
私は、一番良かった映画は?と聞かれると、いつもBlade Runnerと答える。
他にも素晴らしい映画は数多あるけれど、自分にとって青春の1ページを飾る印象的な映画であるからかもしれない。
私がBlade Runnerを初めて観たのは映画館ではなかった。
映画が公開された翌年、明治大学駿台祭が終わった1983年11月6日早朝、今は無き学生会館3階美術部部室前のホールであった。
前日11月5日駿台祭のフィナーレは山手線を一周するオーバーナイトハイクであった。酔った勢いで前日の確か10時から明治大学の記念館から歩きはじめ、一晩中山手線に沿って50kmほど歩き、朝日が昇る頃、全員くたくたになって部室に辿りついた時だった。
確か米津先輩だっただろうか?当時はまだ高価だったβマックスのBlade Runnerのビデオをホールの大型TVと繋ぎ、そこにいた部員たしか二十数人と、当時付き合っていた後輩の彼女と並んでブラウン管のTV画面を全員で食い入るように観た。
徹夜で歩いた後、晩秋の朝の冷たい空気と、新鮮な朝の光の中で観る、陰鬱で温暖化で雨ばかり振る近未来のロサンゼルスを舞台にでくりひろげげられるSF作品は、当時バブル目前の活力があって明るい80年代の日本、暗く不安な近未来という対比的なシチュウェーションも印象的だったが、圧倒的な映像美と、ヴァンゲリスの音楽に強い刺激を感じざるをえなかった。漠然とした未来への不安、若い自分に、今を生きることの大切さ、人間とは何か人生とは・・・・、私は深く考えさせられた。
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あれから三十数年の時が流れたが、あの時の感動は今も忘れられない。
2049を語る前に、まずはオリジナルのBlade Runneが如何に偉大な映画であるか、私なりの解釈を語りたい。
上の動画の月曜ロードショーは1986年のものである。日本語や漢字ががあふれる未来社会を荻昌弘氏は新鮮な驚きとして語っていましたが、ブレードランナーの世界観は、後のSF映画含めアニメや小説マンガすべてに多大な影響を与えた作品だ。
デッカードがバッティを発見するが、バッティは屈強で、デッカードはあやうく殺される寸前となった。ところがバッティはデッカードを助けた。
最後のシーンはデッカードがレイチェルとともに、森林地帯をタイヤで地上を走る車でどこまでも遠くまで走って行くシーンで終わった・・・
まさか35年後、正統な続編のブレードランナー2049に続くとは思わなかった。
ブレードランナーは未来がバラ色ではないという「ディストピア」を描き、陰鬱さと人間の心の闇を投影するイメージとして、無国籍でアジア的な東京の夜が一種のイメージとなったのであろう。
実際の東京はブレードランナーの荒廃した世界ではなく、ブレードランナーのサイバーパンクテイストがある安全で、ハイテク都市であったのだから人気が爆発してもおかしくはないだろう。
この宇宙は、我々の脳が見ているヴァーチャルリアリティーかもしれない。最新の科学の量子論宇宙は実は、フォログラフィかもしれないという仮説すらあるのだ。
「ブレードランナー2049」 「人間とは…」問い続けて
ブレードランナーが大コケだって?
例えば、世界的ヒットとなった日本のマンガ攻殻機動隊の世界観や映像の根底にブレードランナーがあるの誰が見ても明らかだ。
レプリカントと電脳を持つ擬体、世界観は確かにそっくり、いや、ほぼ同じである。
ブレードランナーは攻殻機動隊に、攻殻機動隊はマトリックスに、マトリックスはその後に続くSFに多大な影響を与えています。ブレードランナーはSF映画の金字塔であると思います。
<オリジナル ブレードランナーあらすじ>
【すぐにわかる】ブレードランナー 手書き紙芝居【完全ネタバレ】


2019年の地球では環境の破壊によって人類はそのほとんどが宇宙へと移住していました。そんな中、地球に残った人々は人口過密状態である大都市の高層ビルが沢山並ぶ中、生活を強いられる事になっていました。
人類は宇宙の開拓のために人造人間レプリカントを作り出した。レプリカント達は奴隷のような過酷な仕事に従事させられていた。レプリカント達は時が経つにつれて「感情」が芽生え始め、人間に対して反旗を翻すようになっていきます。
レプリカントを開発したタイレル社はそんなレプリカントに対して安全装置である4年の寿命を与えますが、その後も反乱は後をを立たずそんなレプリカントらを「解任」(殺害)する任務を遂行するのが専任捜査官の「ブレードランナー」で、そのブレードランナーの一人がデッカードであった。

デッカードは、ブレードランナーの仕事に疑問を抱き、一時辞めていただが、潜入した4体のレプリカント達は、開発元のタイレル社に押し入り、ブレードランナーを殺害、そして身分を置き換えて潜伏する事件が起きた。

その4体を見つけ出すために、ブレードランナーを退職していたリック・デッカカードは呼び戻される事になり、雨が降り続くLAというよりどこか東京に似た近未来都市で、レプリカントの追跡捜査を始める。



捜査の過程で、レプリカントを製造したタイレル社に訪れ、創業者タイレル博士の秘書であるレイチェルと出合う。

タイレル博士はレプリカントかどうか見分けるVKテストに興味を持ち、試しに人間であるレイチェルに試しにしてみては?

デッカードに提案レイチェルに試してみたところ、彼女はレプリカントであった。

彼女は自分がレプリカンとであることを知らなかった。過去の記憶も持っていた。彼女は自分がレプリカントではないかと気が付いてしまった。

そんななか、タイレル博士が反乱レプリカントのリーダーバッティに自宅で襲われる。何故反乱を起こしたかというと、あらかじめ寿命が決まっている運命を知り、寿命を伸ばせないか博士に直談判しようとしたのだ。

バッティが生みの親タイレル博士に詰め寄り、寿命を延ばすよう頼むが、タイレル博士は一言「美しい火は早く消えるのだ」一度、人造人間として生命を持ったものの寿命を延ばす方法は無かった。絶望と憎しみに満ちた表情でバッティは博士を殺害した。


Blade Runner - Final scene, "Tears in Rain" Monologue (HD)
そしてバッティはデッカードに語りかける。

「お前たち人間には信じられない光景を俺は見てきた、オリオン座の肩の近くで炎を上げる戦闘艦、暗黒に沈むタンホイザーゲートのそばで瞬くCビーム、そんな記憶もみな、時とともに消えてしまう。」「雨の中の涙のように」「俺も死ぬときがきた・・・・」

そして、聖者が入滅するように座ったまま動かなくなった。


バッディの寿命が尽きたとき、バッディの飼っていた白い鳩がまるで魂が体から解き放たれたように飛び立って行った。




ブレードランナーの魅力はオープニングの京浜工業地帯のようなLAの空を飛ぶ車と、巨大なタイレル社ビル、そしてサイバーパンクなあの荒廃した東京のような未来都市かもしれない。事実近年の世界的なブームとなっている日本観光現象は、ブレードランナーに代表されるサイバーパンクな世界が現在の東京で実体験できることにあるかもしれません。



当時、漢字や日本語に溢れる近未来のLAの映像に、1983年の私は、なんだか嬉しい気持ちになった。当時日本人がLAやNYに憧れていた時代、ハリウド映画でここまで日本に関心を持ってくれたことはなかった。

1980年にアメリカ・NBCで制作・放送されたテレビドラマSHOGUNはあったものの、強力わかもとには驚いた。




上の動画の守鍬刈雄氏ブレードランナー論もかなり面白く聞かせていただいた。
名作とは10人いれば10以上の解釈があるものが名作の条件のような気がします。
ブレードランナーも10人いれば10以上の解釈がある作品であると思います。
ブレードランナーは確かにハリソン・フォード演じるブレードランナーのデッカードの物語ではあるが、ブレードランナー2019の真の主人公は、レプリカントのリーダーであるロイかもしれない。ロイが語るレプリカントとして生まれた生物が語る人間とは?生物とは?魂とは?哲学的である。
この宇宙は、我々の脳が見ているヴァーチャルリアリティーかもしれない。最新の科学の量子論宇宙は実は、フォログラフィかもしれないという仮説すらあるのだ。
それでもデカルトは、宇宙や自分の存在が疑わしいものであったとしても、疑っている自分がそこに存在しているという。我思うゆえに我あり。
レプリカント達も現在急激に進化をしているAIも、もし、自分の存在を認識するようになったのならば、ただの人工的な道具ではなくなるのかもしれない。
物語のレプリカントには自我という感情以前に自己保存の本能が備わっている。
一つ疑問なのだが、人間の胎児は母親のおなかの中で言語の基礎を学ぶのだそうだが、人間はが何年も時間をかけ、様々のことを体験し学習するのだが、現実問題として、将来レプリカントの脳にコンピューターをプログラミングするように、直接記憶を埋め込むことが技術的に可能なのか?
レプリカントはなぜ人間になりたがるか?長生きしたいからだろうか?私はそれだけではないと思う。人間は常に自分は何者なのかを問い続け、生きることに努力を傾け、やがて死を受け入れる物体であるならば、映画におけるレプリカントは人間であった。
感情(自我)を持ったレプリカントは人間とどう違うのか?自我を持ったレプリカントは人間のと同じではないのか?と問うている。
人間とレプリカントは本当に違うのですか?という映画なのだが・・・今のリアルな2017年の世界において、AIが急激に進化している。果たしてAIが自我を持つかは誰にも解らない。
そもそも自我とは霊魂と一致するのだろうか?自我と、超自然的な霊魂が一致するならば、脳が無い機械的には霊魂は宿らないのか?そもそも機械的脳の思考こそ自我の正体ならば、AIには自我が宿るような気がする。
霊魂の存在を認める立場からすると、時として人形に魂が宿ってしまうように、レプリカントのような人造人間が完成すれば、レプリカントにも魂が宿ってしまうのだろうか?すくなくとも体を持たないAIには魂が宿るのだろうか?機械的な脳であるAIが自我を持った瞬間、霊魂が宿るような気がしてならない。
Blade Runner 2049のAIジョイには物語としてAIにも魂が宿っていた印象だ。
わたしは多くの人と同じくやがてAIも自我を持つようになると思う。その時に人はAIの自我を尊重できるのであろうか?
ブレードランナーは米国キリスト教原理主義者とリベラル派の葛藤が隠れているような気もする。SFの古典アイザックアシモフ I ROBOTでロボット三原則を作ったが、その根底にはキリスト教徒にとって、ロボットやレプリカントなど人間が作った人形は神をも畏れぬ悪業なのだろう。
また、レプリカントを移民に置き換えると、現代においてはかなりデリケートな問題も内包していることになる。レプリカントではなく人間の難民に生きる権利はあるのだが、容赦ない現実は、ブレードランナーがレプリカントを始末するように、神は無慈悲だ。
「ブレードランナー2049」 「人間とは…」問い続けて
【産経ニュース】2017.11.3 12:30
SF映画の金字塔「ブレードランナー」(1982年、リドリー・スコット監督)の続編「ブレードランナー2049」が全国公開中だ。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(50)は、生態系が壊れ、退廃的な空気に満ちた前作の世界観にどう肉薄したのか。(高橋天地)
◇
前作から30年後、2049年の米カリフォルニア。宇宙開拓の労働力「レプリカント」(人造人間)を取り締まる専門捜査官「ブレードランナー」のK(ライアン・ゴズリング)はある事件の捜査中に巨大な陰謀に気づく。彼は30年前、女レプリカントと姿を消したブレードランナー、デッカード(ハリソン・フォード)が全容解明につながるキーマンだと突き止め…。
「10代後半の頃から、数千回は見ました。スコット監督はビジュアルを大切にする方で、退廃的で悪夢のような世界観に深く魅了された。僕も彼のような映画監督になりたいと思いました」とヴィルヌーヴ監督。
夢をかなえたかつての映画少年は、どんな作品づくりを心がけたのか。
「人間とは何か、というテーマは前作と変わらないし、受け継いだものはたくさんあります。ただ、スコット監督と私は違う感性の持ち主であり、当然、異なる視点で描いた部分もあります」
具体的には、舞台となった2049年のカリフォルニアの、とりわけ厳しく雨も雪も多い気候だ。
「生態系が一層崩れて気候が変わり、雪の嵐がくると考えた。続編の世界観への入り口を“冬”に設定したのです。描くにあたっては、私が生まれ育ったカナダの冬を意識しました」
1982年、前作は陰鬱な未来像を提示して大きな衝撃を与えた。ヴィルヌーヴ監督は35年がたった今、「北京の空はスモッグで覆われており、私には『ブレードランナー』の世界が近づいているように思える」と危機感を抱く。そして、「環境を破壊するのも、歯止めをかけるのも人間の知恵次第だ」と訴える。
本作で凄腕の捜査官、デッカードを再び演じたハリソン・フォード(75)は、「ブレードランナー」について、「前作と『スター・ウォーズ』(1977年)の成功で私は出演作を選べるようになった。私にとって、とても重要な作品です」と振り返る。前作同様、自分の存在意義に悩む人造人間のレプリカントたちの姿は、観客に「人間とは何か」という重い問いを投げかけている。
フォードは「今や遺伝子操作で人工的に人間は作れる時代だが、私たちは倫理的にそれを抑制している。(結果的に)シリーズは、人間の自制心を賛美する内容になっているのではないか」と語った。
大学の部室前のホールで初めて観たブレードランナーから30数年が経ち、再来年ブレードランナーの時代設定の2019年となる。
当時付き合っていた彼女とは別れてしまったが、ちょうど自分の娘が、私がブレードランナーを観ていた年頃となった・・・
35年ぶりのBlade Runneの続編 観に行かない理由がない!
最初のファーストデイ ららぽーと横浜にあるTOHOシネマのレイトショウを独り観に行った。

Blade Runner 2049を観るにあたっては、予習が必要なのです。前作と映画『ブレードランナー 2049』までの“空白の30年間”を繋ぐ短編が3つ、作られた。
Blade Runner 2019の後に起った最も重要な出来事である大停電を扱った2022年の世界を描く 「ブレードランナー ブラックアウト 2022」
映像の舞台は、「ブレードランナー」の主人公・デッカードが恋人・レイチェルを連れて姿を消した3年後である2022年。
登場するのは謎の男・イギーと美少女・トリクシー。2人は労働力として製造されている人造人間「レプリカント」であり、レプリカントには人間に比べてはるかに短い寿命が設定されています。そこで、2人は「人間になる」べく、大停電を起こし、すべての電子機器をシャットダウンさせてレプリカントにまつわるデータをすべて抹消することで、人間とレプリカントの境界線をなくそうと考えます。
登場するのは謎の男・イギーと美少女・トリクシー。2人は労働力として製造されている人造人間「レプリカント」であり、レプリカントには人間に比べてはるかに短い寿命が設定されています。そこで、2人は「人間になる」べく、大停電を起こし、すべての電子機器をシャットダウンさせてレプリカントにまつわるデータをすべて抹消することで、人間とレプリカントの境界線をなくそうと考えます。
食料危機の解決に貢献をした食品企業ウォラス社が、新なレプリカントを製造し、レプリカント禁止法が人類の宇宙への進出を妨げていると訴える「レプリカント禁止法」の無効にする為に、レプリカントの自殺の強要をする2036年を描いたお話。
2049」の1年前、2048年の世界。ウォレスがレプリカント禁止法の廃止を実現させ、ブレードランナーたちが違法な旧型レプリカントの処分を徹底する世の中で、デイヴ・バウティスタ扮する心優しい旧型レプリカント・サッパーが葛藤するさまがつづられた。軍から抜け出してきたサッパーは1人の少女に心を開いていたが、ある出来事から彼女をおびえさせてしまう。そしてこのエピソードのラストが、「ブレードランナー 2049」でのサッパーと新人ブレードランナー・Kの対面につながっていく。
2049年。
遺伝子工学によって誕生したレプリカントのKは、
レプリカント専門の捜査官『ブレードランナー』
として、古きレプリカントを抹消する司令を受け、日々任務に明け暮れていました。
その最中、謎の箱を見つけます。
Kがその箱を開けてみると、なんと、一人のレプリカントのなきがらが入っていたのです。
慌てて、製造者であるネアンデル・ウォレスに報告。
すると、このなきがらが、かつてK同様にブレードランナーとして生きてきた、リック・デッカードの愛したレプリカント『レイチェル』だったことが判明。
さらに、そのなきがらは彼女が出産した直後のものであることも判明し、改めてKは上司にも状況を報告。
すると、なぜか現在行方不明となっているデッカードだけでなく、レイチェルの娘をも見つけ出し始末するように言い渡されてしまうのです。
はじめは、とにかく上司の言葉通りに、レイチェルの娘を探そうとしていたKでした。
途中、ふとしたきっかけで、自分がレイチェルの娘・アナ・ステラインを守るために
レプリカントによって作り出された『レプリカデコイ』であること
に気付かされます。
その一方で、ようやく元ブレードランナーのリック・デッカードが見つかります。
しかし、これからというところで、デッカードがウォレスの手下である、ラブにさらわれてしまいます。
さらにKはラブに重症を負わされてしまうのです。
絶体絶命の大ピンチで、娘の所在もまだ見つかっていない状況でした。
そんな中、デッカードが所属していた、レプリカント解放運動の活動家・フレイサに窮地を救われます。
そして、K自身がレイチェルの子供ではないかと疑心暗鬼になっている頃に出会った
記憶のスペシャリストであるドクター:アナ・ステリンが、デッカードの娘
であることをフレイサに告げられます。
レイチェルの娘のことがわかったKは、単身でウォレスの下に訪れ、ラブと激闘を繰り広げながら、なんとか勝利。
そして、デッカードとステリンの親子の対面をさせてあげ、安堵したのか息を引き取ったのです。
映画が終わりエンドロールが流れはじめたが、周囲の人は誰も立ちあがらなかった、もっとも、そんなに観客はいなかったのだろう・・・
私は不安な未来と微かな希望、そして切なすぎて立ち上げれなかった・・・・
時計は12時を回り、電気が点いて周りを見ると、予想以上の人が着席したまま立っていないのだ。勿論寝ている人など無かった・・・・

そんなの関係ネエ!
たしかに万人受けするような内容の映画とは、多少テイストが異なっています。
だが間違いなくBlade Runner 2049も
映画史に輝く名作となるだろう。
2049年私は86歳、はたして生きているのであろうか?
私が最初にブレードランナーを観た1983年、2017年にブレードランナーの続編が出るなんて想像できただろうか?2017の世界は残念ながら、人類は地球以外の惑星に移住できていない。空を飛ぶ車も飛んでいない。
でも幸いにも、ブレードランナーの世界ほど環境は破壊されていない。
かなり優秀なロボットやAIは完成しつつあるが、レプリカントのような人造人間は登場していない。
しかし、いつの時代にも人は、自分とは何かを問い続け、愛が存在し、苦悩し、悦び、やがて死が訪れる。人間を模したレプリカントも同じであった。
このBlade Runner 2049は、ただのSF映画ではなく、愛の物語、それも利他的な愛について語った作品としての側面も強い。
デッカードが、レイチェルと別れ、娘とも会わずに身を隠していたのもレイチェルと自分の娘に対する愛ゆえであること。
娘に対しても、危害が及ぶ可能性があったために、会うことを諦めていたのが実際のところでした。
最終的にレプリカントのKが命がけの奮闘のお陰で二人は会えたのだが、Kの利他的な愛があってからこそ。そして二人の為に死んでいくK、だがそこには笑みがあり深い満足感が漂っていた。
そして、一番献身的な愛に溢れていたのは主人公Kの恋人であるバーチャル化したAIのジョイの存在であった。
彼女が、女ターミネーターのような敵役レプリカントのラブに、ジョイの存在を記憶した媒体が壊される寸前にKに言った、I LOVE YOUは本当の愛以外の何物でもない純粋な愛であった。
考えてみればBlade Runner 2019のバッティも最後は笑みを浮かべていた・・・
人とレプリカントの違いは無いだろう・・・・だからアフリカやシリアからの難民を差別するのは止めようとハリウッドは言っているのか?
スラムの中にあった孤児院。これは現代社会における児童労働問題、貧困の告発
かもしれない。そこの孤児院は人間なのにレプリカントのように従順に労働せよと人間の子供を奴隷として使っているのだ・・・・
何が言いたいかはわかる。しかし、・・・・映画の世界をより鬱屈した世界に描き観客を不快にしかさせなかった。
執筆中