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PHOTOGRAPH BY SCHOOL OF PHYSICS AND ASTRONOMY, UNIVERSITY OF GLASGOW


2つの粒子が強い相互関係にある「量子もつれ」と呼ばれる現象を、英大学の研究チームが世界で初めて画像に記録することに成功した。今回の実験で得られた画像処理の技術は、量子コンピューティングや量子暗号の進化にも貢献することが期待されている。

ミクロの世界を正しく説明するうえで欠かせない量子力学に、「量子もつれ」と呼ばれる現象がある。量子もつれとは、2つの粒子が強い相互関係にある状態であり、粒子のスピン、運動量などの状態をまるで「コインの裏表」のように共有する運命共同体のような状態を指す。

例えば、一方の粒子を観測したときのスピンが上向きであれば、もう一方は瞬時に下向きになる。このような量子もつれにある2粒子間の状態は、どれほどの距離──たとえ銀河の端から端という途方もない隔たりがあろうが、維持されるのだという。この同期の速度が光の速度を超えるという、まるで空間など存在していないかのような非局所性から、偉大な物理学者アルバート・アインシュタインが、かつて「不気味な遠隔作用」と呼んだほどだ。
12月25日武田邦彦先生の虎ノ門ニュースの「虎ノ門サイエンス」のコーナーは興味深かった。久しぶりに新しい単語を覚えた「絡合:らくごう」である。訓読みでは「からみあい」であるが、おそらく量子力学の量子のもつれ現象が、この絡合の正体だと私は直感した。

もしかしたら、量子のもつれ現象の方が絡合の一側面なのかもしれないが、「絡合」という不思議な現象が、何なのか解明することが、21世紀の最先端の科学的課題の一つかもしれません。

武田先生が説明する絡合とは、実に幅広く興味深い現象で、科学的量子論からの視点ではなく、私にでもわかる文系的実利的平易な話で、絡合の多寡が幸せに関係しているとか、夫婦関係から生物学や
宗教、超常現象といった広範囲な現象にかかわることに話が及んだ

 

モルボックスの不思議な生物で、単細胞生物で、脳とか神経というものがまったくないにも関わらず、複雑な動きをします。
春から夏にかけては無生殖ですが、環境悪化など生命の危機が来ると、有性生殖を行い、仲間を増やします。乾燥に耐えるため、冬は体細胞同士集まって越冬します。

細胞と言うより、一つの単細胞生物が環境に応じ集まり絡み合い一つの多細胞生物のように振舞う不思議な生物です。単細胞生物と多細胞生物の進化過程で7億年前に出現し進化が止まっている生物でもある。単細胞生物が多細胞生物として進化していく過程で、孤立した単細胞生物が集まり、多細胞生物であるかのように振舞って7億年生き抜いてきたのである。

だが、その一部は
助け合う群れが、いつの時か群れではなく多細胞生物として集団で生きるようになり、ひとつの生物として成り立つっていった。

多細胞生物が出現した古生代カンブリア紀、およそ5億4200万年前から5億3000万年前の間に突如として爆発的進化が起きた。今日見られる動物の「門(ボディプラン)」が出そろった。これをカンブリア爆発というが、多細胞生物が出現したのがこの時期である。単細胞ではお互いに機能的に動かないが、多細胞生物として1つの生き物となることにより、単細胞よりより生存競争に勝っていく多くの生き物が出現し、ある者は
ある者は効率よく栄養を確保する為に捕食者となり、ある者は捕食者からのがれる為に、またより多くの仲間(子孫)を残す為に、自然淘汰というトライ・アンド・エラーを繰り返し続けていった。この現象を進化とも言うが、どうして元々は個別の生物であった細胞がそう振舞うのか?依然謎でありその謎のことを「絡合」という仮説で説明しようというのが、「絡合」のサイエンスなのだと思う。

「絡合」という現象を理解する為に武田先生が取り上げたカンブリア紀の生物の例を取り上げて「絡合」の正体をのヒントを探ってみたい。

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最も初期の多細胞生物にハルキゲニアが居たが、トライ&エラーで多細胞生物となっていく過程がわかる生物で、上下に突起物ができたが、足として使うのは下の棘でよくなり、目も幾つがいいか試され目が1~5つのハルゲニアがいた。進化というトライ&エラーだとしても
単細胞生物に留まるではなく、初期のモルボックスに満足するではなく、ハルキゲニアで留まるのではなく、より複雑な次の段階に進んでいくのであろうか?いやどうやって複雑な生物に進化できるのか?考えてみれば自然淘汰で説明できるほど単純ではない、プラナリアの例は良い考察対象である。


体のどこが欠けてしまったのかを細胞が判断して再生できるから?

 ここ20年ほどでプラナリアの再生について多くのナゾが解かれました。解かれたナゾを理解してもらうためには、①多細胞生物の個体は多くの細胞でつくられていること、②細胞に番地を振り分けるシステムがあって多細胞生物の形がつくられていること、の2点を理解してもらわなくてはいけません。すなわち、プラナリアの体はたくさんの細胞でつくられた“細胞の社会”であり、その細胞の社会には各細胞に番地を振り分けるしくみがあるということです。プラナリアの体が半分に切られると、残っている細胞が、どの番地の細胞を失くしたかを知り、失った番地の細胞をつくりなおすことができるから再生できるのです。
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 プラナリアの“細胞の社会”は、筋肉細胞、神経細胞、腸細胞といったいろいろな個性を持った細胞でできています。しかし、プラナリアの再生過程で、筋肉の細胞は筋肉の細胞から、神経の細胞は神経の細胞から再生されるわけではありません。プラナリアには、どんな種類の細胞にもなれる“オールマイティの細胞(新生細胞)”がいて、この新生細胞が分裂・増殖して、必要に応じて筋肉になったり神経になったりして再生を実行します。多くの生き物では成体になる前に新生細胞を失くしていくのに対して、プラナリアは成体まで残すことができるため、高い再生能力を持っていることがわかります(注)。プラナリアは新生細胞を増やすことで体の一部分から必要な細胞をつくり出しているのです。この新生細胞は“細胞の社会”が持っている番地のシステムを使って必要な細胞をつくり出します。番地のシステムについては他の機会に詳しく話したいと思います。

 人の社会ではGPSのシステムを発達させてポケモンGOを楽しむようになりましたが、“細胞の社会”ではカンブリア紀くらいにGPSのシステムをつくることに成功して、体の番地をつくり、体のどの部分で細胞を何回分裂させて、どんな種類の細胞をつくるかのトライ&エラーをすることで、いろいろな形の生き物をつくり、環境に合わせて生き物が進化してきたのではないかと考えられています。

?(学習院大学理学部教授 阿形清和)
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その、GPSのようなものが一体何なのか・・・IPS細胞や細胞分化について遺伝子で説明しているが依然謎なのである。細胞がどう自分の役割を認識して、役割に応じ機能したり、その役割の細胞を正確にどの程度増やしていくか・・・人類はある程度のことは解明したが、根本的なことは依然謎なのである。それが出来れば癌を根本的に治療する道が開けるし、社会科学とか、思想哲学、株価や経済まで説明できるかもしれない。もしかしたら、発想は飛躍しすぎるが、超能力といった超常現象まで解明できるかもしれない。


例えば、イワシや渡り鳥が群体を作って一糸乱れぬ集団行動とって移動したりするが、なぜそれが可能なのか?個々のイワシ同士が連絡を意図してとりあってから行動しない限り、こうも複雑な群れを人間が再現しようとしても3次元ではようやくその嚆矢が放たれたばかりである。魚や鳥といった個々の生物が、あたかも巨大な生物のような集団の動きをすることと、個々の細胞が連絡を取り合っていないのに、多細胞生物として成り立つ現象をは、科学にとって長らく解明できない謎だった。いま、その現象を神秘として片づけるのではなく、「絡合」という仮説として、アルゴリズムやビックデータで解き明かされようとしている。それは、がん細胞、脳、神経システムも絡合で説明できるかもしれないというのだ・・・


絡合やそのGPSのようなものとは何でしょうか?量子力学の量子のもつれと細胞の位置認識とか、群れの科学との関連性については、アルゴリズムやビックデータで解析してある程度解明できたが、それでも動物の個体どうしたちがどうやって互いに情報をやりとりし、コミュニケーションを取り、決断を下しているのか未だその根本的な謎はとけていない。

科学は、過去に絡合という考え方の断片を説明した、宗教や哲学にその答えがあるのではないかとしている。かつてお釈迦さまやキリスト-マホメットは断片的ながら宗教的アプローチで、絡合について説明をしていた。

実は私たちの世界と言うのは、
誰か所謂創造主によって生かされているのではないか? 私たちは、神と呼ばれる何者かによって作られたコンピューター・シミュレーションの世界に生きているのではないか?

この世が仮想現実かもしれないという説は、東洋哲学において般若心教において色即是空・空即是色と1000年以上前から言われてきたことだが、今、現代科学の物理学者や哲学者から提示されている最新理論は、同じことを言っています。例えば量子重力理論という学問があって、一般相対性理論と量子力学の双方を統一する理論と期待されています。物理学の基礎概念である時間、空間、物質、力を統一的に理解するための鍵であり、物理学における最重要課題の一つと言われているのですが、大きさと言う空間を持つ量子(10のマイナス44乗)、これの情報交換がこの我々の世界を作っているのではないかという仮説です。

超弦理論理論から言えば、
人類が生活しているこの世界には素粒子を含め物質と言うものは存在せず、水の波紋や、弦が揺れるがごとき、コンピュータードット画面のような実態の無いも情報の上に成り立つっており、この世界は映画マトリックスのように一種の仮想現実ではないかという理論が脚光を浴びています。

この世界は、すべてシミュレーテッドリアリティであるとする仮説、シミュレーション仮説シミュレーション理論)ホログラフィック原理(ホログラム宇宙論)などです。

極端な話ですが、我々が住む世界は情報だけで構成されている可能性があり、それが絡合を成立させていると思うのですが、我々が感じる物質と情報を絡み合わせているこれら情報とは絡み合うという意味ですが、絡合と呼ばれるのかもしれません。


文学研究科哲学専攻博士後期課程修了
後藤  蔚
要旨

 量子論では、同じ一つの電子が「粒」であると同時に「波」であると見做される。量子論を創ったボーアがこうした「相補性」を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する太極図を好んで用いたことはよく知られているが、本稿では、量子論を仏教と関係づけて見てみたい。大乗では「縁起のゆえに無自性、空」であると説くところを、量子論では、真空こそが量子が絶え間なく生成・消滅を繰返している舞台であるという。

目次

1.縁起
2.場
3.自己同一性
4.法の相続
5.自我
6.重ね合わせ
7.シュレーディンガーの猫
8.実在
9.結び

1.縁起

仏教の基本思想を一口で云えば、ものは「縁起」によって有る、ということであろう。「因果」というと、原因があって結果があり、今度はその結果が原因となって次の結果を生み、…という具合に、普通は直線で考える。つまり因果の「系列」である。しかし、「縁起」はそうではない。縁起は因果のように一方向に進む(一次元)のではなく、「網」をなす。それも二次元や三次元ではなく、多次元、無限次元の網である。何故なら、縁起は、普通の物理的空間、時間を越えて(空間、時間を通らずに)働くものもあるからである。例えば「業(ごう)」というのはそうしたものの一つであろう。「運命」と呼ばれるものも、そうした無限次元の網の一部を指して云っているのだと考えることが出来る。

 ところで、「縁起」とは云い換えれば「関係」ということである。小乗仏教では、先ずものがあって、それらが縁起の関係に入る、とした。それはおかしいと云ったのがナーガールジュナである。ものが固有の性質を持ったものとして自己完結的に存在しているのならば、それが他のものと関係するのは不可能ではないか。大乗仏教はここから起った。先ず有るのは縁起(関係)であり、諸のものは縁起によって有る。だから、諸のものは「無自性」であり、「空」である。「縁起のゆえに無自性、空」とはそれを云う。

2.場

 このように「空」は「無」ではない。空だからこそ、そこでは、多様な関係を通じて、諸々のものが生じ、成長し、滅している。まさに空とはそこにおいて諸々のものが活躍する舞台に他ならない。量子論ではこの空を「場」と呼んでいる。ものは「素粒子」から成るとして、量子論においては、「素粒子とは場に起る状態の変化として出現するものである」とされる。

つまり、素粒子なる「もの」が存在するのではなく、「場」に起る「状態の変化」が即ち素粒子なのである。

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朝永振一郎は『量子力学的世界像』で、場に起る状態の変化を電光板の上に現れる光点に喩えている1。図のように、ボードに沢山の電球が縦横に配列されていて、それが次々と順を追って点滅する。我々には「もの」がアからイへ「動いた」ように見えるが、実際には、夫々の場所で、そこに固定されている電球が一瞬、点って消えただけである。素粒子とはこの電光板の上に現れる光点のようなものに他ならない。つまり、それは「場」(電光板)に状態の変化(光の点滅)として現れるものであり、何か或る「もの」がアからイへと動いたのではない。

 同じことは、仏教では「草を焼く焔」に喩えて主張される。倶舎論にいわく、

有刹那故定無行動。然於無間異方生中如焼草焔行起行増上慢2。

 有刹那なるが故に、定んで行動すること無し。然れば無間に異方に生ずる中に於いて、草を焼く焔の行くが如く、行の増上慢を起すもののみ3。

 焔相続中仮立燈号。燈於異処相続生時。説為燈行。無別行者4。

焔の相続の中に、仮に燈の号を立つ。燈が異処に於いて相続して生ずる時を、説いて燈行ずと為す、別に行ずる者無きなり5。

 草原に火を点けたとき、我々は「焔」が草原上を「動いて行く」と見るが、実際に起っているのは、次々と、隣接する草がその場所で燃え上がっては消えて行くということだけである。それは、電光板で順次、電球が点滅して行くのと全く同じである。

3.自己同一性

 もう一度電光板に戻ろう。

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図の電光板で、Cの光点はもとAにあったのがやって来たのか(A→E→C)、それともBにあったのがやって来たのか(B→E→C)を問うとしよう。明らかに、そのような問いには何の意味もない。何故なら、そもそも「何か」が動いた訳ではないのだから。素粒子とは場に起る状態の変化であった。上記のことは、素粒子が「自己同一性」を持たないことを示している。

 自己同一性を有しないとは、名前をつけて区別することが出来ないということである。米粒が二つある場合には、それらは互いに区別出来るから、例えば一方に a、もう一方に b と名前を付けることが可能である。それで、二つの箇所AとBに二つの米粒を置くには二通りの仕方が存在する。即ち、(Aに a、Bに b)と(Aに b、Bに a)とである。一方、状態の変化として、AとBの二つの場所を光らせる仕方に何通りあるかを考えて見る。これは明らかに一通りしかない。ということは、素粒子はどれもみな同じであり、互いに区別出来ないのである。


4.法の相続

 2で見たように、「素粒子」は「電光板上の光点」に喩えられ、一方、「草を焼く焔」はその光点と同じ振舞をするのであった。では、「何」が「草を焼く焔」に喩えられているのか。

以下、これについて順を追って見て行こう。

 仏教では事物を「法(ダルマ)」と呼ぶ。この法について、「諸法無我」ということが云われる。つまり、事物の本性は無我であり、実体がない、と。

 先に引用した倶舎論は小乗の一派である「説一切有部」の教えを集大成したものであるが、法は一刹那の存在であるとされる。法は一刹那の間だけこの世界に有る。従ってそのような法に運動はないというのが、先の「有刹那なるが故に、定んで行動すること無し」である。

 これをもう少し詳しく云うと、法がこの世界に生起するのは他の諸法からの働きかけ(因、縁)に依るが、そうして生じた法は一刹那の間だけ存在して、あとは自発的に滅する。「有刹那」とは一刹那だけ有るということであり、従って、それは云い換えれば「刹那滅」ということである。このように諸法が次々に生起しては消滅する、その流れが事物なのであり、我々も例外ではない。このような法の連続は「相続」と呼ばれる。上記の引用文で「草を焼く焔」に喩えられているのは、まさに、このように相続して続いて行く法に他ならない。

 ところで、ゼノンの背理に、「飛ぶ矢は飛ばない」というのがある。矢は、各時点において確定した位置にある(そうでなければ、矢はどこにあるというのか)、だから、矢は飛ばない、と。これが背理であり得るのは、時間の前後を通じて不変な「矢」という実体があるとするからである。一つの実体が、夫々の時点において、夫々特定の位置を占めるとすれば、それは飛んではいない。これに対して、倶舎論の世界ではこの背理は生じない。矢を構成する諸法は刹那滅である。

それらの諸法は、その場で一瞬にして消滅する。次の刹那には、すぐ近くの別の場所に、別の諸法が一瞬間だけ生起して別の矢を構成する。かくて、あたかも一つの「矢」なるものがあって、それが「飛んでいる」ように見えるのである。それは、電光板で、「何か」がアからイへ動いたと見えるのと同じである。これは、矢だけの話ではない、この世界の全ての事物について云えることである。何故なら、あらゆる事物は諸法の相続としてのみ存在するのだから。

 さて、説一切有部は、法は一刹那の存在ではあるが、それは「有る」のである、と主張する。この派が「説一切有、部」と呼ばれるのはそのためである。同じ小乗でも、経量部は、法は「仮」であると見た。さらに、大乗の中観派では、法は「空」であると説く。それが1で見たナーガールジュナの主張である。

 このような違いがあるにしても、法の本性は無我であり、実体がないとする点では、どの派も共通している。それは三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)の一つとして、初期仏教の時代から主張されて来たことであった。この「諸法無我」は、実体のないものの相続という意味で、量子論の「素粒子とは場に状態の変化として現れるもの」という見方に通じるものである。

5.自我

 さて、では、仏教のいうように、全ての事物は刹那ごとに生じては滅し、前後を通じて不変な実体というものが存在しないとするならば、青年の太郎が老いても同じ太郎であるなどということは不可能である。だとすれば、仏教で修業ということを強調したところで、何の意味もないことになろう。

 これは仏教にとって大問題であるから各種の説が提出されたが、その一つが「唯識」説である。唯識では、「現行(げんぎょう)」が「種子(しゅうじ)」として「阿頼耶識(あらやしき)」に「熏習(くんじゅう)」されることによって、自己同一性が保たれる、とする。

 これを簡単に説明しよう。

・現行とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識(まなしき)の七識が現に生起
して活動したところを云う。
・末那識とは、阿頼耶識を対象に、それが「自分」であるとして執着し続ける心である。
・阿頼耶識とは、蔵識とも呼ばれるように、種子を内蔵する場である。

 さて、現行は、第八の識である阿頼耶識に種子を熏習する。そうして熏習された種子は現行を生み、あるいは自らと同じ種子を阿頼耶識に生む。このように、現行と種子とは、「現行熏種子」、「種子生現行」、「種子生種子」という動的関係にあり、そうした関係を通じて、若い太郎は、太郎として、成長し、老いて行く。

 いずれにしても、人間とは「識の転変」に過ぎず、自己などというものは存在しないが、阿頼耶識という蔵があることによって同一性が保たれているのである。その転変の様は「暴流(ぼる)の如し」6と云われる。これに関連して思い出されるのがヒュームの「知覚の束」説である。ヒュームは、人間とは「想像を絶する速さで互いに継起し、絶え間ない変化と動きの只中にある別々の知覚の束・集合に過ぎない」7と云う。唯識における「識の転変」がヒュームでは「知覚の束」とされている。それらの知覚を担う「何者か」は存在せず、人間とは「知覚の束」に過ぎない。

 唯識では種子の熏習説によって人格の同一性を確保したのであるが、ヒュームはあくまで同一性を否定する。ヒュームによれば、人間とは知覚の束に過ぎないけれども、それらの知覚は類似や因果関係で緊密に結ばれているので、それを観察した「私」は、その知覚の束に同一性を帰するのである。では、他人の知覚の束に同一性を観察するこの「私」の同一性はどこから来るのであろうか。これに対して、ヒュームは、知覚以外に自我と呼ばれるようなものは存在しないのだと主張する。ヒュームは云う:「私が自我と呼ばれるものの内に見つけるのは、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快などの個々の知覚であり、それ以外のものは決して観察しない」8。

6.重ね合わせ

 こうした点について量子論ではどう考えるか。観察者がいようがいまいがこの世界は存在し、そこでは物理の法則が成立している、これが古典物理学の見方である。それに対して量子論では「観察」という行為が重要な役割を果す。以下、これについて見て行きたいが、その前に、2で紹介した電光板の喩えは素粒子の持つ性質の一面を伝えるためのものに過ぎないことを注意しておこう。素粒子はこの他にも色々と意外な面を有するが、それら全てを電光板の喩えを使って説明出来る訳ではない。

 先ず、電子のような素粒子は一つ二つと数えることが出来るのであるが、では一個の電子はどこか特定の場所にいるのかと云えば、そうではない。ボーアをはじめとするコペンハーゲン派の見方によれば、電子は「波」のように広がっているのであるが、我々が電子を「観測」すると電子の波は「収縮」し、電子はどこか一点で発見されるのだという。

 電子が波のように広がっているとは、電子が「重ね合わせ」の状態にあるということである。電子は「或る場所にいる状態」と「別の場所にいる状態」とが重ね合わさっている。ただし、それは「電子は A 点と B 点の両方に同時にいる」ということではなく、また、「電子は A 点か B 点のどちらか一方にいるのだが、どちらにいるかは分らない」ということでもない。「一個の電子が A 点にいる」状態と「同じ一個の電子が B 点にいる」状態とが、同じ一個の電子の中で重なり合っているのである。

 観測していないときには重ね合わせの状態にあった電子は、それを観測した瞬間に一点に収縮する。どの位置に収縮するか、つまり電子がどこで発見されるかは、「確率」的に決まる。

これがボーアらの考えたことで、何とも奇妙な見方である。しかし、電子は、我々がそれを観察しようがしまいが、いつでも特定の位置にあるというような従来の見方を続ける限り、あいついで発見された各種の実験結果を矛盾なく整合的に説明することは不可能なのである。それほど素粒子は、我々の直感とはかけはなれた振舞をするということが実験であきらかになった。
 この新しい見方を推し進めて行けば、人格の同一性どころの話ではなくなる。次節ではそれを見てみたい。

7.シュレーディンガーの猫

 一時間以内に原子核崩壊を起す確率が 1 / 2 の放射性物質があるとしよう。鉄の箱の中にこの放射性物質と放射線の検出装置、そして検出装置に連動した毒ガス発生装置をセットし、そこに生きた猫を入れて蓋を閉じる。原子核崩壊が起れば、毒ガスが発生し猫は死亡する。

さて、一時間が経過したとして、猫は生きているか、死んでいるか。これが有名な「シュレーディンガーの猫」の問題である。
 猫の生死は、蓋を開ければすぐに分る。シュレーディンガーが問題にしたのは、蓋を開ける前の猫の状態をどう考えるかという点である。

 量子論では、観測前の放射性物質の状態について、原子核崩壊を「起した状態」と「起していない状態」とが半分ずつ重ね合わさっていると考える。そして、猫の生死は原子核崩壊の有無と完全に連動している。だとすれば、猫の状態も重ね合わせになっていると考えざるを得ないではないか―これがシュレーディンガーの提起した問題である。つまり、整合性を保って考える限り、猫は「原子核崩壊が起きて死んだ状態」と「原子核崩壊が起きずに生きている状態」とが半分ずつ重ね合わさっているとせざるを得ない、と。

 この問題に対しては多くの物理学者が説明を試みて来たが、誰をも納得させる解答は未だ見つかっていないという。

8.実在

 量子論以前の物理学では、我々の周りの世界は、我々とは独立した存在であると仮定されていた。つまり、世界は、我々がそれを観測するかどうかに係わりなく、そこにある、と。これを「実在」性の仮定と呼ぶことにしよう。

 量子論以前には、もう一つ、「局所」性も仮定されていた。相対性理論が主張するように、二物体間に瞬時に物理的影響が働くことはないという仮定である。

 さて、1965 年、ベルは、実在性の仮定と局所性の仮定とがともに正しければ、或る種の不等式が成立つ、ということを数学的に証明した。これが「ベルの不等式」と呼ばれるものである。その後、この不等式を検証するために多くの実験が行われたが、1982 年、遂に、アスペは、ベルの不等式は成立しないことを実験で示した。

 二つの仮定がともに正しければベルの不等式が成立する、ところが、アスペの実験によって不等式は成立しないことが分った。従って、実在性の仮定が間違っているか、局所性の仮定が間違っているか、のどちらかである。

 量子論のコペンハーゲン解釈は既に 1920 年代に確立されていたが、コペンハーゲン派が主張していたのがこの実在性の否定である。
 ボーアによれば、「電子とは本当は何であるのか」を尋ねるのは無意味である。物理学はこの世のものが何であるかを述べるものではなく、この世のものに関して何がいえるかを告げるものである。

 量子力学以前、科学者は、我々のまわりの世界は、我々とは独立した存在である、と仮定していた。つまり、我々がそれを観察するか否かに係わりなく、世界は存在する、と。月は見たときにだけあるのではない。しかし、ボーアにとって、電子とは、事実上、それを観測するときにだけ出現するものである。

 日常生活においては、我々は、「弾丸が的に向って飛ぶ」というとき、発射点から着弾点までの間、弾丸は一本の軌道上を飛んでいるものと信じている。他にどんな可能性があろう。

しかし、電子は違うのである。始点と終点とは確定しているが、それらを結ぶ一本の定まった経路というものは存在しない。どのようにして始点から終点に至ったかは問えないのである。

 結局、ボーアの考えでは、量子力学とは、時刻t1と時刻t2とで行われる二つの観測を関係づけるアルゴリズムを供給するものである、ということになる。例えば「電子」というのは、一つの「モデル」であって、それによってアルゴリズムが出来、特定の結果を予言出来るのである。それ以上のことを問うても意味がない。我々はt1とt2との間で何が起っているかを知り得ないし、知る必要もない。

 このようにコペンハーゲン派は実在性の仮定を捨て、局所性の仮定は残したが、逆に、実在性の仮定を残し、局所性の仮定を捨てたのがボームらの「量子ポテンシャル論」である。

 コペンハーゲン解釈では、波として広がっていた電子が観測によってどの場所に見つかるかは確率的に決まるとしたが、そうした「確率解釈」に強硬に反対したのがアインシュタインである。彼の「神は賽を振らない」という言葉はよく知られている。それを受けて、ボームは、電子の見つかる場所は偶然に委ねられているのではなく、我々には知られていない未知の「隠れた変数」がそれを決定しているのだとした。これが、実在性を肯定し、決定論の立場に立つ量子ポテンシャル論である。

 実在性の仮定を捨てない立場としては、このほか「多世界解釈」がある。コペンハーゲン解釈では、「一個の電子が A 点にいる」状態と「同じ一個の電子が B 点にいる」状態とが同じ一個の電子の中で重なり合っている。観察によって波は収縮し、電子は A 点か B 点かいずれかで見つかる。これに対して、多世界解釈では「一個の電子が A 点にいる」世界と「同じ一個の電子が B 点にいる」世界とが重なっている―同時進行する―と考える。波の収縮は起らない。この多世界解釈をとれば「シュレーディンガーの猫」のパラドクスは生じない。

世界は可能性の数だけ枝分れして行くので、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」とが並行して存在する。そして我々も、「生きている猫を見る我々がいる世界」と「死んでいる猫を見る我々がいる世界」の二つに枝分れして存在しているのである。

 多世界解釈が何故このような奇妙な見方をするかと云えば、コペンハーゲン派のいう「波の収縮」は数学的に説明出来ないものだからである。多世界解釈では、波の収縮を仮定する必要がない。

9.結び

 コペンハーゲン派では、広がっていた波が観測によって一点に収縮すると考えるのであった。コペンハーゲン説は、このように、観測行為というものに決定的に特別な物理的意義を与える。観測とは別に、何か独立した世界がある訳ではない。どういう観測をするかに応じて世界が形成されるのである。

ジョン・ホイーラーはそれを特別版「二十の扉」に喩えている9。この特別版「二十の扉」では、あらかじめ「答」は決まっていない。私の発する一つ一つの質問に対して、先方から「はい」か「いいえ」かの返事が返って来る。それらの「はい」「いいえ」が積み重なることで「答」が決まって行くのである。即ち、それらの「はい」「いいえ」の系列に矛盾しないものが「答」なのであり、従って、その「答」はゲームを始める前には存在しない。しかし、だからといって、その「答」に辿り着いたのは私の力だという訳ではない。その原動力は「はい」「いいえ」を返した先方にある。そうではあるが、一方で、私が別の質問の仕方をすれば、それに応じて「答」も変わっていただろう。以上を量子論について云えば、観察に応じて世界が形成されるのであるが、観察に対してどう反応するかを決めているのは先方―世界―である。

 こうした見方を唯識説のそれと較べてみよう。「唯識」とは単に「ただ主観的な認識作用のみがある」という意味ではなく、「客観と主観との両者を含めたあらゆる存在はすべて、ただ表されたもの、知られたものに過ぎない」という意味である。唯識説は、あらゆる存在は認識された姿として立ち現れているだけであって、認識された姿の背後に実体的に何かが存在すると予想してはならない、と主張する。「現実に認められる外的現象と内的精神とはすべて、何か或る根源的なものによって表されたものに過ぎない」というのが唯識説の根本教義であり、この根源的なものが「阿頼耶識」に他ならない。

 最後に、量子論の主流となっている見方と仏教とに共通したところを、整理しておこう。

1.事物は実在しない。事物は「草を焼く焔」あるいは「電光板上の光点」で喩えられる。

2.「縁起のゆえに無自性、空」とは大乗の基本的な見方である。一方、量子論は「場」に適用することで「場の量子論」となる。真空とは「粒子と反粒子が絶え間なく生成・消滅を繰返している空間」である。つまりは、仏教においても、量子論においても、この世界とは関係の場である。先ずあるのは関係の場であり、そこから事物が立ち現れる。なお、特殊相対性理論によれば、ものといっても、それはエネルギーと別物ではない。

3.世界は、我々がそれをどう見るかに応じて出現する。唯識の基本思想は「三界は虚妄にして但だ一心の作るところ」であり、一方、量子論によれば、観察する我々とは独立に観察対象が存在するのではない。同じ一つの電子が「粒」であると同時に「波」であるとは、どう見るか―どういう実験をするか―に応じて粒としても現れ、波としても現れるということである。

 なお、以上に述べた量子論(標準理論)には重力の理論(一般相対性理論)が反映されていない。この二つを総合するものとして「ひも理論」が提唱されている。ひも理論によれば、素粒子とは、振動する「ひも」である。同じひもでも様々に振動し得る。その振動パターンに応じて、一本のひもが様々な素粒子となって現れるのである。それはバイオリンの弦に喩えられる。弦は様々な周波数で振動し、それがド、レ、ミ、…となって現れる。ド、レ、ミ、…は「現れ」に過ぎず、基本的な要素ではない。

 振動とは響きであり、同期である。空海は『声字実相義』に「五大にみな響きあり」と云っている。この宇宙の全ては響きとして存在するのだとすれば、それはひも理論の見方に他ならない。

注 1.朝永振一郎(1965)47 頁 2.世親(大正巻二九)68 頁 3.西義雄(1935)中巻 206 頁 4.世親(大正巻二九)157 頁 5.西義雄(1935)下巻 497 頁 6.横山紘一(1996)139 頁 7.D.Hume(1978) 252 頁 8.同 9.P.C.W.Davies and J.R.Brown(1986) 邦訳 38 - 9 頁