Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ(仮)

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:その他芸術、アート


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私は、一番良かった映画は?と聞かれると、いつもBlade Runnerと答える。
他にも素晴らしい映画は数多あるけれど、自分にとって青春の1ページを飾る印象的な映画であるからかもしれない。

私がBlade Runnerを初めて観たのは映画館ではなかった。

映画が公開された翌年、明治大学駿台祭が終わった1983年11月6日早朝、今は無き学生会館3階美術部部室前のホールであった。

前日11月5日駿台祭のフィナーレは山手線を一周するオーバーナイトハイクであった。酔った勢いで前日の確か10時から明治大学の記念館から歩きはじめ、一晩中山手線に沿って50kmほど歩き、朝日が昇る頃、全員くたくたになって部室に辿りついた時だった。

確か米津先輩だっただろうか?当時はまだ高価だったβマックスのBlade Runnerのビデオをホールの大型TVと繋ぎ、そこにいた部員たしか二十数人と、当時付き合っていた後輩の彼女と並んでブラウン管のTV画面を全員で食い入るように観た。

徹夜で歩いた後、晩秋の朝の冷たい空気と、新鮮な朝の光の中で観る、陰鬱で温暖化で雨ばかり振る近未来のロサンゼルスを舞台にでくりひろげげられるSF作品は、当時バブル目前の活力があって明るい80年代の日本、暗く不安な近未来という対比的なシチュウェーションも印象的だったが、圧倒的な映像美と、ヴァンゲリスの音楽に強い刺激を感じざるをえなかった。漠然とした未来への不安、若い自分に、今を生きることの大切さ、人間とは何か人生とは・・・・、私は深く考えさせられた。
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あれから三十数年の時が流れたが、あの時の感動は今も忘れられない。

2049を語る前に、まずはオリジナルのBlade Runneが如何に偉大な映画であるか、私なりの解釈を語りたい。


上の動画の月曜ロードショーは1986年のものである。日本語や漢字ががあふれる未来社会を荻昌弘氏は新鮮な驚きとして語っていましたが、ブレードランナーの世界観は、後のSF映画含めアニメや小説マンガすべてに多大な影響を与えた作品だ。
例えば、世界的ヒットとなった日本のマンガ攻殻機動隊の世界観や映像の根底にブレードランナーがあるの誰が見ても明らかだ。


レプリカントと電脳を持つ擬体、世界観は確かにそっくり、いや、ほぼ同じである。
ブレードランナーは攻殻機動隊に、攻殻機動隊はマトリックスに、マトリックスはその後に続くSFに多大な影響を与えています。ブレードランナーはSF映画の金字塔であると思います。

<オリジナル ブレードランナーあらすじ>

【すぐにわかる】ブレードランナー 手書き紙芝居【完全ネタバレ】



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2019年の地球では環境の破壊によって人類はそのほとんどが宇宙へと移住していました。そんな中、地球に残った人々は人口過密状態である大都市の高層ビルが沢山並ぶ中、生活を強いられる事になっていました。

人類は宇宙の開拓のために人造人間レプリカントを作り出した。レプリカント達は奴隷のような過酷な仕事に従事させられていた。レプリカント達は時が経つにつれて「感情」が芽生え始め、人間に対して反旗を翻すようになっていきます。

レプリカントを開発したタイレル社はそんなレプリカントに対して安全装置である4年の寿命を与えますが、その後も反乱は後をを立たずそんなレプリカントらを「解任」(殺害)する任務を遂行するのが専任捜査官の「ブレードランナー」で、そのブレードランナーの一人がデッカードであった。

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デッカードは、ブレードランナーの仕事に疑問を抱き、一時辞めていただが、潜入した4体のレプリカント達は、開発元のタイレル社に押し入り、ブレードランナーを殺害、そして身分を置き換えて潜伏する事件が起きた。

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その4体を見つけ出すために、ブレードランナーを退職していたリック・デッカカードは呼び戻される事になり、雨が降り続くLAというよりどこか東京に似た近未来都市で、レプリカントの追跡捜査を始める。

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捜査の過程で、レプリカントを製造したタイレル社に訪れ、創業者タイレル博士の秘書であるレイチェルと出合う。

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タイレル博士はレプリカントかどうか見分けるVKテストに興味を持ち、試しに人間であるレイチェルに試しにしてみては?

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デッカードに提案レイチェルに試してみたところ、彼女はレプリカントであった。

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彼女は自分がレプリカンとであることを知らなかった。過去の記憶も持っていた。彼女は自分がレプリカントではないかと気が付いてしまった。

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そんななか、タイレル博士が反乱レプリカントのリーダーバッティに自宅で襲われる。何故反乱を起こしたかというと、あらかじめ寿命が決まっている運命を知り、寿命を伸ばせないか博士に直談判しようとしたのだ。

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バッティが生みの親タイレル博士に詰め寄り、寿命を延ばすよう頼むが、タイレル博士は一言「美しい火は早く消えるのだ」一度、人造人間として生命を持ったものの寿命を延ばす方法は無かった。絶望と憎しみに満ちた表情でバッティは博士を殺害した。

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イメージ 31デッカードがバッティを発見するが、バッティは屈強で、デッカードはあやうく殺される寸前となった。ところがバッティはデッカードを助けた。

Blade Runner - Final scene, "Tears in Rain" Monologue (HD)

そしてバッティはデッカードに語りかける。

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「お前たち人間には信じられない光景を俺は見てきた、オリオン座の肩の近くで炎を上げる戦闘艦、暗黒に沈むタンホイザーゲートのそばで瞬くCビーム、そんな記憶もみな、時とともに消えてしまう。」「雨の中の涙のように」「俺も死ぬときがきた・・・・」

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そして、聖者が入滅するように座ったまま動かなくなった。
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バッディの寿命が尽きたとき、バッディの飼っていた白い鳩がまるで魂が体から解き放たれたように飛び立って行った。

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最後のシーンはデッカードがレイチェルとともに、森林地帯をタイヤで地上を走る車でどこまでも遠くまで走って行くシーンで終わった・・・
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まさか35年後、正統な続編のブレードランナー2049に続くとは思わなかった。


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ブレードランナーの魅力はオープニングの京浜工業地帯のようなLAの空を飛ぶ車と、巨大なタイレル社ビル、そしてサイバーパンクなあの荒廃した東京のような未来都市かもしれない。事実近年の世界的なブームとなっている日本観光現象は、ブレードランナーに代表されるサイバーパンクな世界が現在の東京で実体験できることにあるかもしれません。
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ブレードランナーは未来がバラ色ではないという「ディストピア」を描き、陰鬱さと人間の心の闇を投影するイメージとして、無国籍でアジア的な東京の夜が一種のイメージとなったのであろう。
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実際の東京は
ブレードランナーの荒廃した世界ではなく、ブレードランナーのサイバーパンクテイストがある安全で、ハイテク都市であったのだから人気が爆発してもおかしくはないだろう。

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当時、漢字や日本語に溢れる近未来のLAの映像に、1983年の私は、なんだか嬉しい気持ちになった。当時日本人がLAやNYに憧れていた時代、ハリウド映画でここまで日本に関心を持ってくれたことはなかった。

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1980年にアメリカ・NBCで制作・放送されたテレビドラマSHOGUNはあったものの、強力わかもとには驚いた。

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上の動画の守鍬刈雄氏ブレードランナー論もかなり面白く聞かせていただいた。
名作とは10人いれば10以上の解釈があるものが名作の条件のような気がします。
ブレードランナーも10人いれば10以上の解釈がある作品であると思います。

ブレードランナーは確かにハリソン・フォード演じるブレードランナーのデッカードの物語ではあるが、ブレードランナー2019の真の主人公は、レプリカントのリーダーであるロイかもしれない。ロイが語るレプリカントとして生まれた生物が語る人間とは?生物とは?魂とは?哲学的である。

この宇宙は、我々の脳が見ているヴァーチャルリアリティーかもしれない。最新の科学の量子論宇宙は実は、フォログラフィかもしれないという仮説すらあるのだ。
それでもデカルトは、宇宙や自分の存在が疑わしいものであったとしても、疑っている自分がそこに存在しているという。我思うゆえに我あり。

レプリカント達も現在急激に進化をしているAIも、もし、自分の存在を認識するようになったのならば、ただの人工的な道具ではなくなるのかもしれない。

物語のレプリカントには自我という感情以前に自己保存の本能が備わっている。
一つ疑問なのだが、人間の胎児は母親のおなかの中で言語の基礎を学ぶのだそうだが、人間はが何年も時間をかけ、様々のことを体験し学習するのだが、現実問題として、将来レプリカントの脳にコンピューターをプログラミングするように、直接記憶を埋め込むことが技術的に可能なのか?

レプリカントはなぜ人間になりたがるか?長生きしたいからだろうか?私はそれだけではないと思う。人間は常に自分は何者なのかを問い続け、生きることに努力を傾け、やがて死を受け入れる物体であるならば、映画におけるレプリカントは人間であった。

感情(自我)を持ったレプリカントは人間とどう違うのか?自我を持ったレプリカントは人間のと同じではないのか?と問うている。

人間とレプリカントは本当に違うのですか?という映画なのだが・・・今のリアルな2017年の世界において、AIが急激に進化している。果たしてAIが自我を持つかは誰にも解らない。

そもそも自我とは霊魂と一致するのだろうか?自我と、超自然的な霊魂が一致するならば、脳が無い機械的には霊魂は宿らないのか?そもそも機械的脳の思考こそ自我の正体ならば、AIには自我が宿るような気がする。

霊魂の存在を認める立場からすると、時として人形に魂が宿ってしまうように、レプリカントのような人造人間が完成すれば、レプリカントにも魂が宿ってしまうのだろうか?すくなくとも体を持たないAIには魂が宿るのだろうか?機械的な脳であるAIが自我を持った瞬間、霊魂が宿るような気がしてならない。

Blade Runner 2049のAIジョイには物語としてAIにも魂が宿っていた印象だ。
わたしは多くの人と同じくやがてAIも自我を持つようになると思う。その時に人はAIの自我を尊重できるのであろうか?

ブレードランナーは米国キリスト教原理主義者とリベラル派の葛藤が隠れているような気もする。SFの古典アイザックアシモフ I ROBOTでロボット三原則を作ったが、その根底にはキリスト教徒にとって、ロボットやレプリカントなど人間が作った人形は神をも畏れぬ悪業なのだろう。

また、レプリカントを移民に置き換えると、現代においてはかなりデリケートな問題も内包していることになる。レプリカントではなく人間の難民に生きる権利はあるのだが、容赦ない現実は、ブレードランナーがレプリカントを始末するように、神は無慈悲だ。


SF映画の金字塔「ブレードランナー」(1982年、リドリー・スコット監督)の続編「ブレードランナー2049」が全国公開中だ。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(50)は、生態系が壊れ、退廃的な空気に満ちた前作の世界観にどう肉薄したのか。(高橋天地)



前作から30年後、2049年の米カリフォルニア。宇宙開拓の労働力「レプリカント」(人造人間)を取り締まる専門捜査官「ブレードランナー」のK(ライアン・ゴズリング)はある事件の捜査中に巨大な陰謀に気づく。彼は30年前、女レプリカントと姿を消したブレードランナー、デッカード(ハリソン・フォード)が全容解明につながるキーマンだと突き止め…。

「10代後半の頃から、数千回は見ました。スコット監督はビジュアルを大切にする方で、退廃的で悪夢のような世界観に深く魅了された。僕も彼のような映画監督になりたいと思いました」とヴィルヌーヴ監督。

夢をかなえたかつての映画少年は、どんな作品づくりを心がけたのか。

「人間とは何か、というテーマは前作と変わらないし、受け継いだものはたくさんあります。ただ、スコット監督と私は違う感性の持ち主であり、当然、異なる視点で描いた部分もあります」

具体的には、舞台となった2049年のカリフォルニアの、とりわけ厳しく雨も雪も多い気候だ。

「生態系が一層崩れて気候が変わり、雪の嵐がくると考えた。続編の世界観への入り口を“冬”に設定したのです。描くにあたっては、私が生まれ育ったカナダの冬を意識しました」

1982年、前作は陰鬱な未来像を提示して大きな衝撃を与えた。ヴィルヌーヴ監督は35年がたった今、「北京の空はスモッグで覆われており、私には『ブレードランナー』の世界が近づいているように思える」と危機感を抱く。そして、「環境を破壊するのも、歯止めをかけるのも人間の知恵次第だ」と訴える。

本作で凄腕の捜査官、デッカードを再び演じたハリソン・フォード(75)は、「ブレードランナー」について、「前作と『スター・ウォーズ』(1977年)の成功で私は出演作を選べるようになった。私にとって、とても重要な作品です」と振り返る。前作同様、自分の存在意義に悩む人造人間のレプリカントたちの姿は、観客に「人間とは何か」という重い問いを投げかけている。

フォードは「今や遺伝子操作で人工的に人間は作れる時代だが、私たちは倫理的にそれを抑制している。(結果的に)シリーズは、人間の自制心を賛美する内容になっているのではないか」と語った。


大学の部室前のホールで初めて観たブレードランナーから30数年が経ち、再来年ブレードランナーの時代設定の2019年となる。

当時付き合っていた彼女とは別れてしまったが、ちょうど自分の娘が、私がブレードランナーを観ていた年頃となった・・・

35年ぶりのBlade Runneの続編 観に行かない理由がない!
最初のファーストデイ ららぽーと横浜にあるTOHOシネマのレイトショウを独り観に行った。

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Blade Runner 2049を観るにあたっては、予習が必要なのです。前作と映画『ブレードランナー 2049』までの“空白の30年間”を繋ぐ短編が3つ、作られた。

Blade Runner 2019の後に起った最も重要な出来事である大停電を扱った2022年の世界を描く 「ブレードランナー ブラックアウト 2022」


映像の舞台は、「ブレードランナー」の主人公・デッカードが恋人・レイチェルを連れて姿を消した3年後である2022年。

登場するのは謎の男・イギーと美少女・トリクシー。2人は労働力として製造されている人造人間「レプリカント」であり、レプリカントには人間に比べてはるかに短い寿命が設定されています。そこで、2人は「人間になる」べく、大停電を起こし、すべての電子機器をシャットダウンさせてレプリカントにまつわるデータをすべて抹消することで、人間とレプリカントの境界線をなくそうと考えます。



食料危機の解決に貢献をした食品企業ウォラス社が、新なレプリカントを製造し、レプリカント禁止法が人類の宇宙への進出を妨げていると訴える「レプリカント禁止法」の無効にする為に、レプリカントの自殺の強要をする2036年を描いたお話。

2049」の1年前、2048年の世界。ウォレスがレプリカント禁止法の廃止を実現させ、ブレードランナーたちが違法な旧型レプリカントの処分を徹底する世の中で、デイヴ・バウティスタ扮する心優しい旧型レプリカント・サッパーが葛藤するさまがつづられた。軍から抜け出してきたサッパーは1人の少女に心を開いていたが、ある出来事から彼女をおびえさせてしまう。そしてこのエピソードのラストが、「ブレードランナー 2049」でのサッパーと新人ブレードランナー・Kの対面につながっていく。



2049年。

遺伝子工学によって誕生したレプリカントのKは、

レプリカント専門の捜査官『ブレードランナー』

として、古きレプリカントを抹消する司令を受け、日々任務に明け暮れていました。

その最中、謎の箱を見つけます。

Kがその箱を開けてみると、なんと、一人のレプリカントのなきがらが入っていたのです。

慌てて、製造者であるネアンデル・ウォレスに報告。

すると、このなきがらが、かつてK同様にブレードランナーとして生きてきた、リック・デッカードの愛したレプリカント『レイチェル』だったことが判明。

さらに、そのなきがらは彼女が出産した直後のものであることも判明し、改めてKは上司にも状況を報告。

すると、なぜか現在行方不明となっているデッカードだけでなく、レイチェルの娘をも見つけ出し始末するように言い渡されてしまうのです。

はじめは、とにかく上司の言葉通りに、レイチェルの娘を探そうとしていたKでした。

途中、ふとしたきっかけで、自分がレイチェルの娘・アナ・ステラインを守るために

レプリカントによって作り出された『レプリカデコイ』であること

に気付かされます。

その一方で、ようやく元ブレードランナーのリック・デッカードが見つかります。

しかし、これからというところで、デッカードがウォレスの手下である、ラブにさらわれてしまいます。

さらにKはラブに重症を負わされてしまうのです。

絶体絶命の大ピンチで、娘の所在もまだ見つかっていない状況でした。

そんな中、デッカードが所属していた、レプリカント解放運動の活動家・フレイサに窮地を救われます。

そして、K自身がレイチェルの子供ではないかと疑心暗鬼になっている頃に出会った

記憶のスペシャリストであるドクター:アナ・ステリンが、デッカードの娘

であることをフレイサに告げられます。

レイチェルの娘のことがわかったKは、単身でウォレスの下に訪れ、ラブと激闘を繰り広げながら、なんとか勝利。

そして、デッカードとステリンの親子の対面をさせてあげ、安堵したのか息を引き取ったのです。


映画が終わりエンドロールが流れはじめたが、周囲の人は誰も立ちあがらなかった、もっとも、そんなに観客はいなかったのだろう・・・

私は不安な未来と微かな希望、そして切なすぎて立ち上げれなかった・・・・
時計は12時を回り、電気が点いて周りを見ると、予想以上の人が着席したまま立っていないのだ。勿論寝ている人など無かった・・・・

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ブレードランナーが大コケだって?
そんなの関係ネエ!

たしかに万人受けするような内容の映画とは、多少テイストが異なっています。

だが間違いなくBlade Runner 2049も
映画史に輝く名作となるだろう。


2049年私は86歳、はたして生きているのであろうか?

私が最初にブレードランナーを観た1983年、2017年にブレードランナーの続編が出るなんて想像できただろうか?2017の世界は残念ながら、人類は地球以外の惑星に移住できていない。空を飛ぶ車も飛んでいない。

でも幸いにも、ブレードランナーの世界ほど環境は破壊されていない。
かなり優秀なロボットやAIは完成しつつあるが、レプリカントのような人造人間は登場していない。

しかし、いつの時代にも人は、自分とは何かを問い続け、愛が存在し、苦悩し、悦び、やがて死が訪れる。人間を模したレプリカントも同じであった。

このBlade Runner 2049は、ただのSF映画ではなく、愛の物語、それも利他的な愛について語った作品としての側面も強い。

デッカードが、レイチェルと別れ、娘とも会わずに身を隠していたのもレイチェルと自分の娘に対する愛ゆえであること

娘に対しても、危害が及ぶ可能性があったために、会うことを諦めていたのが実際のところでした。

最終的にレプリカントのKが命がけの奮闘のお陰で二人は会えたのだが、Kの利他的な愛があってからこそ。そして二人の為に死んでいくK、だがそこには笑みがあり深い満足感が漂っていた。

そして、一番献身的な愛に溢れていたのは主人公Kの恋人であるバーチャル化したAIのジョイの存在であった。

彼女が、女ターミネーターのような敵役レプリカントのラブに、ジョイの存在を記憶した媒体が壊される寸前にKに言った、I LOVE YOUは本当の愛以外の何物でもない純粋な愛であった。

考えてみればBlade Runner 2019のバッティも最後は笑みを浮かべていた・・・


人とレプリカントの違いは無いだろう・・・・だからアフリカやシリアからの難民を差別するのは止めようとハリウッドは言っているのか?

スラムの中にあった孤児院。これは現代社会における児童労働問題、貧困の告発
かもしれない。そこの孤児院は人間なのにレプリカントのように従順に労働せよと人間の子供を奴隷として使っているのだ・・・・

何が言いたいかはわかる。しかし、・・・・映画の世界をより鬱屈した世界に描き観客を不快にしかさせなかった。





執筆中
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水戸の実家に帰ったついでに、水戸芸術館に行った。玉石混淆の現代アートはあたり外れが激しい。今回の展覧会は私の感性と相性がわるかった。平たく言うと「ハズレ」であった。

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水戸芸術館

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田中功起 共にいることの可能性、その試み
2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

本展は、田中功起による国内初の大規模な個展です。田中は、映像記録、インスタレーション、執筆、パフォーマンスおよびイベント企画といったさまざまな方法を通して、現在の社会状況や既成の枠組みに対し、別の視点やあり方を模索する活動で近年、注目されています。2013年の第55回ヴェネツィア・ビエンナーレでは、5名の陶芸家がひとつの陶器をともにつくる様子をとらえた映像作品などで、複数の人びとがひとつのことにともに携わるときの、その行為の美しさと難しさを表し、国際的に評価されました。
本展では、協働による営みに関心を抱くようになった2010年以降の田中の活動に焦点をあて、新作を中心に、近年の取り組みとあわせて紹介します。
本展のために制作された新作は、一般参加者とファシリテーター、撮影チームらと一つ屋根の下をともにした6日間の滞在とそのなかでのワークショップがもとになります。朗読、料理、陶芸、社会運動にまつわるワークショップ、ディスカッション、インタビューなどで構成された6日間を通して、移動や共同体についてそれぞれが考え、また対話し、実践する機会が設けられました。本展では、これらのワークショップの記録映像をもとにつくられた複数の映像に、作家が制作中に書いたノートなどが添えられ展示されます。

※ 新作映像は全編でおおよそ230分になる見込みです。


【2015年11月8日のメモ(ステイトメントとして)】

あなたはどのような場面でまったく初対面のだれかに心を開くだろうか。
あなたは隣にいるだれかとどのようなとき、共に助け合おうとするだろうか。
あなたは何を根拠にだれかを信頼し、あなたの傷つきやすさを預けようとするだろうか。

山の中での非日常的な共同生活とワークショップ。そこには撮影隊も共に寝泊まりをしていて、その光景を記録している。ぼくも、あなたもそこにいて、私たちは、まだそれが何を意味するのかを知らない。私たちは、料理をし、朗読をし、発声し、動き回り、会話をし、社会について考え、陶芸を行い、話し合う。そして私たちは、その小さな社会の中で、自分の位置を確認し、自分の役割を問い直し、ときに自分を見失う。そのようにして他者に出会い、その相手を気遣う。ほとんど見ず知らずのだれかと、もしかすると理解しがたい他者と、共にいることを試みる。それはあるひとからすれば当然の、あたり前の状態であり、別のひとからすれば受け入れがたき状況だろう。この状況は、仮の、作られた、一時のものでしかないかもしれない。だけれども、一時的にでも可能であるならば、それはいつ、どこで、どんななにものかとであっても、可能ではないだろうか。(田中功起)
▼田中功起 略歴

たなか こおき。1975年生まれ。アーティストとして活動し、ARTISTS' GUILDと基礎芸術に参加/協働する。近年は出来事の組織化や集団による営み、その記録に興味を持ち、それにまつわる制作活動を行っている。2013年、第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の日本館における展示で特別表彰を受賞、2015年にはドイツ銀行のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選出される。プロジェクトの記録や過去のテキストを再録した書籍に、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)、『質問するその1(2009 - 2013)』(ART iT、2013年)、『Abstract Speaking - Sharing uncertainty and collective acts』(NERO Magazine、 国際交流基金、2013年)などがある。
ツイッター: @kktnk
ウェブサイト: http://kktnk.com/

▼開催概要

展覧会名

田中功起 共にいることの可能性、その試み

会場

水戸芸術館 現代美術ギャラリー

開催日

2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

開館時間

9時30分~18時(入場時間は17時30分まで)

休館日

月曜日※3月21日(月・祝)は開館、翌3月22日(火)は休館

入場料

一般800円、前売り・団体(20名以上)600円
中学生以下、65歳以上・障害者手帳をお持ちの方と付き添いの方1名は無料
※本展に限り、1枚の入場券で会期中3回まで入場可
【一年間有効フリーパス】
・「ハイティーンパス」(15歳以上20歳未満 ):1,000円
・「おとなのパス」(20歳以上):2,500円

主催

公益財団法人水戸市芸術振興財団

助成

公益財団法人花王芸術・科学財団、公益財団法人朝日新聞文化財団

協賛

Vitamin Creative Space

協力

青山|目黒、アサヒビール株式会社、ARTISTS' GUILD、国際交流基金

企画

竹久侑(水戸芸術館現代美術センター学芸員)
いやいや・・・いやや・・・Mumumumu・・・なんだかんだで二時間半時間を費やしてしまった・・・・有意義だったかと言えば違う。なんだろう改めて、アート体験とは時間の浪費を楽しむことだと改めて確認したようなものだ。本作品は、私にとって上から目線でアーティストと参加者を見下すことにおいてのみ鑑賞に値する作品であった。

この試みはできそこないの原始共産制体験をする怪しい自己啓発セミナーを覗き見たようだと感じたのは、私だけではないだろうか?6日間で何が生まれるのかというテーマであったが、結果がショボ過ぎて補助金分の体裁を何とか整えさせるのに四苦八苦した軌跡が生々しかった(笑)

そもそも企画が悪い。国籍や年齢階層がまるで違って価値観が違う6人であればおもしろかっただろうに、比較的似たような穏健な価値観を持つ中年の日本人が集まって何がおきるか?期待する方がどうかしている。しかも草食系中年男性、勘違いの左翼女性・・・それぞれに人格があるようにそれぞれ個性はある豊かな参加者だ。でも本作品は普通の人のいかがわしい自己啓発セミナーの体験談ビデオ放映大会だった。

よっぽど昔
フジテレビで1999年から~2009年まで放送されていた日本の恋愛バラエティ番組”あいのり”の方がアートだろう。男女の愛憎は昔からアート作品のメインテーマだ!しかしながら、妙齢の男女の六人が山奥の研修所で寝泊まりしていて何も起きないなんて、なんと下らない。本当は何かしらあったかもしれないが、一切人間の欲望や妄想に触れず、うわべだけの人の集まりが共同体と言えるのか?

共同体とはご飯を食べるために利害関係を一にした人の集まりである。その共同体内での利害関係愛憎やどろどろした人間関係があって共同体なのだ。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
共同体 きょうどうたい
Gemeinde; community

利益,目的を同一にする人々の結合体。 (1) 社会学では,アソシエーションに対する用語として,自然発生的に共同体意識,共属感情をもって生活している人々の生活体もしくはその地域社会をさして使用される。


そんな醜い部分を排除したビデオやインタビューに鑑賞者は興味を抱くはずもなく、企画した田中氏の才能はその程度と思わせた時点でこの作品の評価は決まってしまった。申し訳ないが私にとって村上隆と同じかそれ以上に現代アートの醜い現実を感じさせる。

このアート作品を有難がる必要があるのか?公共の現代アートホールで現代アートに関心がある来館者に金と時間を浪費させる価値があるのか???

アートであることは間違いないのだが、個人的にネット上で発表すればいいじゃないかという作品だと思った。アートホールを何ヵ月も占有する価値がない作品だと思う。

現代アートはある意味で思想表現になりつつあるのだが、6人の男女が山奥の研修所で6日間一緒にすごした日常にすぎない。撮影隊を含め18人だそうだが、彼らのインタビューから共同体が生まれるだろうかって・・・・無理がありすぎたのだ。

参加者のインタビューも、私にとってはあまり中身がなかったように感じた。
インタビューを受けた参加者は一生懸命それぞれの方の思想を語ってくれたのだが、自分とは価値観が違い過ぎて、初対面の素人さん達の話を聴くのはけっこう難行苦行である。素人に現代アートの核心部分である作品の思想を語らせるのは反則、もしくは手抜きだ!結局だからなんだ???何が言いたいのか焦点が絞られないまま、朝まで生TVのように延々結論が出ないビデオを鑑賞者にみせて面白いのか?私には理解できない。

同じ山奥でも、テントを張ったサバイバル生活の6日間と、文明的な研修所で過ごす6日間ではまるで違うだろう。企画が最悪だったと思う。

昨年私は10日間バスでトルコ全土を一周するツアーに参加した。10日間見ず知らずの老若男女が同じバスで、人類文明の偉大な遺跡を見て回るツアーだった。参加者同士わざわざ交流する仕掛けのようなプログラムがなくとも最終日は皆さんと別れを惜しむ感情が自然と湧いた。利害関係の無い人が集まれば、仲良くなるのは試さなくれもわかるというものだ。

陶芸したりご飯を作ったり、田舎道を夜歩きして、ディスカッションする・・・それなりに相手の人となりも理解できるだろうが。出来上がった共同体とは、ただ6日間そこにいた、それだけのこと・・・・共同体の可能性なんか大それたテーマは欺瞞以外なにもない。「非日常体験を体験した人たちの日常を切り取る」というテーマがふさわしい。

それを第三者である観客に見せ、さあどうだ?と言われても、この参加者達と観賞者は共感などできない。特に、皇居前のデモに価値があると言い張る左翼っぽい女性の言ってることが違うんじゃないか?と、罵倒したくなる衝動にかられてしまった。しかしながらフランス人女性を妻に持つ中年男性に冷静に言いくるめられ、反論できない左翼女性を見て、ニヤリとできたのが良かった。まあ参加者にとって普通の日常とは違う非日常ではあるが、鑑賞者からすれば他人の日常に過ぎない。これが田中氏と私の作品に対する温度差なのかもしれない。

日常を切り取ることはアートと認めるが、公共のスペースを偉そうに占有する意義が見いだせない。

5人のピアニストのアイデアはアイデアとしては悪くは無いが、できた音楽は現代音楽なのだろうが、洗練さには程遠いキメラか鵺のような品物だ。

共同陶芸に至っては陶芸への侮辱であると私は感じた。

人のDNAには田中氏が可能性があるかなどと実験しなくとも共同で作業する遺伝子が入っているから、試みることなど不要です。

本作品において田中氏が過去の市民運動についてかなり肯定的な文章を参加者に朗読させる作品が有った。イカガワシイ市民運動を肯定的に賛美するかのような左翼臭がするワークショップが最悪であった・・・作者の思想的薄弱性が確認できる作品であった。
アート作品が思想的腐臭を感じさせるようでは、アート作品と呼べる品物ではなくなる。プロパガンダに徹底した場合は潔くってかえって良いのだが、市民う装うプロ市民は生理的に受け付けない。アートが純粋に面白いとか、斬新だと言ったのではなく、裏に思想的勧誘が隠れているものが見え隠れしていると感じた瞬間に興ざめしてしまうのだ。

この作品の後ろにはエゴイスティックな市民運動を賛美する腐臭が漂っていた。しかしながら、サイレントマジョリティに属する良識ある参加者に粉砕された。この作品が企画倒れになって、まずはめでたい!

非常に狡い立場なのだが、他人の作品をボロカスに書くことは簡単で、一方的に書いておいて私は、何の被害も受けない。他人のアート作品を罵倒するのはある意味とても気持ちが良い。
アーッすっきりした!

厳しい批判を受けるのもまたアートなのである。






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声優 野沢那智さんが死去 【NHK】

10月30日 22時5分
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フランスの名優アラン・ドロンさんの声の吹き替えなど、多くの映画やアニメーションの吹き替えで人気を集め、声優や俳優、演出家として幅広く活躍した野沢那智さんが30日、肺がんのため東京都内の病院で亡くなりました。72歳でした。
野沢那智さんは、東京都出身で大学を中退後劇団に入り、俳優として舞台に立ちながら声優の仕事を始めました。テレビが普及し始めたころから多くの外国の映画やテレビドラマの吹き替えを務め、中でもフランスの名優アラン・ドロンさんについては、「太陽がいっぱい」をはじめほとんどの作品の吹き替えをして、イメージに合った甘い声で人気を集めました。映画では、アル・パチーノさんやブルース・ウィリスさんなど幅広い役柄の吹き替えをこなしたほか、アニメーションでも「スペース・コブラ」や「新エースをねらえ!」など多くの作品で活躍しました。野沢さんは俳優や演出家、ラジオのパーソナリティーなど幅広い分野で活躍し、演出を手がけたミュージカル「スイート・チャリティ」で、昭和63年度の文化庁芸術祭賞を受賞しました。また、俳優養成学校の代表として若手の育成に努めてきました
http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC今でも、ラジオの深夜番組は人気なのでしょうが、私の中学高校時代である1970年代のラジオの深夜番組は素晴らしかった!ニッポン放送オールナイトニッポン・TBSパックインミュージック・文化放送セイヤング、各局DJがそれぞれシノギを削り深夜放送の黄金時代でもあった。70年代中高生が万年寝不足であったのは彼ら人気DJの仕業であった。
 
中でも野沢那智さんと白石冬美さん担当であったTBSラジオの木曜深夜のパックインミュージック金曜日、金曜パック略して金パ通称ナッチャコパックは思い出深い。
私にとってNo1番組であった。40代後半から60歳くらいの元金パリスナーであれば間違いなく皆同じ思いだと思う。ナッチャコの軽妙な掛け合いは、話芸としてのDJ番組としては一つの頂点ではなかったか?
 
今週なにがあった、これを食べたなど日常のたわいない出来事から、下ネタ、ちょっと思想性(左翼的)がある話まで話題は幅広かった。他の深夜放送のリスナーからの当初の殆どが中高生中心であったのに対し、「御題拝借」というからの投書のコーナーは、浪人生や大学生からが中心で、どれもこれも抱腹絶倒のお便りばかりであった。
 
小さな地方都市の中高生にとって、東京で大学生活をおくると、どんなに楽しい世界が待っているか十分に啓蒙され、眠い目をこすりながらひたすら聴きつづけた番組でした。
 
楽しい世界といっても、いかに東工大の学生が女子に縁が無い生活をしているとか、逆に下宿で二股の彼女が鉢合わせして修羅場になっただとか、たわいも無いお手紙を、ナチちゃんの職人芸的なトークとチャ子ちゃんの絶妙な突っ込みで、一つの話芸として芸術?にまで昇華させてしまうのであるから、東京での一人暮らしが面白そうに感じて当然だったのかもしれません。
 
毎回最後のお便りはしんみりした考えさせるものも多く、今考えればあの番組自体が芸術作品じゃあなかろうか?
 
 
【ニコニコ動画パックインミュージック】
 
 
 
30年ぶりに聴いただろうか青山レーニーナイト・・・懐かしい!!!まだ中高生の私には大人の恋どころか恋をしたことが無かったくせに妙に懐かしい。
 
 
この時代熱かったな! 私も聴いてましたこの最終回・・・ 嗚呼本当に終ってしまうんだと本当に寂しかった。
 
その後声優として2枚目半のカッコいい声の主としてつい最近まで野沢那智氏の声を吹き替えなどで聴いていたような気がしますが、72歳でしたか・・・
 
そして、2010年10月30日が野沢那智氏にとって人生の最終回であったのです。
死因は肺癌だったそうです。
 
番組が終了して28年、今も記憶に残るナッチャコパックは青春の1ページであり、忘れえぬ大切な思い出です。
 
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私の本箱にはこの2冊があるのみですが、昭和44年に「もう一つの別な広場」が出版されて続・続々・五年目の・七年目の・九年目の上・下・10年目の・13年目のそして15年目のと番組で読まれたお便りの一部は10冊刊行された「もう一つの別な広場」に収録されています。
 
訃報を聞きこの2冊を読み返してみたのですが、これは70年代の「聞けわだつみの声」ではなかったかと思うのであります。第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集。聞けわだつみ(日本の古語で海神)の声は、1949年に東京大学編集されて出版された学徒兵の遺書であるが、名も知れず散っていった若者の、免れようのない死と直に向き合ったとき、どのように感じるのか、ということを伝えてくる本であった。
 
「もう一つの別な広場」はラジオに寄せられる無数の70年代を生きた若者達の心の叫びを収録している。ある意味では同等に扱われておかしくは無い。聞けわだつみの声とは違い、改竄されていないので資料的価値もあるだろう。
 
熱病のように一生懸命はがきを書き、投稿するエネルギー・・・若者は皆深夜放送を聴いていたあの時代、深夜放送には不思議な魅力と連帯感があった。両親や友達に話せないことも、ラジオにだったら投稿し素直に相談できた。多くの孤独な若者にとって深夜放送は唯一の救いでもあった。ラジオの深夜番組はゲマインシャフルト(共同体)となっていた。
 
もし、日本を再構築するのであれば、ゲマインシャフルトの再構築から始めなくてはならないと思う。その為には当時のラジオの深夜放送を研究するのもひとつの手段かもしれません。共同体の再構築の試みとして今のブログは70年代の深夜番組のDNAが受け継がれているかもしれませんが、まだあの頃の熱気や連帯感には程遠いような気がします。
 
今から更に28年後、私は生きていれば75歳になる。仮にボケていたとしてもおそらくこのナッチャコパックの思い出はずっと記憶しているに違いありません・・・
 
さらば野沢那智、金曜パックよ永遠に!
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上の動画では、ハッカーたちが都会の超高層ビルの照明制御システムを乗っ取って、世界一すばらしいゲーム『スペースインベーダー』をしている。

この動画は、ハッカーたちが実際に、ターゲットとして電気・ガス・水道の制御システムに目を付けていることを示す不吉な証拠だ、とセキュリティ製品を提供する米McAfee社の研究者は警告している。

「最初のデモ動画は面白半分に制作されたものだろうが、子どもじみたものではない企てもこの後に登場するはずだ。こういった攻撃は国全体にダメージを与え、一般市民に深刻な影響を及ぼし、大きな財政的損失を招きかねない」と、McAfee社の研究センターAvert Labsの研究者であるFrancois Paget氏は、5月22日(米国時間)にブログに書いている。

確認された同様の事件の件数は、1999年段階から今まで変わらずゼロ件前後で推移しているとはいえ、ハッカーたちが『SCADA』(Supervisory Control and Data Acquisition)システム[産業制御システムの一種、コンピュータによるシステム監視とプロセス制御を行なうもの]に侵入して停電を起こすなどの騒乱を招くという恐ろしい噂は、昨年1年間に異様な盛り上がりを見せた[他国が米国の電力網を乗っ取り、操作するという脅威が話題を呼んだ。日本語版の関連記事はこちら]。

2008年11月に『YouTube』に投稿されたこのビデオクリップは、そういった脅威の重要な証拠の1つになるかもしれない。ただし、実際には手の込んだいたずらだ。

この動画を制作した制作会社、独The Brainstormclub社(本社:ミュンヘン)のマネージング・ディレクターであるYves Peitzner氏はこう語る。

「居間で遊ぶコンピューターゲームを巨大な画面でするのはどうだろう、とひらめいた。[この動画について、]様々なブログやウェブサイトで行なわれた議論を読むのはとても興味深かった……本当にあった出来事だと信じている人もいる」

Peitzner氏によれば、ミュンヘンにある2棟のビルを撮影し、撮影後の編集段階で、スペース・インベーダーのすばらしいゲームプレイを付け加えたようだ。

ステルス・マーケティングを企画するThe Brainstormclub社は昨年、ビデオゲーム・カンファレンス向けの宣伝としてこのアイデアを思いついた。このアイデアはカンファレンス開催者に却下されたが、同社はとにかく制作を行なった。
http://wiredvision.jp/news/200905/2009052820.html

私も、「本当にやりやがった」と勘違いしてしまいました。実際には手の込んだいたずらだだったそうです。ほっとするやら、がっかりですが、これを宣伝ビジネスとしてやったら儲かりそうですね。
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