快楽亭ブラック Henry James Black伝 

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名作落語「試し酒」を創案した
快楽亭ブラック Henry James Black
外国人が日本に参りまして三月も四月も逗留致して漫遊いたしました後に国に帰ると、日本に於ては真の窮民は無い、あまり不潔の処はございませんと書いまするが、まったく東京見物に参ったお方は表通りのみ通ってそれぞれの名所ばかり拝見致しまするゆえにこう云うことを言いまする。もしも芝の新網四ツ谷鮫ヶ橋或いは浅草松葉町辺りの有様を見たなれば、なるほど日本にも随分不潔の処が有ると云う事が解りましょう。
(『快楽亭ブラック集』ちくま文庫)

イメージ 2快楽亭ブラックは、高名なジャーナリスト、ジョン・レディ・ブラックの息子として、開港したぱかりの横浜で育った。日本最初の円盤レコードを制作したり、歌舞伎の播隨院長兵衛役で人気を博したりもする、外国人マルチタレントであった。

へンリー・ジェームズ・ブラックは1858年12月22日、サウス・オーストラリアのアデレードでスコットランド人の父ジョン・レディと母エリザベスの長男として生まれた。父はブラック家代々の慣習でいったんは海軍への道に進んだのだが、軍人には向かず、実業家をめざして、1854年、新天地オーストラリアに渡ったのだった。しかし彼の仕事は順調ではなかったようで、ゴールドラッシュにわく金鉱掘りを前に、テノールのコンサ一ト歌手までして生計を立てていたという。ちなみに母エリザベスもピアノが得意だった。

1863年、父のジョン・レディはイギリスヘ帰国することを決意。その途中、船が寄航した日本の風土に魅かれて開港2年目の横浜に上陸し、住みつくことになる。以後、彼のジャーナリストとしての活躍はめざましく、1865(慶応1)年春にはA・W・ハンサード経営の英字新聞「ジャパン・ヘラルド」の編集人になる。同年11月8日には、母エリザベスとヘンリーも横浜に到着した。

ジョン・レディはエンターテイメントが好きで、しばしばホーム・コンサートを催し、歌や朗読を披露した。一家そろって、近くのゲーテー座に芝居を見に行くこともあった。

ある日、ジョン・レディの知人宅で、日本人の奇術師が紙を蝶に変えるマジックを実演した。それを熱心に見ていた息子ヘンリーに向かい、父のジョン・レディはこの技に挑戦してみないかと言った。ヘンリーは受けて立ち、何回かの失敗ののち、みごと成功した。観客が盛大な拍手を送ったので、これを機にヘンリーは人前で芸をする喜びを知った。

1872(明治5)年、ジョン・レディは日本語の日刊新聞「日新真事誌」を創刊し、社説で自由民権を訴えた。新聞社を芝増上寺内の源光院に置いたので、彼の家族も東京に転居。翌年さらに、ジョン・レディは社屋を銀座4丁目に移転する。ヘンリーはその新聞社に出入りしている間に、流暢な日本語を話せるようになった。

やがて1878(明治11)年頃になると、日本では議会開設や憲法制定を訴える自由民権運動が起きた。ジョン・レディの新聞の主張に日本人が追いついてきたのだが、運動とともに東京や横浜などの大都市では演説会が盛んになった。ヘンリーも父の友人である元海軍将校の堀竜太に誘われて演壇に上がり、天下国家を論じた。

かたや同じ頃、彼は講談師の松林伯円の弟子になり、寄席に出て、「チャールズ1世伝」や「ジャンヌ・ダルク伝」を語った。

青い目のイギリス人が日本語を巧みに話すという珍しさに加えて、観客の知的好奇心を満たす斬新な内容により、ヘンリーはたちまちのうちに舞台の人気者になった。

1880(明治13)年6月11日、父ジョン・レディが、幕末から明治維新にかけての貴重なドキュメントである『ヤング・ジャパン』をまとめている途中で、亡くなった。その後の約10年問、ヘンリーは母の願望に従い、東京学館などで英語教師として働いた。1887(明治20)年には、『容易独習英和・会話編』という英会話の本まで出している。

一方で彼は、寄席の高座で浴びる拍手が忘れられず、講談師として舞台にも立ち続け、自分の語ったものを本にして出版した。ヘンリーの噺を聞いた速記者が文章にまとめていくという方法で、その最初の作品は1886年刊行の『草葉の露』である。それはイギリスの作家、メアリー・ブラドンの『花と雑草』の翻案で、孤児出身の家庭教師である女性が恩人の娘と一人の男性をめぐって争い、ついには自殺するという物語だった。

1890年代早々の東京では、井上馨(元外務大臣)らの極端な欧化政策に対する反発から、急速に英語学習熱が冷めていった。そこで英語教師という職業に見切りをつけたヘンリーは、好きな芸の道に生きようとして、落語界の名門、三遊亭に入る。

その頃の三遊亭でいちばん勢力をもっていた落語家は円朝だった。彼は河竹黙阿弥、仮名書魯文といった異業種のもの書きとも交流し、『怪談牡丹灯籠』など知的な噺を創作した。そのかたわら、モーパッサンの短編『親殺し』を翻案して、『名人長二』という落語を作り、西洋文化も巧みに受け入れていた。そんな円朝だったから、ヘンリーを喜んで一門に加えて可愛がつた。

1891(明治24)年3月24日、ヘンリーは快楽亭ブラックという名をもった。この名前を選んだことで、周囲の人々や観客に快楽を与えることが、それ以後の彼の使命になった。しかし、快楽亭ブラックの名はすぐには一般に浸透せず、しばらくは「英人ブラック」という名称で新聞に掲載された。

イメージ 3ところで、ヘンリーが快楽亭を名のった当時は、落語家や講談師たちが歌舞伎に挑戦する機会が多かった。彼も『播隨院長兵衛』で、江戸時代のヒーロー長兵衛を演じて好評を得た。調子にのった快楽亭は『妹背山』のお三輪や『義経千本桜』のお里なども演じたが、青い目の女形に観客は仰天した。さらに落語家としての彼は、自分の新作を文章にして残すことにこだわったので、『流の暁』、『車中の毒針』、『幻燈』などが活字になっている。

だが、快楽亭ブラックがこのようにマルチ・タレントとして大いに売り出し、話題になるたびに、母エリザベスや9歳年下の弟ジョン、11歳年下の妹ポーリーンが神経をとがらせて心配した。現代とちがい、芸人が軽く見られていた時代だったからである。あるときなど、弟のジョンが高座にいる快楽亭に向かって、「この恥知らず!」と罵声を浴びせ、舞台を中止に追い込んだことさえあった。ジョンは快楽亭と異なり、イギリス本国で教育を受け、模範的な英国紳士の実業家となって、神戸クラブの会長もつとめた人物である。

1892年、彼は浅草の菓子屋、石井ミネと養子縁組した。ヘンリーはこのことにより、日本人石井ブラックとなり、日本中どこでも自由に旅することができるようになった。翌年にはミネの娘アカと結婚したが、2年ほどで2人は離婚。アカがどういう女性であったかを詳しく伝える資料はない。

1900(明治33)年8月11日、ブラックの心の支えであった三遊亭円朝が亡くなる。円朝は快楽亭と同じく、新しいものを落語に取り入れることが好きな改革派だっただけに、彼の死は快楽亭に衝撃を与えた。

1903(明治36)年春、イギリスのレコード会社グラモフォンの社員、F・W・ガイスバーグが来日。快楽亭ブラックは彼の求めに応じて、『蕎麦屋の笑い』という、自分が浅草の蕎麦屋を訪れたときの体験をネタにした噺を録音した。

翌04年には、代表作『ビールの賭け飲み』を発表。これはビールを15本飲めるかどうかを友人と賭けた男が、飲めるかどうかを確かめるために、賭けの直前に近所の酒屋で15本飲んできたというストーリーだ。現在でも人気の高い『試し酒』のもとになる噺である。

こうして一見、充実した芸能生活を送っているように見える快楽亭ブラックだったが、現実は「どさまわり」と言われる地方巡業が多く、収入面でも全盛期に比べると、かなりの程度きつくなっていた。

そして1908(明治41)年9月23日、兵庫県西宮に巡業中の彼は、芸人としての将来に不安をおぼえ、発作的に砒素を飲んで自殺をはかったが、さいわい一命をとりとめた。快楽亭はその後も寄席に出て、アクロバットや奇術を披露した。しかし、円朝と競うようにして新作を発表していた頃の勢いは、ついに戻らなかった。

晩年の快楽亭ブラックは東京の白金に住み、自分の芸能活動は控えて、養子の芸人石井清吉、その妻のフランス人ローザと子どもたちと一緒に生活した。1923(大正12)年9月19日、脳卒中で逝去。現在、横浜外国人墓地で眠っている。
学生の時に新宿駅でまだ若かった二代目快楽亭ブラックを見つけ、握手して抱擁したことがあります。

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二代目快楽亭ブラック

「相変わらず馬鹿ですねー!」これは芸人に対してはこれは褒め言葉。TVで見かける若手芸人より快楽亭ブラックの一席を聴きたいものです。

本書のなかに登場する人物は甲乙つけがたいほど魅力的人物であるが、初代快楽亭ブラックには惹かれました。初代快楽亭ブラックは、日本オタク第一号ではないだろうか?明治のデーブスペクターかもしれません。おそらく二代目と同様のバカバカしいことをしていたのかもしれませんね。

今日世界を席捲する日本サブカルチャーの魅力を発見した先駆けであると思います。

明治時代に外人が落語で好評を博していた・・荒俣宏の宮武外骨の本に快楽亭ブラックが触れられていたことを思い出し、本棚を探したが、本棚の裏側のダンボールの中かも知れないので諦めた。それにしてもブラックが日本国籍を取得していたとは知らなかった。

当時日本国籍を取得するのは容易であったのだろうか?そのへんの事情を次調べてみたくなった。