また、昭和の芸能界の偉大な芸人が鬼籍にはいってしまって残念です。
人間は必ず「死にます、死にます」とはいえ寂しいものです。子供の頃ドリフターズとコント55号はお笑いの双璧であった。欽ちゃんと二郎さんの不条理な55号ワールドに、おなかが痛くなるほど笑わせてもった。
坂上二郎さんの相棒の欽ちゃんこと芸人萩本欽一は、今でこそ善人「みんなの欽ちゃん」に成り下がっているが、全盛期のコント55号時代の芸人萩本欽一は、善人ではなく、「いじめ」「素人いじり」「不条理」「低俗」など高度経済成長時代の人間に潜む狂気を演じていたと思います。
一方二郎さんこと坂上二郎さんが演じていたのは、アナクロニズム的善人であり、本来どこにでもいそうな小市民である。いわば我々の代表である。その小市民が高度経済成長のメタファーに包まれた芸人萩本欽一にいじられ、触発され、やがて同じ狂気へと陥る様をコントとして具現していたのではないか?そこに偉大なるコント55号が爆笑王としてあの時代に君臨していたのだと思う。
コント55号の代表作と言われる「机」を視ていただければお解かりだろうと思うが欽ちゃんの不条理な暴力的狂気に、二郎さんは巻き込まれる被害者だったが・・・・
小市民二郎さんは段々政治家欽ちゃんの狂気に巻き込まれいつしかその狂気の片棒を担ぐことになるのである。
二郎さんは我々小市民の分身であり、観客は、現代の狂気に巻き込まれている自分と重ねていったのかもしれません。
70年代漫才ブーム前のTVは欽ちゃんが所謂TV芸に支配されていたと言っても過言ではなかったと思います。
ところが、高度経済成長も終焉し1976年、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で、理不尽な芸風の欽ちゃんは、時代の変化を敏感に感じ、女性や子どものTV視聴者を意識した、柔らかい物腰でしゃべる芸風に変化していった。暴力的な二郎さんへのいじりに代わり、一般市民を「ダメだよー」といった女々しい調子のオネエ言葉が身について自らが小市民になってしまった。
その結果、欽ちゃんは相方である小市民代表の二郎さんを必要としなくなってしまったのだ・・・そしてコント55号は高度成長時代とともに実質的な終焉を迎えたのであった。
この曲は子供心にいい歌だといました。今の世の中にこのような唄は二度と出てこないかもしれませんね。二郎さんは古き良き時代の日本の象徴だったのかもしれません。
おそらくこの曲は学園ドラマの名作「3年B組金八先生」の原型なのではないかと私は長年信じています。
歌手志望だった“二郎さん” 「飛びます、飛びます」で一世を風び 【スポニチ】
「二郎さん」と呼ばれ、国民から愛された坂上二郎さんは鹿児島市出身。1953年、「NHKのど自慢コンクール」で鹿児島県代表に選ばれ優勝。これを機に上京し、歌手青木光一の付き人となった。
歌謡ショーで漫才や司会を担当した後、獅子てんや・瀬戸わんやの門下となり、漫才コンビを結成するが泣かず飛ばず。66年、東京・浅草で知り合った萩本欽一とコンビを組んだ「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」での体当たりギャグが大ブレイク。ボケ役を担当し、流行語にもなった「飛びます、飛びます」や、「イヒヒヒ」という笑いで子どもから大人まで幅広い人気を獲得し、テレビに引っ張りだことなった。
55号として活動中から俳優としても活躍するようになり、TBSドラマ「夜明けの刑事」シリーズでの人情味あふれる刑事役も好評だった。これに並行する形で念願の歌手活動も始まり、74年「学校の先生」を大ヒットさせた。
03年9月、脳梗塞に倒れたが、必死のリハビリで06年に復帰。10年8月、自宅で転倒し頭を強打して入院していた。