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中曽根康弘元首相が死去 101歳  
【NHK】2019年11月29日 12時42分 

「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、中曽根康弘元総理大臣が29日、東京都内の病院で亡くなりました。101歳でした。

中曽根元総理大臣は、大正7年に、群馬県高崎市で生まれ、昭和16年に旧東京帝国大学を卒業し、当時の内務省に入ったあと、太平洋戦争中は海軍の士官を務めました。

そして、昭和22年の衆議院選挙で、旧群馬3区に、当時の民主党から立候補して初当選し、その後、自民党の結成に参加して、20回連続で当選しました。

この間、昭和34年に第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として初入閣し、防衛庁長官、運輸大臣、通産大臣のほか、自民党の幹事長や総務会長などを務めました。

また、改進党に所属していた当時、被爆国の日本でも、原子力発電に向けた研究開発が不可欠だとして、原子力関係の予算案の提出を主導したことでも知られました。

中曽根氏は、当時の佐藤栄作総理大臣の長期政権のもと、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫と並んで、いわゆる「三角大福中」の一角をなし、「ポスト佐藤」の候補として、党内の実力者のひとりに数えられるようになりました。

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昭和57年11月、自民党の総裁予備選挙で、河本敏夫氏、安倍晋太郎氏、中川一郎氏を抑えて、第71代の内閣総理大臣に就任し、「戦後政治の総決算」を掲げて、懸案の解決を目指しました。昭和60年8月15日には、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社に公式参拝しましたが、中国などから強い批判を受け、それ以降は参拝を見送りました。

中曽根氏は、行政改革などに尽力し、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の土光敏夫氏と二人三脚で、「増税なき財政再建」に取り組み、当時の「国鉄」、「電電公社」、「専売公社」の民営化に取り組みました。

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一方、外交面では、総理大臣就任からまもない昭和58年1月に、当時、関係がぎくしゃくしていた韓国を訪れて関係改善に道筋をつけて、そのままアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で強固な信頼関係を築きました。互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うレーガン大統領との関係は、中曽根外交の基盤となり、昭和58年11月にレーガン大統領が日本を訪れた際には、東京 日の出町のみずからの別荘「日の出山荘」でもてなし、中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になりました。

昭和60年3月には、旧ソビエトのチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させました。

一方、中曽根氏は、私的な諮問機関を設けることで、大統領型のトップダウン政治を目指したほか、日米貿易摩擦をめぐる記者会見では、みずからグラフを指し示したり、水泳や座禅をする様子を公開したりするなど、パフォーマンスのうまさでも知られました。

昭和61年には、「死んだふり解散」、「ねたふり解散」とも呼ばれる、衆参同日選挙を行い勝利を収め、党総裁としての任期が1年延長されました。しかし、昭和62年4月の統一地方選挙で敗北し、みずからが目指していた売上税の導入を断念し、その年の10月には、当時、「ニューリーダー」と呼ばれた、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏の中から、竹下氏を後継総裁に指名し、11月に退陣しました。

中曽根氏の総理大臣としての在任期間は1806日と、当時としては異例の5年におよび安倍、佐藤、吉田、小泉の4氏に次ぐ、戦後5番目の長期政権となりました。

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総理大臣退任後、リクルート問題で、平成元年5月に衆議院予算委員会で証人喚問を受け、党を離れましたが、2年後に復党しました。

そして、平成8年の衆議院選挙では、小選挙区制度の導入に伴い、当時の党執行部から、比例代表の終身1位で処遇することを確約され、小選挙区での立候補を見送りました。翌年には、大勲位菊花大綬章を受章したほか、国会議員在職50年の表彰も受けました。

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しかし、平成15年の衆議院選挙の際、当時の小泉総理大臣が、比例代表の73歳定年制の例外を認めず、中曽根氏は立候補を断念して、56年に及ぶ国会議員としての活動に幕を閉じました。

中曽根氏は、政界引退後も、安全保障や国際交流のシンクタンクの会長を務め、内政や外交をめぐって積極的な発言を続け、みずからの心境を、「くれてなお命の限り蝉しぐれ」と詠んでいます。

とりわけ、憲法改正には強い意欲を示し、新しい憲法の制定を目指す、超党派の国会議員らでつくる団体の会長を務めてきたほか、おととし5月に出版した著書では、戦力の不保持などを定めた9条2項を改正し、自衛隊の存在を憲法に位置づけるべきだなどと提案しました。

葬儀は近親者のみの家族葬 後日 お別れの会開催

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中曽根氏の長男で自民党の中曽根弘文元外務大臣は、自民党の関係者などに対して訃報を出し「父は、本日、永眠致しました。葬儀につきましては近親者のみによる家族葬にて執り行い、後日お別れの会を開催する予定でございます。永年に亘りますご厚誼に対しまして、故人に代わり衷心からの感謝を申し上げます」としています。

またNHKの取材に対して、中曽根弘文元外務大臣は「多くの皆さんに支えてもらい、国のことを思いながら人生を全うした。悔いのない人生をおくることができたのではないか。家族として皆さんに感謝している」と述べました。

そのうえで「父は戦争から引きあげて、昭和22年に国会議員に出た。焦土と化した国土を見て、どういうふうに復興していくかというのが、父の政治家としての出発点だったと思う」と述べました。

また「家族に対しては、あまりあれこれ言う人ではなかった。本当に一生懸命勉強する人で、息子が言うのもおかしいが、あんなにも勉強する人は知らない。飛行機の中でも、汽車の中でも、船の中でも、いつも努力をする人だった。スポーツしたり、水泳したり俳句をつくったり、趣味の広い人でもあり、自分の時間を有効に使い、健康にも自分で気をつけて、101歳まで元気でいられたんだと思う」と述べました。

孫の康隆議員「最後まで日本の未来考えていた」

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中曽根元総理大臣の孫で、自民党の中曽根康隆衆議院議員は記者団に対し「おかげさまで101年という人生をやりきった。ずっと元気で、即位礼正殿の儀(そくいれい せいでんのぎ)のニュースを見て喜んでいたし、新聞も読んでいた。われわれも驚くくらい生命力が強いというのは感じていた。ずっと『国家が体に宿っている』と本人は言っていたが、最後の最後まで日本の未来のことを考えていた」と述べました。

また、中曽根元総理大臣との思い出について「初当選の直後、事務所に報告に行った際に、開口一番『しっかり歴史を勉強しなさい。政治家は先見性を持つために過去を知らなければいけない』とするどい目つきで言われた。私も思いを引き継ぎ、しっかり国会議員として頑張りたい」と述べました。

中曽根康弘元首相と言えば、「ロンヤス関係 不沈空母 風見鶏 大勲位(菊花綬章)」と言い表す冠が多い。

最近は大勲位中曽根氏と私は呼称することが多かった。首相の在任期間は1982年~1987年と、私が大学へ進学し就職した青春を謳歌していた5年間と重なる。また、1985年のプラザ合意とバブル到来を予感させた華やかな時代だったせいか、前任の鈴木善幸氏に比べ、頭脳明晰にも見え、個人的な印象は頗る良い。

当時、政界の実力者は田中角栄氏、闇将軍の傀儡に過ぎないと揶揄されていたが、田中角栄が束ねていた自民党は、その後の自民党と違い機能していたと思う。

ただ、風見鶏という謂れはえげつない。ロッキード事件では側近の佐藤孝行、リクルート事件では藤波孝生を切り捨て、三角大福に付いては離れ、神速で手のひら返し、その動きから風見鶏と揶揄された。

今に思えば、教科書問題を韓国に40億ドルの経済協力を払ったという悪弊を作った戦犯の一人でもある。

また、中曽根康弘と言えば元海軍主計官ではあるが、帝国軍人の一員であった。戦場経験は無い、と誤解されがちだがそれは事実ではなく、開戦直後、バリクパパン沖海戦に遭遇し、乗船していた輸送艦が攻撃されるなど、阿鼻叫喚の地獄図を潜り抜けてきた。

ゆえに、靖国神社参拝の動機のひとつに至らしめたという。

終戦直後は反米保守の立場であった。「いずれアメリカと同盟するにしても、日本は再軍備をして、できるだけアメリカ軍を撤退させ、アメリカ軍基地を縮小しなければならない。さもないと日本は、永久に外国軍隊の進駐下にあり、従属国の地位に甘んじなければならない」と述べている。 後の不沈空母発言をした本人の考えとは思えない。

 LEARNING FROM NAKASONE

 中曽根時代の日本がトランプを作った
 【Newsweek】サム・ポトリッキオ(本誌コラムニスト)

中曽頼康弘は日本の首相を約5年間務め、国営企業の民営化を果たしたことでよく知られている。中曽根政権時代の日本は経済成長を続け、外交でも世界で存在感を放った。

 当時の日本経済の快進撃は、いずれアメリカを凌駕して世界を支配するのではないかという恐れを生み出した。「日本は常に勝ち続けるマージャンの打ち手のようなものだ。
他の連中は遅かれ早かれ、もうあいつと一緒にやりたくないと思うだろう」と、中曽根が語ったのは有名な話だ。

 実際、中曽根時代の日本は後世にも影響を及ぼした。アメリカの孤立主義と「アメリカ・ファースト」への退行現象を招いたそもそもの原因だった可能性が高いからだ。

 中曽根首相退陣のちょうど1年後、現在のトランプ米大統領は映画『カサブランカ』 の撮影に使われたピアノのオークションで日本人コレクターに競り負けた。その直後にトランプはテレビで日本に15~20%の関税をかけるべきだと主張。アメリカは「食い物にされて」いる、「自分を守る」必要があると説いた。

 つまり、1980年代の日本はトランプ流の世界観の形成に重要な役割を果たしたというわけだ。貿易政策担当のある側近は、「80年代からずっと(トランプは)腹を立ててきた」と語り、当時のトランプが日本に感じた脅威が関税と保護主義を好む手法の発端だつたと指摘する。米ダートマス大学のある教授も、当時の日本の台頭がトランプの国境や通商裁判についての基本的な考え方、ライバル国に対するタフで桐喝的な交渉姿勢につながったと論じている。

大国にふさわしい役割拡大を

 中曽根は当時のレーガン米大統領ととびきり良好な関係を築き、信じ難いほどうまく日本の台東を導いた。中曽根は30年先の大統領の怒りに火を付けたが、現職大統領への対応はほぼ完壁だつた。

 レーガンは中曽根を信頼していた。特に冷戦臭っただ中の当時、ソ連に対するレーガンの強硬姿勢を中曽根が強力に支持したことは心強かった。

 中曽根の巧みな外交術とレーガンとの個人的友情は、アメリカとの衝突回避に役立った。中曽根は思想的には強硬なナシヨナリストであり、対米貿易黒字は拡大し続けていたが、アメリカの怒りを買わずに済んだ。現在では到底不可能な偉業だろう。

 中曽根のレーガンとの関係はほとんどの追悼記事で言及されているが、申出最から学べるもっといい教訓を与えてくれるのは別の米大統領の存在だ。

 中曽根は101歳で世を去るまで、主要国の元指導者で最高齢の人物だつた。その死のほぼ1年前、アメリカでは歴代最高齢の大統領経験者だつたジョージ・プッシュ(第41代大統領)が94歳で亡くなつている。

2人は第二次大戦で戦った同士だが、どちらもかつての敵に寛大な態度で接した。
 第二次大戦にパイロットとして従軍したプッシュが世を去ったとき、アメリカの政治状況は政敵とも友情を育む彼の精神とは懸け離れていた。同じように中曽根の死は、比較対象としての過去を振り返るいい機会になる。日本特殊論を堂々と唱え、大国にふさわしい日本の役割拡大に熱心だった故人の精神は、世界における日本のリーダーシップ強化を後押しするはずだ。

 中曽根が持っていた日本の将来とリーダーシップに対する絶対的自信は、アメリカが手を引くことで生じた国際社会の空自を日本が埋めるため、真の墾且国として立ち上がる助けになるかもしれない。



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