうの私」がいるはずだ、「ほんとうの私」に向かって進んでいきたい、というのが「自分探し」なんだよね。日本に昔からあった隠遁生活へのあこがれも、基本的には今の若者たちの自分探しと同じなんだと思う。世問のしがらみから自由になった生活こそが、「ほんとうの自分」に正直な自分なのだという思いですね。一時期、日本のマスコミでは「自分探し」がかなりポジティブに語られてましたね。
「まわりからの期待のままに生きるのではなく、自分のやりたいことを自分で見つけて生きていくのがいいことだ」と。これは、日本の常識にそってマスコミが作った「ストーリー」だった。だけどこれは、新しい生き方のストーリーになることができなかった。「社会の価値とは違う自分の価値が欲しい」という想いが、自分を作るのではなく、どこかにある自分を見つける(探す)という言い方になってしまったので、おとぎ話の袋小路に入りこんでしまったから・・
『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層竹中正治 著 (新潮新書)』で日米文化の違いとして「希望を語る大統領vs危機を語る総理大臣」があげられています。アメリカ人は、相手のパフォーマンスを評価する場合、ポジティブな表現に気前がよく、ネガティブな表現は使わない。反対に日本は褒めないし、ネガティブな表現を気軽に使う。