三日目の朝である、連日のハードな聖地巡礼だが、本日のメインは鞍馬山~貴船~鞍馬山の巡礼登山である。
朝は毎日日の出前に眼が覚める、7時前に食堂へ行ったが用意はされていなかった。
朝ごはんまで暫く時間があったので町屋を街歩きすることに。
ホテルの朝の外観である。
古い町屋に溶け込んでなかなかいい感じである。
ホテルから100mほどの距離に1晩8時~8時まで350円の駐車場があり車を停めた。
散歩中見かけた高辻通りの
京都に5年間住んでいたにもかかわらず、なぜか六角堂を参拝していなかった。
あまりにも近所すぎていつでも行けると思っていたせいもあるが、メジャーなお寺としてはおそらく最後のお寺ではないか?いやもしかしたらまだいくつかあるかもしれません。京都の奥深さは底がしれません。
あまりにも近所すぎていつでも行けると思っていたせいもあるが、メジャーなお寺としてはおそらく最後のお寺ではないか?いやもしかしたらまだいくつかあるかもしれません。京都の奥深さは底がしれません。
室町時代、寛正2年(1461)の飢饉にあたり、人々が集まってくる六角堂の門前で炊き出しがおこなわれました。応仁の乱後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになります。また、日本を代表する祭礼の一つ、祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていました。これらのことから、六角堂は京都の中心と認識されるようになりました。
平安時代初期、妃になる女性を探していた嵯峨天皇の夢枕に六角堂の如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」とのお告げを受けたため、人を遣わしてみると、柳の下には一人の美しい女性が立っており、天皇はただちに妃として迎えました。この話から「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」という噂が広がり、「縁結びの柳」と呼ばれるようになりました。青々と茂った枝が地面すれすれまで伸びる姿から「地ずり柳」とも呼ばれます。
六角堂の北側に、聖徳太子が身を清めたと伝えられる池の跡があります。この池のほとりに、小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、「池坊」と呼ばれるようになりました。代々六角堂の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中でさまざまな工夫を加え、室町時代の「いけばな」成立に至ります。東福寺の禅僧の日記『碧山日録』には、寛正3年(1462)に池坊専慶が花を挿し、京都の人々の間で評判になったことが記されています。
室町時代後期の16世紀前半、池坊専応がいけばな理論を確立し、一般に『池坊専応口伝』と呼ばれる花伝書を著しました。そこには、単に美しい花を観賞するだけではなく、草木の風興をわきまえ、「よろしき面影」を大切にするという高遠な美意識がつづられ、それが悟りの境地につながるものだと説かれています。この教えは、歴代の家元によって継承され、現在も生き続けています。
境内東部に位置する家元道場は、いけばなにとって神聖な場です。毎年1月5日には初生け式がおこなわれ、全国から集まった門弟たちが、一年間稽古に精進することを誓います。また、4月中旬の「春のいけばな展」と11月中旬の「旧七夕会池坊全国華道展」では、家元をはじめとする作品が並び、内部が公開されます。旧七夕会は、江戸時代に後水尾天皇から開催の許しを賜ったと伝える、由緒ある花展です。
境内の南東隅にある唐崎社は、六角堂の鎮守です。御祭神の唐崎明神は、「唐崎の松」で有名な琵琶湖畔の唐崎神社(滋賀県大津市)の神様で、比叡山延暦寺とも深い関係があります。かつては明星天子菩薩とも称していました。社殿には、祇園社(八坂神社)と天満宮(北野天満宮)の神様が合祀されています。
羅漢とは、仏の教えを護り伝えることのできる優れた僧侶に与えられた名前です。十六というのは、方位の四方八方を倍にした数で、あらゆる場所に羅漢がいることを意味しています。六角堂の十六羅漢は、「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践し、いつもにこにこしています。いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあるという教えです。
山門をくぐると、右前方の敷石の中央に、中央にまるい穴があいた六角形の石があります。門前の六角通りにあったものを、明治時代初期に門内へ移したもので、六角堂が京都の中心とされたことから、体の中心であるへそになぞらえて「へそ石」と呼ばれています。また、平安京造営時、本堂の位置に道を通すために祈ったところ、堂が少し北の現在地へ移動し、もとの位置に石が一つ残ったという伝説から、「本堂古跡の石」ともいいます。
■鞍馬寺


ほぼ真北に鞍馬寺へ、参道入り口のおみやげやさんの駐車場へ1日500円でした。

ここから参道である。
なめた格好である。
鞍馬山修養道場
仁王門(山門)
仁王門(山門)
山門を出たケーブルカーに続く参道
鞍馬寺が運行している寺参詣用のケーブルカー。設置は昭和32年(1957年)
車両は1両、線路は一直線で僅か、200メートルの路線ですが、徒歩で登ると30分、下りで15分かかるそうです。ケーブルカー乗り場は普明殿という建物の中にあり、ケーブルカー車両の乗車人員は少ないためシーズン中は非常に込むそうですが、私たちが乗った回はさほど混んでいませんでした。

巽の弁財天社
学芸・財宝を司る福神、弁財天を祀る。
水琴窟も付設されている。
中共ウィルスの患禍は、こんなところにも。多くの神社仏閣では参拝前に手を清める手水が、分散した流しっぱなしの水道であったり止めて空になっていたりしましたが、鞍馬寺では生け花の器にしておりました。
本殿に続く最後の階段
本殿 宇宙の大霊、尊天のお働きを象徴する千手観音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊(脇侍、役行者・遮那王尊)を奉安する中心道場。御本尊は秘仏で、60年に一度、丙寅の年に開扉されます。次の丙寅は6年後、2026年(令和8年)です!
本殿の地下は、宝殿で信徒の清浄髪が厳かに祀られています。写真を撮りたいほど幻想的でしたが、禁止でしたので・・
本殿の地下は、宝殿で信徒の清浄髪が厳かに祀られています。写真を撮りたいほど幻想的でしたが、禁止でしたので・・
狛犬ならぬ「阿吽」の虎は、本尊毘沙門天のお使いである神獣。毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされていることによります。五十音が「あ」から始まり、「ん」で終わることから「阿吽」は、宇宙の全てを包含すると言われています。
本殿金堂前の金剛床は、宇宙のエネルギーである「尊天」の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し、内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものである尊天と一体化する修行の場となっていると、寺の説明です。「尊天」とは、千手観音菩薩・毘沙門天・護法魔王尊の三身が一体になった形而的な崇拝対象の鞍馬寺のご本尊のことです。
スピリチャル系の説明では鞍馬山の尊天は、月輪の精霊であり愛の象徴「千手観世音菩薩」、太陽の精霊であり光の象徴「毘沙門天王」、大地の霊王であり力の象徴「護法魔王尊」の三身です。もともと鞍馬山は毘沙門天を本尊として祀っていましたが、「毘沙門天も観世音も根本は一体である」という夢のお告げを受け千手観音も併せて祀ることとしました。その後、祀られるようになった護法魔王尊と併せ、現在のような三身一体の本尊を尊天とする形となりました。尊天の真言は「オン バサラ ダルマ キリベイ シラマナヤ ダルマ ハラマソ バミウン ソワカ」これは千手観音、毘沙門天、護法魔王尊三身の合体真言で、通常の法会(説法・供養の集まり)などでは唱えられず、師から弟子に教えを伝えるときや、5月の満月の夜に執り行われる秘儀「ウエサクさい」(五月満月祭)で唱えられるそうです。
ところで「護法魔王尊は金星からやってきた」という話をきいたことはありませんか?これは昭和22年(1947年)に鞍馬寺が天台宗から独立したあと広まった考えです。独立後は「鞍馬弘教」という宗派として活動しているようです。鞍馬弘教には「護法魔王尊はサナト・クマラである」という考えがあります。サナト・クマラとは「永遠の若者」という意味のインドの神様。ヒンズー教では創造神ブラフマーの息子です。少年の姿のままで一生独身を貫きました。ブラフマーの宇宙創造を手伝ったあとは宇宙をさまよい、ヴィシュヌやクリシュナ、シヴァの神話にも登場します。神智学の世界ではサナト・クマラは地球の創造主ロゴスから派遣された霊的指導者(マハトマ)とされます。1850万年前に金星からやってきました。人類の進化をサポートしているとされます。この神智学の考えが「ニューエイジ」の元になっています。ニューエイジとは1960年代以降アメリカで始まった精神(スピリチュアル)世界の流行のことです。ニューエイジではサナト・クマラはアセンテッドマスターとされます。アセンテッド・マスターとは「人の魂を高次元の存在(ハイアーセルフ)に導くためのサポートをする存在」です。これだけ聞くとわけがわからないかもしれませんが。要するに「人間の修行を助けてくれる指導霊」です。ご利益のある神様ではありません。鞍馬弘教では「護法魔王尊は650万年前に金星からやってきた」とされ。鞍馬(クラマ)は「クマラ」から変化した言葉とされます。
本坊(金剛寿命院)
奥の院、貴船神社に抜ける西門の入り口である。
昨日大神神社登山でお疲れのSさんにどうしますかと聞くと、行くとのことだったので出発です。
昨日大神神社登山でお疲れのSさんにどうしますかと聞くと、行くとのことだったので出発です。
鞍馬寺、山内コース
山門からケーブルを利用て本殿往復の「安楽の道」から、山門から貴船に至る西門まで歩く「修行の道」まで様々なご参拝の道があります。体力・体調・目的に応じて色々な道をお選び下さい。

鞍馬寺山内案内図


奥の院 参道
冬柏亭 與謝野晶子書斎
写真ではよくわかりませんが杉の木立の間から遠くに京都市内が見えます。
清少納言の「枕草子」の遠近の章段に鞍馬山についてふれられています。
清少納言の「枕草子」の遠近の章段に鞍馬山についてふれられています。
【原文】近うて遠きもの。宮のべの祭。思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。師走のつごもりの日、睦月のついたちの日のほど。遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の仲。【現代語訳】近くて遠いもの。宮のべの祭。親しくない兄弟姉妹や親族との仲。鞍馬寺のつづら折りという参道。大晦日から元日までの間。遠くて近いもの。極楽。舟の旅路。人間関係。
清少納言がいうところの近くて遠いものはつづらおりの参道ことを書いたのだが、都の住人にとって鞍馬寺は近くて遠いものなのかもしれません。
木の根道
根が地表面でアラベスク模様を描くのは、この辺り一帯の砂岩が、灼熱のマグマの貫入によって硬化したために根が地下に伸びることが出来なかったためできたものです。
大杉権現社跡
木の根道の先には大杉権現社がありましたが、砂岩の為根が浅かったため2018年台風21号の暴風雨の直撃で倒壊していました。
木の根道の先には大杉権現社がありましたが、砂岩の為根が浅かったため2018年台風21号の暴風雨の直撃で倒壊していました。
この辺りは、大杉苑瞑想道場と呼ばれ、護法魔王尊のエネルギーの高い場所として知られていましたが、杉の茂みが消えたことでパワーを感じることができませんでした。
僧正ガ谷不動堂は、伝教大師(最澄)が天台宗立教の悲願に燃え、一刀三礼を尽くし刻んだ不動明王が安置されている堂。
僧正ガ谷不動堂は、伝教大師(最澄)が天台宗立教の悲願に燃え、一刀三礼を尽くし刻んだ不動明王が安置されている堂。
奥の院
魔王殿」は太古、護法魔王尊が降臨した磐坐・磐境として崇拝さ れてきましたた。
奥の院~西門への道はかなり厳しい
Sさんはかなりへたってきましたので、先に降りていきました。
やっとなだらかになったので、S夫妻を待つことに、「おや・・・降りてくる人が少ない」、暫くするとやってきましたが・・・どうやらS夫妻が渋滞の先頭でした。後ろにはぞろぞろと多くの人々がぞろぞろ・・
本堂を10時に出て、西門に11:30でした。まあSさんのペースに合わせたせいでしたが、帰りはどうなるか・・・
貴船川をまたぐ橋のところにでます。
ちょうどお昼時、貴船神社参詣よりもお昼ごはん!・・・・
川床は通常予約制なので、入れないだろうとたかをくくっていましたが・・・
顔の広い元芸子のSさんの知り合いのお店に行くと、OKとのこと昨晩の豪華な夕ご飯に引き続き、二度ほど川床の流しそうめんを頂いたことがあるが、流しそうめん以外初めての川床を経験することができた。
川床は通常予約制なので、入れないだろうとたかをくくっていましたが・・・
顔の広い元芸子のSさんの知り合いのお店に行くと、OKとのこと昨晩の豪華な夕ご飯に引き続き、二度ほど川床の流しそうめんを頂いたことがあるが、流しそうめん以外初めての川床を経験することができた。
でも~高いんだよね~、今回の旅行は家内が出すから知らんけど
麗しの川床!かつて京都に住んでいて遣り残した心のこりの一つでした。
それにしても、風流である、深い緑に明るい赤い提灯、色のバランスが良い。自然を取り込む巧みさは我々日本人の誇りである。
それにしても、風流である、深い緑に明るい赤い提灯、色のバランスが良い。自然を取り込む巧みさは我々日本人の誇りである。
夏、京都の三条や四条あたり、鴨川沿いの料亭にはずら食事ができるスペース「納涼床」が並びます。日の沈んだ以降は確かに室内よりは涼しげですが、日中食事をする貴船の川床とは似て非なるものです。木陰を流れる水量豊かな渓谷は、道路の温度より数度は低い感じです。「清涼」という言葉がぴったりです。

さあ、料理が運ばれてきました。
向付 刺身ゆば
天ぷら イワナの天ぷら
ご飯
貴船はとっても狭い道で次々に車がくるから、大変な渋滞となります。
ご飯をたべている間30分ほどまったく動きませんでした。
貴船神社にこの時間帯に行くのは自殺行為です。地元の人達が必至に交通整理してやっと動きました。しかし渋滞に撒き込めれていたのはベンツやBMWなど高級車ばかり、擦りたくないのはわかるが、貴船に車で来ることはどのようになるか・・・知らないならばお気の毒というか情弱です。
ご飯をたべている間30分ほどまったく動きませんでした。
貴船神社にこの時間帯に行くのは自殺行為です。地元の人達が必至に交通整理してやっと動きました。しかし渋滞に撒き込めれていたのはベンツやBMWなど高級車ばかり、擦りたくないのはわかるが、貴船に車で来ることはどのようになるか・・・知らないならばお気の毒というか情弱です。
奥宮に参拝したあと本宮に参拝、けっこ長蛇の列
S夫妻はここでリタイヤ、とても来た道は戻りたくないとのこと。
一旦叡山電車の貴船口駅まで歩いて戻って鞍馬駅へ向かうとのことでした。
一旦叡山電車の貴船口駅まで歩いて戻って鞍馬駅へ向かうとのことでした。
私達は、来た道を戻ることにしました。なんと、あの険しい奥宮まで10分、本殿までさらに20分、たった30分で戻ってこれました。
ケーブルカーで多少待たされましたが駐車場まで45分で帰ってこれました。
ケーブルカーで多少待たされましたが駐車場まで45分で帰ってこれました。
上賀茂神社に久々に参拝
松栄堂 京都本店に寄ったところS夫妻のクラウン そこで暫し談笑、次は冬至(12/21月曜)の伊勢神宮にでも行きますか?という話になりましたが、私は今回の定期異動で異動となりましたので、はたして行ける環境かまだわかりません。
5時過ぎに松栄堂の駐車場をでましたが、久々の激しい渋滞を経験しました。
いつものように王将餃子京都東インター店でご飯を食べ、いつものように大津SAでお土産を買い帰路につきました。
7時過ぎ東名は東名横浜町田を先頭に50kmの渋滞!第二東名は新城~岡崎で事故渋滞。久々に東名経由で帰りましたが、途中富士川SAで力尽き、2時間ほど仮眠。自宅に到着したのは午前2時前でした。
5時過ぎに松栄堂の駐車場をでましたが、久々の激しい渋滞を経験しました。
いつものように王将餃子京都東インター店でご飯を食べ、いつものように大津SAでお土産を買い帰路につきました。
7時過ぎ東名は東名横浜町田を先頭に50kmの渋滞!第二東名は新城~岡崎で事故渋滞。久々に東名経由で帰りましたが、途中富士川SAで力尽き、2時間ほど仮眠。自宅に到着したのは午前2時前でした。