Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

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タグ:ノンフィクション、エッセイ


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コロッケ

平成二十一年三月にでた作家・車谷長吉さんのエッセー集『阿呆者』(新古館)のなかに「コロッケ」という章がある。
 そこで「コロッケの買い食いは、その店の前の路上でぱくつくのが一番うまいのである」と書かれていた。そうなのだ。コロッケは、そもそもアツアツを歩きながら食べたり、ペンチに腰かけてほおばるものである。冷めたものを、行儀よく皿に盛り付けたりしてはうまくもなんともない。

 車谷さんは新婚早々の嫁はんに、「たまには外で食事をしよう」と誘った。嫁はんはぱっと顔を輝かすが、連れて行ったところは田端銀座の精肉店の前で、揚げたてのコロッケを二つ買うて一つずつ食べた。泣きそうな顔をした嫁はんは、やがて「おいしいわね」と目を輝かせた、とある。

♪ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ……♪

 大正九(一九二〇)年、浅草オペラ「カフェーの夜」のフィナーレで歌われて大ヒットした「コロッケの唄」は、大正デモクラシー華やかなりし都会の庶民の食卓をよくあらわしている。車谷家の主人とワイフは入れ替わっているらしい。
 大衆的洋風料理とはいえ、コロッケはフランス料理のクロケートからきた。英語でもクロケット、ドイツ語ならクロケッラ。明治の鹿鳴館のメニューにものっていた。語源はカリカリ、バリバリという噛む擬声語からきたというから、やはり食べ方の品位は問題ではあるまい。

漫画家・東海林さだおさんも「コロッケを買ってきて包みを解き、その匂いを嗅いだとき、まず感じるのは郷愁である」(『東海林さだおの味わい方』筑摩書房)と。
 コロッケは一にも二にも、揚げたてのアツアツでなければならない。その香ばしい脂の香りは、まさに郷愁のようにいとおしい。
                                  (平成二十一年七月号)

卵かけご飯

まだ卵が貴重な贅沢品で、病気にでもならないと食べさせてもらえなかった時代を知っている。戦前から戦後しばらくがそうだった。だから生卵に醤油をたらし、たきたての熱いめしにかけて食べる。そのうまさに心がときめくのだ。

 「ええ、このゥたまごというものは」と、古今亭志ん生は落語のマクラでいう、「子のかたまりが玉になっているものでありましてェ」。そうであるからして、滋養にならないはずがない。コレステロールを心配する人がいるが、「善玉コレステロールだから大丈夫」という医師もいる。

 これに焼きのりでもあれば、卵かけご飯は朝めしとしては極めつきだ。
 「忠臣蔵」で大石内蔵助ら一同は、討ち入りの夜、腹ごしらえとして生卵を熱いめしにかけて食べた。「寒いのう、冷えるのう」といいながら。そして積雪を踏んで吉良邸へ向かったそうだ。

 卵が。物価の優等生”といわれて久しい。昭和四十年代のIキロ二百三十円か現代も四百円ぐらい。スーパーなどで1パック十個入り百円などというのもある。卵に無礼千万だろ。

 ただし、すべて生で食べられるかどうか保証はできない。わが家の場合は、東京・青梅で養鶏している「たまご倶楽部」のHさんが毎週、車で売りにくる。産直之を買う(一キロ六百四十円)。黄身は黄色というよりオレンジ色に盛り上がり、箸でといてもおいそれと崩れない。昨年の鳥インフルエンザ騒動のときも安心して生でご飯にかけた。

 卵を生で食べる習慣は日本人だけだという。その日本の卵が安全であるのがうれしい。安くて安全な卵を生産してくれる人びとに、心から感謝する。
                                  (平成十九年十一月号)
四十七士は討ち入り前にたまごかけご飯を食べていた!!!
そーかー!貧乏飯と思っていたたまごかけご飯が急に愛おしく思えてきた。
伝言板

”いとしきモノたち”の仲間に入れるには、少々違和感がある。そういえば、そういうものがあったなあ。
 ケータイの普及とともに無用物と化し、消えるべくして消えたものといえるからだ。いまの若い人たちには想像もつかず、なにそれ? といわれるだろう。

 姿を消しだのは、昭和が平成に移るころだろうか。それまでは騒がしい雑踏のなか、駅の伝言板は、ほぐれた人と人とを結ぶ貴重なコミュニケーション手段だった。

 「ヒロ、一時間待ったわ」「先に帰っているよ、正男」などと、せつない吐息や必死の思いがっづられて、短い言葉の切れ端に、とりどりの人生模様や男女の機微がこめられていた。

しかも「六時間を経過したものは消すことがあります」などと駅長のいかめしい条件がつけられ、確実に消滅するドラマでもあった。

 作家の宮部みゆきさんに『ドルネシアにようこそ』という短編がある。

 ここでいう「ドルネシア」は東京・六本本の高級ディスコで、週末になるときまって地下鉄の駅の伝言板に「ドルネシアで待つ」と書かれた文字があった。それは故郷を離れて学校に通う速記練習生の若者が、伝える相手もいないのに、寂しさをまぎらわすよう仁記す伝言だった。

 ところがある日、突然、返事が返ってきた……。
 都会の暗い孤独の闇に、ほっかり赤い灯りがともったような好短編だが、宮部さんの執筆年時は平成三(一九九九)年である。してみると、平成の初めころは、まだ駅の伝言板は存在していたのだろう。
 伝言板は庶民たちの、ひそやかな哀歓をつづる愛の一行詩たった。

                                  (平成二十三年一月号)
伝言坂といえば、野口五郎の私鉄沿線
我々新人類世代にとって伝言坂の甘酸っぱさはこの曲からくるのかもしらん。
インテリ虫

映画「男はつらいよ」シリーズの第一件が世に出てことしは四十年目、また主演の渥美清が死んで十三回忌になる。とあって世間は。カムバック寅さん”ブームだが、寅のせりふでいちばん気に入っているのはこれだ。

 「てめえ、さしずめインテリだな」

 この「さしずめ」という言い回しに、なんとも言えない昧とおかしみがある。

 第十二作「私の寅さん」では、画家のりつ子に「インテリと便所のなめくじぐらい嫌いなものはねえ、吐き気がすらあ」と言っているそうだ(志村史夫著『寅さんに学ぶ日本人の「生き方」(扶桑社)。

 寅がなめくじ同様インテリが嫌いなのは、やさしくいえばいいものをわざわざ持って回って難しい言い回しをするやからか多いからだろう。ひらがなや日本語を使えばいいところを、難しい漢語やカタカナの外来語を振り回す。学をひけらかすのだ。ハハーン、案ずるにてめえは……と寅が言うのは、嫌悪というよりは軽蔑の対象である。

 そしてそういうインテリ虫は、世の総合雑誌や論壇誌に好んで棲息している。
 この秋は名のある月刊誌の休刊が数多く伝えられ、社会的なニユースにもなった。朝日新聞社の『論座』もその一つだが、たまたま最終の十月号をひらいてこんな論文に出くわしたのである。

 それは「今なぜ民主主義か」という題の論文で、筆者は田村哲樹先生という名古屋大学院法学研究科准教授だ。ちょっとご紹介したい。論文は「今なぜ民牛王義か」という問いかけで書き出されており、十行ばかり後にこういう文章がある。
 〈この問いに対して、私は、拙著『熟議の理由』(勁草書房、2008年)において、現代社会の再帰的近代化が民主主義を不可避とする、という回答を試みた。再帰的近代化あるいは再帰化とは、社会学者A・ギデンスやU・ペックなどが用いた言葉であり、簡単に言えば、私たちの社会生活を調整する既存のルールが自明視されえず、「新たな情報や知識に照らして継続的に修正を受けやすいこと」を指す〉

 どうです? 一体、この文章は何を言おうとしているのか。すらりと頭に入った人がいたらお目にかかりたい。そういう短い例文のつまみ食いはけしがらんと言われるなら、その文章のつづきをもう少し引用する。

 〈再帰的近代化の下では、既存のルールや社会関係に頼って生活することができないばかりか、他者との間でさまざまな問題の発生すら予想される。したがって、私たちは、私たちの間で発生する問題を解決し、どのようなルールや社会関係に薬づいて生活していくのかを決めるという作業にかかわらざるをえない。民牛王義が、その語源のとおり「自分かちのことを自分たちで決める」ということであるならば、現在こそ民主主義が社会生活のさまざまな局面-国家と区別された市民社会は言うに及ばす、家族や友人関係などの親密圏と呼ばれる領域にも及ぶで必要となる。以上が、なぜ民主主義なのかという問いに対する私の回答であった〉

な、なんなんだこれは。もうやめよう。こういった文章が六ページにわたって展開される。がまんにがまんを重ねて読み通したが、私には何か何やらさっぱり理解できなかった。

 断っておくが、これは一部の専門家や研究者を対象とする学術雑誌ではない。『論座』という名の一般読者向けの月刊誌なのだ。略歴を見ると田村先生は一丸七〇年生まれ、名古屋大学法学部卒の法学博士とある。まだ三十代バリバリの少壮学者らしい。

 しかし不謹慎とは思いつつも、「てめえ、さしずめインテリだな」と口走らざるをえなかった。そして『論座』が十月号で休刊になるわけがわかったような気がしたのである。

 同誌最終号に薬師寺克行編集長の別れの言葉が載っているが、いみじくもこう述べている。
 「この先、言論の世界は新聞や雑誌という既存の媒体にとどまらず、インターネットなど新たな世界に広がっていくでしょう。新しい舞台と人材を得た言論の世界が『タコツボ化』することなく、創造的空間としてさらに社会に寄与することを祈ってやみません」 まさに、前記の文章こそ閉鎖と独善の壷中にひきこもった学者の「タコツボ化」でなくてなんだろうと思わざるをえなかった。

 しかし右であれ左であれ、各社の看板雑誌が次々と消えてゆく秋は淋しく、悲しい。
 九月末から十月初めにかけて、出版ジャーナリスト、植田康夫氏が「戦後日本/雑誌の興亡」の考察を「東京新聞」夕刊に書いていた。

 それによると、出版物販売金額は一九五三(昭和二十八)年から九六(平成八)年までは連続して右肩上がりの成長を示しか。それが九七年以降は毎年マイナス成長がっづく。そのため九六年に書類・雑誌をあわせた出版物の推定販売金額が二兆六千五百六十三億円だったのが二〇〇七年には二兆八百五十三億円に落ちこんだ。この数字は、一九八五年の二兆三百九十九億円とほぼ同じで、二十二年前にかえったことになる。

 有肩下がりになったのは雑誌の不振だ。かつての傾向とは全く逆に、いまや「書高雑低」時代が定着した。一~七月の累計(前年同期比)で出版物全体はマイナス三・五%だというのである。

 『正論』十一月号最終ページ「操舵室から」で上島編集長が強い危機感をこめて述懐していた。「『論座』や『月朗現代』の休刊が、明目は我が身”であることをひしひしと感じている」と。さらにつづけて「論壇誌は読んで楽しい、面白いものばかりというわけにいかず、知的な辛抱強さを読者に求めることで成り立」つているとも書いている。

 その通りだが、だからといって「タコツボ化」した難しい言い回しが『正論』誌にあっていいことにはならぬ。ところが思い切っていうのだが、もう少し平易な言葉遣いをしてくださらぬかと思うような執筆者の学者センセイが本誌にもおられる。

 当方はインテリではないから該当しないが、「てめえ、さしずめ:」と寅には言われたくないではないか。「『正論』は、つらいよ」では困るのだ。ごめんなさい。へらず口をたたいてしまった。
                             (『正論』平成二十年十二月号)


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石井英夫(いしい・ひでお)
昭和8年、神奈川県生まれ。コラムニスト。元・産経新聞論説委員。早稲田大学政治経済学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部畑を歩んだのち、産経新聞朝刊一面の看板コラム「産経抄」を昭和44年から平成16年まで35年の長期にわたり執筆し、平成4年、菊池寛賞を受賞。フジテレビ番組審議会委員なども歴任。主な著書に『コラムばか一代 産経抄の35年』『日本人の忘れもの』『蛙の遠めがね』などがある。

産経抄を永年執筆されてきただけのことはあり、コラム一つ一つがとにかく名作ばかりだ。わたしはいつになったらこの様なコラムを書けるようになるのか・・・おそらく
死ぬまで無理のようである。
消しゴム

先日、新聞にこんな子どもの投稿詩が載っていた。
「ある日」と題した詩である
ある日、けしゴムになってしまった。
ぼくはみんなに消されて、体が小さくなっていった。
(田中瑠星/埼玉県新座市/小学四年生=11月26日付「読売新聞」)

その詩を読んで、おやまあかわいそうにと思った。しかし選者・長田弘氏のこんな講評を読んで、うれしくなった。「ちがう。きみは消しゴムになってみんなの間違いをいっぱい消して、大きな間違いを小さくしたんだ」と。
どうだろう。人はだれでも思い出したくもない思い出や、忘れてしまいたい記憶というものがあるのではないか。人生に忘却用の消しゴムがあったら、ごしごしと消してなくしてしまいたくなるような出来事が……。
しかし反対に、簡単に忘れてしまったり、ごまかしたりしてはいけない大切なものもある。
どこかで読んだことだが、乃木大将は幼い息子に、気がゆるむからと消しゴムの使用を禁じていたという。ほんとかどうか真偽のほどは知らない。
このごろはパソコンの普及で消しゴムが使われる機会も減ったようだが、デザインや香りがあるものなどいろいろあり、品質も格段によくなった。相変わらず値段が安く、百円程度で買えるのもうれしい。
ゴムといっても消しゴムの原料はほとんどが塩化ビニール樹脂、つまりプラスチックの一種だ。原油高の影響で原価は値上がりしているはずだが、メーカー各社の努力で製造工程が改善され、総コストを抑えていてくれる。
日常、机で使う消しゴムは、使うにつれだんだん小さくなり、やがてはなくなってしまう運命にある。といっても最後の最後まで使い切ることはできない。人が意識して捨てたり、投げたりするのではなく、どこかに転がったり、落ちたりして行方がわからなくなってしまうのだ。

消しゴムはいつの間にかなくなってしまうものだ。しかし人間の最期もそうありたい。人知れず静かに姿を消していきたいと思っている。
(平成十九年三月号)

金魚の化身

少年のころから、私は詩人・室生犀星が好きだった。犀星の詩に惹かれて、彼が生まれ育った金沢の寺・雨宝院を、犀川のほとりに訪ねたこともある。

その雨宝院が『幼年時代』や『性に目覚める頃』に描かれた森閑たる寺院のイメージとまるで違うことに驚き、詩人の古く。詩と真実”の落差に仰天したものだった。

金沢出身の詩人で文芸評論家でもある安宅夏夫氏は、室生家と家族ぐるみの交際をし、作品収集や全集の出版にも尽力した犀星研究家でもある。その安宅さんから「お前さんは犀星が好きだから」と、たびたび犀星研究のリポート(『人物研究』誌=近代人物研究会発行)を送っていただいていた。私にとっては驚きの犀星発見で、何度か産経新聞に書かせてもらったのだった。

たとえば、その1。

犀星の本当の父親は、文学全集などで定説とされている加賀藩士の小畠吉種ではなく、その長男の生種だという。生種は二十六歳で小学校長をしており、妻子があった。彼は二十歳の芸者ちかと愛し合うようになったが、妻子ある教育者が芸者とねんごろになって子をもうけたでは世間に顔むけができない。そこで父の吉種(六十歳)の子としたという。

たとえば、その2。

犀星の代表詩の名句「ふるさとは遠きにありて思うもの」(『小景異情』)は、じつは石川啄木の小説(『我等の一団と彼』)のなかの人物のせりふのリメーク(化粧直し)たった。小説の登場人物・高橋彦太郎が「故郷は遠くから想うべき処」「帰るべき処じゃない」などと語っている、などなど。

それら安宅さんの新説は、犀星ファンの私に大きな衝撃を与えた。
さて、安宅さんは最新の『人物研究第二十言万』(平成二十年六月)で、さらに興味津々の「女ひと伝説」を提供してくれた。

犀星の妻とみ子は昭和三十四年の秋、六十四歳で亡くなっていた。そしてその三年後の昭和三十七年三月二十六日、犀星は東京・港区の虎の門病院で七十三年の生涯を閉じるが、犀星の死に水をとった住み込みの若い女秘書がいた。小山万里江(仮名)である。

万里江は東京駅そばの大丸百貨店の時計売り場の女子店員だった。昭和三十三年の秋、犀星は娘の朝子と大丸に買い物に出かけ、時計売り場の少女に目をつけたのである。犀星ときに六十九歳、万里江十九歳。犀星はしばしば時計の修理にかこつけて、自分の署名入りの本を渡し、やがてお茶に誘い、食事をともにしてついに住み込みの秘書にする。

そのころ『杏っ子』がベストセラーになり、読売文学賞を受賞した。

「一生仕事をやり通したって、ただそれだけでは男として何の値打ちがあるか。最後に傍らにいてくれる女があってこそ、その男の生涯は映えて額縁に納まる」 それが口ぐせだったという。犀星の女の好みははっきりしていた。楚々としてたおやかな女より、ルノワールが描くような豊満な女を好んだ。女優でいえば原節子より京マチ子。野性昧のある艶やかさ、たわわな肉の重みを愛した。万里江は色白肉厚の、おっとり型のぴちぴちギャルだったらしい。

こんな秘話も紹介されている。

東京・馬込の犀星邸は平屋で男便所がなかった。男性の来客がいぶかしく思ったが、じつは室生家の男便所は奥の部屋にあった。犀星は書斎兼応接間(和室)にいて、前に火鉢、横に書き物机、横に骨董を並べた棚がある。で、その裏に犀星だけが出入りする男便所があった。この。奥の部屋”の男便所が、文字どおりギリシヤ神殿もかくやとばかりの色彩タイルでしつらえてあった。それは以前からあったものではなく、万里江を起居させるための「改造」であった、と安宅さんはいうのである。秘話でなくてなんだろう。

この万里江との出会いが、犀星の文学空間に沃土をもたらし、花をひらかせた。犀星最晩年の傑作『蜜のあわれ』の女主人公「金魚の化身の少女」となったのだという。

少女がおじさまと親密な間柄になる様子は次のように記されている。

「尾のところにお触りになってもいいわ、くすぐつたくないよう、そよろそよろとお触りになるのよ。おじさま、尾にのめのめのものがあるでしょう。あれをお凪めになると、あんまりあまくはないけど、とてもおいしいわよ、しごいてお取りになってもいいわよ」

金魚の化身の少女から「おじさま」と呼ばれる七十歳ぐらいの小説家・上山は、作者の犀星その人だった。
「一たい金魚のお臀って何処にあるのかね」
「あるわよ、附根からちよつと上の方なのよ」
「そうかい、人間では一等お臀というものが美しいんだよ、お臀に夕栄えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界じゆうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな(略)」
「おじさま、大きな声でそんなこと仰有ってはずかしくなるじやないの、おじさまなぞは、お臀のことなぞ一生見ていても、見ていない振りをしていらつしやるものよ(略)」
「そうはゆかんよ、夕栄えは死ぬまでかがやかしいからね、それがお臀にあたっていたら、言語に絶する美しさだからね」
安宅さんは、この『蜜のあわれ』をスーパーリアリズム(事実以上に事実をリアルに描いた)作品と評している。「無の空間から一瞬にして薔薇の花束をつかみ出してみせる魔術・奇術」(三島由紀夫)であり、犀星文学の行きついた極北である、といっている。

さて犀星の看病のため病院に泊まりこみ、老詩人の死に水をとった万里江はその後どうなったのか。犀星の死後三十余年、万里江の消息を尋ねて東北の実家を訪ねた伝記作家がいたが、それによると万里江は結婚して夫と二人の子、そして孫たちに囲まれて幸せに暮らしていたという。

陰の女とされた万里江の青春をどうしてくれるという女権主義者もいるだろう。老人の横暴が無垢の少女の人生を台なしにしたというウーマンリブ的抗議があるかもしれない。

何をおっしやる、二人の出会いは男と女の奇しき漫遁ではないか。この世の人間が遭遇した運命というものだ、といえばそれで足りるだろう。
(『正論』平成二十年九月号)
男は幾つになっても女性にモテタイ・・・
しかし、加藤茶といい室生犀星といい・・・
男はかくあるべきですな・・・
かつ丼

どういうわけか、あまり女性がかつ丼をぱくついている姿を見ることはない。してみるとこれは男の、それも若い学生や働き盛りの労働者の好物であるのかもしれない。

 たしか五木寛之さんのエッセーに、早大入学のため九州から上京した昭和二十年代の末に、学生食堂で生まれて初めてかつ丼を食べ、「世の中にこんなうまい物があったのか」と目からウロコの思いがしたというくだりがあった。五木さんと同世代だから、全く同感である。

 そしてかつ丼の考案者はなんとかいう早大の教授だったらしいとあったが、記憶違いかもしれない。いい齢をして、かつ丼はいまでも無性に食べたくなることがあり、しかし食べるとしばらくは見るのもいやになる。そんな年増女の深情けのような食べ物だ。

 最近、題名にひかれて『かつどん協議会』(原宏一著、集英社文庫)という本を読んだ。かつ丼はとんかつと玉ねぎを醤油で甘辛く煮て卵でとじ、ごほんの上にのせただけの料理である。全食連こと全国食堂中央連盟なる組織があり、その会議でそれぞれの業界の代表が口角泡を飛ばしてケンカをするという珍奇な小説なのだ。

 その本によると、かつ丼は洋のハイカラと和の伝統を融合させた食の国際化の象徴だそうだ。大正デモクラシー時代をへて、戦後日本の高度成長を担ってきた労働者の子不ルギー源であり、店屋物の代表として街の大衆食堂のヒーローだった。その大衆食堂は昭和五十年代からファミレスの台頭によって衰退し、かつ丼はヒーローの座をハンバーグに奪われることになったという。
 ああ、年増女の深情けのごときかつ丼がいとおしい。
                                  (平成二十一年四月号)

かのスティービーワンダーは来日するたびにカツ丼を食べるそうだ。
彼は目が見えない、彼のカツ丼のイメージはいったいどのようなイメージなんだろう?
それにしても、かつ丼で年増女の深情けを連想する石井氏は幾つになってもオスなのでしょう。立派です。




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ユダヤ系ドイツ人文化批評ヴァルター・べンヤミンは、「蔵書を見れぼその所有者の多くのことその趣味、興味、習慣-が分かる、と語った。その人が手元に残した本も捨ててしまった本も、読んだ本も読ま
ないことにした本もすべて、その人の人とたりのなにがしかを物語る」と語った。

私も、書斎の本棚は、何を読んできたかで、その人の人格なり、人となりがわかると思っています。それゆえ私のブログのプロフィール写真は書斎の本棚とさせていただいております。

本書のタイトルの原題は、”HITLER'S PRIVATE LIBRARY”です。1晩に1冊以上の本を読破していたヒトラーの本棚にはいったいどんな本が並んでいたのか?、本書はそんな疑問に答えてくれる本です。

ヒトラーという人物の評価は独裁者の代名詞であり、スターリン、毛沢東とならび大量の人間の命を奪う結果をもたらした極悪人・異常な狂人であるイメージが我々に刷り込まれている。

伝えられる資料によればヒトラーは生涯禁酒・禁煙で、芸術・建築・美術・ワグナーの楽劇を好んだ読書家であり清廉な人物であり、そのイメージとあまりにかけ離れた存在であることに驚く。

異常な狂人にドイツ国民が熱狂することはない。天才的経済運営で、第一次世界大戦の敗戦と世界恐慌の直撃を受けたどん底のドイツを立て直したのはヒトラーの功績であり、彼の指導力にドイツ国民は熱狂したのである。

第二次世界大戦を引き起こしてたのも、領土的野心というより彼なりに本気で世界平和を願っていたのではないだろうか?と思える。しかし、結果として貧しい何百万というユダヤ人や、同時代の多くの人々を戦争による悲劇に突き落とした責任は免れない。しかし、反ユダヤ主義の考え方はヒトラーの個人的な異常な考え方ではなく、当時のヨーロッパやアメリカではユダヤ人排斥は、一般的な考え方にすぎなかった。

画学生Adolf Hitlerがどうやってドイツ総統アドルフ・ヒトラーとなったのか、著者ライバック氏は、アメリカの議会図書館に眠っていたヒトラーの蔵書1200冊、米国ブラウン大学の80冊をはじめとして、欧米の公共図書館、個人宅に眠るヒトラーの蔵書を見つけ出し、ヒトラーの元蔵書を丹念に調べた。それらの蔵書にはヒトラー自身が気になった箇所に平行線を引き、感嘆符・疑問符印がついており、ヒトラーの読書の足跡をたどることができた。歴史年代と具体的なエピソードと、説明によって、いかにしてヒトラーが書に影響されていったかまで解き明かしています。

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Book1 芸術家の夢の名残
マックス・オスボルン『ベルリン』
第一次大戦の激戦下、勤勉な働きをみせていた伝令兵。
彼の楽しみは、休暇に首都べルリンを観光することだった。
1915年ヒトラー26歳
ベルリンのガイドブックでも、醜悪で非ドイツ的なものまでふくまれている。ドイツ的であるものは「プロイセンの大地に根づいた古代ギリシャ」を理想とした建物だ。このガイドブックを手に入れて四半世紀後、ヒトラーはベルリンの改造に取り掛かったのである。

Book2 反ユダヤ思想との邂逅(かいこう)
ディートリヒ・エッカート『戯曲ぺール・ギュント』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%88
敗戦の混乱の中で元伍長は自分の師と出合った。
その師も彼の中に眠っていた煽動の才能に魅入られていった。
1921年ヒトラー32歳
ディートリヒ・エッカートはヒトラーにとっては親友であり、パトロンでもあり、父親代わりであった。
エッカートは熱狂的な愛国的民族主義者であり、過激な反ユダヤ主義者でもあった。彼はヒトラーの政治的メンター(師匠)であったのだ。

Book3 封印された『我が闘争』第三巻
アドルフ・ヒトラー『我が闘争』第三巻
「あの本が出版されなくてよかった」。後に彼は側近に語る。
出版社の金庫にしまいこまれたまま、それは忘れ去られた。
1928年ヒトラー39歳
【我が闘争】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E9%97%98%E4%BA%89

我が党争のネタ本は、ヘンリー・フォードが書いて出版した本のドイツ語版である、『国際ユダヤ人』であった。ヒトラーは「当時、私や私の友人たちはこの本から実に深い印象を受けた」と述べている。
ある演説でヒトラーは、フォードの実業家としての天才的創造力を賞賛して彼を「最も偉大たる人物」と呼び、フオードを、アメリカにおけるいわゆるユダヤ人共産主義者の脅威(アメリカではユダヤ人が「評議員」を務めている、とヒトラーは主張していた)に対する防波堤と見なしていた。

p109「フォードは私のインスピレーションだ」
ヒトラーにとってフォードは、一般労働者に対するその進歩的見解ゆえに、理想的な立志伝中の人物だった。収益の増大に応じてフォードが労働老の賃金を二倍にした話は有名である。

それと同じくらい有名だったのが、フォードの反ユダヤ主義である。1920年から1922年にかけて「ディアポーソ・イソディペソデソト」紙に九二回にわたって連載された論文の中で、彼はその激烈な反ユダヤ主義を公然とぶちまけた。これらの論文は実際にはフォードの二人の側近によって書かれたのだが、のちにフォードの名前で二巻の単行本として出版された。そこには、『シオンの長老の議定書』で明らかにたったとされる、いわゆるユダヤ人の陰謀が詳述されていた。

『シオンの長老の議定書』とは、ユダヤ人の世界支配計画について書かれている偽造文書で、原文はロシア語である。

ヒトラーは、アメリカに次いで最もこの世界支配計画の脅威にさらされているのはドイツである、というフォードの言葉にショックを受けた。「今やドイツは、おそらくアメリカ以外では、世界で最もユダヤ人に支配されている内側からと同時に外側からも国である。今なら、『シオンの長老の議定書』に挙げられているものよりもさらにずっと強力な事実を列挙することができるだろう」とフォードは主張している。

ドイツ政府の要職からユダヤ人を締め出す努力がたされてきたとはいえ、ユダヤ人はドイツの生活及び経済の重要た位置に居座っている、と彼は言う。
第二巻はわずか700部しか売れなかった。当時第一次世界大戦の従軍記がベストセラーとなっていたので、ヒトラーは第三巻を自分の従軍記として書いたらしい。しかし、未完のうちに処分され存在しないという。

Book4 ユダヤ人絶滅計画の原点
マディソン・グラント『偉大な人種の消滅』'''
アメリカを移民制限に導いたその書は、彼の『聖書』となり、
ナチスが政権をとると、ユダヤ人の根絶計画の礎となった。

【ユダヤ難民に冷淡だった欧米諸国】
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb300.html

Book5 総統の座右の思想書
ボール・ド・ラガルド『ドイツ論』
「本当は、二ーチェはあまり好きではないのです」
では誰が、彼の思想の源となり、ナチスドイツの原則となったのか。
1933年ヒトラー44歳

Book6 ヴァチカンのナチス分断工作の書
アロイス・フーダル『国家社会主義の基礎』
キリスト教への弾圧を続けるナチス。彼らと反共で
手を結べると信じた司教は一書をしたため彼に献じたが。
1936年ヒトラー47歳

Book7 オカルト本にのめりこむ
マクシミリアン・リーデル『世界の法則』
天才のなすことに理由は要らない。オカルト本の主張に
背を押されるようにして、彼はポーランド攻撃を命じた。
1939年ヒトラー50歳

Book8 参謀は、将軍よりも軍事年鑑
フーゴ・ロクス『シュリーフェン』
彼の蔵書の半数七〇〇〇冊は、軍事に関わるものだった。
詰め込んだ知識で彼は対立する将軍たちと渡り合おうとする。
1941年ヒトラー52歳

Book9 老冒険家との親密な交友
スヴェン・ヘディン『大陸の戦争におけるアメリカ』
彼にとって生涯の英雄だった探検家ヘディン。目下の戦争のさなか
ドイツを擁護する書を世に問い、彼を感激させる。
1942年ヒトラー53歳

Book10 奇跡は起きなかった
トマス・カーライルフリードリヒ大王』'''
ベルリン陥落前夜。彼はかつてのプロイセン王に身を重ねる。
敵国の女王が死に、からくも救われた奇跡の大王に。
1945年ヒトラー自決56歳
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最近よく取り上げられているジョークに「謎の鳥」があります。

出所;2ちゃんねる ニュー速+

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日本には謎の鳥がいる。その正体はよく分からない。

中国から見れば、その鳥は「カモ」に見える。

アメリカから見れば、その鳥は「チキン」に見える。

ヨーロッパから見れば、その鳥は「アホウドリ」に見える。

日本国内では、その鳥は「サギ」だと思われている。

でも鳥自身は、自分のことを「ハト」だと言い張っている。

誰かが、あの鳥は「ガン」かもしれないと言った。

でも私は「ガン」ではなく、金色に着飾った「カナリヤ」だと思っている。

・・・暗いトンネルの中、カナリヤの後をついて行く者たちの命運や如何に!!

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きららの投資日記
http://blogs.yahoo.co.jp/kiraranet/40735906.html

三橋貴明さんのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/32355334.html

溜池通信かんべえの不規則発言<1月26日>(火)
http://tameike.net/comments.htm#new

などに載ってました、なかなか面白い・・・

運命や如何に!!というので、その先をDdogが考えてみました。

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日本には謎の鳥がいる。その正体はよく分からない。

中国から見れば、その鳥は「カモ」に見える。

アメリカから見れば、その鳥は「チキン」に見える。

ヨーロッパから見れば、その鳥は「アホウドリ」に見える。

日本国内では、その鳥は「サギ」だと思われている。

でも鳥自身は、自分のことを「ハト」だと言い張っている。

私には、くるくる回っているだけの「風見どり」にしか見えない。

誰かが、あの鳥は「ガン」かもしれないと言った。

そこで、猟師に頼んで、鉄砲で撃ってみたところ「謎の鳥」は、

ただの「野鳥」(野島:やとう)に戻りましたとさ。

めでたし、めでたし。

「焼き鳥」にしてみたところ、中身が無くて喰えなかったとか・・・

※猟師は東京地検、でも頼んだのはいったい誰だ?

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世間では東大・京大・早慶の難関校の次の偏差値の大学をMARCH(マーチ)ともGMARCH(ジマーチ)とも言います。

G学習院 M明治 A青山学院 R立教 C中央 H法政 の各大学を指します。

今日、御茶ノ水の母校明治大学の前を通りながらこんなことを呟いてしまいました。

「真実のMARCH」

M明治 A青山学院 R立教 C中央大学H法学部

法政大学、中央の法学部以外の皆様・・・失礼いたしました・・・たんなる明治大学OBの呟きです!

ちょっと「これ」♪ちょっと「これ」♪ちょっと「これ」は「Meiji」♪とよくKO大学生に歌われたものです。
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http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC
毎日乗り降りしている地下鉄の駅に、東京メトロが配布しているフリーペーパー「メトロガイド」2009年10月号が置いてある。何気なく、一部取って地下鉄の車内である記事を読みだした。五分後私は、年がいもなく、思わず涙を眼にいっぱい溜めてしまいました。

駅前ワンダー第五回麻布十番駅

童謡「赤い靴」のモデル「きみちゃん」像

イメージ 1「南北線麻布十番駅から歩いて2~3分、麻布十番商店街の中心にある広場「パティオ十番」の片隅に、小さな女の子の像があります。この像は、野口雨情が1921(大正10)年に書いた詩に、本居長世が作曲した童謡「赤い靴」の中で唄われた女の子のモデルといわれている、岩崎きみちゃんをモチーフにしたものです。

北海道テレビに在職していた菊地寛氏の著書「赤い靴はいてた女の子」(現代評論社)によると、きみちゃんは1902(明治35)年7月15日に静岡県安倍郡不二見村で生まれました。母親は岩崎かよ、父親は不明です。翌年かよはきみちゃんを連れて函館に渡り、そこで鈴木志郎と出会います。

志郎はかよに結婚を申し込み、一緒に北海道奥地の開拓農場に行って欲しいと懇願します。父親の不明な子どもを連れ、幼い子どもには過酷な開拓村に行くことに悩んだかよは、人のすすめできみちゃんを養子に出すことにしたのでした。

3歳のきみちゃんは、当時札幌にいたアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女となりました。1908(明治41)年、ヒュエット宣教師に帰国命令がきますが、その時6歳のきみちゃんは結核に冒され、長い船旅をするには無理な体になっていたのでした。夫妻はやむなく烏居坂教会の孤児収容施設「永坂孤児院」に預けることにしました。施設に残されたきみちゃんの病状は悪化するぱかりで、9歳の
秋、見守る身内もなく、ひとり寂しく亡くなったのでした。

鈴木志郎と結婚したかよは、開拓農場に入りましたが、2年で札幌に戻っています。志郎は札幌の新聞社に職を得て、そこで野口雨情と出会い、夫婦同士で一緒に住むまでに親しく付き合います。その時、きっと養子に出したきみちゃんのことが話題になり、雨情の記憶に残って、後年の「赤い靴」の詩となったのではないでしょうか。

かよはきみちゃんが外国で幸せに暮らしていると信じて、昭和23年に亡くなっています。そしてきみちゃんは、青山墓地にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っています。

私の娘は10歳、ちょうど同じ年頃で一人寂しく結核で死んでいったなんて、なんと薄幸な少女だったのだろう。

かわいい盛りの三歳で実母と別れ、六歳で育ての親と別れ、そして九歳でこの世とお別れしたなんて、ショックでした。

赤い靴の歌に歌われ、娘は遠い異国とはいえ幸せに暮らしているであろうと信じていた母親。真実を知ったら気が狂わんばかりになってしまうであろう。

ヒュエット夫妻も泣く泣く置いていったと思うと、とても切なくなってしまいました。

結核にかかってしまったきみちゃんの最後はいったい誰が面倒を看たのだろう?きっと感染を恐れ、孤独で誰一人優しく接する大人など居なかったに違いない、なんて切ない。結核に比べたら、新型インフルエンザなんて風邪に等しい。身寄りのない薄幸なちっちゃい女の子が、ばい菌扱いされ阻害されて一人死んでいった。なんてなんて切ないのだろう・・・。

帰りの地下鉄の車内、中年男性が一人地下鉄のフリーペーパーを握り締め、涙をハンカチで拭っていました。

実は我が娘はシルバーウィーク中に新型インフルエンザに感染してしまいました。高熱を発症しなかったので、知恵熱か、風邪かと思っていました。金曜日病院にて診断を受け、感染が発覚しました。しかし、タミフルの投与を受け、土曜にはもう平熱に戻りました。

私はインフルエンザに感染すると即、喉が腫れるので、自分では感染していないと確信していました。

月曜日検温したところ、「体温35度4分平熱」出社しました。私が勤めるグループ会社では9月に入り、ガイドラインが変わり、家族が感染しても平熱であれば本人の判断で出社できるルールとなっています。

私が出社しないと月曜日は特に仕事が回らないので、周囲もやむを得ないと理解していただき、私も含め全員マスク着用で仕事をしてもらい、ご迷惑をおかけしてしまいました。

問題は、その後です、下手にマスクをしているとばい菌扱いされるのです。マスクも息苦しくなるので時々顎にマスクを引っ掛け電話で話していると、Ddogさん「マスク!・マスク!」と、ばい菌扱いしやがるのです。

おいおい、俺は平熱だぞ!娘は火曜から学校へ登校しているぞ!しかも、君はマスクしていないだろう!マスクしていない奴に逆に注意されるなんて、ふざけるな!と鬱々としていました。

そんな水曜日の昼、事件は起きました。

昼時、社員食堂で直前までマスクをして、食べだす直前にマスクを顎にしてカレーを食べていたところ、同期の友人が隣に座り、ご飯を食べながら雑談となりました。同期のI君は系列のグループ別会社の重要なポジションに在籍してます。ほどなく、我々から三つ四つ離れた席におっさん達が座り私の前と斜め前は、私の娘が新型に感染しているが私は、他人に迷惑をかけない為マスクをしていることを知っている同じオフィスの人間でした。

I君は、予防かい?と聞くので「まぁ」と答えたのですが、気が許せる友人であったし、周囲は事情を知っている人間ばかり、そこで、娘が感染したが、もう完治し学校へ行った話をした。

迂闊だった。そのチョトは離れたオッサンが「そんな奴出社しちゃダメだろう、帰れ」と言い放った。その知らないおっさんは「そうだろうI。」」と言い、I君は硬直しています。私は普通なら危険を察知し危機回避をするし、するべきであったが、魔が刺した。「いえ、ガイドラインに沿っています、9月の第一週にガイドラインの通達変更が出ています、ご確認下さい。」と言ってしまった。散々事情を知らない人間にばい菌扱いされていて、知らないおっさんに「そんな奴呼ばわりされ」魔がさしてしまった。

そのオッサンの正体を知る数人が顔を青くした。I君の上司、グループ系列会社の社長K、もと本社の役員だった人物だ。「そういえば社内衛星放送で見たことがあった・・・」

私の悪いくせだ、相手をついつい正論で追い込んで撃破してしまう。リアル社会では封印しているよう心がけてはいるものの、危険人物に恥をかかせてしまった。(ネットでは徹底的に殲滅するまでやる時はやりますし、阿修羅掲示板ではやりまくっていました、でも馬鹿相手にアホらしい)

昨日、私のセクションの長に呼び出され、これまでの業績が木っ端微塵になるほど説教されてしまった。

理不尽極まりないが、サラリーマンの掟を破ってしまったのだ。返す言葉がない。人格を否定されるほどキツイ言葉を貰った。

話は「きみちゃん」に戻るが、私が失ったものなど、「きみちゃん」が失ってきたたものに比べ、失ったなどと呼ぶに値しないほど下らない。

私はいったい何を嘆いていたのか?そう思うと自分自身がさらに情けなくなり、ハンカチで目頭を押さえるばかりでした。

もう一つもっと切ない話を一つ、こちらもあまりにも切ない

ごみ箱で尽きた命【天木直人のブログ】
http://www.amakiblog.com/archives/2009/09/24/#001490
9月23日の東京新聞に佐藤大という名の記者が、一つの事件について、「現場考」という囲み記事で書いていた。

その事件は、昨年12月、東京都練馬区のマンションで、二歳半の男の子が両親に虐待された末に殺された事件である。

最近とみに目につく悲しい事件だ。

私がその記事に胸を打たれたのは佐藤記者の筆力である。

姉二人に次いで初めての男の子。予定より二カ月ほど早く生まれ、「優しい衣を着てるみたい」というイメージから母親は「優衣」と名付け、可愛がって育てる。

その母親が、同年代の子に比べ成長が遅かった現実を前に、愛情を焦燥感に変化させ、イライラを優衣ちゃんにぶつけるようになったという。後はお決まりの虐待とその行きつく先の悲劇である。

それを伊藤記者は次のように書いていた。

「なかなか寝つかない優衣ちゃんに腹を立てた両親は、優衣ちゃんを高さ80センチのプラスチック製のごみ箱に入れ、スライド式のふたを閉めた。さらにポリ袋をかぶせた上にゴムをかけ、外れないようにした。ごみ箱の中で、もがき苦しんでいた優衣ちゃんの声はやがて、やんだ。両親が、ようやくふたを開けたのは半日後。優衣ちゃんは少量のごみにまみれ、既に息絶えていた・・・」

伊藤記者は続ける。

「・・・通報で駆け付けた消防隊員や捜査員に『自分でごみ箱に入った。気づいたら死んでいた』と説明していた両親は、逮捕後は一転して『しつけのつもだった』と容疑認めているという。
一家が住むマンションでは、ベランダで泣く優衣ちゃんの姿が住民に目撃されていたという。
練馬区は『虐待の通報はなく、把握していなかった』としている・・・」

佐藤記者は、両親が悪い、それを見過ごした住民や行政が悪い、などと声高に非難はしない。
救う手立てはなかったのか、とマンションのベランダを見上げて、体を震わせて一人で泣いていた優衣ちゃんを思うのだ。

彼は書く。実の親から虐待を受け、行政や地域から手を差し伸べられることなく、失われた幼い命。

「ごみ箱の中で尽きた命」

この言葉が、我々すべてを糾弾しているような気がする。

いつから日本はこんな国になったか。その責任はどこにあるのか、と。

あまりにも下らない理由で落ち込んでいるのは喜劇だ。そこの貴方、こんな日本にしてしまっているのは、他人ではない。我々自分自身なのだ!我々、そして自分自身がより良い社会を築こうという意志を持つべきなんだ。革命なんてたいそうなことはしなくていい。我々一人一人が王道の人生を歩もうともがき続ける事が大切なのだ。
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アレクサンダー・ハミルトン伝<中>副題:アメリカを近代国家に作り上げた天才政治家 ロン・チャーナウ著 日経BP社
旅行中の飛行機の中で中巻を読み終えた。
中巻はハミルトンの憲法制定を擁護し、アメリカの未来について設計図を画いたたマディソンとの共著名著「フェデラリスト」の執筆、そして憲法論争制定。憲法制定を巡る死闘、そしてワシントン大統領の就任についての様々なエピソードから始まる。

ハミルトンは初代財務長官倒産寸前の新政府を公債を発行したり関税、収税システムを構築、密輸脱税防止為コーストガードの創設など超人的名仕事をこなし、初代ワシントン大統領の手足となって働いた。
日本で言えば明治新政府の西郷隆盛がワシントンでさしずめハミルトンが大久保利通の役まわりだろう。

しかし、新政府は一枚岩ではなかった。農園主出身のジェファーソン達の銀行公債に対する嫌悪感からワシントン政権内で激しい内部対立が起こり、これにフランス革命の評価を巡り、反フランス革命政府の立場をとるハミルトンとジェファーソンの政治的激闘が勃発するのである。
下記図は双日総研のカンベイ氏溜池通信にあった表であるが、なるほどこの表の示す意味を理解した。
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私はハミルトンの立場に強く共感を得る。
ジェファーソンは現代で言ったら「反ロスチャイルド同盟」なる無知集団と同じレベルである。
いちいち経済財政のABCを説明しなくてはいけないし、説明しても理解できる能力を持たざる者達へ説明することが、面倒で困難かは共感がもてる。

なぜFRBを設立した時にあのような騙まし討ち的設立になったか、アメリカ建国当時から農業派と銀行派の激しい対立があったか理解できれば、不自然でもなんでもないことが理解できる。

ワシントン政権の第二期目もフランスイギリスとの外交交渉、フランスの血の粛清の影響、そしてペンシルバニアのウイスキー叛乱事件、ワシントンとハミルトンの出兵鎮圧、そして常設軍設立など米国創建当時の逸話がふんだんに盛り込まれています。中巻の最後はハミルトンの辞任ですが、下巻はいったい何が書いてあるのか今から興味が持たれる。

米国とは何かを理解するには必読の書です。明日下巻が届くので、またハミルトン三昧です。

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オスマン帝国はなぜ崩壊したのか 新井政美 著 青土社
序章 三つの 「?」
一. 「トルコはヨーロッパか」 か?
二. オスマンのナショナリズム??
三. トルコ/オスマン/オスマン・トルコ???


第一章 進歩の先端――西洋社会の観察
一. 十八世紀の遣仏使節
二. サードゥク・リファトの登場
三. サードゥク・リファトの観察


第二章 改革の進展
一. ギュルハーネ勅令とタンズィマート
二. クリミア戦争と改革の 「深化」
三. 改革の成果


第三章 批判的言論の登場
一. シナースィの転身
二. 新聞とその反響
三. 「新オスマン人」 の登場


第四章 オスマンの愛国主義とイスラム
一. 言論活動の再開
二. イスラムと西洋
三. 「平等」 概念をめぐって
四. 「国民」 の内実をめぐって


第五章 立憲制から青年トルコ人へ
一. 新オスマン人たちの帰国
二. クーデタと憲法の制定
三. ベルリン条約とオスマン国家の変容
四. 言論統制と文化の成熟
五. 青年トルコ人の登場


第六章 青年トルコ人とナショナリズム
一. 青年トルコ人の分裂とアフメット・フェリト
二. トルコ・ナショナリズムの起源
三. アクチュラへの反論
四. 革命の成就とオスマンの針路
五. トルコ・ナショナリズムの二つの流れ
六. ナショナリズムとイスラム


終章 帝国の瓦解とトルコ共和国の成立
一. オスマン帝国の崩壊
二. トルコ共和国の成立

■オスマン帝国の優れた点

 オスマン帝国の特に優れた点は、「征服王モハンマド(モハンマド2世/メフメト2世)」による、東ローマ(ビザンツ)帝国の首都コンスタンティノープルの解放でしょう。それはムスリムにとって大きな勝利でした。オスマン帝国のヨーロッパ進出は、アンダルシアでムスリムがヨーロッパから受けた深い傷を癒したのだ、という学者たちもいます。

 また、アラブ世界がヨーロッパの植民地支配主義の手に落ちるのを数世紀も遅らせた、という点もオスマン帝国の功績でした。フランク人はアンダルシアを陥落させた後、北アフリカ支配を目指しました。その時、オスマン帝国が進出し、ヨーロッパ諸国の進攻を退け、「衰退の時代」が来るまでの間、北アフリカ地方の保護を保障したのです。

 そして、人種や宗教の違いによって国民を差別しなかったこともオスマン帝国の優れた点でした。ヨーロッパの学者たちも、オスマン帝国支配下のキリスト教徒たちが平等を享受していたと確証しています。

 また、アブドルハミード2世がユダヤ人シオニストたちに対し、パレスチナに彼らが自分たちの国を建国することを強硬に拒んだことも、優れた点に挙げられると思います。

■オスマン帝国の欠点

 スルタン一人が絶対的権力を持つ制度は、多くの混乱を呼び起こしました。

 オスマン帝国の中には、協力関係にない人種同士も混在していました。たとえば、ユダヤ人は自分たちの富に目を向け、キリスト教徒は彼ら固有の目的を持ち、その中でムスリムはその手に力を持ち得ないでいたのです。

 金銭に関する腐敗や賄賂が習慣化していったこと、そしてそれを改革できなかったこともオスマン帝国の欠点でした。

 無知無学が蔓延し、文化は帝国への背信を招くという考え方があったことも欠点でした。また、国内の至るところにスパイが潜伏し、一族の者同士でさえも互いを恐れるほどになりました。陰謀や策略が多くの人々の心を捕らえ、大部分の統治者たちが欲望に支配されました。そして公正や正義が次第に存在しなくなり、多くの裁判所が統治者の望む裁定を下すようになりました。

 スルタンたちはみな改革のための準備を進めはしても、すぐに「改革」という言葉は彼らの嫌悪するものとなりました。人々の多くはいつでもその結末を恐れて、「改革」という言葉に嫌疑の気持ちを抱いたのです。

http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/osman/index.htm
知らない事ばかりで非常に面白かった。
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そこで今日「オスマン帝国の解体」を借りてきました。これは今週末読む予定です。

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