
世界はなぜ最後には中国・韓国に呆れ日本に怖れるのか――目次
はじめに 1
第一章世界は古代から日本に憧れていた 13
○孔子も日本に行きたいと望んでいた
○古文書(梁職貢図)には「新羅は倭の属国だった」と書かれている
○マルコ・ポーロ以前にも世界中にあった「日本=黄金の国」伝説
○大航海時代を開いた「ジパングヘの夢」
○日本に魅了された戦国時代の宣教師たち
○「故郷を捨ててもこの地を選びたい」と記したロドリゴ
○日本人の誠実さを記した『日本大王国志』(子供の教育)
○「中国より日本が優れている」と喝破したシドッチ
○日本人に高潔さを見たドイツ人医師
○ロシア人捕虜が憧れた徳川日本
○初代イギリス公使が賞賛した日本人の能力
○中華と日本のあまりの違いに驚嘆したシュリーマン
○日本を愛した清朝外交官(黄道憲)
○イザベラ・バードの日中韓比較
○ミシェル・ルヴォンの日本文明史論
○「日本人は善徳や品性を生まれながらに持っている」
○西洋人が見た日本人の容貌と性格
○西洋人が比較した日本・中国・韓国の美
○世界を魅了する日本文学
○西洋人の目に映る「日本精神」のすばらしさ
第二章外国が見て感じた朝鮮の悲惨な本質――――83
○朝鮮建国は中国人が始祖だった?
○西洋においてようやく朝鮮が認識されるのは17世紀
○宣教師が伝えた朝鮮半島の惨状
○告げ□と裏切りが朝鮮社会の本質と論じたダレ神父
○ハゲ山ぽかりたった朝鮮半島
○迷信と搾取が蔓延する開国後の朝鮮
○バードが見た「死者の国」の死相
○アーソン・グレブストの『悲劇の朝鮮』
○朝鮮人の「外華内貧」を示した『朝鮮亡滅』
第三章世界が驚いた中国の野蛮と没落 ―――― 139
○西洋人の「支那」発見
○世界の中国観の移り変わり
○マルコ・ポーロ以外の中国見聞
○中国人商人の良心のなさを記したクルスの『中国誌』
○マテオ・リッチが見た中国人の人間不信
○外国文化を受容する日本と拒否する中華
○西洋人の中国皇帝に対する異なる評価
○奴隷になりたがる中国人
○「無官不貪」の伝統文化
○西洋人が驚愕した中国人女性の風習
○傲慢な中国の内貧ぶりを見た英使節
○「儒教が中国の精神的発展を阻害した」
○中国人の「醜さ」を見抜いたアーサー・スミス
○中国を見誤ったヨーロッパの知性
○賛美から侮蔑へ変化する西洋の中国観
○人民への圧政こそ中国の原理と論じたモンテスキュー
○「嘘つき」の国民性を分析
○中国が後進国となった理由を探ったコンドルセ
○官僚の腐敗が発展阻害要因と見たアダムースミス
○「不変と停滞」を中国の本質としたヘーゲル
○「中国人は未来の利益を考える理性がない」と論じたミル
○中国には変革のエネルギーがないと評したウェーバー
第四章戦後の日中韓は世界からどう論じられてきたか――――213
○戦後の日中韓の比較
○ポールーリシャルの日本讃歌
○「恥」を語るルース・ベネディクトの『菊と刀』
○アメリカきっての日本通から見た戦後日本
○中国の時代を予見しながらも日本神道を賛美したトインビー
○戦後韓国人の精神を分析した『朝鮮の政治社会』
○戦後韓国の繁栄を日本のおかげだと論じた『帝国50年の興亡』
○朝鮮半島への日本の貢献を論じた『新朝鮮事情』
○日本の教育制度に感嘆したパッシン
○現代のイエズス会士が見た日本
○日本警察にっいての見方の変化
○「21世紀は日本の時代」と予言した米国の未来学者
おわりに 258
本を読むのは楽しい。良い本は全て紹介したいが、全て読んだ本をブログで紹介していては身が持たない。しかし、元中国人の石平氏・元台湾人の黄文雄氏の本は興味を持って読める本が多く、ついついブログで紹介したくなる。
高校生の頃に読んだ上古代史の歴史について書かれたとされる竹内文書について書かれた本「謎の竹内文書」の中に、古代日本にはイエスキリストやモーゼ、孔子がやってきて学んだと書かれていた。まあ、ロマンあふれるファンタジーで、そうであったら良いな~おもしろいと思っても、さすがに真実であると思うことはできませんでした。(ちなみに同じ偽書でも秀真伝:ホマツタエの方が失われた古史・古伝のエッセンスが入っていると思う)
が、三十数年ぶりに、本書を読んで、竹内巨麿によって不幸にも書き加えられた竹内文書の元ネタの一つは中国の日本に関する歴史書が日本を理想郷のように書かれていたことから、日本国内の国学者達が気がついていたことによるような気がします。
p14-15
孔子も日本に行きたいと望んでいた
世界はなぜ日本に魅了されるのだろうか。
日本の名が世界で最初に歴史書に登場するのは、いまから1940年近く前の後漢の章帝(在位75~88年)の時代に完成した『前漢書』(班固)の「地理誌」である。そこには、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国となる。歳時を以て来たり献見すと云ふ」と書かれている。
それ以前にも、中国古代の戦国時代に書かれた『山海経』などに記述があるが、それが日本を指しているのかどうかは判然としない。中国の正史二十四史(清朝の乾隆帝によって定められた中国王朝の正史24書)に日本の名が記述されたのは、この『前漢書』が初めてである。
この一文の前には、「東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設し海に浮かげば、九夷に居らんと欲す。以有るかな」とある。つまり、東夷は性格が柔順であり、孔子は中国では道徳が行われないので、九夷(日本を指すと思われる) へ行きたいと述べていた、というのである。
これについては、『論語』にも「子、九夷に居らんと欲す」(子草第九)、「子曰く、道行われず、俘(いかだ)に乗りて海に浮かばん」(公冶長第五)などと書かれている。
司馬遷の『史記』には秦の始白五帝の天下統一直後の紀元前219年に、徐福(徐芾)が童男 童女を率いて 「蓬莱仙島」に不老長寿の仙薬を探し求めたとある。この仙島は日本だと目されており、日本でも類似の伝説を伝えている。
中国の正史上で、初めて日本に関するまとまった記述があるとされているのが『三国志』 (3世紀末成立)「魏志倭人伝」(通称)である。著者は西晋の陳寿(233~297年)であ り、3世紀末の280~290年に書かれたとされる。邪馬台国の見聞録については「魏志倭 人伝」が初めてである。
魏志倭人伝の正式な名称は『三国志』「魏書東夷伝倭人条」で、そこには倭国の風土や様子、 邪馬台国までの行程が示されている。さらに、「婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、静訟少なし」と記述され、窃盗や争い事の少ないことが述べられている。現在の日本もそうだが、当時から特筆されるほど安定した社会だったのだろう。
『後漢書』(432年完成)には、57年に奴国王が光武帝から冊封(爵位を授ける書状)を受け、「漢委奴国王」の金印を授かったことが書かれている。その後も、『末書』(502年完成)、『南斉書』(502~519年完成)などの正史にも日本の記述がある。
聖徳太子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な国書を送ったことが記されている『隋書』(656年完成)「東夷伝」にも、「人、頗る恬静にして、争訟稀に盗賊少なし」(物静かで争わず盗人も少なし)、「性質直にして雅風有り」(性格は素直で上品なところがある)、と書かれている。
日本に魅了された戦国時代の宣教師たち
ローマカトリック教会に属するイエズス会では、1549年のザビエル来訪から80年まで、「イエズス会士日本通信」という報告書を残している。79年から1626年までの記録は、巡察師アレッサンドロ・バリニャーノの提言によって年報形式に統一されたので、以後は「イエズス会日本年報」と呼ばれるようになった。
執筆者のひとりであるルイス・フロイスはポルトガルのイエズス会宣教師で、インドやマラッカで布教活動を行った。インドのゴアでは、ザビエルの協力者になっていたアンジロー(前出)に会っている。1563年に来日、長崎で亡くなるまでの35年間、日本で布教を続けた。
フロイスの著書である『日欧文化比較』は、1946年にヨゼフ・フランツ・シユッテ牧師
によって、スペイン・マドリードの文書館で発見された。日本では、1955年にドイツ語訳を添えて上智大学より刊行。66年に岩波書店から出版され、91年には『ヨーロッパ文化と日本文化』(岡田章雄訳注、岩波書店)の題で文庫化されている。
男性、女性、児童、坊主、寺院、日本人の食事、日本人の武器、馬、病気・医師、書法、家屋、船、’劇など、多岐にわたる文化比較の書だ。
「われわれは喪に黒色を用いる。日本人は白色を用いる」
「われわれはすべてのものを手を使って食べている。日本人は男も女も、子供の 時から日本の棒を用いて食べる」
「われわれは横に、左から右に古く。彼らは縦に、いつも右から左に古く」
「われわれの家は石と石灰で造られている。彼らのは木、竹、藁および泥でできている。
とくにフロイスは日本の子供の聡明さに驚き、それは親のしつけにあると見た。
「ヨーロッパの子供は青年になってもなお口上ひとつ伝えることができない。日本の予供は十歳でも、それを伝える判断力と賢明さにおいて、五十歳にも見られる」
「われわれの間では普通、鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多に行なわれない。ただ言葉によって譴責する」
加えて、フロイスは当時の日本人夫婦の特性についても記している。
「われわれは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後、妻が前を歩く」
「われわれは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける」
「われわれは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる。汚れた大声に従って、夫が妻を離別するのが普通である。日本では、しばしば妻が夫を離別する」
「われわれは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人(フィダルゴ)たちは料理を作るために厨房に行くことを立派なことだと思っている」
封建社会の日本では女性の地位は男性よりも低かったとされているが、これを見ると、まるで現在の日本や欧米諸国を見るかのようで興味深い。当時の日本では、女性の地位も自由度も現在の先進国並みに高かったことがうかがえる。
こうした比較は、桃山時代の日本と大航海時代後のヨーロッパの文化的差異として体験できる、もっとも対極的なものであっただろう。これはきわめて示唆に富んだ観察報告といえる。
しかしフロイスの名が有名になったのは、何といっても1583~94年にかけて執筆した大著、『日本史』によるだろう。文章力に優れ、天性の語学の才能があったフロイスが、その才能を買われて日本布教史の執筆を命じられたのだ。現在、平凡社東洋文庫版(柳谷武夫訳)とポルトガル語の原文を翻訳した中央公論礼版(松田毅一・川崎桃大編訳)がある。
ここには、織田信長や明智光秀の生涯、九州三侯(大友氏、有馬氏、大村氏)の遣欧使節団について、多くの原資料が記されている。また、キリシタンの隆盛から秀吉によるバテレン(宣教師)追放、禁教にいたる激動があますところなく描かれている。日本の記録では確認できない事項も多く、この時代を知るうえで第一級の史料である。
将軍綱吉の前で片言の日本語を話したというケンペルは、言語学にも才能があったらしい。p41-42ロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン
中国語と日本語にまったく類似性がないことに気づき、そこから、日本人の起源はバビロン種族という大胆な仮説を立てている。これは「日本人は支那人の別種」とする当時の一般的な見解に反するものだった。
実際、日本語は中国から無数の語彙を取り入れているが、中国語とは文法的に関連性がなく、発音もまったく異なる。わずか2年の滞在で、目先の類似に惑わされず本質の違いに気づいたケンペルはやはり目が鋭い。
また、ケンペルは日本人の高潔さを賛美し、美術工芸の面では他のすべての国民を凌駕していると述べるとともに、日本の空間には「美」が溢れており、日本の旅館の坪庭が非常に美しいこと、また、アジアのどの地方でも、日本の女性よりよく発育し美しい人はいないと絶賛している。
次もゴロウニンの卓見である。p44 初代イギリス公使 ラザフォード・オールコック
「もしこの人口多く聡明で抜け目のない、模倣の上手な、思慮深く勤勉でどんなことでも出来る国民の上に、我がピョートル大帝ほどの偉大な王者が君臨すれば、日本が内蔵している能力と財宝によって、その王者は多年を要せずして、日本を全東洋に君臨する国家に仕上げるであろう」 「日本人や中国人がヨーロッパ人に変身して、今日明日のうちに危険な存在になると主張するつもりはない。しかし、そんなことは絶対ありえないとはいいきれない。遅かれ早かれ、そういう目が来ることだろう」
当時は明治維新の約半間紀前、日露戦争のI世紀近く前のことである。当時の欧米の知識はまだ貧弱で、アジア人は野蛮な未開人という程度の認識がほとんどだっただろう。日本の底力を世界が知ったのは、日清・日露戦争後のことである。
まして外交官や商人、旅行者でもない一ロシア人捕虜が2年間で見た世界は、非常に隔絶されていたはずだ。それでもこれはどの先見力があったとは、まさに慧眼といえるのではないだろうか。
また、日本に対して、オールコックは中国と比較して次のように評している。p45-50
「日本人の文明は高度の物質文明であり、あらゆる産業技術は蒸気力や機械の助けによらずに達しうる完成度を見せていると言わねばならない。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、多くの点で蒸気力や機械の欠如を補っているのは明らかだ」 「これまで達したよりも高度で優れた文明を受け入れる日本人の能力は、華人も含む他のいかなる東洋の国民より、はるかにすぐれていると思われる」
中華と日本のあまりの違いに驚嘆したシュリーマン1.イザベラバードの日本紀行01
19世紀半ばに清と幕末の日本を旅し、その両国の記録を残しだのが、トロイア遺跡の発掘で有名なハインリッヒーシュリー・マンである。彼は遺跡発掘の6年前である1865年3月に世界旅行へと旅立った。
そして海路でインド、香港、上海と北上し、1865年4月27日に天津に上陸、北京を経て万里の長城を見学もしている。その後、上海に戻りしばらく逗留し、そこから日本へ向かった。
日本に1ヵ月ほど滞在した後、今度はサンフランシスコヘ向かったが、その洋上で書き上げたのが『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子訳、講談社学術文庫)である。連続して清と日本を見て回っただけに、その比較はきわめて資料的価値が高いだろう。
まずは、当時の清についてであるが、シュリーマンは官僚腐敗や不潔な町並みをこう評している。
「清国政府は自国の税務業務に外国人官吏を登用せざるを得なかったが、そうするとほどなく税収が大幅に増え、それまでの自国役人の腐敗堕落が明らかになった」
「私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかもに天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。町並みぼそっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている」
「ほとんどどの通りにも、半ばあるIいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷ができている。ところどころに深い穴が口を開けているので、馬に乗っているときはよほど慎重でなければならない」
現在でも官僚腐敗や大気汚染・水質汚染は、中国の一大特徴として知られているが、シュリーマンが見た中国大陸も、現在と同様のおぞましさがあったことがわかる。
また、シュリーマンが世界旅行をしていることの意義を中国人は理解できず、川で泳ぐことも無駄なことだと思う中国人気質について、 「どうしてもしなければならない仕事以外、疲れることは一切しないというのがシナ人気質である、これは言っておかなくてはならないだろう」
と、その利己主義ぶりを特筆している。さらに政府の愚民化政策については、以下のように述べる。
「清国政府は、四億の人民を強化するあらゆる事業を妨げることで、よりよい統治ができると考えているから、蒸気機関を導入すれば労働者階級の生活手段を奪うことになると説明しては、改革に対する人々の憎悪を助長している」
中国人気質から社会紊乱、政府の愚民化策までほとんど現在の中国と変わらないことに驚くばかりである。
シュリーマンは万里の長城を訪れた際、その雄大さに感嘆しつつも、
「いまやこの建造物は、過去の栄華の墓石といったほうがいいかもしれない。それが駆け抜けていく深い谷の底から、また、それが横切って行く雲の只中から、シナ帝国を現在の堕落と衰微にまで既めた政治腐敗と士気喪失に対して、沈黙のうちに抗議をしているのだ」 と論じている。
その後、シュリーマンは上海から蒸気船北京号に乗り、日本の横浜へと向かった。到着したのは1865年6月1日である。シュリーマンは日本上陸にあたり、以下のように述べている。
「これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感激しきった面持ちで日本について語ってくれた。私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである」
「船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと『テンポー』と言いながら指を四本かぎしてみせた。労賃として四天保銭(十三スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ」
と、いきなり中国大陸との差にカルチャーショックを受けている。
荷物検査の際にも、中国人官吏との違いについて、以下のように驚いている。
「(荷物検査を)できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(二・五フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて『ニッポンムスコ』(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男子たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである」
また、シュリーマンには警護の役人がついたが、その過剰警護ぶりに少々辟易しつつも、役人の精勤ぶりには驚嘆している。
「彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶのである」
町並みや人々の清潔さについても非常に感心しており、以下のように述べている。「家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう」
「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」
「大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも頽廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、鄙びたといってもいいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びをおぼえた」
そして日本の工芸品については、「蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」と評し、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女達が完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と絶賛する。
その他、日本の質素な生活にも触れ、ヨーロッパでは結婚の際にさまざまな調度品や家具類を用意しなければならないために莫大な出費が必要とされ、そのために結婚難が起きているが、必要不可欠だとみなされていたものの大部分が不要であることがわかると語り、正座に慣れ、美しいござを用いることに慣れれば、贅沢な調度品などなくても同じくらい快適に生活できる、とまで述べている。そして、「ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された上地が見られる」 と、日本の安全で安定した社会に感嘆したのである。
シュリーマンが感じた日本と中国の違いは、現在では日本を訪れた中国人が自国と比較してよく述べることとほとんど同じだろう。
p58-60 ミシェルールヴォンの日本文明史論
ミシェルールヴォンは、パリ大学文科大学の東洋文明史講座を担当した歴史学者である。
1893年に日本の丈部省の招聘で束京帝国大学法科大学の教師となり、99年まで6年半にわたって日本に滞在した。帰国後に「日本文明史」を著している。
ルヅオンは、3000年来ほとんど変化しない支那や、原始時代のままで外人の好奇心を誘う朝鮮と違い、日本は自発的に社会を不断にあらため、進歩発展して一大国に成長したと説く。
そして、日本文明の特質は東西文明の融和であるという。
ルヴォンの『日本文明史』によれば、日本は長久の神代を経て、上古に支那文明を採用した。
やがて奈良文化や平安文化に次いで、源平2氏が藤原氏を倒して武断から文治、やがて封建社会になる。16世紀にいたってヨーロッパと交流が始まり、信長・秀吉の両英傑のあとは日本第一の政治家である徳川家康が鎖国を行って200余年の平和を保つ。
アメリカ使節(黒船)の渡来後、近代日本は1867年の革命で俄然勃興し、泰西(西洋諸国)文化を輸入して中央集権制を敢行する。古代日本が支那の文物を模倣したように、熱心に外来文明を取り入れた……という日本文明史を説いた。歴史学者らしく、その記述はきわめて正確である。
そこでは、支那はその智力からローマに、優美精粋な日本をギリシヤにたとえ、それを融合させたのが日本文明だと論じている。後世の文明論者トインビーもこれと似た文明観をもつものの、むしろ東洋文明から西洋文明に改宗した背教者と定義しているのとは対照的だ。
ルヅオンの日本文明史論は、風習から産業社会、法律にいたるまで幅広い。農業は古代エジプト時代と似ているが非常に耕作が進んでおり、田圃はさながら庭園のようだ。工業においても、手工業はヨーロッパ人を驚嘆させたほど精巧だった。
財産分配については表面上は専制制度のようだが、実際はかなり民主的、一種の任侠的社会主義で数百万人の労働者を保護している。各労働者はつねに自治・独立・自尊の生産行である。
農民生活は族長制度に類似していても、強制されることなく互助精神に富む。赤貧の者は少なく、200余年の鎖国にもかかわらず人民は多福である旨を説く。
明治当時の神道の教派は12、仏教宗派は100を数え、キリスト教派もおよそ10ある。また、儒学、道徳、進化、哲学について語り、なかでも文学はすこぶる思想が豊富で、西洋の作家に比べ奇抜なところが多い。
和歌や小説、『源氏物語』についても論じているが、ことに美術は日本文明の核だと語り、「芸術の上では日本人は実に天才的だ」と驚嘆している。
だが日本人は、古代ギリシヤ人のように稀有の性質をもっていても、不幸にして自然を愛しながら自然界を制覇することをついに考慮しなかった。この点を除けば、日本人の素養はゆうにヨーロッパ人に措抗するに足ると説く。そして歴史家たるもの、文明世界のすべてを知るならば日本人の精神的素養を無視すべきでない、と論じたのである。
「自然とともに生きるとともに生かされている」という日本人の自然との「共生」の思想と、西欧の「自然開発」「人間対自然」という2元的な自然観との違いについて、ルヅオンの『文明論』では顕著に記されている。
p61-64 「日本人は善徳や品性を生まれながらに持っている」
エドワード・S・モースは1877年に縄文時代の遺跡、大森貝塚を発見・発掘し、縄目模様の土器片(縄文土器)も発見している。日本初の貝塚発見として、教科書にも登場する人物である。
彼の本業は生物学者・人類学者だ。アメリカの出身で、ボウディン大学動物学教授、ハーバード大学講師を歴任し、1877年に来日。79年まで東京帝国大学の初代動物学教授も務めた。
また、江ノ島に臨海実験所を開設し、日本初の学会である東京生物学会を創立するなど、西洋の近代自然科学を伝えた功労者である。ダーウィンの進化論を日本に紹介したことでも知られる。
明治時代の日本人やその生活についても造詣が深かった。彼の収集した日本の陶磁器や民具、写真などはモースーコレクションとして残され、当時を知る貴重な資料となっている。日本美術研究家のフェノロサ、ボストン美術館理事となるビゲローもモースの影響を受け、日本美術に魅せられた人のひとりだ。
モースにはこのほか、『日本の家庭とその周囲』(1855年)、『瞥見・中国とその家庭』(1902年)、日本見聞録『日本その日その日』(1917年)などの著書がある。『日本その日その日』は1877年から数年にわたる日本各地の研究と見聞の備忘録で、数多くの写生図も載っている。3500ページの大著。
モースの見た日本人像で、私か共感したものをいくつかあげてみよう。
「人々が正直である国にいることは実に気持ちがよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に私は小銭を置いたままにする」「日本人の子供や召使いは……触ってならぬ物には決して手を触れぬ」。こそ泥は絶無でないものの「盗まない」。
日本人が「盗まない」ことを特筆するのは、モースにかぎらない。今日でも、日本から1歩でも外国に出れば泥棒や強盗だらけなのだから、日本は特殊な国といえる。
古くは「魏志倭人伝」の邪馬台国についての記述にも「不盗窃」とわざわざ記されている。
また、『隋書』東夷伝にも「人、頗る恬静にして、争訟罕に、盗賊少し」「性質は直にして、雅風有り」と書かれているのはすでにふれたとおりだ。
「中華」以外は野蛮人と考える中国にしては好意的な書き方だが、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」といわれ、しかも易姓革命を繰り返して国まで盗む国から見れば、「不盗窃」の国も存在する、というのは特筆に価したのだろう。
最初の西洋人宣教師として有名なザビエルも、日本について「盗みの悪習を大変憎む」としているほどだ。やはり「日本の常識は世界の非常識」、あるいはその逆というところだろうか。
また、モースは「この国の子供たちは親切に収り扱われるばかりでなく、他のいずれの川の子供だちよりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少ない」とその生き生きした姿を描き、「世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない」と驚嘆している。
「驚くことに、また残念ながら、自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしい」
簡素な衣服、家庭の整理、公衆衛生、自然およびすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやりなど、これらの特質は恵まれた階級だけでなく貧しい人も備えている、とモースは書き残している。
1923年、関東大震災で東京帝国大学の図書館が壊滅したことを知ったモースは、1万2000冊の蔵書を寄贈した。亡くなる2年前のことである。最後まで日本とその文化を愛しつづけた人生であった。