
安易な体罰反対論に反対である の続編
桜宮高校の体罰死亡事件発覚直前に友人に推薦され本書を借り読んでいた。
島根の強豪高校海星高校の野球部監督野々村直道氏は2010年春の選抜高校野球で21世紀枠の出場高校向陽高校(和歌山県)と対戦し敗戦した試合後の共同インタビューで「21世紀枠に負けたことは末代までの恥」「腹を切りたい」と発言した。居合わせたマスコミの記者たちが、「高校野球の監督にあるまじき不適切な発言」「前代未聞の問題発言」などと報じ、糾弾した。 野々村氏は翌日の緊急会見に駆り出され、「本当に申し訳なく、謝罪いたします」と神妙に語り、目に涙を浮かべた。
会見での服装も槍玉にあがった。身にまとっていたのは光沢のあるグレーのスーツに黒いシャツ、緑のネクタイにサングラスだった。マスコミは「とても堅気の人には見えない、それが教育者の服装か、謝罪する人間の服装か」と攻撃した。
本書はその野々村監督の熱い教育論である。
体罰問題に関して本書を一読していただきたいと思い再度借りブログにて紹介します。
P92~101
「子供が主役」は間違い野々村先生のような方の「肉体の接触による愛の励まし」は肯定したいのですが、
野々村 いつだったか忘れましたが、テレビを見ておりましたら、小学校が荒れていて、学級崩壊を起こしていて、授業が成り立たないというような特集をしていました。NHKだったと思います。授業が嫌なのか、女子児童が教室の床に寝転がって「したくなーい」と駄々を捏ねているのですよ。これでは授業にならないと、その子を廊下に出します。そこまではまあいいでしょう。問題はそこからです。その子のところへ、生活指導か何かの男の先生がやってきます。いや、驚きました。
その子の隣で一緒になって床に這いつくばって「何々ちゃん、どうしたの」と始めるのですよ。 つまりその先生は、そういう子を指導する係なのですよ。それを、NHKは褒めているのです。「子供目線にまでいったん下がって、そこから一緒になって上がろうとしている」と。そして「先生は大変ですね」と。
でも、強い先生がいたら、そもそもそんなことにはならないのですよ。クラスが50人
だろうが100人だろうが、どんな子がおろうが、ちゃんと授業を受ける体勢にできますよ。
勝谷 私たちが子供の頃の先生は、みんなそうでしたよ。監督のように腕力があるタイプではなくても、たとえば、子供の目にも切れ昧鋭い論文を書いているような、ものすごく賢くて尊敬されている先生とか。それが最近は、教育に関わる人間が、非常に軟弱です。最近テレビに出ている教育評論家にもいますよね。男のくせに「あたしはね」なんてやっているのが。教師は聖職なんですよ。
野々村 聖職です。子供を育てようと思ったら、小中、それから高校、大学とどんな子供も教育機関で育っていくものですよね。文化勲章をもらう人も、ノーベル賞をもらう人も、みな同じです。ということは、教育というのは、誰もがいっぺんは通らなきゃいけない道です。教師はそれを補佐したり教えたりするわけですから、聖職なのですよ。
最近よく、「子供が主役」という表現が好まれますね。でもそれは絶対に間違っています。学校というのは、教師が主役の場なのです。その主役が、この子たちをどんな人間にするかを考えて、そして教えて育てる場所なわけです。そこで子供たちは影響を受けて、花開くわけです。
ところが、子供が主役、または子供の個性を大切になどという考え方で接していたら、わがままにしか育ちませんよ。「もっとこうさせろ、ああさせろ」としかなりません。
それをよしとする人は、子供たちに思いどおりにやらせることが、教育だと思っているのですよね。しかし違うのです。教師が主役なんです。たとえば野々村が何をするか子供たちは見ています。ですから、立派にやり遂げて「俺についてこい」と姿を見せる。その姿から、俺はお前をこうしたいんだ、こうなってはしいんだと伝わったときには、たとえ殴られて痛い思いをしたとしても「先生、ありがとうございました」という言葉が子供たちの口からは出てくるのですよ。
「体罰」の裏を見ない朝日新聞
勝谷 監督はやはり体罰肯定派ですか。
野々村 いや、私の場合は「肉体の接触による愛の励まし」という表現をしています(笑)。体罰と言えば、朝日新聞のアンケートに答えたことがありました。回答欄があまりに小さいので、別紙にぎっしり書いて送ったのですが、まったく採用されませんで
した。
勝谷 ちょっとそのお話を伺っていいですか。
野々村 二〇〇六(平成一八)年に、駒人苫小牧の野球部長による体罰が発覚して、前年は日本一となった野球部が、春の甲子園を辞退する事態に追い込まれたことがあります。ただこれは、本来は部長の不祥事ではないと私は思っていますっ体罰が発覚した後、卒業式を迎えた三年生か飲酒をして大騒ぎを起こしヽ警察に補導されたことが辞退の原因ではないでしょうか。いったいどちらが悪かったのかIその検証はされていません。
その頃にあったアンケートなのですよ。
「高校野球の指導現場での『体罰』についてヽどう考えますか・あなたの気持ちに最も近いものを選んでください」という設問では「指導には必要なものだ」を選びました゜
「あなたは高校野球の指導の中で『体罰』と考えることをしたことがありますか。一つ選んでください」では「かつてしたことがある」です。
「『体罰』によって選手の問題は改善しましたか。 一つ選んでください」では「明らかに改善した」と答えました。
勝谷 それはおそらく、朝日新聞が期待していたのとはまったく異なる答えですね。
野々村「日頃の指導での悩み、マスコミ・高野連への要望ヽ高校野球発展につながる提言などがあれば、自由にお書きください」という項目もありました。しかし、回答欄が狭すぎるのです。ですから私は、別紙にわたって延々と書き連ねましたよ。
どんなことを書いたかというと、一つは体制と呼ばれるものが、話題やニュースになること自体が不思議だということです。
実際、底辺校と呼ばれる学校の教育現場ではヽ体罰が行われたか否か、というような悠長なことを言っている状況ではないのです。子供たちは倫理とか道徳とかを教えられてこなかったために、そういうものがないのですよ。刃物や凶器で教室を占拠して、教師に襲いかかってくる。授業を受ける気などサラサラありませんし、教室内を歩き回って、机や椅子をひっくり返す。
こんな子供たちが社会に出て行けば、必ず他人に迷惑をかけることが明らかなのです。
その凶暴な子供たちを倫理のみの教育で、情熱だけで、本当に正しい人間に導けるのかということです。この子たちを更正させるためには、体を張って、命を懸けて、首を覚悟で対峙する瞬間が必要だということを、「別紙」に一所懸命書いたわけです。
勝谷 朝日新聞がもっともらしく「体罰はいけない!」と言うのは、そんな現場も知らない、または知っていても耳を貸さない、高みに立った偽善者の論理ですよ。
私は高校野球についてヽ「こんな偽善はない」と子供の頃から思っていました。この国のホンネとタテマエの矛盾は高校野球にあると中学生くらいの頃に気がついたのですよ。
(略)
平和と安定が保障された理想論
野々村 そうなんです。平和と安定が保障された地位や立場で、平然と理想論を語るわけですね。文科省ヽマスコミ、知識人、高野連は。現場も知らずに、常に生徒側が善、指導者側ヽ体罰側か悪であるというイデオロギーにまみれてますよ。教師側なら、「殴った」「叩いた」「体罰だ」「暴力だ」と必ず騒ぎ立てて、「殴ってでも」「叩いてでも」「体罰・暴力と言われてまでも」生徒に向き合う教師という観点で見ることはできないんですよ。
いかなる状況であっても、「肉体の接触による愛の励まし」は「あってはならないこ
と」とする原理主義です。それによって、再生した生徒がいても、ですよ。
現在の高野連の処罰・処分規定によれば、中学時代に非行歴のある少年は、高校野球で受け入れることはできません。一度の非行によって、学校も部も一斉に出場停止という奈落の底に突き落とされるので、大きなリスクを抱えることになるからです。
野球も教育の一環という名のクラブ活動なのですから、事件・事故についての進退は、その学校独自の良心と判断に任されるべきでしょう。
ある高校野球についての特集で、高野連の事務局長は「高校野球の理想の指導者は?」と問われて、元・箕島高校の尾藤監督と回答されていたのですよ。あの尾藤スマイルが子供たちをリラックスさせ、伸び伸びと野球をさせていると……。理想の監督像だとおっしゃるわけです。でも私は、もし、尾藤監督が体罰を一切、行ってこられなかったのであれば、神様の仕業としか思えません。必要なときもあったのではないか。もちろん推測でしかありませんが。
勝谷 名監督は、必要なとうに必要なことを指導されているでしょうかね。最初から天使のような子供たちばかりななら話は別ですが、そんなことがあるはずがない、
野々村 だいたい子供というものはまだ人格が形成されていませんからね。それを朝日や高野連は、人格の形成が伴わなくても人権を与え、性善説に草づいて「子供は正義」として扱うわけです゜それが、 「そこのけ、そこのけ、子供が通る」現象を創り出して、大人が脆くという小人迎合主義を作り出しているのです。
大阪の桜宮高校の先生には生徒への愛があったのかどうかは私たちにはわかりません。おそらく愛もあったとは思います。しかしながら報道などかから受ける印象は、「生徒への愛<自分のキャリア」と感じます。
人間というものは弱い生き物なのです。上に抑える者がなく人の上に安易に立ってしまった場合横暴に振舞ってしまうものです。特に反逆しないとわかってしまった場合暴力はエスカレートしてしまいます。
DVなどはその典型であったと思うのです。これは人間の本質にかかわる問題であるのでそう簡単に暴力はなくなりません。(これは国家関係にも適応されます。・・この話は話が逸れますので別途書きます。)この暴力を振るった先生は学生時代部活生で「愛がある肉体の接触による励まし」ではなく「愛がない肉体の接触による励まし」を受けていたかもしれません。
愛は計ることができません。とりあえず、「肉体の接触による励まし」は許容すべきです。わたしも、「肉体の接触による励まし」は受けてきましたが理不尽だと思ったことは後輩にはいたしません。しかし、弱い人間は沢山います。
そこで教員採用試験には是非メンタル検査を取り入れるべきではないでしょうか?
そしてインターン期間を設けその資質を十分に試す期間を設けるべきでしょう。
でも、その資質を判断するのが日教組の教員であったらろくな人間ではないので外部民間機関の方が望ましいと思います。
そして、定期的にアンケートや部活の抜き打ち視察を行うべきと思います。