昨年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」は我々日本国民に明智光秀と織田信長に新しい角度で光を当て、本当に面白かった。

最終話、エンディングは予想通り光秀生存説を匂わすイメージを採用した。


私は、光秀=黒衣の宰相「天海僧正」説に非常に興味があった。だが、天海が死亡した年は寛永20年1643年と正確に記録され本人も107歳であるとして亡くなった。明智光秀は1528年生まれであることから、もし天海が光秀なら115歳で亡くなったことになってしまう。
現代でも115歳まで生きればギネス的に世界長寿である。可能性はゼロではないが、光秀=天海説の最終結論はわたしのなかでは残念ながら「否」であった。

近年光秀と天海の筆跡から光秀と天海は別人であるとと断定されている。ただし、光秀と天海には共通する部分があり天海は光秀と接点があった可能性があるという。






だが、私は光秀と天海、家康に何かしら隠された繋がりがあることは間違いないと思っていた。もしそうでなければ、光秀重臣の斎藤利光の娘春日局を家光の乳母に採用するはずがない。
家光誕生当時、京都にいた春日局(お福)は乳母の公募に応じたということになっている。だが、いやしくも将軍家の世継ぎの乳母を公募などするはずがなく、通常であれば譜代の家臣に縁のある者が取り立てられてなるものである。

だが、徳川家に縁もなくしかも世間的では主人殺しの謀反人光秀家臣の娘お福がなぜ家光の乳母になったのかどう考えても不自然すぎる。

京都所司代に乳母募集の高札が立てられ、お福(春日局)が応募したら最終面接に残って採用された?作り話に決まっているではないか!よほどのバカでなければ、そんな話を信用するはずもない。天海がお福を推挙した以外考えられない。そもそも三代将軍「家光」の名は、家康の「家」+光秀の「光」ではないか!






諸説あるが、お福(春日の局)を推挙したのが天海であるならば、天海は明智家関係者で光秀に極めて近い人物であると思っていた。具体的には光秀長男 明智光慶あたりかと漠然と思っていました。

先日YouTubeのおすすめ動画で「天海=明智左馬之助」説を見た。

明智左馬之助といえば加藤廣氏の左馬之助の恋を読んだことがある。今でも私の本棚に鎮座している名作である。

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左馬之助の最後は自害であったが天海僧正=
明智左馬之助であれば全て納得矛盾しない。
これで私の長年の疑問が解けた!

「天海=明智左馬之助」これは真実のような気がしてならない。



  

天海=光秀説は古くから伝承としてあったようだ。大正時代最初に天海の伝記を書籍として出版した須藤光輝氏が「大僧正天海」(冨山房)において、天海=光秀説ではなく、天海=左馬之助だともし見抜けていたならば、今頃謎でもミステリーではなく教科書に載る正史となっていたかもしれません。いや今後研究が進めばもしかしたらそうなるような気がしてなりません。

天海が生まれた年と左馬之助が生まれた年が同じであれば天海=佐馬之助の可能性はかなり高い。

天海の墓が、大津坂本の慈眼堂にある理由も理解できる。比叡山焼き討ちを実行した光秀が再建し保護した寺であり、明智左馬之助が関わった寺である。左馬之助は坂本城に戻り自刃した事になっていますが諸説あり不明です。天海と徳川家康とは、天海が天海として徳川家康に会う前から深い関わりがあったのは事実のようだ。

一つ疑問に思うのは天海がなぜ自分が左馬之助であると公にしなかったかということが疑問だ。

あれだけの信頼と権力が有れば、自分は明智左馬之助であると公言し、明智光秀の汚名を返上させることも可能であったかもしれない。それなのに何故公言しなかったのであろうか?

その点が天海=左馬之助説の弱点かもしれない。

私が思うには、天海は明智の復権より天下の安定、徳川家の権力を盤石にすることを選んだのかもしれない。

大河ドラマ「麒麟が来る」風に言えば、光秀が求め、その意志であった麒麟が来る世の中を作ることを優先させたのではないだろうか?

やはり、理由はどうあれ、どう転んでも主君殺しをしたことは免れず、光秀を美化すれば、盤石な幕府にはなれないからであろう。

そこで、天海僧正は、後世わかる人にはわかるよう暗号をかず多く残したのだと思う。

日光に家康の墓所東照宮の建立を進言したのも天海、その奥に広大な空地(あけち)を明智平を命名し、明智が徳川の奥に存在すると暗号を残した。更に比叡山「不動堂」に、わざわざ豊臣家が滅亡した年にあたる慶長20年(1615年)2月17日の日付で「願主 光秀」と名が記された石灯籠を寄進したのだ。

比叡山に光秀という名の僧がたまたま居たとしよう。だが「願主光秀慶長20年2月17日」と入った石灯籠を残す行為は偶然と片付けられるだろうか?そもそも、比叡山を焼き討ちした明智光秀の光秀を名乗る僧が存在すること自体不自然である。

石灯籠を寄進する行為は現代では小金持ちの一般市民がする行為だが、比叡山の僧が寄進することは不自然。主に当時石灯籠を寄進したには戦国武将が戦勝祈願の為に寺社に寄進したものが多い。

明智一族を滅ぼした憎き豊臣一族を滅ぼす戦いである大阪夏の陣が始まったのは同年4月26日、大阪城落城が5月8日、2月17日の日付は夏の陣をやるぞと決行を決めた日付で石灯籠を寄進したと考えると物凄く自然だ。そして解りやすい暗号である。

春日の局を家光の乳母に採用したのは天海の助言であることは間違いないが、熟女好きの家康がふくに産ませたのが「家光」との異説もある。








徳川3代将軍は徳川家光である。2代将軍秀忠の長男で幼少時は竹千代と呼ばれていたが、病気がちであった。一方弟の国松(忠長)は聡明で健康であったために、両親の秀忠とお江夫妻は、兄竹千代よりも弟国松をかわいがった。ここで竹千代の乳母であった春日局が駿府城に隠居していた家康の元に駆けつけて不当を訴えた結果、家康の命令によって家光が3代将軍となったのである。「生まれながらの将軍なるぞ」は家光の台詞で、優秀な老中たちに支えられて「参勤交代」「鎖国」などの政策を行い、立派に将軍としての役目を果たすのである。これが通説である。しかし、家光は初代将軍家康の子どもであるという説があるのだ。

織田信長は天下統一のめどがついて、邪魔になった徳川家康を京見物にこと寄せておびき出して、謀殺しようとした。家康は少人数のお供とおびき出された。一方明智光秀の家老である斉藤利三は、自分が長年友好関係を築いてきた四国の長宗我部家との関係が信長の一方的な判断によって断ち切られたことに怒りを覚えていた。信長は近畿地方を制圧したが、長宗我部も四国全体を手中に収めようとしていたので、三男の織田信孝を総大将とした四国征伐軍が結成された。出発日が天正10年6月2日、まさに本能寺の変の当日であった。利三は自分と友好関係にある長宗我部を救うために、本能寺の織田信長に襲いかかったのである。この結果、徳川家康は命を助けられることになった。家康は命の恩人の斉藤利三の娘であるお福(春日局)を召し出し、子どもを産ませた。そして家康はその子(後の竹千代=家光)を息子である秀忠夫妻に「長男として育てろ」と押しつけた。秀忠夫妻は面白くない。その後彼らに実の子が生まれた。国松(=忠長)である。当然2人は国松をかわいがり、竹千代を疎んじた。あわてた実母の春日局は駿府に駆けつけて家康に直談判(私の子どもの竹千代を将軍にしてください)したわけである。

※2代将軍秀忠は、平凡な男で、関ヶ原の戦の時にも真田幸村との戦いに手間取って戦に参加することのできなかった頼りない遅刻息子である。しかも家康の言いなりである。

※日光東照宮には、家康と家光の廟はあるが、秀忠の廟はない。なぜだろう。

※弟の国松は忠長であるのに、なぜ竹千代が家光なのか?これは家康の「家」の字をもらい、家康の子どもであることを暗示しているのだ。

※斉藤利三は明智光秀の家臣であった。春日局の父である。したがって本能寺の変に首謀者の一人として参加していた。つまり、本能寺の変は明智光秀の謀反と言われているが、協力者に斉藤利三がいたのである。

家光の弟国松は成人して「忠長」となる。秀忠の長男であるから「忠長」・・・・これで決まりかもしれません。