Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ(仮)

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、私の脳の外部記憶媒体としてこのブログに収めています。日々感じること、発見したことを記録していきます。同時にそれが、このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

カテゴリ: 田園都市ライフ

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令和参年(2021年)2021年は「辛丑(かのとうし)」である。この2つの文字が意味する2021年は、「辛」とは、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)の8番目である。 陰陽五行説では金性の陰に割り当てられており、ここから日本では「かのと」(金の弟)ともいう。金性は、土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。また、の字は同音の「新」につながり、植物が枯れて新しい世代が生まれようとする状態として、8番目に宛てられた。 西暦年の下一桁が1の年がの年となる。「紐」(ちゅう:「ひも」「からむ」の意味)は、後年作り話として干支の「牛」を割り当てたが、牛という意味ではない。芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされ、指をかぎ型に曲げて糸を撚ったり編んだりする象形ともされる。

辛丑」とは続くが、今まで陰に隠れていた強固なものが表に現れ、新たな秩序や仕組みが作られる年ということをあらわす。

60年前1961年4月12日はソ連が初の有人ロケット・ボストーク1号でガガーリン少佐が人類として初めて宇宙空間に到達した。※米国はそのわずか23日後の5月5日アラン・シェパードが米国人として初めて宇宙空間に到達した。

120年前の1901年は、米国でマッキンリー大統領が暗殺され、副大統領であったセオドア・ルーズベルトが大統領となった。1900年に起きた義和団の乱における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する北京議定書が締結され、義和団の乱で活躍した日本が、世界の覇権国であった英国と翌年結ばれた日英同盟の交渉が始まった年である。

なにやら、状況は似ている。キーワードは中国と米国の混乱である。

今のところ不確実ながら、習近平は脳の手術を行ったとか、手術は失脚した言い訳だとか、不確実ながら習近平失脚説が流れています。バイデンが大統領にならなかった場合、中国は中国共産党体制にヒビが入る可能性が高い。また、1月6日の米両院合同会議で、下院議員の異議申し立て議員が140人を超え、上院議員も米共和党のジョシュ・ホーリー上院議員(ミズーリ州)が名乗り出ており、テッドターナー上院議員、ロン・ジョンソン上院国土安全保障政府問題委員会委員長もホーリー議員に続き同調すると思う。それによりトランプ大統領の再選が決まるかもしれない。

今まで地上波でしか情報を取らず、ネットでもこういった問題に関心がなかった人々はいったい何が起こったか衝撃をうけるであろう。

2021年は何が起きるか?当ブログは歴史の目撃者として記録し、自分の意見を世界に発信していきたいと思います。

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遅ればせながら自宅用PCもWindows10になりました。

起動が難しくなり、会社での10の操作も慣れてきたので、大雨でしたがドスパラでPCを選び、購入してまいりました。

3時近くに自宅に帰り、一週間分の食糧の買い出しや夕飯を作ったりで、ようやく先ほどとりあえず更新はできるようになりました。これからエクセル/ワードのインスツール、旧PCから取り出したHDを外付けハードディスクとして設置、カメラの設置を行う予定です。ウッUSB差し込み口が6つでは足らない・・・100円ショップにUSBハブスイッチ買いに行かねば!

雑談】人事異動や昔話 S&Pの話

わたくしは、某金融機関に勤務し、かれこれ34年が過ぎました。先月末4年半ぶりに異動の辞令をいただきました。

現在わたくしは57歳、定年間際でございます。営業の第一線から退きバックオフィスで事務やコンプライアンス、時には蛍光灯を交換するなど、比較的気楽な仕事をしておりました。PCトラブルやエクセルの相談、時には人生相談など、とにかく何か問題が起きると相談され、支店の皆さんから頼りにされて、忙しいけれど充実した毎日を過ごしておりました。このまま定年退職かと思っていましたが・・・我が社はそう甘くはありませんでした。

わたくしが入社した当時から有名企業でしたが、体育会系の金融機関と陰口をたたかれる厳しい職場環境(超ブラック企業)ではありました。が・・・、私の読みはある程度正しかった。入社を決めた段階で読み通りバブルが発生し空前の好況になったが、やだの大学生にその5年後にバブルが崩壊し、つらく厳しい環境下になるとまでは読めなかった。

しかしながら、製造業より証券金融は正しかった、そして我が社は生き抜いた・・・・

就職する際には人気ランキング外でしたが、現在わたくしが勤務する会社は幾つかの人気就職ランキングでベスト10入りし、某ランキングでは文系人気第2位になっておりました。

おかげで最近の新入社員はMARCHクラスより一つ上の出身者が多くなり、新入社員はなぜか皆TOEIC 800点以上は持っていた。一番高い得点ははなんと有名女優の姉を持つT君の940点でした。ですが、今月末今年の新入社員でTOEIC910点の早稲田出身N君が人生初めての挫折をしたらしく、ご家族の都合という理由でですが残念ながら退社するそうです。支店営業は泥臭い仕事で、ハイスペックな人材にはちょっとやりづらかったのかもしれません。ちなみにN君の同期K君はTOEICの点数は知りませんが必要ありません、NY生まれの慶応NY出身のネイティブです。彼も・・・しれないので、「3-4年ここで普通の成績を残せば君は本部の海外部門の人材要員だから・・・、当店はそういう店だ、若手は皆本部に異動している」と、励ましておきました。

我が社は2000年代前半までサービス残業当たり前で、朝6時過ぎに出社し夜10時か11時頃に退社、下手をすると一日16-17時間働いていました。「年休」という単語が当社では「死語」だった時代に比べると隔世の感があります。※今は19時以降の残業ができない為に、朝に関してはまた管理職クラスは皆7時前に出社しています。

確かに女子供女性や若者には、非常に好待遇です。20代~30代の女性社員は産休・育休を繰り返し、平均子供の数は2-3人が当たり前で、時短や福利厚生実に恵まれています。
女性支店長は当たり前で、役員も女性比率的にはかなり高い会社かもしれません。

ですが・・・ブラックマンデー、バブル崩壊をかいくぐってきた我々50代男性社員にとっては、相変わらず別な意味で少々厳しい職場環境のままでございます。若手・女性を厚遇すれば中高年の男性が割を喰うのは当然の帰結であります。私にも一応妻子がいて養っております。家内が働かなくては、ローンも娘の授業料は払えません。男女雇用機会均等法は、結果からすると、専業主婦を家庭から社会へ追い出し、安い労働力(派遣さん)を供給することに成功した法律だったかもしれません。

話をまた今回の人事異動についてに戻ります。相変わらず会社はいつまでも「楽」をさせてくれませんでした。現在当社は駅前の一等地の路面店舗から空中店舗に次々と移転が行われており、バックオフィス部門も劇的に集約化中です。

9月まで当店は男性3人女性3人で事務管理しておりましたが、10月の異動で、当店に本部直属の事務集約センターが設置され、当店も含め6支店2営業所の事務を引き受けることとなりました。今までは、なんとかギリギリで19時退社で処理しておりました。再来週の月曜日以降人員は異動で合計10人となりますが、今回初めて営業からバックオフィスに来る定年間際の素人も混ざっており、どう考えても従来通りのやり方で、6店舗+2営業所分の事務仕事をこなすことは到底不可能に思います。合理化という名目で、おおよそ1/3の人員で事務を処理するのが会社の意図です。まともにやったらできるわけがありません。不可能です。

ですが、毎度毎度押し付けられる本部からの無理難題を、現場の私たちは毎度毎度やってきたのです。数年前まで営業をしていた時、私も、死に物狂いで目標数字をやり遂げてきました。たとえ私が駄目な時でも、必ず誰かがやり遂げて、日々綱渡りの毎日でした。

それが日本という国なのであります。かつての帝国陸の参謀本部や海軍軍令部の作戦計画は杜撰で酷いものでありました。しかしながら現場の将兵の鬼神の努力と踏ん張りで、なんとかしてきたのだと思います。戦国時代英雄と称えられる戦国大名の多くも、無名の家来衆・地侍や
最前線の侍大将・足軽達の犠牲の上に成り立っていたのだと思います。


話をまた、現在の当社の話に戻します。
S&P(スタンダードアンドプアーズ)は米国の有名な信用格付け会社ですが、当社ではS&Pはセクハラ・パワハラの隠語です。私が入社した頃はセクハラ・パワハラは、当たり前で・・・「バカヤロー」は「おはようございます」か「こんにちは」。「数字ができるまで帰ってくるな!」は「がんばれよ」程度の響きにしか感じておりませんでした。

30年前のPは、今思えば、現代の基準では立派なモラハラで立派な犯罪でした。よく物が飛んできたり、なぜか金属製の職場のごみ箱や灰皿、机の引き出しなんかがよく変形している職場環境でした。プラスチック製のそろばんで殴られ球がはじき飛んだり、プラスチックの定規が折れたことなどかわいいほうで、小銭入れで頭のてっぺんを殴られたときの痛さは筆舌できません。でも、小銭入れで頭を叩いた上司は私が大きなお客様を開拓したり数字ができると、一緒に泣いてくれたりしてくれた人情もある熱い熱い職場環境でもありました。

とはいえ、深夜に会社の寮で統括次長に皆で正座させられご指導を受けたり、受話器を手にガムテープで巻きつけて営業させたり、深夜神社に集合させられた話など今では都市伝説の類せすが、皆事実です。ちなみに、当時寮で野良猫を飼っていました。マサオ(支店長の名前)と名前を付けられた猫は悲劇でした。マサオは毎晩誰かに理由もなくひっぱたかれていました(笑)。

S行為についてはちょっと書きにくいのですが、ストレスやプレッシャーが高い職場でしたので・・・私も含めて、S行為は会社の裏文化でもありました。漫画「課長島耕作」で描かれた80年代~90年代の初芝電器産業以上に、とても男女関係は自由奔放な時代で、80年代バブルを体現した
会社でした。今の基準で言うと思いっきりSハラです。ここではあえて書きませんが、事実は小説よりも奇なり、都市伝説的なドロドロな事件の数々の事件は、ひそかに語り継がれています。

しかし、ご多分に漏れず
時代の変化は当社も例外ではありません。あれほど乱れた男女関係が絡まっていた社内環境でしたが、私が知る限りはほとんど品行方正です。もちろん現在ではS行為は、絶滅しております、ほぼ皆無といっていいでしょう。Sっぽいことは、時代の流れで、冗談さえも一切言えません。男性同士の会話でも発言には気を付けております。

未婚者同士が結婚を前提にお付き合いするなら話は別ですが、社内の人間と不用意に男女の仲となれば、うまくいっている時は良くても、恋には必ず終わりがくるのは自然の摂理、人生終わってしまいます。セクハラは女性に圧倒的に有利に働きます。たとえお互いに求めあっていたケースですら、男女の仲の場合、女性がセクハラだと申告すれば男性社員は即、諭旨か懲戒解雇です。賢い男性は、たとえどんなに本能で「行ける!」と判断したとしても十数年前から会社の女性は、異性として対象外それが正解・・・

時代の変化に取り残された愚か者は悲惨です。仲が良かったY君は支店長になってすぐ舞い上がったのか速攻で部下をホテルに連れ込み、刑事事件にはならなかったのですが、懲戒解雇です・・・。つい2年前同じ店のIT君が突然子会社へ異動となり半年後に退職しました。私と仲の良かった派遣のHYさんが、会社を辞める直前、私(Ddog)に、「人事部にIT君を通報したのは私だと」、そっと教えてくれました。普段から偉そうにしていたIT君が、人妻のHYさんをホテルへしつこく誘ったとのことでした。親友だったY君の女癖の悪さは学生時代から周知していたので、Y君もIT君も自業自得で同情はできません。私なんか、HYさんと二人きりで飲みに行ったのはHYさんが会社を辞めてからですよ・・・賢いでしょ(笑)
※ちなみにHYさんとは男女の仲にはならないことにしました。なぜなら、辞めたあとも社内の人間と、連絡をしていることをヒアリングしたので、ここはイメージをこわさず好い人のままでいました。

その昔G丘支店にB次長という明るいセクハラおやじがいました。今でいうセクハラな発言を連発するは、女の子の穴はしょっちゅう撫でるわで、もうハチャメチャでしたが、緊張感が漂う職場の雰囲気を和ませて、皆から愛されておりました。私も50代になったらB次長のような明るいセクハラ親父になりたかったのですが・・・・

時代は変わりました、
明るいセクハラ親父になる私のささやかな夢はどうやら叶いそうにありません。(;´д`)=3トホホ・・.

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土曜日にPCショップに行きます。

しばし更新はお待ちください
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三日目の朝である、連日のハードな聖地巡礼だが、本日のメインは鞍馬山~貴船~鞍馬山の巡礼登山である。

朝は毎日日の出前に眼が覚める、7時前に食堂へ行ったが用意はされていなかった。

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なぜかガランとしている。
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朝ごはんまで暫く時間があったので町屋を街歩きすることに。
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ホテルの朝の外観である。
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古い町屋に溶け込んでなかなかいい感じである。
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ホテルから100mほどの距離に1晩8時~8時まで350円の駐車場があり車を停めた。

散歩中見かけた高辻通りの
はいい感じでしたが、7:30からの朝ごはんがあるので通り過ぎてしまいました。
そして朝ごはんである。朝ごはんというよりブレックファストである。
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見ての通り、おいしかった。

紫雲山頂法寺六角堂
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京都に5年間住んでいたにもかかわらず、なぜか六角堂を参拝していなかった。
あまりにも近所すぎていつでも行けると思っていたせいもあるが、メジャーなお寺としてはおそらく最後のお寺ではないか?いやもしかしたらまだいくつかあるかもしれません。京都の奥深さは底がしれません。
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室町時代、寛正2年(1461)の飢饉にあたり、人々が集まってくる六角堂の門前で炊き出しがおこなわれました。応仁の乱後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになります。
また、日本を代表する祭礼の一つ、祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていました。これらのことから、六角堂は京都の中心と認識されるようになりました。
六角堂周辺は、京都の商業の中心地である。

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 平安時代から今も続く京の噂 縁結びの六角柳

平安時代初期、妃になる女性を探していた嵯峨天皇の夢枕に六角堂の如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」とのお告げを受けたため、人を遣わしてみると、柳の下には一人の美しい女性が立っており、天皇はただちに妃として迎えました。この話から「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」という噂が広がり、「縁結びの柳」と呼ばれるようになりました。青々と茂った枝が地面すれすれまで伸びる姿から「地ずり柳」とも呼ばれます。

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正面からではわかりにくいが、側面から見るとお堂は六角形だ
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六角堂の北側に、聖徳太子が身を清めたと伝えられる池の跡があります。この池のほとりに、小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、「池坊」と呼ばれるようになりました。代々六角堂の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中でさまざまな工夫を加え、室町時代の「いけばな」成立に至ります。東福寺の禅僧の日記『碧山日録』には、寛正3年(1462)に池坊専慶が花を挿し、京都の人々の間で評判になったことが記されています。

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池坊専応口伝

室町時代後期の16世紀前半、池坊専応がいけばな理論を確立し、一般に『池坊専応口伝』と呼ばれる花伝書を著しました。そこには、単に美しい花を観賞するだけではなく、草木の風興をわきまえ、「よろしき面影」を大切にするという高遠な美意識がつづられ、それが悟りの境地につながるものだと説かれています。この教えは、歴代の家元によって継承され、現在も生き続けています。

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家元道場

境内東部に位置する家元道場は、いけばなにとって神聖な場です。毎年1月5日には初生け式がおこなわれ、全国から集まった門弟たちが、一年間稽古に精進することを誓います。また、4月中旬の「春のいけばな展」と11月中旬の「旧七夕会池坊全国華道展」では、家元をはじめとする作品が並び、内部が公開されます。旧七夕会は、江戸時代に後水尾天皇から開催の許しを賜ったと伝える、由緒ある花展です。
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唐崎社
境内の南東隅にある唐崎社は、六角堂の鎮守です。御祭神の唐崎明神は、「唐崎の松」で有名な琵琶湖畔の唐崎神社(滋賀県大津市)の神様で、比叡山延暦寺とも深い関係があります。かつては明星天子菩薩とも称していました。社殿には、祇園社(八坂神社)と天満宮(北野天満宮)の神様が合祀されています。
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十六羅漢

羅漢とは、仏の教えを護り伝えることのできる優れた僧侶に与えられた名前です。十六というのは、方位の四方八方を倍にした数で、あらゆる場所に羅漢がいることを意味しています。

六角堂の十六羅漢は、「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践し、いつもにこにこしています。いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあるという教えです。
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へそ石

山門をくぐると、右前方の敷石の中央に、中央にまるい穴があいた六角形の石があります。門前の六角通りにあったものを、明治時代初期に門内へ移したもので、六角堂が京都の中心とされたことから、体の中心であるへそになぞらえて「へそ石」と呼ばれています。また、平安京造営時、本堂の位置に道を通すために祈ったところ、堂が少し北の現在地へ移動し、もとの位置に石が一つ残ったという伝説から、「本堂古跡の石」ともいいます。

鞍馬寺
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ほぼ真北に鞍馬寺へ、参道入り口のおみやげやさんの駐車場へ1日500円でした。
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ここから参道である。
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なめた格好である。
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鞍馬山修養道場
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仁王門(山門)
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仁王門(山門)
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山門を出たケーブルカーに続く参道
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鞍馬寺が運行している寺参詣用のケーブルカー。設置は昭和32年(1957年)

車両は1両、線路は一直線で僅か、200メートルの路線ですが、徒歩で登ると30分、下りで15分かかるそうです。ケーブルカー乗り場は普明殿という建物の中にあり、ケーブルカー車両の乗車人員は少ないためシーズン中は非常に込むそうですが、私たちが乗った回はさほど混んでいませんでした。
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image096つい、美しい景色を撮りがちで、取ってしまうのですが、玉置神社と同じく関西空港が水没したあの巨大な台風21号(2018)は玉置神社を参拝した後 鞍馬寺に参拝しておりました。九十九折参道などあの北山杉の美林は破壊されつくされていました。回復にはあと10年~20年はかかるでしょう。
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巽の弁財天社
学芸・財宝を司る福神、弁財天を祀る。
水琴窟も付設されている。
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中共ウィルスの患禍は、こんなところにも。多くの神社仏閣では参拝前に手を清める手水が、分散した流しっぱなしの水道であったり止めて空になっていたりしましたが、鞍馬寺では生け花の器にしておりました。
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本殿に続く最後の階段
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本殿 宇宙の大霊、尊天のお働きを象徴する千手観音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊(脇侍、役行者・遮那王尊)を奉安する中心道場。御本尊は秘仏で、60年に一度、丙寅の年に開扉されます。次の丙寅は6年後、2026年(令和8年)です!

本殿の地下は、宝殿で信徒の清浄髪が厳かに祀られています。写真を撮りたいほど幻想的でしたが、禁止でしたので・・

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狛犬ならぬ「阿吽」の虎は、本尊毘沙門天のお使いである神獣。毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされていることによります。五十音が「あ」から始まり、「ん」で終わることから「阿吽」は、宇宙の全てを包含すると言われています。

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本殿前の六芒星=ダビデの星の前では長蛇の列です。次々人がくるので下の写真は借り物です。

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本殿金堂前の金剛床は、宇宙のエネルギーである「尊天」の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し、内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものである尊天と一体化する修行の場となっていると、寺の説明です。「尊天」とは千手観音菩薩毘沙門天護法魔王尊の三身が一体になった形而的な崇拝対象の鞍馬寺のご本尊のことです。

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スピリチャル系の説明では鞍馬山の尊天は、月輪の精霊であり愛の象徴「千手観世音菩薩」、太陽の精霊であり光の象徴「毘沙門天王」、大地の霊王であり力の象徴「護法魔王尊」の三身です。もともと鞍馬山は毘沙門天を本尊として祀っていましたが、「毘沙門天も観世音も根本は一体である」という夢のお告げを受け千手観音も併せて祀ることとしました。その後、祀られるようになった護法魔王尊と併せ、現在のような三身一体の本尊を尊天とする形となりました。尊天の真言は「オン バサラ ダルマ キリベイ シラマナヤ ダルマ ハラマソ バミウン ソワカ」これは千手観音、毘沙門天、護法魔王尊三身の合体真言で、通常の法会(説法・供養の集まり)などでは唱えられず、師から弟子に教えを伝えるときや、5月の満月の夜に執り行われる秘儀「ウエサクさい」(五月満月祭)で唱えられるそうです。

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ところで「護法魔王尊は金星からやってきた」という話をきいたことはありませんか?

これは昭和22年(1947年)に鞍馬寺が天台宗から独立したあと広まった考えです。独立後は「鞍馬弘教」という宗派として活動しているようです。

鞍馬弘教には「護法魔王尊はサナト・クマラである」という考えがあります。

サナト・クマラとは「永遠の若者」という意味のインドの神様。ヒンズー教では創造神ブラフマーの息子です。少年の姿のままで一生独身を貫きました。ブラフマーの宇宙創造を手伝ったあとは宇宙をさまよい、ヴィシュヌやクリシュナ、シヴァの神話にも登場します。

神智学の世界ではサナト・クマラは地球の創造主ロゴスから派遣された霊的指導者(マハトマ)とされます。1850万年前に金星からやってきました。人類の進化をサポートしているとされます。

この神智学の考えが「ニューエイジ」の元になっています。ニューエイジとは1960年代以降アメリカで始まった精神(スピリチュアル)世界の流行のことです。ニューエイジではサナト・クマラはアセンテッドマスターとされます。アセンテッド・マスターとは「人の魂を高次元の存在(ハイアーセルフ)に導くためのサポートをする存在」です。

これだけ聞くとわけがわからないかもしれませんが。要するに「人間の修行を助けてくれる指導霊」です。ご利益のある神様ではありません。

鞍馬弘教では「護法魔王尊は650万年前に金星からやってきた」とされ。鞍馬(クラマ)は「クマラ」から変化した言葉とされます。
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中央の三角はてっきりパワーが降りてくる場所か印かと思っていたのですが、
後から知ったので「もはやおすし」ですが、三角は三位一体の尊天を表すものなので、踏んではいけないのだそうです。しっかり踏んでいます。
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この写真は中央の三角から真上を撮った写真です。
どうですか!雲ひとつ無く、宇宙から降りそそぐパワーで満ち溢れている・・・と思えば、満ち溢れています。
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本坊(金剛寿命院)
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奥の院、貴船神社に抜ける西門の入り口である。
昨日大神神社登山でお疲れのSさんにどうしますかと聞くと、行くとのことだったので出発です。
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鞍馬寺、山内コース
山門からケーブルを利用て本殿往復の「安楽の道」から、山門から貴船に至る西門まで歩く「修行の道」まで様々なご参拝の道があります。体力・体調・目的に応じて色々な道をお選び下さい。
鞍馬寺山内案内図
鞍馬寺山内案内図

鞍馬寺山内案内図
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奥の院 参道
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冬柏亭 與謝野晶子書斎
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写真ではよくわかりませんが杉の木立の間から遠くに京都市内が見えます。

清少納言の「枕草子」の遠近の章段に鞍馬山についてふれられています。

【原文】
近うて遠きもの。宮のべの祭。思はぬはらから、親族の仲。
鞍馬のつづらをりといふ道。師走のつごもりの日、睦月のついたちの日のほど。
遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の仲。

【現代語訳】
近くて遠いもの。宮のべの祭。親しくない兄弟姉妹や親族との仲。
鞍馬寺のつづら折りという参道。大晦日から元日までの間。
遠くて近いもの。極楽。舟の旅路。人間関係。
清少納言がいうところの近くて遠いものはつづらおりの参道ことを書いたのだが、都の住人にとって鞍馬寺は近くて遠いものなのかもしれません。

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木の根道
根が地表面でアラベスク模様を描くのは、この辺り一帯の砂岩が、灼熱のマグマの貫入によって硬化したために根が地下に伸びることが出来なかったためできたものです。
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大杉権現社
木の根道の先には大杉権現社がありましたが、砂岩の為
根が浅かったため2018年台風21号の暴風雨の直撃で倒壊していました。
この辺りは、大杉苑瞑想道場と呼ばれ、護法魔王尊のエネルギーの高い場所として知られていましたが、杉の茂みが消えたことでパワーを感じることができませんでした。

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不動堂
僧正ガ谷不動堂は、伝教大師(最澄)が天台宗立教の悲願に燃え、一刀三礼を尽くし刻んだ不動明王が安置されている堂。

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奥の院
魔王殿」は太古、護法魔王尊が降臨した磐坐・磐境として崇拝さ れてきましたた。

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奥の院~西門への道はかなり厳しい
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Sさんはかなりへたってきましたので、先に降りていきました。
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やっとなだらかになったので、S夫妻を待つことに、「おや・・・降りてくる人が少ない」、暫くするとやってきましたが・・・どうやらS夫妻が渋滞の先頭でした。後ろにはぞろぞろと多くの人々がぞろぞろ・・
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本堂を10時に出て、西門に11:30でした。まあSさんのペースに合わせたせいでしたが、帰りはどうなるか・・・
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貴船川をまたぐ橋のところにでます。
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ちょうどお昼時、貴船神社参詣よりもお昼ごはん!・・・・
川床は通常予約制なので、入れないだろうとたかをくくっていましたが・・・
顔の広い元芸子のSさんの知り合いのお店に行くと、OKとのこと昨晩の豪華な夕ご飯に引き続き、二度ほど川床の流しそうめんを頂いたことがあるが、流しそうめん以外初めての川床を経験することができた。
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でも~高いんだよね~、今回の旅行は家内が出すから知らんけど
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麗しの川床!かつて京都に住んでいて遣り残した心のこりの一つでした。
それにしても、風流である、深い緑に明るい赤い提灯、色のバランスが良い。自然を取り込む巧みさは我々日本人の誇りである。
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夏、京都の三条や四条あたり、鴨川沿いの料亭にはずら食事ができるスペース「納涼床」が並びます。日の沈んだ以降は確かに室内よりは涼しげですが、日中食事をする貴船の川床とは似て非なるものです。木陰を流れる水量豊かな渓谷は、道路の温度より数度は低い感じです。「清涼」という言葉がぴったりです。
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メニューが着ました
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月曜だったので6700円ミニ会席を頼んだが本日は祝日なので用意していないとの事。おもわず、裏をめくったが・・・・ドリンクのみでした・・・迷わず「竹コース4つ」。
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ちょっとはしたないのですが、どうしてもやりたいことがあった。

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川床は川面から約30㎝。「ああ、気持ちよい」できたらそのまま川面に飛び込んだらもっと気持ちよかろう。

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さあ、料理が運ばれてきました。
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先付と八寸
先付は抹茶風味のゴマ豆腐、クコの実
八寸とは寸(約24cm)四方の木盆に、海の幸や山の旬の幸を盛ったもの。
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向付 刺身ゆば

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焼物 あゆ いままで食べた鮎の中で一番美味しかった。

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炊合せ ですが、そうめんとえびでした。
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蒸し物 はものあんかけ

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天ぷら イワナの天ぷら

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ご飯
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水物
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貴船はとっても狭い道で次々に車がくるから、大変な渋滞となります。
ご飯をたべている間30分ほどまったく動きませんでした。
貴船神社にこの時間帯に行くのは自殺行為です。地元の人達が必至に交通整理してやっと動きました。しかし渋滞に撒き込めれていたのはベンツやBMWなど高級車ばかり、擦りたくないのはわかるが、貴船に車で来ることはどのようになるか・・・知らないならばお気の毒というか情弱です。 
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奥宮に参拝したあと本宮に参拝、けっこ長蛇の列
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S夫妻はここでリタイヤ、とても来た道は戻りたくないとのこと。
一旦叡山電車の貴船口駅まで歩いて戻って鞍馬駅へ向かうとのことでした。
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私達は、来た道を戻ることにしました。なんと、あの険しい奥宮まで10分、本殿までさらに20分、たった30分で戻ってこれました。
ケーブルカーで多少待たされましたが駐車場まで45分で帰ってこれました。
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上賀茂神社に久々に参拝
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松栄堂 京都本店に寄ったところS夫妻のクラウン そこで暫し談笑、次は冬至(12/21月曜)の伊勢神宮にでも行きますか?という話になりましたが、私は今回の定期異動で異動となりましたので、はたして行ける環境かまだわかりません。

5時過ぎに松栄堂の駐車場をでましたが、久々の激しい渋滞を経験しました。
いつものように王将餃子京都東インター店でご飯を食べ、いつものように大津SAでお土産を買い帰路につきました。

7時過ぎ東名は東名横浜町田を先頭に50kmの渋滞!第二東名は新城~岡崎で事故渋滞。久々に東名経由で帰りましたが、途中富士川SAで力尽き、2時間ほど仮眠。自宅に到着したのは午前2時前でした。


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【聖地巡礼】 GoTo聖地巡礼の2日目である。

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AM7:30朝食バイキングである。ナイロン手袋をはめマスク着用!
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私の一の膳

旅館の朝食はなぜに美味しいのか?

旅館の朝食ほど美味しいものはないと思っているが、ビジネスホテルのビュッフェといって、ばかにしてはならない。これが期待を上回る絶品朝食でした・・・素材はごく普通の食材でしたがとにかく美味しかった! なんでだろう?

料理の味は精神的なものに大きく左右されるような気がします。気の合う仲間とバーベキューの味、公園やドライブ途中の車の中、ピクニックで食べるお弁当の美味しさ、といったように同じ料理を食べてもその場の雰囲気で美味く感じます。ラーメン屋さんでも、小汚いけどそれなりの雰囲気があるお店のラーメンはおいしい。高級なフレンチレストランもお店の雰囲気が美味しさの半分じゃないだろうか?

普段とは違った環境が、脳内物質の分泌や呼吸器系統、消化器官などの働きが整えられ、ホルモンバランスや自律神経にもよい影響をもたらされるとのことです。温泉への入浴は、縄跳びと同じくらいの消費カロリーがあります。カロリーを消費してお腹が空けば英語の格言にある”Hunger is the best spice”空腹は最高のスパイスになる。

この日も朝食前朝の5時過ぎから朝風呂に入り、色鮮やかなビュッフェは視覚的にもとてもおいしそうに見えました。そしてとっても美味しく感じました。

料理の「味覚」もさることながら、「視覚」「雰囲気」が料理の美味しさを決めていると言っても決して過言では無いと思います。

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朝食後8:30ロビー集合ですが・・・♪いつも私が待たされた♪

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その間 無料のコーヒーを頂いて待ちます。2~3杯飲んだところで大丈夫です。

ちなみにマックのコーヒーの原価は2.5円だそうです。


なんだかんだで、9時ちょっと前にチェックアウト

大和國一之宮 大神神社

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ホテルから大神神社へは車10分弱 歩いても行ける距離です。

令和2年9月7日より参道整備工事の為、二の鳥居前の駐車場は利用できなくなっていた為踏み切り前の無料駐車場を利用しました。

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神輿の時に着たハンタコと地下白足袋に作務衣で登ります。
ちなみにマスクは赤坂日枝神社コロナ退散祈祷済み まさるマスクです。

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大神神社鳥居 これで3回目の参拝になります。

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本殿
ご祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。大物主大神を三輪山そのものとして、神として鎮まってもらうために、祭られた。元々は本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える形式の我が国最古の神社といわれています。
※国重要文化財の三輪鳥居は新型コロナウイルス感染拡大防止の為、当分の間、拝観中止です。

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私が知る限りは、最古と称している神社は阿蘇熊者の山中にある幣立神宮は15000年前ですが、幣立神社が実際に創建されたのは延喜年間901年 - 923年wiki)だと思われます。
大神神社が記録に登場しているのは少なくとも嘉祥3年(850年)であるが、それよりはるか前にはあったと推定される。伝説等から推定される創建年代は国主命推定年表が正しければ大神神社創建は大国主命の死後発生した国譲り騒乱(西暦45年)前後ではなかろうか?
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祈祷殿前で記念写真だが、どうも家内の水晶ブレスレットの一つが消えたらしい。
どこで消えたかは定かではないが、この写真を撮ったところまではあったらしい。

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登拝道に向かう久すり道 拡大するとまだ家内の腕についていた。
一応探したが、見当たらず、おそらく水晶は大神神社のご神体の一部になりたかったのであろうと皆で納得し、登拝手続きへ。

三輪山登拝は、「狭井神社」での受付が必要です。
※受付所にて申込用紙を受け取られ、申込用紙(表面)に「住所」・「氏名」・「携帯電話の番号(緊急連絡先)」など必要事項をご記入し、はじめての方は登拝心得のレクチャーを受けます。
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大神神社のご神体「三輪山」は、太古の昔より神さまの鎮まる神聖なお山で、禁足の山として入山が厳しく制限されてきました。

近代になり、熱心な信者の方々の要望もあり、特別に入山を許可することとなり現在に至っていますが、もちろん三輪山への登拝は「お参り」が主眼であり、観光や一般の登山・ハイキングとは異なることに十分留意し、敬虔な心で入山いただきます。

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怪しいコスプレ登山ではありません、真剣です。

午前10時過ぎ登拝開始です。この時間には既に登拝用杖はなくなっていました。

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お三輪山は標高467mですが標高比して勾配もきついところが多く、往復4kmにすぎませんが、最近は体調不良を起こし消防の出動を要請する事例も多くなっているとのこと。
水は350ccペットボトル1本ではちょっと足らないかもしれません。※個人的感想

S夫妻は姉さん女房、70手前の奥様のペースで途中まで登りましたが、待っていられるのがご負担に感じられたようで、山頂でお待ちしていました。

二人仲睦まじく登る姿は夫婦タヌキのようでした(笑)かなり待って山頂で合流。
何度もリタイヤしかかったようでしたが流石祇園の元芸子、ねっからの負けず嫌いの意地で登ってきました。

下山途中リタイヤしようかとと悩んでいた人達に「あとちょっと」と励ましながら下山してきました。

12:20頃下山。S夫妻を登拝口で待っていると、入山時間が14:00までと思っていた方々が登拝できないことを知り、悲嘆の声をあげていました。

13時頃ご夫妻が下山してきました。ご神水を汲んで、お昼ごはん。
S夫妻のご主人の強い希望で、本場三輪そうめんとなりました。

たまたま人が並んでいなかったので、鳥居から一番近い福神堂

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S後夫妻は冷やしそうめん
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我々はぶっかけそうめん。
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カキ氷 抹茶白玉あんこ 2つ注文しそれぞれシェアしたがとってもおいしかった。

三輪惠比須神社
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由緒
 
三輪の惠比須神社は市場の守護神、言霊の神、託宣を司る神さまとして、多くの人々に親しまれ尊崇されてきています。
日本で最初に開かれた市場は、海石榴市(つばいち)と呼ばれる市で、三輪山の南麓の金屋というところで、初瀬川の川べりに物々交換の市として開かれました。
 時代はおよそ奈良時代以前と考えられていますが、平安時代の女流作家清少納言は『枕草子』に「いちはつばいち」と述べています。

欅のご神木は樹齢約六百年余りとも云われ古より夫婦欅とも云い伝えられています。
良縁を求める方、恋人同士添われないとき、片思いの方などこの欅に触れて願えば思いが達すると伝えられています。
欅の根元にある白石の一つだけ拾い、お賽銭を入れ願い事を一つだけ願います。
かなうそうです。願いがかなったらその白い石をお返しします。

室生龍穴神社
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創祀年代は不詳。

現在の祭神は、高靇神(たかおかみ)だが、拝殿には「善女龍王社」とある。弘法大師が神仙苑に雨乞いを行った際に現れた龍王で、その形像は、雲に乗る竜神の背に立つ唐の官人の姿に描かれ、その左手には宝珠を盛った鉢を持つ。龍そのものではなく、龍を統べる女神。

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我が家に飾ってある高靇神(たかおかみ)のイラスト。

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室生龍穴神社御由緒
祭神 高靇神
配祀 天児屋根命 大山祇命 水波能賣命 須佐之男命 埴山姫命

主神 高靇神は、伊邪那岐大神其御子 迦具土神を斬り給へる時生れませる神にして、 水火を司るの威徳を具へ給ひ、晴雨を調節して 国土民生を安じ給ふ。
蓋し、農を以て国の本とする我国古来の伝統 的民族信仰として旱天に慈雨を祈るの風朝野を 挙げて後を絶たざりし所以にして木津川、淀川の上 流の当地に此大神の鎮まります事深く故なしとせず。 随って古来歴朝朝野の信仰篤く祈雨止雨の奉 幣に預り給ふ事度々にして神階は度々昇敍されて 應和元年正四位下に敍せられ給ふ。延喜の制 貴船丹生等の社と列びその神威赫々たる官幣 の小社に列せられ所謂式内社として近畿一円に 衆庶の信仰篤く以て今日に及べり。
配祀の祭神は古来聚落の叢祀に奉斎せしを 明治末年に合祀せり。
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3回目にして社務所が開いていました!!!幻の龍穴神社の御朱印をいただきました・・・

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龍穴神社奥宮
境内にある案内図があります。龍穴の入り口。

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拝所
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龍穴
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招雨瀑

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右側の招雨瀑に向かって柵があります。その一番端で龍穴と招雨瀑で祈願

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拝所にて祈祷 前回この拝所で瞑想するとクラクラ地震ではないかと思うくらい揺れを感じましたが、今回はなぜか感じませんでした。

前回どなたかがクリスタルボールを叩いておりました。
その時自称クリスタルボール奏者のSさんはものづごく悔しかったようです。
今回リベンジを果たして満足げでした。

京都市内へ

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途中大渋滞でした。途中SAで今晩の夕ご飯を相談、Sさんご推薦の行きつけの懐石レストランへ行くことになりました。
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途中の夕焼けは見事でした
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家内のスマホで写したショットですが、なかなかいい写真が撮れませんでした。
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紫から方向にもよりますが空の表情がかわります。
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本当にきれいな夕焼けでした。
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到着した時は19時を回っておりました。

和食庵さら
 
住 所 〒603-8172 京都市北区小山初音町9
TEL075-496-1155
営業時間 [昼]12時 ~ 14時 [夜]17時30分 ~ 20時(最終入店)
定休日 月曜日 ※祝日の場合は翌日火曜日
座席数 カウンター/7席 テーブル/3卓 お座敷/7~18名
夜は1名様 6,000円(税込)~
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自家製ゆずジュース ゆずの蜂蜜漬けが甘くて美味しい
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先附 季節の取り肴
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ふたを開けると みやび~!
薄味で、季節の素材の美味しさが絶品、えび いくら くり こいも
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吸物 ぐじ なす 木の芽
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ぐじ、とは、アマダイの日本の福井県・京都府における地方名。一般には浜で水揚げされ、背開きにして洗い、塩をふって鮮度が落ちないよう処理したものを指し、京都では高級食材とされています。
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向附 鯛 はまち 鮪
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強肴 蒸し鶏 無花果
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油物 かきもち揚げ ?
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はも しいたけ ピーマン
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焚合 ずいき葛葱煮
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Sさんが 「おっとのごよう」を頼んだので何かとおもえば
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つま ようじ でした。祇園時代にお使いになっていたそうです。
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おつけもの
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御飯
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赤だし ちなみにお茶碗は、おかわり中です。
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水物 梨 葡萄

いやー贅沢な時間でした。お会計は二人で14000円ほどでした。
日常の食事よりゼロが一つ多かった・・・自分たちのお金で食べる京懐石は2回目でしたが、Sさん行きつけのお店でしたので大満足でした。20年ほど前に行った際はぼられた感じの酷いものでしたが、今回は出した値段相応のお食事でした。

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どこが四条烏丸なんだよ~高辻通りより一本南の松原通り新町通り上るじゃないか!どちらかというと五条に近いじゃないか!

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過剰に拾い間取りでした

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こじゃれた お茶セット
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恵比須神社近所のお店でS夫妻が買ったいちじくをお裾分けしてもらったのをお部屋でいただきました。
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家内は寝ると言うので夜間外歩きをしたかったが、鍵が一つしかなく、鍵を持ち出すとエアコンが切れてしまい泣く泣く寝ました。


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花窟神社
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9月18日 23:20自宅を愛車にて出発。

23:00に家を出たのだが、財布の中身が2000円ほどしかなかったのだが、気にせず出発した。だが、昨年の夏至夫婦岩日の出~元伊勢日没参拝巡礼のおりもそうだったことが、金を一切私が払わなかった前科持ちだったため、今回は家内に、「今日下してきた、お小遣いまさか財布に入れてきたでしょうね!」私が、「いや・・」と言うと、「そんな料簡だからあんたはダメなのよ、今回は一切出さないからね」と、咎められ、泣く泣く途中引き返し、諭吉さんを補充したので、出発時間が遅くなった。

4連休の前日であるため、第二東名も車が停止するほどの渋滞はなかったが、なかなか制限速度の120km以上で走れる区間がすくなかった。それでも深夜の第二東名は快適でごきげんなドライブでした。SAはどこも深夜にもかかわらずどこも混雑。最初の休憩は毎度の新岡崎SA 7/11のコーヒーがレギュラーしかないのは不満!

第二東名~伊勢湾岸道路~紀勢自動車道路の奥伊勢PAエリアで約1時間ほど仮眠。
5:20
奥伊勢PAエリア出発、午前7時ちょうどに花窟神社(はなのいわやじんじゃ)に到着、途中1時間の仮眠を含めて約8時間走行距離約500km、平均リッター18kmで走行プリウスαの燃料メーターはまだ余裕

早速 聖地巡礼必須アイテム5円玉50枚!を取り出す。

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清浄な参道を抜け
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1枚目の5円玉は 伊弉冊尊(いざなみのみこと)に捧げます。
これは私達の熊野巡礼の恒例行事です。

今月、家内は九州の山鹿市にあるパワースポット君が代で詠われた「巌」ではないかと言われる「不動岩」を見てきたのだが、花窟神社の壁面と同じだったという。



日本書記に「 一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や)かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。

花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。

南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。

此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文9年9月、及び元禄8年11月四至限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。

伊弉冊尊の反対側正面には軻遇突智尊(カグツチノミコト)が祭られています。

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『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記されます。カグツチは、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神です。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。その血と肉体からは多くの神々が生まれたとされます。


熊野大社本宮 約50km8時ちょうどに到着

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日本一の大鳥居
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大斎原
8:15本宮脇の駐車場に移動、今回の聖地巡礼を同行する千葉のS夫妻と合流。
S夫妻は家内の友人である。ご主人は千葉県内で会社を経営、Sさんは元京都の祇園甲部の元芸子さんである。強烈な奥様の個性には、毎度楽しませていただいております。今回は我々に内緒で熊野に前泊したとのことでした。
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祭殿内

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これは私の左手でございますが、右手(スマホを持っています)ともども聖地に行ってお参りをするとこうやって強烈に熱く感じるのであります。写真でもうっすら赤くなっていることがおわかりだと思います。
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授与所では、熊野大社特製疫病終息マスクが置いてありました。

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お土産として1つ頂いてまいりました。

1時間ほど滞在し、9:45熊野大社の奥宮玉置神社へ

玉置神社 10:30前に到着

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いつの頃からか、玉置神社は「呼ばれないとたどり着けない」「日本一のパワースポット」などと言われるようになったが、これで3度目の玉置神社である。

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前回玉置神社と天河神社へ参拝に行った際は玉置神社のみでご祈祷を行ったので、今回は天河神社でご祈祷を行う予定でしたので、献酒だけ行いS夫妻のご祈祷にお付き合いをした。

ご祈祷料は一人5千円。ところが、担当宮司さんが強烈な個性の家内を覚えていていていただいたおかげで、S夫妻のご祈祷のはずでしたが、私達もちょっとご祈祷していただきました。

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2018年9月に参拝した際ご祈祷を受け、戸隠神社へ行きなさいとのお言葉を貰い、直ぐに参拝したことも報告した。


インターネットで検索すると、「呼ばれないとたどり着けない」「日本一のパワースポット」などと書かれている、もしそれが本当なら私は神様に気に入られたのかしら?

玉置神社は紀元前37年、崇神天皇の時代に悪魔退散のために創建されたと伝えられていて、平安時代より、熊野三山の奥の院とも称されてきた。

深山幽谷の玉置山は「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産にも登録されている。3万平方メートルの玉置神社境内は 永らく聖域として伐採が禁じられていたため、温暖多雨の気候と土壌に恵まれ、樹齢3000年と 言われる神代(じんだい)杉や、常立(とこたち)杉、大(おお)杉などの巨樹を含む杉の巨樹林が成立しました。が、2018年の台風21号の直撃の跡は、2年経っても未だに痛々しい。

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境内にある神代杉は、被害をまぬがれている。樹齢3000年。8メートルを超えるとされる幹の太さ、空に向かって手を広げているような枝ぶりは、太古の時代からこの場所で生きてきた威厳と圧倒的な生命力を感じさせる。

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神代杉

人は3つの点があつまった画像を「人間の顔」だと錯覚してしまう。これをシミュラクラ現象と言い、パレイドリア効果の一種である。杉の木立に沢山の顔が見えるのは
シミュラクラ現象なのでしょう。

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神代杉

平安時代より、玉置神社は修験道の霊場としても栄えた。享保12年(1727)からは、修験道の本山、京都の聖護院が実権を握り、200人もの僧侶が生活していたという。

しかし、慶応4年(1868年)に神仏分離令が公布されると、十津川村でも廃仏毀釈の動きが活発化し、聖護院も玉置神社を手放さざるを得なかった。社務所には聖護院時代の豪奢な襖絵が残されていて、参拝者に有料で公開されている。襖絵はお寺にあるもので、神社にあるのは珍しいそうだ。

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玉置山の頂上を目指した。その途中にあるのが、玉石社。社殿がなく、丸い玉石を礼拝する古代の信仰様式を残していて、玉置神社の基となったと伝えられている。「玉を置く」から玉置神社というわけだ。

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古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、 玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。

社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。
玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を 鎮めて祈願したと伝わっています。

昔、役(えん)の小角(おずぬ)並びに空海が拝して、如意宝珠を埋めた所といわれ、又丸い玉のような石が置かれてあるところから、玉置の名称が起こったとも伝えられています。

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山頂です。途中けっこう急峻な斜面でした。

この時点で元芸子のSさんは60代後半、何度もギブアップ宣言を出しましたが、「ここでギブアップでしたら明日の大三輪神社参拝は一人でお留守番しますか?」と茶化すと、負けん気で登ってきました。さすが祇園で鍛えられた負けん気は立派です。

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山頂から駐車場への道は尾根づたいでなだらかです。

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標高1000mの駐車場からの絶景 最近近くに空中の村という観光施設ができています。
12:30

天河神社

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玉置神社から天河神社は72km1時間44分ですが、これは深夜の時間帯です。国道168号はだいぶ整備されて直線も多く2時間弱14:20に到着しました。最後の20km弱の県道53号は相変わらずのすれ違い困難な箇所がああり、私の後ろにつけたS夫妻のクラウンは2度ばかり100mバックをするはめになりました。

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さっそく、ご祈祷を申し込んだのですが・・・・なんと要予約制・・・
ご祈祷を受けることはできませんでした。

玉置神社でご祈祷した2時間後に天河神社でご祈祷は節操がないのでよかったかと・・・
我々もご祈祷うぃ受けないつもりが実質ご祈祷だったので、神様は見ていたのでしょう。

また、次回に持越しです。

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家内達が諦めきれずリモートでのご祈祷を申し込むとのことで、その間気になっていた南朝黒木御座所跡へ行ってみた。

南北朝時代には、後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇が、天川郷を南朝奥吉野の拠点としていた。

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天川を拠点とした南朝方の行宮は、天川村の数か所にあったといわれており、御所の坊もそのひとつである。後醍醐天皇の第3王子、大塔宮護良親王が十津川に逃げ出したとき、豪族竹原八郎が仮宮殿を建ててかくまった御所の跡。

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天河神社に何回来ても心が落ち着く、ご祈祷がなくなったので本殿で暫く瞑想することにしました。

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拝殿へ続く石段。独特の凛とした空気に包まれています。

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中共ウィルス禍のおかげで、ソーシャルディスタンスを保ち順番に参拝できるよう柵が設けられていました。

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天河神社の独特の拝殿スタイルは、なんとも美しい。大きな五十鈴がある拝所から巨大な会談階段が続き、踊り場があって、更に階段があってお社があります。芸能を司る神様「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)※市杵島姫命は辨財天様としても信仰されております。」が鎮座する最上段お社から、奉納する音楽や舞踏を神様に見ていただくような広い舞台があり、夜な夜な様々な芸能が奉納されます。

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巨大な五十鈴を今回は鳴らすことができませんでした。

天井から吊るされた鈴はどう見てもUFOにしかみえません。天河神社は俗に言う「そっち系」とか「スピリチャル系」といったマイルドカルトとでも言う人達の信仰を集める聖地となる理由の一つかもしれません。当社社員でスピリチャル好きのご婦人がいて、私がスピリチャル好きでパワースポット巡りが趣味の一つだと言うと意外だと驚いていました。私が天河神社を含め聖地巡礼に行くと言ったところ、「是非お土産に天河神社の鈴が欲しい」とのことでしたので一つ買いもとめました。

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2800円でしたが・・・まあギリギリ見栄を張れる限界ですかね
(´_` )トホホ 

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参拝後 椅子に座り瞑想をすると、煙にいぶされたような涙があふれ出てきて、境内のなかにいた小一時間涙が止まる事はありませんでした。わたくしの修行が足らない心と体が浄化されたのかもしれません。
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私は、天河神社参拝後橿原神宮にも参拝する。一種のルートとなっている。
Sご夫妻は名前は聞くが参拝したことが無いという。私は是非とも参拝してくださいとお勧めしました。



創建が明治23年であるせいか、平安神宮(創建明治28年)と同じくそっち系スピリチャル系の人達には玉置神社や天河神社ほど人気はありません。圧倒的神々しい伊勢神宮にも劣らないほどの神気を橿原神宮は持っています。大和三山の一つ畝傍山が神宮の背後にどっしりと構え、境内が広く明るいせいか深山幽谷の玉置神社、天河神社とは異なり、伊勢神宮の幽玄さとは対照的な明るい光に満ちたパワーを感じます。
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創建が明治時代とはいえ、ここに神宮が建つ由緒は十分にある。
現存する日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、橿原は日本建国の地と記されています。
天照大神血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと;後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、苦難を乗り越え、畝傍山うねびやまの東南の麓に橿原宮を創建されたと書かれています。

残念ながら遺構等がこの地より発見されてはいません。しかしながら、神武天皇が初代天皇として、今からおよそ2,600余年前この橿原の地で、今日の日本国の礎となる大和朝廷を興したと記録されているのであるから橿原神宮は日本の原点ともいえるでしょう。

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橿原神宮がお祀りしているのは、第一代神武天皇と皇后の媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)です。神武天皇は、天照大神の天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より四代目に当たり、正式には「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」ですが、神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命は、統一日本以前の競合国の一つであった出雲政権の大物主命の御娘に当たる方です。

日本の国の成立が「国譲り」すなわち政略結婚による比較的平和裏な統一が為されたとされる傍証のようなものです。

ある意味日本人の思想基盤である十七条の憲法「和をもって貴と為す」の原点がこの神宮にはあり、日本人が持つ和の思想を体現していると私は思います。

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聖徳太子が定めたとされる十七条憲法とは、官僚や貴族に対しての規範を示し、和と仏教を尊ぶ思想で政治を行うことを宣言したものです。背景に神道・儒教・仏教・道教などさまざまな思想や宗教が習合されています。

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十七条憲法の第一条の原文は次の通りです。

「一曰。以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨亦少達者、是以、或不順君父乍違于隣里。然、上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。」『日本書紀』第二十二巻 推古天皇十二年より抜粋

「以和為貴」は孔子の『論語』にある「以和爲貴、無忤爲宗。」「和を貴しと為す さかふること無きを宗とせよ」という言葉からの引用であるという説もあります。

「和を貴しと為す」を強調し「無忤爲宗:さかふること無きを宗とせよ」を隠していると曰わう輩がいますが、「以和爲貴、無忤爲宗。」の解釈は「和をなによりも大切なものとして、争わないようにしなさい」という意味として表現されることが一般的であり、多くの日本人はそう解釈しています。

十七条憲法の十七条目の冒頭に書かれている「夫事不可獨斷、必與衆宜論」の意味が「大事なことは一人で決めず、みんなで議論して決めなさい」という意味であるから、「和をもって尊しとなす」は和を大切にしなさいというだけの意味ではなく、わだかまりなく話し合うことことが尊いことだ、という意味であって、「
無忤爲宗」は話し合って決めたことを破るものではない、法律を守りなさいと解釈すべきだと私は思います。

長山稲荷

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橿原神宮の末社ですが、橿原神宮御鎮座以前からこの長山の地にお祀りされており、橿原神宮の御造営・御鎮座を御加護したとされ、開運厄除・五穀豊穣・商売繁盛の御神徳を持つ霊験あらたかな稲荷社です。もちろん会社を経営されているSご夫妻にとって外すことのできない参拝スポットでした。

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GoTo聖地巡礼の第一日目のお宿はビジネスホテルですが、ホテルルートイン桜井駅前です。中共ウイルス患禍騒ぎが始まったばかりの2020年1月31日に開業した新しいホテルです。

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通常料金11700円~のところGoToトラベルキャンペーン価格6700円!朝食駐車場付きです!

今回の【
聖地巡礼】ツアー名 GoTo聖地巡礼はもちろんこのGoToトラベルキャンペーンからいただきました。

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フロント(公式HPより)
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大浴場(公式HPより)
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私達の泊まったお部屋です。
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なぜ桜井市内を選んだかといえば翌日の大三輪神社登山に備えてです。
ただ・・・最高のホテルサービスと朝食だったのですが・・・

夕飯は居酒屋で胃をお清めをしようと考えたのですが、桜井駅前にはお清めするお店の選択肢が少なかった。

夕飯を食べに車ででかければ、不自由はないのですが・・・胃のお清めとなると車は使えませんでした。

結局お清め場所は地元の鳥を扱う居酒屋大和農場 千鳥にしました。

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Sご夫妻との羽目を外したバカ話、久しぶりに楽しいお酒を飲めました。
家内と飲んだのも久しぶりでした。

最後の〆に食べた塩ラーメンは、鳥の出汁が利いていて、けっこうおいしゅうございました。


ちなみに、部屋に戻って横になった直後意識は途切れ爆睡です。

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2020年9月18日の朝焼けは見事でした
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 一刻一刻変化する朝焼けを見ているだけでも素晴らしい。DSC_3510
深紫~ピンク~黄金に空の色は変りました
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ふと南の空上空の雲を見るとことらは得もいえぬ色に染まっていました。
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日の出です。

2020年の中共ウィルス禍は日々の生活において自分の意思で自粛生活をしていますが、家内は派遣の3年の満期がきて直ぐに、今月九州へ聖地巡礼を行い、10月にもGoToを使いまくってまた九州へ行く、わたくしは昨年の出雲巡礼以降箱根と靖国神社に参拝しただけで、私も政府のGoToトラベルキャンペーンに乗りました!

今晩9/18 23:00 自家用車にて出発予定

9/19 7時花窟神社、8時熊野大社本宮集合~玉置神社~天河神社~奈良県桜井市ルートインホテル泊2人で駐車場朝食バイキング付きで7400円 

9/20 大神神社登山~龍穴神社 巡礼 京都街宿四条烏丸泊 朝食付き2人で7700円

9/21 六角堂~鞍馬寺~貴船神社~鞍馬寺~上賀茂神社

9/22早朝 横浜着の予定です。

ちなみに、家内は九州で私が教えたパワースポットの不動岩へ友人と行ってきたそうで、悔しくてしかたありません。


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君が世は、千代に八千代に、さざれ石の巌(いわお)となりて、苔の生すまで

この巨大なさざれ石はまさに巌、君が代は日本列島の生い立ちの歌と言われているが、不動岩は、君が代が地質学的に正しい証明のような存在です。

日本列島ができるはるか昔、3~4億年以上も前の古生代の「変斑糲(へんはんれい)岩」が永い年月をかけて崩れて海に流され、海水に洗われ小石や砂(さざれ石)の礫(れき)になり
海底に積み重なって強い圧力を受けて、礫岩(れきがん)の岩盤となり、
その岩盤の周囲が削り取られて今の奇岩・不動岩になったのです。
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前期年休を取っていないとのことで、年休を取るよう人事よりご指導があった。ある意味良い時代なのかはわからないが、時代はかわるものだ(〃´o`)=3 フゥ。皆さんのスケジュールを考えると、今日しか9月中に休む日がなかったので、急遽年休を取得した。

先日、キッチンジロー落城、次々と閉まる御茶ノ水~神保町の思い出の名店たちという記事を書いた。


記事の反応はまるっきりだが、特に予定を考えてはなかったが、毎度読書とブログ書きで費や休日より行った事があるキッチンジロー南神保町店に出かけようと思った
(行きつけだった店は以前に閉鎖済み)。さて・・出かけようかと思ったところ・・・急遽の休みであったので引継ぎしていなかった案件があり会社からSOS。テレワーク用のPCがあればよかったのだが、電話で説明指示するより行ったほうが早そうなので、ちょっと会社に立ち寄った。会社で少し時間をとられてしまい、神保町に到着したのは夕方になってしまった。

三省堂の中を通り抜け確かすぐのところ・・・・あれ?!

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閉まっているではないか!9月末ではなく、もう閉鎖になったのか?
張り紙を見ると営業時間11:00~15:00 15時までか~、(´_`;)トホホ 15時までなら会社に寄らなければよかった・・・

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・・・が、「あれは!」すぐ近所に見慣れたキッチン南海の懐かしい緑の看板を発見!
とはいえ、今日の気分は「キチジ」のメンチカツ、キッチン南海は、あいかわらずの列・・キッチンジロー九段下店へ向かうため桜通りを歩き出したが、昔キッチン南海があった場所まで来たところで、気分がカツカレーになってしまい、戻って新「キッチン南海」へ!

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昔とかわらず、入店待ちの列

店内は満席、あいかわらずの行列だが、さきほどより短くなっていたので列に並ぶ。

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昔と変らぬディスプレイ・・・

オッサン、迷っております・・・わたしの同じくカツカレーかエビフライとしょうが焼きと迷っているのか?だが私は今日は迷いなくカツカレーの一択。
ひらめフライも昔と変らず売り切れていました。(食べたことがない)

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昔と変らぬ値段

カツカレー750円はリーズナブルな値段。町田の仲見世商店街にカツカレーの有名店アサノがありTVでも度々取り上げられるが、カツカレー1450円だ。

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昔と変らぬ味

独特の黒いカレーに載る揚げたてのやわらかいトンカツ、適度なキャベツ、福神漬け。
やっぱりキッチン南海のカツカレーは旨かった!



店内で待っていると、サラリーマン二人の会話が聞こえた。「キッチンジローは閉まっていたけど、キッチン南海が再開していてよかった~」私と同じくキッチンジローの閉店を惜しんで来てみたものの・・・クローズしていたのでキッチン南海を発見して着たようだった。

キッチン南海を出て、キチジの前で、張り紙を見てたカップルが 
女:「キッチン南海がある~!」男:「こっちに移っていたのか~!」と、皆まるで誘蛾灯に集まる夏の虫のごとく、次々とキッチン南海の緑の看板に誘い込まれていきました。(笑)

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YoutubeチャンネルTech Boxに嵌っています

最初は、確か2月の初旬トヨタの有人ドローンの記事を書くために検索したTech Boxの動画を見た頃から、
Youtubeのお勧め動画に挙がるようになり、4月の上旬頃だろうか?YoutubeチャンネルTech Boxを登録したが、なかなか面白くて、新作動画はほぼ視るようになった。

CSのディスカバリーチャンネル
(1987年放送開始)や、雑誌の日経トレンディ(1987年創刊)DIME(1986年創刊)MONOマガジン1982年創刊のYoutubeチャンネル版といったところであろう。

最近の地上波のTV番組は疎いのであまり存じあげませんが、その昔、「何を作っているんでしょうか?」との掛け声でレポートVが始まる、逸見政孝さんと渡辺正行さんが司会で、世界と日本のユニークな職業や商売を現地取材によるレポートする情報バラエティ『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』
(1988年~1996年放映)にも近い。

私のブログに訪問されるような方は、「知っている」「もう既に登録済みだよ」と言う方も多いでしょうが、まだ知らない方には、お勧めです。

全動画数は今日現在で59本 全部視ようと思えば半日かければ視る事が可能です。

日本人は、日本が最高の技術先進国だと信じていますが、この番組を見ていると欧米諸国の技術開発力も依然侮れないことに気がつきます。

中国や韓国が、こういった知的財産を掠奪し、タダ乗りして安いコストで製造し儲けていた旧来のグローバリズム経済は、人類の進歩と調和に反するとあらためて思う。この中共ウィルスの患禍は、これを機に旧来のグローバリズム経済一旦精算する良い機会になるかと思います。

お勧め動画

今日は将来人類を助けるであろう、天才的な 2019/04/14

 
驚くべき個人用の数々•2020/04/19


完全に新レベルの巨大マシンの数々 2019/12/03




新時代の自転車のための新製品 2019/09/21






全く新しいレベルの工具たち•2019/08/04








なお、Tech Boxで検索すると「ゲーム感覚で毎日3万円稼げる」などとうたい、多額の金銭を支払わせる株式会社CCSによる「Tech Box 無料アプリ」というのがヒットしますが、これは消費者庁より摘発されている悪質副業詐欺のようです。それとは関係はなさそうです。

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不要不急の外出はするなとの要請だが・・・

ご近所の散歩って、不要ではない。我々は生き物、じっと家のなかにばかりいることはできない。マスクして軍手をはめ、お散歩に出かけると、実に楽しい!


4月14日大雨が降ったあと、早朝庭に出て眺めた近所の風景が実に素晴らしく、空気も清々しかった。それからというもの、お散歩はテレワークの日の早朝や休日の日課となった。

4月16日早朝

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ご近所を歩いていると、ねこさんが・・・昔 油絵を描いていた頃描いたの猫の絵にそっくりだったので、パチリ!

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美しい大きく非常に見応えがある真っ赤な石楠花(シャクナゲ)の花が咲いていました。
石楠花(シャクナゲ)の花言葉は「威厳」「荘厳」「危険」まさにその通り、花の女王様かもしれません。よく近づきがたい華麗で美人の女性を「高嶺の花」と呼びますが、その高嶺の花とは石楠花(シャクナゲ)のことだそうです。

石楠花(シャクナゲ)は、もともと高い山の岩場などに張り付くように咲いておりました、採取がしにくいことから、嫁に取ることが難しい麗人に掛け「高嶺の花」だそうだ。
また日本には古くから山岳信仰があり、山の高い頂に咲く岩場に不似合いな豪華な花は山の精霊の化身とされていたので、庶民は手を出さないとか・・・なるほど・・・

4月19日早朝
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 藤の花の花言葉には「決して離れない」「歓迎」「優しさ」「佳客」「恋に酔う」「忠実」があります。花言葉はなぜか納得、巧いものだと思います。

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花言葉とは・・色んな説がありますが、発祥は、17世紀頃のトルコだと言われています。トルコでは、恋人への贈り物として、文字や言葉ではなく、「花に思いを託して恋人に贈る風習(セラム)」があったそうです。

これが、ヨーロッパ中に広がり、各国でその花のイメージからその国のオリジナルな花言葉が出来上がったそうです。

イギリスのイスタンブール大使夫人だった、メアリー・W・モンタギュー夫人がそんなトルコの人たちの風習を花言葉の文化として、イギリスで一冊の本を出版したのが、一番の始まりだと言われています。その本が後にヨーロッパおよびアジア・アフリカまで伝えられたそうです。 

この花言葉の文化がヨーロッパで流行るキッカケを作ったのが、フランス人の女性です。
仏国では、上流階級の間で好意を寄せる人への思いや悪口・批判などを、花や植物に例えて詩にする文化が流行し、このようなエッセイを書き綴ったノートを回覧していました。
1819年12月にシャルロット・ド・ラトゥールが書いた「 Le Langage des Fleurs 」(直訳で「花の言葉」)が出版されるとフランスで大ブームとなり、こぞって人々が使う様になりました。それがヨーロッパに広がり、日本にも伝えられたそうす。

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ご近所の人達はこの通りを東大通りと呼んでいます・・・
何故かと言うと、この通りの住人やその子供たちがのきなみ東大出身者や東大や医学部などへ入学したからだそうです。我が家の前のオタクは、爺さん父親ともに東大出の官僚、双子のお子さんの一人は国立農工大、一人が医大へ進学された。
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それと反対側の我が家側は軒並み男子は不作だそうで、隣のバカボンはFランク大学、その反対のおにいちゃんは、一時騒がれた名門アメフト部。ちなみに私が買った我が家の前のオーナーは経済産業省の役人でした。家の中には家庭内暴力の痕跡が数箇所・・・戸と壁紙の裏に残っていました。知り合いの霊能師の方によると、我が家側のの土地はどうも男の子が育たぬとか?本当か否かはさておき、我が家は幸い一人娘である。
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ご近所の街路樹はなみずきです。
はなみずきは漢字で花水木、英語ではDogwood、米国が原産で、1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈った際、1915年にその返礼として贈られたのが始まりだそうです。ミズキ科というのがあって、その中で特に花が大きく目立つので、花水木=ハナミズキだそうです。
ミズキの名の由来はお察しの通り「水の木」で、春先の新芽を出す頃に地中から大量の水分を吸い上げることに由来しています。

まあ、米国原産の木がなぜ花水木と呼ばれたかは理解できましたが、英語名はなぜDogwoodなのか気になります。Dogwood(犬の木)、樹皮の煮汁が犬の皮膚病治療に使用されたことに由来するともいわれます。

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町内の反対斜面を歩いていくと、立体交差になっている陸橋があります。陸橋から寺家ふるさと村を望む景色です。一句・・・

春日影 ステイホームウィーク ひとりじめ 

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たぶん紫の花はエゾムラサキかな・・・
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電線に囲まれていていなければ見ごたえのある楠木なのに
電線だらけで・・・残念。
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秋、このくだり坂はケヤキ並木は落ち葉だらけになります、冬がすぎ桜の花が散りったあと、あたりまえのように若葉が勢いよく生えはじめます。ああなんて生命はすごいのか・・・
花散りて 若葉が萌える けやき坂


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鬱蒼とした樹木から近代的マンションが見え隠れするから緑が映える。

20年前、周囲を鬱蒼とした果てしない森の海に囲まれた丹波のある小都市に仕事で住んでいた。山また山の緑は同じ緑なのに吐き気をもよさせた。週末になるとかならず京都、大阪、神戸へと都会に出かけていました。そして都会の緑に囲まれた公園や庭園で心をいやしていた。

白神山地や屋久島のようなまったくの手付かずの大自然はそれはそれで美しいが、中途半端に人工的に植えられた杉山や、昔は里山だったが、今は人の手が入らなくなった田舎の雑木林は、地方の小都市に住んでいると、同じ緑でも心を癒されず、嫌悪感を抱いたものでした。
新宿御苑:2 | ~新宿図鑑~ | 新宿シニア図鑑

新宿御苑を思い出してください、緑と近代建築物のコントラストってとっても美しい。
美しく感じるっていうことは、人間の生存にとって望ましい環境だとDNAレベルで判断するから美しいのかもしれない。

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我が町内にある一番大きな公園は、丘陵の谷間を巧みに利用した野球場が二面ある。

中共ウイルスのせいで、ここも施設としては利用禁止となっている。円陣さえ組まなければ、野球は濃厚接触が少ない屋外スポーツのはず。
まったく意味がわからない。

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いつもは、早朝から少年野球チームが練習に励んでいるが、誰もいないグランドは美しくなくどこか寂しい、ただ空の青さが眩しい。
蒼天の グランド寂し 患禍かな

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鴨志田公園のグランドから寺家ふるさと村に抜けるゆるやかな坂道
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寺家ふるさと村に抜けます。
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朝7時前の光は斜めに差します。
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晩春の森の中は、まだ落葉樹が茂りきっていないので、朝の陽光が届いています。
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田植え前の田んぼに早くも蛙達の声が聞こえていました、よく見ると朝の7時前だというのに、畦道は密です!
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私が子供の頃住んでいた茨城県ではあまりにも溢れ帰る見慣れた光景ですが、都会の喧噪の中で過ごすとこの光景が癒しを与えるから不思議です。時折、田んぼや里山が見たいと感じるのは、田舎で生まれ育った性なのでしょうか?田園都市線に家を買った人間は、やはり近所にこういった光景が広がる安心感がそうさせたのかもしれません。
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この林の奥には縄文時代の遺跡住居跡や、横穴墳墓が何ヶ所も点在しています。縄文~弥生の時代から人間の手で、木を切り、谷を埋め、少しづつ耕地にしていったのだろう。そんな土地を休耕田にしていることは、はたして正しいことなのだろうか?
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上の写真を見ればわかると思うのですが、人の手で多摩丘陵を削り平らにならしていった跡がわかります。重機やまして道具も十分にないなかで、地盤を改良する行為は、想像するだけでも大変な作業だったと思う。もしかしたら、稲作の為の耕地を日本全国で作った労力からすれば、前方方円墳を作るほうが、はるかに容易かったのかもしれないなどと感じます。
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これだから、私は田園都市を選んだのだ、人は人工の耕地と自然を共存させた美しい姿、里山こそが理想郷なのかもしれない。

稲穂が植えられる前の田んぼは、ロンドンのハイドパークのような芝生の公園と見紛う。
いや、都市の公園こそが、田舎の田園風景・里山を模したものかもしれない。

私が、田舎暮らしをしていた時、あの延々と続く田舎の風景に嫌悪感を抱いた矛盾、人は無意識に精神のバランスのとるのかもしれません。だから人間は我がままなのかもしれません。
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はやくも水を張った水田がありました・・・早稲の田んぼかもしれません。どこかの大学は、早稲の田んぼを大学名としたが、有名な校歌は、ただ早稲の田んぼを連呼しているだけか・・・早稲田♪、早稲田
、早稲田早稲田早稲田早稲田早稲田

そういえば、北朝鮮は収穫前の5月末や6月初めにかけて食料がなくなることを「春窮期」と言うのだとそうだ。日本にはあまり馴染みが無い言葉だ。かつて日本では春に食べ物が尽きるということはあっただろうけど、
「春窮期」という言葉はポピュラーではない

かつて日本では夏は稲、冬は麦というように「二毛作」が行われてきました。大麦は、もっぱら米の裏作として作られる作物で、秋に米の収穫が終わるとその田を耕して麦を植え、夏の暑さがやって来る前に収穫していました。麦がなくとも、天の恵みは余りあった国でした。

今年は、チャイナウィルスの影響もあって4月には困窮しているのだという。金豚は脳死したようだ。神がついに天罰をくだしだしたようだ。

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苔むしたケヤキの並木をいい構図で撮ろうと思ったけれど・・・う~ん、例の10万円で一眼レフでも買おうかな・・・
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東急の住宅地には、車の入れない緑道が散在している。春先は緑道と庭木のシナジー効果が出ているが・・・緑道の手入れが追いつかない夏場はちょいと雑草の勢いが強くって少々・・・
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第四公園 さきほどの第一公園から第六公園まで結構大きめな公園があります。
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第四公園から我が家のある丘陵を望む
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ランチもやっている鴨志田惣菜店の花水木
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モッコウバラは朝方は日陰になって、お昼の方がゴージャスに写りそうなので・・

ここからは、4月26日昼です。おろらくこのあたりが満開です。
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ご近所のご長寿さんたちが毎日愛でにやってきています。
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桜が散ってからのGW前の2週間が見頃です。
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たぶん満開!
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藤も満開!
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歩いていけるミニショッピングモール 横浜青葉ガーデン桂台が今年の4月リニューアルしました。無意味に高いスニーカー店ABC-MART、品揃えが毛が生えたコンビに程度に成り果てた文教堂書店、どこにでもあるユニクロ・・・暫く足が向きませんでした。



ダイエー系のディスカウント食品チェーンBigA、100円ショップのセリアが3月末に、4/19には新興チェーン洋服のタカハシが開店!していました。他に、サーティワンアイス、サイゼリア、西松屋、ドラッグストア、牛角、沼津すしの助回転すし店、3Qカット理容店があり、一気に使えるミニ・モールに変化した。

新規開店した洋服のタカハシの前に人だかり

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50枚入りサージカルマスクが2950円+税で売っていました。
先日町田の路上で怪しげなおにいちゃんが1箱5000円弱で売っていたが、まともな値段だがそれでも平時の倍だ。私はもちろん買いませんでした。
私は医療関係者ではないので、手作りマスクの愛用者です。
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横浜青葉ガーデン桂台の前のけやき並木からあるいて二・三分のところに
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話題の焼肉きんぐも12月に開店した、連日満員で初期来店ラッシュが過ぎてからと思っているうちに、中共ウイルスのせいで閉店中です。緊急事態が解消したら真っ先に行きたいお店です。
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同じ敷地にはきゃべとんラーメン店、こちらも連日満員のようで、いまだ入っていません。

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はなみずきの街路樹が美しい
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ふだん、この時間帯に道を歩く人の姿は見えませんが、皆さんマスクをしてお散歩を楽しんでいるようです。
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きれいな公園傍のお宅のつつじの花
さつきとつつじの違いは、花弁や葉っぱが大きく、開花時期が4月のうちから咲く早い方が「つつじ」、小ぶりの花や葉を持ち、5月~6月咲き始めるのが「さつき」です。
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若草台第一公園
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若草台第一公園近隣のお宅の庭木は立派です。
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電信柱がなければなぁ
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青葉台駅に続くメインストリート、歩いてお買い物をする人達

左奥の中古ゴルフショップですが、この場所は、お店の入れ替わりがはげしい。ちょっと前は、クソまずいラーメン屋幸楽苑だった。290円だった時はコスパで何度か入ったが、その後390円になり行く事はなくなったが、現在は440円だという。私にとって幸楽苑のラーメンを440円払う価値は残念ながら持ち合わせていない。そのせいだろうか?私と似たような価値観を持つ住民が多いのかもしれませんが、短期間で撤退していきました。その前は個人経営のイタメシ店、その前は、2011年O157の食中毒で5人が死亡した、「焼肉酒家えびす」でした。メニューの多くは1皿なんと100円。一番高いメニューでも1皿380円だった。あまりの安さに私を含め、怪し過ぎてご近所の人で行ったことがある方はいませんでした・・・あれはもう10年近く前のことだったのか・・・

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最近の宅地開発は、塀がない。デザインが進化したというものだろう。

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生垣がきれいだと、奥の敷地のお宅まで生かされます、高低差を活かしたこの一角は、同じ敷地4軒ともいい感じにおさまっています。
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最近高齢の夫婦が仲良く散歩する姿がが目立ちます。中共ウィルスは夫婦や家族の絆をつよくしているのでしょうね、我が家以外は・・・
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我が家は、常に家族三人常に別の部屋で濃密接触をさけていますが・・・
若いご夫婦はやることが無いので来年の2月~3月はベビーブームが到来か?
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もともとこの土地は中学校の建設予定地でしたが、少子化で「恩田第五グラウンド」として運動グラウンドとして主にサッカーコートとして使われています。サッカー場が2面とれ、神奈川の少年サッカーの聖地のようです。
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道の突き当りには、このあと登りますが僅かに残る里山の雑木林が見えます。
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なだらかな坂道は、多摩丘陵の外れにあたります。
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鯉幟が春風に泳いでいましたが、なかなかタイミングがあわず、気がつけば、よそ様に家をじっと観察する不審者になっていました(笑)
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なんとか、おまわりさんに名前を聞かれる前に泳ぐ鯉幟を収める事ができました。

待ち続け、こいののぼりを、泳がせり

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多少段差があろうとも、道路よりちょっと高い敷地は高級そうに見える。高い塀も要らず、生垣が庭木を兼ねる。東急田園都市線沿線住民が1980年代、40代で家を買って40年、第一世代の住人がおおそ80代になってきている。世田谷・目黒区の代替わりはおよそ20~30年前だった。今、我が家周辺が代替わりが始まり、空き家も目立ち始めた。

それでも、我が家周辺は比較的緑が多く住みたい街にランクインされることが多い。だが近年致命的な弱点が、東急田園都市線沿線を襲っている。それは、年々酷くなる一方の殺人的通勤ラッシュであった。もうそろそろ限界点に達しつつあった。

ところが今回の中共ウィルス患禍による緊急事態宣言で、朝7時代の準急で座って都心に通える状態になった。宣言が終息すれば、ふたたび混雑するでしょうが、おそらく日本は、このままテレワークや、時差出勤が定着していくことになるだろう。

暫くは、以前より快適な通勤になるかもしれません。

もう、無理して多摩川より内側に細長いペンシルハウスや、タワマンなど買う理由の幾つかがなくなると思う。

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桂台公園 恩田第五グラウンドと隣接し、こちらには野球場があって、武蔵野の雑木林も若干残る。
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生垣で仕切られた街並は公園のようで歩いていて楽しい。
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高低差のある住宅地は、皆さん工夫され散歩をしていて楽しくなります。
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玄関アプローチが洒落ていて楽しい気持ちにさせます。
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こちらのお宅も段差を巧みに楽しんでいるようです。
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こちらのお宅の藤棚は。白と藤色の二色に加えてつつじの生垣、色鮮やかです。
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こちらのお宅の藤棚は、まさに芸術です。こちらのオタクは、高低差がある公道の階段沿いの平屋のお宅です。階段から敷地内が丸見えになってしまうところを、藤棚と葡萄棚で巧みに目隠しをして、心地いい緑の洞穴のようなつくりになっています。
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ちらのお宅は、段差がある裏庭にあえて落ち着いたコンサバトリーを作られています。
我が家でもやってみたくなる良いアイディアです。
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執筆中

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昨日急遽、今週今日から週末まで私はテレワークとなった。国から社員の7割がテレワークをしてほしいという要請に、我が社が応えたからだ。テレワークでも可能なことも多いのだが、書類捺印等の仕組みがあるうちは、100%のテレワークなど夢のまた夢というのが現状である。無謀や無茶な命令は入社以来三十数毎度のことで、いつものこととはいえ、今回の命令は、結構むちゃな部類の要請である。現場サイドは、「えーい!どうなったって知らん!」と、無謀なテレワーク体制に突入した。お客様の来店をお断りしても、マーケットが動いている限り、全社休業はありえない。会社に出社した社員は地獄だった、結局お昼ご飯を皆さん、食べられなかったそうだ。わたしも朝から慌しくて、机から離れたのはトイレとお茶を入れたときだけだった・・・

・・・ということになるだろうと、朝から予想していたのだろう・・・。朝は、清々しい気分を先に満喫ておきました。

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丹沢山系は白い雪化粧っだった 丹沢山系に隠れた富士山の頂上も真っ白

昨晩の激しい雨が止み、小鳥の声が響き渡りいつものようにAM5:30頃目が覚めました。 いつもは6時前から自分のお弁当つくりと、家の掃除器かけをして、7:15~20分頃家をでますが、まだテレワークを始めるにはまだ2時間ちかく時間があります。窓の外は清々しい光に満ちていました。

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遠くに見えるのは武蔵小杉のタワマン群

日の出は既に済み、ちょうどお日様が昇りはじけたところです。朝靄がかかった遠くの眺めは、あの忌々しき中共ウイルスが猛威をふるっているのが、別の宇宙のように思える穏やかさでした。

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二階のベランダから庭をみると、春の嵐で、ちょうど咲き終えた椿の花が、苔の上に沢山散乱して、苔たちが早くどけてくれと、騒いでいるように思えましたので、庭に出て、花達を片付けました。

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落ち葉をどけてやると苔たちの笑顔が見える

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落ちた椿の花もきれいだったのですが、掃除した後の庭です

今年の藤は、例年に無く見事に咲き始めています。

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ご近所で評判の、我が家のモッコウバラは満開にあと少しのようです。
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私はマスクも付けづに、気がつけば散歩にでていました。鳥の声の主はメジロ・やまがらの鳴き声だったろうか?とても清々しく聞こえた。




鳴き声の主にひかれて、わがやの近所の小高い雑木林に向かった。

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たぶん、青葉区で一番標高が高い場所かもしれない。
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某研究所脇の階段を上り詰めると、遠くに武蔵小杉のタワマン群
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桐蔭学園は朝もやがかかっています。
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階段をのぼりつめると、横浜とは思えない景色がまっていました。
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このまま、桜がきれいな近所の公園へ向かいました。
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残念ながら最後にわずかに残ったソメイヨシノの花はは昨夜の嵐で完全に散っていました。
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わずかに八重桜が満開となっていました。
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こちらにも美しい声でさえずる小鳥がいるようでした。
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残念ながら声の主をみつけることはできませんでした。
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さりげなくわずかな舗装道路の隙間に植えられたビオラが美しかった。
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そろそろテレワークの時間がせまってきました。また次回・・・


it’s a beautiful day 

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昨日青葉公会堂で映画道草をみてまいりました。

観てみようと思ったのは、パンフレットの道草の草の字の艸(くさかんむり)がタンポポの綿毛を意味するかのように二重に書かれて、大きく描かれたタンポポの綿毛が飛ぶ絵と相まって、私のアート好きのハートに突き刺さったからです。たぶん、プロのアーチストの方はやられたと思った方もいたでしょうね。

  

ストリーは、よくあるドキュメンタリー映画かもしれませんが、観おわってみると、いい映画を観たなという気持ちになりました。


私の姪はダウン症であるが、たまにしか会う事はない。会うと可愛くてならない、いつまでも天使のような子供でいるのだ。

だが、彼女の日常生活を私は知らない。同じように街で見かけるの知的障害がある人達の日常を見ることはない。

私の日常には障害者との接触は無い。おそらく障害者と世間との間には、同じように接触がない。
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映画パンフに載っている知的障害者の暮らしとは?

 知的障害がある人の暮らしの場は広がってきていますが「重度」とされる人の多くは未だ入所施設や病院、親元で暮らしているのが実情です。

 2014年に重度訪問介護制度の対象が拡大され、重度の知的・精神障害者もヘルパー付きのひとり暮らしが出来る可能性は大きく広がりました。

 そんな中、16年夏には相模原障害者殺傷事件が起きました。この街で誰もがともにあるために、新しい選択肢を見つめてみませんか?
2014年に重度訪問介護制度の対象が拡大され、重度の知的・精神障害者もヘルパー付きのひとり暮らしが出来るようになったというニュースは知っていたが、その内容にまで関心はなかった。

私は、介護者という存在を知らなかった。知的障害者は身内が介護しているものだと思っていました。診察とか食事の準備といった日々の行動を介助する方のようですが、ネットで調べても道草にでてくる介助者はよくわかりませんでした。国家資格があるわけではなく、障害者の介護をされている方みたいです。生活だけではなく感情面や精神面でのサポートをしています。

食べて寝て、電車に乗って、公園を散歩する。日々のなにげない生活を自分の思い通りできる自由は、施設に閉じ込められ一生を過ごす身障者にとっては夢のような生活なのかもしれない。

しかし、身障者にとって、本人の意志を尊重してくれる介護者の存在はけっして多いとは思えない。一昨年死んだ母も最後公的な介護なくして生きていくことは難しかった。

映画に登場する介護者の方々は、皆「菩薩」なのではないか?あんなふうに、わがままな障害者に辛抱強く向き合い一緒に生活するなんて普通の人間にはできない。ある意味で、みずから悟りの境地を求め修行する現代の行者に見える。己のためだけに悟りを得る為に山を歩き回る千日回峰よりもしかしたら、功徳が高いかもしれません。

障害者と向き合い、ときに葛藤している介護者や障害者の家族、そして障害者自身の話をこの映画は新鮮でした。

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この介護者の方は11年前から亮佑さんと知り合いだという。

このパンフレットの製作者で、ピュアな心で描く絵は、山下清画伯と遜色が無い。
器用にスケボーや一輪車を乗りこなす多芸な人だ。

両親は?と、こちらは亮佑さんの生い立ちを想像してしまう、なぜ、高校を卒業して一人暮らし?亮佑さんは作業所へ通っており寝起きを供にして、作業所へ送り届けて、お迎えをして二人で散歩して夕飯を食べる。

いったいどうやって生計をたてている?だいいち、亮佑さんの両親は?なぜ一緒に生活しないのか?両親は亮佑さんを捨てたのか?画面の裏側をどんどん想像してしまいました。

実は映画の後半、亮佑さんは月一度実家に帰り、両親家族と楽しく過ごし、また介護者と同居する自宅へ帰っていくのだ。両親は亮佑さんの自立を願って一人暮らしさせているという。

介護者と亮佑さんの生活は楽しそうだった。でも、介護者はアラフォーで、ご自身の結婚は?その家族は?仕事は?なぜ、彼に関わっているのか?昔の写真が断片的に写っていたが、下手な子供になった探偵の推理小説アニメを見るよりも、障害者の世界を知らない私にとって、謎が謎を呼び映画の断片から謎解きや想像を勝手にし始めていた。

少し経って、介護者は複数いて、交代で亮佑さんの面倒を見ているという。
日本はこんなに障害者に優しい社会だったのか?亮佑さんは恵まれている方なのか?

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宙夢くんの介護者の方が、おっしゃってたことが印象的でした。映画を見た後ネットで予告編を見たら、やはり取り上げてありました。
介護者は有名私立進学高を出て、国立大学に入り、エリートの道に進んでいたようでしたが、今は介護者をしておられる。介護者がエリートではないということではない。人間としての「徳」が、超エリートであった。

「なぜこういう人がこの世界に必ずいるんだろうって、いつも思っていました」「存在するからには、必ず意味があるはずだ・・・」と介護者の方は問い思っているようでした。

オーストリアの精神科医ヴィクトール・エミール・フランクルはユダヤ人収容所に収監された経験を持ち、ナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』のなかで、「”この人生に何の意味があるのか”だなんて問いかける必要はない」と言います。
そして次のようなことを、言っています。「どんな時も、人生には意味があります。
どんな人の、どんな人生にも意味があり、なすべきこと、満たすべき意味が必ず与えられています。ですから、人生の意味は何かと、問いを発する必要はありません。」

宙夢くんが存在する意味を問うてはいけません。我々は逆に宙夢くんに、自分の存在意義を問われている立場であり、我々が自らその答えを出さなければならないのです。

どのような人生であっても、人間はどう行動するか、どう生きるか選択することはできる。私たちの社会は、決して宙夢くんを放棄してはいけないと思うのです。

宙夢くんに幸せな人生をおくらせてあげようなど、目標ではないし目標であってもならない。かわいそうだから、何もできないのだからと、ベッドに縛りつけていればいいというものではありません。宙夢くんに人生に戦うチャンスを与えることさえできればいいと、思うのです。

映画では語られなかったが、障害者の内面はきっと苦しみに満ちているのであろう。気持ちを伝えられない苦しさ、もどかしさ。しかし、画面から彼らの心の中が見えるというのは傲慢なのかもしれないが、苦しんでいるのは、苦しむ勇気を持っている証なのではないでしょうか?

人並みの幸せは、目標ではないし、目標であってもならないと思うのです。
苦難と戦いは、人生を無駄にしない。そもそも苦難と戦いこそが人生を意味あるものにするのだと思う。障害者の方を見て、かわいそうだななんて思うのは傲慢なのかもしれません。
むしろ、戦っている立派な魂だと尊敬すべきなのかもしれません。


宙夢くんの場合は、母親が出てきて、壮絶な子供時代の話をされていた。
原因は何かあかさなかったが、宙夢くんは自閉症で5.6歳の頃彼の父が死に、赤ん坊の兄弟と、3人が残された。母は働かなくてはならなかったが、家中に排泄物を撒く宙夢くん、赤ん坊に暴力をふるう宙夢くん、母は、噛み付く宙夢くんに噛み付かせたままにした。ほとんど寝ずにふらふらになって勤めに出かけたという。

なんか、その話を聞いて、今は明るく話してくれた美人のお母さんを抱きしめたくなった。
気のせいだろうか、障害者のお母さんには美人な方が多い。苦労をして、人の優しさを知っているからなのか?単にたまたま知っている方が美人だったからなのかもしれません。

私の知り合いのご婦人は、私のダウン症の姪の事をブログで書いたことをきっかけで知り合いましたが、息子さんがダウン症で、それはそれは天使のような方でした。
ダウン症の子供は生まれる親を選んでくるといいますが、まさにそのような方でした。

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たぶん、出演された障害者の方で、裕一朗さんが、一番自分と戦っていた。
もどかしい自分と戦い、エスカレーションした場合、暴力的となってしまい周囲に迷惑をかけてしまうのであろう。以前入所していた施設で暴力を振るわれたことで、暴力的になってしまったというが、介護人や父親らの努力で、おちついた日常生活がおくれるまでになる姿は、感動的だ。

公園からの帰り道、電車を待つホームで、裕一朗さんがご婦人に触れてしまったという。
介護人曰く「私は警察でもなんでもなくて、彼を拘束するこはできない、ただ人に迷惑をかけないようにするガードマン・・・」

裕一朗さんにも性欲はあるかもしれない、いやあるであろう。身障者の日常をファンタスティクにまとめたいこの映画の趣旨にはふさわしくないのであろう、身障者の性欲というタブーには切り込まなかったが、存在を匂わせた。

裕一朗さんの戦いに集う人達、父親、NPO法人の介護人、練馬区の介護派遣の人達、まるで皆で海峡に橋をかけるようなプロジェクトのように裕一朗さんの介護方法を議論しあう。
なんて、生真面目な日本人なのであろう。
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あの、入所者19人が刺殺され、入所者・職員計26人が重軽傷となった津久井やまゆり園に入所していて実際に被害に遭った矢野一矢さん。

わたしは、犯人の元施設職員植松聖被告の行った行為はけっして肯定されるべきものではないと思うのだが、彼の気持ちもわからないでもない。

すべての被害者がどうだったかはわからない。あくまでも私の偏見と想像なのだが、障害者の方が、日常的に被告に対し入居者が言葉の暴力を加えていたのであろう。

菩薩ではない普通の人間が、職業として止むをえず、介護の仕事を選んでしまった場合悲劇である。

実は心の中で障害者を見下し、人間と思っていない障害者から毎日暴言を受け続ければ、普通に切れて暴力を振るってしまうのは、ある意味必然のことだろう。
健常者である人間は厳しい社会でなんら保護されないのに、障害があるというだけで保護され、それでも不満があるのか?という怒りが溜まっていたのであろう。

あくまでも外野の無責任な意見だが、津久井やまゆり園の事件では、被告だけを責めてはいけないような気がします。事件に到った被告の心のケアするような、仕組みやプログラムが不備であったような気がします。彼の同僚なり上司も、被告の心の傷にまで気がつけなかったことも悲劇であったのだろうと思います。

最後に、この映画とは関係ありませんが、身障者の社会進出という意味で、山本太郎率いる政党れいわ新選組に二人の身障者の国会議員が誕生しました。

この映画を観たり関心があり、このブログを最後まで読んでいただいた方は、おそらく私が感じるような強烈な違和感を感じていないと思います。

しかし、私は、山本太郎に強烈な違和感を感じてしまうのです。身障者に対する扱いは、実は山本太郎と
植松聖被告と同じではないか?単なる道具として扱い、同じ人間として扱っていないと思うのです。国会議員はきれいごとでできるものではないが・・・・
野党である限り、無責任に喚きちらす事は可能かもしれません。




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2月9日
鉄(くろがね)小学校の青葉区の研修会で東京五輪音頭2020の練習をしてまいりました。
 
1964年の東京五輪音頭の2020年バージョンでした。
唄は石川さゆりさん。竹原ピストルさんや加山雄三さんも歌っています。

でも、やっぱり三波春夫大先生の歌唱力は改めて凄かったんだなぁと思うわけです。
どうせなら、AIで三波春夫さんに東京五輪音頭2020を歌ってほしかったなぁ。
歌詞です。
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歌詞の内容は、無難ですが、歌いだしの♪ハァ~リオデジャネイロで眺めた月は♪は、♪ハァ~リオで眺めた月は♪にすべきじゃなかったかな?

さて、踊りなのですが・・・これの振り付けは難しい!
最初の動きは・・・2020を表現したものですとインストラクターの区役所の斉藤さんの説明に、???だった。 よくよく見ると漢数字で二〇二〇でした。


一応、下の振り付け説明を読んでから上の動画に合わせて踊ってみましょう。

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1.2回踊ったら、下のメモも見ると納得です。
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しかし、昨年渋谷で行われたイベントの動画を見るかぎり、振りが難しくって、練習した踊り手以外、一般の人は踊っていません・・・というより、踊れません。
最初の振り付けが漢数字の
二〇二〇であることを理解できなければ、いきなり壁で、その先に進めません。この振り付けを考えた人はちょっと・・・専門バカなのか、一般人を巻き込むようなムーブメントになりにくい踊りかなぁ・・。振り付けを考えた人は踊り手であってプロジューサー的ではない人ですね。




それでもビデオを観ながら6・7回踊って、輪になって2回ほど踊ったらまあ、ちょっとはおどれるようになったかなぁ。

                                        

2月8日町内会の令和元年の納会の余興で、落語家の
林家ひろ木さんが来られ、小話と落語、津軽三味線を弾かれてました。林家ひろ木師匠は青葉区あざみの在住で、林家きく翁師匠の弟子で最近真打になったそうです。

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落語の演目は、
ダイジェストでしたが、初天神でした。


冒頭の枕・・・日本の昔話

昔々、ちょっと太めのおじいさんがいました。・・・・・こぶとりじいさん。
昔々、おじいさんが罠にかかった鶴をたすけてあげました。数日後若い娘が恩返しがしたいとやってまいりました。絶対に部屋を覗かないで下さいと言って、翌朝覗いてみると、部屋の中が空っぽになっていました。鶴じゃなくてサギだったか・・・

・・・・使い古された小話でオイオイと思っていました。

昔々おじいさんが、ポチという白い犬を飼っていました。ある日おじいさんと散歩をポチは畑から宝の匂いがして、穴を掘りはじめました。家に帰りたいおじいさんは、犬の尻尾を強く握って引っ張ります。すると、ポチがおじいさんに向かって・・・
と、言いかけたところで、私は、師匠といっしょのタイミングで言うつもりでしたが
「はなさんかじじい!」と、落ちを先に言ってしまいました。

師匠が動揺してしまったので、「尾も白いお話でしたね」とトドメを刺してしまいました。

もし私が落語家だったら、客に落ち先に言われたら、もう一つ二つ昔話小話で畳み掛けてやりますけどね。師匠は落語に移りました・

一応昔話ネタは私の引き出しにしまってありますのでご披露します。

昔々、太郎君が亀吉君のところに遊びに行くと、入り口が閉まっていましたので勝手口へ回ろうとすると、中から亀吉君が 「裏しま
ってる太郎」「浦島太郎」。

昔々ある日子供が池のそばで遊んでいると、池に落ちてしまいました、すると池の中から神様が現れ、二人の子供を抱きかかえていました池に落ちた子供はどっちかね?「金の太郎」です。「金太郎かぁ」

昔々、箪笥を売っているお姫様がいました。・・・かぐや姫!やがてそのお姫様はおじいさんさんと喧嘩わかれしてしまいました・・・・大塚かぐやか!


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数年前から友人と神田川・日本橋クルーズ体験をしようと計画しておりましたが、仕事が入ったりで度々ながれ、今年は10月16日と調整しておりました。ところが台風の上陸が相次ぎ10月13日の台風19号で今回も中止かと諦めかけました。幸なことに、東京都心に限っては長年の治水事業の成果ででょうか、当日は通常運行されました。実際に船からの景色は、まるで何事もなかったかのようでした。江戸~東京そして未来の東京の治水について感じるものがありました。

神田川クルーズ90分体験

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乗り場は日本橋のたもと、野村證券本社ビルの目の前です。

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乗船場(日本橋 防災船着場
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この乗船場は平成7年1月の阪神・淡路大震災を契機に災害時における河川舟運の有効性が注目され、災害時河川による物資輸送を想定し都内各所設けた防災船着場が整備されました。折角のインフラを有効活用する目的の一つとして、観光/社会見学用に神田川クルーズが始まったとのことです。2010年にタモリ倶楽部でタモリさんが神田川を探検した回は大変興味深く、私も是非参加したいと思いましたが、そう思われた方々が非常に沢山いらっしゃったということですね。
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防災船着場については都内河川に現在合計 94 箇所(既設 69 箇所・計画 25 箇所)ありますがそれにくわえ、東京湾岸にも東京港防災船着場整備計画として、現在の13箇所→38箇所に整備する計画です。下手をすれば都内の電車駅数654駅717駅)とまではいかないが、都内のJR駅数141駅に匹敵する。私が思った以上に都内には水上交通を活用できるインフラが揃っています。
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神田川・日本橋クルーズの船 エスエスNANO1号(40名)

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乗船開始です。
 
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先に団体旅行の小型のチャーター船が出発でした。我々の船は救命胴衣は着けません。

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日本橋を出発し、日本橋川を水道橋方面の上流へ遡ります。

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時計回りで日本橋川→神田川→墨田川→日本橋川に戻るルートです。
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日本橋を出ると
旧大和証券本社ビル跡に東京駅前常盤橋プロジェクトのA塔の建設風景が見えます。
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東京駅前常盤橋プロジェクト
ちなみにB塔は
日本一の高さとなる地上61階、高さ390mの超高層ビルとなる予定です。
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日銀本店ビルが見えます

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常磐橋の解体復元作業
2013年より行われている修復工事は、石垣の石一つ一つの付き方方向を記録しながら同じように組み立てていくという気の遠くなる作業です。
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船は本当にギリギリで通過しました。

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首都高都心環状線 神田橋JCT

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鎌倉橋付近
江戸城建設の際に相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり鎌倉河岸と呼ばれたため付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ本橋も鎌倉橋と称するようになったとのことです。
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神田橋
橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来します。
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一ツ橋IC付近
完全にこの付近は空が見えず、高速の道路底辺が暗い。まるで地下水路のようです。
江戸時代の石垣が壊されコンクリートの首都高の橋脚となってしまったのは残念なことですが、それも歴史の一部かもしれません。

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俎板橋(まないたばし)靖国通り
このあたりは首都高速5号池袋線

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新三崎橋付近
この付近でようやく首都高の下から抜けます。

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中央線鉄橋

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総武線の鉄橋は国鉄の前身甲武鉄道時代から120年以上使われていいます。レトロで美しいレンガづくりの鉄橋。残念なことに総武線を利用している人のほとんどが優雅な鉄橋を渡っていることに気がつくことはありません。

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ここで、日本橋川と神田川が合流(分流)します。

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千代田区千代田清掃事務所 三崎中継所

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東京都内には約140の河川や運河が流れており、江戸時代、物資の運搬は主に水路が利用され、水運は江戸の都市機能を支えていました。三崎中継所は千代田区、文京区、台東区の不燃ごみを収集し、そのごみは神田川から運搬船で埋立地へと運ばれる。今東京の水路を行き交うのは観光船が多いなか、不燃ごみを東京湾の埋め立て処分場まで運び、水路を現役で利用しています。

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水道橋

水道橋は江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していたそうです。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたもので、先代よりやや大ぶりの橋となった。

やや下流には先代水道橋も架かっております。
1928年(昭和3年)に、架けられた鋼橋です。

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その先代の水道橋ですが、大東亜戦争の米軍の空襲による傷跡が残っています。

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水道橋駅

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このあたりの神田川は狭く両脇がビルなので、まるで都会の峡谷のようです。

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神田川御茶ノ水分水路
謎の横穴お茶の水分水路

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直径 8.8m 全長 760m 本郷台の地下に位置

神田川の治水対策にはそうとうお金がかかっています。江戸に幕府が開かれて400年、江戸幕府以来築いた治水対策はあの台風19号でも都心部はなんとか守られた。日本人の努力の賜物であったと思います。

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いよいよ、神田川最大の見所、神田川の渓谷 御茶ノ水切り通しにはいります。

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昔は丘の尾根であった場所を人力で切り通すのであるから凄い!


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(江戸城の惣構え)
 「惣構え」とは、いわゆる城を取り巻く外郭、またはそれに囲まれた内部のこと言い、城の他  城下町一帯を含めた外周を掘りや石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造をいう。  秀吉が落城させるために時間がかかって難儀した小田原北条の小田原城の惣構えは、城下町の外周2里半(約9km)に及ぶ日本で最初の本格的な「惣構え」が出来ていた。  小田原城包囲で全国から参戦してきていた、各地の城主達は、小田原落城後 自分の城に戻って、小田原城を範とした、近世の城郭構造、「惣構え」構造への改修工事が、各地で始まってゆくことになる。  その代表のひとつが前田利家の金沢城の惣構えでもあり、他に京都の町を囲んだ、秀吉の「御土居」等も典型的な惣構えでもあった。 信長によって生まれた安土城の中世城郭構造は、小田原北条の小田原城惣構えによって、その後の中世城郭構造の転機となる影響を及ぼしていた。

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 江戸城自体も惣構えの構築が進んでいくのだが、江戸城防禦のウイークポイント部分があった。  ある時、家康と仙台藩祖・伊達政宗が江戸城内で将棋楽しんでいたところ、将棋の勝負で窮地に陥っていた政宗は、思わず 「次の一手は神田山か!」 とつい思わずつぶやいてしまったというエピソードがある。  家康は政宗のこのつぶやきに戦略意図の潜在的な思いが吐露されたことに気付いていた。  確かに奥州の雄、伊達政宗は、加賀の前田利家と並ぶ、家康にとって手ごわい武将の一人で、その政宗も江戸城の攻略は、神田山を降りてゆけば江戸城の大手門に難なく進軍できることを前々から睨んでいたのだ。  確かに神田山方向は江戸城防禦の最大のウイーク・ポイントであった。

(神田川開削プロジェクト)
 二代将軍・徳川秀忠の時に、平川下流域の洪水対策、及び江戸城東北方の防御の守りを一段と固めるために、平川を付け替えて外堀にすることが企図されていた。  すなわち小石川から南流して日比谷入江に注いでいた平川の流路を東に向かわせ、神田山と呼ばれる、本郷台地を切り通し、舌状台地を湯島台と駿河台に分断して、現在の御茶ノ水に人工の谷を開削する大プロジェクトであった。

 徳川秀忠は、大阪夏の陣が1615年(元和元)5月に一段落して間もなく、この神田川開削プロジェクトを仙台藩祖伊達政宗に命じている。  徳川幕府は、長期政権維持するために家康以来、様々な工夫を打ち出していた。例えば参勤交代制度などの他、江戸城整備等を命じ、外様大名を財政面で苦しい状況に追い込んでいたのだ。  
 徳川秀忠が命じた、神田川開削プロジェクトは、江戸城防禦の守りを更に固めると同時に、東北の雄藩、政宗の仙台藩に工事の為の財政負担を強いる目的もあったのである。

  兎に角、この神田川開削プロジェクトは、驚くことに海抜0mに近い、平川の流れを海抜20m弱ほどある、本郷台地を開削して深い渓谷を造り出す大土木工事であった。  それが江戸時代の、コマツのパワーシャベルやブルトーザーやダンプトラックもない、鍬とモッコの時代の大土木工事であった訳だ。  もっとも仙台藩は、それまでに仙台湾に沿う貞山掘り運河の土木工事の実績があった。  秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までを担当して工事に取りかかり、約5年を費やして、1620年(元和6)に神田山と呼ばれる本郷台地の舌状台地は、湯島台と駿河台とに分断されてしまった。

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神田川より順天堂大学病院(手前)と東京医科歯科大学(奥)のビルを仰ぐ
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川面から見上げる湯島本郷方面。川からはだいぶ高低差があり、神田川が本郷台と駿河台を二つに分けます。

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JR御茶ノ水駅と新御茶ノ水ビルディングを望む

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新御茶ノ水ビルの後ろは、デジタルハリウッド大学などが入る御茶ノ水ソラシティ
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御茶ノ水橋
駿河台のメインストリートである明大通りに架かる御茶ノ水橋


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工事中のJR御茶ノ水駅
JR御茶ノ水駅改良プロジェクト
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完成予想図

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聖橋
両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされていると言われていたので、聖橋を船から眺めた景色は今回のクルーズの一番の見所でした。

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御茶ノ水で大学時代を過ごした私でしたが、いつか船から聖橋を眺めるというちょっとした夢がかないました。
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地下鉄丸の内線の鉄橋の下を潜るのも そうはない体験です。ちなみに東京メトロ丸の内線は四谷駅付近・後楽園駅付近・茗荷谷駅付近とここ神田川の鉄橋と4箇所地上を走ります。
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2019年デビューした丸窓がついた赤い丸ノ内線の新型車両「2000系」
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船は、地下鉄丸の内線を鉄橋を通過する姿を眺める為に暫し止まっていてくれました。

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外堀通り沿いの神田須田町のレトロな建物群、老舗ビリヤード専門店 淡路亭が有名です。
奥の高層ビルは秋葉原ダイビル


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昭和7年に架けられた総武線神田川橋梁。八の字のラーメン橋は、松住町架道橋と並び秋葉原電気街のランドマークとなっています。ちなみにラーメン橋ラーメンとは、「骨組み」を意味するドイツ語のRahmenに由来するもので中華そばのラーメンではありません。
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こちらもレトロな旧万世橋駅を再生したマーチエキュート神田万世橋 元の交通博物館である。
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先ほどの御茶ノ水分水路の出口は昌平橋のたもとにありました。ちなみにマニアックな神田川暗渠クルーズ(お茶の水分水路、水道橋分水路)というのも、あったらしいです。

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秋葉原の高層ビル群、JR神田万世橋ビル(手前)・住友不動産神田ビル2号館(奥)
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リバーサイドオープンデッキがあるデニーズ秋葉原中央店
今度行ってみたくなりました。

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美倉橋
ゆりかもめが飛来していました。クルーズ船の方は、この鳥を見かけると秋が深まったと感じるそうです。うみねことユリカモメの見分けかたは、ゆりかもめはウミネコに比べ小型で、くちばしと足がみごとな赤いろになっているとのことです。
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この先水路は狭くなるので対抗船が来るとのことで、10分弱ほど停船していました。ちなみに緑の船が国土交通省の船で、船の行き来を監督しているようです。さんざん待ってやってきたのは千代田清掃事務所へ向かうはしけでした。

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はしけが過ぎて動き出した船は柳橋の船宿街に入ります。
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船宿とは、もともと江戸時代~明治初期、港町におかれた入港船舶の乗組員のための宿屋でしたが、時代とともに船遊び・釣りなどのために貸し船となり、現代では水上での宴会をする料亭を営むようになりました。
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浅草橋を挟んで上下流に船宿が並びます。
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浅草橋

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柳橋付近は浅草から東京湾に向かう老舗の船宿が多く立ち並びます

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船宿の屋形船はそのほとんどがFRB製の船となってしまい、昔ながらの木造屋形船は都内では画面中央の赤い船第七小松丸だけだそうです。ちなみに、徳川将軍家の御座船を模しているとのことです。
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木造屋形船の船宿小松屋さん
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船は神田川から隅田川へ、写真では分かりにくいのですが、比較的透明だった神田川と違い、台風19号の影響で、隅田川は黄色く濁っておりました。
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神田川河口、緑の橋は柳橋です。
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スカイツリーが目に飛び込んできました。

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首都高速6号線と7号線両国JC付近
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隅田川の女王エメラルダス号
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松本零士氏デザインのエメラルダス号は2005年に就航したヒミコ、2013年のホタルナに次ぐ第3番船として今年(2019年)に就航したばかりです。
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松尾芭蕉史跡展望庭園
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小名木川河口
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化粧直し中の清洲橋
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新大橋
昔の情緒ある旧新大橋は現在明治村に移築されているそうです。

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隅田川大橋と佃島のタワマン群

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Diwaリバーゲートビル旧リバーサイド読売ビル、現在低層階はマンションで上層階のオフィス塔には吉野家HD本社などが入居しています。
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このビルの空間は、後のビルへの日照の確保の為だそうです。

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絶景の隅田川清洲橋とスカイツリー
この日は晴天ではなく、青空がバックではなく非常に残念でした。
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巨大構造物フェチにはたまらない箱崎JC
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旧山一證券本社ビル現在は茅場町タワービル
このビルを見るたびに、同じ業界に勤める私は、あの号泣会見を思い出します。 

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豊海橋をくぐると再び日本橋川です。

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首都高速6号箱崎JC付近で・・・うぁ!ッスマホのバッテリー切れだ!・・・・
ということで、残りはYoutubで検索した動画でお楽しみください。









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船をおりるとおなかがへったので、かねてより行きたかった、日本橋の天丼の老舗金子半之助本店にて江戸前天丼980円を頂きました。



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地下40mの「超巨大水路」で水都・東京の復活を!

目指すは東京の水不足解消&観光開発。大林組「スマート・ウォーター・シティ東京」構想

東京が、実は“世界有数の水不足都市だ”と聞いてにわかに信じられるだろうか? 「未来の都市構想」を紹介する本連載の第2回は、そんな東京の水問題を解消すると同時に、景観や交通網を大胆に構想する大林組の「スマート・ウォーター・シティ東京」を取り上げる。同社テクノ事業創成本部PPP事業部 葛西秀樹部長に話を聞いた。

東京の地下に巨大な水のトンネルを築く!
  
かつて東京は、“東洋のベネチア”と呼ばれる「水都」であった。

東京の街は、前回(1964年)の東京五輪で大きく変わった。江戸期に徳川幕府が百万都市を築き上げる基盤となった舟運のための運河は、高速道路や地下鉄へと置き換わった。

そして、世の中が2020年の東京五輪開催決定に盛り上がる中、広報誌『季刊大林』56号(2015年11月30日発行)の企画を検討していた葛西さんは、ある構想を描く。

「“水都復活”をテーマに『スマート・ウォーター・シティ東京』構想を思いついたんです。先の東京五輪で失った東京の魅力を、次の東京大会で復活させてはどうか、と」

『スマート・ウォーター・シティ東京』構想の核は3つある。

まず注目したいのが、ページトップに掲載した画像「ウォーターズ・リング」。都心の地下40m以上の大深度地下に、全長14kmにわたる地下トンネルを建設する構想だ。

「皇居のお濠の下あたりに、内径14.5mのトンネルを2本造って、雨水を大量にためる構想です。わが社の持つ現在のトンネル技術で建設可能です」

トンネルの主目的は、防火用水としての雨水の活用や、局地的なゲリラ豪雨の受け入れなど「都市の防災装置」。だが面白いのは交通システムとしての活用だ。

「トンネル内を水陸両用車の“アンフィ・モービル”が走る提案をしています。地上の運河とエレベーターで接続され、交通網として活用します。アンフィ・モービルは自動運転でコントロールされるので、渋滞や事故に巻き込まれることもなくなります」

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ウォーターズ・リングと、雨水の注入・放水および、地上の運河からの出入り口ともなる「SWN(スマート・ウォーター・ネットワーク)ゲート」の位置を示した図。リングは二重、ゲートは都心5カ所を想定

手に入れた水資源は観光資源に

この構想のもう一つ大きなポイントは「水不足の解消」だ。

世界規模での「水不足問題」を考えると、東京も例外ではないと葛西さんは言う。

「狭い範囲にたくさんの人が暮らしている東京は、実は世界有数の水不足都市なんです。多摩川や利根川など『周辺の広い地域』から水を集めることで成り立っているんですが、実際2016年にも水不足は起こりました」

温暖化によって気候の変動が大きくなっているため、今後は局所的な「ゲリラ豪雨」への対策も必須だ。

「現在の下水道網では、ゲリラ豪雨などに耐えられなくなってきた。既に地下に巨大な貯水施設は造られているので、ウォーターズ・リングでは、この水資源を有効活用できないか、という着想もありました」

こうしてためた雨水を地上の建物へと融通する「スマート・ウォーター・ネットワーク(SWN)」という構想が2つ目の核だ。

SWNにより雨水が有効活用できるようになれば、内陸でウォーター・レジャーが可能になるという。

「(水資源に余裕ができることから)現在、他県から取水している水の一部は、玉川上水を通じて外濠・内濠に流すことができるようになります。そこで、お濠をつなげ直して水が流れるようにすれば、水がよどまないのでお濠の水景が美しくよみがえります。水がきれいなら、都心でもウォーター・レジャーを楽しむことが可能です」

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ウォーターズ・リングによって、美しい水景が復活した市ヶ谷周辺の景観を表したCG。両岸や橋の上に江戸風情を演出した店が立ち並ぶのは、スカイツリーを手掛けた同社らしい発想だ

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神田川から望む秋葉原の夜景。海抜が低いエリアは、潮汐により水位が上下するため、小型ボートにさまざまな機能を搭載した「ユニットボート」でにぎわいを生み出す。このユニットボートは、災害時の防災機能も備える

豪華客船の玄関「メガフロート」を東京湾に

最後の核が「水都にふさわしい玄関口」を造ることだ。

日本各地に多くの大型客船が寄港していることはご存じだろうか? しかし実は、日本の首都・東京へは大型客船が入ってこられないという。

「理由はレインボーブリッジ。橋が低いので超大型客船が通るのは難しいのです。建設当時、乗客約2000人のクイーンエリザベスII号の来航を想定し、海面から橋桁までの高さ52mで設計されましたが、現在の客船はさらに大型化が進んでいますから」

そこで提案するのが「東京ウェルカム・ゲート」。

東京湾内にメガフロートを造り、水上交通網の起点とする構想だ。

「玄関口であり、東京に一番近いリゾートにしたい、と考えました。羽田空港沖の水深10~15mほどの海域に、外径1kmのリング状の“水上の街”を建設します。この辺りは水質もいいので、マリーナや砂浜、サンゴ礁を人工で造って、マリンレジャーが楽しめるよう整備します。ここから、アンフィ・モービルや小型船に乗り換えて、都心部へ入っていけます」

実際、東京都は2020年までに、青海地区に世界最大のクルーズ客船に対応する新客船ふ頭を整備することを2015年12月に発表している。その際にこの東京ウェルカム・ゲートについて、東京都からヒアリングがあったという。

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『季刊大林』56号の扉も飾った、「東京ウェルカム・ゲート」の完成予想CG。建物屋上の太陽光発電パネルと潮力発電施設を備え、このリゾートで必要とする電力は自給自足する

スマート・ウォーター・シティ東京のエネルギー貢献

EMIRA編集部としては、雨水をためることで可能となる「ヒートアイランド対策」にも注目したい。

この構想には、都心の気温上昇を抑えるための対策が盛り込まれているのだ。

「ためた雨水を細かく流れの速い“毛細水路網”として散水することで、ヒートアイランド現象を抑制します。また、ウォーターズ・リングに貯水する際に地下50mまで落とすので、その際に発電して、くみ上げる際の電力として使うこともプランに含めています」

このように、世界有数の都市・東京において、水をどのように活用するかを考えた「スマート・ウォーター・シティ東京」構想。

残念ながら具体的な事業として計画されたものではないのだが、発表時に大きな反響を呼び、そのアイデアは東京の観光ビジネスや都市計画に、まさに水のように浸透していっている。「水都・東京の復活」も、そう遠くない未来に実現するのかもしれない。

かつて江戸はかつては豊富な水と共存する水の都、水都でした。
江戸時代、江戸は徳川家康が都市計画物資を運ぶために整備した河川や運河が縦横に張り巡らされておりました。1964年の東京オリンピックに向け、運河や川は埋め立てられ、水景は一変してしまいました。その象徴は神田川・日本橋クルーズの出発点でもありました日本橋です。江戸・日本橋の象徴日本橋です。現在日本橋は2020年東京五輪・パラリンピック後、工期は未定だが、10~20年かけ首都高を地中化する大プロジェクトが控えてます。
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江戸時代、人々は隅田川とその支流・運河、外濠・内濠に流れる水と共存していました。
船が物流の主力であった時代、水路をはメインストリート街の顔でもありました。
21世紀も水を有効活用したエコシステムは復活する兆しがあります。江戸の知恵を現代に取り戻し、都心で必要な雑用水を雨水利用に切り替えるていこうという動きは実にスマートであります。

実は東京は人口一人当たりで考えると、世界的にも有数の水不足な都市でもあります。
また、19号台風に耐えましたが、有数の洪水危険都市でもあります。

東京湾に流されているだけの未活用な雨量を有効し、大深度地下に巨大な貯水施設を整備する事により、都心部の降水を大量貯水し、循環活用を狙う「スマート・ウォーター・ネットワーク」のアイディアはなかなか素晴らしいアイディアだと思います。

都心の水量をコントロールするとともに、水上交通網を整備する「運河復活」は東京の更なる発展をもたらすと思います。

神田川・日本橋クルーズは東京の歴史と未来をいろいろと考えさせる体験でした。

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■平成-令和の10連休に思う

平成-令和の10連休も残すところあと1日・・・いい加減ちょっと長かった。
10連休天気がいまひとつであったせいもある。

皆様どうお過ごしでしょう。

私は、地方に12年ほど生活していましたが、ゴールデンウィークは必ず東京に戻るのが恒例でした。人が少ない東京都内は新緑で美しく、なんでわざわざ海外や地方へ行くのであろうと思っていました。

GWにハワイや海外に行く人はよく高額なのに行くもんだと思っていたせいもあり、GWははじめから、都内以外どこへも出かけないつもりでありました。

とはいえ、折角の休み、都心以外は桧原村と、本栖湖へ行ったのですが、高速道路は大渋滞・・・・でした。

連休であっても娘は大学の授業があるという、ウイークデイはバスが休日/祝日ダイヤで朝の始発が遅く、朝5時15分に起き駅まで送り、帰りは毎日11時過ぎにバイト帰りの娘を車で送り迎え、まったく休めたものではない。

令和を日本国民がお祝いするのはいいが、国民が一斉に10日も休むのはいかがなものか。

確かに3日休み3日出て4日休みであることを考えると中3日は気持ちが集中せず、多くの人達が、心の中で10連休にすればいいじゃないかと思うはずだが。いざ10連休にしてみると、私のように長いとぼやく人間が現れる。実に勝手なものである。

しかし、今年のゴールデンウイークの天気だが、皮肉なことに急遽連休となった、4月30日5月1日2日はいささか雨模様、会社に出社してもよかったかもしれない。

もともと、10連休を取れた人は日本国民の半分、保育園が10連休で出社しなければいけない子育て世代はたいへんであったろう。 道路も出かければ渋滞だらけ、国民が一斉に10日休むより個別に10日連続休むようにしたほうがどれだけ素晴らしいだろうか?

だいたいこれだけ休むと火曜日から出社するには些か気力が要るのではなかろうか?新入社員や新入生はいきなり5月病になるのではないか?心配である。

●スポーツクラブ

この10連休私は再びスポーツクラブに再加入したので、毎日通っています。
10連休明け、挨拶代わりに10連休はどうしましたか?と聞かれたら、毎日スポーツクラブに通ってましたと答えるつもりである。

ひたすら体を鍛えていますといえば聞こえがいいのだが、太ってしまった体を少しばかり痩せようと、毎日泳ぎサウナに入って帰ってくるだけである。

再加入した初日、25mを10往復して、500mを泳ぎ切った時には、もう限界だと思ってしまった。

半月毎日泳ぐと、500mを泳ぐのが辛くなくなりました。500mが辛くなく感じた日から毎日少しづつ距離を伸ばし、おかげさまで昨日は1000mなんとか泳げるまでになりました。

まだ、途中何度も休憩して泳ぐので、一時間近くプールの中にいます。以前のように1000mを休まずクロールで泳げる体力が戻るにはあと数ヶ月はかかりそうである。
しかし、元気な70代の老人スイマーに依然スピード、水泳距離で、負けています。


年寄りは、30-40年前といえば、家でテレビでも見てゲートボールでもしているのが相場であったが、最近は街を歩けば年寄りばかり、私が通うクラブは、スポーツクラブというより老人クラブの様相である。

これが、一昔前の年寄りであれば、温厚で優しいというイメージがあったが、最近の年寄りは、自分のことを年寄りだと思っていない気持ちが若い方が多いせいか、切れる老人をしばしば見かける。先日も会社の目の前の広場でハトに餌を撒いている老人に注意をしたら、私の顔に唾をかけ、突っかかれたので、警察に突き出した。
この休み前も、別な老人がハトに餌を撒いていたので、いかに迷惑を受けているか説明した上で、撒かないようお願いしたにもかかわらず、また撒いていたので注意したら、喧嘩を売るのかと私に突っかかってきたので、交番に突き出そうとしたところ、急にしゃがみこみ、私の手首を握ったので、引っ張ったところ泣き出した。

結局交番に連れて行ったが、最近の年寄りはすぐ切れるし、中には車を暴走させ、交通事故を起こすし、危険極まりない。

私が前通っていたクラブでも、いつ行っても居る方がいた。その方、夜のサウナでも見かけ、いったい何時間ジムで過ごしているのか?下手すれば住んでいるのか?と思っていましたが、ジムの方に聞くと、デイサービス代わりに家族が置いていくのだとか・・・・。また、人間の性とはいえ、シニア会員たちが派閥争いをしている現場をたびたび見かけた。正直、見ていて気持ちがいいものではありませんでした

フィットネススタジオや筋トレジムには20代~40代の会員も多いのだが、ことプールはシニア会員が比較的多い、中には車椅子に乗っててもおかしくないような、足取りがおぼつかない80代後半~90代の会員もプールで見かける。リハビリを兼ねて来ているのであろうか?間違ってもプールであの世に逝かないで欲しいものです。

総務省の調べでは、スポーツ施設利用料の支出額が最も多かった年代は「60代」であると報告されています。

まあ、水中フィットネスや水中歩行などは老人がほとんどだ。この傾向は前に通っていたメガロスもも含め青葉区のスポーツクラブは、どこも同じである。

横浜市青葉区は男性の平均寿命日本一、女性も9位。
小金がある老人がスポーツクラブで毎日鍛えれば自然長寿になるのであろう。

青葉区 男性が長寿1位に 平均寿命83・3歳
【タウンニュース】2018年4月26日号 

イメージ 1 厚生労働省による「2015年市区町村別生命表」が4月17日に発表され、青葉区の男性平均寿命が83・3歳で全国1位であることが分かった。

生命表は5年に1度、日本の人口と死亡数、出生数をもとに作成され、今回の発表が4回目。

男性の平均寿命は前回(10年)が81・9歳で全国8位。前々回(05年)は81・7歳で1位だったため、今回調査で再び長寿1位に返り咲いたことになる。一方、青葉区の女性平均寿命は88・5歳で9位。こちらも前回の88・0歳、20位から順位を上げた。なお、横浜市全体の平均寿命は、男性が81・5歳、女性は87・3歳だっ
た。
女性は沖縄が上位を占めているが、男女ともに青葉区のほかに川崎市麻生区、世田谷区、横浜市都筑区など青葉区の近隣が多い。

都心や、東京と東部の下町エリアよりも、ほどよく都会で緑豊かな青葉区のような
田園都市が理想の住空間である。

2016/7/21(木) 午後 6:57

●もうすぐ300万アクセス

イメージ 2 今年で、Yahooブログはサービス停止となるが、2008年2月28日に開設以来、当ブログは2019年5月5日11時現在
2,999,292アクセスである。

このままでいけば、おそらくGW中5月6日300万アクセスを突破するであろう。

Yahooブログのサービス停止のニュース以降なんだか力が抜け、記事に力が入っていないと皆様も敏感に感じ、1000アクセス以上あったアクセス数が800~900台昨日5/4はここ数ヶ月で最低の795に落ちている。

ブログはオワコンではないと思っている。

ツイッターじゃ発信できる情報が限られ、私のような情報が詰ったページのリンクを貼り紹介するのがやっとで、リンクされ情報を発信する側になりたい。





●DdogのGW

○4月27日(土)
私のPCルームとお庭のお掃除、衣替えをして スポーツクラブへ行く

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近所で評判のモッコウバラである。桜が散る頃~ゴールデンウィーク前半に見ごろを迎える。

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おそらく、今年一番の見ごろであったと思います。
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○平成31年4月28日(日)

根津神社に粽を収め、新しい粽を頂き、玄関に飾る。
今年の根津神社はキャパシティを超える人が集まっていました。

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インバウンドの外国人観光客、御朱印の長蛇の列・・・
参道は屋台の間が狭く、歩けたものではなかった。
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駐車場は、例年通り、日本医科大学付属病院の奥の住宅地にある駐車場に駐車した。
今回、いつもと違う道筋で少し遠回りの散歩をして、都心の住宅街しかも山手線の内側に忽然と現れた雑木林を発見した。

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千駄木ふれあいの杜、一応公園にはなっていましたが、文京区は奥が深い。
しかし、ふれあいの***と、どうしてネーミングにセンスがないのであろう。

私だったら区立千駄木雑木林とでもしたであろう。

更に歩くと、光源寺(駒込大観音)にたどり着きました。

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光源寺は、天正17年(1589年)、神田四軒町に創建され、江戸城拡張に伴い、慶安元年(1648年)に現寺地に移転しています。

江戸の鰹節問屋・丸屋宗閑(吉兵衛)の寄進という初代の駒込大観音は、元禄10年(1697年)造立の一丈六尺(5m/境内掲示には2丈6尺=約8m)の十一面観音像。

初代は金色(こんじき)に輝き「所謂大観音、一丈六尺と稱し、其御首や二階の窓戸より拝せらる」(『東京名所図会』)と、2階の窓から顔を拝むという設計だったようです。

昭和20年の東京大空襲で焼失し、焼失から48年経った平成5年になってようやく現在のお姿になった。どうせなら上野の大仏様も再建するべきではないでしょうか?
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○4月30日
雨模様ブログを直したり、ひたすら読書、夕方からはジム

平成から令和に変る瞬間は、疲れて寝ていました。

令和元年5月1日

令和元年初日 近所の氏神様に参拝し、

横浜伊勢山
伊勢山皇大神宮に参拝 御朱印2時間待ちというので断念

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参拝も長蛇の列でした。

令和の記帳があったので、記帳し、御朱印を貰おうとしましたが、人ごみの奥に最後尾のプラカード 聞けば受付1時間半~2時間、書いてもらうのにも待つのに小1時間はかかるとのこと。断念しました。

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強運神社の別名がある五柱稲荷神社ごばしらいなりじんじゃ)に参拝 誰も並んでいなかったので令和最初の御朱印をいただく。ちなみに五柱稲荷神社は勝海舟揺籃の地の碑が立っていました。育ちの地ということですね。また、五柱稲荷神社正面は、元大関魁皇浅香山親方の相撲部屋・浅香山部屋がありました。

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横十軒川沿いのパーキングエリアに車を停め、歩いて10分ほどで亀戸天神に到着。若干満開を過ぎ散り始めでしたが、ぎりぎりセーフでした。

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亀戸天神の藤をは見事に咲くのに我が家の藤は地植えしているのですが、今年も花が2-3輪・・・

鉢植えで買ったときは、10輪近くの花があったあのに、地植えして7年-8年ほど経ちますが、ここ数年2-3輪でさびしい限りです。藤の花は花を咲かせるのが意外に難しい植物のようです。植物が花を付けるのは子孫を残す為なので、ある程度成熟してからのようです。

根がどんどん伸びて大きく成長出来る環境なので、木が若返ってしまい、暫く花が咲かなくなるようですが、今年あたりそろそろと思っていたのですが、ダメでした。

亀戸天神でも御朱印は1時間以上待ちでした。悩みましたが、外人さんが結構並んでいたので、御朱印は初めて参拝する寺社仏閣でいただくのが基本なので、並ばないことにしました。

最近は御朱印ブームは外国人も巻き込んでいるようです東アジア系の方は並ぶのが苦手らしく、この日はあまり見かけませんでした。

非漢字圏の人にとって、漢字はクールだといいます。朱色の押印と墨書きで表される寺社の「御朱印」ははアート作品のように鑑賞の楽しみがあり、ひとつひとつ増えていく喜びもあるのでしょう、最近は御朱印帖を手にした若い女性や外国の方も見かけるようになりました

そもそも御朱印とは、「書き写したお経を奉納した証」として授与されるものでした。

四国などで御朱印を納経印、御朱印帖を納経帖と呼ぶのはそのためです。

庶民も旅が許された江戸時代、参拝は旅の目的、寺の周辺は観光地になって多くの人が訪れました。そうするうちに次第に写経の証としての御朱印本来の意味は薄れ、参拝の証とされるようになりました。次第に神社でも、御朱印を授与するようになったとのこと、神社より寺が本家だったようです。

家内は1995年四国から始め、私は2000年京都からはじめましたが、当時御朱印は何?と私は知りませんでした。近年は仏像見仏やスピリチャルブームで、御朱印をする人が急増したような気がします。スタンプラリーでもするような感じで、御朱印の行列が長くなったような気がします。それでも、平成最終日から令和初日の異常な盛り上がりはいささか異常である。

ちなみに私は6冊目、400寺社以上を参拝しているようだ。

○5月2日
桧原村の九頭竜神社参拝


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○5月4日

富士本栖湖リゾートの富士芝桜まつりに義母さんと家内3人で行く

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せっかくなのでちょっと雲を削ってみました

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執筆中

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