坂本龍一殿、貴方の思想考え方には共感できませんでした、貴方の音楽については最高でした。日本の誇りだと思っていますた。ご冥福をお祈りいたします。
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私は日本の黄金期はバブル期ではなくジャパンアズナンバーワン(1979)の80年代前半だったのではと思うのです。私は1981年水戸から明治大学商学部に入学する為に上京。当時は雑誌「びっくりハウス」に代表されるサブカルチャーの時代だった。、おいしい生活(1982年西武セゾングループキャッチコピー)、音楽はYMO、RCサクセッション(忌野清志郎)が全盛だった。

YMOとRCサクセッション(忌野清志郎)は私の青春時代の儚い夢の日々を思い出す魔法の音楽である。今年(2023年)の1月高橋幸宏さんに次いで坂本龍一氏までも天国へツアーにいってしまった。
晩年の坂本龍一の思想発言は私の思想に相容れないものがあったが、ミュージシャンとしては愛好し、日本のミュージシャンとして誇りに思っていた。
1978年NHKFMでTong Pooをエアチェックした田舎の男子高校生は日本のミュージシャンで世界水準を越えているグループが出現したことを瞬時に確信し狂喜乱舞した。


巨星墜つ【坂本龍一氏・高橋幸宏氏追悼】映像で綴るYMO史【Y.M.O.】イエロー・マジック・オーケストラ Yellow Magic Orchestra 

その後YMOの活躍は今日の日本の音楽シーンを一気に世界レベルへと引き上げYMOは我々新人類世代のテーマソングみたいなものだ。


忌野清志郎は1980年代の反原発運動を積極的に行っていた騎手だったが、清志郎亡き後坂本龍一がその騎手を引き継いだ、い・け・な・いリベラルマジックと私は勝手に呼んでいた。

1月の幸宏さんに続いて教授まで…。細野さん健康に気を付けて長生きしてください。


オネアミスの翼 ...って坂本龍一だったのか!!!!伝説のアニメオネアミスの翼が超名作になりそこねたのは龍一さんがラストエンペラー同様力を入れたら・・・・


ラストエンペラーのテーマ 坂本龍一 the last emperor-theme- ryuichi sakamoto







大谷主水氏がご自身の人生を振り返って9コマ投稿されていましたので、折角ですので1つにまとめました。私は現在苦労していますとブログに書いているのが些か恥ずかしくなりました。


大谷主水 その心は ダイヤモンド


2023/04/03 10:35~2023/04/03 14:35



僕の人生は一体何だろう。人より苦労したのかしなかったのか判らない。

事の発端は都下で評判の高い高校に合格したことだった。当時は不合格でも

相応の高校に回して貰える制度があって、それを期待して高校受験は1校しかしなかった。運悪く分を超える高校に入学することになった。

春休みに課題が出ていたがしなかった。宿題が出ていてもしなかった。夏休みの補習授業も出なかった。その余裕はなかった。まず勉強の仕方を知らなかった。塾などはなかったように思う。呻吟して参考書を何種類も買って

どれも理解が出来なかった。次第に現実の自我と理想とする自我に隔絶する大差を意識するようになり強迫観念に苦しむことになった。これを解決しないことには次に進めないことを自覚した。


運良くか運悪くか家族は遠隔地に転勤していき一人受験勉強するように言い置かれたが、まず強迫症と格闘することから始まった。敵の正体がわからない。周りに教えてくれるものなど一人もいない。文学書・哲学書・新書・文庫本手当たり次第に読みふけったが手がかりはなかった。最後にクセジュ文庫・白水社の「精神力とはなにか」という本に出会った。これに何かの臭いを感じ取った。ひょっとすると精神科的な解決法があるのではないだろうかと。自分なりに処方箋を作った。「出来るだけ理想自我を引き下げること、

そして自分としては最高に理想的な時間の過ごし方をして、成果を出すこと」です。幸い年30万円の全寮制予備校という場所を与えて貰った。


ここで私は規則正しく生活した。朝起きて始まるマラソンと体操、豚の餌のような食事と学習、受講、禁煙、コーヒーは模擬試験日の朝だけ。消灯までひたすら学習。それは思い描いた理想的生活に非常に近かった。模擬試験では国立理系で偏差値71を叩き出したことに凝縮している。この生活をしている間に強迫症は消えていった。名残は少し残っている気もするがほぼ消えている。処方箋は正しかったのだ。高慢にもならず傲慢にもならず控えめで心中誇りを維持するには十分の成果を得た。これは人生の自信と励みになった。やれば出来るんだ。そして行動様式は医者らしくなく普通のサラリーマン生活者と同じようなものとなった。それは今後始まる足かけ5年の新聞少年タコ部屋生活によって培われた気がする。


受験というのは如実に性格が出ますね。怯えて動揺しやすい自分に気がつきました。人生をかけての勝負に弱い。かといって翼を翻しててき空母にダイビングする勇気は持っている。博才がないとでも言った方が正しいかも知れない。

もう大丈夫、今年こそはオール100点で共通一次突破だと意気込んだその朝、首を寝違えて首が痛くて動かなくなった。初っぱなの数学はとったこともない50%。で危機感が最高潮になったら他の科目は95%以上ばかり。

でもしかしながら医学部は無理です。親から散々なじられて失意のサライ。

体力が凡庸なものには新聞配達とハードな受験勉強というのは無理で、やっと決心が付いて働くことにしたのが5年後。この間流行歌の一つも覚えていない。


最後の新聞店で同僚で大東文化大学に新聞店主推薦で入学したものに新聞店はたこ部屋だと不満を言っていたら、そのものが言うには「自分はそう思わない。子供の頃食べていたのは麦ご飯だしお菜は漬物。時々しか肉や魚は食べたことがなかった。ここはいい。白いご飯が出るし何杯でもお替わりできる。働くことは苦ではない。」こういう若者がいたことに唖然とした。

結局、勉強も仕事も上手くいかなくなり、生活費が底をついたため三週間

飲まず食わずで根を上げてしまい、故郷に舞い戻ることになった。家に入れて貰えず、アパートに間借りして働くこととして、勉学の志は諦めた。

選んだ会社は日の出の勢いのコンビニ業界。オーナー制度があって、独立させてくれるという。やるしかないしやる気は満々で1日15時間殆ど毎日店のヤードに泊まり込んで働いた。週1回は風呂と洗濯のためにアパートに帰って寝る。店の創意工夫でみるみる月間売り上げが上がってくるのには驚いた。こういう店は場所が当たるか当たらないかに左右され創意工夫の入り込む余地はないと思っていたからだ。


石の上にも3年という。我慢してせっせと働いた。いつの間にか月間伸び率賞を何度も取っていたが、上層部は何一つ教えてくれなかった。突然店長から本部に上がって営業管理をやれという。結局やることは所轄の15店舗の毎月の棚卸しと結果報告だった。そのうちに東京本部のGメンがやってきてあろうことか地元の僕を手足に使って内部万引きを捕まえる仕事になってしまった。これで決定的に地元コンビニの社員との輪が崩れて東京の回し者、

地元社員の敵とあだ名されるようになった。一人寂しくファミリーレストランで食事をしているところを見られたらしく、あいつはけしからんと何故か言われるようになった。飲み会では決闘を申し込んでくるもの、馬乗りになってこの野郎というものばかりで散々な目に遭っていたら、ヤードで寝起きしていたせいか酷いストレスを抱えてしまったせいか気管支喘息が出始めて働けない身体になってしまった。


会社は営業管理の自分から見て長く待つことはないというか、直ぐにも精算されそうな経済状態だった。賢い奴程早く辞めていく。愚かな連中は派閥争いに明け暮れていた。ボスがいて嫉妬しては無いことないことを焚きつけて人身を纏めていく。会社が安定しているならそれほど怪訝しい話ではないだろうが、もう間近に精算は迫っている。働けない奴は辞めるしかない程厚生福祉は杜撰だった。都合よく人事交代の時がやってきたので寿退社を名目に辞めた。職安で殆ど会社都合で、潰れます、といったら直ぐに失業保険が下りてしかも経理学校に職業訓練でいけることになり、計6ヶ月失業保険を貰えた。その後はある中学生相手の進学塾に勤めながら身体を癒やすことにしたし、するほかなかった。私が辞めて3ヶ月後に会社は潰れて精算し皆首同然で追い払われた。仕事を与えないのはサラリーマンにとっては死刑宣告です。


1年間程進学塾で教えていたら自然と勉強してきたことが整理できた。

今後の人生をどうするべきかを考えることにもなった。こういうときは

全く異性に目が行かないものだなと思った。というのも同僚であった先生が

男女関係になったことが有り、二人で辞めていったら塾が運営できないと

思ったのかどうか判りませんが、生木を裂くようなことをしたのは真実です。女性は電車に飛び込んでしまいました。その後のことは知りません。

私は大学に入ることにし、旧帝大か2期校しか受けられません。100%入らなければもう自分が自裁するほかない。肉体労働も出来ないからです。

運良く国立大に入学しました。年を食った学生が珍しいのか相当いたぶられました。進学塾のバイトをしながら大学に行きつつ、まず歩くことから始めました。JR駅から大学まで歩いて往復していました。ある日走れる気がするので思い切って走ってみたら驚きです、走ることが出来たのです。肺の気管支がポンポンと二度音がしたように感じ息が楽になりました。それから走ることも出来るようになり、メプチンエアにお世話になることが少なくなりました。


やはり考えるのは就職のことです。4年で卒業しても年を食った僕を雇ってくれるところはないだろう。あっても不況で最初に解雇されるだろう。するとどうしても独立自営業。自営業なら定年退職はないから晩稲の不利は避けられる。今からやって成功できることは何があるだろうか。行き着くところ親のすすめに反発して飛び出したが自尊心を満足させてやっていける職業は唯一つに絞られたが高い高い岩根の花である。決めた。命懸けになるがやるほかはない。大学は校舎ががら空きで日曜日であれいつであれ使い放題なので年がら年中好きな教室に入り込み朝の8時から夜の8時まで勉強に次ぐ勉強。決心すれば苦痛なんて全然ないものです。苦痛だったのは進学塾の女性軍。その気はなくて朝から晩までペラペラと暗記をしているのが判ろうものだが、ちょっかいを出してくるので、周りの男性達は悪口ばかり言うように変化した。しかしながら、高校の教科書から離れて学習計画を立てて独学するのはとても楽しかった。教わろうとするから苦痛になるんだなとしみじみ解った。あれこれあって勉強したがさすがに年を取り過ぎていて偏差値は70以上には伸博才のない自分は博才のない自分は成績通りの成果を期待するのが難しく、やはり失敗を繰り返して最後に私立大学医学部に滑り込みました。以上です。聞いてくださってありがとうございます。