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昨日青葉公会堂で映画道草をみてまいりました。

観てみようと思ったのは、パンフレットの道草の草の字の艸(くさかんむり)がタンポポの綿毛を意味するかのように二重に書かれて、大きく描かれたタンポポの綿毛が飛ぶ絵と相まって、私のアート好きのハートに突き刺さったからです。たぶん、プロのアーチストの方はやられたと思った方もいたでしょうね。

  

ストリーは、よくあるドキュメンタリー映画かもしれませんが、観おわってみると、いい映画を観たなという気持ちになりました。


私の姪はダウン症であるが、たまにしか会う事はない。会うと可愛くてならない、いつまでも天使のような子供でいるのだ。

だが、彼女の日常生活を私は知らない。同じように街で見かけるの知的障害がある人達の日常を見ることはない。

私の日常には障害者との接触は無い。おそらく障害者と世間との間には、同じように接触がない。
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映画パンフに載っている知的障害者の暮らしとは?

 知的障害がある人の暮らしの場は広がってきていますが「重度」とされる人の多くは未だ入所施設や病院、親元で暮らしているのが実情です。

 2014年に重度訪問介護制度の対象が拡大され、重度の知的・精神障害者もヘルパー付きのひとり暮らしが出来る可能性は大きく広がりました。

 そんな中、16年夏には相模原障害者殺傷事件が起きました。この街で誰もがともにあるために、新しい選択肢を見つめてみませんか?
2014年に重度訪問介護制度の対象が拡大され、重度の知的・精神障害者もヘルパー付きのひとり暮らしが出来るようになったというニュースは知っていたが、その内容にまで関心はなかった。

私は、介護者という存在を知らなかった。知的障害者は身内が介護しているものだと思っていました。診察とか食事の準備といった日々の行動を介助する方のようですが、ネットで調べても道草にでてくる介助者はよくわかりませんでした。国家資格があるわけではなく、障害者の介護をされている方みたいです。生活だけではなく感情面や精神面でのサポートをしています。

食べて寝て、電車に乗って、公園を散歩する。日々のなにげない生活を自分の思い通りできる自由は、施設に閉じ込められ一生を過ごす身障者にとっては夢のような生活なのかもしれない。

しかし、身障者にとって、本人の意志を尊重してくれる介護者の存在はけっして多いとは思えない。一昨年死んだ母も最後公的な介護なくして生きていくことは難しかった。

映画に登場する介護者の方々は、皆「菩薩」なのではないか?あんなふうに、わがままな障害者に辛抱強く向き合い一緒に生活するなんて普通の人間にはできない。ある意味で、みずから悟りの境地を求め修行する現代の行者に見える。己のためだけに悟りを得る為に山を歩き回る千日回峰よりもしかしたら、功徳が高いかもしれません。

障害者と向き合い、ときに葛藤している介護者や障害者の家族、そして障害者自身の話をこの映画は新鮮でした。

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この介護者の方は11年前から亮佑さんと知り合いだという。

このパンフレットの製作者で、ピュアな心で描く絵は、山下清画伯と遜色が無い。
器用にスケボーや一輪車を乗りこなす多芸な人だ。

両親は?と、こちらは亮佑さんの生い立ちを想像してしまう、なぜ、高校を卒業して一人暮らし?亮佑さんは作業所へ通っており寝起きを供にして、作業所へ送り届けて、お迎えをして二人で散歩して夕飯を食べる。

いったいどうやって生計をたてている?だいいち、亮佑さんの両親は?なぜ一緒に生活しないのか?両親は亮佑さんを捨てたのか?画面の裏側をどんどん想像してしまいました。

実は映画の後半、亮佑さんは月一度実家に帰り、両親家族と楽しく過ごし、また介護者と同居する自宅へ帰っていくのだ。両親は亮佑さんの自立を願って一人暮らしさせているという。

介護者と亮佑さんの生活は楽しそうだった。でも、介護者はアラフォーで、ご自身の結婚は?その家族は?仕事は?なぜ、彼に関わっているのか?昔の写真が断片的に写っていたが、下手な子供になった探偵の推理小説アニメを見るよりも、障害者の世界を知らない私にとって、謎が謎を呼び映画の断片から謎解きや想像を勝手にし始めていた。

少し経って、介護者は複数いて、交代で亮佑さんの面倒を見ているという。
日本はこんなに障害者に優しい社会だったのか?亮佑さんは恵まれている方なのか?

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宙夢くんの介護者の方が、おっしゃってたことが印象的でした。映画を見た後ネットで予告編を見たら、やはり取り上げてありました。
介護者は有名私立進学高を出て、国立大学に入り、エリートの道に進んでいたようでしたが、今は介護者をしておられる。介護者がエリートではないということではない。人間としての「徳」が、超エリートであった。

「なぜこういう人がこの世界に必ずいるんだろうって、いつも思っていました」「存在するからには、必ず意味があるはずだ・・・」と介護者の方は問い思っているようでした。

オーストリアの精神科医ヴィクトール・エミール・フランクルはユダヤ人収容所に収監された経験を持ち、ナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』のなかで、「”この人生に何の意味があるのか”だなんて問いかける必要はない」と言います。
そして次のようなことを、言っています。「どんな時も、人生には意味があります。
どんな人の、どんな人生にも意味があり、なすべきこと、満たすべき意味が必ず与えられています。ですから、人生の意味は何かと、問いを発する必要はありません。」

宙夢くんが存在する意味を問うてはいけません。我々は逆に宙夢くんに、自分の存在意義を問われている立場であり、我々が自らその答えを出さなければならないのです。

どのような人生であっても、人間はどう行動するか、どう生きるか選択することはできる。私たちの社会は、決して宙夢くんを放棄してはいけないと思うのです。

宙夢くんに幸せな人生をおくらせてあげようなど、目標ではないし目標であってもならない。かわいそうだから、何もできないのだからと、ベッドに縛りつけていればいいというものではありません。宙夢くんに人生に戦うチャンスを与えることさえできればいいと、思うのです。

映画では語られなかったが、障害者の内面はきっと苦しみに満ちているのであろう。気持ちを伝えられない苦しさ、もどかしさ。しかし、画面から彼らの心の中が見えるというのは傲慢なのかもしれないが、苦しんでいるのは、苦しむ勇気を持っている証なのではないでしょうか?

人並みの幸せは、目標ではないし、目標であってもならないと思うのです。
苦難と戦いは、人生を無駄にしない。そもそも苦難と戦いこそが人生を意味あるものにするのだと思う。障害者の方を見て、かわいそうだななんて思うのは傲慢なのかもしれません。
むしろ、戦っている立派な魂だと尊敬すべきなのかもしれません。


宙夢くんの場合は、母親が出てきて、壮絶な子供時代の話をされていた。
原因は何かあかさなかったが、宙夢くんは自閉症で5.6歳の頃彼の父が死に、赤ん坊の兄弟と、3人が残された。母は働かなくてはならなかったが、家中に排泄物を撒く宙夢くん、赤ん坊に暴力をふるう宙夢くん、母は、噛み付く宙夢くんに噛み付かせたままにした。ほとんど寝ずにふらふらになって勤めに出かけたという。

なんか、その話を聞いて、今は明るく話してくれた美人のお母さんを抱きしめたくなった。
気のせいだろうか、障害者のお母さんには美人な方が多い。苦労をして、人の優しさを知っているからなのか?単にたまたま知っている方が美人だったからなのかもしれません。

私の知り合いのご婦人は、私のダウン症の姪の事をブログで書いたことをきっかけで知り合いましたが、息子さんがダウン症で、それはそれは天使のような方でした。
ダウン症の子供は生まれる親を選んでくるといいますが、まさにそのような方でした。

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たぶん、出演された障害者の方で、裕一朗さんが、一番自分と戦っていた。
もどかしい自分と戦い、エスカレーションした場合、暴力的となってしまい周囲に迷惑をかけてしまうのであろう。以前入所していた施設で暴力を振るわれたことで、暴力的になってしまったというが、介護人や父親らの努力で、おちついた日常生活がおくれるまでになる姿は、感動的だ。

公園からの帰り道、電車を待つホームで、裕一朗さんがご婦人に触れてしまったという。
介護人曰く「私は警察でもなんでもなくて、彼を拘束するこはできない、ただ人に迷惑をかけないようにするガードマン・・・」

裕一朗さんにも性欲はあるかもしれない、いやあるであろう。身障者の日常をファンタスティクにまとめたいこの映画の趣旨にはふさわしくないのであろう、身障者の性欲というタブーには切り込まなかったが、存在を匂わせた。

裕一朗さんの戦いに集う人達、父親、NPO法人の介護人、練馬区の介護派遣の人達、まるで皆で海峡に橋をかけるようなプロジェクトのように裕一朗さんの介護方法を議論しあう。
なんて、生真面目な日本人なのであろう。
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あの、入所者19人が刺殺され、入所者・職員計26人が重軽傷となった津久井やまゆり園に入所していて実際に被害に遭った矢野一矢さん。

わたしは、犯人の元施設職員植松聖被告の行った行為はけっして肯定されるべきものではないと思うのだが、彼の気持ちもわからないでもない。

すべての被害者がどうだったかはわからない。あくまでも私の偏見と想像なのだが、障害者の方が、日常的に被告に対し入居者が言葉の暴力を加えていたのであろう。

菩薩ではない普通の人間が、職業として止むをえず、介護の仕事を選んでしまった場合悲劇である。

実は心の中で障害者を見下し、人間と思っていない障害者から毎日暴言を受け続ければ、普通に切れて暴力を振るってしまうのは、ある意味必然のことだろう。
健常者である人間は厳しい社会でなんら保護されないのに、障害があるというだけで保護され、それでも不満があるのか?という怒りが溜まっていたのであろう。

あくまでも外野の無責任な意見だが、津久井やまゆり園の事件では、被告だけを責めてはいけないような気がします。事件に到った被告の心のケアするような、仕組みやプログラムが不備であったような気がします。彼の同僚なり上司も、被告の心の傷にまで気がつけなかったことも悲劇であったのだろうと思います。

最後に、この映画とは関係ありませんが、身障者の社会進出という意味で、山本太郎率いる政党れいわ新選組に二人の身障者の国会議員が誕生しました。

この映画を観たり関心があり、このブログを最後まで読んでいただいた方は、おそらく私が感じるような強烈な違和感を感じていないと思います。

しかし、私は、山本太郎に強烈な違和感を感じてしまうのです。身障者に対する扱いは、実は山本太郎と
植松聖被告と同じではないか?単なる道具として扱い、同じ人間として扱っていないと思うのです。国会議員はきれいごとでできるものではないが・・・・
野党である限り、無責任に喚きちらす事は可能かもしれません。