Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

カテゴリ: 田園都市ライフ


2021年5月28日私の前半生は終わった。
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2021年5月28日深夜脳溢血に倒れた。左半身が麻痺となり身体障害者となった。家内に私の不貞が露見。妻子より絶縁を言い渡される。老健に幽閉される。老健を出たかった。自宅へ帰ることを拒否される。会社へ復職したい→ご飯を出してくれる見守り付き高齢者アパートへ捨てられる。一人暮らしを開始する。会社へ復職しようとしたが一度は断られた。理由は老健の医師が診断書に復職困難と書かれたせいでした。ズカン!
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リハビリに通いだした先生がデスクワークなら可能と診断書に書いていただき本日再度チャンスを頂き本日面談をしてきました。産業医は私と会話して復帰可能としてくれた。とりあえず復帰がかなえられそうです。人事部は嘱託契約になるので金銭的に根掘り葉掘り聞かれた、24日人事部の面談は通過した再度部長面談で正式に決まります。

私は障害者年金を月額20万弱いただいている
3月末で定年退職した場合障害者になってなければ手取り10万強で住宅ローンを返済するのに窮するところでした、運が悪く左半身が麻痺にはなったが、65歳までは住宅ローンを返済しても生活ができる。
運がいいのだか悪いのか・・・・

私がずっと習慣的に不倫を続けていたので、妻子から絶縁を突き付けられたが妻とは離婚していない。できれば離婚したくはない。顔を合わすと罵られ罵倒され正直物凄いストレスを感じる。だが私は言い返せないのでただただ耐え謝るばかりなのだ。

問題は現在妻子が住む一戸建てだ離婚するとローンの払い主私が住んでいないので一括返済を求められる場合がある。私だって住んでもなく面倒も見てもらえず離婚したら売却しなければならないだろう・・・
だが娘には残してあげたい、それゆえ離婚していない。
また65歳になると年金は障害者年金か通常の年金になるか選択となる多い方を選択となる。妻の老後を考えると通常の年金にして半分渡してあげたいが、その時私を許してくれたなら問題ないが・・・
私は障害者年金を選択すれば妻には年金渡さない・・・
5年間葛藤し続けるだろう。

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私は1980年代前半の大学時代、日本の産業構造からすると輸出産業から金融に移ると読み進路を定めた。1986年昭和61年金融業界に就職した運よく読み通りバブル経済が到来し世間的には良い給料ボーナスをもらった。仕事は死ぬほど辛かった。
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やがてあっけなくバブル崩壊。バブルが破綻した1990年代前半金融業界を激震させた大事件に巻き込まれてしまった、警視庁に重要参考人として2カ月通った。

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上司だった支店長が役員を巻き込み詐欺事件を起こしたのだ。総会屋が嗅ぎ付け詐欺事件が発覚した、放置していたらもっととんでもない事件に発展していたはずだったがもっと大事件へと発展しなくて済んだ。だが会社は総会屋に利益供与をしていたことが発覚そちらももっと大事件もさることなだら社会的大事件になった。私はまだ完全退職していないいので詳細はご勘弁。

私の担当していたお客様が詐欺事件のきっかけとなった。・・私は身を守る為に関係資料を自宅に隠匿していた。私は会社に許可をもらい警視庁へ資料を提出。毎日証言内容を報告し、今後の聞かれるであろう内容を報告。関わった役員名と韓国カジノへ行ったと思われる日のメモの提出など一応確認した。会社は隠さず全部話していいと許可をだしていた。

ところが支店長役員らが起訴され事件が終結後、会社から私がしゃべり過ぎと叱責をうけ出世コースではないが通常の昇進コースから外された。そのうえ11年間地方巡業をさせられた。転職はステップダウンの時代だった、転職で某一部上場企業に合格したこともあったが最終的に転職しなかった。理由は転職したらかえって年収が下がったり福利厚生もわるくなりそうだったからだ。某大手損保の子会社もその気になったら行けたかもしれなかった。しかし我が社は膿を早々に出したのでかえって生き残る可能性があると私は読んだので私は転職しなかった。事実我が社は激動の金融再編の中、合併せず生き残った。11年間地方巡業は都内店→新居浜→佐賀→福知山→京都→豊橋→本社コールセンター。家内には苦労をかけた。

会社が潰れたリストラし失職した、苦労して会社を立ち上げたとかといった人生げはなく今時転職せず終身雇用の方がめずらしいかもしれないが、まあ普通のサラリーマンよりは結構激動の人生なのであるが、今後は一層運命に激しく翻弄される人生となるであろう。

65歳以降もできればお金を稼げる仕事をしたい。自宅で電話相談員の仕事ならやれるだろう、資格をとれるなら取る必要もある。勉強も必要だ。
正式に会社復帰が決まるとこのブログの更新はまた少なくなるかもしれません。


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ブログ主、親族です。本人からの依頼により書き込みます。ブログ主は5月下旬より療養中です。命に別状はありませんが、回復には時間がかかりますので、しはらくブログはお休みします。ツイッターにてつぶやいています。


ご心配いただきました皆様には
お知らせが遅くなりました。

悪しからずご理解いただけますよう、よろしくお願いいたします。
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19日水曜日私は会社を体調不良で早退した、原因は食中毒である。

最近私はハヤシライスに嵌まっていて、原因は朝出社する前に食べたハヤシライスだ。
ちょっと高いカルビ用の牛肉でつくると、市販のハヤシライスが牛丼用のバラ肉で作るハヤシライスと違いバカうまく変身することに気が付いて、日曜日10皿分作り置きしたのだ。

高い肉を使えば何だって美味しいはずだが、同じようにカレーライスで高い和牛を使ったとしても、味の変化はそれなりに美味しいが劇的に旨くなるものではない。だが、ハヤシライスは材料が牛肉と玉ねぎとシンプルであるぶん肉の美味しさが素直にハヤシライスの美味しさになる。

とても美味しくできたのだが、娘がいない分減り方が鈍く、水曜日の朝まで残ってしまい、最後に鍋に残ったハヤシライスに当たったようだ。

冷蔵庫に入れてなかったのが、今回の敗因である。普通食中毒となるような食べ物は口の中に入ると、若干酸っぱさを感じるものだが、今回は酸っぱさを微塵も感じなかったので、大丈夫だろうと食べてしまったのだ。やはり梅雨入り鍋のまま放置し、冷蔵庫にしまわなかったことを後悔しています。

仕事中徐々に食中毒の前兆のあのヤバいムカムカ感を感じ、昼の弁当用に入れておいた梅干を即座に口に放り込んで一旦は収まったが、すぐにぶり返し・・・これは吐かないと収まらないなぁと思った。仕事をしていてもだんだんチェックがあまくなってきた。そこで、早退を決意。

とはいえ、突然私が抜けると問題がある。実は火曜日4人のチームなのだが1人が人間ドックで休み、1人が午後早退となり、若干周囲に声をかけなんとか手伝ってもらい何とか切り抜けたばかりだったので、後ろめたかった。

一応私がチームリーダーなので、気持ち悪い最中引継ぎを行い1時30分早退した。
あの嘔吐直前の気持ち悪さは最悪な気分である。
吐きたくても吐けない最悪な状態で会社を出たとたん、今度は急激に下痢となり駅に着くと直ぐにトイレに駆け込む。

下から排出すると症状が改善、暫く個室で暫く格闘していたのだが・・・・嘔吐せずに徐々に改善。会社に帰って仕事に復帰しようかとも思ったが、まだ嘔吐していないので帰宅した。

地下鉄で熟睡し、3時過ぎ自宅に戻る頃には正常に戻っていた。どうやら嘔吐原因のハヤシライスは小腸へ達したものと思われます。

突然貴重な時間ができたので、途中で作業を中断していた


を、陸上兵器のパレードの分まで仕上げた。今年は航空機の分は画像がいまひとつ鮮明出なかったの今年の兵器解説はなしとしました。

話はハヤシライスに戻すが、諸説あるハヤシライスの起源だが、私は丸善創業者「早矢仕有的:はやしゆうてき」起源説を支持します。丸善ジュンク堂書店のHPに紹介されています。

明治の初期、丸善創業者の早矢仕有的が考案、そこから名付けられたとされる「ハヤシライス」。

ハヤシライスの命名には諸説ありますが、有的は当時日本を訪れていた多くの外国人との親交があり、また西洋料理にもなじみがあったため、友人が訪れるとあり合わせの肉や野菜をゴッタ煮にして、ご飯を添えて振る舞っていたようです。

やがてこの料理は「早矢仕さんのライス」といわれるようになり、評判が評判を呼んでついには「ハヤシライス」の名で街のレストランのメニューになったとか。
(『丸善百年史』より抜粋)
早矢仕有的の息子 早矢仕四郎説もあり、もしかしたら早矢仕四郎かもしれません。


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中共ウイルス禍のおかげで昨年の正月から一人暮らしの水戸の父が住む実家へ戻っていなかった。

三度目の緊急事態宣言が出ているが、GW実家へ帰った。

免許を返納し足のない父を久しぶりに父方の祖父母の墓参りに連れて行った。
途中父が耕す畑にトマトの苗を植える為、近くのホームセンターでトマトの苗と肥料を買い込んだ。

墓参りに行く前、父お気に入りの焼き肉屋で昼飯を食べたのだが、バケツをひっくり返した豪雨が降った。小雨になったので旧金砂郷村にある墓へ墓参りをした。

父の叔父にあたる海軍兵曹長六蔵さんと、陸軍憲兵七蔵さんの話を聞いた。

七蔵さんは陸軍憲兵であった。父も罪状当正確には知らないのだが、憲兵だという理由だけでオーストラリアでB級戦犯として処刑されたのだそうだ。父にとって優しい叔父であったらしい。奥さんのお千代さんは、私の幼少期父の実家によく遊びに来ていて私もかわいがってもらい面識があった。ただ、お千代さんも六蔵さんについて詳しく話すことはなかった。

六蔵さんと父は生前に一度しか会ったことがなかったという。田舎から若くして東京に出、一高~東大を目指したそうだが目標を果たせずそのまま東京で就職したとのことだ。

オーディオファンだったらしく、蓄音機の新しいのが出ると買い替え、古いものは実家へ送って、父の実家には2台ほど蓄音機があったそうで、戦前父は、父のすぐ上の北海道の叔父で蓄音機を廻し、村の若者やら年寄り相手にSP版で流行歌やら浪曲の類の演奏会をやったそうだ。

六蔵さんは独身で、出征の際最後に実家に戻り海軍へ入隊したそうだ。どの海戦で亡くなったのか何に乗っていたのかもよくわからないが、レイテ沖海戦あたりではないかとのことだ。

墓参りを終え実家に戻る途中また雨が強く降ったのだが、東の空にきれいな虹がかかっていた。
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完全な
二重半円の虹であった

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撮影場所は青柳の渡しの碑がある那珂川堤防上である。場所は九代藩主徳川斉昭が北宋士大夫である宋迪が創始した瀟湘八景に倣って選ばれた「水戸八景」の一つ青柳夜雨の碑がある鹿島香取神社境内南のすぐ傍にある。青柳夜雨は青柳の渡しの木の下から見た水戸城下の街のことであるから、水戸芸術館の塔とNTTの通信塔が見えるこの地が実質水戸八景の地かもしれません。

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虹はスピリチュアル的にとても縁起が良いもので、世界的に幸運のサインとして知られています。ちなみに後で書きますが、古代中国や陰陽道ではかならずしも縁起がいいとはかぎらないそうです。

古代中国人以外は、虹を見ると幸せな気持ちになり願いが叶う・希望がある・人生の転機となる・夢が実現する・明るい未来が待っているというスピリチュアル的な意味を感じ取ることが普通です。

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もうちょっと全景が絵になるところで撮ればよかった・・・
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虹の麓に行きたいと思って追いかけたけどこれが限界でした

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https://weathernews.jp/s/topics/201807/300165/

そもそも虹は、太陽に向かって反対の方向に出現します。
私達が太陽を背にして立った時、太陽光の進む方向(対日点)から常に42度の角度を保っています。そのため、虹のふもとに、どんなに素早く行こうとしても、虹は42度の角度を保ち続けるため、虹と自分との距離は縮まりません。しかし、今回も比較的近くに行けた。

残念ながら虹のたもとには辿り着くことは絶対に出来ないけはずだが、学生時代虹の麓を合宿へ行く観光バスで通過した体験があるのだがあれはなんだったのだろう・・・・

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日が沈み雲がかかってくると虹も消えていきました

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なんだかコローやミレーに代表されるバルビゾン派七星の画家やオランダ近代自然主義絵画のハーグ派が描いた19世紀初期の欧州の風景みたいです。

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ところで、「虹」という漢字をよく見ると変だ。虫偏+音符「工」(=つらぬく)。虫偏の虫はへび「蛇」も含みます。広辞苑には にじを、空にかかる大蛇に見たててできた文字。 とあります。

古代中国では、蛇が山で千年、海で千年、野原で千年修行をすると天に昇って龍になれると考えられていました。そして虹は、龍になる大蛇が天空を貫く時に空に作られるものと想像されていたため、蛇を表す虫偏。さらに、「貫く」とか「天と地をつなぐ」などを意味する「工」の字で「虹」という漢字が成立したとのことですが、古代中国人にとっては虹は不吉なものの象徴で、虹が出ると良くないことが起こると信じていたようです。中世になっても中国では虹がでれば、陰陽道の天文博士にそれが吉凶どちらかの予兆か占わせたとか?

ちなみにwikiの虹に面白いことが書いてあった。


古代ギリシャでは紀元前300年ごろまで、中国では西暦1000年頃まで、日本では西暦1200年頃まで「虹は生き物だ」と考えられていた。その後は多くの著者が「虹は生き物ではない」として「虹は生き物だ」と書く本は無くなった
。中国では「蛇=へび」「蛙=カエル」と同様に「むしへん」を用いて「虹」と書いた。

虹には「霓(ゲイ)」という文字でも虹を表した。「虹(こう)」は「オスの虹」で「霓(げい)」は「メスの虹」の意味だった
。また、古代中国の『礼記』の「月令」には「虹は3月に現れて10月に消える」という話が書かれていて、多くの本に引用されていた。この場合、虹は春に発生して秋に姿を消す虫や蛇のように考えられていた。

冬に雨が少ない地域ではこのような現象が見られたと思われる
。英語圏では「レインボウ」と呼ぶが、「レイン=雨」と「ボウ=弓」が結びついた言葉である。西洋でも東洋でも大昔から「にじは雨の子、雨の作り出すもの、雨が大好きな生き物」と思われていた。

翌日妹が、母の墓近くに美味しい蕎麦屋が移ってきたというので、母の墓参りついでに寄ることにした。

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そばまさ」という店だ。食べログで3.49の評価だ。私の評価では4以上の評価は確実にある。

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2色せいろのの2枚とも十割細打ちそばを頂いた。

そばやの帰りに、妹と水戸八景の話となったが、小澤の滝がずいぶん前に曝井(さらしい)のようにきれいに整備されているという話を聞いた。


実家のすぐ近所の曝井は確かにニ十数年前位に綺麗に整備されていたが、小澤の滝の存在自体恥ずかしながら知らなかった。「小沢の滝?何、知らない」と言ったところ、妹は私をバカにして、「ウソ~」と言って、帰りに寄った。滝とあるが、滝ではなく台地の麓によくある曝井のような泉であった。

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妹とは家で別れ、妹から水戸芸術館のチケットを貰った。
3.11とアーティスト:10年目の想像」を見て帰った。


3.11とアーティスト:10年目の想像 | Artists and the Disaster: Imagining in the 10th Year
•2021/02/05


3.11とアーティスト:10年目の想像 | Artists and the Disaster: Imagining in the 10th Year 会場風景

一見ガラガラだったが、もの好きな人がいてこの手の現代アート展の平均的な密度であった。


4時頃に水戸を出たはずだが、途中の渋滞は酷かった・・・家に着いたのは8時過ぎであった。江戸橋JCTの横転事故を通過するだけで1時間以上かかった。

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放蕩息子、17世紀
(The Prodigal Son, 17th century)
サロモン・ド・ブレイ
放蕩息子のたとえ話


ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。

そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。

父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。

父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11-32)

解説
この物語の主題は、神に逆らった罪人を迎え入れる神のあわれみ深さである。登場する「父親」は神またはキリストを、「弟」(放蕩息子)は神に背を向けた罪びとを、「兄」は律法に忠実な人を指しているといわれる。

放蕩息子であった弟が故郷に帰還し、父親に祝宴を開いて受け入れられるという物語を通して、神の深い憐れみの奥義が表現されている。

一方、弟のために開かれた盛大な祝宴を喜ぶことができず、父親に不満をぶつける兄の姿は、律法に忠実な人が陥りやすいファリサイ派の精神、傲慢さを表していると読むこともできる。この読み方によれば、兄をたしなめる父親のことばはファリサイ派のパン種(偽善・慢心)に注意しなさいという、この兄のようないわゆる「善人」への警告を含んでいるとも読み取れる。マタイによる福音書(20章1-16節)でイエスは「ぶどう園で働く労働者のたとえ」を語っている。一番はじめに呼ばれた労働者は午前9時から働いた。そしてある人は12時から、ある人は午後3時から、またある人は午後5時からという具合にぶどう園で働いてもらい、最後に主人は最後に呼ばれた者から順番に同じ金額の報酬を与える。このことに対し最初の労働者が主人に向かって不平を言った。放蕩息子の兄の不平はこの最初の労働者の不平と同じものと言えるのであろう。。

また同時にこのたとえ話は、神の楽園から追い出されていった創世記のアダムとエバの子孫である人類に対して、神の楽園への帰還を呼びかけるという、壮大な救済の物語を象徴的に重ね合わせている。


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本日年休をとっていちご狩りに行った。

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横浜ベリーベリー


2500円でイチゴが食べ放題・・・・この農園にしたのは、横浜市営地下鉄ブルーラインの立場駅と中田駅の両駅から歩いて十数分と近く、他の農園より多くの種類のイチゴが楽しめることでした。紅ほっぺ、とちおとめ、
おいCベリー、あきひめ、よつぼし、もういっこ、桃薫、レッドパール、天使のいちご(白いイチゴ)の9種類が食べ放題でした。

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練乳もつけ放題でしたが、どの種類も美味しくて甘く、練乳はほとんどつけずに十分甘く、不要なくらいでした。全種類たべてみました!

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白いイチゴの「天使のいちご」を初めて食べました!これが美味しかった!しかし、白いので熟しているか否かを見極めるのにちょっと慣れが必要でした。


見た目は甘くなさそうですが、酸味が控えめでちゃんと甘味がありちゃんと完熟したものであれば非常に美味しかった。

9種類のうち私が一番気に入ったのは

紅ほっぺです。

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ネットで検索するとイチゴ本来の甘酸っぱさとコク!と書いてありましたが、他のいちごよりジューシーで柔らかい食感と甘さ、他の銘柄より頭一つ抜きんでて美味しかった。最後の3分は。これを一皿分素早く収穫して一気に口にほうばりました・・・

『紅ほっぺ』は、静岡県生れの苺です。
「章姫(あきひめ)」と、「さちのか」の交配により生まれました。

育成場所は、静岡県農業試験場。
2002年に品種登録されています。

紅ほっぺが登場するまでは静岡県を代表する品種だった「章姫」の果実が大きく甘味が強い特性と、「さちのか」の果肉かためで酸味とコクがある特性と、両方の優れたところを引き継いでいます。

とちおとめ

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とちおとめもとっても美味しかった。やはりメジャーな銘柄は、美味しいから売れて生産農家も増えるという仕組みなのであろう。

「とちおとめ」とは、栃木県農業試験場で育成され、1996年(平成8年)に品種登録された苺のことを言います。「久留米49号」に「栃の峰」を交配して選抜・育成された品種で、現在では栃木県内で生産されている苺の9割以上がこのとちおとめとなっているそうです。

とちおとめは全国的に見ても現在もっとも多く作られている品種で、東日本ではシェアNo.1を誇っています。

とちおとめの特徴

とちおとめは一般的に、粒が大きめで形がよく、鮮やかな赤色をしています。糖度が高く、適度な酸味を持っており、果汁もたっぷりでジューシーな味わいです。果肉が詰まっているのでしっかりとした歯ごたえがあり、比較的日持ちがするのも魅力のひとつとされています。

収穫してすぐのものは甘く強い香りがするのも特徴で、鮮度を見極めるための判断材料として香りを重要視することもあるそうです。

●平成24年に登録されたばかりの新品種

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おいCベリーは独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構が開発育成し、2010(平成22)年登録出願、2012(平成24)年に品種登録されたばかりの新しい品種です。

この品種は九州沖縄農業研究センターにおいて取り組まれ、ビタミンC含量が安定して高く、果実品質と収量性に優れる促成栽培用品種をめざし様々な品種を交配育成され生まれました。

●おいCベリーの特徴

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農林水産省の品種登録データベースには下記の通り記載されています。

『果実の大きさは大、果実の縦横比は縦長、果実の形は円錐形、果皮の色は濃赤、果実の光沢の強弱は強、そう果の落ち込みは飛び出す、果実のがく片の付き方は水平、果径に対するがく片の大きさは同等、果実の硬さはかなり硬、果肉の色は赤、果心の色は赤、果実の空洞は無又は小、季性は一季成りである。  出願品種「おいCベリー」は、対照品種「とよのか」と比較して、そう果の落ち込みが飛び出すであること、果肉の色が赤であること、果心の色が赤であること等で区別性が認められる。対照品種「さちのか」と比較して、そう果の落ち込みが飛び出すであること、果心の色が赤であること等で区別性が認められる。』

●7粒で1日分のビタミンC

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農研機構の紹介によると、『果実は、ビタミンCが市販品種の中で最も多い「さちのか」の約1.3培、「とよのか」の約1.6倍含まれ、さらに高い抗酸化活性を有しています。また、果 実は「とよのか」より大きく、濃赤色で光沢があり、糖度が高く、食味も良好で、日持ち性も優れています。』との事で、たった7粒で1日分のビタミンCを摂ることが出来るほどだそうです。

●おいCベリーを食べてみた食味

食べた感じは、果肉にしっかりと歯触りがあり、それでいて固すぎると言う訳ではなく、まず甘さが広がり、それを支えるバランスの良い酸味が後に続きます。

●主な産地と生産量

まだ登場したばかりの品種なので生産量は多くないようですが、佐賀県や長崎県などの九州を中心に、四国や中国地方などで栽培が始まっているようです。
たしかに美味しかった。ちょっと固くていちごのショートケーキのいちごに向いてそうです。


「章姫(あきひめ)」は、「久能早生」と「女峰」を交配して、静岡県の萩原章弘氏が育成したイチゴです。1992年(平成4年)に品種登録されました。章姫の「章」は、育成者の名前にちなんでいるそうです。ちなみに萩原章弘氏は章姫の母親である久能早生の育成者でもあります。

章姫は果実が長めの円錐形をしているのが特徴。ほとんどのイチゴは横幅のある円錐形ですが、章姫は縦長の円錐形です。果皮は濃橙赤色で、果実は少しやわらかめで口当たりがよく、果汁も豊富。酸味が少なく甘味をしっかりと感じられるイチゴです。

新品種が登場しても根強い人気

静岡県ではかつて章姫が主力品種でしたが、2002年(平成14年)に輸送性の高い「紅ほっぺ」が品種登録されたことで、その座を明け渡しました。さらに2017年(平成29年)には「きらぴ香」も品種登録され、バラエティ豊かになっています。以前に比べると章姫の流通量は減少していますが、現在もおいしいイチゴとして健在です。ちなみに、紅ほっぺ、きらぴ香ともに章姫の血が流れています。

章姫の選び方(見分け方)

章姫は基本的に果皮が鮮やかな紅色ですが、あまり濃いほうではありません。少し色が薄めでも全体に紅色がまわっていて、香りがよければ大丈夫でしょう。

章姫は果皮が少しやわらかいので、パックの中で押されすぎて果汁が漏れていないかも要チェックです。

章姫の保存方法

気温の高い場所だと鮮度の低下が進むので、冷蔵庫の野菜室に入れて保存しましょう。乾燥防止のため、パックをポリ袋に入れておきます。章姫は日持ちがよいほうではないので、なるべく早く食べて、みずみずしい甘味を楽しみましょう。

章姫の食べ方

章姫は酸味がおだやかなので、酸味が苦手な人や小さな子どもにも食べやすいイチゴです。水洗いしてそのまま食べましょう。

もちろんケーキやスムージーなどに利用してもおいしく食べられます。

◆日本で初めて実用利用されはじめた種子繁殖型イチゴ品種
よつぼし いちご ヨツボシ イチゴ 苺 ストロベリー
よつぼしは農林水産省の提案公募型事業「新たな農林水産政策を推進する実用技術開発事業」の一つとして、三重県、香川県、千葉県と九州沖縄農業研究センター(農研機構)の4つの機関が2009(平成21)年から2012(平成24)年までの4年間にわたり「共同育種による種子繁殖型イチゴ品種の開発と種苗供給体系の改革」という共同事業に取り組み、研究開発したいちごで、日本で初めて実用化されるイチゴ種子繁殖型品種として2014(平成26)年に品種の登録出願が出されています。

開発に当たっては各機関がもつ沢山の優れた育種を組み合わせ、その中から選抜が行われたそうです。

結果的に三重県が「かおり野」から育種した「三重母本1号」を母親とし、それに花粉親として、「さちのか」や「とちおとめ」それに香川県独自の四季なり品種を香川県が交配育成した「A8S4-147」という品種が選ばれました。よつぼしはこの2品種の交配によってできるF1品種となります。

一般的な他のイチゴはランナーと呼ばれる蔓で株分けをする、いわゆるクローンの増殖によって苗を増やしておくのに対し、種から増やすことによって親株から病害虫の影響を受けにくくできるとともに、収穫時期が終わった後、親株を管理する必要がないというメリットがあります。栽培技術のマニュアル作成に当たっては育成に関わった4機関以外にも、山口県と北海道、それに東北農業研究センターでも栽培されたそうです。

名前の由来は「甘味」、「酸味」、「風味」が揃って「よつぼし」級に「美味」しい事と、4つの機関が共同で開発した期待の品種という意味が込められているそうです。

もういっこは2008年に品種登録された宮城県が開発した品種です。
甘みと酸味のバランスが良く、美しい光沢があり、贈答にも喜ばれる見た目です。

そのユニークな名前の由来は美味しくてついつい「もう1個っ!」と手が伸びてしまうという意味なのだそう。

一苺一笑がある宮城県亘理郡は、たっぷりと降り注ぐ日照量と温暖な気候に恵まれているため、東北一のいちご生産地です。東日本大震災で大きな被害を受けましたが、このもういっこの生産とともに、地域はだんだんと復興が進んできています。
30分のタイマーがなった時手が届くプランターは もういっこだったので、手を伸ばしてもぎ取ろうとしたら・・・地面へ落してしまった。 ライマーのベルもなり終わったので、泣く泣くゴミ箱へ・・・・このいちごはもういっこならぬ、もうちょっとだったのに・・・・(笑)

桃薫
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「桃薫」の果実は、モモに似た芳醇な香りが特徴的で、今までのイチゴとは違った風味が楽しめます。果実には艶があり外観が優れ、色が淡いことから、見た目も普通のイチゴと違います。また、果形が揃い、収量性にも優れていますので、新しい用途の開発と需要の広がりが期待されます。

桃薫も美味しかった。もうちょっと時間があったらもうちょっと味わって食べたかった。
口の中で幾つかのいちごが混ざり、もう何が何だかという状態で口の中に入れたらのですが、小ぶりな粒でしたが、確かにいちごであるけど、完熟前だが固くて甘い桃ぽい味がしたような気がします

レッドパールは後程
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お値段以上の大満足であった。

キッチンタイマーを渡され30分ピ
ピっと鳴ったところでゲームオーバー❗ちゃんと正直に食べ終えましたが・・・30分はあまりにも短く、もう15分ほどほしかった。写真を撮っている暇など無かった。

大満足したあと横浜駅に戻り
お昼小籠包を頂いた



一般に現在食べているいちごはオランダから伝わったものだが、漢字で苺とあるからには平安・奈良の時代から食べていたのであろうか?

調べたところ実は、平安奈良どころか縄文も越え新石器時代にはすでにイチゴは食べられていたようです。

ただし私たちが食べているようないちごではなく、野生のいちごでしたので、ずっと小粒のものだったと考えられてます。なお石器時代には実を食べるだけではなく、葉や茎、根まで食べられていました。

いちごが世界ではじめて栽培されたのは、17世紀の頃で、エゾヘビイチゴだったと言われています。フランスやベルギーなどのヨーロッパ地方で、野生のいちごを持ち帰り、畑で作りはじめました。

なお、本格的に栽培されるようになったのは、約200年ほど前からです。

日本における苺の歴史

<日本イチゴの歴史>

 日本では、平安時代の延喜式にイチゴが記載されていますが、当時は野生の野イチゴが食用として利用されていたようです。現在一般的に普及している品種は、歴史的に新しいもので、18世紀にオランダにて、南アフリカ原産のチリ種に北アメリカ原産のバージニア種を交配して育成したのが現在栽培されているイチゴのルーツと言われています。

 日本には江戸時代末期(1830~1840年)頃にオランダから長崎に伝えられ、当時はオランダイチゴと呼ばれていましたが、あまり人々に認識されませんでした。本格的な栽培が始まり、品種改良・育成が進められたのは明治時代になってからで、フランスから導入されたゼネラル・シャンジー種をもとに育成された「福羽」は日本イチゴの基礎を作った名品種です。

 終戦後(昭和25年)アメリカから「ダナー」が導入されてからは栽培が全国的に普及し、その後新品種の「宝交早生」・「春の香」等のスターが誕生しています。「宝交早生」は昭和50年代にはイチゴ全体の6割の生産量を占めていました。

 日本のイチゴ史に燦然と輝く2大品種「女峰(にょほう)」「豊の香」は色んな品種が混在していた1880年代半ばに登場していますが、食味の良さ、粒の大きさ等で他の品種を圧倒していたことから、この2品種で全国生産量の9割を占めるまでに成長し、東の「女峰」、西の「豊の香」の二強時代が永年に亙り続きました。しかしながら育成から14年以上経った時点で、各県試験場などによるイチゴの品種改良はめざましく、最近では生産県を中心に優秀な品種が出てきました。

 東では「女峰」に変って「とちおとめ」が急激に増え、西では人気の高かった「豊の香」にも陰りが見え始めており、「さちのか」・「さがほのか」への品種更新が始まっています。
 また、東西の2大品種に続き「あきひめ」・「あすかルビー」等、それぞれが育成された主産県でのシェアを高めてきています。

一緒に行った友人とイチゴについて話が弾むと、韓国のイチゴ問題について当然話が及びました。

韓国の日本のブランドいちご無断栽培問題





1:知的財産を無視する韓国

まずはこちらの記事から

「韓国イチゴ最高」…国産品種‘成功’
KBSニュース(韓国語) 2016.05.05
タイ、バンコクにある大型マート陳列台の中央には韓国イチゴがいっぱいでした。250グラムで245バーツ、私たちのお金で8千ウォン程度と高い方なのに、タイ人たちの食欲をひきつけました。
<インタビュー>ジャーン・ヤ(バンコク市民):「他の国のイチゴに比べて韓国イチゴは食感がやわらかくて良いです。」
<インタビュー>ラリタ(バンコク市民):「本当においしいです。甘酸っぱい味が最高です。」
昨年、私たちのイチゴの海外輸出額は390億ウォン。農産物輸出1、2位のパプリカと梨は海外品種を育てて輸出しましたが、イチゴは堂々と国産品種を輸出しました。2002年、初めての国産品種が開発された後、今は'雪香(ソルヒャン)'等、国産品種栽培率が90%を越えました。
<インタビュー>パク・ホンヒ(慶北(キョンブク)尚州(サンジュ)イチゴ栽培農家):「雪香のような国産品種は生産量も多く早く収穫できて遅くまで収穫が可能で、病虫害に強くて...」
国産イチゴ品種の成功はりんごや梨など他の果物の国産品種多様化につながっています。
<インタビュー>キム・ウソプ(中央果樹苗木管理センター課長):「世界的に競争で勝とうとするなら、自分だけの品種、私たちの地域に合う郷土的な品種をずっと開発して...」
日本品種のアオりんごに代わる国産品種'サマーキング'とやはり日本品種の新高梨に対抗する国産品種'シンファ'の普及が速度をあげています。
KBSニュース、イ・ジェヒです。

韓国が国産品種のイチゴなど果物を日本に対抗して輸出しだしたという記事なのですが、ここで問題となるのが「2002年、初めての国産品種が開発された後、今は'雪香(ソルヒャン)'等、国産品種栽培率が90%を越えました。」という記述です。


これなのですが、韓国は2009年頃から「外国に支払うロイヤリティーの負担を減らすことができる」との動機から国産品種の栽培を推奨してきたとしているのですが、元となった品種が何なのか一切言及していません。


(※1)


記事中で韓国産品種と呼ばれているイチゴなのですが、実際のところどうなのかといえば、記事中にもある雪香という品種は日本の「章姫」と「レッドパール」を掛け合わせた品種、苺香という品種は日本の「栃の峰」と「章姫」を、錦香という品種は日本の「章姫」と「とちおとめ」という品種を掛け合わせたものです。




そして問題なのが、こうした日本のブランドイチゴを韓国では一切日本側にロイヤリティーを支払わず育て、当然掛け合わせる許可も取らず勝手にやっているということです。


そしてこのような状態になった背景は解っているだけでも以下のようになっています。


農林水産知財専課

権利の管理について
Q.大切な新品種が海外に持ち出された事例があるとききます。どのような事例がありますか。

いちご レッドパール 個人育種家
韓国の一部の者に生産・販売を許諾したが、韓国内で種苗が無断で持ち出され、その収穫物が我が国に輸入、販売されていた。
育成者権者が輸入業者を相手に裁判を起こし、輸入を取りやめることなどを条件に和解。

とちおとめ 栃木県
韓国に種苗が無断で持ち出され、その収穫物が我が国に輸入、販売されていた。
栃木県が許諾先の業者に文書で注意。


特にレッドパールの場合には、2013年6月にフジテレビのニュースジャパンが取材をしており、20年ほど前、レッドパールの開発者である愛媛県の西田朝美さんという方のところへ、韓国の研究者の金重吉という人物が現れ、何度も頼み込まれて仕方なくレッドパールの苗を5年間、有料で栽培できる条件で渡す契約をしたのだそうです。


(2013年放送のニュースジャパンより)


その結果、この人物が次々と他の韓国人に苗を渡していき、西田さんには一切ロイヤリティーが支払われないまま韓国内でシェアが広がって行き、挙句の果てには金重吉という人物は「5年契約」という縛りを無視して今でもレッドパールを栽培しているそうです。


更に問題なのが、韓国は2002年に植物新品種保護国際同盟(UPOV)に加入したのですが、日本に対してイチゴのロイヤリティーを支払わなくていいよう、韓国政府が手を回しイチゴを適用外にし続けてきたのです。
(余談になりますが、レッドパールの知的財産権は2008年に切れました)




そして「どうしたら日本にロイヤリティーを支払わなくて済むか」という抜け道として、日本のブランドイチゴ同士を掛け合わせて「別品種という事」にし、その新品種が広まるまでの時間稼ぎをしていたというわけです。


そして近年になり、この「国産品種」が韓国内で定着したため、他国へと売り出した、そして最初の記事に繋がります。




2:自己完結で「口実」を作り出してしまう

このような状態になっている背景には、韓国社会独特の上下関係を絶対視する価値観や、他者の劣等性を指摘できれば自己の正当性を証明できると言う価値観、客観的視点が存在せず全てを主観視点で思考する考え方が深く関わっています。


今回の事例の場合、韓国側の言い分を調べてみると先ほど取り上げた「1万6000人のイチゴ農家、ロイヤリティー賦課で苦境に 朝鮮日報 2005/03/22」のように、日本が知的財産を盾に韓国のイチゴ農家を苦境に陥らせているという趣旨の記事が多数出てきます。


また他にも、韓国産のイチゴ(日本の品種を掛け合わせた品種)のほうが美味しいとか病気に強いとか、「日本とのロイヤリティーをめぐるイチゴ戦争で韓国を勝利に導いた」といったフレーズが出てくる場合もあります。


(※2)


こうしたフレーズが重要で、たとえば「日本が知的財産を盾に韓国のイチゴ農家を苦境に陥らせている」と指摘できれば、彼らの価値観ではそれで「日本の劣等性」を指摘したことになります。


韓国人以外からしてみると、そもそもロイヤリティーを支払わずに勝手に栽培していたのだから自業自得と考えるわけですが、主観視点のみで思考する彼らにはそもそもその発想がありません。


韓国人の農家がロイヤリティーの支払いで困っているのだから、日本の行いは悪であり「日本の劣等性の証明」となるのです。


そして彼らの価値観では日本側の劣等性がこれで証明できたわけですから、「韓国の農家が知的財産を侵害している」という問題点は相対化によって打ち消されて消えてなくなり、「日本人のせいで韓国人の農家がロイヤリティーの支払いを迫られ困っている」という部分のみが残ります。


つまり、彼らの価値観ではこの件に関して日本=加害者、韓国=被害者という構図が出来上がっているのです。


また、「韓国産のほうが美味しい」とか「韓国産の方が病気に強い」という主張も根元は同じです。


実態がどうであれ、主観視点のみで思考する彼らにとっては「こう主張した」時点で「日本のほうが劣っている(下位の存在)」という事になります。
(これには日本側が強硬な態度に出ないからという側面も存在します)


上下関係が絶対的な意味を持つ韓国社会においては、下位の存在は上位の存在に逆らう事ができません、なぜなら「上位の存在は下位の存在よりも徳が高く、その行いは全て正しい」からです。


こうして韓国では、その独特の価値観によって本来は知的財産を侵害された日本側が被害者になるはずが「日本は劣等な加害者である」と結論付けられ、自己完結の「知的財産を侵害してもいい口実」が出来上がり、それを土台に「日本とのイチゴ戦争に勝った」と勝利宣言をしているというわけです。


つまり、韓国的価値観ではすでにこの問題は「韓国側の正当性が証明された事」で解決しているのです。
だから日本品種を勝手に掛け合わせて外国へ輸出しても、それは全く問題がなくなるのです。


韓国のイチゴ無断栽培問題は、平昌オリンピックの女子カーリングのモグモグタイムで、韓国のイチゴが美味しいと選手の一人が発言したことが、一躍注目を浴び、大きな波紋をよびました。昨年の不完全ながら種苗法改正に至るなど、改めて韓国とは一切関わりを持ちたくないと思うのであります。

まあ、約束を一切守らない韓国が韓国内で日本のイチゴを栽培し品種は日本のイチゴだと認識して食べているなら腹もたたないが、約束したロイヤリティは払わず、勝手に交配し韓国産と強弁、韓国産イチゴとして、輸出する他の産業でも毎度同じことの繰り返しに我々日本人は韓国とは一切関わりたくないと思うのであります。


執筆中

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時代は変わる。十数年前までは、私が勤める会社の辞書には「年休」とは全ての自分のノルマを全てこなして、店のノルマの目処がついた時に初めて口に出すことが出来る奇跡の言葉であった。

私は年休など夏休み以外取ったことなどなかった。ところが今のご時世年休消化がノルマとなってしまい、くそ忙しい最中やすみたくもないのに休めとは、何の為の年休なんだかなぁ------。※年休を取ったあとはそのリカバリーで結局自分に皺寄せがくる。

ということで、23日年休を取った。友人が犬を飼いたいがシーズーにしようか何にしようか迷っていたので、仔犬がいるPUFFYカフェに行った。
可愛いシーズーが吉祥寺のお店にいたので、折しも桜が満開というので、井の頭公園で花見をかねて、吉祥寺マクドナルド九時半待ち合わせ。

久々の吉祥寺である。
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残念ながら桜は五分から八分咲き先であった。
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久々に足こぎボートに乗った。朝の10時だったので、待つこと無くのれました。30分600円
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ボートから愛でる桜は恐らくベストの個人的にベストの5に入るだろう。あとの4つは千鳥ヶ淵と不忍池、洗足池、弁慶堀(べんけいぼり)ボートハウス。
弁慶掘りは、赤坂プリンスホテルなどを見上げるボート場で、絶対穴場です。


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ほぼ満開の木もあってまあ、良かったかな。でも満開時の井の頭公園のボートは見事ですよ。


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11時開店のPUFFYカフェに行った。一番で入ると
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ここにいるワンちゃん達が全力で歓迎してくれた❗
あまりの歓迎ぷりに写真を撮る暇などありゃしない。
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程なくして次のお客さんが来るとそちらに対して大歓迎だが、何匹かは残る。平日なのに結構お客様はやってくる。おやつと称する一皿500円の高額なササミや芋を購入。仔犬たちにまるで餌をあげていないのではと疑念を持ってしまうくらいワンちゃんたちは興奮する。皿を持つともう仔犬まみれ!瞬時に消えて人間様はつい何皿も買って店の戦略を呪ってしまう。
まあ、一時間半ほど過ごしたが一人三千円も払ってしまった。

お昼は東急百貨店のすぐそばにあるカウンター天ぷらの金子屋さんに入った。

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行列が三人しかいなかったので並んだが、私達が並んだ直後列は十人ほどとなった。
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それもそのはず、1000円で板前さんの揚げてくれる天ぷらを頂くことができます。
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店内は良い雰囲気である。
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カウンター席には、冷たいお茶と、三つの付け合わせがおいてある。右から甘口の塩辛、塩辛というより烏賊の刺身に近い。まんなかが薄味に炊いたゴボウ、左側が薄味の福神漬け風の上品なあじな大根付けである。これだけで十分に美味しい。
天ぷらは板さんが揚げる揚げたて天ぷらである。何を書くことがあろうか? 次行った時、たとえ列が二十人位延びていても私は並ぶと思う。
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令和参年(2021年)2021年は「辛丑(かのとうし)」である。この2つの文字が意味する2021年は、「辛」とは、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)の8番目である。 陰陽五行説では金性の陰に割り当てられており、ここから日本では「かのと」(金の弟)ともいう。金性は、土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。また、の字は同音の「新」につながり、植物が枯れて新しい世代が生まれようとする状態として、8番目に宛てられた。 西暦年の下一桁が1の年がの年となる。「紐」(ちゅう:「ひも」「からむ」の意味)は、後年作り話として干支の「牛」を割り当てたが、牛という意味ではない。芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされ、指をかぎ型に曲げて糸を撚ったり編んだりする象形ともされる。

辛丑」とは続くが、今まで陰に隠れていた強固なものが表に現れ、新たな秩序や仕組みが作られる年ということをあらわす。

60年前1961年4月12日はソ連が初の有人ロケット・ボストーク1号でガガーリン少佐が人類として初めて宇宙空間に到達した。※米国はそのわずか23日後の5月5日アラン・シェパードが米国人として初めて宇宙空間に到達した。

120年前の1901年は、米国でマッキンリー大統領が暗殺され、副大統領であったセオドア・ルーズベルトが大統領となった。1900年に起きた義和団の乱における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する北京議定書が締結され、義和団の乱で活躍した日本が、世界の覇権国であった英国と翌年結ばれた日英同盟の交渉が始まった年である。

なにやら、状況は似ている。キーワードは中国と米国の混乱である。

今のところ不確実ながら、習近平は脳の手術を行ったとか、手術は失脚した言い訳だとか、不確実ながら習近平失脚説が流れています。バイデンが大統領にならなかった場合、中国は中国共産党体制にヒビが入る可能性が高い。また、1月6日の米両院合同会議で、下院議員の異議申し立て議員が140人を超え、上院議員も米共和党のジョシュ・ホーリー上院議員(ミズーリ州)が名乗り出ており、テッドターナー上院議員、ロン・ジョンソン上院国土安全保障政府問題委員会委員長もホーリー議員に続き同調すると思う。それによりトランプ大統領の再選が決まるかもしれない。

今まで地上波でしか情報を取らず、ネットでもこういった問題に関心がなかった人々はいったい何が起こったか衝撃をうけるであろう。

2021年は何が起きるか?当ブログは歴史の目撃者として記録し、自分の意見を世界に発信していきたいと思います。

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土曜日にPCショップに行きます。

しばし更新はお待ちください
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前期年休を取っていないとのことで、年休を取るよう人事よりご指導があった。ある意味良い時代なのかはわからないが、時代はかわるものだ(〃´o`)=3 フゥ。皆さんのスケジュールを考えると、今日しか9月中に休む日がなかったので、急遽年休を取得した。

先日、キッチンジロー落城、次々と閉まる御茶ノ水~神保町の思い出の名店たちという記事を書いた。


記事の反応はまるっきりだが、特に予定を考えてはなかったが、毎度読書とブログ書きで費や休日より行った事があるキッチンジロー南神保町店に出かけようと思った
(行きつけだった店は以前に閉鎖済み)。さて・・出かけようかと思ったところ・・・急遽の休みであったので引継ぎしていなかった案件があり会社からSOS。テレワーク用のPCがあればよかったのだが、電話で説明指示するより行ったほうが早そうなので、ちょっと会社に立ち寄った。会社で少し時間をとられてしまい、神保町に到着したのは夕方になってしまった。

三省堂の中を通り抜け確かすぐのところ・・・・あれ?!

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閉まっているではないか!9月末ではなく、もう閉鎖になったのか?
張り紙を見ると営業時間11:00~15:00 15時までか~、(´_`;)トホホ 15時までなら会社に寄らなければよかった・・・

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・・・が、「あれは!」すぐ近所に見慣れたキッチン南海の懐かしい緑の看板を発見!
とはいえ、今日の気分は「キチジ」のメンチカツ、キッチン南海は、あいかわらずの列・・キッチンジロー九段下店へ向かうため桜通りを歩き出したが、昔キッチン南海があった場所まで来たところで、気分がカツカレーになってしまい、戻って新「キッチン南海」へ!

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昔とかわらず、入店待ちの列

店内は満席、あいかわらずの行列だが、さきほどより短くなっていたので列に並ぶ。

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昔と変らぬディスプレイ・・・

オッサン、迷っております・・・わたしの同じくカツカレーかエビフライとしょうが焼きと迷っているのか?だが私は今日は迷いなくカツカレーの一択。
ひらめフライも昔と変らず売り切れていました。(食べたことがない)

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昔と変らぬ値段

カツカレー750円はリーズナブルな値段。町田の仲見世商店街にカツカレーの有名店アサノがありTVでも度々取り上げられるが、カツカレー1450円だ。

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昔と変らぬ味

独特の黒いカレーに載る揚げたてのやわらかいトンカツ、適度なキャベツ、福神漬け。
やっぱりキッチン南海のカツカレーは旨かった!



店内で待っていると、サラリーマン二人の会話が聞こえた。「キッチンジローは閉まっていたけど、キッチン南海が再開していてよかった~」私と同じくキッチンジローの閉店を惜しんで来てみたものの・・・クローズしていたのでキッチン南海を発見して着たようだった。

キッチン南海を出て、キチジの前で、張り紙を見てたカップルが 
女:「キッチン南海がある~!」男:「こっちに移っていたのか~!」と、皆まるで誘蛾灯に集まる夏の虫のごとく、次々とキッチン南海の緑の看板に誘い込まれていきました。(笑)

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YoutubeチャンネルTech Boxに嵌っています

最初は、確か2月の初旬トヨタの有人ドローンの記事を書くために検索したTech Boxの動画を見た頃から、
Youtubeのお勧め動画に挙がるようになり、4月の上旬頃だろうか?YoutubeチャンネルTech Boxを登録したが、なかなか面白くて、新作動画はほぼ視るようになった。

CSのディスカバリーチャンネル
(1987年放送開始)や、雑誌の日経トレンディ(1987年創刊)DIME(1986年創刊)MONOマガジン1982年創刊のYoutubeチャンネル版といったところであろう。

最近の地上波のTV番組は疎いのであまり存じあげませんが、その昔、「何を作っているんでしょうか?」との掛け声でレポートVが始まる、逸見政孝さんと渡辺正行さんが司会で、世界と日本のユニークな職業や商売を現地取材によるレポートする情報バラエティ『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』
(1988年~1996年放映)にも近い。

私のブログに訪問されるような方は、「知っている」「もう既に登録済みだよ」と言う方も多いでしょうが、まだ知らない方には、お勧めです。

全動画数は今日現在で59本 全部視ようと思えば半日かければ視る事が可能です。

日本人は、日本が最高の技術先進国だと信じていますが、この番組を見ていると欧米諸国の技術開発力も依然侮れないことに気がつきます。

中国や韓国が、こういった知的財産を掠奪し、タダ乗りして安いコストで製造し儲けていた旧来のグローバリズム経済は、人類の進歩と調和に反するとあらためて思う。この中共ウィルスの患禍は、これを機に旧来のグローバリズム経済一旦精算する良い機会になるかと思います。

お勧め動画

今日は将来人類を助けるであろう、天才的な 2019/04/14

 
驚くべき個人用の数々•2020/04/19


完全に新レベルの巨大マシンの数々 2019/12/03




新時代の自転車のための新製品 2019/09/21






全く新しいレベルの工具たち•2019/08/04








なお、Tech Boxで検索すると「ゲーム感覚で毎日3万円稼げる」などとうたい、多額の金銭を支払わせる株式会社CCSによる「Tech Box 無料アプリ」というのがヒットしますが、これは消費者庁より摘発されている悪質副業詐欺のようです。それとは関係はなさそうです。

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昨日青葉公会堂で映画道草をみてまいりました。

観てみようと思ったのは、パンフレットの道草の草の字の艸(くさかんむり)がタンポポの綿毛を意味するかのように二重に書かれて、大きく描かれたタンポポの綿毛が飛ぶ絵と相まって、私のアート好きのハートに突き刺さったからです。たぶん、プロのアーチストの方はやられたと思った方もいたでしょうね。

  

ストリーは、よくあるドキュメンタリー映画かもしれませんが、観おわってみると、いい映画を観たなという気持ちになりました。


私の姪はダウン症であるが、たまにしか会う事はない。会うと可愛くてならない、いつまでも天使のような子供でいるのだ。

だが、彼女の日常生活を私は知らない。同じように街で見かけるの知的障害がある人達の日常を見ることはない。

私の日常には障害者との接触は無い。おそらく障害者と世間との間には、同じように接触がない。
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映画パンフに載っている知的障害者の暮らしとは?

 知的障害がある人の暮らしの場は広がってきていますが「重度」とされる人の多くは未だ入所施設や病院、親元で暮らしているのが実情です。

 2014年に重度訪問介護制度の対象が拡大され、重度の知的・精神障害者もヘルパー付きのひとり暮らしが出来る可能性は大きく広がりました。

 そんな中、16年夏には相模原障害者殺傷事件が起きました。この街で誰もがともにあるために、新しい選択肢を見つめてみませんか?
2014年に重度訪問介護制度の対象が拡大され、重度の知的・精神障害者もヘルパー付きのひとり暮らしが出来るようになったというニュースは知っていたが、その内容にまで関心はなかった。

私は、介護者という存在を知らなかった。知的障害者は身内が介護しているものだと思っていました。診察とか食事の準備といった日々の行動を介助する方のようですが、ネットで調べても道草にでてくる介助者はよくわかりませんでした。国家資格があるわけではなく、障害者の介護をされている方みたいです。生活だけではなく感情面や精神面でのサポートをしています。

食べて寝て、電車に乗って、公園を散歩する。日々のなにげない生活を自分の思い通りできる自由は、施設に閉じ込められ一生を過ごす身障者にとっては夢のような生活なのかもしれない。

しかし、身障者にとって、本人の意志を尊重してくれる介護者の存在はけっして多いとは思えない。一昨年死んだ母も最後公的な介護なくして生きていくことは難しかった。

映画に登場する介護者の方々は、皆「菩薩」なのではないか?あんなふうに、わがままな障害者に辛抱強く向き合い一緒に生活するなんて普通の人間にはできない。ある意味で、みずから悟りの境地を求め修行する現代の行者に見える。己のためだけに悟りを得る為に山を歩き回る千日回峰よりもしかしたら、功徳が高いかもしれません。

障害者と向き合い、ときに葛藤している介護者や障害者の家族、そして障害者自身の話をこの映画は新鮮でした。

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この介護者の方は11年前から亮佑さんと知り合いだという。

このパンフレットの製作者で、ピュアな心で描く絵は、山下清画伯と遜色が無い。
器用にスケボーや一輪車を乗りこなす多芸な人だ。

両親は?と、こちらは亮佑さんの生い立ちを想像してしまう、なぜ、高校を卒業して一人暮らし?亮佑さんは作業所へ通っており寝起きを供にして、作業所へ送り届けて、お迎えをして二人で散歩して夕飯を食べる。

いったいどうやって生計をたてている?だいいち、亮佑さんの両親は?なぜ一緒に生活しないのか?両親は亮佑さんを捨てたのか?画面の裏側をどんどん想像してしまいました。

実は映画の後半、亮佑さんは月一度実家に帰り、両親家族と楽しく過ごし、また介護者と同居する自宅へ帰っていくのだ。両親は亮佑さんの自立を願って一人暮らしさせているという。

介護者と亮佑さんの生活は楽しそうだった。でも、介護者はアラフォーで、ご自身の結婚は?その家族は?仕事は?なぜ、彼に関わっているのか?昔の写真が断片的に写っていたが、下手な子供になった探偵の推理小説アニメを見るよりも、障害者の世界を知らない私にとって、謎が謎を呼び映画の断片から謎解きや想像を勝手にし始めていた。

少し経って、介護者は複数いて、交代で亮佑さんの面倒を見ているという。
日本はこんなに障害者に優しい社会だったのか?亮佑さんは恵まれている方なのか?

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宙夢くんの介護者の方が、おっしゃってたことが印象的でした。映画を見た後ネットで予告編を見たら、やはり取り上げてありました。
介護者は有名私立進学高を出て、国立大学に入り、エリートの道に進んでいたようでしたが、今は介護者をしておられる。介護者がエリートではないということではない。人間としての「徳」が、超エリートであった。

「なぜこういう人がこの世界に必ずいるんだろうって、いつも思っていました」「存在するからには、必ず意味があるはずだ・・・」と介護者の方は問い思っているようでした。

オーストリアの精神科医ヴィクトール・エミール・フランクルはユダヤ人収容所に収監された経験を持ち、ナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』のなかで、「”この人生に何の意味があるのか”だなんて問いかける必要はない」と言います。
そして次のようなことを、言っています。「どんな時も、人生には意味があります。
どんな人の、どんな人生にも意味があり、なすべきこと、満たすべき意味が必ず与えられています。ですから、人生の意味は何かと、問いを発する必要はありません。」

宙夢くんが存在する意味を問うてはいけません。我々は逆に宙夢くんに、自分の存在意義を問われている立場であり、我々が自らその答えを出さなければならないのです。

どのような人生であっても、人間はどう行動するか、どう生きるか選択することはできる。私たちの社会は、決して宙夢くんを放棄してはいけないと思うのです。

宙夢くんに幸せな人生をおくらせてあげようなど、目標ではないし目標であってもならない。かわいそうだから、何もできないのだからと、ベッドに縛りつけていればいいというものではありません。宙夢くんに人生に戦うチャンスを与えることさえできればいいと、思うのです。

映画では語られなかったが、障害者の内面はきっと苦しみに満ちているのであろう。気持ちを伝えられない苦しさ、もどかしさ。しかし、画面から彼らの心の中が見えるというのは傲慢なのかもしれないが、苦しんでいるのは、苦しむ勇気を持っている証なのではないでしょうか?

人並みの幸せは、目標ではないし、目標であってもならないと思うのです。
苦難と戦いは、人生を無駄にしない。そもそも苦難と戦いこそが人生を意味あるものにするのだと思う。障害者の方を見て、かわいそうだななんて思うのは傲慢なのかもしれません。
むしろ、戦っている立派な魂だと尊敬すべきなのかもしれません。


宙夢くんの場合は、母親が出てきて、壮絶な子供時代の話をされていた。
原因は何かあかさなかったが、宙夢くんは自閉症で5.6歳の頃彼の父が死に、赤ん坊の兄弟と、3人が残された。母は働かなくてはならなかったが、家中に排泄物を撒く宙夢くん、赤ん坊に暴力をふるう宙夢くん、母は、噛み付く宙夢くんに噛み付かせたままにした。ほとんど寝ずにふらふらになって勤めに出かけたという。

なんか、その話を聞いて、今は明るく話してくれた美人のお母さんを抱きしめたくなった。
気のせいだろうか、障害者のお母さんには美人な方が多い。苦労をして、人の優しさを知っているからなのか?単にたまたま知っている方が美人だったからなのかもしれません。

私の知り合いのご婦人は、私のダウン症の姪の事をブログで書いたことをきっかけで知り合いましたが、息子さんがダウン症で、それはそれは天使のような方でした。
ダウン症の子供は生まれる親を選んでくるといいますが、まさにそのような方でした。

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たぶん、出演された障害者の方で、裕一朗さんが、一番自分と戦っていた。
もどかしい自分と戦い、エスカレーションした場合、暴力的となってしまい周囲に迷惑をかけてしまうのであろう。以前入所していた施設で暴力を振るわれたことで、暴力的になってしまったというが、介護人や父親らの努力で、おちついた日常生活がおくれるまでになる姿は、感動的だ。

公園からの帰り道、電車を待つホームで、裕一朗さんがご婦人に触れてしまったという。
介護人曰く「私は警察でもなんでもなくて、彼を拘束するこはできない、ただ人に迷惑をかけないようにするガードマン・・・」

裕一朗さんにも性欲はあるかもしれない、いやあるであろう。身障者の日常をファンタスティクにまとめたいこの映画の趣旨にはふさわしくないのであろう、身障者の性欲というタブーには切り込まなかったが、存在を匂わせた。

裕一朗さんの戦いに集う人達、父親、NPO法人の介護人、練馬区の介護派遣の人達、まるで皆で海峡に橋をかけるようなプロジェクトのように裕一朗さんの介護方法を議論しあう。
なんて、生真面目な日本人なのであろう。
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あの、入所者19人が刺殺され、入所者・職員計26人が重軽傷となった津久井やまゆり園に入所していて実際に被害に遭った矢野一矢さん。

わたしは、犯人の元施設職員植松聖被告の行った行為はけっして肯定されるべきものではないと思うのだが、彼の気持ちもわからないでもない。

すべての被害者がどうだったかはわからない。あくまでも私の偏見と想像なのだが、障害者の方が、日常的に被告に対し入居者が言葉の暴力を加えていたのであろう。

菩薩ではない普通の人間が、職業として止むをえず、介護の仕事を選んでしまった場合悲劇である。

実は心の中で障害者を見下し、人間と思っていない障害者から毎日暴言を受け続ければ、普通に切れて暴力を振るってしまうのは、ある意味必然のことだろう。
健常者である人間は厳しい社会でなんら保護されないのに、障害があるというだけで保護され、それでも不満があるのか?という怒りが溜まっていたのであろう。

あくまでも外野の無責任な意見だが、津久井やまゆり園の事件では、被告だけを責めてはいけないような気がします。事件に到った被告の心のケアするような、仕組みやプログラムが不備であったような気がします。彼の同僚なり上司も、被告の心の傷にまで気がつけなかったことも悲劇であったのだろうと思います。

最後に、この映画とは関係ありませんが、身障者の社会進出という意味で、山本太郎率いる政党れいわ新選組に二人の身障者の国会議員が誕生しました。

この映画を観たり関心があり、このブログを最後まで読んでいただいた方は、おそらく私が感じるような強烈な違和感を感じていないと思います。

しかし、私は、山本太郎に強烈な違和感を感じてしまうのです。身障者に対する扱いは、実は山本太郎と
植松聖被告と同じではないか?単なる道具として扱い、同じ人間として扱っていないと思うのです。国会議員はきれいごとでできるものではないが・・・・
野党である限り、無責任に喚きちらす事は可能かもしれません。




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2月9日
鉄(くろがね)小学校の青葉区の研修会で東京五輪音頭2020の練習をしてまいりました。
 
1964年の東京五輪音頭の2020年バージョンでした。
唄は石川さゆりさん。竹原ピストルさんや加山雄三さんも歌っています。

でも、やっぱり三波春夫大先生の歌唱力は改めて凄かったんだなぁと思うわけです。
どうせなら、AIで三波春夫さんに東京五輪音頭2020を歌ってほしかったなぁ。
歌詞です。
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歌詞の内容は、無難ですが、歌いだしの♪ハァ~リオデジャネイロで眺めた月は♪は、♪ハァ~リオで眺めた月は♪にすべきじゃなかったかな?

さて、踊りなのですが・・・これの振り付けは難しい!
最初の動きは・・・2020を表現したものですとインストラクターの区役所の斉藤さんの説明に、???だった。 よくよく見ると漢数字で二〇二〇でした。


一応、下の振り付け説明を読んでから上の動画に合わせて踊ってみましょう。

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1.2回踊ったら、下のメモも見ると納得です。
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しかし、昨年渋谷で行われたイベントの動画を見るかぎり、振りが難しくって、練習した踊り手以外、一般の人は踊っていません・・・というより、踊れません。
最初の振り付けが漢数字の
二〇二〇であることを理解できなければ、いきなり壁で、その先に進めません。この振り付けを考えた人はちょっと・・・専門バカなのか、一般人を巻き込むようなムーブメントになりにくい踊りかなぁ・・。振り付けを考えた人は踊り手であってプロジューサー的ではない人ですね。




それでもビデオを観ながら6・7回踊って、輪になって2回ほど踊ったらまあ、ちょっとはおどれるようになったかなぁ。

                                        

2月8日町内会の令和元年の納会の余興で、落語家の
林家ひろ木さんが来られ、小話と落語、津軽三味線を弾かれてました。林家ひろ木師匠は青葉区あざみの在住で、林家きく翁師匠の弟子で最近真打になったそうです。

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落語の演目は、
ダイジェストでしたが、初天神でした。


冒頭の枕・・・日本の昔話

昔々、ちょっと太めのおじいさんがいました。・・・・・こぶとりじいさん。
昔々、おじいさんが罠にかかった鶴をたすけてあげました。数日後若い娘が恩返しがしたいとやってまいりました。絶対に部屋を覗かないで下さいと言って、翌朝覗いてみると、部屋の中が空っぽになっていました。鶴じゃなくてサギだったか・・・

・・・・使い古された小話でオイオイと思っていました。

昔々おじいさんが、ポチという白い犬を飼っていました。ある日おじいさんと散歩をポチは畑から宝の匂いがして、穴を掘りはじめました。家に帰りたいおじいさんは、犬の尻尾を強く握って引っ張ります。すると、ポチがおじいさんに向かって・・・
と、言いかけたところで、私は、師匠といっしょのタイミングで言うつもりでしたが
「はなさんかじじい!」と、落ちを先に言ってしまいました。

師匠が動揺してしまったので、「尾も白いお話でしたね」とトドメを刺してしまいました。

もし私が落語家だったら、客に落ち先に言われたら、もう一つ二つ昔話小話で畳み掛けてやりますけどね。師匠は落語に移りました・

一応昔話ネタは私の引き出しにしまってありますのでご披露します。

昔々、太郎君が亀吉君のところに遊びに行くと、入り口が閉まっていましたので勝手口へ回ろうとすると、中から亀吉君が 「裏しま
ってる太郎」「浦島太郎」。

昔々ある日子供が池のそばで遊んでいると、池に落ちてしまいました、すると池の中から神様が現れ、二人の子供を抱きかかえていました池に落ちた子供はどっちかね?「金の太郎」です。「金太郎かぁ」

昔々、箪笥を売っているお姫様がいました。・・・かぐや姫!やがてそのお姫様はおじいさんさんと喧嘩わかれしてしまいました・・・・大塚かぐやか!


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数年前から友人と神田川・日本橋クルーズ体験をしようと計画しておりましたが、仕事が入ったりで度々ながれ、今年は10月16日と調整しておりました。ところが台風の上陸が相次ぎ10月13日の台風19号で今回も中止かと諦めかけました。幸なことに、東京都心に限っては長年の治水事業の成果ででょうか、当日は通常運行されました。実際に船からの景色は、まるで何事もなかったかのようでした。江戸~東京そして未来の東京の治水について感じるものがありました。

神田川クルーズ90分体験

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乗り場は日本橋のたもと、野村證券本社ビルの目の前です。

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乗船場(日本橋 防災船着場
この
この乗船場は平成7年1月の阪神・淡路大震災を契機に災害時における河川舟運の有効性が注目され、災害時河川による物資輸送を想定し都内各所設けた防災船着場が整備されました。折角のインフラを有効活用する目的の一つとして、観光/社会見学用に神田川クルーズが始まったとのことです。2010年にタモリ倶楽部でタモリさんが神田川を探検した回は大変興味深く、私も是非参加したいと思いましたが、そう思われた方々が非常に沢山いらっしゃったということですね。
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防災船着場については都内河川に現在合計 94 箇所(既設 69 箇所・計画 25 箇所)ありますがそれにくわえ、東京湾岸にも東京港防災船着場整備計画として、現在の13箇所→38箇所に整備する計画です。下手をすれば都内の電車駅数654駅717駅)とまではいかないが、都内のJR駅数141駅に匹敵する。私が思った以上に都内には水上交通を活用できるインフラが揃っています。
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神田川・日本橋クルーズの船 エスエスNANO1号(40名)

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乗船開始です。
 
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先に団体旅行の小型のチャーター船が出発でした。我々の船は救命胴衣は着けません。

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日本橋を出発し、日本橋川を水道橋方面の上流へ遡ります。

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時計回りで日本橋川→神田川→墨田川→日本橋川に戻るルートです。
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日本橋を出ると
旧大和証券本社ビル跡に東京駅前常盤橋プロジェクトのA塔の建設風景が見えます。
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東京駅前常盤橋プロジェクト
ちなみにB塔は
日本一の高さとなる地上61階、高さ390mの超高層ビルとなる予定です。
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日銀本店ビルが見えます

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常磐橋の解体復元作業
2013年より行われている修復工事は、石垣の石一つ一つの付き方方向を記録しながら同じように組み立てていくという気の遠くなる作業です。
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船は本当にギリギリで通過しました。

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首都高都心環状線 神田橋JCT

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鎌倉橋付近
江戸城建設の際に相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり鎌倉河岸と呼ばれたため付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ本橋も鎌倉橋と称するようになったとのことです。
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神田橋
橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来します。
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一ツ橋IC付近
完全にこの付近は空が見えず、高速の道路底辺が暗い。まるで地下水路のようです。
江戸時代の石垣が壊されコンクリートの首都高の橋脚となってしまったのは残念なことですが、それも歴史の一部かもしれません。

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俎板橋(まないたばし)靖国通り
このあたりは首都高速5号池袋線

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新三崎橋付近
この付近でようやく首都高の下から抜けます。

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中央線鉄橋

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総武線の鉄橋は国鉄の前身甲武鉄道時代から120年以上使われていいます。レトロで美しいレンガづくりの鉄橋。残念なことに総武線を利用している人のほとんどが優雅な鉄橋を渡っていることに気がつくことはありません。

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ここで、日本橋川と神田川が合流(分流)します。

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千代田区千代田清掃事務所 三崎中継所

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東京都内には約140の河川や運河が流れており、江戸時代、物資の運搬は主に水路が利用され、水運は江戸の都市機能を支えていました。三崎中継所は千代田区、文京区、台東区の不燃ごみを収集し、そのごみは神田川から運搬船で埋立地へと運ばれる。今東京の水路を行き交うのは観光船が多いなか、不燃ごみを東京湾の埋め立て処分場まで運び、水路を現役で利用しています。

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水道橋

水道橋は江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していたそうです。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたもので、先代よりやや大ぶりの橋となった。

やや下流には先代水道橋も架かっております。
1928年(昭和3年)に、架けられた鋼橋です。

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その先代の水道橋ですが、大東亜戦争の米軍の空襲による傷跡が残っています。

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水道橋駅

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このあたりの神田川は狭く両脇がビルなので、まるで都会の峡谷のようです。

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神田川御茶ノ水分水路
謎の横穴お茶の水分水路

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直径 8.8m 全長 760m 本郷台の地下に位置

神田川の治水対策にはそうとうお金がかかっています。江戸に幕府が開かれて400年、江戸幕府以来築いた治水対策はあの台風19号でも都心部はなんとか守られた。日本人の努力の賜物であったと思います。

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いよいよ、神田川最大の見所、神田川の渓谷 御茶ノ水切り通しにはいります。

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昔は丘の尾根であった場所を人力で切り通すのであるから凄い!


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(江戸城の惣構え)
 「惣構え」とは、いわゆる城を取り巻く外郭、またはそれに囲まれた内部のこと言い、城の他  城下町一帯を含めた外周を掘りや石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造をいう。  秀吉が落城させるために時間がかかって難儀した小田原北条の小田原城の惣構えは、城下町の外周2里半(約9km)に及ぶ日本で最初の本格的な「惣構え」が出来ていた。  小田原城包囲で全国から参戦してきていた、各地の城主達は、小田原落城後 自分の城に戻って、小田原城を範とした、近世の城郭構造、「惣構え」構造への改修工事が、各地で始まってゆくことになる。  その代表のひとつが前田利家の金沢城の惣構えでもあり、他に京都の町を囲んだ、秀吉の「御土居」等も典型的な惣構えでもあった。 信長によって生まれた安土城の中世城郭構造は、小田原北条の小田原城惣構えによって、その後の中世城郭構造の転機となる影響を及ぼしていた。

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 江戸城自体も惣構えの構築が進んでいくのだが、江戸城防禦のウイークポイント部分があった。  ある時、家康と仙台藩祖・伊達政宗が江戸城内で将棋楽しんでいたところ、将棋の勝負で窮地に陥っていた政宗は、思わず 「次の一手は神田山か!」 とつい思わずつぶやいてしまったというエピソードがある。  家康は政宗のこのつぶやきに戦略意図の潜在的な思いが吐露されたことに気付いていた。  確かに奥州の雄、伊達政宗は、加賀の前田利家と並ぶ、家康にとって手ごわい武将の一人で、その政宗も江戸城の攻略は、神田山を降りてゆけば江戸城の大手門に難なく進軍できることを前々から睨んでいたのだ。  確かに神田山方向は江戸城防禦の最大のウイーク・ポイントであった。

(神田川開削プロジェクト)
 二代将軍・徳川秀忠の時に、平川下流域の洪水対策、及び江戸城東北方の防御の守りを一段と固めるために、平川を付け替えて外堀にすることが企図されていた。  すなわち小石川から南流して日比谷入江に注いでいた平川の流路を東に向かわせ、神田山と呼ばれる、本郷台地を切り通し、舌状台地を湯島台と駿河台に分断して、現在の御茶ノ水に人工の谷を開削する大プロジェクトであった。

 徳川秀忠は、大阪夏の陣が1615年(元和元)5月に一段落して間もなく、この神田川開削プロジェクトを仙台藩祖伊達政宗に命じている。  徳川幕府は、長期政権維持するために家康以来、様々な工夫を打ち出していた。例えば参勤交代制度などの他、江戸城整備等を命じ、外様大名を財政面で苦しい状況に追い込んでいたのだ。  
 徳川秀忠が命じた、神田川開削プロジェクトは、江戸城防禦の守りを更に固めると同時に、東北の雄藩、政宗の仙台藩に工事の為の財政負担を強いる目的もあったのである。

  兎に角、この神田川開削プロジェクトは、驚くことに海抜0mに近い、平川の流れを海抜20m弱ほどある、本郷台地を開削して深い渓谷を造り出す大土木工事であった。  それが江戸時代の、コマツのパワーシャベルやブルトーザーやダンプトラックもない、鍬とモッコの時代の大土木工事であった訳だ。  もっとも仙台藩は、それまでに仙台湾に沿う貞山掘り運河の土木工事の実績があった。  秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までを担当して工事に取りかかり、約5年を費やして、1620年(元和6)に神田山と呼ばれる本郷台地の舌状台地は、湯島台と駿河台とに分断されてしまった。

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神田川より順天堂大学病院(手前)と東京医科歯科大学(奥)のビルを仰ぐ
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川面から見上げる湯島本郷方面。川からはだいぶ高低差があり、神田川が本郷台と駿河台を二つに分けます。

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JR御茶ノ水駅と新御茶ノ水ビルディングを望む

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新御茶ノ水ビルの後ろは、デジタルハリウッド大学などが入る御茶ノ水ソラシティ
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御茶ノ水橋
駿河台のメインストリートである明大通りに架かる御茶ノ水橋


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工事中のJR御茶ノ水駅
JR御茶ノ水駅改良プロジェクト
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完成予想図

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聖橋
両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされていると言われていたので、聖橋を船から眺めた景色は今回のクルーズの一番の見所でした。

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御茶ノ水で大学時代を過ごした私でしたが、いつか船から聖橋を眺めるというちょっとした夢がかないました。
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地下鉄丸の内線の鉄橋の下を潜るのも そうはない体験です。ちなみに東京メトロ丸の内線は四谷駅付近・後楽園駅付近・茗荷谷駅付近とここ神田川の鉄橋と4箇所地上を走ります。
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2019年デビューした丸窓がついた赤い丸ノ内線の新型車両「2000系」
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船は、地下鉄丸の内線を鉄橋を通過する姿を眺める為に暫し止まっていてくれました。

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外堀通り沿いの神田須田町のレトロな建物群、老舗ビリヤード専門店 淡路亭が有名です。
奥の高層ビルは秋葉原ダイビル


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昭和7年に架けられた総武線神田川橋梁。八の字のラーメン橋は、松住町架道橋と並び秋葉原電気街のランドマークとなっています。ちなみにラーメン橋ラーメンとは、「骨組み」を意味するドイツ語のRahmenに由来するもので中華そばのラーメンではありません。
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こちらもレトロな旧万世橋駅を再生したマーチエキュート神田万世橋 元の交通博物館である。
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先ほどの御茶ノ水分水路の出口は昌平橋のたもとにありました。ちなみにマニアックな神田川暗渠クルーズ(お茶の水分水路、水道橋分水路)というのも、あったらしいです。

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秋葉原の高層ビル群、JR神田万世橋ビル(手前)・住友不動産神田ビル2号館(奥)
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リバーサイドオープンデッキがあるデニーズ秋葉原中央店
今度行ってみたくなりました。

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美倉橋
ゆりかもめが飛来していました。クルーズ船の方は、この鳥を見かけると秋が深まったと感じるそうです。うみねことユリカモメの見分けかたは、ゆりかもめはウミネコに比べ小型で、くちばしと足がみごとな赤いろになっているとのことです。
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この先水路は狭くなるので対抗船が来るとのことで、10分弱ほど停船していました。ちなみに緑の船が国土交通省の船で、船の行き来を監督しているようです。さんざん待ってやってきたのは千代田清掃事務所へ向かうはしけでした。

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はしけが過ぎて動き出した船は柳橋の船宿街に入ります。
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船宿とは、もともと江戸時代~明治初期、港町におかれた入港船舶の乗組員のための宿屋でしたが、時代とともに船遊び・釣りなどのために貸し船となり、現代では水上での宴会をする料亭を営むようになりました。
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浅草橋を挟んで上下流に船宿が並びます。
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浅草橋

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柳橋付近は浅草から東京湾に向かう老舗の船宿が多く立ち並びます

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船宿の屋形船はそのほとんどがFRB製の船となってしまい、昔ながらの木造屋形船は都内では画面中央の赤い船第七小松丸だけだそうです。ちなみに、徳川将軍家の御座船を模しているとのことです。
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木造屋形船の船宿小松屋さん
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船は神田川から隅田川へ、写真では分かりにくいのですが、比較的透明だった神田川と違い、台風19号の影響で、隅田川は黄色く濁っておりました。
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神田川河口、緑の橋は柳橋です。
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スカイツリーが目に飛び込んできました。

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首都高速6号線と7号線両国JC付近
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隅田川の女王エメラルダス号
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松本零士氏デザインのエメラルダス号は2005年に就航したヒミコ、2013年のホタルナに次ぐ第3番船として今年(2019年)に就航したばかりです。
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松尾芭蕉史跡展望庭園
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小名木川河口
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化粧直し中の清洲橋
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新大橋
昔の情緒ある旧新大橋は現在明治村に移築されているそうです。

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隅田川大橋と佃島のタワマン群

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Diwaリバーゲートビル旧リバーサイド読売ビル、現在低層階はマンションで上層階のオフィス塔には吉野家HD本社などが入居しています。
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このビルの空間は、後のビルへの日照の確保の為だそうです。

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絶景の隅田川清洲橋とスカイツリー
この日は晴天ではなく、青空がバックではなく非常に残念でした。
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巨大構造物フェチにはたまらない箱崎JC
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旧山一證券本社ビル現在は茅場町タワービル
このビルを見るたびに、同じ業界に勤める私は、あの号泣会見を思い出します。 

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豊海橋をくぐると再び日本橋川です。

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首都高速6号箱崎JC付近で・・・うぁ!ッスマホのバッテリー切れだ!・・・・
ということで、残りはYoutubで検索した動画でお楽しみください。









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船をおりるとおなかがへったので、かねてより行きたかった、日本橋の天丼の老舗金子半之助本店にて江戸前天丼980円を頂きました。



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地下40mの「超巨大水路」で水都・東京の復活を!

目指すは東京の水不足解消&観光開発。大林組「スマート・ウォーター・シティ東京」構想

東京が、実は“世界有数の水不足都市だ”と聞いてにわかに信じられるだろうか? 「未来の都市構想」を紹介する本連載の第2回は、そんな東京の水問題を解消すると同時に、景観や交通網を大胆に構想する大林組の「スマート・ウォーター・シティ東京」を取り上げる。同社テクノ事業創成本部PPP事業部 葛西秀樹部長に話を聞いた。

東京の地下に巨大な水のトンネルを築く!
  
かつて東京は、“東洋のベネチア”と呼ばれる「水都」であった。

東京の街は、前回(1964年)の東京五輪で大きく変わった。江戸期に徳川幕府が百万都市を築き上げる基盤となった舟運のための運河は、高速道路や地下鉄へと置き換わった。

そして、世の中が2020年の東京五輪開催決定に盛り上がる中、広報誌『季刊大林』56号(2015年11月30日発行)の企画を検討していた葛西さんは、ある構想を描く。

「“水都復活”をテーマに『スマート・ウォーター・シティ東京』構想を思いついたんです。先の東京五輪で失った東京の魅力を、次の東京大会で復活させてはどうか、と」

『スマート・ウォーター・シティ東京』構想の核は3つある。

まず注目したいのが、ページトップに掲載した画像「ウォーターズ・リング」。都心の地下40m以上の大深度地下に、全長14kmにわたる地下トンネルを建設する構想だ。

「皇居のお濠の下あたりに、内径14.5mのトンネルを2本造って、雨水を大量にためる構想です。わが社の持つ現在のトンネル技術で建設可能です」

トンネルの主目的は、防火用水としての雨水の活用や、局地的なゲリラ豪雨の受け入れなど「都市の防災装置」。だが面白いのは交通システムとしての活用だ。

「トンネル内を水陸両用車の“アンフィ・モービル”が走る提案をしています。地上の運河とエレベーターで接続され、交通網として活用します。アンフィ・モービルは自動運転でコントロールされるので、渋滞や事故に巻き込まれることもなくなります」

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ウォーターズ・リングと、雨水の注入・放水および、地上の運河からの出入り口ともなる「SWN(スマート・ウォーター・ネットワーク)ゲート」の位置を示した図。リングは二重、ゲートは都心5カ所を想定

手に入れた水資源は観光資源に

この構想のもう一つ大きなポイントは「水不足の解消」だ。

世界規模での「水不足問題」を考えると、東京も例外ではないと葛西さんは言う。

「狭い範囲にたくさんの人が暮らしている東京は、実は世界有数の水不足都市なんです。多摩川や利根川など『周辺の広い地域』から水を集めることで成り立っているんですが、実際2016年にも水不足は起こりました」

温暖化によって気候の変動が大きくなっているため、今後は局所的な「ゲリラ豪雨」への対策も必須だ。

「現在の下水道網では、ゲリラ豪雨などに耐えられなくなってきた。既に地下に巨大な貯水施設は造られているので、ウォーターズ・リングでは、この水資源を有効活用できないか、という着想もありました」

こうしてためた雨水を地上の建物へと融通する「スマート・ウォーター・ネットワーク(SWN)」という構想が2つ目の核だ。

SWNにより雨水が有効活用できるようになれば、内陸でウォーター・レジャーが可能になるという。

「(水資源に余裕ができることから)現在、他県から取水している水の一部は、玉川上水を通じて外濠・内濠に流すことができるようになります。そこで、お濠をつなげ直して水が流れるようにすれば、水がよどまないのでお濠の水景が美しくよみがえります。水がきれいなら、都心でもウォーター・レジャーを楽しむことが可能です」

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ウォーターズ・リングによって、美しい水景が復活した市ヶ谷周辺の景観を表したCG。両岸や橋の上に江戸風情を演出した店が立ち並ぶのは、スカイツリーを手掛けた同社らしい発想だ

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神田川から望む秋葉原の夜景。海抜が低いエリアは、潮汐により水位が上下するため、小型ボートにさまざまな機能を搭載した「ユニットボート」でにぎわいを生み出す。このユニットボートは、災害時の防災機能も備える

豪華客船の玄関「メガフロート」を東京湾に

最後の核が「水都にふさわしい玄関口」を造ることだ。

日本各地に多くの大型客船が寄港していることはご存じだろうか? しかし実は、日本の首都・東京へは大型客船が入ってこられないという。

「理由はレインボーブリッジ。橋が低いので超大型客船が通るのは難しいのです。建設当時、乗客約2000人のクイーンエリザベスII号の来航を想定し、海面から橋桁までの高さ52mで設計されましたが、現在の客船はさらに大型化が進んでいますから」

そこで提案するのが「東京ウェルカム・ゲート」。

東京湾内にメガフロートを造り、水上交通網の起点とする構想だ。

「玄関口であり、東京に一番近いリゾートにしたい、と考えました。羽田空港沖の水深10~15mほどの海域に、外径1kmのリング状の“水上の街”を建設します。この辺りは水質もいいので、マリーナや砂浜、サンゴ礁を人工で造って、マリンレジャーが楽しめるよう整備します。ここから、アンフィ・モービルや小型船に乗り換えて、都心部へ入っていけます」

実際、東京都は2020年までに、青海地区に世界最大のクルーズ客船に対応する新客船ふ頭を整備することを2015年12月に発表している。その際にこの東京ウェルカム・ゲートについて、東京都からヒアリングがあったという。

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『季刊大林』56号の扉も飾った、「東京ウェルカム・ゲート」の完成予想CG。建物屋上の太陽光発電パネルと潮力発電施設を備え、このリゾートで必要とする電力は自給自足する

スマート・ウォーター・シティ東京のエネルギー貢献

EMIRA編集部としては、雨水をためることで可能となる「ヒートアイランド対策」にも注目したい。

この構想には、都心の気温上昇を抑えるための対策が盛り込まれているのだ。

「ためた雨水を細かく流れの速い“毛細水路網”として散水することで、ヒートアイランド現象を抑制します。また、ウォーターズ・リングに貯水する際に地下50mまで落とすので、その際に発電して、くみ上げる際の電力として使うこともプランに含めています」

このように、世界有数の都市・東京において、水をどのように活用するかを考えた「スマート・ウォーター・シティ東京」構想。

残念ながら具体的な事業として計画されたものではないのだが、発表時に大きな反響を呼び、そのアイデアは東京の観光ビジネスや都市計画に、まさに水のように浸透していっている。「水都・東京の復活」も、そう遠くない未来に実現するのかもしれない。

かつて江戸はかつては豊富な水と共存する水の都、水都でした。
江戸時代、江戸は徳川家康が都市計画物資を運ぶために整備した河川や運河が縦横に張り巡らされておりました。1964年の東京オリンピックに向け、運河や川は埋め立てられ、水景は一変してしまいました。その象徴は神田川・日本橋クルーズの出発点でもありました日本橋です。江戸・日本橋の象徴日本橋です。現在日本橋は2020年東京五輪・パラリンピック後、工期は未定だが、10~20年かけ首都高を地中化する大プロジェクトが控えてます。
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江戸時代、人々は隅田川とその支流・運河、外濠・内濠に流れる水と共存していました。
船が物流の主力であった時代、水路をはメインストリート街の顔でもありました。
21世紀も水を有効活用したエコシステムは復活する兆しがあります。江戸の知恵を現代に取り戻し、都心で必要な雑用水を雨水利用に切り替えるていこうという動きは実にスマートであります。

実は東京は人口一人当たりで考えると、世界的にも有数の水不足な都市でもあります。
また、19号台風に耐えましたが、有数の洪水危険都市でもあります。

東京湾に流されているだけの未活用な雨量を有効し、大深度地下に巨大な貯水施設を整備する事により、都心部の降水を大量貯水し、循環活用を狙う「スマート・ウォーター・ネットワーク」のアイディアはなかなか素晴らしいアイディアだと思います。

都心の水量をコントロールするとともに、水上交通網を整備する「運河復活」は東京の更なる発展をもたらすと思います。

神田川・日本橋クルーズは東京の歴史と未来をいろいろと考えさせる体験でした。

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