Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

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2011年02月

 
イメージ 1山岸俊男(やまきしとしお)
一九四八年、愛知県名古屋市に生まれる。社会心理学者。一橋大学社会学部、同大学大学院を経て、一九八一年ワシントン大学社会学博士。北海道犬学大学院文学研究科教授、同犬学社会科学実蹟研究センター長。社会的ジレンマ、侶薫、社会的知性など.心と社会の関係について、認知科学、心理学、社会学、経済学などの多くの側面から、実験調査、コンピュータを通じて総合的に研究。二〇〇四年、紫綬褒章受賞。著書に『信頼の構造』(東京大学出版会)、『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)、『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル)などがある。
 
メアリー・C・ブリントン
ハーバード大学社会学部長兼ライシャワー日本研究所教授。シカゴ大学、コーネル大学を経て、二〇〇三年より現職。主な研究テーマは、ジェンダーの不平等、労働市場、教育、目本社会など。一九九〇年代に日本に長期間滞在し、日木の経済状況の変化が若者の雇用環境にもたらした影讐を研究。『失われた場を探してーロストジェネレーションの社会学』(NTT出版)が話題となる。
 
 
 
 
本書のテーマは、二ートやひきこもりに代表される若者の「リスク回避傾向」が、実は若者だけではなくて、日本社会全体を特徴づけているという点にある。
日本人に内向きな傾向が強まっているとか、日本人のリスク回避傾向が強いという点は、これまでにも多くの方々がすでに指摘している。
 
若者だけではなく日本人全体を特徴づけるこの「リスク回避傾向」の原因が、日本社会ではさまざまなリスクが大きすぎることにあるとしている点を指摘している。

常識的には、アメリカ社会のほうが日本社会よりもリスクが大きな社会だと思われているが、それはむしろ逆である
日本はセカンドチャンスが無い社会に近い。一度失敗するとリカバリーする社会的制度が無いが故にリスク回避傾向が高いと指摘している。 なるほどユニークな視点である。「セカンドチャンス」を認める労働市場の整備が日本には必要ではないかとまずは論じています。大いに同意します。
p46~48
山岸 最近、心理学でよく使われる言葉に、「プロモーション志向」と「プリベンション志向」があります。要するに、加点法的な考え方と、減点法的な考え方という違い。プロモーション志向の強い人は、何かを得ることに向かって行動する。プリベンション志向の強い人は、何かを失うことを避けるように行動する。
メアリー アメリカ人はプロモーション志向が強く、日本人はプリベンション志向が強いように思いますね。

山岸 そうです。プロモーション志向とプリベンション志向の文化差を調べた研究では、そうした違いが見られています。
ここでなぜこんな心理学の言葉を持ち出したかというと、ゲーム・プレイヤーというのは、まわりの人たちをうまく動かして何かを得ようとする人たちなので、ブロモーション志向が強く、同時にほかの人たちの行動を読みながら行動している人たちだということができます。
ゲーム・プレイヤーでない人たちというのは、プリベンション志向の強い人たちだと言ってよいでしょう。自分がめざす目的を達成するためにほかの人たちを動かすというよりは、まわりの人たちから嫌われたらやっていけないのではないかという不安から、他人から嫌われたり、社会関係を失わないことだけに気を取られてしまっている人たちです。プロモーション志向とプリベンション志向という言葉を、ほかの人たちとの関係の作り方にあてはめたのが、ゲーム.プレイヤーと、プレーをしようとしない人たちである「非プレイヤー」との違いなんだ。

メアリー だけど、日本人はお互いの気持ちを察するのが得意な繊細な心の持ち主で、アメリカ人はそうした繊細さに欠けるガサツな連中だと思われているんじゃないですか?

山岸 メアリーも言っていたけど、気持ちを察するとか気遣いをするということと、自分の考えや意図を相手に伝えるということは違うってことなんだ。気遣いというのは、相手の気持ちを害しないよう行動するということであって、そのことで自分が悪く思われないようにというプリベンションの行動。相手の行動を変えさせるという意味でのプ回モーシ ョンの行動ではない。
ゲーム・プレイヤーにとって重要なのは、プロモーションのためのコミュニケーションなんだよ。

メアリー確か、「ひきこもり」の話をしていたんだと思いますが。ひきこもりになるのはブリベンション志向の強い非プレイヤーだということですか?
 
山岸そうですね。ひきこもりは究極のプリベンションだから。ほかの人と会わなければ、イヤな目にあうことはありません。何も得られなくなってしまうけど、それよりもイヤな目にあうことを避けるほうに気を取られてしまっている。日本人は一般にプリベンション志向が強いけど、ひきこもりの若者は、そういう意味で究極の日本人。だから、ひきこもり対策は、実は、いまの日本人対策でもあるんだと思う。
 
メアリーひきこもっている若者に対して、「もっと積極的に生きるようにしたほうがいいですよ」と忠告しても、そんな忠告は役に立たないでしょ?そんな忠告をされたぐらいで積極的に生きることができるのなら、そもそもひきこもりになってはいないはずだから。
同じことが、日本人に対しても言えるんじゃないでしょうか?リストラされたら次がないと思って職場にしがみついて生きるよりも、自分を労働市場で売り込める実力をつけたほうがいいですよと忠告しても、それができれぼいいに決まってるけど、だけどそれができないから苦労してるんじゃないかと一言われてしまいますね。
新干年紀世代と失われた世代
p71~74
メアリー 新千年紀世代というのは、一九八○年以降に生まれた世代のことで、新千年紀(西暦二〇〇一年からの一〇〇〇年間)に入ってから大人になった初めての世代(二〇一〇年現在で一八~二九歳)だということで、こう呼ばれるようになったんです。アメリカを代表する世論調査会社「ピュー研究センター」が最近実施した調査(「新千年紀世代」二〇一〇年二月)で、この世代の考え方が、「X世代」(一九六五~八○年生まれ)、「ベビーブーマー世代」(一九四六~六四年生まれ、私の世代です)、そして「沈黙の世代」(一九二八~四五年生まれ)の考え方と比較されています。興味深い結果が出ているので、ここで紹介しておきましょう。
 
沈黙の世代というのは、大恐慌から第二次世界大戦にかけての時代に生まれた人たちで、あまり声高に自己主張することがなく、社会のためになる生き方を好ましいと思っている人たちです。
 
ベビーブーマー世代は、一部は日本の団塊世代に当たりますが、一九五〇年代のはじめにベビーブームが終わってしまった日本よりも長く続いています。
 
ベビーブームが終わってから生まれた人たちがX世代と呼ばれる人たちで、それに続くのが新千年紀世代です。日本の団塊ジュニア世代よりも、ちょうど一〇年ほど遅れて生まれた、アメリカ版の団塊ジュニアの世代だと一言ってもいいと思います。
 
まずびっくりするのは、若い世代の人たちが、自分が親になることをたいせつだと思っていることです。人生で何がたいせつだと思うかという質問に対して、新千年紀世代の五二パーセントが、人生で一番たいせつなことの一つとして「良い親になること」を選んでいるんですね。それに続くのが「良い結婚をすること」(三〇パーセント)なんです。こうした回答は、「助けを必要としている人たちに援助を与えること」(二一パーセント)、「家を手に入れること」(二〇バーセント)、「宗教的な生活を送ること」(一五パーセント)、「高給の仕事に就くこと」(一五パーセント)、「自由な時問を手に入れること」(九パーセント)、「有名になること」(一パーセント)よりもたいせつだと思われています。
 
私が自分の学生たちにたずねても、男子学生の場合でも女子学生の場合でも、結婚する気がないと答えた学生はほとんどいないし、子どもを作りたいとは思わないと答えた学生もほとんどいません。
 
新千年紀世代のもう一つの特徴は、移民に対して寛容だという点です。移民はアメリカを強くすると答えている人の比率は、三〇歳以上では四割ですが、新千年紀世代では六割に達しています。
 
もう一つの興味深い結果として、「アメリカでは、いろいろなことがうまく進行している」という意見に賛成する人の比率が、新千年紀世代の若者のほう(四一パーセント)が、三〇歳以上の人たち(二六パーセント)よりも高いということです。若者と三〇歳以上の人たちとの差はピュー研究センターが調査を始めた一九九〇年以降で一番大き<なっているんです。二〇〇八年の金融危機以来、就職状況がきわめて厳しくなっていることを考えると、そんなに多くの若者たちが「世の中はうまくいっている」と思っているのは、ちょっと驚きですね。
 
とくに、私が『失われた場を探して』の中でロストジェネレーションと呼んだ、希望を失っているように見える同世代の日本の若者たちとくらべると、この違いはとても印象的です。
自分探し
p74~76
山岸メアリーがロストジェネレーシヨンと呼んでいる日本の若者たちの特徴の一つに、「自分探し」があるんじゃないだろうか。「自分探し」というのは、自分はほんとうは何をしたいんだろう、どういった人問になりたいんだろう、どういった人問になって何をすれ ば幸せになれるんだろうといった、自分の個人的な「成功」を求めているんだと思う。

だけど、そうした「自分探し」はけっしてうまくいかないと思う。自分探しをする若者たちは、「ほんとうの自分」というものがあるはずだと思って、それを探そうとしているから。「ほんとうの自分」を見つけることさえできれば、何をしたいのかが分かるだろう、と。でも、そもそも「ほんとうの自分」がどこか心の奥底にあると考えること自体がおかしい。「ほんとうの自分」はそこに「ある」ものではなくて、「作る」ものなんだから。

ただ、日本には人々の行動を縛りつける社会的なコンストレイント(制約・狗束)、つまり世問のしがらみがたくさんあって、それがすごく強いから、自分がなりたい人間になる、自分がほんとうにしたいことをするためには、まず外部にあるコンストレイントから逃れないといけないという思いが強いのは理解できる。だから、そうしたコンストレイントを取り去った後に残ったものがほんとうの自分なんだという気持ちがあるんだと思う。
 
それが「自分探し」の意味ではないかな。
まわりからの期待にこたえる「私」がいて、それをいやだなあと思っている。そんな「私」は私じゃなくて、「ほんとうの私」がいるはずだ、「ほんとうの私」に向かって進んでいきたい、というのが「自分探し」なんだよね。
 
日本に昔からあった隠遁生活へのあこがれも、基本的には今の若者たちの自分探しと同じなんだと思う。世問のしがらみから自由になった生活こそが、「ほんとうの自分」に正直な自分なのだという思いですね。
 
一時期、日本のマスコミでは「自分探し」がかなりポジティブに語られてましたね。
「まわりからの期待のままに生きるのではなく、自分のやりたいことを自分で見つけて生きていくのがいいことだ」と。これは、日本の常識にそってマスコミが作った「ストーリー」だった。だけどこれは、新しい生き方のストーリーになることができなかった。「社会の価値とは違う自分の価値が欲しい」という想いが、自分を作るのではなく、どこかにある自分を見つける(探す)という言い方になってしまったので、おとぎ話の袋小路に入りこんでしまったから・・
『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層竹中正治 著 (新潮新書)』で日米文化の違いとして「希望を語る大統領vs危機を語る総理大臣」があげられています。アメリカ人は、相手のパフォーマンスを評価する場合、ポジティブな表現に気前がよく、ネガティブな表現は使わない。反対に日本は褒めないし、ネガティブな表現を気軽に使う。
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(4)「血も家も」
p173~174
イデオロギーが成立する戦国時代が終了して江戸幕府が成立すると、時代の趨勢は、動乱から安定へと変化していきます。武士たちは貴族の世界を模倣するように儀礼の世界を作り上げ、毎年くり返される年中行事に明け暮れるようになります。伝統や先例が重んじられ、世襲を根本の原理とする社会が形成される。過去の時代と決定的に異なるのは、罪を犯したならば司直の手により罰せられるようになったこと。それゆえに犯罪は減少して、曲がりなりにも平和な毎日が到来したことです。
興味深い数字があります。一六〇〇年にはおよそ一千万人だった日本の人口は、江戸時代になると値は急激な仲びを示し、一七〇〇年には二千五百万人に膨れあがりました。十七世紀に人口爆発が起こっているのです。国力と人口は密接な連関を示す。それは現代の世界を見ても明らかでしょう。遠くない将来、多くの国民を抱える中国とインドが特別な発言力を行使し始めるだろう、とは衆目の一致する観測です。
そうとすれば、江戸時代は中世に倍する国力を有していた、と大まかに捉えることができるかもしれません。人々は江戸幕府が提示した理念を受け容れ、だから祉会生活は安定し、人口が急速に増える。その理念とは、武士・村落民・都市民(士・農・工・商という言い方は、以前のものになっているようです)の身分の固定と、世襲に他なりません。
農民に生まれたら農民になるほかない。大工などの子として都市部に生まれたら、職人になるか商家に奉公するか。支配社会層である武士にしても、出世は干難の業で、たいていは父親の人生をなぞるだけ。そうした毎日は確かにうっとうしいものだったでしょうが、そこには少なくとも平和があった。自由をあきらめる代わりに、今までにはない安全を獲得する。江戸時代の人々は、そうした選択をしたのだと思います。
(1)明治維新はやはり特異である
p186~190
これまで述べてきたように、日本の社会は平安時代から一干年の間、世襲に童きを置いて歩んできました。これだけ長時間にわたる強固な価値観なのですから、内発的な事件や指向性の変動では、それを改変することはおそらく難しかったでしょう。
ところが江戸時代末、突如として黒船がやってきた。帝国主義列強の脅威が眼前に迫ったのです。この外圧に晒されて、日本は初めて変わる決意をする。それも、独りよがりな改革ではなく、他者[諸外国の視点に立った変化を遂げていく。それが明治維新です。
明治維新の意義については、それこそ様々な研究があり、言及がなされています。中には、いや改革とはいうけれど、日本はちっとも変わっていない、との極論まであります。
ここでは、これまでに見てきた「世襲と才能」の観点から考えてみたい。すると、やはり明治維新は、日本史上で最大の変革であるといわざるを得ない。
 
明治政府は、初めて官僚によって運営されました。高官たちは下級武士の出身者がほとんどで、才能を根拠として登用されています。そこには世襲の論理がないのです。全国の大名は身分を剥奪され、家格は否定され、士・農・工・商の別もなくなりました。才能を磨くことによって、立身出世が可能な世の中になったのです。
 
明治の元勲たちの動向を見ていると、子どものために財産は残しても、政治的な依怙贔屓をしていないのに意外の感を受けます。大久保利通の子や伊藤博文の子ですら大臣になっていません。長州閥の領袖として悪名高いあの山県有朋も、跡取り(甥を養子に迎えています)の将来に便宜を図るような振る舞いはしていません。「子孫の為に美田を買わず」は西郷隆盛のことばですが、元勲たちはそれに倣っているのです。
 
富国強兵、文明開化。それを成し遂げなければ日本は植民地になってしまうかもしれない。国を挙げての取り組みが為されます。その手段として、世襲は否定され、才能の重視が実現するのです。
 
けれども、やはり日本社会は長いあいだ世襲で動いてきている。支配者層=官僚組織は才能を拠り所にするけれども、そのありようはすぐには民衆の理解を得られない。ここに、「官と民」の対立の萌芽が生まれてしまいます。また、この対立は「都市部と農村部」の対立にすぐにも転化する可能性を秘めている。
そこで明治政府は天皇を前而に押し出したのではないでしょうか。伝統、古き良き日本、そして世襲を一身に体現する

天皇を、です。天皇を中心とする国家作りを掲げることにより、「天皇(原理は世襲)-官(原理は才能)一民(原理は世襲)」とすることにより、一才能の官と世襲の民」の対立の図式は避けられるのです。

加えて明治政府は、刻苦勉励して才能を磨けぱ、民はいつでも官の仲間人りができる、というモデルを作って見せました。学校を建て、教育の実践に努力を傾注したのです。天皇の擁立、官と氏とを結ぶルートの形成。これにより、社会の安定が図られました。
 
ただ、ここで「天皇-官」にも微妙な問題が生まれました。
というのは、君主とそれを支える官僚組織、という構図はそれこそ世界の至る所にあったわけで、日本のアイデンティテイを確立するのに寄与してくれません。そこで注目されたのが、『古事記』などの日本の古典を重視し、研究していた国学です。江戸時代後期に盛んになった国学の主張を取り入れ、天照大神から血縁で連綿とつながる比類のない天皇家。その「万世一系」の天皇家を戴く、他国に例のない日本が強調されることになったのです。
 
国学の考え方は、日本のすがたを見つめる知識人に広く浸透していました。島崎藤村は「夜明け前」の主人公、青山半蔵を、古代以来の天皇を敬慕する人として活写しています。ここでは、時に極端な主張をする人なので例として不適切かもしれませんが、吉田松陰の論を紹介します。安政の大獄で刑死した思想家(もともとは兵学者)・教育者で、明治の元勲に多大な影響を与えました。
 
「日本では天下は天皇一人の天下である(後述する『呂氏春秋』に対応することば)・もし暴虐の天皇が出現しても、その方を討つようなことは、中国にはあっても、日本にあってはならない。全国の民は皇居の前にひれ伏して天皇の改心を祈るだけで、怒った天皇が民を片端から殺し始めたら、最後の一人までただ祈りっづけるのだ」(『丙辰幽室文稿』)
 
徳のない天皇は討伐して良し、とする中国流の「易姑革命」はまちがっている。ですから天皇はおのずと「万世一系」となります。われわれ臣民は無条件に、「万世一系」の天皇に命をさしださねばならない!うーん、すごい理屈もあったものです。
(4)世襲と才能の現在
p202~206
太平洋戦争に敗れた後、天皇は元首から象徴になりました。私はこの変貌により、日本社会における天皇の位置はより確固たるものになったのではないかと思っています。というのは、これまで述べてきたように、天皇や将軍、組織のトップが実権力を振るわないのが、日本の伝統的なあり方だったからです。
世襲を体現しながら、現実的な権力とは別次元にいる。そうした象徴天皇制は、驚くほど高い国民の支持を受けています。問題はやはり「万世一系」でしょう。男女平等がこれだけ根付いた状況で一夫多妻を認めよ、というのは乱暴な話ですから、皇室は常に後継者問題に頭を悩ませることになります。男性天皇とか男系天皇に固執すればより一層、解決は困難になっていくでしょう。
これはあくまでも私の考えにすぎませんが、本書で書いてきたことと関連して、
①万世一系は明治維新において強調された概念であること。
②日本は世界の中で、すでにきちんと座を占めている。つまり、もう無理やりにアイデンティティを強調する必要がないこと。
それに加えて、
③さすがに天照大神や神武天皇の物語は歴史事実ではなく、神話であると多くの人が認識していること。
も考慮した時に、もはや「万世一系」にこだわる必要はないように思いますが、どうでしょうか。むろん、そうした論議は専門の方々にお任せしますけれども。
我が身により切実に関わりのある、深刻な課題は、世襲と才能の連関です。明治維新のときはのように「天皇と官と民」でしたが、戦後は天皇がここから後退し、政治家が登場してくる。「政治家と官と民」です。日本の歴史ではあまり明瞭に区分されなかった政治家と官僚とが、やっと並び立つのです。ところが日本人はあくまでも世襲に弱いらしく、この政治家がどんどん世襲されていく。二代つづく国会議員は当たり前、三世や四世までいる。しかも中には地方自治体の市会議員・県会議員も世襲で、その上に国会議員が乗る、というように、がちがちの権力構造ができているところまである。これではほとんど、江戸時代の藩の権力と変わるところがありません。
でもそれでも世襲批判はそれほど熱を帯びない。ジャーナリズムが記事にしてもそれが盛り上がりをみせない。日本人はよほど、世襲に寛容とみえます。世襲の原理がDNAに組み込まれているのでしょうか。
たしかに「はじめに」で記したように、才能だけに依拠していては、一人の勝者を生みだすために、九人の敗者が犠牲になることになりかねません。あるいは、競争が激化すれば、九人が九十九人になる事態もあり得るのかもしれない。歴史を参照すると、そうした厳しい競争は、日本人には向いていないといえるでしょう。
日本の歴史では、こんなにはっきりと才能の結集を呼びかけた人物はいませんでした。
せいぜい織田信長が、それに近いことをやっているくらいです。日本社会は古くから、才能の用い方に習熟していない。だから第一章で見たように年功序列があったり、世襲があつたり。絶えず争いつづけるぎすぎすした人問関係ではなく、まったりとしたコミュニティを指向するのでしょう。
ただし、前近代ならばそれでも構わないのかもしれませんが、いまは何しろ「グローバリゼーシヨン」の時代です。絶えず世界の動向に気を配り、世界と競争していかねばならない。そのときに世襲だけでは、とても太刀打ちできないのではないか。これも「はじめに」で記したように、世襲で発言力を得た政治家が、しきりに公務員を叩いて票を獲得しようとしていますが、せっかく明治維新が作りだした官僚機構をつぶしてしまって良いのでしょうか。とてももったいない気が、私にはするのですが。
世襲議員と中央官庁の上級公務員=官僚と。その限りで話をすれば、世襲議員には私たちはなれません。天運です。でも努力して勉強すれば、官僚にはなれるのです。ならなかったのは、もつぱら私たちの側に理由があるのです。父祖譲りの地盤を受け継いで選挙を勝つて、「民主的」だと称する世襲議員と、子どもの頃から一生懸命勉強して・何度もの試験をくぐり抜け、職場でも鍛えられてきた官僚と。世界とやり合う戦力としてどちらを信用するか、と問われれば、ぼくは文句なしに官僚の能力の方を支持しますけれども。でもそれは少数派ですね。
私は保守思想を自認していますが、消極的親米保守主義者です。
戦後日本は、宗主国米国によって内政を統制され国家としての矜持を忘れ去られてきました。

しかしながら、今後100年中国に対処するには米国との強調は必要だと私は思っています。ネットには擬似保守主義者からである反米左翼まで雑多な意見が出回っています。そのなかに、皇室を中心とした日本を批判したり、天皇は万世一系ではないから皇室をなくせとの意見を書いているブロガーがいる。

私は、日本のネット世論に中共の影を見てしまう。中共の国益は日米離反であり、皇室を無くす事はもっとも効果的な日本の破壊である。

安易な反米と皇室批判は中共の工作員によるネット世論誘導を疑うべきではないだろうか?
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イメージ 1天皇はなぜ万世一系なのか
平成の御世で百二十五代目、皇統は連綿とつづいてきた。その権力統治構造をつぶさに見ると、あることに気づく。はたして日本で貴ばれるものは「世襲」なのか、そ
れとも「才能」か?日本中世史の第一人者がその謎を解き明かす両期的日本論!
 
本郷和人(ほんごう かずと)
1960年、東京生まれ。東京大学史料編纂所准教授.東大文学部・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し、日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史、古文書学。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。主著に『中世朝廷訴訟の研究」(東京大学出版会)、『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)、『新・中世王権論』(新人物往来社)、『武力による政治の誕生』(講談社選書メチエ)、『武士から王へ』(ちくま新書)などがある。
 
 
 
本書は所謂皇国史観の本ではございません。世襲と才能の登用の間で揺れ動いた日本人の人事問題を考察し、その結果誕生したのが、結果として続いてきた万世一系の天皇という知恵であることを論じていている本です。
 
わたくしは、保守主義者で尊王思想を支持していますが、神話としての万世一系ではなくシステムとしての万世一系の皇室という知恵を支持したい。
 
本書は中世の貴族社会や僧侶の人事にかかわる実例を上げ、人事は日本人の一大関心事であったこと。そのなかで中堅貴族は生き残る為に専門職をみつけ家業としたり、武士は所領を安堵する為に命を懸けて戦い、所領を世襲する。人事において才能と世襲をうまくバランスをとる難しさはいつの世も同じであると思ったのであります。
 
p59
朝廷の人事では年功が重んじられている。けれども、年功に依拠してばかりいるならば、十九歳の権中納言は生まれようがありません。年功だけではない。でも、家実の出世の道すがら、格別なトラブルが起きた形跡はない。だれも憤慨している風はない。
これはなぜなのでしょうか。
ここに実は、「家格」というコンセプトが必要になってきます。上・中級貴族はおおよそ四つの家柄に分類することができる。摂関家、清華家、羽林(うりん)家、それに名家です。家柄には格があり、摂関家が最上で、名家がもっとも下位に位置づけられています。自分が属する家柄よりも上位の人が、先に昇進していく。これは仕方がないのです。良い気はしないでしょうけれど、ちっとも恥ではありません。ところが自分と同等、もしくは下位の家柄の人に追い越される。これが厳密な意味での超越です。耐えられぬ恥辱となるのです。
p58~61
家格です。家格の名称が厳密に定まったのは江戸時代なのですが、便利なのでこれを用いることにしましょう。家格は先述したように、上から摂関家、清華家、羽林家の順で、一番下が名家です。江戸時代には清華家の下に大臣家を設定しますけれども、中世においては両者は同一のものとして扱えます。
 
摂関家は名称の通り、摂政・関白になれる特別な家です。平安時代、摂関政治を行って朝廷をリードした藤原本家の子孫たちです。鎌倉時代初期に、まず近衛、松殿、九条の三家が成立しました。このうち、松殿家は政争に敗れ(滅亡した木紳義仲と組んでしまった)、早々に没落します。近衛家からは、鎌倉中期に別に鷹司家が立てられた。九条家からは同じころに二条と一条家が分立しました。この五つが摂政・関白に就任できる家として、所謂「五摂家」が成立しました。

五摂家の嫡子ともなると昇進はたいへんに早く、近衛中将から蔵人頭・参議を飛び越して、直に中納言に任じることが多いようです。先に例に出した近衛家実もそうでした。その後、早々に左大臣か太政大臣に昇りつめ、摂政もしくは関白になります。頃合いを見てさっさと引退し、間違っても老残の身をさらしたりはしません。「前関白太政大臣」の肩書きは、現職にいるのと同じくらい、政治的な発言権を有していました。家格が厳然と機能しているので、実際の官職にこだわる必要がないのです。

清華家は中世では大臣家とも呼ばれます。つまり、大臣になれる家なのです。有力な清華家の嫡子は近衛中将から蔵人頭を飛び越して直に参議に任じている人が多いようです。

二十代前半で中納言くらいでしょうか。大納言から大臣に進むのですが、重箱の隅を突きますと、
①内大臣→右大臣→左大臣→太政大臣、と順々に昇進する家が清華家の中でも格が高いのです。さきほど、摂関家の貴公子は蔵人頭や参議を飛び越していく、生言いましたが、大臣は飛び越さないのがえらい。三条・西園寺・徳大寺家などがこれにあたります。
②内大臣→太政大臣、と左右の大臣を経験しないで、状況を見ながら太政大臣に任じる家がそれに次ぎます。土御門・久我・堀川家など。
③内大臣にだけなって引退する。これが三番目です。

羽林家は、大納言もしくは中納言にまで昇進します。羽林とは近衛府の次官である近衛中将・近衛少将の中国風の呼び方であり、「武官コース」を経由することに由来した名なのです。家の先祖は摂関家・清華家の庶子であることがほとんどで、その家独自の特徴を内外に提示しないと、数代後の没落が待っています。生き残るのはたいへんですから、常に厳しい立場に立たされている家々といえましよう。『神皇正統記』の著者として有名な北畠親房を出した北畠家を例にすると、家の初代は親房の曾祖父の雅家で、清華家に属する中院家の庶子でした。彼の子息の師親は、大覚寺統へのひたすらな献身と、深い学識の習得を家の特徴として打ち出し、大納言に至る家格を維持しようとしています。

昇進コースでいうと、以上すべての家は「武官コース」を通っていきます。他方、最後の名家だけは「実務官コース」。吉田・葉室・二条・坊城・中御門.勧修寺などの家がこれにあたります。本章で例に挙げた中御門経任、姉小路忠方、平仲兼、吉田隆長はみな名家の人々です。忠方も仲兼も、羽林以上の家の人に追い越されたなら、不快には思ったでしょうが、怒りはしなかった。同じ名家出身の中御門経任、吉田隆長に超越されたので、激怒して官を辞したわけです。
 
もう少しだけ薀蓄を語ると、名家の人々は家格は低い。けれども、実務官としてのスキルをもっている。これに目を付けたのが、院政を行う上皇たちです。とくに鎌倉時代中期から、後嵯峨上皇以降の歴代の上皇は、彼らを積極的に登用した。彼らを白らの手足として活用することにより、摂関家や清華家などの伝統的な上流貴族を敬して遠ざけ、それまでとは異なる機能的な朝廷行政を目指したのです。能動的な行政者たらんとする上皇と、実務に堪能な名家の人々。この組み合わせによって、鎌倉時代の朝廷政治は推進されていきます。 
 
(1)朝廷における権勢とは
p154~156
これまで色々と書き並べてはきたのですが、これらは実に簡単にまとめることができます。日本の支配者層、貴族や武士についてみるならば、世襲は圧倒的に強力な理念であった、結局はそれに尽きるのです。
 
中国大陸では科挙が実施され、新しい才能が絶え問なく補充される。彼らは官僚として出世を競いながら、総体として皇帝の権力を支えます。ですから、皇帝権力は彼らのサポートを受けて、他の権力者を圧倒することができる。これに比べて日本では才能を基準としての登用や抜擢がない。権勢を得た者は自己の権力を子孫に伝えることをくり返しますので、代を重ねるごとに抜きがたい勢力を築いていきます。天皇も、後の世の将軍も、彼らの存在に手厚い配慮をする必要があるのです。
 
時間軸に添って、日本の「権力のかたち」を見ていきましょう。古代に導入された律令制は、本来は天皇だけをただ一人の王とし、その前ではすべての人が臣として横並びであるという「一君万民思想」を標榜していました。それは経済的には、全ての土地と民百姓は天皇の所有に帰するので、権勢者が勝手に私有したり世襲できないという「王土王民思想」になります。
 
東アジアに見られる律令国家は、①土地を貸与(班出という)し、その見返りとして②税を納入させ、③兵役を課す。また、これを国内で均等に行うために④地方行政制度を確立する。この四つを基本的な要素として有しています。ところがこれを満足させるためには、「1、法の整備」と、「Ⅱ、多くの官僚の育成」がどうしても必要になるのです。
 
ところが、日本では、もう何度もくり返していますが、官僚の育成を行わなかった。ですから、律令制は社会に根付くわけがなかった。大宝律令の制定は七〇一年ですが、早くも七四三年には、土地の私有を認めた墾田永年私財法が作られています。最近の古代史の研究者は、この法は律令制が進展するのを側面から援護したもの、との評価を与えているようですが、どうも木を見て森を見ない議論であるような気がしてなりません。先にも記したように、律令制の基本は「王土王民」です。それがもう破綻している、と考えるのが本筋ではないでしょうか。実際にこれ以降、私有地に近い荘園が各地に設けられ、その数は増加の一途を辿っていきます。

平安京への遷都が実現し、平安時代が始まると、律令制の衰退は次第に明らかになっていきます。右記③、朝廷の直轄軍は姿を消していき、④も有名無実になっていく。九〇〇年頃には、国司が任地に赴かなくなります。県知事は東京で賛沢に暮らしていて、現地は部下に任せきりにしているようなものです。①については、醍醐天皇が九〇二年に実施した班田が最後、といわれています。
こうした状況の中で、「一君万民」というありかたにも、揺らぎが生じてきます。天皇の政治的な突出に歯止めがかかり、実力を蓄えた貴族たちが台頭してきます。その代表が摂政(天皇が女性、もしくは子どものときに置かれる)や関白(天皇が成人男性のときに置かれる)として天皇権限を代行する、藤原北家の一流です。
下克上というけれど
p172~173
いかに実力重視の戦乱の時代とはいえ、やはり家柄が大事だったのです。
それは大名家だけではなく、大名を支える家臣団にもいえることです。強力な軍隊や支配体制を作るために、大名たちは才能をどんどん抜擢したでしょうか。いいえ、そんなことはできませんでした。名もない素浪人を重く用いたりしたら、有力な国人領主たちが納得しません。彼らの協力を得られなければ、大名は自滅する他ないのです。だから大名たちは、従来の秩序を無視するわけにはいきませんでした。

数多い戦国大名の中でも、才能の抜擢ができたのは、わずかに武田信玄と織田信長くらいではないでしょうか。信玄は有能な家臣に伝統ある家を嗣がせ、重臣として用いました。山県昌景(謀反人として処罰された飯富虎呂の弟)、馬場信春(もと教米右氏)、香坂昌信(豪農の出身)がこれです。より大胆な抜擢をしたのはいうまでもなく織田信長で、羽柴秀吉、滝川一益がこれにあたります。明智光秀も土岐源氏とはいうものの、出自が確かではないようです。

まとめましょう。戦国時代の戦乱によって、伝統的な秩序には大きな改変が加えられました。伝統の力は後退し、実力が前面に押し出されるようになりました。ですが、それでも一足飛びに「能力がすべて」という風潮が生まれたわけではありません。戦国大名もその重臣たちも、伝統的な勢力から生まれています。世襲の力はまだまだ強力で、伝統・世襲を基礎として、そのうえで能力の有無が問われたのが戦国時代である、といえそうです。
つづく
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國民新聞・平成23年01月31日の記事(その1) 

◆中国軍トップ 「十年以内に日本を核攻撃」

 この十年以内に核攻撃で日本などを消滅させ、中国人が世界人口の中で大きな比率を占め、人類の進化の過程で有利な位置を占めるやうにする―。
この驚嘆すべき発言は、中国国防大学院長の朱成虎少将のもの。         (略)                                             「人口増加により資源が欠乏し戦争が勃発した後、一部の人口が消耗して均衡が保つ」と。その人類の歴史の発展の中で「中国は後手に回って討たれるよりは、主導的に討つて出る方がいい。核戦争は人口問題解決に最も有効だ。中国は全力で核戦争を行う準備を整えるべきと決めつけ、「大切なのは、我が中国がこの競争において機先を制し、他国・他民族の人口をできるだけ減少させるやう努めるとともに、自国の人間が数多く生き延びるようにする」と述べた。
「愚かな計画出産政策を放棄して、できるだけ多くの子供を産み、計画的に周辺諸国に浸透させる。周辺諸国への密入国を人民に奨励する」と中国人の人口膨張を推進する。
さらに、攻撃対象として日本などの.国々を挙げている。その方法として、「機が熟したら、果敢に猛烈な勢いで、全面的な核攻撃を発動し、相手が反撃に出る前に、その人口の大部分を消滅させるよう努める」と言い、最後に、「中華民族が手に入れるのは世界全体である」と締括る。                    (略)
今年も中国の動静を厳しく見張つていかなければならない一年になつた。
山田惠久

この元ネタは2005年に既に流れてた朱成虎少将発言ニュースですよね?
最初に知ったのは軍事評論家=佐藤守のブログ    

2005-07-21 危険な中国軍将官たちの発言

で、あったが下記ブログがまとまりが良かったので紹介
中国、ミサイル増強について近隣諸国に説明する必要               =米国防長官(2005/10/20)
「米国のラムズフェルド国防長官(US Defence Secretary Donald Rumsfeld)は、訪中最終日の20日、中国はミサイル増強について近隣諸国に明確に説明する必要があるとの考えを明らかにした。軍事科学院で述べた。 同長官は、米国防総省は中国が弾道ミサイルを増強して世界の大半を射程に収めようとしていると確信している、との認識を示した。 その上で、「中国がこのように戦略的な攻撃能力を増強していることが、懸念の原因になっている。その結果、この地域に関心を持つ多くの国が、中国の意図に疑問を抱くようになっている」と述べた。」

北からも西からもミサイルが「実際に」飛んできてるんだから、日本としては、大問題ですがな。

Rich Lowry(リッチ・ロウリー)氏の論文(略)
「…冷戦の後、この同盟関係は崩壊に向かっているように見えた。日本は第一次湾岸戦争の際には経済的援助のみを提供し、1993年~1994年にかけての北朝鮮との対決ではアメリカへの情報・輸送協力を拒否した。クリントン主義者達は、その間、安全保障問題を放り出し、貿易問題で日本を苛め倒す事に執着した。 しかし数発のミサイルほど神経を集中させるものはなかった。1996年、中国は台湾へ向けて弾道ミサイルのテストを行い、数発が日本の航路付近に着弾した。この事件が、日本は「周辺有事」の際アメリカに輸送支援を行うと誓約し、米日同盟は「日本周辺有事」を含むと規定する米日宣言へ導いた。この「有事」とは台湾に関して起こりうる紛争をも含んでいる、として中国は文字通り悲鳴を上げた。2年後、北朝鮮は日本北部を越すミサイルを発射し、これはミサイル防御システムに関するアメリカとの協力に対する日本側の興味をかきたてる事になった」
「中国は、いわゆる「総合国力」(経済成長、軍事力、外交的影響力)とやらを追い求めている。中国の真の国家的関心は、無意味に日本の反感を買っているわけではない。しかし、現在の中国政治制度の実態は、他にどうにもしようがない事を示している。中国政府はその正当性をナショナリズムに依存しており、そのため、過去の残虐行為の為に人気のない日本を痛めつける以外に方法がないのだ。他の独裁政治と同様に、中国政府はその抑圧を正当化する為に外部の脅威を強調する必要がある」
                                                中国軍部高官・朱成虎少将 国防大学でのスピーチ(2005/07/06) 
「我々は先制核攻撃により中国以外の人口を 減らすと共に自民族を温存させる事に力を注ぐべきで、この核戦争後に 百年余りの屈辱に満ちた歴史を清算し 未来永劫にこの地球を支配するようになるだろう。」  

中国軍部高官・朱成虎少将 国防大学内部の会議上で講演(2005/07/06) 
「世界人口の総数はすでに地球資源と生態環境の許容能力を超えており、これを解決するために戦争、疫病或いは飢饉などの手段を用いて大量に人口を消滅させ、人類を引き続き生存させるべきである。 このためのひとつとして、中国政府は全力で核兵器の開発に取り組んでおり、十年以内には地球上の半数以上の人口を消滅させるだけの核兵器を装備することが可能である。」

中国軍部高官の核攻撃発言で、国際社会に波紋 (2005/07/18)
「中国外務省は、朱成虎氏の発言は個人の観点であると弁明したが、中国政府の立場ではないと表明することをしなかった。同時に中国外務省は声明文を発表、「中国は台湾の独立を絶対に容認しない、中国国家の分裂を促すあらゆる行動を許さない」と強調した。
~略~
ワシントン・タイムズ紙17日付けの報道によると、米国国防省のある高官は、「朱成虎氏の発言は、おそらく事前に中国高層部の許可を得た、中国政府の見解を代表するものだろう。戦争計画の一部を無意識に漏らした可能性もある。この発言の意図は、アジア国家にアメリカの軍事力を恐れていないことをアピールするものだろう」と分析した」


米議会、核攻撃発言の撤回と朱成虎少將の免職を求める (2005/07/22)
「中国の軍部高官朱成虎少將の核攻撃の衝撃発言に、米下院は、20日修正案を通過し、中国政府に発言の撤回と朱成虎少將の免職を求める態度を示した。この修正案の発起人、共和党議員タンクレータ氏は「中国政府に、武力紛争ではなく平和方式で台湾問題を解決するとの保証を求めていくべきである」と述べた。
~略~
いったん米国が台湾海峡での武力紛争に介入した場合、「我々は、西安より東の都市が全部壊滅することを惜しまない。その代わり、米国も数百の都市が犠牲になる覚悟をしなければならない」と、中国の強硬姿勢を示唆した。
~略~
専門家らは「中国は自由に見解を述べる国柄ではない、軍部の高官に対する言論規制はもっと厳しいものである、核兵器使用問題で、今まで、中国政府は北朝鮮を利用して、国際社会を脅迫し続けてきたが、今回の朱成虎氏の発言は、決して個人的な見解ではなく、中国政府は仮面を外して、赤裸々な大胆行動に出たと受け止めるべきである」と分析した。
~略~
中国の有名な民主活動家・魏京生氏は「中国共産党は、目的達成のために手段を選ばないという卑劣な一面がある。いま中国社会には、各種の不安定要素が隠されており、政権を延命するために国民の注意を転換させ、結束力を強化する必要がある。中国政府は、対台湾戦争がこれらの目的を達成させる一番よい手段と考えている可能性がある。情報筋によると、今中国の軍事産業は大量の武器製造の注文を受けている。近く戦争が起こるとの噂も流れている」と暴露した」


ネットにリークされた、中共軍部の危険思想 (2005/08/26)
2005年4月23日、「博訊」という中国語のネットに、中共中央軍事委員会副主席、国務委員で国防部部長・遅浩田上将による「演説」という形で掲載された。
「演説」の抜粋

「どのような事態に直面しても、我々は党と国、そして国家の未来のために前進するのみであり、そのためには困難を乗り越え、犠牲はやむを得ないのである。人口の半分以上が死に絶えてもまた再生できるが、もし党が無くなれば、すべてがなくなり、永遠になくなるのだ!」
~略~
「どのような事態になっても、我々、中国共産党は、決して歴史の舞台から引き下がらない!我々は、歴史の舞台から退くよりも、あえて世界中の人民を道ずれに自決する道を選ぶ。“核の束縛”という論理があるではないか?つまり、核があるから、世界の安全は保たれており、死ぬときは皆一緒、という論理である。私の考えでは、党の運命は世界の運命と共にある、という束縛があると思う。もし我々、中共がなくなれば、中国がなくなり、そして世界も終わる、ということである」
~略~
「2億人ものアメリカ人を殺すことは、確かに残酷なことだ。しかし、それは中国の世紀を迎え、そして中国が世界をリードする道を辿るステップに過ぎない。 ~略~ 我々は中国人を守り、党の生命を死守するであろう。なぜならば、我々は中国人であり、党のメンバーであるからである。中共に入党したその日から、党の生命は全てのものの上に立つのである!」

なんだ、国民新聞山田惠久氏の記事は2005年の朱成虎少将発言そのものじゃんか・・・有名な朱成虎少将発言の旧聞が最新ニュースのごとく流れているのはいかがなものか?また、ろくに調べ転載するブログもありますが・・・同じ保守系ログとして恥ずかしい。もう少し保守系のブロガー諸君のレベルアップを望みます。

でも、このニュースから6年、約束の10年まであと4年。確かに中共暴発の危険性は高まっています。6年前は単なる極端な軍人の妄想にすぎないとまだどこか安易に考えていた。だが、2011年に読む朱成虎少将発言はリアリティがあり、危機感を感じてしまいます。また、石平氏の最新記事を読むと、日本は呑気に政争している暇はない。

毛沢東の狂気が蘇る時民族滅亡の脅威              最近、中国の国内メディアで、「毛沢東」にまつわるいくつかの興味深い記事が見つかった。
1つは、人民日報社の自社サイトである「人民網」が1月17日に掲載した記事で、1957年11月に毛沢東がソ連で開かれた社会主義陣営の各国首脳会議に参加したときのエピソードを紹介したものである。記事によると、毛沢東はこの会議で、当時のソ連共産党フルシチョフ第一書記の提唱する「西側との平和的共存論」に猛烈に反発して次のような過激な「核戦争論」をぶち上げたという。

 「われわれは西側諸国と話し合いすることは何もない。武力をもって彼らを打ち破ればよいのだ。核戦争になっても別に構わない。世界に27億人がいる。半分が死んでも後の半分が残る。中国の人口は6億だが半分が消えてもなお3億がいる。われわれは一体何を恐れるのだろうか」と。

毛沢東のこの「核戦争演説」が終わったとき、在席の各国首脳はいっせいに凍りついて言葉も出なかったという。さすがの共産党指導者たちも、「世界人口の半分が死んでも構わない」という毛沢東の暴論に「圧倒」されて閉口したようである                                                 毛沢東という狂気の政治指導者の暴虐さをよく知っている中国の知識人なら、この発言を聞いても別に驚かないのだが、筆者の私が興味深く思ったのはむしろ、人の命を何とも思わない共産党指導者の異常さを露呈し、党のイメージダウンにつながるであろうこの「問題発言」が、他ならぬ共産党機関紙の人民日報社の自社サイトで暴かれたことである。                          (略)
毛沢東の「核戦争演説」といい朱成虎少将発言といい、中国人と人類ははたして共存できるのであろうか?とても疑問である。

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勝海舟について、とても感動した話をご紹介したいと思います。
海舟の幼名は麟太郎といい、一八二三(文政六)年、一月三十日、江戸本所亀沢町(現在の墨田区両国四丁目)で、勝家の長男として誕生しました。父は小吉(二十二歳)、母は信子(十九歳)で、のちに妹のおはなとお順が生まれています。
曾祖父の山上銀一は盲人で、越後国三嶋郡長鳥村の貧しい農家の出身でした。銀一は十七歳の頃に江戸に出て、金貸し業で成功し、巨万の富を得ます。そのお金で、盲人最高位の検校を買い、米山検校を名乗りました。息子の平蔵は御家人株を入手し、男谷を興します。男谷は後に旗本に昇進しました。この平蔵の息子が海舟の父の小吉でした。小吉は三男であったため養子に出されます。それが勝家でした。
勝家は三河以来つづいた旗本で、純粋な三河武士の子孫でしたが、麟太郎が生まれた頃は禄高も減り、貧しい生活でした。「武士は食わねど高楊子」といいますが、極貧の生活の中で、誇り高く意地を貫くこの頃の勝家の姿は、まさにこの言葉そのものでした。
ろくに布団で寝たことがなく、少年時代の麟太郎が着るものといえば剣術の稽古着だけ、正月にも餅がなかったのです。
海舟は十六歳で家督を相続して勝家の当主となり、二十三歳で妻をめとります。(略)
海舟は自己鍛錬を怠らず、勤勉に日々を過ごしていました。
一日一食に耐え、剣術に打ち込み、禅に没頭します。そのエネルギーはいつしか学問に向かっていました海舟が蘭学を志したのは、「英米仏露の列強による脅威に対処するために、西洋兵学の必要性を痛感したため」であるといわれています。当時の日本には開港を迫る外国船が頻繁に来航していました。一八四九(嘉永二)年には、イギリス船が江戸湾の測量を行なうなどの切迫した情況になっていたのです。
蘭学の勉強に必須の日蘭辞書『ヅーフ・ハルマ』は、長崎の通詞十一人が二十三年かけて完成させた労作で、全五十八巻で大枚六十両という値段でした。極貧の海舟に買えるわけがありません。そこで海舟はその辞書を所有している人を捜し当て、十両という金額でそれを借り受け、一年がかりで筆写をしました。筆写は二組作成し、一組を自分用に、もう一組を売却して、十両返済と諸経費にあてたのです。
一口に筆写といっても、『ヅーフ・ハルマ』は三千ぺ-ジ、語数九万余もありました。
これを一言一句、しかも二組筆写するのは並大抵の根気ではできません。手製の陶砂を紙にかけて惨みを防ぎ、家鴨の羽を削ったペンに、インクも自家製。くる日もくる日も机に向かい、粉骨砕身の一年を送ったのです。
海舟はこうと決めたら誠心誠意、一途に励む人間でした。貧しさに怯まず、日本の行く末を考え、目先に捉われることなく、大局を見つめています。
そんな海舟に惹かれて、力となってくれる人たちが現われ始めます。
そのうちの一人、渋田利右衛門との出会いを、海舟自身の言葉で紹介しましょう。少し長い引用(『氷川清話』角川文庫)ですが、海舟の文の巧みさと人柄を窺い知ることができます。
 
イメージ 1
 
 
これは維新前に書いたおれの日記帳だが、このけい紙に渋田蔵書という書が入っとるのを見なさい。これはおれのたいせつな記念物で、話せば長いが、今もいうとおり、若い時分におれは非常に貧乏で、書物を買う金がなかったから、日本橋と江戸橋との間で、ちょうど今、三菱の倉がある所へ、嘉七という男が小さい書物商を開いていたので、そこへおれはたびたび行って、店先に立ちながら、並べてあるいろいろの書物を読むことにしておった。すると向こうでもおれが貧乏で書物を買えないのだということを察して、いろいろ親切にいってくれた。

ところがそのころ、北海道の商人で、渋田利右衛門という男もたびたびこの店へ来ており、嘉七からおれの話を聞いて、「それは感心なお方だ。自分も書物をたいへん好きだが、ともかくも一度会ってみよう」というので、つい嘉七の店で出合った。ところが渋田のいうには、「同じ好みの道だから、この後のご交際を願いたい。私もお屋敷へうかがいますから、あなたも何とぞ私の旅館へおいでください」といって、無理に引っぱって行った。
旅館というのはもとの永代橋あたりだったが、そこでその日はゆるりと話をした。

この男は、元来函館の商人の子で、子どもの時から本が非常に好きで、しじゅう本ばかり読んでいるので、親がひどくこれを嫌って、書見をいっさい禁じたのを、なお隠れ隠れに読んでいたところが、ある時親から見つけられて、むごい目に叱られた上、懲らしめのために両手を縛って二階へ押し込められ、一日中飯も食わないでおらせられた。やがて日暮れになると、親はもう懲りたであろうと思って、二階に上がって見ると、懲りるどころか、縛られながらもその辺に落ち散ってあった草双紙を、足で開いて読んでおるので、親もとうとう我を折って「これからは家業さえ怠らねば、書見は許す」ということになった。

そこで渋田は非常に喜んで、家業の余暇にはいろいろな書物を買って読み、江戸へ出た時などには、たいそうな金をかけてたくさんの珍本や有益な機械などを求めて帰って、郷里の人に説き聞かせるのを、一番の楽しみにしておるということであった。

その話の中にはなかなかおもしろいところがあって、人物も高尚で、ちょっと見たところでは色が白くてやせ形で、さながら婦人のようだけれど、どことなく毅然として動かないところがあって、確かに一種の人物らしかった。

二、三日すると渋田は自分でおれの家へやってきた。そのころのおれの貧乏といったら非常なもので、畳といえば破れたのが三枚ばかりしかないし、天井といえばみんな薪にたいてしまって、板一枚も残っていなかったのだけれども、渋田はべつだん気にもかけずに落ちついて話をして、かれこれするうちに昼になったから、おれがそばをおごったら、それも快く食って、そしていよいよ帰りがけになって、懐から二百両の金を出して「これはわずかだが書物でも買ってくれ」といった。

あまりのことにおれは返事もしないで見ていたら、渋田は「いや、そんなにご遠慮なさるな。こればかりの金はあなたに差し上げなくとも、じきに訳もなく使ってしまうのだから、それよりは、これであなたが珍しい書物を買ってお読みになり、そのあとを私に送ってくだされば何より結構だ」といって、強いて置いて帰ってしまった。

このけい紙も実はそのときに渋田がくれたので、「おもしろい蘭書があったら翻訳して、この紙へ書かせてくだされ」と頼んだのだけれど、実際はおれが貧乏で紙にも乏しかろうと思って、それでくれたのだ。そののちもたびたびけい紙を送ってくれたが、この日記帳もつまりその紙でとじたのだ。

それからというものは双方絶えず音信を通じていたが、おれがいよいよ長崎へ修業にいくことになると、渋田は非常に喜んで、「これでこそ私の平生の望みも達したというものだ。私も、一度は外国の土地までいってみたいと思うけれど、親の遺言もあるから自由なことはできない。が、今日あなたにかようなご命令のくだったのは、私にくだったのと同じように私は心得ているから、どうぞ十分にご勉強なさい」といって、おれを励ましてくれた。
おれもこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかこれに報ゆるだけのことはしようと思っていたのに、惜しいことには、渋田はおれが長崎にいる間に死んでしまった。

こんな残念なことは生まれてからまだなかったよ。
 
勝海舟とキリスト教から再度引用
 
渋田は自分の死をどこかで予感していたのではないでしょうか。海舟が長崎に旅立つとき、「万一、私が死んであなたの頼りになる人がなくなっては」といって、数名の有力者を紹介しています。「すべてこれらの人はそれぞれ一種の人物で、さすがに渋田の眼識は高いものと、おれはあとで悟った」と海舟は回想しています。

その中のひとり嘉納治郎右衛門は、神戸で「菊正宗」という銘酒を代々営む豪商で、のちに海舟が神戸へ赴いたとき、機械の類はすべてこの人に購入してもらっています。また伊勢商人の竹川彦三郎竹斎、幕末の開国論者として有名な紀州の浜口儀兵衛など、いずれも当時の有力商人たちでした。

渋田の恩に報いるためでしょう、海舟は維新後に、渋田の遺書をすべて函館奉行所で買い上げるようにし、渋田の子孫に帯刀を許すように取り計らっています。

さて、海舟が長崎へ行くのは海軍伝習を命じられたためでした。無役から役付への昇進で、これが海舟の立身出世の始まりとなります。
(略)
海舟は一八五〇(嘉永三)年、二十八歳の時に、赤坂田町仲通り(現在の港区赤坂三の十二)に「氷解塾」という私塾を開きます。
(略)
この塾の出身者には、のちの日銀総裁の富田鉄之助、統計学の開祖の杉亨二、外交官の高木三郎などがいます。
(略)

当時、鋳物師は、圧銅(おしがね)の量を目減りさせたり、填銅をつかったりして、ごまかすのが普通でした。十二斤の野戦砲を一つ作るのには六百両かかります。それに対して三百両の謝礼を監督指導の蘭学者がとるのが慣例で、そのために手抜きをして、その分を謝礼に回していたのです。

ある時、某藩の注文で野戦砲を作ることになりました。
築地に住んでいた増田という鋳物師が海舟のもとに来て、六百両を差し出して言いました。
「鉄砲の仕事の無事故を祈って、神酒料をお届けに上りました。お納めください」ところが海舟は鋳物師を怒鳴りつけて、その金を突き返したのです。

「この六百両の分だけ圧銅の量を増やしな。それだけ良い大砲を作って、立派な仕事をしてみろ。請け負ったこのおれの名前の汚れになるような事は、よしにしてくれ」この事件が世間の噂になって流れたのです。それを聞いて大変感心したのが大久保忠寛(一翁)でした。
 
(略)

幕末の官僚には見識が高く、この忠寛のようにいわゆる「人物」がいました。そういう人たちが自ら出かけていって、埋もれた人材を発掘したのです。不正を嫌った潔癖性が海舟を引き上げ、後の軍艦奉行へと彼を導いていったのでした。

海舟が軍艦奉行を命じられたのは一八六二(文久二)年、八月十七日、四十歳の時です。
二ヶ月後の十月、二十八歳の坂本龍馬が氷川にある海舟宅を訪問。海舟の器の大きさに感服し、即座に弟子となっています。

二年後の一八六四(元治元)年九月十一日、海舟が四十二歳のとき、大坂の旅宿で三十八歳の大島吉之助(西郷隆盛)と出会います。この四年ののち、開戦を唱えていた西郷が海舟の談判を聞き入れたことで、江戸城無血開城が果たされるのです。徳川政権から明治政権へと移ったこの歴史的な出来事は、海舟の平和的精神がなさしめたわざでした。

渋田利右衛門しぶた りえもん:1818年~1858年 明治維新前の箱館に於ける庶民の教育に尽力した)此人の先祖は南部田名部の郷士から出て幼名を利助と呼んだ。箱館へ来てからは澗の内で漁をしたり茅部に鯡網を差したり又船の二隻も浮べて回船問屋を開いた、随って相当の資産家ともなった。利右衛門はその孫。学は皇漢から蘭学まで、当時としては一級の知識人だった。1855年函館・下田開港となり外国船が箱館に来た際通訳として奉行所から呼出された事もある。
 
利右衛門は蔵書を一般に公開していたため現在、函館では「図書館の祖」とたたえられている。
 
明治維新は、勝海舟の度量の広さがなければ江戸城無血開城もなかったであろう。勝海舟が存在しなければ坂本龍馬も世に出ることはなく、薩長同盟もなかったのである。その勝海舟は渋田利右衛門の出会いがなければ、長崎に行く事も無く、幕臣大久保一翁に抜擢されることもなかったのだ。勝海舟と渋田利右衛門の出会いは明治維新の原動力の一つであった。
 
この『氷川清話』を読むと、人と人の出会いの大切さ、教育の重要性を痛感する。なんとも胸が熱くなるエピソードである。今で言うセレブである渋田利右衛門という人物の志の篤さに、感動を禁じえない。ビルゲイツやU2のボノ、マドンナ、レオナルドデカプリオ、ジョージソロス・・・など欧米人のセレブも篤志家となっているが、彼らにはこれに匹敵する話はあるのだろうか?
 
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リビア混乱の余波、世界の市場に 【日経新聞】

論説副委員長 脇祐三
リビアのカダフィ政権が崩壊の瀬戸際に至り、アラブ諸国に広がる政治情勢の流動化は世界の市場を揺さぶる。ロンドン市場の北海ブレント原油の相場は1バレル111ドル台をつけた。サウジアラビアなど湾岸産油国の情勢も次の焦点になる。
 ベンガジなどリビア東部はすでに反カダフィ勢力の支配下に入った。政権崩壊の際に真っ先に国民からの糾弾の対象になりそうだった公安、司法担当の閣僚などが辞任し、軍の一部も政権から離反した。
 カダフィ大佐は、中国の天安門事件のように反対勢力を徹底的につぶすと抗戦を宣言、首都トリポリに忠誠を誓う部隊と支持者を集めた。首都で市街戦が広がれば、おびただしい血が流れかねない。別の大きな問題は、独裁政権が倒れても、当面の政治の受け皿が見あたらないことだ。
 軍は割れているし、弾圧に加わった軍を国民は信用しないから、エジプトのように軍が暫定的に権限を握ることも困難だ。国内の部族対立、地域対立も噴き出している。弾圧されてきたイスラム勢力も巻き返しを狙う。反政府勢力もばらばらで、「力の空白」による混乱長期化の懸念が強まる。
 リビアの危機は、昨年11月に米国が金融の量的緩和第2弾を実施して以降の金融市場のトレンドを変えた。
 (略)
 それでも、政治状況の激変がチュニジアやエジプトのような非産油国から、有力産油国であるリビアに広がったという現実、ひょっとするとサウジにも波及するかもしれないという懸念が市場に及ぼす心理的な影響は大きい。
 リビアでは、現地に進出している外国石油会社が要員を国外退避させ、操業中断や生産量低下が現実になってきた。パイプラインによる輸送の中断や、港湾での原油・石油製品の積み出し作業が停止するといった影響も出ている。
 リビア原油の輸出先を国別にみると、イタリアが32%、ドイツが14%、中国、フランス、スペインが10%前後、米国が5%、ブラジルが3%、オーストリアなどその他の欧州諸国があわせて14%といった比率だ。欧州向けが中心で、中国以外のアジア諸国や日本への影響は小さいが、欧州市場の指標油種である北海ブレントの相場押し上げ材料になる。
 欧州諸国の中でもイタリアは、石油、天然ガスの双方でリビアへの依存度が高く、リビア情勢の影響を最も受けやすい。イタリアのベルルスコーニ首相は22日、カダフィ大佐に電話し、反政府勢力との対話によるリビアの内戦回避を要請したという。イタリア政府の懸念は強い。
 一方、サウジのヌアイミ石油相は22日、「現時点で原油の供給不足はまったくない。供給不足が起きても、OPECはそれに対応する準備ができている」「サウジの追加生産余力で供給不足を埋め合わせできる」と語った。石油の需要の確保を重視するサウジは100ドル超の原油価格は望まず、1バレル70~80ドルが適正水準と繰り返している。
だが、サウジが増産に踏み切っても、相場の「冷やし玉」にならないかもしれない。サウジの増産によって供給量が増えるのは、主として重質で硫黄分の多い油種と考えられ、リビア原油のような軽質で低硫黄の油種の代替にはなりにくいという要因もある。
 そして、サウジ自体が、アラブの政治情勢の不安定化が自国に波及して石油生産に悪影響が及ぶのを防ぐため、躍起になっている。 昨年秋から米国で2回の手術を受け、モロッコで静養していた高齢のアブドラ国王が23日に帰国し、350億ドル規模の予算増額を発表した。住宅の整備や住宅購入の支援、外国で教育を受ける機会の拡充、起業の支援、社会保障の充実などが柱とされ、失業や庶民用の住宅不足などへの若年層の不満を抑えようとする狙いは鮮明だ。
 アブドラ国王の帰国にあわせ、バーレーンのハマド国王がサウジの首都リヤドに赴いた。両国王の協議の焦点は、バーレーンで拡大したシーア派を中心とする反政府デモを、どうやって鎮めるかだ。
 支配層を中心にスンニ派が国民の3割、シーア派が7割というバーレーンに対し、サウジは王家をはじめ85%がスンニ派で、シーア派は15%程度。だが、石油生産の中心で、バーレーンと海上道路でつながっている東部州はシーア派住民が多く、国営石油会社もシーア派の従業員を多数抱えている。
 アブドラ国王は国内に飛び火しないようバーレーンのデモを早く収拾してくれとの立場だが、同時にシーア派の政治的な要求に対しバーレーン政府が譲歩しすぎないようにとクギを刺しただろう。すでに選挙による議会が存在するバーレーンで、国民の政治的な権利がさらに拡大すると、サウジ国内のシーア派の政治的要求が一段と強まる可能性があるからだ。
 一方で米政府は米艦隊の基地があるバーレーン政府に対して、民主化推進の方向で事態の収拾を求めている。ハマド国王は目下、「また裂き状態」だ。
 サウジ国内では3月11日に民主化要求デモを実施する呼びかけが、フェイスブックを通じて広がっているという。それまでに、バーレーンの緊張状態は打開できるのだろうか。
 
リビア情勢が混沌。リビアのカダフィ大佐がフランス語を話す黒人の傭兵を使って自国民を殺害したり爆撃して、中国の天安門事件と同じように制圧すると宣言してしまった。
 
自国の戦闘機パイロット達は国民の爆撃を拒否して国外に亡命したり、砂漠にわざと墜落させたりしている。国軍が分裂しはじめたリビアは国家として崩壊するだろう。もうすでに終わっている。カダフィ大佐の運命は決まっているだろう。おそらくかつてのルーマニアの独裁者チャウセスクやムソリーニと同じく最後は民衆によるリンチもしくはイスラムには自殺は認められていないが、ヒトラーのように自殺するであろう。
 
1969年かつての王政を倒した革命の闘士も、権力を握って40年もたったらタダの圧制者。それを「私は革命家だ」と言われても、とてつもなく痛い勘違いとしか思えない。
 
日本にも菅ちがいしている元市民運動家の総理が、マニフェストを最初に破ったくせに自分はマニフェストの守護者と同じく勘違いしている不動産王の政治屋と醜い争いをしている。もっと最悪なのが、そんな不動産王のことを愛国者で、改革者と勘違いしている一部頭が不自由な人たちには辟易する。
 
さて、1989年ベルリンの壁が崩壊し東欧ドミノが発生し、天安門事件に波及した中国だが、当然中国共産党はその波及を恐れている。
 
太陽黒点が11年周期増大すると革命が起きる傾向にある。前回極大期の2001年は革命とはちっがたが同時多発テロが発生した。一昨年昨年と太陽黒点がゼロであったが、2012年の極大期に向かって中国でも革命が発生する可能性がある。
 
 
この中東ドミノは抑圧された中国民衆にとって民主化のこの上ない追い風である。
昨年のノーベル平和賞が中国人人権活動家の劉暁波氏であった意味も重要である。
 
最近の中国のネット上では「ミイラは目覚めた。兵馬俑は眠り込むわけにはいかない」。この言葉が流行っているという。
唐氏によると、古代文明の栄えたエジプトでの民主の勝利は、同じく古代文明の栄えた中国に一層大きな意義を持つという。「独裁者である中国共産党は、常に民衆にこのように口説く。中国は歴史が長く、抱える荷物が重い、民主化はゆっくりやらねばならない、中国人は素質が劣る、だから民主化はさせられない。同じく歴史が長いエジプトでの民主運動の勝利は、中共の虚言を台無しにさせた。私は報道を通じてエジプト国民の声を聞いた。彼らは、自分が生まれた頃にはこのような勝利の日が来るなど夢にも思わなかった。その彼らが見事に成し遂げたこの革命は、誰にも妨げられない天意なのだ」

 また、エジプトに端を発して、今後の世界の仕組みが大きく変わると同氏は考える。

 「独裁体制やテロリズム、それに関係した戦争などが終結し、中東全域が民主化されれば、アメリカがこれまで中東地区に注いできた反テロリズムのための国力は、中国共産党や北朝鮮などの残りわずかな毒牙に向けられる。全世界の正義の力が中国に向けられれば、中国共産党は、必ず孤立無援となるだろう」

 中国の民衆は「革命」を待っている

 世界構造の大変革という歴史の大舞台は、まもなく中国から始まると唐氏は感じ取っている。エジプトの民主運動前の状況と比べて、今中国民衆が置かれている局面は非常に優れた状況にあると同氏は見ている。

 「1月25日以前、エジプト人の革命への情熱はどこにも見られなかった。しかし今の中国民衆の目覚めている程度は、1月25日前のエジプト人よりずっと高いのだ。私と良く連絡をとっているあるブロガーがエジプト事件後に私にこう言ってきた。君は中国国内の状況がよくわかっていない。国内の民衆は革命を待っている状況なのだ。もしその日が来たら、中国人の情熱は決してエジプト人に負けないのだ」と同氏は語る。

 「今日の中国社会がどういう状況なのか考えてみなさい。まず、共産党離脱を表明する運動が水面下で進んでいる。それに幾千幾万もの法輪功学習者が(共産党の法輪功迫害に関する)真相伝えの動きをしている。それに銭雲会(政府の土地収用に反対したことで殺されたと疑われている浙江省の元村長)のような、自分たちの権益を守ろうとする民衆がたくさん存在する。さらに高智晟弁護士のような人権活動家がいる。さらに毎年8万から10万件の当局に反対する群衆事件が起きている。革命前のエジプトにこのような状況はなかったのだ」

 中国民主運動のカギは、脱党運動にある

 「だからこそ中国の民衆は、一日も早くその“準備”をしなければならない」と同氏は語る。

 この準備とはなにか。現在中国大陸で民主運動に従事する一部の人たちが唱える「体制内改良」論調ではないと同氏は考える。今回のエジプト革命は22年前の天安門民主運動と非常に類似しているが、天安門民主運動より一歩前進して独裁者の辞任要求を出した。それこそエジプト人が成功した原因であるという。

 この準備とは、独裁政権と妥協せず、中国共産党政権を完全に解体する覚悟にある、と同氏は指摘する。それによって中国は新しい時代に入るのだ。中国で水面下で進められている、民衆による共産党関連組織からの離脱表明こそが、エジプト国民が見せた力よりもさらに強力であり、しかも暴力によらない平和的手段として、中国では最も有効で望ましい方法であると同氏は主張する。

 共産党関連組織(共産党、共産主義青年団、少年先鋒隊)からの離脱声明運動(三退)は、2004年12月大紀元社の社説「九評共産党」の発表がきっかけで、中国国内外でスタート、数年間で中国全土に広まり、水面下で進められている。現在離脱表明を発表するサイトに記録された人数はすでに8900万人に上っている。1日あたり平均数万の中国人がネット封鎖を突破するソフトを通して、海外の「脱党サイト」で実名や匿名の形で中国共産党やその関連組織から離脱の意思を表明している。
以上は中国のもっとも有力な反体制サイト法輪功の大紀元からの引用である。
北京や上海、重慶などの都市でインターネットの大規模なアクセス障害が発生しているとも言う。
 
中国の革命は2012年の共産党大会で太子党の習近平と共産主義青年同盟との権力争いが引き金になるかもしれません。
 
いずれにせよチュニジアの「ジャスミン革命」を発端に、北アフリカから中東のアラブ世界に広がった民主と自由を求める民衆の巨大な力は、中国に及ぶかどうか目が離せない。

 


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75pの薄い本であった為1時間もかからず一気に読みきってしまった。
面白い本でした。皆様にもお薦めします。昨年の大河ドラマ龍馬伝では勝海舟を武田鉄矢が演じておりましたが、苦労人勝海舟の懐の大きさ、人の痛みがわかる人情深い大人物を上手く演じていたと思います。
 p3~4
勝海舟は成臨丸で日本人で初めて太平洋を横断した人物として知られています。幕末から明治維新にかけて、海舟が日本という国家に果たした役割は大きく、海舟にまつわる著書は世に数多く出ています。
中でも海舟自身の談話集である『氷川清話』は有名で、作家の海音寺潮五郎も「明治維新を本当に知るために、海舟はもっと研究されねばならない人物である。薩長連合も、大政奉還も、その知恵を坂本龍馬に授けたのは海舟であった証拠がある」と、本の帯に推薦文を書いています。
『氷川清話」を一読すると、海舟は大変器が大きく、勤勉で情の深い魅力的な人物であったということがわかります。海舟はいかにしてそのような人物となったのでしょう?
一九七六(昭和五十一)年に出版された『クララの明治日記』という本があります。著者はクララ・ホイットニー。クララはのちに海舟の三男である梅太郎の妻となった人です。
日記は一八七五(明治八)年八月三日から始まり、一八八七(明治二十)年四月十七日で終わっています。クララが十五歳から二十七歳までの記録で、海舟はそのとき五十三歳から六十五歳。大小十七冊のノートにびっしりと書き込んであります。
この日記に海舟を含めた勝家の人々が登場します。クララは両親と兄妹の五人家族で、勝家の敷地内の家に住んでいました。クララ一家がクリスチャンであったため、勝家の人々はキリスト教に関わりを持つこととなり、海舟もその影響を受けます。
本書は海舟とキリスト教との関わりにスポットを当てー特にクララ一家と出会った頃の晩年の海舟をークララの日記を中心に見ていくことにします。
  p15~17
海舟は二十一歳で蘭学を志し、永井青崖に師事しました。蘭学とは、江戸時代中期以後に現れた、オランダ語の書物によって西洋の学術を研究しようとした学問です。海舟は勤勉に蘭学を学び続け、のちに私塾を開くほどになりました。海舟がキリスト教に出会った時期は定かではありませんが、おそらくこの頃に蘭学の勉強の一環として聖書を読み始めたのではないかと想像されます。

キリスト教を理解することなしには西洋の芸術を真に理解することはできない、とはよく言われる言葉です。西洋の音楽、文学、絵画、彫刻、舞踊、建築など、いたるところにキリスト教の影響がみられます。

このことを考えれば、世界に目を向けていた海舟が、キリスト教に興味を持ったのは当然のことで、単に教養という面からだけでも聖書を読み始めたのではないか、という可能性に頷けます。三十八歳のときに成臨丸でアメリカに向かった折りには、サンフランシスコ滞在中、日曜日ごとにプロテスタントの教会に出席しているのです。そんな海舟がキリスト教の影響を受けたと考えるのは、むしろ白然なことではないでしょうか。

キリスト教と出会って、影響を受けるその現われかたは人それぞれで、ある人にとってはその価値観が根底から変わってしまうような場合があります。けれど海舟の場合は、「もともと持っていた価値観が、キリスト教の価値観と合っていた」というのではないかと推察されます。だから海舟はキリスト教に好意を持ちました。海舟とキリスト教との関わりは、そういうところから出発したのではないかと想像されるのです。
 
海舟が長崎で出会ったクリスチャンの一人にカッテンディーケというオランダ人がいます。西役所におかれていた海軍伝習所に、新たに赴任してきた主席教官でした。カッテンディーケは「この国の人たちにキリスト教を押しつけてはならない。我々の信ずる神は愛なのだから、寛容な心で真実に語るならば、この国にキリスト教は伝わるに違いない」という考えの持ち主でした。
 
当時の日本はキリシタンは禁制で、通訳者はキリスト教のことには触れないように通訳し、またそれを見張るのが目付の役割でした。海舟はこのカッテンディーケという人物に魅せられ、策を用いて度々彼と二人きりになり、「通弁も目付もなく、直接、男と男として語った」と著書で述べています。彼との長崎でのつきあいは二年に及ぶものでした。
 
このカッテンディーケを始まりとして、海舟は生涯を通じてたくさんのクリスチャンたちと親交がありました。勝家に出入りしていた日本人キリスト者を列挙してみましょう。
 
津田仙、徳富猪一郎、横井時雄、巌本善治、山路愛山、富田鉄之助、戸川残花、中村正直、宮川経輝、小崎弘道、内村鑑三。いずれも鍾々たるメンバーです。また明治キリスト教界の重鎮といわれた伊勢時雄、湯浅治郎、海老名弾正、押川方義もいます。
 
日本人で最初のキリスト教伝道者といわれた新島嚢も忘れてはなりません。海舟と知り会った当時、新島はキリスト教主義の学校を創ろうと奔走していました。土地を取得するお金がなく、失望しているときに、海舟が京都府顧問の山本覚馬と交渉し、旧薩摩藩邸の敷地六千五百坪を僅か五百ドルで新島に譲るようにしたのです。
 
そのおかげで新島は一八七五(明治八)年、同志社大学の前身である、同志社と同志社英学校を設立することができました。
p21
維新後の日本では外国との通商が大幅に増えました。このために欧米流の商法や簿記を教える学校が必要だと、森有礼が考え、東京に商法講習所(一橋大学の前身)を開設することとなりました。駐米代理公使をしていた森はクララの父のことを聞き及び、ここに所長兼教師として彼を迎えることにしたのです。
クララの父、ウィリアム・コズウェル・ホイットニーは工ール大学を卒業後、ニュージャージーに実業学校を開いていました。商法の素養を十分に持っていましたが、学校の経営は行き詰まっており、ホイットニーは渡りに船とこの商法学校への招聘を承諾しました。
けれどそれだけではなく、ホイットニー一家が来日することに関しては、クララの母アンナの強い希望があったのです。アンナはニュージャージーの夫の学校で、富田鉄之助に英語を教えていました。富田は日本人として初めてこの学校に学んだ学生で、後に日本銀行総裁を務めた人です。
これは縁と言うものなのだろう・・
クララの母(アンナ)の妹(アデレート、愛称アディ)は富田鉄之助の夫人です。
p22~23
アンナは英語教師として富田に接していましたが、この富田の方から「聖書について教えてほしい」と、たっての望みが出されたそうです。
このことがきっかけとなって、アンナの心に日本人に対する伝道の志が与えられました。
それはしだいに強くなり、いつか日本に行って、日本人の救霊のために働きたいという、強い願いが起こったのです。
経済的な局面の打開をはかるための心機一転、また日本人に対する熱い救霊の思い、この二つの翼に乗って、ホイットニー夫妻と三人の子供たちが乗船したオーシャニック号は、一八七五(明治八)年、八月三日、火曜日、横浜に辿り着いたのでした。
ところが日本にきてみると、約束と違って商法講習所は開校のめどがたっておらず、ホイットニー一家はたちまちに経済的窮地に追い込まれます。
これを救ったのが海舟でした。森から窮状を訴えられ、商法講習所の設立のために千ドルの寄付を申し出たのです。
このことによって講習所は開校の運びとなり、ホイットニーは正式に雇用契約を結び、一家は森が提供した邸に落ち着くことができました。勝家とホイットニー家の交流はこのときから始まります。
ホイットニ一家が来日した年、海舟は五十三歳。参議を退いて、著述に専念、毎日訪れてくる多くの客と会っていました。
以後ホイットニー一家はやがて勝家の広大な敷地内に家を建て住むようになった。
勝邸内で、キリスト教を布教した。
 
米国にホイットニー一家は帰国した後再来日、母クララが亡くなった後、クララは三男の梅太郎とできちゃった国際結婚をして6人の子供をもうけました。しかし勝海舟の死後、生活力が弱い梅太郎に頼る事が出来ず、子供の教育問題から子供をつれ米国に帰国した。
 
p72~73
七十歳で子供を亡くした海舟の内心の悲嘆は、想像するしかありませんが、このときニーダムが語ったことを聞いて、海舟は、それまで知識としてしか知り得なかった聖書のことばの真理を、初めて理解したのではないでしょうか。年者いて死期が迫ったその心に、「天国」ということばが切実に響いたのかもしれません。
だからニーダムはこのことをクラークに伝え、クラークはこれを書き記したのです。
海舟の救いのために祈っていた人々にとって、これは特筆すべき出来事だったと思われるのです。
またクララのことばに対しても、「といっても、海舟が洗礼を受けたわけでもなかろうが」と、勝部氏は軽く流しています。
しかし、ウィリスが「伯から直接信仰に入った」という告白を聞いた、ということは、実は大変重要で、かつ決定的なことだと思われます。
だからこそクララは「ほんとに嬉しく思いました」とつづけ、「もっとも私共は伯はいつでも天国に近く居らるることを感じていましたが」と結んでいるのです。
キリスト教では通常の場合、入信を決意すると洗礼を受けます。洗礼を受けることが入信したことの証となるのです。海舟が洗礼を受けたという記録はどこにも見当たりませんが、聖書の解釈の違いなどによって、洗礼を受けなくともクリスチャンであるという考えを持つ人たちがいますし、そういった宗派もあります。また、何かの事情で、たとえば親族の反対などで、信仰を持っても洗礼を受けることができない人たちもいます。もし海舟がキリスト教を信じたのに洗礼を受けなかったのだとしたら、そこには海舟なりの考え、あるいは何らかの事情があったのだと推察されます。
海舟は六十五歳で伯爵となり、六十七歳で勲一等瑞宝章、七十六歳で旭日大綬章を授与されています。
しかし、平生から肩書きを嫌った海舟の墓石には、一切の称号、法号がありません。
本人の遺言によって、「海舟」とのみ彫られています。
昭和四年、海舟邸の二千五百坪の土地は、その千六百六十八坪が氷川小学校建築のために東京府に寄付されました。その後、屋敷は空襲で焼失。一度は再建されましたが、昭和四十年代、そこにマンションが建築され、氷川の勝邸はなくなりました。
勝邸の道を隔てた向かいには、クララの兄ウィリスが開いた赤坂病院が建っていました。
その跡地は教会となっています。現在の赤坂教会です。
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『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第五章 日本が切り拓く技術と未来
 
iPS細胞が、世界の重病患者を救う――158
 
イメージ 2 iPS細胞(人工多能性幹細胞)は、再生医療の切り札として期待されている。再生医療は、薬などで病気を治療する現在の医療と異なり、病気などで失った組織や細胞を丸ごと新しいものに変えてしまおうという新しい治療法。今後の医療を大きく変える可能性があると期待されている。iPS細胞は、病気を発症する仕組みの解明や、新薬の効き具合や副作用などを調べる用途としても有望視されている。

体のあらゆる臓器になるとされるiPS細胞 ヒトのiPS細胞を作製

イメージ 3京都大学の山中伸弥教授らの研究グループは2007年、ヒトの皮膚細胞から神経、心筋、肝臓、膵臓など、体内にある細胞・組織に分化する能力をもつ「iPS細胞(人工多能性幹細胞)」の作製に成功したと発表した。ヒトにおける初めてのiPS細胞作製は、日本発の研究成果として大きな注目を集めた。
 iPS細胞は、人の皮膚や血液など簡単に採取できる細胞にいくつかの遺伝子を導入するだけで、多能性幹細胞をつくりだすことのできる画期的な医療技術だ。
 ヒトの体は、1個の受精卵が神経、心筋、膵臓などのさまざまな組織の細胞に変化(分化)してできている。ひとつの細胞が人体を構成するさまざまな細胞へと分化できる能力を多能性と呼ぶが、一度、皮膚などの組織に分化した体細胞は多能性を失い、その組織以外の細胞にはなれない。そのため、体の一部を損傷したときにその部分を再生することができない。
 しかし、山中教授らは多能性を失ったヒトの皮膚細胞に、4つの遺伝子(後に3つの遺伝子でも可能とする方法を開発した)を導入して多能性を回復させることに成功した。米科学振興協会が発行する科学誌「サイエンス」は12月に、過去10年間の10大成果を特集し、iPS細胞などによる再生医療の研究をその1つに挙げた。特に山中伸弥教授らの研究成果について「世界を仰天させた」と高く評価した。
 iPS細胞から神経、心筋、血液、膵臓などさまざまな組織や臓器の細胞に分化することが、現在の国内外の研究により報告されている。再生した組織を1型糖尿病・心筋梗塞・骨粗鬆症などの病気を治療する再生医療(細胞移植療法)に用いることが期待されている。また、分化した細胞は、医薬品の有効性などの判定や、疾病の原因解明の研究に活用されることも考えらている。
 あらゆる組織の細胞に分化することができる多能性幹細胞として代表的なのはES細胞(胚性幹細胞)だが、子になるはずの受精卵を壊して作るので、倫理的な問題がある。iPS細胞であれば、体細胞を使って作ることができるので受精卵を破壊する必要がなく、倫理的な問題を回避できる。また、患者自身の細胞から作製するので、分化した組織や臓器の細胞を移植したときに拒絶反応が起こらない。
 京都大iPS細胞研究所(CiRA)は12月、治療を目的とした「iPS細胞バンク」を来年度に設立する計画をあきらかにした。iPS細胞による糖尿病、パーキンソン病、心筋梗塞、網膜疾患を対象とした前臨床研究を計画している。
 iPS細胞を使った再生医療を実現するために、各患者からiPS細胞をつくるのでは時間や費用がかかるため、バンクの創設が重要となる。iPS細胞を用いた再生医療を1日も早く実用化することを目指している。

iPS細胞で膵臓を再生 インスリンを産生

日本のiPS細胞の研究の拠点事業のもうひとつは、東京大学の中内啓光教授らが推進している「次世代遺伝子・細胞治療法の開発」。iPS細胞を利用してブタの体内でヒトの膵臓をつくりだす研究が、来年に本格的に開始される。将来的には、膵臓でインスリンを産生できない糖尿病患者に移植する再生医療への応用などが考えられている。
 研究チームは、iPS細胞を使ってマウスの体内でネズミやラットの膵臓を作る実験にすでに成功しており、9月に米科学誌に発表した。「ヒトの臓器を作れるかを試し安全性を確かめたい」と文部科学省の生命倫理・安全に関する専門委員会で明らかにした。
 糖尿病などの臓器不全症の治療として移植療法が行われているが、臓器のドナー不足や生体適合性などの課題がある。今後、再生医療の研究が進歩すれば、移植可能な臓器を患者自身の細胞からつくる治療法を実用化できる可能性がある。
 研究では、遺伝子を操作して膵臓ができないようにしたブタの胎児に、ヒトのiPS細胞から作った膵臓になる手前の段階の細胞を入れる。膵臓になる部分では、ブタの細胞は増殖せず、代わりにヒトの細胞によって膵臓ができる。ブタが生まれたあと、体内でヒトの細胞でできた膵臓が正常に成長するかや、この膵臓にブタの細胞が混じっているかなどについて詳しく調べるという。
 日本で生まれた新しい医療技術を社会にいかそうと、iPS細胞の実用化に向けた研究開発は、これまでになく国の支援がしっかりしている。研究で高い安全性や効果が認められれば、実際に患者を治療する臨床研究も期待できる。
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次世代型ロボットが、生活や福祉をサポートする――163
 
 
 

海水の淡水化で水問題が解決する――167
 
 
終章 
まとめとしての日本人論――175
 
 
 

あとがき――181
日本人がいかに人類全体を幸せにすることに、これまで貢献してきたか。そして、これからも貢献できるか、ということについて、十分わかっていただけたのではないかと思います。

もっとも、こうした日本人にも弱点や欠点がないわけではありません。たとえば、典型的なのが、先にも述べましたが原子力発電所、いわゆる原発にどうかかわるかという問題です。

日本人のなかには、「原発絶対反対。ダメなものはダメ」という人たちがいます。どうして、そういうことを言うのかというと、彼らは日本しか見ていないからです。
たしかに、彼らの言うとおり、日本はこれから、人口が約3分の1に減ると言われています。エネルギーの消費量も当然、減るでしょう。一方、省エネ対策は進み、自然エネルギーの利用も、かつてないほど進んでいます。だから、日本だけに限れば、たしかに、原発はこれから必要ないかもしれません。

しかし、日本だけでなく、世界を見てほしいのです。
たとえば、お隣りの中国です。今ですら、日本の10倍の人口を擁しながら、先進国の5分の1ほどしかエネルギーを使っていない国ですが、この国の人たちも当然、幸せになる権利があります。具体的に言えば、夏はクーラーを使いたいだろうし、アイスコーヒーだって飲みたいでしょう。

しかし、その願望を叶えるためには、膨大なエネルギーが要ります。いかに省エネを推進まし、自然エネルギーを利用・活用したところで、とうてい、間に合うものではありません。

化石燃料もいずれは枯渇します。となれば、今からわかっていることは、中国がこれからも原発をどんどん推進していくということでしょう。

ところが、残念ながら、中国というのはまだ完成された国家ではなく、毒入りギョーザ事件などを見てもわかるように、利益追求型の企業が暴走する場合があります。そうした国が自分たちの利益を中心に、原発を造ったらいったいどうなるでしょう。

恐るべきことは、中国という国は日本の風上にあり、上流にあるということです。おそらまかなく今後、数年の間に、爆発的に拡大するエネルギー需要を賄うために、上海など中国各地に原発が造られることになるでしょう。もし、そのなかで粗悪な原発が造られ、それがチェルノブイリのようになったら、いったいどういうことになるのか。

最終章でも述べたように、日本が水というものの淡水化に今ひとつ不熱心なのは、国内に水が溢れているからです。水と安全はタダだと思っているからです。しかし、もし上海あたりで原発がチェルノブイリ級の事故を起こしたら、明日から日本人は水が飲めなくなるかもしれないのです。

日本の水というのは、中国大陸から来る水蒸気が雲となって主に日本海側にもたらした、いわゆる天然の伏流水です。そのサイクルの一環が侵されれば、本当に日本で水が飲めないなどということも起こりえます。水はそのあたりに溢れているが、放射能で汚染されていてまったく飲めない、などということもありうる事態なのです。

それを防ぐには、どうしたらいいでしょうか。日本人が、地震国で培われたきめの細かい披術で、安全で衝撃にも耐えうる耐久性の高い原発を造り、それを中国に対して輸出なり、供与していくということでしょう。

ダメなものはダメと言って、日本だけが原発を廃止したって、中国が使うのは止められません。だとしたら、そのように柔軟に考えるのが、日本人にとっても、中国にとっても、世界の人類にとっても正しい方向ではないでしょうか。

そして、もうひとつ大切なのは、前向きに捉えることです。
日本はこれから、老齢化社会に突入します。それも、世界に類を見ないほどの老齢化が進みます。これを「ああ、もう日本はダメなんだ」と後ろ向きに捉えるか、「いや、そんなことはない」と前向きに捉えるか、ということです。

たとえばヨーロッパの国などでは、人口が1000万人未満でも元気な国がいっぱいあります。そういう国をどんどん見習えばいいのです。

私がもうひとつ考えているのは、日本の運命を前向きに利用しようということです。これから超高齢化社会に突入するならば、それこそ医療ロボットの活用や、その他の医学研究に国家としてお金を注ぎ、人間にとって最も楽しい、心地よい老後が過ごせる方法を人類に先駆けて発見すればいいではないでしょうか。そういうことに、国家予算をつぎ込んで、そして国を造っていけばいいではないか、ということです。

人類に先駆けて、われわれ日本人が「老齢化社会とはこうあるべきだ」という模範を示すべく努力する。
それは、日本人自身のためにもなり、地球人類の幸福につながる道です。
そして、これは申し上げるまでもなく、これまで日本が辿ってきた道なのです。自信を持って、この道を前に進めばいいのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
※本書を補足する動画を探したところ、某教祖元婦人が教団と教祖を訴えている某K教団提供の番組が多数を占めてしまいました。某K教団とDdogはなんら関係ありません。
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『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第四章 世界に期待される日本の国際貢献
 
人類を救うためにヒトもカネも出す――130
2008年5月、中国中西部の四川省で起きた大地震では、20万棟以トの家屋が倒壊してがれき8万人以ヒが死亡。校舎の崩壊によって犠牲になった児童がー万人を超えました。瓦礫の下に生き埋めになった人たちを救おうと、懸命の救助活動が展開されました。
この地震で、日本政府はただちに国際緊急援助隊の出動を決め、3次にわたって計80人余りの隊員を派遣しました。救助チームの隊員たちが現地の中学校などで救助活動に従事したほか、医療チームの隊員たちが現地の病院で負傷した人たちの治療にあたりました。
崩れ落ちた瓦礫の山のなかから掘り山山した遺体を前に、救助隊員たちが整列して静かに黙薦を棒げる姿は、テレビを通して世界中に伝えられて感動を呼び、日本人の規律やモラルは高い評価を受けました。
世界各地で起こる地震や洪水などの大規模災害に対し、日本政府はヒト・モノ・カネの緊急援助を実施する体制を整えていますが、このうち人的援助の中核が旧際緊急援助隊(JDR)です。
1987年に施行されたJDR法(国際緊急援助隊の派遣に関する法律)に基づいて、外務省が派遣を決定し、JICA両際協力機構一が実施します。各部道府県警察の機勒隊員や自治体消防本部の救助隊員、医師や看護師、自衛隊員、災害の専門家らが前もって登録されていて、災害が発生するとチームが編成され、すみやかに現地に派遣されます。
1991年に起きた湾岸戦争の際、日本はカネだけ出してヒトを出さないと国際世論から批判されましたが、現在は、自然災害の合はJDRが、戦争に伴う災害の場合は自衛隊のPKO部隊が対応する体制が確立し、ヒトによる国際援助活動を展開しています。
もうひとつ、世界から注目を集めているのが、青年海外協力隊の活動です。JAIKAが実施している国際ポランティア活動のひとつで、20歳から39歳までの日本人が発展途ヒ国に移り住み、学校の建設や水の確保、医療や農業など、さまぎまな分野での因際協力活動を実行しています。
1965年に初代協力隊員がラオスの地を踏んで以来、これまで45年間に3万4000人を超える日本人が、世界86力国で現地の人たちとともに暮らし、ボランティアとして汗を流してきました。たとえば、中米ホンジュラスでは、協力隊員がバックアップして子どもたちに学習指導するために作った教材が国定教科書になり、それが隣国でも採用されたと言います。

日本は、人類を幸せにする道具として原子力を利用した――134
日本が原子力の平和利用を進めた背景には、資源に乏しく、工業の原料やエネルギーの燃料のほとんどを輸人に頼らざるをえないという事情がありました。といっても、原発に使う天然ウランも100%が輸入です。オーストラリアやカザフスタン、カナダなどから輸入されています。
このため、日本は原子力発電を導入した当初から、高速増殖炉による核燃料サイクルの確立を目指してきました。核燃料サイクルとは、原子力発電所で使われた使用ずみ核燃料を再処理してプルトニウムや燃え残ったウランを取り出し、高速増殖炉で再利用して発電するリサイクルシステムのことです。
 
核戦争を回避する運動の先頭に立ってきた――139
日本政府はまた、国連でリーダーシップを発揮し、1994年度から16年連続で、核兵器廃絶を推進する国々と共同して核兵器廃絶決議案を国連総会に提案し、この捉案は毎年、採択されてきました。とくに、2009年度の国連総会では、アメリカが初めて共同捉案国に加わり、インドと北朝鮮を除く171カ国すべてが賛成に回っています。
このように、日本は一方で、アメリカの核の傘に入りながらも、核兵器廃絶に向けた取り組みを粘り強く続けてきました。
核廃絶に執念を燃やす48歳のオバマ大統領自身が「生きているうちには実現できないかもしれない」と述べてはいますが、核廃絶がはるか遠い夢でなくなったことは確かです。川口順子元外務大臣が共同議長を務める日豪主導の賢人会議「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」は最終報告書で、地球上に現在2万発以上ある核弾頭を2025年までに10分の1以下の2000発以下にするという実行可能な捉案をしています。
もちろん一朝一夕には行きませんが、今後も日本がイニシアティブを取って粘り強く、したたかに核兵器廃絶を推し進めていくことが必要でしょう。

原子力発電の普及で、エネルギー問題を解決する――145
 

あなたは原子カ発電に賛成ですか、反対ですか――149
 
原発について昔から原子力発電に反対している人達を私は軽蔑してきました。私の出身地は日本の原子力研究の中枢東海村のすぐ隣の水戸市です。頭が不自由な原発反対を叫ぶ人達について考えるとき下記かんべい先生のHPは参考になります。
 
溜池通信2011年かんべいの不規則発言<2月15日>(火)

○今日の昼飯はどこにしようか、という問題を考えるとき、誰でも知っているこんな法則があります。

「うまくて安い店は、混んでいる」

「うまくて空いている店は、値段が高い」

「安くて空いている店は、うまくない」

○つまり、「うまい、安い、早い」という3つはトレードオフの関係にあって、2つまでは求められるけれども、3つすべてを満たすことは出来ない。逆に言えば、「今日の昼飯をどこにするか」を決める際には、どれかひとつの要素を捨てなければならない。

 
 左翼や原発反対の人たちは常に、早くて安くてうまい昼飯を喰わせろ!と要求しているわけですが、世の中の現実仕組みがわかっていないから困るのです。
国のエネルギー政策に置き代えれば、原発を使わず、二酸化炭素も出さず、電気を安定的に供給せよということになる。
 
原発を使わなければ二酸化炭素を排出しなくては電気を安定的に供給できない。
原発を使えば二酸化炭素を排出せず電気を安定的に供給できるのである。
原発を使わず、二酸化炭素も排出しない風力など自然エネルギーの利用では電気を安定的に供給できない。この当たり前の理由が理解できないのが反原発を叫ぶ頭が不自由な人たちなのです。そんな頭が不自由な人達にも歓迎される原発がある。トリウム原発である。

中国が開発する「クリーンな新型トリウム原発」とは【wiredvision】

2011年2月16日
中国はこのほど公式に、トリウムを燃料とする溶融塩原子炉(MSR)の開発計画に着手したことを発表した。これは、同国が主要なエネルギー源を原子力に移行するための重要なステップとなりえる動きだ。
このプロジェクトは、上海で1月下旬に開催された中国科学院[中国におけるハイテク総合研究と自然科学の最高研究機関であり、国務院の直属事業単位]の年次総会で発表されたもので、1月26日(現地時間)に中国の新聞『文汇报』の電子版が報じた。
現在では、ほぼすべての原子炉でウランが利用されているが、放射性元素のトリウムは、ウランより安全かつクリーンで、埋蔵量の多い代替燃料だと考えられている。
トリウムは溶融塩炉(MSR)に適し、核反応が固体の燃料棒ではなく液体燃料炉の中で起こるため、メルトダウンが発生する危険性がないとされている。[溶融塩とは、塩類が高温で液体になったもの。MSRでは、トリウムのフッ化物を混合した溶融塩を燃料としてエネルギーを取り出す。原理的に重大事故を起こさないとされる。]
こうした安全性に加え、MSRでは、既存の核廃棄物を含むさまざまな種類の核燃料を消費できる。また、その副産物は、核兵器を製造するのにも適さない。さらにMSRは、消費するよりも多くの燃料を生成する増殖炉として設計することもできる。
米国では、1960年代から70年代にかけて、オークリッジ国立研究所で、トリウムとMSRの大規模な研究が行なわれたが、この取り組みは中止された。その理由の1つは、ウラン原子炉では副産物として核兵器を製造できるレベルのプルトニウムが生成できたからだ、と多くの人は考えている。
しかし、核兵器の需要が減り、安い石油が風前の灯火となりつつある現在、インド、フランス、ノルウェーなどいくつかの国は、トリウムを利用した核燃料サイクルを研究している。中国の新しい計画は、その中でも最大のものだ。
中国はすでに、今後20年間に数十基の新しい原子炉を建設する計画を発表している。これが実現すれば、原子力による発電量は20倍に増え、石炭からの脱却が可能になる。現在の中国は、世界で最も石炭を消費する国の1つだ。
米国における原子力発電の支持者やアナリストの多くは、トリウムを利用した中国の原子力発電が、米国の経済競争力にとって脅威になると見ている。次世代の原子力発電技術に関して、米国が中国に依存する事態になるかもしれないからだ。米国は、「グリーンな」エネルギーを開発するうえで、大きく遅れをとってしまうかもしれない。
[米国の原子力発電業界はすでにウラン燃料サイクルのインフラを確立しており、これをトリウム用に転換するために投資する理由がないため、移行が進んでいない、という状況を紹介した日本語版記事はこちら]
結局、中国の次世代の原子力戦略をめぐって米国で生じている騒動は、次のような結論に行き着く。外国の石油に依存した状態を問題にしないままでいれば、将来は、外国の原子力に大きく依存することになるだろう、と。
{この翻訳は抄訳です}
 
 残念なことに日本ではトリウム原発の開発は行っていないようです。しかし、トリウム原発についてもウランと共に原子力基本法で認められており、トリウム原発の実用化に支障は全くありません。原子力を地球温暖化対策の切り札だけではなく、経済成長でエネルギー需要が伸びている新興・途上国において原発導入の動きが活発化しているなか、日本のインフラ輸出の切り札でもあるのです。
 
国内では原発反対の頭が不自由な左翼さん達もこのトリウム原発なら納得するでしょう。トリウム原発は日本も中国に遅れることなく日本がリーダーシップを発揮して取り組むべきであると考えます。
 
 
 
 
第五章 日本が切り拓く披術と未来
 
iPS細胞が、世界の重病患者を救う――158
次世代型ロボットが、生活や福祉をサポートする――163
海水の淡水化で水問題が解決する――167
終章 
まとめとしての日本人論――175
あとがき――181
 
 
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『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 第三章 日本独自の文化が、人類の心を豊かにした
 
世界の子どもたちに夢を与えた、日本のアニメ――108
 
これも説明は要らないだろう。
 
 
 
 
アメリカの外交誌「フォーリンポリシー」は2002年GDP(国内総生産)をもじったGNC(国民総クール)という概念を提起し、アニメや食文化・音楽などを含めた日本のポップカルチャーのクールさ(カツコよさ)が世界的な評価を受けつつあることを指摘しました。この記事が発火点となって、『ワシントン.ポスト』やフランスの『ル・モンド』も「クールジャパン」という言葉を使って、日本のポップカルチャーを高く評価する記事を掲載しました。
 
日本は、トヨタの車やホンダのオートバイといったハードだけでなく、ソフトパワーでもすごいという意昧でクールジャパンが喧伝され、日本のアニメはそのシンポルとなりました。40年におよぶクリエイターたちの努力が、ここに実ったのです。

日本政府は、2003年に知的財産戦略本部を設け、2004年にはコンテンツ法(コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律)を制定して、アニメやマンガなどコンテンツ産業の育成に国を挙げて取り組んでいます。

世界的な評価を受けたアニメやマンガを国策で推進しようというわけですが、官から民へという流れが加速するなかで、これはどうもいただけません。アニメやマンガはあくまでポップカルチャーなのであって、これまでどおり自由闊達な民の力、クリエイターたちの創造カにお任せしたらどうでしょうか。
21世紀は日本の世紀であるべきではないか?いい加減憲法9条と東京裁判史観を捨て去るべきではないか?本来覇権国の文化が世界に伝播するものだ。
政治がポンコツのおかげで外交・経済がボロボロな日本であったが、日本の庶民文化は世界を魅了し続けている。
中国が覇権国になるって?へっ?少なくとも文化ではかなり道のりが遠いだろう。
 

ハリウッドの監督たちの手本となった、世界のクロサワ――113
 
黒澤作品のもうひとつの大きな功績は、現代の映画界をリードする超一流の映画監督たちの映画づくりに多大な影響を与え、映画文化の発展を後押ししたことです。
よく指摘されるのが、『羅生門』での映像のリアリズムです。墨汁入りの水を放水して土砂降りであることを表現したり、俳優にカメラのまわりをグルグル走らせることで緊迫感を出したりと、考えに考え抜いた工夫と手間暇かけた仕込みでリアリティを持った映像に仕上げています。どの作晶にも、このような芸術性の高い映像がふんだんに盛り込まれているため、黒澤を敬愛する欧米の監督たちのなかには、強く印象に残った黒澤作品の場面に似たシーンを創り出そうと試みる人も少なくありません。
スティーブン・スピルバーグの代去作『未知との遭遇』では、砂嵐で何も見えないところからジープが走ってくる場面がありますが、これは黒澤作品『蜘蛛巣城』に刺激されたシーンと見られます。スピルバーグの他の作品にも、『用心棒』や『乱』などに触発されたと見られる場面が散見されます。
ジョージ・ルーカス監督は、その代表作『スター・ウォーズ』に登場するキャラクターを考案する際、黒澤作品『隠し砦の三悪人』からヒントを得たと話していますが、悪の権化ダースベーダのヘルメットは、『七人の侍』に出てくる野武-二の兜を思い出させます。『スター・ウォーズ』のシーンのなかにも、黒澤作品から着想を得たと思われるようなシーンがいくつか見られます。
黒澤作品を敬愛したスピルバーグらは、黒澤監督が晩年に製作した作品のサポートを引き受けました。『影武者」では、ルーカスと『地獄の黙示録』などで有名なフランシス・フォード・コッポラらが外国版プロデューサーに名を連ねました。また、1990年の黒澤作品『夢』でも、スピルバーグ、ルーカス、コッポラがそれぞれ協力し、『タクシードライバー』などを監督したマーティン・スコセッシにいたっては、俳優として出演しています。
1998年、黒澤監督の計報に際し、スピルバーグは深い悲しみを表し、「クロサワはフィルムを使った画家であり、現代における映像のシェークスピアだった」とコメントしました。さすが、スピルバーグです。なぜ黒澤作品が「世界のクロサワ」として評価されたか、その核心をつく追悼の言葉でありました。
黒澤監督は『生きる』や『七人の侍』などの代表作で、映画としてのある種の手本を作りましたが、多くの名監督がその手本を真似し、踏襲しました。黒澤作品は、日本の映画文化のなかでも、世界に影響を与えた特異な部類に入ると言えるかもしれません。
今更ながら、黒澤明の偉大さを感じました・・・
 
将棋は世界一のボードゲーム――118
 
今の将棋は元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年-1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせ出来上がったとあるが、真偽のほどは定かではない。
応仁の乱が起きた後、国土は荒廃し、天皇といえども豊かな生活ができませんでした。このため、後奈良天皇は生活の資を得るために、せっせと宸筆(しんぴつ)、つまり直筆による書画を書き、家来に下げ渡して御礼の金品を包ませています。後奈良天皇の書画は数多く出回り、骨董の世界では一昔前まで最も安値の宸筆だったほどです。したがって、後奈良天皇は当然ながら自分を貧乏生活に追い込んだ戦争を憎み、人の戦争嫌いでした。また、当時の貴族たちは、「死穢(しえ)」というケガレに触れるとして「死」も極度に嫌っていました。
とすれば、後奈良天皇をはじめ、戦争や死を厭う貴族たちの風潮が、駒の再使用というルールを生み出し、将棋を戦争ゲームからマネーゲームに転換させた、と考えるのが、番筋の通った考え方ではないでしょうか。
つまり、将棋は中世の貴族文化の精華のひとつであり、戦争や死を厭う風潮を背景に生まれた日本の独創的な文化なのです。そして、世界各地に散らばって行ったチャトランガの末蕎を見るかぎり、将棋が世界一であることは言をさ 俟(ま)たないのです。
 
世界が賞賛する日本の折り紙文化――123
折り紙は日本独自の遊びです。
平安時代(794-1191)において、紙は高級品でした。貴族の間ではその紙を使って贈り物をいかに美しく包装するかが流行し、これが折紙の原点となりました。その後武家や公家ごとに礼法の流派も生まれ、折紙は生活の中に欠かせないものとなりました。その礼法は現在も婚礼や進物ののし・目録などに残り、今も様々な場で使われています。今のような折紙の形は室町時代に形成されたといわれ、その頃からある千羽鶴ややっこさんは「伝承折紙」とよばれています
 
 
 
 
第四章 世界に期待される日本の国際貢献
 
人類を救うためにヒトもカネも出す――130
日本は、人類を幸せにする道具として原子力を利用した――134
核戦争を回避する運動の先頭に立ってきた――139
原子力発電の普及で、エネルギー問題を解決する――145
あなたは原子カ発電に賛成ですか、反対ですか――149
 
第五章 日本が切り拓く披術と未来
 
iPS細胞が、世界の重病患者を救う――158
次世代型ロボットが、生活や福祉をサポートする――163
海水の淡水化で水問題が解決する――167
終章 
まとめとしての日本人論――175
あとがき――181
 
 
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タイトル
登録日時 URL

事態はゆっくりと改善に向かっている
2011/3/20(日) 午後 0:01 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34667155.html

我々はいったい何を信じたらいいのか?
2011/3/19(土) 午前 10:39 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34662032.html

為替談議 円/ドルは今年度末~4月にピークをつける可能性がある。
2011/3/18(金) 午前 9:07 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34656653.html

一難さらず次難、惨難。風説やデマではなく富士山噴火も視野を入れるべきだろう
2011/3/16(水) 午後 8:54 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34649323.html

日本経済はデフレが終る時が来たのだろうか?
2011/3/16(水) 午前 1:23 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34646146.html

菅は本来退陣しているはずだったが・・・増税政策もドサクサ紛れにされては困る
2011/3/15(火) 午前 0:19 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34641726.html

救助活動がもどかしい
2011/3/13(日) 午後 7:58 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34635775.html

国難 日本人の底力を信じよう!東日本大震災・福島原発爆発について
2011/3/13(日) 午前 10:00 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34633548.html

35kmを歩いて帰ります!
2011/3/11(金) 午後 6:24  http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34625204.html

昭和の偉大な小市民 坂上二郎さん伝説の「飛びます・飛びます」を残し逝く!
2011/3/10(木) 午後 11:54 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34621419.html

使徒(インフレ)来襲! そしてデフレかスタグフレーションか?
2011/3/9(水) 午前 2:58 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34609090.html

なごり雪・・・前原辞任に思う
2011/3/7(月) 午前 11:58 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34596995.html

②『ゴジラと日の丸 片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全 片山杜秀/著(文藝春秋)』を読む その2
2011/3/7(月) 午前 1:32 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34595032.html

①『ゴジラと日の丸 片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全 片山杜秀/著(文藝春秋)』を読む その1
2011/3/6(日) 午後 7:28 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34592245.html

そんな馬鹿な!歌川 国芳の浮世絵にスカイツリーが!国芳はエスパーだったかもしらん?
2011/3/4(金) 午後 11:54 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34582134.html

『「偽りの二大政党」副題熱論!政界を再編せよ 中西輝政・篠原文也/共著(PHP)』を読む
2011/3/3(木) 午後 11:34 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34575601.html

菅民主党政権の終焉は当然であるが、小沢新党が政権を奪取したのでは意味がない。
2011/3/2(水) 午後 0:32 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34565102.html

②『リスクに背を向ける日本人 山岸俊男+メアリー・C・ブリントン/共著(講談社現代新書)』を読む その2
2011/3/1(火) 午前 2:22 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34556691.html

①『リスクに背を向ける日本人 山岸俊男+メアリー・C・ブリントン/共著(講談社現代新書)』を読む その1
2011/2/28(月) 午後 11:31 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34555824.html

②『天皇はなぜ万世一系なのか 本郷和人/著(文藝春秋)』を読む その2
2011/2/27(日) 午後 4:05 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34545317.html

①『天皇はなぜ万世一系なのか 本郷和人/著(文藝春秋)』を読む その1
2011/2/27(日) 午後 1:07 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34544550.html

中国人と人類はとても共存できそうにない?
2011/2/26(土) 午後 5:38 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34539703.html

「氷川清話 」勝海舟と渋田利右衛門 ちょといい話
2011/2/26(土) 午前 10:02 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34537763.html

リビア情勢に思う
2011/2/24(木) 午後 11:54 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34530049.html

『勝海舟とキリスト教 下田ひとみ/著(作品社)』を読む
2011/2/23(水) 午後 11:53 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34523556.html

⑥『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む その6 第五章 日本が切り拓く技術と未来  2011/2/22(火) 午後 11:37 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34517149.html

⑤『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む その5 世界に期待される日本の国際貢献 2011/2/21(月) 午前 2:37 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34505424.html

④『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む その4  日本独自の文化が、人類の心を豊かにした 2011/2/20(日) 午後 10:33 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34504131.html

③『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む その3 食べ物でも日本は世界を幸せにした 2011/2/20(日) 午前 8:36 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34499592.html

②『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む その2 ウォークマン 新幹線 乾電池 胃カメラ 太陽光 カメラ カラオケ 真珠
2011/2/19(土) 午後 5:03 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34495759.html

①『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む その1ビデオ 軽自動車 バイク トランジスタラジオ 電卓 クオーツ時計
2011/2/18(金) 午後 11:58 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34492654.html

為替談議 円安は加速するのか?
2011/2/17(木) 午前 2:43 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34480784.html

都知事選 渡辺美樹氏出馬表明
2011/2/16(水) 午前 1:55 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34474172.html

東京・六本木の国立新美術館で「シュルレアリスム展」を堪能する
2011/2/13(日) 午後 11:52 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34458718.html

②『「戦争に勝ってはいけない本当の理由」副題:白旗原理主義あるいは「負けるが勝ち」の構造 シモン・ツァバル/著 藤井留美/訳(basilico)』を読むその2 民主党の政策は第二の敗戦へ
2011/2/12(土) 午前 10:37 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34447441.html

①『「戦争に勝ってはいけない本当の理由」副題:白旗原理主義あるいは「負けるが勝ち」の構造 シモン・ツァバル/著 藤井留美/訳(basilico)』を読むその1 正しくもあるが、真に受けてはならない。 2011/2/11(金) 午後 5:09 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34442090.html

中国3度目の利上を読む
2011/2/9(水) 午後 11:53 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34431821.html

嗚呼!なんて突然に・・・哀愁の泣きのギタリスト ゲイリー・ムーア逝去
2011/2/7(月) 午後 11:54 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34418319.html

小沢一郎の強制起訴 について考える
2011/2/6(日) 午前 7:14 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34405083.html

八百長メールに揺れる大相撲を思う
2011/2/5(土) 午前 10:11 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34399306.html

『「宇宙戦艦ヤマトと70年代ニッポン」アライ=ヒロユキ/著(社会評論社)』を読む
2011/2/4(金) 午後 11:55 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34397538.html

【経済教室】『生産性の向上と投資促進を IMFアジア太平洋局長アヌープ・シン日経新聞2011.01.31』記事を読む
2011/2/3(木) 午前 2:10 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34385065.html

中学受験に向かった我が娘へ
2011/2/1(火) 午後 0:21 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34373665.html

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第二章 食べ物でも日本は世界を幸せにした
 
インスタントラーメンは、人類史上の画期的発明――78
日本で開発された食品と言えば、誰でもすぐに頭に浮かぶのがインスタントラーメンです。インスタントラーメンというのは、袋入りのラーメンだけでなく、そばやうどん、焼きそば、それにカップめんなども含めた即席めんの総称です。
インスタントラーメンは日本の国民食として定着する一方で、日本発の新しい食文化として世界に広がっていきました。
世界ラーメン協会の推計によると、2009年1年間に全世界で食べられたインスタントラーメンは915億個にのぼります。トップは日本ではなく、ラーメンの母国・中国で409億個、ついでインドネシア139億個、日本53億個、ベトナム43億個、アメリカ41億個などとなっています。インスタントラーメンは、今や人類共通の食べ物となっているのです。
 
NHKプロジェクトX 第070回「魔法のラーメン 82億食の奇跡」~カップめん・どん底からの逆転劇~  http://v.youku.com/v_show/id_XMTQ3Mzg1NzA0.html
※中国のyoukuにUPされているのを見つけました。
1955年(昭和30年)に松田産業(現・おやつカンパニー)が「味付中華麺」を世界初の即席麺製品として開発したが、商業的には失敗し、1958年(昭和33年)に日清食品の創業者安藤百福が「チキンラーメン」を開発し、商業ベースで成功させたのが始まりである。
米紙ニューヨークタイムズ社説で安藤を取り上げ、「ミスターヌードルに感謝」という見出しのもと、即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂内に不朽の地位を占めた」と絶賛した。
 
簡単で長持ち新時代のレトルト・冷凍食品――83
レトルト食品の先駆けとなったのが、1968年に大塚食品から発売された「ボンカレー」です。お湯で3分間、温めるだけですぐに食べられ、発売価格は80円でした。缶詰と同じように常温で保存ができ、賞昧期間は2年近くありました。
(略)
レトルトというのは、圧力釜のなかに入れたものを蒸気や熱湯などで加圧.加熱して殺菌する装胃のことで、レトルト釜で殺菌された食品をレトルト食品と言います。通常は、120度で4分間にわたって殺菌します。これによって、ボツリヌス菌など食中毒を起こす細菌を死滅させられるだけでなく、加熱時間が短いために食品の風味や栄養分、色などが保たれるメリットがあります。
この殺菌法は、もとはと言えば、19世紀初頭にフランスで考案されたものです。その後、イギリスで実用化され、レトルト釜で殺菌した缶詰や瓶詰が生産・販売されました。
さらに、1950年代にはアメリカ陸軍が缶詰に代わる携帯の軍用食としてレトルトパックの食品を開発し、1969年に月面を探査したアポロ11号の宇宙食にも採用されて世界的な注目を集めました。この頃、欧米諸国でも一般家庭用のレトルト食品が開発されましたが、すでに一般家庭に冷凍冷蔵庫が普及していたために普及しませんでした。
一方、日本では、冷凍冷蔵庫の普及が遅れていたこともあって、レトルト食品は爆発的にヒットしました。たくさんのメーカーがレトルト食品の分野に参入し、カレーをはじめ、シチュー、ミートソースなどのパスタソース、ハンバーグ、ミートボール、釜めしや炊き込みご飯、丼の素、麻婆豆腐、などバラエティーに冨んだ商品が発売されてきました。1970年にハウス食品が発売した「ククレシチュー」のククレという言葉は、「料理人要らず」を意昧するCooklessという和製英語から採ったものだと言います。また、パウチだけでなく、トレーやカップ状の容器も出てきています。
(略)
冷凍技術は欧米の方が進んでいましたが、調理済みの料理まで冷凍食品にしてしまったのは日本が初めてです。
(略)
 
寒冷地でも実る米が、地球を救う――88
日本のイネ品種。イネ品種としては初めて農林登録された。後にコシヒカリなどの品種の交配親に用いられ、多数のイネ品種の祖先となっている。
1931年(昭和6年)、新潟県農事試験場で並河成資・鉢蝋清香により育成された。寒冷地用水稲であり、極早生種で食味もよく多収量品種であった。耐冷性を持つことで1934年(昭和9年)の東北地方の冷害での被害が少なかったほか、多収性を持つことで第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に貢献した。このことにより、多くの人を飢餓や栄養失調から救ったとされる。
 昭和46年の10月、青森県農業試験場内に「田中稔記念館」が落成した。その前年に試験場を去った田中場長を称えて、彼を敬愛する農家の浄財を基に建設されたものである。(略) 戦後の日本が食料危機を脱出できたのは、保温折衷苗代と藤坂5号のおかげだといってよい。保温折衷苗代による早植と耐冷性品種の藤坂5号が相和し、 はじめて北日本の稲作が安定、増産が可能になったからである。田中はその功で総理大臣表彰に輝いている。
日本の米が世界に普及すれば更なる増産が可能です。
 
持ち運びが便利な缶入り飲料――92
1876年 米国のチェイス・アンド・サンボーンカンパニー(Chase & Sanborn Coffee Company)が開発とも。なお、米国特許商標庁の特許文献検索では製缶会社による1940年代の缶コーヒー製造法特許を確認することができる
1958年(昭和33年) - 外山食品が『ダイヤモンド缶入りコーヒー』を発売したとされる。しかし同社は1964年に倒産してしまったため詳細は不明。
1965年(昭和40年) - 島根県浜田市のコーヒー店主・三浦義武によって開発された『ミラ・コーヒー』が世界初の缶コーヒーともいわれるが短期間で生産中止となっており、これも詳細は不明である。
1969年(昭和44年) - 上島珈琲本社(現:UCC上島珈琲)が、コーヒー牛乳にヒントを得て日本初のミルク入り缶コーヒー『UCCコーヒー ミルク入り』を発売した。
1972年(昭和47年)に発売されたポッカレモン(当時)の『コーヒープレミアムタイプ』である。
1973年(昭和48年) - コーヒーは温めても冷やしても飲まれることに目をつけたポッカは、冷却と加熱の切り替えが可能な、ホットオアコールド式自動販売機を開発した。
スターバックスが成功して初めてアイスコーヒーを知った欧米人はこれから缶コーヒーが普及するであろう。コーヒーをホットとアイスで缶コーヒーで飲む習慣は日本が世界に普及させたものであろう。
 
養殖マグロで人類を健康にする――96
近畿大学がクロマグロの完全養殖に取り組んだのは、同じ1970年のことでした。
当時、日本は世界一のマグロの漁獲量を誇っていましたが、1960年頃をピークに頭打ちになっていました。また、漁業権や海底資源の採掘権を、その国の海岸線から200カイリ(約370km)に限るというルールが国連で協議されていました。
このルールが定められると、日本の遠洋漁業は撤退を余儀なくされ、マグロの漁獲量も大幅に減少することが懸念されたのです。このため、危機感を強めた水産庁では、マグロを完全養殖する技術を開発するための研究事業を計画し、近畿大学など5つの研究施設に研究を依頼しました。
当時はまだ、クロマグロの生態すらよくわかっていませんでした。また、マグロはハマチなどと違って傷つきやすく、幼魚は網にかかっただけで死んでしまいました。マグロの養殖は予想外に難しく、近畿大学以外の研究施設は開始から3年で研究続行を断念しています。
近畿大学だけはその後も粘り強く研究を続け、2002年、ついに人工鵬化で育てた6年目と7年目のクロマグロ20匹が養殖されている生け賛で、5000個の卵を確認しました。
産卵させるまでに10年、完全養殖を実現するまでに32年もの歳月を要しましたが、近幾大学はついに所期の目的を達成したのです完全養殖に成功したとはいっても、養殖クロマグロは産卵が不安定なうえに、産卵した卵が成魚にまで成長する確率はまだ低いままです。このため、養殖技術の向上が引き続き課題になってきましたが、2007年には熊本県天草市にある水産加工会社が、近畿大学が人工艀化した稚魚1500匹を分けてもらい、2年間で体長1・2m、重さ40k9の成魚にまで育て上げました。
(略)
近畿大学が開発した完全養殖の技術は、クロマグロを絶滅の危機から救うとともに、マグロを供給して肉食にブレーキをかけることで、先進国での病気と最貧国での飢餓を同時に減らし、人類に大いに貢献することになるでしょう。
 
 
世界に広がった寿司ブーム――101
地球規模でブームを引き起こした日本発の文化「クールジャパン」のなかでも、世界中に受け入れられた食文化と言えば、何といっても寿司です。アメリカ、ヨーロッパだけでなく、目覚ましい経済発展を遂げている中国やブラジル、ロシアなど世界各地でヘルシー食品として絶賛され、「SUSHI」は今や、世界各地で市民権を獲得しています。
魚を生で食べるという寿司の食文化は、世界の食文化に新たな食材とメニューを加えただけでなく、人々を健康にしたという点で、地球人類に大いに貢献したのです。
最初に寿司ブームが起こったのは1970年代のことで、舞台はアメリカ・カリフォルニア州の大都市ロサンゼルスでした。
ロサンゼルスには、日本料理店などが集まったリトル東京と呼ばれるエリアがあります。
1962年にそのうちの一軒の老舗日本料理店内に、カウンターとガラスのネタケースを備えた本格的な寿司バー(SushiBar)ができ、同様の寿司バーが少しずつ増えていきました。
(略)
こうして、ロサンゼルスで人気を呼んだ寿司は、1970年代になってアメリカ西海岸を中心に一大ブームを巻き起こしました。その背景には、人々の健康志向の高まりがあります。寿司はダイエット食品としてメディアにも取り上げられ、ハリウッドスターが寿司バーに通うのが話題になりました。また、カウンター越しに板前とやり取りしながら、マンツーマンで食べたいものを注文する、という寿司のスタイルも受けたようです。
(略)
アメリカの寿司ブームは1980年代以降、ヨーロッパにも飛び火し、イギリス、フランス、ドイツと伝播していきました。ドイツでは、首都ベルリン市内だけで200店以上の寿司店があると見られ、スーパーなどで持ち帰り用の寿司が販売されています。
(略)
農林水産省では2006年、日本食の信頼度を高めようと海外の日本食レストランを対象に、正しい和食を認証する制度を導入する方針を打ち出しました。しかし、「日本が寿司ポリスを派遣する」としてアメリカのマスコミに強く批判されたため、実施を断念せざるをえませんでした。代わって、NP0法人の日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)が、海外の日本食レストランに推奨マークを交付する計画を進めています。こんなヒトとカネを要することはせずに、たとえばホームページを立ち止げて、「正しい和食はこれだ」とスタンダードを示せばよいのです、強制ではなく。
ある国の伝統文化が世界に広がっていく時、その文化本来のスタイルや精神を守るべきか否か。ここは思案の分かれるところです。
しかし、寿司は、魚介類に米を加えて発酵させた16世紀の「なれ鮨」がルーツとされますが、その後も押し寿司、巻き寿司、ちらし寿司、そして江戸前の握り寿司と、時代や地域によって多様化し、大きく変容を遂げてきました。そうだとすれば、世界各地で起きていることも、その延長上にあると考えるほうが自然ではないでしょうか。
 


 
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『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ステレオを携帯にしたウォークマン――39
ウォークマンは私(Ddog)が高校3年の時(1979年)に発売された。どうしても欲しくて1980年1月のお年玉と前年バイトをして残した貯金をつぎ込んで入手した。これは私にとってではなく人類の音楽視聴の歴史において、音楽のパーソナル化はエジソンのレコード発明の次の革命であった・・・! 
 
 
このようにポータブルなマシーンを常に身につけ、必要な時に利用するライフスタイルつまり携帯文化は、扇子や折り畳み傘、腕時計、トランジスタラジオなどにも見られますが、子どもたちに限って言えば、なんと言っても携帯型テレビゲーム機です。
1980年に任天堂からゲーム&ウォッチが発売され、国内外で4000万台が売れる爆発的なヒットになりました。続いて、1989年には同じ任天堂から力ートリッジ型のゲー ムボーイが発売され、携帯ゲーム機でさまざまなソフトが楽しめるようになりました。子どもたちは携帯ゲームに熱狂し、どこに行く時も手放さなくなりました。新しい人気ソフトの発売日には、店頭に長蛇の列ができるようになったのです。
 
このようにポータブルなマシーンを常に身につけ、必要な時に利用するライフスタイルつまり携帯文化は、扇子や折り畳み傘、腕時計、トランジスタラジオなどにも見られますが、子どもたちに限って言えば、なんと言っても携帯型テレビゲーム機です。
1980年に任天堂からゲーム&ウォッチが発売され、国内外で4000万台が売れる爆発的なヒットになりました。続いて、1989年には同じ任天堂から力ートリッジ型のゲームボーイが発売され、携帯ゲーム機でさまざまなソフトが楽しめるようになりました。子どもたちは携帯ゲームに熱狂し、どこに行く時も手放さなくなりました。新しい人気ソフトの発売日には、店頭に長蛇の列ができるようになったのです。
 
死亡率が限りなくゼロの新幹線――44
1964年10月1日東京と新大阪を結ぶ夢の超特急新幹線が開業した。日本人の足としてなくてはならないものとなり、現在は8路線営業距離は3000Kmとなった。
 
新幹線の成功は1981年フランスのTGVを運転を開始したのを皮切りにドイツICE台湾新幹線、中国のナンチャって自称国産新幹線など世界各国で高速鉄道網が導入するきっかけとなった。
 
新幹線はその安全性と乗客1人あたりの二酸化炭素排出量が飛行機の十分の一と極めて環境負荷の少ない特性から、今世紀初頭、温暖化問題と新興国経済のテイクオフは突如世界中に鉄道インフラ整備のブームを巻き起こした。
 
 
日本の携帯文化を支えた乾電池――49
(略)
電池自体は1800年にイタリアの物理学者だったアレッサンドロ・ボルタによって発明されました。
(略)
世界で初めてマンガン乾電池を発明したのが、屋井先蔵という日本人です。
越後長岡藩(現在の新潟県長岡市)の武士の子として生まれましたが、明治維新後、時計店で丁稚奉公しながら勉学に励み、永久自動機械の発明を志しました。東京で高等工業学校(現在の東京工業大学)への進学を目指したのですが、二度失敗してしまいます。

そして、玩具メーカーで職工としてアルバイトしながら電気時計の開発に取り組み、1891年に当時の農商務省特許局から特許を取得しています。
ところが、電気時計を動かすために使ったルクランシェ電池の使い勝手があまりに悪かったため、屋井は電気時計を開発するかたわら、もっと手軽に扱える電池の開発にも取り組みました。試行錯誤の末に、電解液をぺースト状にしたり陽極の炭素棒をパラフィン処理したりすることで、液漏れや液の凍結を防ぐ方法を編み出し、この新しい電池に「乾電池」と命名しました。

屋井は1892年に乾電池の特許を申請し、翌93年にアメリカのシカゴで開催された万国博覧会に出品しています。大森房吉博士が作った地震計の電源として公開され、世界から注目を集めました。このため、屋井はすでに立ち上げていた屋井乾電池合資会社で乾電池の製 造販売を始めましたが、1894年に勃発した日清戦争で、日本軍が使う通信機や懐中電灯などの電源として使われ、一躍有名になりました。屋井はその後も乾電池の改良を重ねて製品を世に出し、「乾電池王」と呼ばれたのです。
(略)
 
胃カメラを入れて病巣を撮る――54
 
 
イメージ 2太陽から降り注ぐエネルギーは1平方メートル当たり約1キロワットと計算されている。太陽光発電(太陽電池)はそのエネルギーから電気を作っているのだが、電気への変換効率は20%程度。残りの80%以上は捨てている。実にもったいない。
 ところが日本の最先端研究で太陽光を100%利用できる可能性が出てきた。危うく研究予算を打ち切られるところだったスーパーコンピューターがそんな太陽電池の設計をやってのけたのだ。
 大気や海洋の変化の大規模なシミュレーションに使う超高速スパコン「地球シミュレータ」。これを扱う高度情報科学技術研究機構(RIST)の手島正吾主任研究員らは、原子の特性値から物質の構造や電気特性などを求める「第1原理計算」という手法を使い、太陽光をすべて電気に変換する太陽電池の構造を求める研究に取り組んでいる。
 さすがに高速計算だけあって、その成果は1年で出始めた。「地球のどこにでも豊富にある炭素だけで作ることができる」と手島主任研究員は言う。それを実現するのは「マッカイ結晶」。英ロンドン大学の結晶学者、アラン・マッカイ名誉教授が数学的に推定し、1991年に英科学誌ネイチャーに発表した。まだ誰も合成に成功していない幻の物質だ。
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マッカイ結晶は炭素原子で構成する実在の球状分子「フラーレン」から作れる可能性がある。フラーレンを立体的に積み重ねて全方位から圧縮すると計算上はお互いが結合してマッカイ結晶になる。フラーレンは炭素原子の数によってC78、C76、C74、C70、C60など様々な種類が見付かっている。原子数が減少するほどフラーレンは縮小し、それで構成するマッカイ結晶は高密度になる。
 手島主任研究員らは、フラーレンが縮小するほど太陽電池の電気特性値である「バンドギャップ」が小さくなるとの計算結果を得た。バンドギャップが小さくなると、反比例して電気に変換できる光の波長が長くなる。これまでシリコン太陽電池を素通りしたり跳ね返っていたりした可視光より長い波長の赤外線光も利用できる可能性がでてきた。
 シリコン太陽電池の下にマッカイ結晶を敷けば、エネルギー変換効率は格段に上がるはずだ。しかし手島主任研究員はその先にある「オール炭素太陽電池」の実現を目指している。太陽光に当たる側から、紫外光、可視光、赤外光に対応したマッカイ結晶を配置する。こうすると「アンコウのつるし切り」のように太陽光をすべて食べ尽くすことができる。なお積層順を反対にすると長波長側から光を外に逃がすので効果はない。「積層の順番を間違えないように」(手島主任研究員)
 ここまではスパコンで求めた。あとは実際にマッカイ結晶を合成することになる。RIST自体は超高速計算の専門機関だが、ナノ炭素研究所(長野県上田市)の大沢映二社長(豊橋技術科学大学名誉教授)や名古屋大学の篠原久典教授、信州大学の遠藤守信教授など著名な炭素物質研究者をメンバーとする研究会組織を持ち、計算結果を物質合成につなぐ仕組みがある。
 マッカイ結晶はまだ計算上の物質だが、合成研究者と連携することで、太陽光を丸ごと電気に変える太陽電池は近い将来に日本で開発されるかもしれない。炭素だけで作れれば、資源が少ないと嘆く日本も困らない。それどころか日本の資源で世界制覇できる製品が誕生することになる。
 (科学技術部記者 黒川卓)
誰でも撮影できるカメラの開発――62
日本は、カメラ文化に対しても多大な貢献をしてきた
レンズ付フィルム 【写るんです
そして【デジタルカメラ
1975年12月、イーストマン・コダックの開発担当者Steve Sassonが世界初のデジタルカメラを発明する。画像サイズは100×100の10000ピクセル
静止画をデジタルで記録するいわゆる「デジタルカメラ」の前に、アナログ記録を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群が存在した。これは、ソニーが1981年に試作し後に製品化した「マビカ」 キヤノンのRC-701(1986年発売)など。
画像をデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは1988年に富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-1P」電源が無くても記録保持が出来るフラッシュメモリを初採用したのは1993年富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-200F」 
1994年発表1995年3月発売のカシオ計算機初のデジタルカメラ「QV-10」では、外部記録装置無しで96枚撮影が出来、当時のWindows95ブームで一般家庭に普及し始めたPCに別売キットを使って画像を取り込む事が出来る上、本体定価65,000円を実現して好評となり、これを境にデジタルカメラの存在と利便性が一般に認知された。

世界に広がったカラオケ文化――67
 
これは説明不要だろう。
『カラオケ化する世界』ロンドン大学研究員ジョウ・シュン、フランチェスカ・タロッコ/著
「歌に対する人類の夢を具現化した機械・カラオケは、その誕生から30年を経ずして全世界に普及した。世のさまざまな文化流行を見ても、これほど短期間に、これほど広範囲の普及るいを見たものは他に類を見ない」
 
1999年 「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」として世界的に有名な週刊誌「TIME」に掲載。2004年にはイグ・ノーベル賞を受賞

すべての女性が真珠を持てるようになった――71
1893年ミキモトの創業者 御木本幸吉は、世界で初めて真珠の養殖に成功しました。
のちに世界から「真珠王―The Pearl King」と呼ばれた御木本幸吉。
彼は度重なる困難を家族や協力者とともに乗り越え、エジソンさえ驚嘆した真珠養殖の成功者として、明治当初からグローバルな視点で日本の宝飾史の扉を果敢に切り開いてきた先駆者として、 妥協を許さず美しいものだけを追い求めたスペシャリストとしてその一生を貫きました。
 
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井沢元彦氏の本を読むと大概目から鱗の一枚や二枚は落ちるのだが、本書は私にとってあまりにも当たり前すぎて、目から鱗は落ちません・・・いや、やはり随所に井沢氏らしさが光ります。本書は世界各国の言葉に訳して世界中にばら撒いてみてはどうかと思う本です。
 
日本が世界に貢献してきた役割は非常に大きいことを改めて認識させる本であります。
 
BBCの調査「世界に良い影響を与えている国」のランキングで日本は2006~2009年はトップ2010年は2位でした。
 
他の民族が科学や技術を、戦争の際の武器のように自分の利益を追求するための道具にしているのに、日本人はそれを、人類を幸せにするために使っているということです。
 
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第一章 日本のモノづくりが、人類を幸せにした

ホームビデオが叶えた庶民の夢――12
40年前には自宅で映画を観ることはよほどの富豪が自宅に映画館を作る以外不可能だった。
VTRは米国のアンペック社が1956年TV局向けの業務用機器として開発し日本でも1958年頃導入され当時の値段で2000万円もした。しかも巨大なシステムでした。
1970年ソニーが各メーカーに呼びかけ統一規格のU規格を開発40Kg40万円
1975年ソニーベータマックス 20kg22万9800円1時間録画
1976年日本ヴィクターVHS(ビデオ・ホーム・システム)方式発売
日本ビクターの高野ビデオ部長が自社技術を解放し企業の垣根を越えた連合を結成した事で世界標準として成功
自宅にいながらにして、いつでも好きな映画や録画したテレビ番組を楽しめることができる仕掛けを作った。これは最高の贅沢であり、日本が人類を幸せにした典型例の一つと言っていいでしょう。

マイカーの夢を現実にした軽自動車――16
1958年富士重工が「すばる360」を発売、大人4人が乗れ泥道や砂利道を時速60Kmで走り価格を35万円に抑え「庶民が下駄履きで乗れるようなクルマ」を作ることを目標に開発され、日本のモータリゼーションの嚆矢(こうし:物事の始まり・起こり戦いの始まり)となった。
1979年スズキのアルトは爆発的に日本で売れ、現在はインド・中国・インドネシアで庶民の足として新興国のモータリゼーションに切っては切れない役割を果たしている。
庶民の乗れる車を作ろうという軽自動車のコンセプトは、日本だけでなく海外でも受け入れられ、各国でマイカーを持ちたいという庶民の夢を現実に変えたのです。
軽自動車のケースが示すように、技術革新によって大きな物を小さく、コンパクトにするというのが、日本のいわばお家芸です。ということは、日本が今後、どのような技術を開発すべきか、それは自ずと明らかになってきます。
 
庶民の足となったオートバイ――21
歴史的な大ヒットとなったのが、1958年に発売された「スーパーカブC100」です。全長180cm、高さ101cm、幅66cmで、重さ75kg。排気量は49ccで、価格は5万5000円です。4サイクルエンジンを搭載し、最高時速70kmの優れ物でした。
(略)
スーパーカブには「そば屋の出前持ちが片手で運転できるように」という本冊宗一郎の指示で、クラッチ操作がいらない自動遠心クラッチシステムが導入されています。また、草履やサンダルでも乗り降りがたやすくできるように、低床バックボーンフレームが採用され、足元への泥はねや風を防ぐ大きなレッグシールドも装備されました。また、エンジンの出力が大きいにもかかわらず、燃費が良く、騒音も抑えられています。
そうした使い勝手の良さが受けて、スーパーカブは爆発的にヒットしました。郵便配達や新聞配達、そば屋など飲食店の出前、電気・ガスなどの集金といった地域のビジネスに広く使われるようになったのです。
(略)
スーパーカブはいまだに現地で売れ続けています。スーパーカブはこれまで世界160力国以上で販売され、2008年には販売台数6000万台という前代未聞の偉業を達成。世界で最も売れたオートバイとなりました。
(略)
日本のメーカーが現地で生産しているオートバイの台数はいまだに圧倒的です。ホンダが全世界で販売しているオートバイの台数は2007年1年間で1347万台にのぼり、世界のトップメー力ーの座をキープしています。また、ホンダ、ヤマハ発動機、スズキ、カワサキモータースジャパンの4社で世界全体のおよそ4割のシュアを占めています。
ホンダは、「需要のある場所で生産する」という基本コンセプトを維持して、現地生産に取り組んできました。その結果、2008年には海外の生産拠点は22カ国32カ所に及び、ドリームD型(1949年)以来、ホンダが世界で生産してきたオートバイは累計で2億台を超えました。
小型で安くて便利なオートバイという、日本発のコンセプトは世界中で受け入れられ、日々の暮らしを支える庶民の足として活用されているのです。
トランジスタラジオは「縮み」志向のシンボル――25
 
1952年、東京通信工業(現在のソニー)の井深大は視察でアメリカに滞在中、ベル研究所の親会社ウエスタン・エレクトリック社がトランジスタの特許を2万5000ドル(約900万円)の使用料で公開する意向を持っているという情報を入手し、翌53年に仮契約を結びました。トランジスタを使って何を作るか、社内で話し合った結果、井深の強い意向でラジオを作ることに決まり、東京通信工業は世界初を目指してトランジスタラジオの開発に取り組んだのです。
1955年、東京通信工業は日本で初めてのトランジスタラジオ「TR-55」を発売しましたが、前年にアメリカのリージェンシー社が製品を発売しており、残念ながら世界初の快挙は逃すことになりました。
1957年発売「TR-63」縦11.2cm、横7.1cm、厚さ3.2cm価格は1万3800円(当時のサラリマンの1ヶ月分の給料)が、1958年アメリカで販売を担当していたデルモニコ社の倉庫から4000個も盗まれる事件が起き、ソニーの名前は一躍、アメリカ中に知られるようになりました。この宣伝効果もあって、次に発売されたTR-610は、2年間で国内外合わせて50万台が売れる大ヒットになった。
トランジスタラジオは日本文化の象徴だと主張したのが、韓国の文明批評家である李御寧(イーオリヨン)です。李はその著書『「縮み」志向の日本人』で、従来の考え方とは違ったユニークな日本文化論を展開しています。
(略)
縮み志向とは、物を小さくし、織密にすることであり、それこそが日本特有の文化であると、李は言います。古くは、平安時代に団扇を折り畳んで扇子を作ったのがその典型であり、盆栽や石庭、俳句、弁当なども同列にあります。そして、現代の縮み志向の代表として、トランジスタラジオや電卓、ロボット、軽自動車などを本の中で例示したのです。
重さも価格も500分の1になった電卓――30
1959年富士写真フィルム(富士フィルム)が国内初FUJICを発売
1964年早川電機工業(シャープ)コンペットCS-10A発売、縦42cm横44cm高さ25cm重さ25Kg価格53万5000円
井沢氏は500分の1というが、価格は100円ショップで売っているので5000分の1かな。
NHKの番組「電子立国日本の自叙伝」には日本の電卓開発の熾烈な競争によってインテル社のマイクロプロセッサーやLSI技術、半導体製造工業が立ち上がっていった軌跡が描かれている。日本の電卓開発競争は世界の電子化に貢献した役割は計り知れない。
 
 
 
誤差を1000分の1にしたクオーツ時計――34
クオーツ時計という技術自体は、ピエール・キュリーの研究をもとにアメリカのベル研究所が開発し、実際に使われていました。しかし、商品化されたクオーツ時計は、高さ2m、幅1mとタンス大の大きさで、これを腕時計にするためには体積を30万分の1に縮小しなければなりませんでした。実際にクオーツで腕時計を作るのは、限りなく不可能に近い難しさでしたが、諏訪精工舎は祉を挙げて、このプロジェクトに取り組んだ
(略)
クオーツの技術は時計だけでなく、テレビやパソコン、カメラや携帯電話など多くの製品に使われ、情報社会の発展にも大きく寄与しました。

目標が無謀なほど高くても諦めずに、コツコツと前に進む。現状に甘んじることなく、チャレンジする……。クオーツ腕時計が成功に至った背景には、そういった日本人特有の気質が潜んでいるかもしれません。
 
このような日本人気質は、人間型ロボットの開発にも現われています。
1997年、ホンダが開発したP2一プロトタイプ2型一が研究者の発表会で公開された時、会場に詰めかけた研究者たちの驚嘆と落胆は凄まじいものでした。
それまで、二足歩行ロボットの開発は不可能だとされていましたが、ホンダのP2はまるで人間が歩いているように動いていたからです。また、小型で高出力のアクチュエーターや小型で大容量のバッテリーは当時の技術水準では難しいと言われていたのに、それも見事にクリアされていました。
『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む 
ステレオを携帯にしたウォークマン――39
死亡率が限りなくゼロの新幹線――44
日本の携帯文化を支えた乾電池――49
胃カメラを入れて病巣を撮る――54
太陽光でエネルギー問題を解決――57
誰でも撮影できるカメラの開発――62
世界に広がったカラオケ文化――67
すべての女性が真珠を持てるようになった――71
 
その3 
第二章 食べ物でも日本は世界を幸せにした
 
インスタントラーメンは、人類史上の画期的発明――78
簡単で長持ち新時代のレトルト・冷凍食品――83
寒冷地でも実る米が、地球を救う――88
持ち運びが便利な缶入り飲料――92
養殖マグロで人類を健康にする――96
世界に広がった寿司ブーム――101
 
その4 
第三章 日本独日の文化が、人類の心を豊かにした
 
世界の子どもたちに夢を与えた、日本のアニメ――108
ハリウッドの監督たちの手本となった、世界のクロサワ――113
将棋は世界一のボードゲーム――118
世界が賞賛する日本の折り紙文化――123
 
第四章 世界に期待される日本の国際貢献
 
人類を救うためにヒトもカネも出す――130
日本は、人類を幸せにする道具として原子力を利用した――134
核戦争を回避する運動の先頭に立ってきた――139
原子力発電の普及で、エネルギー問題を解決する――145
あなたは原子カ発電に賛成ですか、反対ですか――149
第五章 日本が切り拓く披術と未来
 
iPS細胞が、世界の重病患者を救う――158
次世代型ロボットが、生活や福祉をサポートする――163
海水の淡水化で水問題が解決する――167
終章 
まとめとしての日本人論――175
あとがき――181
 
 
 
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リパトリ進めば円高転換も、円安の株価押上げ効果は限定的

[東京 16日 ロイター] 16日午前の東京市場は円安を好感し日経平均は続伸。ただ本邦企業による海外留保利益の本国送金による円買い需要(リパトリエーション)が年度末に向けて強まれば、円高転換する可能性が大きいとの見方もあり、株価の押し上げ効果としては限定的だ。
 年度末接近で国内勢の持ち合い株の解消売りも強まるなか海外勢の日本株買いがどこまで継続するか注目されている。

 <昨年3月のリパトリ額はそれまでの2倍>

 午前の外為市場でドル/円は83.75円を中心にこう着。市場では本邦企業による海外留保利益の本国送金による円買い需要が話題となっており、ドル/円が近々ピークアウトするとの見方が出ている。
 ドル/円は過去において2月中旬から3月中旬にかけて下落する傾向が強いが、「本邦企業による海外留保利益の本国送金が、年度末に向けたドル/円相場の下落の一因となっていると考えられる」とJPモルガン・チェース銀行のチーフFXストラテジスト棚瀬順哉氏は指摘する。

 2009年4月に本邦企業による海外留保利益の本国送金に対する税制優遇措置が実施されて以来、送金額は増加しており、2009年度の送金額は3.2兆円と、2001年度から2008年度の平均の1.8兆円を大きく上回った。また、税制優遇措置導入後最初の年度末月となった2010年3月の送金額は7587億円と、2001年度から2009年度の平均(3869億円)の約2倍となっており、今年の3月もリパトリが膨らむ可能性が大きいとみられている。

 <株式市場でも円安期待は限定的>

 日経平均は続伸。取引時間中としては2010年5月6日以来、約9カ月ぶりに1万0800円台を回復した。欧州系など海外勢のまとまった買いが引き続き観測されている。「1万0760円から1万0800円まで先物に大口の買い注文が入った。為替が83円台後半の円安に振れたことで、企業業績への懸念材料が後退しつつある。りそなHD(8308.T: 株価, ニュース, レポート)が公募価格の440円に接近するなど銀行株が高く、個人資金の回転も効き始めている」(大手証券エクイティ部)という。

 ただ現時点で円安効果への期待は株式市場ではそれほど大きくない。年度末のリパトリによる円高懸念や、米連邦準備理事会(FRB)の利上げが当面ないとの見方が再び強まれば円安進行が止まるとの見方が出ているためだ。市場では、今年、米金利上昇によるドル高・円安が進むとの予想は依然多いが、年初以降はその予想に反し円高気味に進んでいたため、多少の円安では楽観に傾きにくい。

 1月の米小売売上高が市場予想を下回ったのは豪雪の影響が大きいとみられ堅調な景気回復が継続しているとの市場コンセンサスに変化はないが、一方で米経済には需給ギャップや高い失業率などの問題点も残っている。「円安の持続性には疑問もある。FRBの利上げがかなり先になるとの見方が再び強まればトレンド転換もありうるだろう」(三菱UFJ投信・戦略運用部副部長の宮崎高志氏)という。

 業種別で上昇率が高いのは銀行や証券など出遅れ感のあった金融セクターで、自動車など先行して株価が上昇してきた輸出株は円安期待で堅調だが、内需系に比べ伸び率は鈍い。

 市場では「日経平均1万0700円─1万0800円付近は持ち合い株解消など国内勢からの売りが出やすい。海外勢の買いがどこまで継続するかが焦点だ」(国内証券ストラテジスト)との声が出ていた。

 <5年物国債入札に絡んだヘッジ売り> 

 午前の円債市場では、国債先物が反落。前日の米10年債利回りが若干低下したが、円安/株高が意識されたほか、5年物国債入札に絡んだヘッジ売りで上値が重い展開となった。10年ゾーンにもポジション調整の売りが出た。
 今後の相場展開について、RBS証券・チーフ債券ストラテジストの福永顕人氏は「景況感が良くなっているため、金利のレンジが持ち上がる動きがみられた。もっとも、日銀の金融政策が近い将来変わることは見通せないので、金利が一方的に上昇する局面に入ったということではなく、新たなレンジをつくり始めた」との見方を示している。
(ロイターニュース 金融マーケットチーム;編集 内田慎一)
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為替市場の円/ドルレートは円安が進み、チャート面では昨年後半以降の三角保
ち合いからの上放れがより鮮明となってきた。また、短期的な円安加速のシグナル
となりやすい5週前値抜けをうかがっている。さらに上記週足の一目均衡表上のテクニカル指標は円高トレンドから円安トレンドへ大きく変わるシグナルが点灯寸前だ。また、右肩下がりのBOXの中で円高が進んでいたが、ついにBOXを抜け出る可能性が高まってきた。
 
為替の80 円/ドル割れは当面回避され株式市場でも安心感がでている。
 
為替が変動する要因としてその市場の空気がリスクを許容する相場なのか、それともリスクに敏感なのかで、買われる通貨が異なってくる。
 
リスクに敏感であった場合円は最も選好され次が米ドル、ユーロ、資源国通貨、新興国通貨の順である。反対に現在のようなリスク選好的な場合、高金利通貨高・低金利通貨安になる。しかし直近半年はリスク選好的であったにもかかわらず、高金利通貨高・低金利通貨安という傾向はあまり明確ではなかった。これは、各国経済・金利動向の格差などを映す通貨政策の方向性を見定めようとしていたからだと思います。
 
世界景気が回復を始めてから比較的早い段階であることが、各国金利動向のバラツキを生んでいる。ただし、長期的には各国の景気回復が進展して金利動向の同調性が増すにしたがい、今後リスク選好の高金利通貨高・低金利通貨安が明確化していくのではないかと思う。
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白川日銀総裁は2011年2月15日の会見で、足元の景気判断を「改蕃テンポの鈍化した状態から徐々に脱しつつある」とし、前回から前進させた。
 
景気の現状について、昨秋以降の改善の動きに一服感が見られた状態から、海外経済の回復や情報関連財の在庫調整の進ちょくなどで輸出が増加に転じるとともに、駆け込み需要の反動減が見られていた自動車も反動減の影響がこのところ、小さくなっている」と指摘。生産も増加を続けているとし、「景気は展望リポート中聞評価の免違しに沿って着実に前進している」と日銀が描く景気回復シナリオに自信を示した。
 
日本も景気回復に向かい金利が上昇するがその他諸国から比べると目先の金利は上がらず、相対的な金利差は拡大しそうだ。日米金利差からすると、どうも円安は本格化する可能性があると思う。
 
 
 なお、相場観については、私の勝手な感想ですので一切の責任は負いません!
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