
コロッケ
平成二十一年三月にでた作家・車谷長吉さんのエッセー集『阿呆者』(新古館)のなかに「コロッケ」という章がある。
そこで「コロッケの買い食いは、その店の前の路上でぱくつくのが一番うまいのである」と書かれていた。そうなのだ。コロッケは、そもそもアツアツを歩きながら食べたり、ペンチに腰かけてほおばるものである。冷めたものを、行儀よく皿に盛り付けたりしてはうまくもなんともない。
車谷さんは新婚早々の嫁はんに、「たまには外で食事をしよう」と誘った。嫁はんはぱっと顔を輝かすが、連れて行ったところは田端銀座の精肉店の前で、揚げたてのコロッケを二つ買うて一つずつ食べた。泣きそうな顔をした嫁はんは、やがて「おいしいわね」と目を輝かせた、とある。
♪ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ……♪
大正九(一九二〇)年、浅草オペラ「カフェーの夜」のフィナーレで歌われて大ヒットした「コロッケの唄」は、大正デモクラシー華やかなりし都会の庶民の食卓をよくあらわしている。車谷家の主人とワイフは入れ替わっているらしい。
大衆的洋風料理とはいえ、コロッケはフランス料理のクロケートからきた。英語でもクロケット、ドイツ語ならクロケッラ。明治の鹿鳴館のメニューにものっていた。語源はカリカリ、バリバリという噛む擬声語からきたというから、やはり食べ方の品位は問題ではあるまい。
漫画家・東海林さだおさんも「コロッケを買ってきて包みを解き、その匂いを嗅いだとき、まず感じるのは郷愁である」(『東海林さだおの味わい方』筑摩書房)と。
コロッケは一にも二にも、揚げたてのアツアツでなければならない。その香ばしい脂の香りは、まさに郷愁のようにいとおしい。
(平成二十一年七月号)
卵かけご飯四十七士は討ち入り前にたまごかけご飯を食べていた!!!
まだ卵が貴重な贅沢品で、病気にでもならないと食べさせてもらえなかった時代を知っている。戦前から戦後しばらくがそうだった。だから生卵に醤油をたらし、たきたての熱いめしにかけて食べる。そのうまさに心がときめくのだ。
「ええ、このゥたまごというものは」と、古今亭志ん生は落語のマクラでいう、「子のかたまりが玉になっているものでありましてェ」。そうであるからして、滋養にならないはずがない。コレステロールを心配する人がいるが、「善玉コレステロールだから大丈夫」という医師もいる。
これに焼きのりでもあれば、卵かけご飯は朝めしとしては極めつきだ。
「忠臣蔵」で大石内蔵助ら一同は、討ち入りの夜、腹ごしらえとして生卵を熱いめしにかけて食べた。「寒いのう、冷えるのう」といいながら。そして積雪を踏んで吉良邸へ向かったそうだ。
卵が。物価の優等生”といわれて久しい。昭和四十年代のIキロ二百三十円か現代も四百円ぐらい。スーパーなどで1パック十個入り百円などというのもある。卵に無礼千万だろ。
ただし、すべて生で食べられるかどうか保証はできない。わが家の場合は、東京・青梅で養鶏している「たまご倶楽部」のHさんが毎週、車で売りにくる。産直之を買う(一キロ六百四十円)。黄身は黄色というよりオレンジ色に盛り上がり、箸でといてもおいそれと崩れない。昨年の鳥インフルエンザ騒動のときも安心して生でご飯にかけた。
卵を生で食べる習慣は日本人だけだという。その日本の卵が安全であるのがうれしい。安くて安全な卵を生産してくれる人びとに、心から感謝する。
(平成十九年十一月号)
そーかー!貧乏飯と思っていたたまごかけご飯が急に愛おしく思えてきた。
伝言板伝言坂といえば、野口五郎の私鉄沿線
”いとしきモノたち”の仲間に入れるには、少々違和感がある。そういえば、そういうものがあったなあ。
ケータイの普及とともに無用物と化し、消えるべくして消えたものといえるからだ。いまの若い人たちには想像もつかず、なにそれ? といわれるだろう。
姿を消しだのは、昭和が平成に移るころだろうか。それまでは騒がしい雑踏のなか、駅の伝言板は、ほぐれた人と人とを結ぶ貴重なコミュニケーション手段だった。
「ヒロ、一時間待ったわ」「先に帰っているよ、正男」などと、せつない吐息や必死の思いがっづられて、短い言葉の切れ端に、とりどりの人生模様や男女の機微がこめられていた。
しかも「六時間を経過したものは消すことがあります」などと駅長のいかめしい条件がつけられ、確実に消滅するドラマでもあった。
作家の宮部みゆきさんに『ドルネシアにようこそ』という短編がある。
ここでいう「ドルネシア」は東京・六本本の高級ディスコで、週末になるときまって地下鉄の駅の伝言板に「ドルネシアで待つ」と書かれた文字があった。それは故郷を離れて学校に通う速記練習生の若者が、伝える相手もいないのに、寂しさをまぎらわすよう仁記す伝言だった。
ところがある日、突然、返事が返ってきた……。
都会の暗い孤独の闇に、ほっかり赤い灯りがともったような好短編だが、宮部さんの執筆年時は平成三(一九九九)年である。してみると、平成の初めころは、まだ駅の伝言板は存在していたのだろう。
伝言板は庶民たちの、ひそやかな哀歓をつづる愛の一行詩たった。
(平成二十三年一月号)
我々新人類世代にとって伝言坂の甘酸っぱさはこの曲からくるのかもしらん。
インテリ虫
映画「男はつらいよ」シリーズの第一件が世に出てことしは四十年目、また主演の渥美清が死んで十三回忌になる。とあって世間は。カムバック寅さん”ブームだが、寅のせりふでいちばん気に入っているのはこれだ。
「てめえ、さしずめインテリだな」
この「さしずめ」という言い回しに、なんとも言えない昧とおかしみがある。
第十二作「私の寅さん」では、画家のりつ子に「インテリと便所のなめくじぐらい嫌いなものはねえ、吐き気がすらあ」と言っているそうだ(志村史夫著『寅さんに学ぶ日本人の「生き方」(扶桑社)。
寅がなめくじ同様インテリが嫌いなのは、やさしくいえばいいものをわざわざ持って回って難しい言い回しをするやからか多いからだろう。ひらがなや日本語を使えばいいところを、難しい漢語やカタカナの外来語を振り回す。学をひけらかすのだ。ハハーン、案ずるにてめえは……と寅が言うのは、嫌悪というよりは軽蔑の対象である。
そしてそういうインテリ虫は、世の総合雑誌や論壇誌に好んで棲息している。
この秋は名のある月刊誌の休刊が数多く伝えられ、社会的なニユースにもなった。朝日新聞社の『論座』もその一つだが、たまたま最終の十月号をひらいてこんな論文に出くわしたのである。
それは「今なぜ民主主義か」という題の論文で、筆者は田村哲樹先生という名古屋大学院法学研究科准教授だ。ちょっとご紹介したい。論文は「今なぜ民牛王義か」という問いかけで書き出されており、十行ばかり後にこういう文章がある。
〈この問いに対して、私は、拙著『熟議の理由』(勁草書房、2008年)において、現代社会の再帰的近代化が民主主義を不可避とする、という回答を試みた。再帰的近代化あるいは再帰化とは、社会学者A・ギデンスやU・ペックなどが用いた言葉であり、簡単に言えば、私たちの社会生活を調整する既存のルールが自明視されえず、「新たな情報や知識に照らして継続的に修正を受けやすいこと」を指す〉
どうです? 一体、この文章は何を言おうとしているのか。すらりと頭に入った人がいたらお目にかかりたい。そういう短い例文のつまみ食いはけしがらんと言われるなら、その文章のつづきをもう少し引用する。
〈再帰的近代化の下では、既存のルールや社会関係に頼って生活することができないばかりか、他者との間でさまざまな問題の発生すら予想される。したがって、私たちは、私たちの間で発生する問題を解決し、どのようなルールや社会関係に薬づいて生活していくのかを決めるという作業にかかわらざるをえない。民牛王義が、その語源のとおり「自分かちのことを自分たちで決める」ということであるならば、現在こそ民主主義が社会生活のさまざまな局面-国家と区別された市民社会は言うに及ばす、家族や友人関係などの親密圏と呼ばれる領域にも及ぶで必要となる。以上が、なぜ民主主義なのかという問いに対する私の回答であった〉
な、なんなんだこれは。もうやめよう。こういった文章が六ページにわたって展開される。がまんにがまんを重ねて読み通したが、私には何か何やらさっぱり理解できなかった。
断っておくが、これは一部の専門家や研究者を対象とする学術雑誌ではない。『論座』という名の一般読者向けの月刊誌なのだ。略歴を見ると田村先生は一丸七〇年生まれ、名古屋大学法学部卒の法学博士とある。まだ三十代バリバリの少壮学者らしい。
しかし不謹慎とは思いつつも、「てめえ、さしずめインテリだな」と口走らざるをえなかった。そして『論座』が十月号で休刊になるわけがわかったような気がしたのである。
同誌最終号に薬師寺克行編集長の別れの言葉が載っているが、いみじくもこう述べている。
「この先、言論の世界は新聞や雑誌という既存の媒体にとどまらず、インターネットなど新たな世界に広がっていくでしょう。新しい舞台と人材を得た言論の世界が『タコツボ化』することなく、創造的空間としてさらに社会に寄与することを祈ってやみません」 まさに、前記の文章こそ閉鎖と独善の壷中にひきこもった学者の「タコツボ化」でなくてなんだろうと思わざるをえなかった。
しかし右であれ左であれ、各社の看板雑誌が次々と消えてゆく秋は淋しく、悲しい。
九月末から十月初めにかけて、出版ジャーナリスト、植田康夫氏が「戦後日本/雑誌の興亡」の考察を「東京新聞」夕刊に書いていた。
それによると、出版物販売金額は一九五三(昭和二十八)年から九六(平成八)年までは連続して右肩上がりの成長を示しか。それが九七年以降は毎年マイナス成長がっづく。そのため九六年に書類・雑誌をあわせた出版物の推定販売金額が二兆六千五百六十三億円だったのが二〇〇七年には二兆八百五十三億円に落ちこんだ。この数字は、一九八五年の二兆三百九十九億円とほぼ同じで、二十二年前にかえったことになる。
有肩下がりになったのは雑誌の不振だ。かつての傾向とは全く逆に、いまや「書高雑低」時代が定着した。一~七月の累計(前年同期比)で出版物全体はマイナス三・五%だというのである。
『正論』十一月号最終ページ「操舵室から」で上島編集長が強い危機感をこめて述懐していた。「『論座』や『月朗現代』の休刊が、明目は我が身”であることをひしひしと感じている」と。さらにつづけて「論壇誌は読んで楽しい、面白いものばかりというわけにいかず、知的な辛抱強さを読者に求めることで成り立」つているとも書いている。
その通りだが、だからといって「タコツボ化」した難しい言い回しが『正論』誌にあっていいことにはならぬ。ところが思い切っていうのだが、もう少し平易な言葉遣いをしてくださらぬかと思うような執筆者の学者センセイが本誌にもおられる。
当方はインテリではないから該当しないが、「てめえ、さしずめ:」と寅には言われたくないではないか。「『正論』は、つらいよ」では困るのだ。ごめんなさい。へらず口をたたいてしまった。
(『正論』平成二十年十二月号)