Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ(仮)

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:中東

2015年7月31日金曜日
とりあえず旅行記はこれで完結です。
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宿泊した旧シェラトンホテルのシュタインベルガー ホテル(Steigenberger Hotel Istanbul Maslak)から見たヨ―ロッパ側新市街 手前はイスタンブール工科大学

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シュタインベルガー ホテルから見たボスボラス海峡第一大橋

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ホテルを出た風景です。大学の周りはどうやらビジネス街のようです。
手前を歩くムスリムの女性はOLさんのようでした。チャドルには黒いリボンがいくつかついていました。女の子ですね。

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先程のOLさんはこの屋台で朝御飯を買う列にならびました。

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こちらの屋台も繁盛していました。

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ホテルのすぐ近所に地下鉄の駅İTÜ - Ayazağa,(ITUアヤザガ駅)の出入口がありました

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ホテル横のカフェ。
肝心のホテルの朝食ですが、アンカラが酷かったせいか、とても美味しく感じました。最高級の朝食でしたが、うっかり写真を撮り損ねてしまいました。


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いよいよ最後のホテルを出発です、最後の観光エジプシャンバザールへ

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9日間乗ったバスとも今日でお別れです。(;_;)/~~~


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皆さんこの旅行にたいへん満足しておりました。もちろん私も大満足です。

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たしか金角湾をまたぐ橋の上の風景

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エジプシャンバザール到着!1597-1664 1597年は日本では慶長の役が始まった秀吉の晩年にあたります。

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屋根は昭和っぽいですね。
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アラジン製菓店

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こちらもお菓子屋さんトルコは他の中近東諸国のお菓子と違って日本人好みの甘さ控えめで美味しいものばかりでした。
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日本語が上手な店員さんがイッパイネ!

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レトロな紅茶屋さん

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ナッツとフルーツのお店

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石鹸屋さん色とりどりのオリーブオイルソープは並べると芸術的ですね。

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ちょっと高級なブティック
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アーケードの外も活気があります。


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けっこう日本で売っていないチープな小物が多かった

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いかにも中近東のバザールへ行ってきましたという写真ですね。このお店の反対側でトルキッシュコーヒーのお店を発見、とってもいい香りでお土産に買い求めました。


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左のご婦人はダンスインストラクターのEさん。お話が上手でご機嫌なご婦人でしたがちょとSで、ちょとMの私を突っ込んで結構おもしろい掛け合いの会話が旅行の早々からできました。楽しかったです。

右側はSさん親子、なんと娘さんは都内の高偏差大学の現役女子大生、お母さんは看護婦さん。イスタンブールのホテルのレストランでBさん親子と私で2-3時間お話し楽しかったですね。下手すりゃ朝まで話していたかもしれませんね。

娘さんはラオスにバックパッカーで行って像使いのライセンスを取得したそうです!
私の故郷の水戸の高校に通っていたそうです。(娘の先輩が入学し直した大学に合格したのだから今はだいぶ進学校になったようです。でも・・・私が高校生の時は偏差値がだいぶ低かった私立男子校だったので、あまり高校のコメントができませんでした)

お母様は水戸より北の街で看護婦をしているそうです。私が脂肪肝だと「ド直球」で見破りました。参りました!

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すぐご近所のMさん親子・・・いやーあまりに近くて超ローカルなお話で盛り上がりました。親子三代+叔母さんで参加・・・元銀行で私が勤める会社の本店の入出金などを扱っていたとか・・・下らない話ができて楽しかったです。娘さんは私立の中学三年生、中高一貫の私学に通っている御嬢さん。この秋は奈良に修学旅行だそうです。
ボスボラス海峡クルーズでで一緒に撮った写真、おそらく戸惑っているかも?遠近法は間違ってませんよ、たぶん私の顔がちょっと大きいだけですから・・・

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S先生(奥)とN先生(手前)、同じ神奈川の中学の社会の先生です。S先生は若そうに見えて私より年上でした。毎年家族旅行をしているそうですが、娘さんが受験だそうで、同僚のN先生を誘ってトルコ旅行です。ちなみにS先生の娘さんは私の娘が通う高等科のすぐ隣にある都立T高校優秀な進学校です。

N先生は今回が初めての海外旅行で30代独身、彼女が沢山いるとかで・・・・お土産をたくさん買い込んでいました、生徒思いの良い先生ですね。スキーの選手だとか・・・


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つくばの某研究所の博士だったKご夫妻、1972年米国の研究所にお二人で渡米され山形出身の奥さまはそこで出産育児をされたとか、大変じゃなかったですか?と聞いても、周りに良い人ばかりいたので、ぜんぜん苦じゃなかったと飄々とされていました。K博士は秋田出身、戦国大名の佐竹氏についてもお話したり、温暖化や太陽のこと、核融合の話、大変興味深かったです。もう少しお話したかったです。
帰国後体調をこわしたとメールをいただきました。

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手前Uさん親子、後ろ一人で参加されたNさんとTさん。

Uさんは御主人も奥さんも娘さんも同じ有名航空会社勤務だったそうです。娘さんは転職され某有名保険会社役員秘書だそうです。優雅な育ちの良いオーラが全身から漂っていました・・・。三人姉妹の末っ子だとか。私ともお話していただいて楽しかった・・・。お母様は職業運び屋だそうで、米国に移住した次女さんのところに日本からの物を運ぶのがお仕事とか・・・(笑)
おそらく海外旅行の数は数えることができないでしょうね・・・


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Mさんの超強力なお母様と妹さん、強力な女性経営者キャラで・・・敵いません!
日本語で話しかけてくる店員に明らかに日本語発音で”안녕하세요?(アンニョンハセヨ)”と煙を撒き・・・痛快でした。

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明るいBさんご一家、高1の妹さんは少林寺拳法のアスリート、看護学科に通うお姉さんが看護婦になった暁には是非その病院に入院したいものです。キラキラネームのお話も面白かった。

なぜか、トルコ旅行に来られなかったお父さんのお話でもりあがりました。御主人は理系のエンジニアをしているそうですが、超天然・・・・最近サンダル履きの奥さまを高輪のスーパーに危うく置き去りにしかけた事件とか、高輪の御主人の御両親のお話とか・・・ご主人の偏食のお話とか・・・長嶋みたいなご主人の逸話に大爆笑させていただきました。

そうそう、確かエフェソスで写真にオーブ(Orb:玉響:たまゆら)がたくさん写りこんだとか・・・是非見せてください!メールで送ってね。

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おっと、エジプシャンバザールを離れる時間です。空港へ・・・

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鴛鴦夫婦のEご夫妻、ご主人は中村敦夫似で渋かったなぁ・・・
奥さんは明るくて・・・羨ましいご夫婦です。
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運転手の・・・・名前を忘れてしまった。アラファトさんだったかな?
結構ご婦人たちにモテモテでした。


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製薬会社でシステムエンジニアったKご夫妻、相鉄線沿線にお住まいで、横浜駅前の超ローカルなお話をさせてもらいました。御主人の会社のお薬Rは我が家の常備薬、いや必需品、今回の旅行にも持参しました。

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トミーさん、今年の春にトルコ旅行を計画したのですが大雪でキャンセルになってしまってのリベンジだそうです。この写真を待ち受けにしないでくださいねっていうジョークに巧く返せなくって・・・・この写真を数日間スマホの待ち受けに使わせていただきました。(笑)団体職員だそうで、今度当りクジの番号を教えてくださいネ。

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Nさんはカッパドキアでお味噌を頂いたのですが、これが美味しかった!!!
Mさんご一家も近所ですが、Nさんも私の定期券で行ける近所にお住まい!
トルコは複数回きておられる海外旅行のスペシャリスト!この方も何回海外旅行に行ったかより何か国行ったと数えられる方のようです。
私は・・・12の国と地域です。

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第二ボスボラス海峡地下トンネルの工事現場。


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空港で皆さんと別れを惜しみました・・・

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Bさんご一家は埼玉の都との境の街Bさんは千葉出身でした。、Uさんは西武線沿線の都民、Sさん親子とつくばのK博士ご夫妻が茨城県民、残りが全員神奈川県民という恐ろしく私の生活環境に近い方ばかりでした。

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ツアーの皆さんとは、価値観が近くって、話があって打ち解けやすかったなぁ・・・

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Mさん親子、家内が胃を悪くしたとき胃の薬を頂けてたすかりました。
美白美人の娘さんとは度々旅に出られるみたいで・・・今度お母さんの代わりに私と二人旅しませんか?(笑)冗談です。

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九州出身のJROBのEご夫妻。だいぶビデオを撮られていました。
もしよければ、YouTubeにUPしてこのブログに転載させてください!

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フライトの時間がディレイとか・・・・帰りもバスでの機体乗り込み・・・大混雑でした。

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我が家は、昼ごはんでバーガーキングで粗末な昼ご飯を食べていたので座るところもありません。ちなみにWHOPPER(ハンバーガー)とコーラLで600トルコリラ!
いくら空港とはいえ・・・不味かったし・・・コスパが高く不愉快でした。

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やっとゲートが開きバスに乗ってTK050便へ
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後ろ髪を引かれる思いでタラップを登りました。
とっても楽しかったトルコ旅行でした!

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パーソナルモニターではオンデマンドで数えきれないほどの映画が見放題で。12時間のフライトはX-MEN:フューチャー&パストヘラクレス、他1本(思い出せない)の映画計3本ばかり観てひと寝入りしたらあっという間についてしまいました。

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2015年8月1日土曜日7:30定刻通り成田に無事到着しました。

昼ごはんはうなぎか回転すしかでラーメンか?蕎麦?・・・・トルコ料理以外は何でもOKです!結局、鰻も天丼もラーメンもスイーツも食べれるたまぷらーざ駅前の無添くら寿司へ!たまプラーザは羽田空港とシャトルバスの発着駅のせいか店内の海外旅行帰りとおぼしき家族連れが我が家だけじゃなく沢山いたのには笑いました。
考えることは皆同じですね!

8/1(土曜)の夕方スーバーに買い出しに行きました。
トルコ旅行に行く直前財布を落としていたので旅行中落し物忘れ物には気を付けていました。

ところがです、家について財布がないことに気がつきました・・・
レジでは家内が足らないからお金を出そうとしたし、車に乗る直前に財布があることは確認してました。車にの中にもありません。

急いでスーパーの臨時駐車場へ向かいました。池袋の癲癇医師ほどではないが車を危険運転ギリギリですっ飛ばし駐車場へ!すでに暗くなった駐車場は車の影がありません。駐車していた位置に車のヘッドライト照らすと・・・あっ、ありました!私の財布!出発直前にも落とし、帰国直後にも落とし、どちらも1時間もせず私に帰ってきました!なんと不思議な偶然?それともただの間抜けなオジサンか?

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☆ホテルを沢山泊まり歩いたので、色とりどりのシャンプーリンス類は我が家の風呂場のインテリアになりました!ちょっといいお土産です!

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例のカッパドキアで買った絨毯
手織りの絨毯は夏裏面をつかうのだとか・・・生成の柄は我が家の居間にぴったりです。さっそく裏っかえしで我が家に引きました。

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出発直前に食べごろになりかけていた我が家の葡萄!
無残にもほとんど鳥さんたちの胃袋に収まったようです。
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それでも幾つかは収穫できました。

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これだけです。

10日も炎天下水を与えることが出来なかった玄関と前の植木鉢と室内の観葉植物は干上がって、全滅してしまいました。家内が義母に借りをつくりたくなかったせいで、大切な植木が・・・・無残でした。




【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 










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ブログ記事は、もうずっとトルコ旅行の話題で安倍談話についてもコメントしたいのですが、トルコ旅行記を今日明日中に書きあげてしまってからにします、申し訳ございません。<
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トプカプ宮殿を出ると直ぐにトラムの路線があり、ちょうどトラムが走ってきました。
トラムがある街は大好きです。ちょっとオジサンでも路面電車は男の子の血が騒ぎます。郷愁というものでしょうか・・・「ちょっと乗ってみたいなぁ!」と思ったら、
あら~アッラー様に私の願いが届いてしまった。

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ガイドのテオさんが予定にはなかったが、皆ちょっとお疲れモードが出始めたので、
グランドバザールまでトラムに乗って行くとの気遣いをしてくれました!
 ! الله أكبر  ’allāhu ’ákbar! !الله أكبر アッラーアクバル!神は偉大なり!
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さすがにイスタンブールのヨーロッパ側、ヨーロッパの街角そのものです。

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ガイドのテオさんがトラムに乗る手順を説明してます。トラム運賃4リラ(約200円)もツアー代金かららしいです・・・
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トラムのギュルハネ駅です。 トプカプ宮殿の出口からは普通に歩けば2~3分の距離です。
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プリペイカードで纏めて払うので中高生の修学旅行のように列を作って入場です。
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先に反対側の電車が着てしまい狭いホームで我々日本人は迷惑なオノボリサンでした。
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最近までJRにお勤めしていたEさん(サングラスの紳士)は電車を視る目が生き生きしていました。

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我々が乗ろうとしているトラムです。混んでいなければいいのですが・・・
ガイドのテオさんは混んでいると言っていましたが、「いや~空いてる!すいてる!
吊り輪に触れるじゃないか!」東急田園都市線で痛勤する我々の感覚からすればガラガラです(笑)
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乗り心地は悪くないし、景色が見えて観光には地下鉄よりずっといい!
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二駅目のコンスタンスチヌス(Çemberlitaş駅で降りました。
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東京ほどではないにしても、イスタンブール市街の電車インフラは整っています。

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私が幼かった昭和40年代前半故郷のも路面電車が走っていました。路面電車が無くなった水戸の街は車社会となり、街は郊外に大きく広がりましたが、かつて路面電車が走っていた市の中心部は今ではシャッター商店街になってしまいました。もし路面電車を廃止にしなければ、道幅がけして広くない水戸の大通り商店街から買い物客は消えなかったかもしれない。イスタンブールのトラムを見てふと良いなぁと思いました。東京や横浜でもトラムを復活させたらどうだろうか?

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偶然写したケバブやさん前の姉さんはケバくて後ろの姉さんはブーでした(笑)
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グランバザールに向かうVezirhan通り
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グランドバザールの場外ですが既に活気あふれています。
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地図を見ると、トプカプ宮殿からの一直線の道の一つ、トラムに乗らなければおそらくこの道を歩いてきたのだろう。
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グランドバザールの入り口の一つです。
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屋根こそないが入り口周辺は活気がある・・・情緒ある商店街である。
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このバックの仕入れはこの店の御主人がしたのであろうか?
街路樹にディスプレイしたバックがちょっといい絵になっている!
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ここはアメ横ではありません、グランドバザールのからすみ屋さんでした。
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一時間弱の自由時間、私は迷宮の探究をしたかったのですが、家庭内の力関係から、秋の娘の学園祭で、今年の演目”アラジン”の”ジニ―役”で踊る娘の衣装を買うことになりました。
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さあ~て、衣装は~・・・「あら~ちょとパパ!・・・魔法のランプ!」
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「もし、本物のジニ―が入っていたならその魔法のランプ買うよ!”Do Genie has 
entered this lamp ?”そしたら店のオヤジ・・・「社長さん、ホンモノ!」だそうだ・・・(笑)
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グランドバザールが出来たのは1461年オスマントルコ帝国時代である。日本では応仁の乱の直前、室町幕府の勢いが衰え始めた頃です。応仁の乱の頃そのまま歴史的建造物が、現役で活躍している。時代と共に増築が繰り返され、64のストリート、22もある出入り口、3600を超える店舗を有る世界最古のデパートの一つ。増殖を繰り返したグランドバザールは、果てしなく続くまさに迷宮です。

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それらしき店を発見!家内が交渉開始です、ちょっとサイズが合わないから買わないと駆け引きで他の店に行こうとしたら、合うサイズをすぐ傍の倉庫から持ってくるから10分待てということになった。もちろん帽子の分がタダとなり契約終了となったが、10分経っても店のオヤジは返ってこない。
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本当に帰ろうかと思った15分後、ヒーヒー息を切らしオヤジが帰ってきた。
ぴったりの水色のコスチュームを1万円でお買い上げ!
作る手間を考えると買った方が良いのだと・・・・これで毎年八重桜祭前に、義母と家内が大慌てで衣装つくりのミシンを踏む手間が今年はなくなりました、めでたしめでたし!でも、なんだかんだ言って毎年孫の衣装を縫うのが楽しみだった義母だったので、来年娘は引退だから義母の最後の楽しみを失くしたかも。
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奥まで行くと絶対に迷いそう!
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あっというまに時間が経ち集合時間、もう少し見ていたかったのだが明日エジプシャンバザールにも行くし・・・ 諦めて我々が入ったグランドバザール入り口のすぐ外にある奥さんが日本人の”からすみ屋さん”が集合場所だったので、集合場所へ

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こんどは歩いてアヤソフィア近くの駐車場に停まっているバスに向かいます。
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この地区はスルタンアフメッドと呼ばれ、イスタンブール観光の目玉が歩ける距離に収まっています。
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この辺りはイスタンブール隋一の観光スポットなので、街は、観光客や地元の人で賑わっています。

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ぞろぞろ歩く私達ツアー およそトラム一駅分歩きました。

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ガラタ塔は1348年に建てられた、日本では足利尊氏が室町幕府を開き、南北朝の混乱で楠正成の子楠正行が四条畷の戦いで打ち死にした年にあたる。
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(1900年前後にフランス人が撮影したガラタ地区とガラタ橋の写真)

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昔から絵になっていた。

さて、魅惑のサンセットボスボラス海峡クルーズに乗船です。
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【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 
















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第8日目7月30日木曜
アンカラのホーンテットマンションホテルを朝7時出発です。約450Km離れたイスタンブールへ出発です、そしてイスタンブールで観光です!バスも毎日乗り慣れてしまったおかげで、450Kmといってもさほど驚きません。とはいえ、朝、東京のホテルを出て京都観光するようなものですから・・・・なかなかのハードスケジュールでした。
でもこの1日はトルコ宿泊最終日とあって充実の1日でした。

アンカラを出て、イスタンブール旧市街で昼ごはん、ブルーモスク⇒アヤソフィア⇒トプカプ宮殿⇒トラムに乗って⇒グランバザール⇒魅惑のサンセットボスボラス海峡クルーズ⇒民族舞踊とベリーダンスディナーショー⇒ホテルにたどり着いたのは11時頃、花火で言えば花火大会の最後に上がるフィナーレの大きな尺玉みたいなものでした!

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左が団体職員の美人一人旅 通称トミーさん 真ん中が高偏差値大学に通い、ラオスで像使いライセンスを取得した美人大学生Sさん 右後ろは美人看護婦お母様です。
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アンカラで一番の目抜き通り、昨日はダラダラ歩いていたのでこの手前で引き返してしまいました。太い道 緑地帯があって・・・銀座のようなブランド店がならんでいました。

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現トルコ大統領エルドアンが、アンカラ郊外の軍の施設があった土地に建設した新しい大統領官邸。伝えられたところによると、建設費は6億1500万ドル(125円で計算し約770億円)。作った理由が旧官邸にはゴキブリが沢山出るからだそうです。
半周したが皇居と同じくらいの広さだったと思います。※写真はひょとすると政府の別施設かも

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トルコ国民が尊敬してやまない英雄アタチュルク初代大統領の銅像

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アンカラ郊外
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アンカラにあるトルコのテーマパーク、結構広かった。緑の建物はコンヤのメヴラーナ霊廟を模したパビリオンのようですね。

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アンカラとお別れです。ほとんどアンカラ市内の観光はできませんでしたが、緑あふれるアンカラに数日滞在しても面白そうでした。

アンカラを出て、黒海に近い高原を走る高速道路は日本の第2東名を走っているような日本の風景に近かったです。

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Sapanca湖
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そろばん塾経営のM先生の直観的感でイスタンブール手前でトイレ休憩 この先見事に渋滞してトイレに近い方全員助かりました! さすが御明算!

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ここでヒマワリの種買って食べたのですが、やはりヒマワリの種はリスが食べるべきです。

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イスタンブールが近くなってきました!ほんとモスクが沢山あります。でもトルコ人は日本人並みの宗教感覚です。

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マルマラ海が見えてきました。瀬戸内海の風景に似ています。この辺りでは渋滞は解消していました。
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トルコの首都圏の郊外風景が延々続きます。

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とにかく沢山の船が停泊しています。

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日本のIHIが建設中のイズミット湾横断橋です。ぼやけていますので、完成予想図です。
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地図

イズミット湾横断橋は完成すれば世界第 4 位の長大吊橋となります。この橋の完成はトルコ最大の都市イスタンブルとマルマラ海の南に広がる都市との時間的な距離を縮め、物流、通勤・通学、観光と周辺各地の人々の生活に大きな恩恵をもたらすものと期待されています。

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だいぶイスタンブール市街地に入ってきました。イスタンブールは細長い地域に1400万人の人口が密集しているので、市街地の広さは日本の首都圏にも引けをとらない感じだ。ちなみの日本の首都圏の人口は3400~3700万人。

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順調だった高速道路は、ボスボラス海峡大橋を目前で大渋滞スペシャルな抜け道があるとのことで高速を降りました。

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あぁ!ボスボラス海峡大橋が見えた!カシャ!うっ!樹が邪魔して見えません!

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気をとり直して撮り直しです。

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橋を渡りだすと第二ボスボラス海峡大橋が見えました

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望遠切り替え拡大!

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イスタンブールヨーロッパ側 旧市街が見えてきました。

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アジア側です。

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ボスフォラス海峡立つ塔、乙女の塔(クズクレ)が見えます。

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ヨーロッパ側に入りました。

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ガラタ橋から金角湾とシュレイマニエ・ジャミイ

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ここからボスボラス海峡クルーズが出発します。その2で詳しく

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スイルケンジ駅

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ガラタ塔 金角湾とボスボラス海峡のランドマーク、絵になります。

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ガラタ塔は東ローマ帝国時代には同じ場所に石の大きな燈台兼要塞でした。
第四回の十字軍で破壊され 1348年ジェノバ共和国によって66.9メートル9階建ての石塔として建設された。


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【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 









 


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2015年7月29日(水)第7日目。
7日目はカッパドキアを立ち、世界最古の鉄器文明であるヒッタイトの遺跡であるボア疲れボアズカレを観光して首都アンカラへ移動。アンカラでは若干の自由観光が楽しめた。移動距離はカッパドキ~アボアヅカレが約240Kmアボアヅカレ~アンカラ間が約210Km 7日目もだいぶバスに乗った1日であった。
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カッパドキアボアツカレ間は、高速道路ではなくほとんど田舎の一本道を通って行ったので、おそらく、赤い線の道だと思う。拡大図

7日目のカッパドキアに登る朝日!実際は写真では表せない荘厳さがあった。
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そして振り向けばご来光を観に上がった気球の大群である。

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やっぱりふざけたヒルトンのハマムなんかに入らず気球に乗った方が良かったかもしれないと、気球よりヒルトンでのハマムを選択したことを悔やんだ!
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気球といえば1998年~2000年佐賀市に3年ほど転勤で住んでいた時のことを思い出す。佐賀平野は日本の気球のメッカで毎年稲刈りが終わった10月から早春にかけて早朝の佐賀平野を気球が飛ぶのだ・・・特に毎年10月下旬から11月上旬にかけて約1週間開かれるアジア最大気球大会”さがインターナショナルバルーンフェスタ SAGA International Balloon Fiesta期間中は、毎朝、空いっぱいに気球が埋まっていて、壮観だったことを思い出します。

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カッパドキアの観光バルーン
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朝ごはんを食べ7時半に出発、洞窟ホテルで他のツアーの皆さんを拾い8時にカッパドキアを後にします。

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おっと、前日夕方の予定だった陶器工房もしっかり朝から立ち寄りました。
朝の8時だというのに、陶工の職人さんたちは早朝残業でその妙技を披露してくれました。
工房があるアヴァノス (Avanos)はヒルトンホテルがある同じ町で、赤い川(グズル・ウルマック)の川底の赤い土から作られる陶器が有名です。町の男性の70%が陶器関係の仕事だそうです。そういえば、佐賀市も陶器で有名な有田町や伊万里市が近所にあり、陶器と気球は何か関連性があるのだろうか???、ずっと轆轤を回したり集中して絵付けをすると、空が見たくなるのかなぁ・・・まぁ関係ないか・・・・
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この職人さんシュガーポットの蓋と、シュガーポットを目分量であっという間に作り、蓋とポットも寸分狂わずピタッと嵌る名人芸を見せてもらいました。

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それにしても・・・根気が要る仕事ですね・・・私のブログの更新もそうです。
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トルコの花、チューリップを青い装飾柄で囲むのタイルのようです。
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昨日我が家は絨毯を買いましたのでここは別のツアーのお客様が現地ツアー会社の儲けを払う番ですょ~!と心で思っていましたが、ふと見れば、家内が買う気満々・・ちょっと落ち着け!・・・そんな絵皿どこに飾るんだ!結局家内は買いませんでしたが、なかなか魅力的な皿やカップがありました

朝から出社して全然売れなかったら職人さんたちは可哀そう過ぎます。
この格安ツアーが成立するには誰かが買ってこのツアーが成立しているようなもの!でも数百円~のお手頃な陶器もあったせいか、結構皆さんお買い上げされていただいたようで、工房の方に笑顔で送り出されました。

さてバスはボアツカレに向かって最初のトイレ休憩です。
ここで私的にはこの旅行一番の大事件が起きました!

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写真には母娘で参加された美白美人のKさんと夫婦で参加されたつくばのK博士

ちょと土産物を見ていたので一番最後にトイレに入りました。すると突然便意を感じ、勢いよく生き物としての生理に従ったまでは良かったのですが・・・
ティ・ティッシュが無い!
ウエストポーチにもポケットティッシュが入っていない・・・・ああ、紙様!
そこで、
     「あの~ぅ・・・・”メルハバ!”すいませーん”メルハバ!”」
Someone tissue Do not have!!!
外には誰もいません・・・

ここは・・インド人のように不浄の手を使うか???いやいやいや・・・・
まてよ! そういえば、手拭用のペーパーロールが洗面台に有った 
人には観られたら人間やめますかというをフリーにした格好で外に出て・・・急いで2~3枚掴んで個室の中へ 水道でウエットティッシュ状にしてまずは清掃作業、最後に乾燥した1枚で仕上げ、個室内のごみ箱に包んで破棄・・・
作業終了!

おかげさまで、人間やめずに済みました。

バスは昼前にヤズルカヤ(Yazilikaya)遺跡に到着です

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ヤズルカヤは紀元前18世紀頃にヒッタイト人が作ったハットゥシャシュ帝国の神殿だった場所です。ヒッタイト最後の王、シュピルリウマ2世がトゥタルヤ3世を祀るために造られた場所とされています。
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この岩はなぜか様々な形に観えたのですが、この角度から見ると鼻をこする魔王かゴリラに見えたのでシャッターを切りましたが・・・見えます?
何故か古代の魔物が封印されていそうな雰囲気が漂います。気のせい?

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大回廊全体 ヤズルカヤには大回廊と小回廊があります。

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大回廊の神々のレリーフは摩滅が激しく、ほとんど原型が判別できないものが多い。このレリーフの中央は「天を支える二対の牛の神」なのだが、ほとんど判別できない。発見当時記録された模写図で判別できる程度となっている。この「牛」というのは古代世界で「聖獣」とされることが多かったのはクレタ島のミノア文明がそうであった。


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中央のレリーフは、左が主神「テシュプ」(天候神・雷神)、右が配偶神「へパト(アリンナ)」(太陽の女神)だそうです。

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小回廊へはこの岩の隙間を通って行きます。
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あちゃー!これじゃなんだかわからないね・・・・
あちこちおかりしてきました。
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ハットゥシリ3世大王ムルシリ2世の末の息子として生まれ、ムワタリの弟にあたる。子供の頃からあまり健康に優れなかったようである。そのため父ムルシリは夢占いに従ってハットゥシリをサムハの町の守護神であるシャウシュカ(イシュタル)女神の神官とした。彼は生涯を通じこの女神への篤い信仰を表明している。父が死ぬと兄ムワタリが大王に即位した。ハットゥシリは兄の下で、軍司令官(EN KARAŠ)および近衛隊長(GAL MEŠEDIUTIM)を務めた。ついで北方の強敵カシュカ族に対する最前線である「上の国」の長官に任命された。当時ムワタリは帝都をタルフンタッシャに遷しており、旧都ハットゥシャを含む地域の長官という重職への任命は、ムワタリの弟に対する信頼を思わせる。さらに、ネリクの町を失ったのち天候神信仰の中心地となっていた属領ハクピシュの副王に任じられる。ムワタリに従いカデシュの戦いにも従軍。帰還後、ラワツィンティヤのイシュタル神官の娘プドゥヘパと結婚した。 wikiより
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シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世
Tudhaliyaⅳ(トゥドハリヤ4世
大王ハットゥシリ3世の息子として生まれ、兄がいたにもかかわらず父の跡を継いでヒッタイトの大王となった。しかし父王の時代にアナトリア南部のタルフンタッシャで副王に封じられていた、トゥドハリヤの従兄弟にあたるクルンタが勢力を拡大して大王位の正当な後継者であることを主張しており、トゥドハリヤ4世はその対応に苦慮した。トゥドハリヤ自身、父がクルンタの兄に当たるムルシリ3世から王位を奪ったことに批判的で、父の側について王に背いたマストゥリという人物を批判していたからである。トゥドハリヤとクルンタの双方は互いに神々の前で友好を誓約することとし、その誓約を文書として残した。この時の条約文を記した青銅板がハットゥシャ遺跡のスフィンクス門の近くで発見されている。wiki
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41 ) 2山の頂上に立ってハットゥシャの天気神、。 42 )天の天気神、神格化山、ナンニとHazzi跨っ。他は彼の配偶Hepat(43)で示されているが、ここで彼を伴う一つは、私は2つの神聖な雄牛を保有し、SerriはHurriと呼ばれます。Hurrion言語では、SerriとHurriは、それぞれ、昼と夜を意味します。Hazziはフルリ人の国にあったアンタキヤ近くモンスカシアス、です。彼の名前は、通常のヒッタイト表意文字にここに表示されますが、これらの宗教的な要素とその配偶者のフルリ人の名の観点から(43)は、1つは、つまり、「Teshub」、神は彼のフルリ人の名称で知られることを意図したことを確認のおそれ、どちらが「天の天気神」を意味します。ハットゥシャの天気神(41)と神Sharruma(44)が認められており、階層内の最高ランクの神として、彼のキャップは、神-5重畳表意文字(半楕円)と6角フロントで、バックで飾られていますチーフ神の中で唯一の6正面角で尖った帽子を着用します。存在。43 )ヒッタイト帝国の主要な女性の神、Arinnoの太陽の女神、天国の天気神の妻は、それが発音されるべきであるように明らかに象形文字で書かれYozılıkayaで、Hepatuフルリ人のの名を冠します。他の女性の神々のように、彼女はギリシャの都市の王冠の形で終わる、高い極に身に着けています。しかし、彼女は、他の女神のものよりもはるかに高いです。彼女はヒョウの上に立って示されている。44 )神Sharruma。私は通常、彼の母親Hepatuが表示されます。フルリ人の私が持っているレコードはTeshubの息子であることを文章。彼の母親のように、私はまたヒョウの上に立っています。私は彼の肩の上に載っている、長い柄の斧を運ぶ。45 、46 )双頭のワシの上に立って2人の女神がまだのように同定されていません。

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剣神
シャッルマ剣神?

テオさん誰だったか忘れてしまいました・・・
























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冥府12神の行進は自分のスマホで巧く撮れました。

ヒッタイトは多神教で、この12神も多くの神々の中の12人で、それぞれ別の神様だそうだ。冥府12神のレリーフ歴史の教科書で見たレリーフの実物を観れて感激です!

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小回廊の冥府12神の行進のレリーフを撮る某大手企業社長秘書Mさん

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小回廊の出入口のトンネル
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第三の穴で何もないのですが・・・昔は神殿の一部だったわけだから何もないわけがないのだが・・・・何も解説がない。トイレだったりして(笑)
紀元前16世紀(3500年前)
日本では縄文後期、陸稲を栽培しはじめた頃である。
最近の説では岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかり、日本の稲作は紀元前40世紀まで遡る可能性もある。
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やっと麓のレストランで食事です。お味噌をくれたNさんと看護婦のSさんが写っています。

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ちょっとパサパサしたパスタでしたが完食しました。

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レストラン駐車場からの眺め・・・実際は雄大な景色でしたが、スマホなのでこんなものです。
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せっかくなのでこの写真もアップしました。
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もう一枚!

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いよいよハトゥシャシュの入り口、最近復元された城壁 6Kmあったそうだ。

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ハトゥシャシュは、今から4000年以上前の紀元前20世紀頃から史上初めて鉄器を使った、
ヒッタイト人が、紀元前18世紀頃に築いた王国の場所

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最初に目につく岩山

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ライオンの門からの眺め

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ライオン門( Aslan Kapi :アスランカプ)with K博士夫妻

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テオさんの説明だと、左の像は損傷が激しすぎたのでつい先日レプリカに代わったのだそうです。となるとつい、1~2ヵ月前に設置したことになります。私はレプリカではなく修復したと思います。
左の写真は5月25日に出発された方のブログ7日目ですから5月31日の状態です。
ちなみに、古代オリエント諸国では、聖なるもの、神や王位の守護神として、ライオンを用いたが、その中でも現存する最古のライオンの門の一つであるこの門こそが中国朝鮮を経て日本に到達し、神社の狛犬となったとのこと、狛犬の元祖です。 

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Bさんファミリーの美人姉妹とライオン門・・・もちろん美人姉妹のおかあさんも美人でした

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地下道「イェル・カプ=大地門・出撃門」の入口付近から見た風景

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突撃門(Yer Kapi :イェルカプ)の地下道

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突撃門(Yer Kapi :イェルカプ)出口 約70mほどの長さがあります。


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驚くことにトンネルは単に穴を掘って岩を積み上げたのではなく、トンネルの上全体の丘が、城壁のようなピラミッドであったのだ!

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ピラミッドの階段を登る為に一旦坂道を下ります。

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途中に仏様の裏に飾ってある金色の造花らしきものが捨ててあると思ってみてみたら、なんと天然の植物でした!
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ピラミッドの階段です。高さは20m、全長は250mもあります。

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このピラミッドはなんとなく人力で作ったことが理解できます。ですから同じ時代に
出来たエジプトのピラミッドも人力で建設したのでしょう。
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頂上付近尾根を突撃門のちょうど上にあるスフィンクスの門に向って歩いていくと・・・
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最初にライオンの門で石造を1000円で売っていたオジサンが驚くことに徒歩で追い付いてきて待ち構えていました。気の毒とは思ったが、誰も買ってあげませんでした。

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このスフィンクスもレプリカで本物はイスタンブ-ルの博物館に収蔵されているとのこと、まあトルコ国内とはいえ、石造を博物館に収納するのは、如何なものかと思う。
世界遺産なのだから、せめて、ハットゥシャシュの麓に博物館を造って収蔵すべきではなかろうか?

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頂上からは絶景が望めます。

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大城塞跡
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王の門(Kral Kapisi :クラルカプス)
こちらも見るからにレプリカで、本物は首都アンカラのアナトリア博物館だそうです。
美人姉妹のお姉さん・・ここはパーじゃないと、チョキだと負けだよ!
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レプリカだと言い掛かりをつけたら、王様に一発殴られました!

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さて、ボアツカレ/ハットゥシャシュ観光はここまで、このあとバスは田舎の一本道をひたすら走りました。皆さんも私も疲れて爆睡・・・・
気がつけばアンカラでのホテル、ホテルイチカレ(Hotel ICKALE)に到着です。
なんか枯れているホテルでした・・・一カラではなく二辛にしてほしかったなぁ、ココイチ(いまいち)の冗談です。
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なんだか道玄坂の上にある安っぽいラブホのような化粧いイメージの入り口。

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中のロビーは何だかディズニーランドのあるホーンテッドマンションのようなつくりでした。

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客室の目の前の壊れかけたレンガつくりの建物

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荷物を部屋に置き夕食までの時間およそ2時間弱、街を散策しました。

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まずは、知り合いに頼まれたトルココーヒーを買いにホテルの数件隣にあった、ミニスーパーへ入って驚きました!狭いコンビニなのに異常に多い紅茶の種類と量!

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コーヒーを挟んで両脇が紅茶なのです。しかもコーヒーはトルココーヒーではなく、ほとんどがインスタントのネスカフェでした・・・・おいおい!
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コンビニを出て、繁華街をめざし近道のつもりで並行する裏道に入ったのですが、
だんだん遠ざかっていく気配。持っていた地球の歩き方の地図ではあてにならず、

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戻るか、メインストリートに戻る決断をしました。裏通りも緑豊かな杜の都でした。

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ようやく左折できる道を発見したら、ホテル前のメインストリートからちょっと離れてしまっていました。奥に見えるのがホテル前の道。
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ホテル前のガジムスタファ·ケマル大通りを戻りアンカラの銀座であるクズライ通りへ向かうことにしました。

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途中地下鉄のホームで駅名と現在地を確認

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別の出口で出た所
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駅の入り口に駅名は書いてありました。デミテプ(Demirtepe)駅


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ガジムスタファ·ケマル大通りは緑が豊かで表参道のようです。

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立体交差するNecatibey通りで家内と娘が戻ろうと言い出す。私はもう少しでクズライ通りなので行きたかったのだが、あとどれぐらいか見当がつかず、引き返しました。

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帰る途中チキンの豪快な丸焼き屋さんがあり良い匂いが立ち込めていました。

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八百屋さんのようです。時間があれば店内に入りたかった。

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ホテルに戻り、夕飯でしたが・・・このホテルがワーストでした。
日本食がものすごく恋しくなった瞬間です。
食事の後、家内と娘は部屋に戻ったのですが、Bさんご家族三人と、Sさん母娘さんと二時間くらい話し込んでしまいました。7日もいっしょに旅をしているうち皆さんと打ち解け仲良くなり、修学旅行の夜のような楽しさを感じました。旅の終わりも近づき、少々さびしく感じはじめた夜でした。
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ホテル1階のレストランからG階のロビーを写しました、まさにホーンテッドマンションそっくりでした。

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さて、トルコのトイレ事情ですが、ホテルのトイレは前時代のウォシュレットのようなビデがついていますが、これがほとんど肛門に当らずお尻をなでるように出ています。
今一つ使い方を理解できませんでした・・・おやすみなさい。
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スマホの写真をアップするのに一苦労で、2週間以上カッパドキア旅行の記事ばかりになってしまいました。いつもの保守派ブログとかけ離れしまい閲覧数が激減してきてしまいましたが、申し訳ないが最後までやります!夏休みと思って、もう暫しお付き合いを!<(_ _)><(_ _)><(_ _)>

2015年7月28日火曜日快晴

第6日目は終日カッパドギア観光です。

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カッパドキアのヒルトンホテルの朝です・・・カッパドキアはエルジエス山の麓、標高1,200mほどの高原地帯で朝は比較的涼しかったが、世界的な猛暑なのか、例年に比べたら涼しくないそうです。

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上空にはバルーンが浮かんでいます。


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ルクソールのような深刻な事故は起きていないようですが、死亡事故も含めカッパドキアでは気球事故が頻繁に起きているようです。乗るのはあくまでも自己責任です。
娘と一緒だったので残念ながら今回は遠慮しました。因みに料金は25000円ほど。
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ヒルトンの朝食です。朝九時出発でしたのでゆっくり8時頃にしてもよかったのですが、ほとんどの方が開店の6:30には”おはよう!ギュウナイドン!”と言い合っておりました(笑) ツアーの方々とは実質初日の2日目からすぐに打ち解けましたが、6日目にもなるとお友達感覚でした。

この日の朝は横浜市営地下鉄沿線にお住いで、お一人で参加された主婦ナガシマさんから頂いた手作り味噌で食べた朝食バイキング生野菜の美味しいこと!日本で食べても美味しい味噌でした。おかげでこのトルコ旅行で食べた食べ物の番付で、
美味しさが東の横綱になってしまいました。西の横綱は蜂の巣つきの蜂蜜かなぁ?

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火山活動と浸食によって面白い形をした岩峰が連なっています。

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洞窟ホテルCCRはウチヒサールの要塞の麓にあります。ウチヒサールは、カッパドキア地方で最も高いところに位置する村で、村の中央にそびえる大きな岩の要塞がシンボルとなっています。
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バスから撮影した洞窟ホテル

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夜景は幻想的でした写真は借り物


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カッパドキアは正式には「ギョレメ国立公園とカッパドキア奇岩風景」として世界遺産に登録されています。

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まずはカッパドキアのモンサンミッシェル、ウチヒサールをもう少し近くで見学します。
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まるで鬼が島のようです。でも、カッパドキアのモンサンミッシェルと言うことはカッパドキアの江ノ島ということか・・・

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付近の岩も住居等に利用されていたようだが、現在洞窟を住居にしている方は観光用とか?

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岩壁にたくさんの穴があけられており、鳩を飼い、肥料用に糞を集めていたそうです。

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アントニオ・ガウディが凡人に見えるシュールな自然の造形美を利用した住宅跡です。

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まるで別の惑星に観光しに来た気分です。

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さてこの後、絨毯工房に連れていかれました。

http://www.geocities.jp/nhkbt/toruko/6-day/carpet-1.jpg
まさか、私がここで絨毯を買うとは思ってもいませんでした。

トルコ人のジャパネットタカタの高田明元社長が待ち構えていました。

日本語堪能なセールストークは連日の営業で鍛えられているせいか、フーテンの寅さんのような流れるような名調子・・・証券営業を20年してきた私も感心する計算されたトークでした。

実は家内が3万円上限で玄関カーペットを買う腹積もりがあった。イスタンブールのバザールより製造直売の工房であれば機械織りの安いカーペットを掴まされることはないと思ったのが運の尽きでした・・・・

不良おやじトルコ旅行 吉本トルコ絨毯工房NO2

そうそう、このおやじ・・・芸風は変わっていません。もうちょっと芸は巧くなっています。

当初28万円の生成(きなり:毛色が違う羊の染色していない毛で織った)絨毯2畳に半畳の似た柄の生成のカーペットあわせて10万円で買ってしまいました。私も交渉ごとはけっして言いなりにはならないと、買わないつもりで値切って、「この大阪商人!」と言わせたのですが・・・・どうなんでしょね?まあ、日本人としては善戦した方かなぁ?と思ったのだが・・・

手織りであればトルコの物価を考えれば織子さんに渡る賃金を考えると申し訳ないとまで思ったのですが・・・・最後持ち帰りにするからカーペットもつけての値段じゃないと買わないと言い切った値段なのだが・・・契約終了後・・・持ち帰り用のキャリーバックをサービスで頂いてしまった。えっ!オーマイアッラー!

・・・・なんだ、俺は勝ったと思った値段交渉に負けたのか・・・・
最後リラではなく日本円でカードを切ったからキャリーバックをくれたのかなぁ?
ちょっと自己嫌悪になった。でも持ち帰ったカーペットを家に帰って敷いてみると、
部屋にマッチしてなかなかいいじゃないか!良い買い物をした・・・と思っている。

因みに手織りの絨毯は、夏裏側にして敷くというので、裏側で敷いています。

気を取り直し洞窟レストランで昼食です。

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レストラン内部です。

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名物の壺焼きです。蓋をあけるパフォーマンスを見せていただきました。
絨毯商人ほどではないが、上手な日本語でした。
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壺の中にご飯と具が入っているのではなく、具だけが壺焼きでした。
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隣の家内と娘は鱒の塩焼きの方を注文しました。

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私は壺焼きのほうを頂きました。日本のチェーン店ではない牛丼屋の牛丼に近い味でした。なかなか美味しくトルコ旅行の食べ物西の張出大関かもしれません。ちなみに西の大関はトルコのパン、東の大関はカッパドキア巻ですかね・・・

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洞窟レストランのぶどう棚・・・そういえば旅行直前に色つき出した我が家のぶどう棚はどうなったかな?少々心配になりました。事実帰ったら近所の鳥たちの御馳走になっていました。

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レストランから見えたカッパドキアを流れるクズル・ウルマック(赤い川)。赤い川は、
トルコで最も長い川(約1182km)です。この川はトルコ東部から始まり、中央アナトリアを通り、黒海まで流れます。

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ヒルトンホテルの前付近も見えました。川が流れているとは気がつきませんでした。

次はカッパドキア観光の目玉の一つカイマルクの地下都市見学です。
カイマクル地下都市は地下8階(深さ55m)までありますが、現在見学可能なのが地下4階部分までです。
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ancient derinkuyu underground city

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地下都市入り口です。

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入り口付近はちょっと混雑状態です。

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いよいよエンター・ジ・アース!
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 1960年代の始め、村はずれの小高い丘の一角が、春の長雨のせいによるものか、ポッカリと口を開け巨大な洞窟の入り口が姿をあらわした。村人が、ランプをかざして、中に入ったものの、洞窟は、あまりにも巨大であり、どのくらい続いているのか見当もつかなかった。無気味になった村人は、それ以上踏み込まなかったということだ。

その後の調査の結果、その巨大な洞窟は、相当数の人口を擁していたとみられ、驚くべきことは、人々の一時的な避難場所というのではなく、恒久的な都市としての機能を持っていたことが判明した。確かに、それは、巨大な洞窟と言うより、地下都市と呼ばれるにふさわしい機能を備えていた。

都市の中心部には、垂直に空気の通風孔が、貫かれており、各階層は、傾斜した通路で連絡されていた。通路と通路の節目には、大きな丸い石の扉がはめ込まれていた。
この大人の背丈の1、5倍はあろう石うす状の回転扉は、敵が攻めてきた際や緊急時には、ころがして遮断するためのものであったと思われている。

また、家畜類も地下深くに収容したかったらしいが、動物の持つ本能のせいかそれは難しく、比較的地表に近いところに留めざるを得なかったようだ。台所の煙りの排出口には、朝露や夕露に煙りが分散するように、木の葉を撒いておくという念の入れ方だった。

こうして、発見された巨大な地下の洞窟は、いつしかイェラルトウ・シェヒル・・・地下都市と呼ばれるようになったのである。それは、地底深くまで張り巡らされた巨大なアリの巣のようでもあり、見る者に深い衝撃を与えて止まない代物なのである。このような地下都市は、その後、次々と発見されていった。発見された地下都市は、今では、大小4百以上にのぼると言われている。しかし、現在まで、発掘、調査はほとんど進んでいないのが現状である。

その中でも、カイマクル、デリンクユ、オズコナークと呼ばれる三つは、カッパドキアを代表する地下都市と言われ、それらの中でも群を抜いて巨大なものである。
カイマクルは、地下8層にも及ぶ構造を持ち、あたかも、蟻の巣のように複雑に入り組んでいた。1万5千人もの人口を擁していたと推定されている巨大な地下都市であった。

通気孔は、地下の最下層より穿たれており、優に百メートル以上はあった。この通風孔には、横穴が開いており、地下都市の各部分に通じていた。

デリンクユに関しては、現在までに、地下8層までが確認されてはいるものの、地下12層まであるらしく、未だに未発掘の状態である。通風孔の長さは、実に120メートルを越すものと見られている。デリンクユには、このような井戸が52本もあり、6千人もの人間が住んでいたという。この地下都市には、少なくとも5本以上の非常用のトンネルが穿たれており、その内の一本は、9キロもあり、隣のカイマクル地下都市に通じていたらしい。精密機械のないこの時代に、数十メートルならいざ知らず、いかにして地底を9キロも穿って地下都市同士を連結させることが出来たのかは大きな謎と言うしかない。

オズコナークと呼ばれる地下都市は、いまだに詳細がわからないものの、発見されている地下都市では、最大と言われており、11層まで認められるも、下層部はほとんど未発掘状態である。
一説によれば、この地下都市には6万人という驚異的な数の人間が住んでいたと言われているのである。

これは、驚愕すべき数字である!

* ローマの迫害を逃れたキリスト教徒 *

これらの地下都市は、途中から、住み着いた初期キリスト教徒たちの手によって拡張され、何世紀もかかって、掘り進められたことは確かだ。

キリスト教徒は、今から2千年ほど前、この地に入って来た。彼らは、凄まじいローマの迫害から逃れるために、カッパドキアの不毛の地を隠れ家として選んだのであった。生活するには、到底値しない環境だというのが、その理由であったらしい。彼らは、夏は灼熱地獄、冬は身も凍りつく酷寒の環境のこの地を選び、もともと存在していた地下都市に住み着いたのである。

【NATIONAL GEOGRAPHIC】2015.03.31

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アリの巣のように穴が張り巡らされています。

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どう考えても鉄器で掘ったと思われます。青銅器では無理でしょう!カッパドキアのほど近くヒッタイトは紀元前14世紀に人類で初めて鉄器を使用した。

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狭い通路で時々頭をぶつけます。帽子を忘れたことを後悔しました。

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垂直の空気孔上も下も見えません、スマホで撮るのが落としそうで怖かった。

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いままで赤い矢印で地下へ下るでしたが、ここから青い矢印に替わりました。青い矢印は出口に登るです。
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古代は松明だけが頼りと思うが・・・真っ暗な地底に何万人も住居したとは思えません。

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炊事場の跡で黒く煤けています。じゃあ他の場所はどうやって明かりを採ったのであろうか?
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竈の煙は岩が吸ったとのことだ・・・・そんなに通気がよさそうな岩には見えなかった。

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出口です。

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お土産屋をひやかし、35リラを値切り20リラ(約1000円)でカッパドキアの奇岩を模った庭の置き灯篭を買い有名な奇岩スリーシスターズへ

スリーシスターズがあるのはカッパドキアのウルギュップについてお土産屋を抜け
スリーシスターズへ・・・・・
オッ!さっき買った庭の置き灯篭に似たモノが・・・・・10リラで売っている・・・・トホホ

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スリーシスターズにご対面 メルハバ!

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なぜ、ブラザースではなくてシスターなのか?
う~ん・・・・ブラザースにすると下品ネタをオヤジ達が連発するからかも?
 「お前のは真ん中の位かぃ?」ダメダメ下ネタ・・・下品下品・・・・

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エレガンスなお帽子を被ったご婦人に見えますね・・・3姉妹の御母堂様かな?

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           私のです

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ウルギュップのスリーシスターズ近辺の風景

カッパドキア地方には、エルジェス山とハサン山からもたらされた凝灰岩の地層が広がっている。真白く見えるのは凝灰岩。凝灰岩は大規模火砕流堆積物、いわゆる「シラス」である。侵食のすすみ方ちがいにより、様々な奇岩地形を生み出している。

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また、ローズバレーに代表される赤い地層の場所もあります。形成年代は
凝灰岩よりも下にあるから凝灰岩古いようです。

次の見学スポットらくだ岩がある赤い岩が多いデルベント渓谷へ。

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入り口の高い場所は
凝灰岩ですが、谷を下っていくと赤い岩にかわります。

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上部の岩が頭のように見え、兵馬俑の胡人(トルコ系騎馬民族)の人形にも見えます。左から3番目の岩はおとぎ話の猫か兎の化け物にも見えますね。

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手前の岩は髪の毛をセットしたご婦人の後ろ姿にもみえます。なんだかファンタジー小説が書けそうです。

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巨人の群れが、社交ダンスをしているようにも観えます・・・貴方はどう見えます?

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これは迷わず「フタコブラクダ」ですね。

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岩々に名前を付けお話ができそうですね。

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先ほどのらくだ岩は谷を挟んでの撮影でしたが、すぐ傍まで登ってみました。
最近この岩に登って撮影をする輩が後を絶たないとのことで、最近柵を作ったとのこと。そんなことをするのは支那人だろうなぁ・・・

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ラクダ岩から駐車場を臨みました。ちょっとした谷は結構滑ります・・・へたなサンダルでは登れません。ヒールの人はいませんでしたが・・・ヒールでは無理です。

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バスは次のスポット”
セルベ野外博物館”へ向かいます。途中バスの車窓から見えた別の谷の写真です。一番手前の岩は三角帽子をがずれ顔の半分が隠れたカメの顔に見えました。白雪姫に出てくる三角帽子を被った小人の群れにも見えますね。中央やや右には笹を食べるパンダに見える岩を発見!あまりに奇岩が多くていちいち名前がつけられないのでしょうね・・・

セルベ野外博物館(セルベ パッシャバー) に着きました。

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まるで”きのこの里”ですねと近くの同じツアーの人にに声を掛けようかと思ったが・・・・、

あれ?”たけのこの山”?・・・・
どっちだ?と、その場でほんと下らないことで無駄に悩みました。
(苦笑)ちなみに若干たけのこの里の方が多く売れているとか・・・

閑話休題!セルベ(パシャバー)は古くからキリスト教の修道士達が住み初期のキリスト教の教会があったとのことです。

住居や聖堂はキリスト教徒が去った後たくさんのトルコ人が生活をしていたそうですが 時に岩が崩壊して危険とのことで普通の住居に引っ越ししているそうです。

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やっぱり”たけのこ里”かな?・・・しつこい?この話題で行間を埋めちゃまずかろう。
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左の岩はマンガおじゃる丸に登場する小鬼のアオベエにそっくり・・・

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樹に隠れて窓が写っていませんが正面の岩の中に入りました。

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先ほどの岩の窓

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毎日バスに乗って毎度バイキングで少々太りました。
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岩の窓から見た風景です・・・・

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自然の造形の美しさとはなんでしょうかね?
フィボナッチ数列

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おそらく左の岩がが有名な”妖精の煙突”岩だろうか?

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妖精の家に見える・・・その昔、科学が無く、迷信が幅を利かせていた時代、この風景をその時代の人間たちはいったいどう思ったのだろうか?
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案外、見慣れれば普通の岩にしか見えないのかもしれません。

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でも、この岩は、どう見ても兎の化け物に見えてしまう。

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こっちも、亀かラクダの化け物に見えなくもない。

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三人の巨人の後ろ姿・・・

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丘に登って一枚

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この岩は上空を口をあけて向くひょっとこに見えます。

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この岩も何だか生き物か化け物の顔に見えますね。

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セルベ野外博物館”の出入り口付近の岩ですが、まるで看板のよう!


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セルベ野外博物館”の売店

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バスに戻って早めに宿に向かいます。

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ヒルトンの廊下

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今宵もカッパドキア巻は三段目にありました。

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プラムとチェリーをたらふく頂きました。

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充実のスイーツ


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トルコ旅行前ハマムを体験しようと家族で楽しみにしておりました。
家内に至っては、ハマム用にわざわざ、ビキニタイプの水着をユニクロで買って用意していったほどです。

初日にどこでハマムを体験したら良いかガイドのテオさんに聞いたところ、「イスタンブールではハマムに行く時間が取れないから、カッパドキアのヒルトンにはハマムがあるからカッパドキア二泊目の夜が良いのでは」と、アドバイスを貰っていた。ヒルトンホテルチェックイン時家族三人予約をしました。

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男性用 

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女性用

ところがです!これが。この旅行最大のガッカリでした。

料金も値切ったとはいえ一人150リラ(7500円)と高額でした。まあ、日本のヒルトンだったらもっともっと高額だろう。しかし、街のハマムでパスポートや財布が盗まれやしないか心配して入るより良いだろう思ってヒルトンにした。フロントには美人スタッフしかいませんでした。これは、高いのだからよほど良いサービスが有って、ひょっとするとトルコ美人の特別なサービスが~・・・と妄想し、期待を膨らませ、股間も膨らませたのが良くなかった。

股間が落ち着くまでサウナに行けなかった。おかげでサウナでの蒸し時間が足りなかった!

暫くして、迎えに来たのは小柄なインドネシアから来たという青年~・・・・。妄想した俺が悪かったが、なんだよ同じ男なら筋骨隆々としたゴツイトルコ人のオッサンのサービスを受けたかった!凄い力でヒィーヒィ叫びたくなるような力強いものをきたいしていたのだが!

ハマムが熱い岩盤に寝かされサービス開始?ハァ?フザケルナ( ̄▽ ̄;)!

全然力が入っていない!生ぬるく摩るだけで垢が摩れていない!しかも、アワアワだらけにするから垢なんか磨れる訳がない!

岩盤浴の温度が熱すぎて低温火傷しそうな温度。

インドネシア人のお兄ちゃんに、文句を言った。
ディス ハマム イズ トゥーホット!

そしたらスタンダードだと言う。まあ仕方ないか!しかーし、さすっているのだか、全然垢が擦れてないのは、人力だから文句を言おう!

あれ?英語で、垢ってなんだろう?・・・・・オッ、オールドスキンで通じるかな?

HEY!ユアーサービスイズ、ノーグッド!ビコーツ、フェアーイズ マイ オールドスキン?キャンユーシーマイオールドスキン オンマイボディ?

ウジュ チェインジユアタオル モアハードタイプ!

一応通じたようだが、イッツオンリーと言う。

仕方がないので。プリーズ ウォッシュ マイボディ モア ハード!!

間違った英語で変なスラッグが混じっていて、お兄ちゃんがゲイだったらどうしようか?と思いましたが、一応通じたようだ。

彼は一所懸命 力を込めて洗ってくてた、でも、垢はとれることはなかった!

高い料金を払ってこれかい!と言う残念な体験だった!

家内は、ハマムの岩盤があまりに熱くて途中でギブアップをしたと言う。

娘も全く気持ち良くなかったと言う。垢擦りに関しては韓国式が一番かもシレナイ!

もしかしたら、ヒルトンのここのハマムが最低なのかも知れないが、この旅行で最大のガッカリと無駄使いになってしまった!

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垢すりフォームマッサージ175リラを二人でやるからいくらになると交渉して三人で、
400リラに値切ろうとして450リラだったのが悪かったのか・・・




【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 











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観光マップ





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2015年7月27日月曜日 晴れのち曇り

第五日目はパムッカレからコンヤ(約410Km)を経由してカッパドキアまで(約230km)640Kmこの旅行で最長距離バスに乗ります。朝食は6時出発は7時でした。
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拡大

小一時間乗るとイズミルとコンヤを結ぶディーゼル鉄道が見えてきました。
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     HajimeMizoguchi世界の車窓からカルテットver 
  
 第五日目は、バスの車窓からです。溝口肇さんの音楽でも聞きながらどうぞ。

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バスは暫く列車と並走しました。

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世界の車窓から一シーンにありそうな光景ですね。

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これがベストショットかもしれません。手前は刈り終った麦畑です。この地方はどこまでも麦畑が広がっていました。

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やがて、Lake Eğirdir(エリージル湖)が見えてきました。

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バスはエリージル湖の北岸を東に向け走ります。

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あの山の向こう側も湖が広がっている。

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トルコは道が私の予想以上に整備されていた。バスの中でも本が読めます。

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人が住む集落には必ずモスクがあり、一本尖塔があります。

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最初のトイレ休憩です。

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絞りたてのオレンジジュースを5リラ(約250円)で飲み、そしてまたバスに乗ります。

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広大なアナトリアの景色はスマホのカメラでは表現できません

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アナトリア高原はトルコの内陸部で荒地もありますが豊かな穀倉地帯です。




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トルコの頓智和尚ナスレッディン・ホジャの霊廟があるアクシェヒルのドライブインで昼食です。

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ドライブイン入り口には客寄せの為のホジャの像がありました。


どっちを信じるんじゃ?

ある日、ホジャの隣に住む男が訪ねてきた。

「先生、悪いんだけど、一日ロバを貸してくれねえかな?隣町まで商品を運ばなくちゃならねえんだ」

ホジャは正直なところその男を信頼できず貸したくなかったが、本音を言うのもなんなので、こう言った。

ホジャ
「すまないね、ロバなら他の人に貸しちまったところなんだよ」

と、壁の向こうでホジャのロバが「ボエーーー」と鳴いた。

「先生、ちょっと待て。いまロバの声が聞こえたぞ、いるじゃないか?」

ホジャは憮然とこう答えた。

「お前さんはこのわしを信じずにロバを信じるというわけかい?わしとロバ、どっちを信じるんだ?」

天国と地獄

スルタン
「先生、人間とはいつになったら、アラーの御慈悲によって生まれることも死ぬことも止めさせてもらえるのだろうか」

ホジャ
「天国と地獄がいっぱいになる日までじゃよ」

百歳の老人

村一番の金持ちの老人が、百歳で若い娘と結婚したので村の衆は呆れたが、なんと娘に子どもができたので、皆ぶったまげてしまった。

村の衆
「先生、百歳で子どもを作るなど可能なんでしょうか?」

ホジャ
「近所に若い男が住んでいたら作れんこともなかろうて」

村の衆は納得して帰っていった。

アラーの存在の証明

ある日、ジャーミィ(モスク)でホジャがアラーの尊さを説教していると、村一番の不信心な男がやってきてこう言った。

「先生、おれはアラーが存在すると、どうしても信じられないのだがね。どうやって証明するんだ?」

ホジャ
「わしは生まれてから70年になるが、一度も自分の思うままの夢が実現したことはない。これが証明じゃよ」

「どういう意味だい?」

ホジャ
「いつでもアラーの思われる通りにしかならなかったということじゃよ」

ティムールの尋問

ティムールがホジャの住む町を征服し、地域の知識人を集めて尋問を行った。

「そちは余を正しいと思うか?それとも悪党と思うか?」

正しいと答えても悪党と答えても、ティムールは死刑を命じた。

とうとうホジャの尋問の番になり、同じ質問をされた。

ホジャ
「あんたは正しくも悪くもないわい。あんたはアラーの御心のままに振る舞っているだけで、わしらが長年好き勝手をやってきたので、アラーがそれを懲らしめようと思われたのでしょうな。あんたはアラーから遣わされた災難というわけじゃ」

ティムールは大笑いし、ホジャを許したという。

ティムールの値段

ある日、ティムールとホジャはいっしょに蒸し風呂に入った。

それぞれ下帯1つになった時、ティムールはこう言った。

「余は帝王の中の帝王であるが、もし余に値段がつけられるなら、お前はいくらと値踏みするかな?」

ホジャはじろりと見て答えた。

「まあ、1ディナールが値いっぱいといったところですかな」

「なんだと!この老人め!余の下帯だけでも1ディナールでは買えぬものだぞ!」

「じゃあわしはその下帯だけを買いましょうかの。あんたみたいな大酒飲みの暴君は、買ったところで大赤字ですわい」

ホジャの遺言

ホジャが危篤状態に陥った時、病床を囲む人たちにこう遺言した。

「わしが死んだら、決して新しい墓には入れてくださるな、頼みますぞ」

人々が不思議がって理由を訪ねるとこう答えた。

「罪状あらための天使様に会った時、わしは古びた墓を見せて、とっくに尋問は済んでおります、と申し上げるのじゃ」


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レンズマメのスープとパンだが、何処へ行っても美味しい。パンはお代わり自由です。

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ランチは茄子の肉詰めとトルコ風ピザでした。

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ご飯を食べ終わると直ぐにコンヤの街です。コンヤは人口100万人の大都市で、セルジュクトルコの首都だった古都で、トルコで一番保守的な街、よそ者が入り込みにくい街だとガイドのテオさんは解説しておりました。トルコの転勤族が一番苦労する街だそうです。日本で言うと京都や名古屋みたいなものかと・・・


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コンヤ市街はトラムが走っていました。


フリギア、リディアの時代から存在する都市で、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン (Iconion) と呼ばれた。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。

パウロは弟1次伝道旅行の際、バルナバを伴って訪れた。その後何度か訪問した。かなりの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があった。パウロ書簡の一つガラテヤ人への手紙は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある(南ガラテヤ説)。

その後も東ローマ帝国のもとでキリスト教都市として栄えるが、マラズギルトの戦いの後、アナトリアに侵入してきたトルコ人ムスリム(イスラム教徒)の侵攻にさらされ、1076年にセルジューク朝の王族スライマーンによって征服された。まもなく、スライマーンの建設したルーム・セルジューク朝が第1回十字軍によってニカイアを奪還された後、コンヤがかわって首都となるが、1097年にゴドフロワ・ド・ブイヨン、1190年にはフリードリヒ1世によって一時的に占領された。

13世紀に入ると、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎え、東はアルメニアから南北は地中海、黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた。1237年のカイクバード1世の死後、モンゴル帝国の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が14世紀の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南のカラマンに興ったカラマン君侯国の支配下に入り、その首都となる。

14世紀末にオスマン帝国のバヤズィト1世により征服されるがアンカラの戦いの後再びカラマン領となり、1466年に至ってカラマン君侯国がメフメト2世に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。

この間、1228年には中央アジアのバルフ(現在のアフガニスタン北部)に生まれたイスラム神秘主義者、ルーミー(メヴラーナ)がカイクバード1世の招請によってコンヤに定住、1273年に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団であるメヴレヴィー教団を開いた。

コンヤにあるルーミーの墓廟はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたが、1927年にケマル・アタテュルク政権によって神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。この他、コンヤにはカイクバード1世の建立したアラエッディン・モスクやセリム2世のセリミエ・モスクなど多くのモスクがあり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。

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13世紀に建築されたインジェ・ミナーレ・マドラサ 
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インジェ・ミナーレ・マドラサ神学校
テオ氏によれば中世の天文学中心だったとのことだが・・・私の記憶違いか?


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創建は1264〜68年。セルジュクトルコ高官サーヒブ・アタ・ファーレッディン・アリにより、ハディース(ムハンマドの言行録)を教えるために創設されたそうです。インジェ・ミナーレとは「細い尖塔」の意味。もともと塔の高さは現在の3倍も長かったのですが、1901年に落雷で折れてしまい、今の状態となる。19世紀末まで神学校として機能していましたが、1956年に博物館として開館。

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インジェ・ミナーレ・マドラサは「セルジューク朝の石工芸術の傑作」とも言われており、ファサードは、地中海的な植物文様、幾何学模様、カリグラフィー(「ヤシンとフェティフ」の文字)が彫り込まれているとのことでしたが、入り口付近の記念撮影で入場はしませんでした。
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正面にある正門にはセルジュク美術を代表する幾何学文様が彫られています。設計はケリュック・ビン・アブドラー。イスラムは偶像禁止の為入り口の石彫にはヒッタイト~セルジュク朝まで紋章であった双頭の鷲がデザインされています。

この双頭の鷲は「スルタンとその妃」を表しているそうです。


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美しいアラアッディンの丘のすぐ東側。
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コンヤの旧市街の中心地なので神学校跡の隣はマクドナルドです。
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保守的な街だけあって自由なトルコのなかでも女性のイスラム風のスカーフを被ったり、もっと保守的なスタイル率は高い。

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インジェ・ミナーレ・マドラサは首都だった頃の中心地だったアラアッディンの丘をはさんで、旋回舞踏で世界的に有名な元メヴラーナ教団の総本山メヴラーナ霊廟の反対側にあり、2kmも離れていない。
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メヴラーナ霊廟と隣のセルミエモスクがバスの車窓から見えました。

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メヴラーナ霊廟(メヴラーナ博物館
独特の旋回舞踏で世界的に有名なメヴラーナ教団の創始者ジェラルディン・ルーミーの霊廟。メヴラーナとは「我が師」という意味でジェラルディン・ルーミーを指す。敷地にはメヴラーナ他、教団の発展に尽くした名僧たちの霊廟、資料室、修行場などがある。アタチュルクの宗教分離政策により教団は解散、旋回舞踏は禁じられ、1927年に霊廟は宗教色を薄める形で博物館としてオープンした。
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メヴラーナ教団は神秘主義とのことしか知りませんでしたが、コンダクターのテオ氏の解説を聞くと、イスラム教というより日本の仏教教義に近い寛容性を感じました。

一神教の神は「慈愛の神」ではなく「裁きの神」であるように思えます。キリスト教やユダヤ教は神ヤハウェは「最後の審判」があり。もちろん イスラムの神アッラーは「裁き」の面が従来は強調されていました。しかし、メヴラーナの教義は、「寛容」です。アッラーが「慈愛の神」だと宣伝したのです。 それは、ジェラルディン・ルーミーの残した次の有名な詩で明らかです。

 来なさい! 来なさい!
 誰でも来なさい。
 無神論者のあなたも、拝火教徒のあなたも、偶像崇拝者のあなたも、
 誓いを千回破ったあなたも、来なさい!
 来なさい、来なさい、来なさい、
 ここは絶望への扉ではありません。


 教条主義的な教団からみれば確実に「裁き」の対象となりそうな人物であっても受け入れて、成仏できると説いたのです。これは 浄土真宗の教義の中で重要な思想「悪人正機(あくにんしょうき)説」ではないか!、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という教義である。メヴラーナは「寛容」を説いたのです

 ムスリム(イスラム教徒)は元々異教徒であろうとなからうと、遠来の客が来れば、貴重な羊を料理してもてなすようなの寛容な心の持ち主なのであった。

 あらゆる信仰の本質には、メヴラーナが示したような愛と赦しと寛容の精神が宿っていると考えるならば、ISISのような輩はアッラーの教義に背く集団に思えます。
イスラム原理主義者達は寛容の心を忘れたエゴイストなのである。原理主義者はどこでも同じである。オウムも仏教原理主義者というエゴイスト集団である。

イスラム世界を悪くしているのは宗教的エゴイストが対立や戦争を招いていると思えてなりません。信仰自体に責任はないが、宗教に関わった時、自分で考えることを止めれば洗脳されたロボットにしかならないのである。

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履物をカバーで隠し入場です。
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        メヴラーナの棺

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               コーランの写本
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いくつか聖水と思われる水汲み場が有り信者の皆さんが群がっておりました。

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有名なメヴラーナ教団のセマー(旋舞) 

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駐車場脇の売店にてツアーの御婦人方が皆さんでポーズ

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5087/nelltor20.jpgこのあとバスは途中シリア国内にある過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」の拠点3カ所を7/24に空爆したトルコ空軍の基地があるコンヤ空港(軍民共用)を通りました。ちょうどシリア国内のISIS拠点に爆撃から帰ってきたと思われる2機のF-16が離陸し旋回していたところでした。

バスは二時間ほど走って大きなキャラバンサライ(隊商宿)があるドライブインでトイレ休憩です。
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ちょうど近くのモスクのミナレット(尖塔)から礼拝の時間を告げる17時のアザーンが流れ、何とも言えない中近東の旅気分を満喫できました。


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ここのキャラバンサライは日本の国会議事堂になんとなく似ている・・・
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キャラバンさらいの入り口でしたが、時間が無く入りませんでした。

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カッパドキア地方に向かう途中雲行きが怪しくなりひょっとすると雨かもしれないと・・・
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路はシルクロード、小さなキャラバンサライが車窓から見えました。

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途中娘が昼飯が口に合わなかったようで車中でもどすハプニングがあり、3日目から妻も体調不良で皆さんにご心配を掛けてしまいました。

グダグダの娘と妻に比べ元気いっぱいの私を見て、明日は私の番だとツアー皆さんにからかわれてしまいました。

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昔はこの草原の道をラクダやロバで歩いたのでしょう・・・おそらく1000年前と風景はそう変わっていないのでしょう。

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このシルクロードは遠く奈良の正倉院まで続いていたかと思うと私の頭の中では
喜多郎のシンセサイザーが鳴り響いていました。


カッパドキア中心の街カイセリを抜け
更に空港があるネウシェヒルにはいるとカッパドキアの風景が見えてきました・・・
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興奮して車窓から何枚も似たような風景を写してしまいました。

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オプションで5000円余計に払った方々は洞窟ホテルCCRで宿泊です。
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ちょっと階段を登ってみました。


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東京ディズニーシーのアラビアンコーストがちゃちく思えてしまいました・・・
洞窟ホテルCCRはリアルアラビアンナイトのホテルでした・・・
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バスは洞窟ホテルからギョレメを抜け私達の宿があるアバノスにあるダブルツリー バイ ヒルトン アバノス カッパドキアへ向かいます。

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ギョレメの街中も洞窟でいっぱいです。

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洞窟を利用したキリスト教の教会

早速夕飯です。

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ヒルトンホテルのレストランです。

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充実したスイーツは甘すぎず上品でした。

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写真を撮り忘れましたが寿司がありました。きゅうりと酢漬けの小魚によるカッパドキア巻で醤油わさびもありました!

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夜のロビー
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夜のプールとお庭 実はこの写真を撮った時に横でコソコソと音がしたので暗がりを覗き込むくと、ヒジャブをまとったムスリムの女子とムスリムの若者がちちくりあっていました。ちょっとカルチャーショックでしたが、ムスリムも当然人の子なのですね!

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スマホで写したのに良く写りました。

このホテルに泊まって10日間89000円のツアー・・・・どうです?

ちなみに、写真を撮り終えホテルに戻る途中、例の暗がりでは依然ムスリムのカップルが乳繰り合っていました。 アッラーアクバル!アッラーよくやる!ムスリムのカップルに祝福を!



【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 











ひょっとして今の世の中でエロにもっとも遠いのがヒジャブを被ったムスリム女子かもしれない。エロから最も遠いものほど実はエロいものはないことになっている。

その昔50年くらい前まではセーラー服はエロからもっとも遠い存在でしたが、おにゃんこクラブの少し前位からセーラー服はエロの象徴となってしまって、今ではあまりエロく感じなくなってしまいました。旦那、そう思いませんか?!

江戸時代、高級な遊女ほど最初に客と会うときは、手首も見せなかったといいます。
最初から見せないからチラっと見えるとエロくなる心理ですね・・・
チャイナドレスのスリットのようなものですね。でも、私はいまのところヒジャブを被ったムスリム女子には萌えを感じません。


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エフェソスを後に白い温泉郷パムッカレに向かいます。

その前に途中のレストランでお昼です。
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飲みものはザクロとアイラン(塩が入ってるヨーグルトドリンク)ミックスドリンク。
日本にはない飲み物でしたが、見かけと味が・・・ちょっと一致しません。
トルコ旅行の記念に飲んでみるのもわるくありません。
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メイン料理は串焼肉のチョップシシケバブ。
まあ、ガード下の流行らない串焼き屋の串カツみたいでパサパサして・・・いまひとつ私にはあいませんでしたが、サフランのご飯が美味しかった。

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デザートの焼プリン・・・ちょっと甘めでしたが 皆さんには好評でした。
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パムッカレの駐車場を降りたところにあるメインゲートです。

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正確に言うとメインゲートの裏側です。
エントランス
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ヒエラポリス遺跡
パムッカレはローマ帝国の温泉保養地として栄えた。石灰華段丘の一番上にあるローマ風呂とホールがあり、2~3世紀頃には人口10万人以上いた大地方都市だったそうです。
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エントランスから300~400mほど歩くといよいよパムッカレの景観が見えてきます。

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湧きだした温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したもので、棚田の畦の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長し、大小合わせて100以上の棚のプールがありこのような景観が約200mの高さにわたって形成されています。
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ちなみに、下の青い池のようなものは人工的な池と市民プールです。・・・残念ながら・・・
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ありゃ!パムッカレは おゆっかれ?(お湯枯れ)・・・・・
そうなんです、温泉ホテルが乱立したとのことで、パムッカレのほとんどがこのような状態です・・・・現在では石灰棚に流される温泉量がコントロールされていています。
温泉が枯れてきているとのことで、だんだん黒ずんできています・・・・パムッカレに行くならいまのうちです!


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パムッカレは現在景観保護のためほとんどが立ち入り禁止で、一部だけしか入ることができません。足湯に入れるエントランスの入り口付近は整備された公園になっていて、松林がきれいです。
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足湯のエントランス付近は石灰岩が茶色く変色しております。

http://iyokannet.jp/timthumb.php?src=/sp/img/38215/397/c.jpg&w=500&zc=1&q=95四国に滑川渓谷という1kmにおよぶ巨石の上を小川が流れている知る人ぞ知る観光スポットがあえいます。

パムッカレと同じく、この上岩の上を歩くことができます。白くないパムッカレならいい勝負です。


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この眺めはまさに世界遺産!でもほんの一部です。


足湯に入る前にANTIQE POOL(パムッカレ・テルマル)に寄りました。

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このツアーでは自由時間ですので、水着を持って来れば入れなくもなかったのでしたが、時間もないのでドクターフィッシュを体験しようといたので、持ってきませんでした。ところがドクターフィッシュサービスは今は無く、施設を見学してプールサイドでジェラートを食べて足湯に向かいました。
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本物のヒエラポリスの大理石の柱などの遺跡が底に無造作に転がっている温泉プールはたまりません。次回来ることがあったら絶対に入りたい!

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石灰棚に入りました。

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入り口付近はすべるところもありますので、注意してください。
滑って転んだ外国人観光客もおりました。

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入り口付近は茶色く変色していましたが、100mほど進むと純白な石灰棚となります。
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このきれいな棚田を私をはじめ観光客が無造作に歩きます。
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脇に溝が掘ってありここを温泉が流れていましたが・・・これでいいのだろうかとふと疑問でした。
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石灰棚のプールです。水着持参で石灰を塗りたくっている観光客もいましたが・・・・なにをしているのだか?と思ったのですが、あとで石灰の泥に触れた部分がテカテカニひかり、なるほどと思いました。
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20分~30分ほどで石灰棚の自由時間は終了です。


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集合時間より少し早かったので、足湯入り口付近の芝生でごろり・・・
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パムッカレを後に近くのスパホテル コロッセア サマール
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温泉プールがあり、
パムッカレ・テルマルの分楽しもうと思ったのですが・・・
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この時間帯に入った人は優雅だったと思います・・・・

でも先に室外プールで500mほど泳いでしまいました。
夕食後屋内温泉プールに来てみたら・・・中国人の団体客が傍若無人に騒々しく大挙押しかけており・・・・芋洗い状態はしかたがないにしても大声で騒ぎ、騒々しく
・・・がっかりでした。

夕食はなんだかホテルの結婚式みたいにテーブル予約制です。
でもそのおかげで、中国人団体客の非常識な席取りから解放されなかなか良かった。

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M先生とE夫妻
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ここでは、屋外で焼いていたケバブが美味しかった・・・
焼きたてのケバブを頂きに並んでいる時横入りししてきたチャイニーズのクソ餓鬼に、日本語で「順番を守りなさい」と注意したら通じたようです。

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お部屋です。




【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 









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今朝10日間の旅を終え日本に帰ってきました。
どう考えても89000円では計算が合わない行った者勝ちの超お得な旅でした!

また、ガイドのテオさんや同じツアーのメンバーの方々にも恵まれ、今までおそらく二十数回行った海外旅行の中で最高に愉快な旅でした。

さて第3日目(7/25土曜)を書き出します。順次1日目~10日目を更新していきます。


2015年7月25日土曜日第3日目、当初予定ではトロイ観光でしたが、前日に済ませることができたので、朝から約230Km移動してベルガマのアクロポリスへ、そして200Km移動してアルテミス神殿跡、エフェソス観光をしてエーゲ海のリゾート地クサダシまでです。

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朝、コリンホテルの同じレストランで6:30より朝食バイキングです。

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朝の朝食バイキングは、飲み物代金が含まれます。チャイやコーヒージュースも飲み放題です。パンやレンズマメのスープはどこでも美味しかった。
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慌ただしく朝7:30コリンホテルを出発。

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チャナッカレの街なみです。

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エーゲ海です。スマホのカメラではあまりよく写っていませんが、遠くに島や岬が見え、頭の中ではジュディオングがあの歌を歌いっぱなしでした♪

Wind is blowing from the Aegean
女は海

好きな男の腕の中でも

違う男の夢をみる

Uh Ah uh Ah

私の中でお眠りなさい

Wind is blowing from the Aegean

女は恋

トルコ石の土産物屋に連れて行かれたあと、トイレ休憩でオリーブ専門店によりました。

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店内に入ると、親切にも日本語で商品案内がありました。
ちなみに、店内ではイスタンブールから同じ日程のような台湾人観光客が居たのですが、表示は英語・トルコ語。・日本語のみでした。
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オリーブの試食コーナーです。
私が試食用のパンにオリーブオイルを浸して食べはじめたら、台湾の観光客が群がってきてきてしまいました。

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バスはエーゲ海沿いを進みます。でも、わたしは”村上海賊の娘 下巻”があまりにも面白く、車窓からの景色をそっちのけで一心不乱に読み、読み終えてしまいました。


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気がつくと、三日目の昼食のレストランです。

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昼食のバイキングです。昼食のバイキングはここだけでした。
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コリンホテルでもプールサイドでは結婚式でしたが、街のこのような小さなレストランのプールサイドでも結婚式、トルコ人はプールサイドで結婚式を挙げるのが流行のようです。
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ベルガマに到着です。アクロポリスへはロープ―ウェイで上がるのですが、クーラーのないゴンドラはちょいと暑かった。もし故障で止まったら脱水症状で死ぬかもしれません 

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頂上の駅です。頂上駅では日本語がうまい店員さんが叫んでました。
”ジャスコより安い!いまはイオンだよと言うと、”イオンより安い!”シマムラより安い!”と連呼。まだ高いよというと、”ダイソーより安い!”参った!降参!

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アクロポリス神殿の入り口ゲート
もちろん有料ですがロープ―ウェイ代も含め全部コミコミです!
払っていないのでわかりませんが安くはありません。いったいどこで元をとっているのだろう?
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アクロポリスの入り口付近からの眺め。

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ここには、模型が置いてありましたが、ドイツベルガモン博物館に展示してある神殿がありました。

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オイオイドイツはいくらなんでも酷過ぎる!仏像を返さない国が日本に対しさかんにドイツに見習えという訳がわかる。

ドイツベルリンではなくベルガモンのアクロポリスに神殿があるべきだ!

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残っているトラヤヌス神殿と大劇場跡

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ああここは、懐かしのTVアニメ マイティハーキュリーの世界だ!

マイティ・ハーキュリー


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南西斜面を利用した大劇場跡
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急斜面はスキージャンプ場並みです。大劇場は15000人ほど収容したとのこと。

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こんな山の頂上で1万人以上収容したとのこと、売店やトイレはいったいどうしたのであろう???

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神殿地下道、今は天井が崩れてしまっています。

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神殿からの眺め

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アクロポリス神殿跡
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ここは神々が住む天空の城・・・・・あんまり気持ちいいのでつい大声で”バルス!”と叫んでしまいました


地上に堕ちたラピュタの残骸です(笑)

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ロープ―ウェイ駅の入り口付近の売店で”10リラ10リラ”と言う生ザクロジュースを値切って5リラで飲みました。5リラはレストランで飲む値段より少し安い程度だがガストより安いと教えてあげましたが、でも”ダイソーより高い!”

バスはベルガマを離れトルコ第三の都市イズミルへ

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イズミルは細川智栄子あんど芙〜みんによる少女漫画 王家の紋章のヒッタイトの王子
イズミルはこの都市と関係あるのかなぁ?







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イズミルは人口400万人の大都市、400万人といえば同じ港湾都市である横浜市の人口369万人より多い!

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バスはエフェソスまで200Km走ります。

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トイレ休憩

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一般庶民向けザクロジュースは5リラ(250円)。私のアクロポリスでの値切りは妥当だったようです。

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そろそろエフェソス
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丘の上に
東ローマ帝国時代(ビザンティン)の要塞の城壁が見えてきたら世界七不思議の一つに数えられたアルテミス神殿跡に到着です。

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入り口は千と千尋の神隠しに出てきたような花が両脇に

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いまは、柱が一本建っているだけです。
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しかもその柱の上にはコウノトリが巣を作っています!

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アルテミス神殿跡はいまでこそ柱1本を残し、湿地帯で沼となっています。

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往時はアテナのパルテノン神殿より二回りも大きい巨大神殿があり、世界七不思議の一つに数えられていた。世界七不思議とは、紀元前2世紀ビザンティオン(現在=イスタンブール)の数学者兼旅行家フィロンの著書である”世界にある七つの必見の景観”で語られ、人々から”世界七不思議”と言われた。アルテミスの巨大神殿は、今は石柱1本を残し完全に消え去り、物語の中で語られるだけになってしまった。
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ウィーンエフェソス博物館の全盛期のエフェソス アルテミナス神殿想像図 

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神殿に祀られているアルテミスとはギリシア神話の「狩猟と純潔」の女神である。
エフェソスで信仰されたアルテミスは、植物の豊作や多産豊穣がより強調され、その像はたくさんの乳房、あるいは植物の実のような装飾をつけた衣装姿であった。
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奥に見える左の建物はイスラム教モスク、丘はバスから見えた東ローマ帝国時代(ビザンティン)の要塞。右の遺構は聖ヨハネ教会跡。今は遺跡となっており修復作業中とか、ヨハネはキリストの使徒としてこの地を訪れ伝道中に亡くなった場所だ。

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なお、聖母マリアはこの地で余生をおくり亡くなったとのことです。

行きませんでしたが、聖母マリアの家があるそうです。





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バスはエーゲ海のリゾート地帯に戻ってきました。
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上下の写真はLE BLUE HOTEL&RESORTのホームページの写真ですが、そのまんまの超高級リゾートホテルでした。

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部屋で荷物を降ろし夕飯を食べ終わるととエーゲ海に日が沈むところでした。


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このホテルの場合、ドアの鍵ベランダの鍵を締めないとエアコンが起動しませんので気を付けてください。皆さんエアコンが起動せず私もフロントにエア・コンディショナー、ダズントワーク!と英語っぽい日本語で連絡したが、部屋は閉ったかきーを掛けたかと聞てきたので、オフコースと!言ったが・・・それっきりで、ガイドのテオさんに聞いたらベランダの鍵までかけなくてはいけないと・・・・

オフコースと言ったのがまずかったのかな?さよなら♪さよなら♪さよな~ら♪




【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 









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この記事は第6日目の朝カッパドギアのヒルトンホテルで書き始めます。

Wihi 環境はバス移動の為日中は無理で、ホテルも部屋では電波が弱くロビーでしかblogを書けません。

2015年7月24日金曜日
WOWホテルの朝食バイキングです、朝食はたいてい6:30からで、毎朝ツアーの皆さんほぼ6:30には来られておられました。

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Wowホテルの朝食バイキングです。豊富なヨーグルト/シリアルのトッピングに大興奮です(でした)。
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何が美味しいって、トルコのパンは種類が豊富で美味しい!

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朝のビュッフェには蜂の巣つきの蜂蜜があり、ひょとしてこれを食べるのか?
おそるおそる蜂の巣を頂きましたがクマのプーさんの気持ちがよくわかります!
美味しかった!!!!
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朝7:30WOWホテルを出発です!

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イスタンブールからヨーロッパ側を230Km走ってブルガリア、ギリシャ国境の街エディルネのセミリエモスクを観光、約200Km南下してダータネルス海峡を渡り、チャナッカレのホテル泊でしたが、ガイドのテオさんの尽力(ナイスなズル)で早く海峡を渡れたので、翌日のトロイの遺跡観光までできました。このおかげで後々スケジュールに余裕が出ました。

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イスタンブールを出るとどこまでも広い草原が広がります!

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1時間半で最初のトイレ休憩

約3時間世界遺産エディルネ観光です。

エディルネ14世紀にオスマン帝国の統治下に入って以降はルメリ州の州都となり、またブルサに次ぐ第二の宮廷が置かれてコンスタンティノープル(イスタンブル)が征服されるまで100年にわたり帝国の実質上の首都であった。15世紀にイスタンブルが正式の首都となった後もオスマン帝国の副都として宮廷が置かれ、帝国のバルカン半島支配の重要な拠点であった。

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町の中央部の丘の頂上にあるセリミエ・モスクである。1569年から1575年まで足かけ7年をかけて建設されたこのモスクは、イスタンブルのアヤソフィアを越える直径31.5mの大ドームを持ち、大建築家ミマール・スィナンの最高傑作として名高い。

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バスを降りた反対側の屋台とお店。珍しく木造だったので写真を一枚。

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モスクの直ぐ下はバザール。今回お世話におなったテオさんの博学解説の始まりです。

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バザールはモスクの付属施設でまさに門前町

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バザールの途中にある階段を登るとセリミエ・モスクの前に出ます。
イスラムの花薔薇がきれいでした。

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寺院の中です。

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オジサンが手水(ちょうず)で足を清めていました。
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さあ、モスクの中へ御婦人方はショール着用です。
忘れた方はタダで入り口のおばさんが貸してくれます。

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いきなりの大空間です。織田信長が天下布武の旗印で姉川の合戦(1570年)~長篠の合戦(1575年)の頃にあたる。1576年日本では安土城が織田信長によって建設された頃にあたる。ユーラシア大陸を挟み東西で壮麗な巨大建築が建ち、なんとなく感慨深いものがある。日本も安土城の天守閣が残っておれば・・・・残念である。
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https://livedoor.blogimg.jp/crocci/imgs/7/0/7065ed91.jpgこの寺院が建つ前は一面のチューリップ畑であったそうだ。元の地主は売る条件として一面にチューリップの文様のレリーフを彫るよう要求したが、建築家は居丈高げな地主の態度に腹を立て、奥に見える講台の支柱に一本逆さのチュ-リップを嫌がらせのように、彫ったとのこと。
神様にひれ伏しお祈りをするとチューリップが見えるのです。

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ところがこれが評判となり、チューリップは、モスクの装飾の意匠やスルタンの衣服の模様として使われるなどされ、イスラムの人に愛されてるようになったとのこと。いま寺院内の絨毯にはチューリップの柄が採用されています。四角い一区切りが一人用のスペースに区切られています。

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ちなみにイスラムのチューリップ柄は日本のような形ではなく、左の写真のような長細い花柄です。

この花が、ヨーロッパに伝えられたのは、フランスの植物学者カロルス・クルシウスが1593年、ライデン大学に招聘され、東インド会社設立で当時の経済大国オランダにチューリップを伝えることになった。そして、世界で最初のバブル発生として有名なオランダのチューリップバブル(1637年)が起こったのである。有名な



チューリップバブルは、まさにこの寺院での何気ない事件が発端だったのかもしれません。

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庭にはイスラムの花薔薇が植えてあります。なぜ、薔薇かと言えば、預言者マホメッドの体臭は薔薇の香りだったとか・・・。
異教徒である私の眼からは、商人でもあり世俗君主・軍人としても有能なマホメッドが高価な薔薇の香水を付けていたのだろうと思うのですが・・・

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イスラム教の素晴らしい点は、困窮者を助けることが、義務付けられている点だ。
ザカートと言いイスラムの喜捨の精神があることだ。

救済対象は、ジハード(聖戦)によって夫を亡くした寡婦など(発端説)、貧しい巡礼者、托鉢修行者、借金を返済できない者、乞食、貧しい旅行者・・・

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この寺院の奥にもそういった困窮者が寝泊まりしていました。
また、ヤールギュレシというオイルレスリングの世界大会が開かれていたためホテルに泊まれなかった方もここに寝泊まりしているとのこと。

ちなみに1996年江頭2:50がやらかしてしまったこ伝説の事件はこのトルコで開かれたこのオイルレスリング大会でした。江頭2:50氏は今でもトルコ入国禁止だとか。

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モスクのバザールでお買いもの・・・といっても、まだ実質的に初日、どの位値切れるか?まだわからず・・・・様子見でした。
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モスクを離れバスでお昼へ
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途中トゥンジャ川を渡るローマ時代の石橋、歩行者二輪車用で驚くことに現役だとのこと!
国境の川メリチ川沿いに建つこじゃれたレストランへ
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さて、2日目のお昼です。

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お昼・・・スープが出て、ケバブ料理、ライスはバターライス(ライスだけでも食べられます)。お昼や夕飯の食事では必ず有料の飲み物を注文しなければなりません。
おそらく、店の儲けはそこが源泉かと思います。ちなみにコークは5リラ(約250円)~6リラ(300円)、水(500ml)3リラ(約150円)1リットルで5リラ~7リラ

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オスマントルコ時代に架けられたメリチ川に架かるメリチ橋

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対岸がギリシャだというので、パスポート片手に食後勇んで橋を渡りました。

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http://turkey.areastudy.net/ja/tcdd/map/1923.png写真撮影をして急いで帰ったが、国境もなく、さすがヨーロッパは一体化していると感心したのですが、後で調べたら、この橋の近辺だけはトルコ領だそうで、とんだ勘違いでした。


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バスはマルマラ海がエーゲ海に注ぐダーダネルス海峡アジア側のチャナッカレに渡るため200kmはなれたエジェアバドの街へ。
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なかなかおしゃれな港町でしたが、フェリー乗り場は超大渋滞で、乗るのに2-3時間待ちと絶望的でしたが、ベテラン添乗員テオさんの驚くべき人脈で、待たずに最初の船に乗船!2-3時間以上待っている車もあるようで少々申し訳なかった・・・

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車輛は隙間なく乗り込みます。
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エジェアバドの街はなかなか良い街でした。
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ダーダネルス海峡は黒海とマルマラ海を結ぶボスボラス海峡同様エーゲ海とマルマラ海を繋ぐ要衝として船の行き来は激しい。

この旅行の為に読まずに我慢していた”村上水軍の女” 上巻をバスの中で読み始め、ちょうど盛り上がってきたところでの海峡越えでした。村上海賊たちが活躍した瀬戸内海の要衝と重なり、ダーダネルス海峡が瀬戸内海に見えてしまいました。
(笑)
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斜めに海峡を渡るので約30分ほどで対岸のチャナッカレの街へ到着です。

海峡交通の要所である。チャナッカレは昔から軍事要衝だった名残りで、沿岸には軍事施設跡も見られます。そして、紀元前有名なトロイの木馬で有名なトロイ遺跡観光へのアクセス拠点でもあります。海岸線が移動したことを考えるとトロイは海の要衝だったのでしょう。

テオさんの活躍で当初3日目予定であったトロイ遺跡観光も出来るとのことになりました。

フェリーを降りトロイ遺跡へ

トロイの木馬に関してはブラッドピットが英雄アキレスを演じた2004年アメリカ映画
”トロイ”を我が家では出発前の海の日にヴィデオで観て勉強しておりました。

トロイ 予告編

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トロイの城壁の跡 日本は弥生時代。同時期の吉野ケ里遺跡と比べると、この城壁は鉄壁の城壁だったと言える。

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ヘクトルとアキレスの戦いを映画ではヘクトルの父プリアモス王と弟パリス恋人ヘレネが観たであろう城壁の門の跡?

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木馬である。当然想像のレプリカであるが、ガンダムは搭載していない。

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木馬内部。階段は一人しか上り下りできない。ガンキャノンもガンタンクも無かった(笑)

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第2日目の宿コリンホテルに到着!

リンクをクリックしていただければお分かりと思いますが、夕日がきれいな高級ホテルでした。
屋外プールで泳ごうとしたのですが、プールサイドで結婚式が始まりそうでしたので残念ながら諦め、夕日を堪能する為海岸へ行きました。ちなみに屋内プールもありました。

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夕食は沈みゆく夕日を眺めながらの食事となりました。当然バイキングで、頭の中では昔の金曜ロードショウだっか水曜ロードショウのオープニングテーマがかかっておりました(笑)

在りし日の金曜ロードショーOP~Friday night fantasy~

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水曜ロードショー 音声がありませんので下の動画と同時にクリックすると具合がいいですね。

     水曜日の夜 Wednesday Night  (水曜ロードショーのテーマ曲)





【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

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多難な出発前

水曜日いつもの串揚げ屋で同僚と飲んで帰った。駅の図書館図書返却ポストに本を返したとき、ポッケから財布を落としたらしい。帰りメントスを買おうとドラッグストアで気がつき真っ直ぐ駅の交番へ!

ありました!ひろってくれた方有り難うございます。落としたと思われる駅の改札口と交番は直ぐだからあるとは思ったが、あって良かった!


第一日目7月23日木曜日雨

出発の朝、室内の観葉植物の鉢を外に出し6時出発、家内が忘れものがあると引き返したので6時15分出発。カーナビの駐車場到着予定時刻は成田到着時刻は8:00、集合時間は
集合時間8:10ギリギリだった。

すこし法定速度以上出して飛ばせば間に合うなと思ったのだが、・・・・・・7月23日は土日ではなく平日の木曜だった!しまった!平日の首都高は朝6時から渋滞!用賀先頭で7キロの渋滞!

刻々と到着予想が集合時間8:10を過ぎてゆく!!!飛行機のフライトは10時なので大丈夫だとはわかっていても、途中駐車場到着予想が8:30になったときは焦りました。駐車場での手続きを考えたら間に合わないかもしれない!東関道は幸い空いていたので、パトカーに注意しながら追い越し車線をフルスロットルで飛ばし、なんとか8:15にいつも利用する民間駐車場に到着。

チケットカウンターには8:30に滑り込みました。フライト時間が少し早くなったので、ほんとギリギリの到着時間でした。

家内が成田空港でトルコリラを交換したが1トルコリラ64円!空港の両替は詐欺か犯罪だ!中値45円のトルコリラスプレッドで19円もとる!犯罪だ!

ちなみに、イスタンブール空港では100円=2.2トルコリラ、1トルコリラ45.5円です!トルコリラはイスタンブール空港で両替しましょう!

12時間の昼のフライトなので機内でしっかり本を読もうと10冊ほど機内に持ち込んだのだが、ところが室内灯が消灯された。映画が充実していたので映画を観ることにした。

アヴェンジャーズ・エイジオブウルトロンズスピードレーサーメンインブラック3
東京ゴットファーザーズ以上4本を最後まで楽しめました。


他にも話題作が沢山あったのですが、タダなので途中で観るのを止めました。
シンデレラは、継母の女優が美しすぎて私のタイプだったので観るのが辛くなり、
GOZIRAは・・・感情移入できず、アップルシードはトルコ語しかなく英語もなかったのでわけがわからず、実写版ドラゴンボールは最初からクソだと言うことを確認する為に、ちょっとだけ観てあとは観ませんでした。実写版は本当にクソ映画でした(笑)

なかなか充実したエンターテイメントを楽しンでいると、12時間のフライトは、あっという間でした。

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トルコイスタンブール空港到着ですが、久々の屋外到着!発着便数が増えて施設が追いつかないとのことです。ちなみにトルコの年間観光客は3000万人です。


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バスでターミナルに向かいます。ターミナルは朝の横浜駅と変わらないくらい利用客で溢れていて圧倒されました。搭乗口が足らなくなるのが納得できます。
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空港には大型バスが待っていました、このバスがこのあと9日間トルコでお世話になることになります。空港を18時近くに出発、最初に夕飯を食べにイスタンブールのレストランへ向かいます。

バスはマルマラ海沿いを走り、レストランに到着、機内で2回食事を食べていたのでお腹は空いていませんでしたが、トルコで最初の食事です。

まずは、ちょっと高めの飲み物の注文です、これがお店の儲けだと思います。お水で3リラ(150円)コーラ7リラ(350円)

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パンとレンズマメのスープはとっても美味しかった。メインはちょっと夕飯にしてはチープなイメージでしたが、バターライスは見た目より美味しかった。

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パンはお代わり自由でとっても美味しかった。

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イスタンブール市街です!マルマラ海沿いのレストランİstanbul Şehir Restoran
を出た所からの眺めです。

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夕飯を頂いたレストランİstanbul Şehir Restoranです。

日本であれば、なんとなくクリスタルに出てきそうな80年代風海岸沿いのレストランでした。レストランの入り口ではトルコアイス売りが軽妙な日本語で私たちを笑わせていました。
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レストランの隣に東ローマ帝国時代の城壁が普通に存在していました。
後でわかりましたが、ブルーモスク~アヤソフィア~トプカプ宮殿の城壁でした。

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初日の宿は空港側にあるWOW ホテルでした。こうやって地図で見るとわざわざ
夕飯を頂いたレストランİstanbul Şehir Restoranへ行くだけの価値はあるだろうか?

それにしてもWOWホテルは空港に近く、ほとんど空港内にあるホテルと言っても過言ではありません。


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【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 









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本日よりDdogは夏休をたらせていただきます!
1ドル123-4円の円安ドル高でとてもハワイなんか行ってられません!
昨年1ドル105円のハワイですら物価高と思ったくらいですから・・・
アリゾナ州セドナ在住の家内の友人が先々週末遊びに来たのですが、「日本は物価がなんでも安い!」と、のたまっていました。
ということで・・・・今年の夏休みは新興国通貨が安いので・・・ブラジルは遠いし、南アは危ないので・・・トルコリラ安!親日国トルコ旅行なんかいいかなと思いました・・・・
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円/トルコリラ10年

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で・・・・家内がJTBで10日間コミコミ全食付き成田発だけど89000円のツアー
”決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語”を発見!
行くっしかないでしょ!
1番
Ceddin, deden, neslin, baban(祖先も 祖父も 祖先も 祖父も)
Hep kahraman Türk milleti(勇猛なるトルコよ!)
Orduların, pekçok zaman(汝の軍隊は幾度となく)
Vermiştiler dünyaya şan.(世界にその名を轟かす!)
Orduların, pekçok zaman(汝の軍隊は幾度となく)
Vermiştiler dünyaya şan.(世界にその名を轟かす!)
2番
Türk milleti, Türk milleti(トルコ国家よ!トルコ国家よ!)
Aşk ile sev hürriyeti(汝の自由を享受せん!)
Kahret vatan düşmanını(祖国の敵を打ち負かし)
Çeksin o mel-un zilleti.(忌わしき奴等に絶望を与えん!)
Kahret vatan düşmanını(祖国の敵を打ち負かし)
Çeksin o mel-un zilleti.(忌わしき奴等に絶望を与えん!)

大凡の回る場所は・・・
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赤字が観光スポットで、青字が宿泊地です。

一日中バスに乗って、観光地とお土産屋さんとホテルを移動というイメージです。
さあ!朝6時に家を出て8時成田集合、10時のトルキッシュエアーで出発です。
途中Wi-Fiが通じれば随時更新する予定です。




エディルネはローマ帝国がトラキア支配の要とした古代都市ハドリアノポリス(アドリアノープル、英:Adrianople)の後身であり、トルコ語名のエディルネはハドリアノポリスがトルコ語化したエドレネボルの転訛である。14世紀にオスマン帝国の統治下に入って以降はルメリ州の州都となり、またブルサに次ぐ第二の宮廷が置かれてコンスタンティノープル(イスタンブル)が征服されるまで100年にわたり帝国の実質上の首都であった。15世紀にイスタンブルが正式の首都となった後もオスマン帝国の副都として宮廷が置かれ、帝国のバルカン半島支配の重要な拠点であり続けたが、近代にギリシャ、ブルガリアが相次いで独立、オスマン帝国も消滅したために国境地帯の地方都市に過ぎなくなった。。
エディルネの旧蹟
エディルネにはローマ帝国時代の遺跡はほとんど残っていない。わずかに市街に埋もれて東ローマ時代の城壁のごく一部と、「マケドニア人の塔」と呼ばれる物見塔が残っているだけである。
オスマン帝国時代の建造物の中でもっとも有名なものは、町の中央部の丘の頂上にあるセリミエ・モスクである。1569年から1575年まで足かけ7年をかけて建設されたこのモスクは、イスタンブルのアヤソフィアを越える直径31.5mの大ドームを持ち、大建築家ミマール・スィナンの最高傑作として名高い。そのほか、市街中央部の大建造物には、高さ68mのミナレットをもつユチュ・シェレフェリ・モスクや、1414年建造のエディルネ現存最古のエスキ・モスク、メフメト2世の父ムラト2世の建設したムラディエ・モスクなど、この町がオスマン帝国の首都であった時代に築かれたさまざまなモスクがある。
オスマン帝国の人々は狭苦しい市街に留まらず郊外地区に宮殿や別荘を盛んに造営した。エディルネ宮殿は市街の西を流れるトゥンジャ川の西岸に造営され、イスタンブルのトプカプ宮殿に次ぐ壮麗な規模を誇ったが、度重なる戦乱で破壊され現在では一本の塔と若干の廃墟が残るのみの、牧草地となっている。エディルネ宮殿跡の東を流れるトゥンジャ川の中洲はクルクプナルの野と呼ばれ、オスマン帝国時代以来、トルコの伝統格闘技であるヤールギュレシ(オイルレスリング)の会場となっている。
同じくトゥンジャ川の西岸には、メフメト2世の子バヤズィト2世が作ったモスク複合施設がある。オスマン帝国はこれら川向こうの施設と市街地をつなぐために多くの現存する石造りの橋がつくったが、なかでも町の南のカラアガチ地区やギリシャ国境検問所との間を結ぶ、メリチ川にかかるメリチ橋はミマール・スィナンの作品として有名である。また、カラアガチ地区には、オリエント急行開業当時にオスマン帝国側国境駅として開設されたカラアガチ駅の旧駅舎がトラキア大学の一部として残存している。
またエディルネはバルカン戦争の激戦地であることから、戦争を記念する軍事遺跡やモニュメントが数多くある。


チャナッカレ(トルコ語:Çanakkale)はトルコ共和国の行政区、チャナッカレ県の県都であり、国土の北西に位置する。この県はアジア・ヨーロッパにまたがる県域を持ち、ダーダネルス海峡に隔てられており、海峡交通の要所である。チャナッカレの港からは対岸のヨーロッパへと渡るフェリーが頻繁に運航している。軍事要衝だった名残りで、沿岸には軍事施設跡も見られる。トロイの木馬で有名なトロイ遺跡観光へのアクセス拠点として、観光客で賑わう。



イリオスは、プリアモス王の時にギリシア勢に攻め込まれ、滅亡することとなった。
この戦争の発端はゼウスの思慮によるもので、人口調節のためとも神の名声を高めるためとも伝えられる。プリアモス王の后ヘカベーは、息子パリス(アレクサンドロス)を生むとき「自分が燃える木を生み、それが燃え広がってイリオスが焼け落ちる」という夢を見た。この夢の通り、パリスはイリオスにとって災厄の種となった。パリスは、ヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神の美の競合、いわゆるパリスの審判によりアプロディーテーからスパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーを奪って妻とすることを約された。彼はスパルタからヘレネーを奪ったため、メネラーオスは直ちにトロイアにヘレネーを帰すよう求めた。しかし交渉は決裂、メネラーオスは兄アガメムノーンとともにトロイア攻略を画策した。
アガメムノーンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトールを事実上の総大将としたイリオス軍と衝突した。多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめた。しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ(一説には女神アテーナーが考えて)、エペイオスに木馬を造らせた。この、トロイアの木馬の詭計によってイリオスは一夜のうちに陥落した。陥落したイリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアースなど少数の者たちだけだった。



ペルガモンは、紀元前3世紀半ばから2世紀にアッタロス朝の都として繁栄したヘレニズム時代の都市である。その外港はエライアとエフェソスであった。ローマが紀元前129年に小アジアの西南部にアシア属州を設けたあと、ペルガモンは、エフェソスとともに、この属州の中心都市となり、繁栄を続けた。

ペルガモンのアクロポリス遺跡は標高335メートルの丘の上にあり、一群の建造物で構成されていて、上市と呼ばれている。その下方には、中市と下市が広がっている。上市には、宮殿、トラヤヌス神殿(ローマ時代のもの)、アテーナー神殿、劇場、ゼウスの大祭壇、アゴラ、図書館、武器庫の遺跡がある。上市の遺跡の一つ、ゼウスの大祭壇は、遺されていた壁面彫刻などを使って、ベルリンのペルガモン博物館の内部に復原・展示されており、往時の雄姿を再現している。



エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人(英語版)だったと考えられている。ヒッタイト人の文献に登場するアルザワ王国(英語版)[1]の首都アパサ(英:Apasa)がエフェソスと同一の都市であると多くの者が考えている。発掘からはミュケナイ文化に属する陶器が見つかっている。
古典期のエフェソスはアルテミス崇拝で著名であった。エフェソスでは比較的遅くまで王政が敷かれた。哲学者ヘラクレイトスはこの町の出身である。
紀元前356年、エフェソスのアルテミス神殿に放火すれば後世に名が残ると考えて実行した者がおり、このとき神殿は完全に焼尽した。エフェソスの市民は記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録からその名を削ったが、この試みは失敗し、ヘロストラトスという名が伝わっている。アルテミス神殿は再建され、世界の七不思議の一つに数えられた。


エフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。共和制ローマ最末期に第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られている。その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。エフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかったが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小されていった。これは、エフェソスの側にある2つの山から流れ込む土砂の堆積によるものであった。
エフェソスには比較的早くキリスト教が入り、新約聖書にはエフェソスの教会にあてた書簡、エフェソの信徒への手紙がある(パウロに帰せられるが、真筆書簡かどうかには疑いがある)。また伝承では、使徒ヨハネはパトモス島の流刑から解放された後、エフェソスの教会の主教(司教)を務める傍ら、ヨハネによる福音書を書いたと伝えられる(ただし現在の研究ではこの伝承の史実性は否定されている)。
イエスの母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったと伝えられる。またアンティオキアのイグナティオスにも、エフェソス教会に宛てた書簡が残っている。
4世紀以降キリスト教が公認されると、エフェソスはたびたび教会会議や公会議の舞台となった。その中でも重要なものは、東ローマ(ビザンツ)皇帝テオドシウス2世の勅令下で開催され、ネストリオス派に異端が宣告された431年のエフェソス公会議と、単性説と三位一体論の論戦が行われて前者が正統とされた449年のエフェソス強盗会議である。この決定は後に覆された。



パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによる。
二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となる。その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したものである。
棚田の畦の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長する。これは温水が畦を越流する時に石灰分の沈積が化学的に加速するためでもある。このような景観が約200mの高さにわたって形成されている。規模はずっと小さいが、同種の微地形が鍾乳洞内にもみられることがあり、これを畦石池という。
ヒエラポリス遺跡
パムッカレの石灰華段丘の一番上にある遺跡。ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。ローマ帝国時代にも地震で破壊されるが、その後復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。ローマ劇場、ローマ浴場などが残る。



フリギア、リディアの時代から存在する都市で、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン(Iconion) と呼ばれた。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。
パウロは弟1次伝道旅行の際、バルナバを伴って訪れた。その後何度か訪問した。かなりの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があった[1]。
パウロ書簡の一つガラテヤ人への手紙は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある(南ガラテヤ説)。



カッパドキアは、標高1000メートルを超えるアナトリア高原中央部に、100km²近くにわたって岩石地帯が広がる台地です。キノコや煙突のような形の奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観はまさに自然の驚異です。この不思議な風景は、柔らかい地層と硬い地層が重なり合い侵食されて生み出されました。
「シリーズ世界遺産100」では、この奇岩の大地に秘められた、キリスト教徒たちの営みを伝えます。3世紀半ば、ローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教の修道士たちが、カッパドキアに移り住みました。彼らは柔らかい岩をくり抜いて住居や教会を作ります。12世紀に作られた洞窟教会には、光がささないため当時のフレスコ画がそのまま残っています。キリスト教徒たちはこの地でペルシャやイスラム勢力に包囲され、絶えず脅威にさらされていました。そのため彼らは、敵から一時的に身を隠す場所を地下に求めました。1965年に発見された地下都市は、地下8階、深さ65メートルに及ぶ巨大なものです。地下1階のワイン製造所、地下2階の食堂、居間、寝室、収容人数に合わせて自由に掘り進められました。地下5階をつなぐ通路には、外敵が襲ってきた時通路をふさぐため、1トンもの大きな石を転がして通路を閉じる仕掛けもありました。そして、最下層の空間は十字架の形に掘られた教会になっています。カッパドキアのキリスト教徒たちは、地下都市の一番底に、神への祈りの場を設けたのです。



ボアズカレ(Boğazkale)はトルコの小村。クズル・ウルマック川に抱かれた村。旧名はボアズキョイ(Boğazköy)といった。現在はチョルム県ボアズカレ郡に属する。トルコの首都アンカラの東150kmにありアナトリア高原のほぼ中央部である。
ボアズカレが紀元前16 - 14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャと確認されたのは、1906年のことであり、以来100年余り発掘はゆっくり続けられている。1905年、ヒッタイト帝国の都を探していたドイツのH・ヴィンクラー(アッシリア学者)が、イスタンブルから中央アナトリアのある村で粘土板文書が発見された情報に接し、発掘調査のために、この村にやって来た。翌年から発掘調査に取りかかった。1906-1907年、1911-12年にわたって発掘を行った。そして、村の遺跡から多くの粘土板を採取した。その粘土板の多くは紀元前2000年紀後半の国際語として使用されていたアッカド語で書かれていた。その中にヒッタイトとエジプトとの「カデシュの戦い」後に交わされた「和平条約」を発見した。ヴィンクラーは、この条約の内容と同じものがエジプトのカルナック神殿の壁に刻まれていることを知っていた。これらの粘土板の発見により、発掘現場が間違いなくヒッタイト帝国の都であることが明白になった。[出典 1]。 大神殿跡、突撃門や上の街神殿群跡、獅子門などが発掘され、同遺跡群から出土した粘土板に描かれた楔形文字、象形文字の解読が、ヒッタイトに関する様々な史実解明に繋がった。






メフメト2世が、1460年代頃造営を開始し、1478年頃までに完成した。メフメト2世がここに居を定めてからは、1453年にコンスタンティノープルを征服して以来の宮殿が「旧宮殿」と呼ばれるようになったのに対して「新宮殿」(サライ・ジェディードあるいはイェニ・サライ)と呼ばれ、またイスタンブルに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれた。現在使われているトプカプ宮殿の名は、19世紀にこの宮殿から皇帝が去った後、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」(トルコ語:トプカプ)にちなんで呼ばれるようになった。 宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能した。君主(のちには大宰相)が主催するオスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は、宮殿の「ドームの間」(クッベ・アルトゥ)と呼ばれる部屋で開かれ、古い時代にはさらに「ドームの間」の隣には中央政府の書記局と、帝国の公文書や宝物・税金を蓄える国庫が置かれた。

当初は後宮(ハレム)は旧宮殿に残されていたが、スレイマン1世のときトプカプ宮殿に移された。ハレムの人々は、スレイマンの夫人ヒュッレム・スルタンを端緒として16世紀後半頃から政治に介入するようになり、17世紀には君主の母后が政治を自由に動かす「女人の天下」と呼ばれる時代を迎えた。
17世紀中頃に大宰相の執務所と書記官僚の文書行政機構が大宰相公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に移ると、宮殿はオスマン帝国の最高政務機関としての実質を失った。その後も、トプカプ宮殿は依然として皇宮であり、帝国の儀礼と公式行事の中枢であったが、1853年に宮廷が西洋風のドルマバフチェ宮殿に移ってからは放置され、荒廃した。


スルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)は、トルコのイスタンブルを代表するモスクで、世界遺産であるイスタンブルの歴史地区の歴史的建造物群のひとつ。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。設計はメフメト・アー。「世界で最も美しいモスク」と評される。
世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。

アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia))は、トルコのイスタンブルにある博物館[1]。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であった[2]が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり[3]、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館(トルコ語: Ayasofya Müzesi)として使われている[4]。
東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。




以上を回る予定です。



【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB 旅物 第2日目エディルネ~トロイ遺跡 

【実録】決算祭りトルコ直行便10日間JTB旅物語 第3日目 アクロポリス~クサダシ エーゲ海沿いバスの旅
 








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芥田知至 三菱UFJリサーチ&コンサルティング 主任研究員

[東京 28日] - 2008年のリーマンショックを挟んで140ドル台から30ドル台まで急落した原油価格はその後、2年程度をかけて100ドル台まで回復した。しかし今回は、需給面や金融政策面などでの様々な環境の違いから、その大台に戻すまでにはさらに長い年月を要するだろうと、三菱UFJリサーチ&コンサルティングの主任研究員、芥田知至氏は指摘する。

同氏の見解は以下の通り。

<前回の反転局面と何が違うのか>

今後の原油相場の見通しについては、一部に早期反転を予想する向きもあるが、私はそうしたシナリオに確信を持てないでいる。

むしろ最短でも5月か6月までは基調としては弱含みか、あるいは底ばいの状態が続き、その後反転したとしても、相当緩やかなペースになる可能性が高いと考えている。

振り返れば2008年9月のリーマンショック後、同年12月に1バレル32ドルまで下げた原油価格(WTI)がその1年後には80ドル台まで戻したことから、今回も早晩同じような軌道をたどるとの見方もある。

しかし、当時は新興国投資ブームがまだ続いており、需要が拡大していくとのシナリオも健在だった。また、世界的な金融危機の克服を目指して米国から緩和マネーがふんだんに供給され、その過剰流動性を背景に、コモディティ投資ブームも続いていた。

しかし、今回の原油安局面では米連邦準備理事会(FRB)がすでにフローから見た量的緩和を終了し、年内の利上げも視野に、金融政策の正常化に向かって動き出している。日欧からの緩和マネー供給は引き続き期待できるものの、新興国経済への資金流入は、米量的緩和局面と比べれば、明らかに細ってくるだろう。加えて、過去の米利上げ局面では、新興国経済は混乱もしくは停滞するケースが多かった点にも注意が必要だ。

原油価格は地政学リスクの高まりなど突発的なイベントで短期に急騰しやすいので、確実なことは言えないが、相場には当面、上方向よりも下方向に圧力がかかりやすいと見るのが妥当ではないだろうか。

<需給改善には相当の時間が必要>

そうした見方をサポートするのが、需給の状況だ。原油価格が高騰を始めた2000年代半ば以降の変化をおさらいすれば、供給面では、北米・南米・アフリカ・中央アジアなどでの増産が特に目立った。リーマンショック直前の2008年7月に147ドルまで届いた原油価格高騰を受けて、資源開発が急ピッチで進み、その後しばらくしてから実際の供給力として大きく現れるようになってきたのだ。

一方、需要については、リーマンショック後、「4兆元」の景気刺激策に乗り出した中国を筆頭に、新興国のエネルギー消費は好調な伸びを示し、原油価格を下支えした。しかし、昨年秋口にかけて、中国経済の勢いに一段と陰りが見え始めると、10月半ば頃を境に、世界景気の減速懸念が急速に強まり、原油需給の先行きにも黄信号が灯った。

後付けの解釈になってしまうが、今思えば、需要がそれほど拡大していない割には、原油価格は高かったのかもしれない。欧州経済がデフレの瀬戸際で喘ぎ、日本経済が消費増税の影響などで4月以降2四半期連続のマイナス成長を続けるなかで、唯一気を吐く先進国経済である米国においても、ガソリン需要は伸び悩んでいた。そうした「ネガティブサプライズ」が都合よく見過ごされていた面はあろう。同様に、シェールオイルの増産が続いていたにもかかわらず、供給増要因としてマーケットは十分に織り込んでいなかったとも言える。

ただし、無理もないところはあった。イランの核開発問題、「アラブの春」以降のリビアの供給障害、あるいは昨年初めのウクライナ情勢の緊迫化、そして「イスラム国」の台頭といった地政学リスクの高まりが相次いだからだ。これらは、時間が経つにつれて、実際の原油需給の引き締めにつながらないことが分かってきた。それが昨年の後半だ。加えて、その時点で石油輸出国機構(OPEC)が協調減産に動かないという衝撃もあった。

そして今、弛んだ需給構造が急速に引き締まる状況にはない。2008年末以降の前回の反転局面では2年と数カ月程度で100ドル台(2011年第1四半期)に戻したが、今回は供給側の絞り込みがよほど急ピッチに進まない限り、大台の回復は期待薄だろう。

<かく乱要因はシェールの減産ペース>

では、原油価格は逆に底なし沼のように沈んでいくのだろうか。確かに、チャート上は抵抗線と呼べるところがなくなっている。次の参照価格は、先ほど述べた2008年12月の安値32ドル近辺となろう。そこまで落ちる可能性がゼロとは言えない状況だ。

ただし、一部に言われているように、30ドルを切って、20ドル台、そして10ドル台に下落していく、あるいは20ドル台で定着するというようなシナリオの蓋然性は低いように思える。過去20年余りを振り返れば、1990年代後半に10ドル台を割ったこともあるが、当時とは需給の構造もプレーヤーも異なる。

確かに、中東の巨大油田はトータルコストで見た損益分岐点が10ドル程度、オペレーションコストが数ドルと言われており、今の価格水準でも十分持ちこたえられる。だが、高騰した価格を前提に、2000年代半ば以降に開発された北米のシェールオイルをはじめとする他の油田は、損益分岐点がその何倍も高い。原油価格が20ドル台へ下落する前に、供給に急ブレーキがかかって、相場を下支えすると思う。

特にシェールだ。総コストから見た採算ラインは、低いものでは20ドルだとしても、大半は60ドルから80ドルだろう。従来10―20ドル程度と見られていたオペレーションコストは、原油安を背景に操業に必要なエネルギーコストが下がっているので、それよりもかなり低くなっているはずだが、いずれにせよ現在の価格だと、総コストを賄えず、新規開発にブレーキがかかり、稼働する掘削機は今後減っていく可能性が高い。

また、ロシア、ベネズエラといった、経済ファンダメンタルズの脆弱なエネルギー資源国は、現水準の原油安が続けば、経済危機に見舞われる可能性が高まる。そうした危機が供給障害という形で現れるならば、これもまた原油価格の下支え材料となろう。 

加えて、11月の総会で協調減産を見送ったOPECにしても、先に白旗を掲げるわけにはいかないが、北米のシェール減産が進めば、市場シェアを落とさない程度の生産削減ならばあると思える。いずれにせよ、需要面で大きな改善を見込みにくい2015年は、このように供給面でのゆっくりとした変化が価格形成に影響を与えていくことになろう。

ただ、私のシナリオに誤差が生じるとすれば、それは前述したシェール事業者の減産判断の程度だ。従来の油田・ガス田プロジェクトは調査から探鉱・開発、そして生産開始にこぎつけるまでに気の遠くなるような時間を要し、投資の回収期間も長期にわたった。しかし、シェールプロジェクトの一連のプロセスは対照的に、より短期で済み、投資の回収期間も短い。事業者のマインドは、従来のプレーヤーとはかなり異なる。

彼らが、思いのほか、耐え忍べば、価格にはさらに下落圧力がかかる。逆に、生産調整が前倒しで進むならば、価格反転圧力は、私が予想しているよりも、早く強く出る可能性がある。シェールは引き続き原油価格の行方を大きく左右する要因となりそうだ。
江戸時代の米相場の格言に「野も山も皆弱気なれば、阿呆になりて米買うべし」という逆張りの格言だ。反対に「落ちるナイフは掴むな」、あまり拙速に買うと怪我をするという格言もある。
中東産油国の地政学リスクを勘案すれば、産油国の政治は不安定であり、多くの中東諸国は、反政府勢力との対立により産出量が激減したリビア同様、政治リスクを抱え込んでいる。油価が長期的に低落傾向をたどるかどうかは読みにくい。今後も原油相場がこれまで同様にジェットコースター的な動きをする可能性は高いだろう。
油価はいつ反転するかもしれないということだけは頭の隅に置いておくべきであろう、要注意だ。
現在の油価水準は産油国から消費国へ年間1兆ドル超とも試算される所得移転効果を持つものであり、産油国経済に対する負の打撃は甚大である。すでに反米国家ベネズエラは経済破綻の危機に直面し、またサウジアラビアにおいても財政悪化は回避しがたい。ロシアに至ってはもはや死に体である。
油価下落は様々な波及経路をたどり世界各国に影響を与え、金融・資本市場が整備されていない新興国において金融不安が発生するリスクを高めることとなる。
だが、この原油安動きは米国が22世紀まで覇権を握る国家戦略である可能性があるとわたしは思うのである。
米国経済は6年前にリーマン・ショックに見舞われて世界的な信用危機になったものの、バーナンキ前FRB議長の「なんでもあり」の大胆な超緩和政策が功を奏して昨年後半までには実体経済は改善し、景気はデフレ経済に陥ることなく最近ではむしろインフレ懸念をもいわれる状況となってきた。
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昨年米国は10/30 QE3の終了と金融引き締めが決まった。その翌日日銀黒田総裁は黒田バズーカ2を放った。これは日米が連携した動きである。
米国がマネーの蛇口を絞めると決めた翌日日銀の蛇口が開いたのである!
その途端の原油の下落が止まらなくなり現在も下落中である。
そもそも9.11~イラク戦争~リーマンショック~超金融緩和~米国経済復活~金融引き締め~原油暴落・・・全て繋がっているのである。
米FRBはリーマン・ショック後の金融緩和策政策(QE)を一次から三次まで続けて、ついに昨年景気復活の芽を生やすことに成功した。そして、リーマン・ショック後にとられていた金利ゼロ政策を今年6月頃に解除し、今年半ばには利上げに踏み切ると宣言した。
現状、米国を除く旧主要先進国G7は発展どころかむしろ衰退気味の中にあって、経済発展は望めない状況の中にある。米国としてはこれから経済発展力の強い新興国に頼っていかねばならず、現状、米国の利上げによって新興国が経済発展に損害が発生するような米国金利の利上げはしたくないというのが米国の本心である。
米国経済はリーマン・ショック後に採られた異例の金融政策を正常な姿に戻そうとしている。米国の利上げによるドルの蛇口が閉った代わりに円とユーロの蛇口が開いたのである。
現状の世界経済は米国の考え通りで動いていると云っても過言でない状況である。米国はリーマン・ショック時から唯一の経済復活をなした国であり、現状、米国のFRBの世界経済への発言の重みは大きい。世界経済は米国が右を向けと云えば、一斉に右に向かなければならない状況である。
米国は経済・金融について国家戦略として十分に研究され、政権が代わっても一貫した政策が貫かれている。陰謀ではなく、国家戦略であると私は思うのである。
どこで行動すれば株値がどう動き、またいつ動けば為替は上昇するか、下落するか、その辺は十分心得ている。
米国と敵対するロシア・中国・ベネゼイラ経済は目下崩壊中である。

Newsweekの2015/02/03 p15記事

 国際金融の再編を狙う中国は 21世紀の「ひよわな花」か    約40年前に米政治学者が発した日本への警鐘に学ぶ中国経済崩壊論の虚実を見極める4つの論点  河東哲夫

中国が世界中で鉄道や道路建設にいそしんでいる。先進国では不動産ばかりか製造企業まで買収し、野心はついに世界金融体制の組み替えにまで及んだ。

 アジアインフラ投資銀行やBRICS開発銀行を中国主導でつくり上げようというのだ。経済史家アンドレーグンダー・フランクは著書『リオリェントアジア時代のグローバルーエコノミー』で、19世紀初頭までは中国とインドが世界のGDPの4割近くを生産していたと述べた。世界はそんな時代に戻りゆくのだろうか。

 実際、中国の勢いはすごい。アフリカのアンゴラやスーダンなどではインフラ建設を餌に原油利権を次々に取得。パキスタンではアラビア海の入り口近くのグワダル港を整備し、高速道路で新疆地方と結ぼうとしている。中央アジアでは融資を連発して「シルクロード・ベルト」経済圏をつくると豪語する。ニカラグアでも「第2パナマ運河」を建設して、アメリカの影響下にあるパナマ運河を回避しようとしている。ギリシヤのアテネの外港ピレウスでは海運企業・中国遠洋運輸が2埠頭を租借して対EU輸出の拠点にする。

 製造業でも聯想(レノボ)がIBMのパソコン部門を買収し、浙江吉利控股集団はボルボを買収している。通信機器大手の華為技術(ファーウェイーテクノロジーズ)も技術水準は中程度ながら低価格で世界市場を征圧。

ボストンでは中国北車集団が同じく低価格攻勢で地下鉄車両の大量受注にこぎ着けた。
携帯電話の小米(シヤオミ)科技は、設立後わずか4年で中国1位のシェアを獲得し、サムスンの経営を脅かしている。中国の縫製企業も低賃金労働者を求めて、カンボジアやバングラデシュに展開している。ただ中国の経済は欧米とは違って、政治的な原理で動いており、同じ目で見ていると判断を誤る。

目に付くボロは多いが

振り返れば日本が高度成長のただ中にあった72年、アメリカの政治学者ズビグニュー・ブレジンスキーは『ひよわな花・日本 日本大国論批判』で、日本の成長はもろくいずれ崩れると述べた。同じくブレジンスキー流の意地悪な目で今の中国を見ると、目に付くボロはいくつもある。

■内向きのインフラ建設 
中国の外国でのインフラ建設は公共事業の海外版にすぎない。中国からの資材と労働者ばかり使うから、現地で感謝されない。
■まがい物の国際銀行
中国の対外融資は既に商務部、財務部その他省庁が互いに調整せず、相争っている。そうしたなかで国際金融機関をつくっても、中国政府から十分な資金は出ないだろう。BRICS開発銀行はロシアやインドなどとの主導権争いで前途多難だし、アジアインフラ投資銀行も北京の本部は各国理事が常駐しない、まがい物。アジア開発銀行ほどの資金規模と声価を得ることはないだろう。
■不自由な通貨 
「人民元の国際化」を掲げるにしても、中国が巨額の貿易黒字を続けて元をため込んでいる限り、国際市場に潤沢に回らない。しかも資本取引まで自由化すれば、元は投機の対象となって、中国の経済・金融に悪影響を及ぼすだろうから中国は二の足を踏む。
■政治闘争の余波 
最近は日本やドイツなどとの合弁自動車企業などで、中国側責任者(実質的な社長で、多くの場合その人事は共産党の支配下にある)が突然更迭されることが増えている。習近平国家主席一派が国内の利権ポストの総ざらえを始めたに違いないが、これでは中国と安心して取引できない――。

 とはいえ、かつてブレジンスキーを真に受けて、日本株を買わなかった者がその後どれだけ後悔したか。今の中国も01年にWTO(世界貿易機関)加盟後の00年代、外国からの直接投資や貿易黒字急増で、毎年20兆~30兆円の外貨が流人した。小金を持っていることは確かだ。
 まずは中国の崩壊を待つよりも、いかに利用するかを考えたほうがいいのではないか。ただし、用心は欠かせないが。 

中国の強さと脆もろさ 
私はまったく意識していなかったが、スイスフランにリミッターがついていたことは知ってはいたが、具体的なことは意識したことはなかった。

原油安からスイスフラン高ユーロ安を誘導する金融政策など米国でなければ思いつかない。世界の誰もが忘れかけていたスイス中銀の上限撤廃による市場の混乱や、原油価格のわが身に及ぶ限界を見定めて、米金利が2%を割り込んだ水準で定着させるところで止めるなど、他の国でとてもそんな計算をできるものではない。

スイスフランの今回の施策で大きな痛手をこうむったのは中国とロシアである。米国の利上げ後、世界経済(要するに新興国を含めた世界経済)が米国の掌の上で踊らされつつある。米国は世界経済を完全に掌握し22世紀になっても覇権を他国に譲るつもりはないようだ。
現状、利上げによって損害が発生する可能性が高いのがEUを中心とするユーロ経済である。ユーロ経済が現状立ち直りが一番遅れている中にあって、米国のドル高によってその恩恵を一番受けている状況にあるにもかかわらずドイツの反対によって「量的緩和政策」が進展していない状況にあることが、米国政府とFRBの一番苦く思っていた点である。
米国は景気拡大が進み、デフレどころかインフレが心配される状況になってきていることを米政府は昨年後半、非常に苦々しく思っていた。それもドル高という米国の経済的恩恵を一番受けているドイツ経済が、ぬくぬくの状況を変えようとしない姿は何としても断ち切らねばならない。 ドイツが態度を変えない限り、リーマン・ショック以降の世界経済のイレギュラーな姿は一つも変わないとみた米国はECBでの金融緩和を確実にするためドイツたたきの含みを込めスイスフランのリミッター解除を工作したのではないだろうか。スイス国立銀行(中央銀行)もスイスフランの上昇を抑えるために対ユーロで設けていた1ユーロ=1.20スイスフランの上限を撤廃すると突如発表した。
スイスフラン売りユーロ買いポジションを立てていたロシア・中国・ユーロ諸国は米国の言う事を聞かねばならない状況となった。
 世界経済は昨年後半からリスクオフの状況にあった。もし、ECBの大規模な量的緩和決定がなかりせば、現状の世界経済はリスクオフの状況にあった。思い返せばリーマン・ショック後の世界的信用危機の時も、やれギリシヤ危機がどうなのかと云ってなかなか経済の動きが決着しなかったが、世界的な信用危機もユーロが危機を回避しようと合意したことで危機が終わる流れとなったが、今回もユーロが合意したことで危機は去ったようだ。欧州には中心的な経済の指導者がいないことが癌である。米国の強引とも思われる経済の危機指導があって今回も世界経済は落ち着きを取り戻した。いずれユーロ経済も共通の財政を導入しなければならない時が訪れるであろう。
原油を中心とするエネルギーの暴落である。さらに、リーマン・ショック後に上昇して大きな資産形成した物が下がり、逆にリーマン・ショック後下がった物が上がるという逆転現象である。米国にドルが帰ってきたことによって米国の経済的な力が回復したことで、米ドル中心に動く経済が復活したことである。
今回のやや強引とも思われる原油価格の低下、欧州の量的緩和などもドル高を維持するための動きである。リーマン・ショックで分散されたドルを米国に戻す政策がとられ、これから2020年までは米ドルの安泰時代が完全に築かれたようである。
リーマン・ショック後あれよあれよと経済大国となってしまった中国とロシアは見る影もないような状況となってきた。欧州中央銀行(ECB)の予想を上回る大規模の量的緩和決定を契機に、世界の市場はリスクオフの市場から再びリスクオンの兆しが見えてきた世界の株式市場もさすがに一息ついた格好であるが、痛めつけられてしまった市場では積極的に事業を展開すると痛い目にあうという空気が生まれ、先行きには不透明感が感じられる状況にあり、各国の市場には積極的に出たがらない空気が生まれている。
米国がたれ流したマネーを戻したとはいうものの、日本とユーロの量的緩和は半端な額ではない。今年から来年と緩和が続いていけば市場にばらまかれるマネーの量は相当大きな額になる。
それに加えて米国の景気が落ち込まず、足元の底堅さが維持されれば金利は上昇することは間違いなく、日欧の量的緩和が進めば金利が上昇することは間違いなく、米国の金利は間違いなく上昇する。利上げは過去の例からすれば間違いなく金利上昇が正当化され、最近起こっているリーマン・ショックによって下がった金利は間違いなく上昇する形となるだろう。
米国のFRBは世界経済を現在思うがままに動かせる経済力をつけてきた。最近のリーマン・ショック時にたれ流されたドルの米国への里帰りの圧力からみても、米国は2-3年後の完全な経済の復活に自信を持てたとみている。今回のユーロ国に量的緩和を履行させた自信でドルの強さをすべての面で協調してくるだろう
原油が下がった理由は一に需給バランスだろうが、台頭するイスラム国叩きの意味合いもある。一説にはサウジが米国のシェールオイル叩きの為に原油安だと情報操作されているが、真相は今のところ不明だ。
サウジのターゲットがシェールオイルに対するシェアの維持ではなく、「イスラム国」に打撃を与えるためのような気がします。
「イスラム国」の勢力が衰えないのは占領した地域の油田からの収入という財政的基盤があるからだと言われています。テロとの戦いにおいての常套手段は、「資金源を断つ」ことです。もし、サウジが「イスラム国」の弱体化を狙っているとしたら、中東産油国の原油生産コストは30㌦台だといわれているなかで、原油価格が40ドル割れ寸前だからといって直ちに生産調整に転じる可能性は低いと考えなけれならない。サウジが減産しないという決断には、当然米国の意向も反映されている。
昨年8月に米国はシリア領内の「イスラム国」に対する空爆に踏み切りました。しかし、その効果は限定的だと言われています。シリア領内の「イスラム国」に対する空爆の成果がなかなか上がっていなかった。
オバマ大統領にとって、米国が地上軍を派遣し本格的な戦闘に巻き込まれることを避けつつ、「イスラム国」を弱体化させるには「資金源を断つ以外にない」と考えるのは、ある意味当然の選択です。副産物としてロシア経済の弱体化も図ることが出来るという点では一石二鳥だ。
更にQE3終了により金融政策による景気浮揚効果にこれ以上の期待がかけられなくなった今、石油価格の下落は景気浮揚のために有効な手段です。原油価格の下落はインフレ率の低下要因になりますが、雇用環境が改善しているなかではそれを上回る景気刺激効果も期待できます。FRBが来夏にも利上げに動くと目されているなかで、原油価格下落によるインフレ率の低下は市場金利の上昇を抑えますから、金利上昇に伴う景気抑制効果を緩和することも期待出来ます。
資金で締め上げられたイスラム国が今回の法外な身代金要求に繋がったのだろう。
現状の米国景気の拡大化が続状況の中で、日本に続いてユーロの大緩和が始まって流動性資金が市場に大量にばらまかれるのであるから、基本的にはバブルが始まったと思った方がよさそうである。私が現役の時代にもなかったバブルが訪れる可能性がある。昭和38年頃のバブル到来の時に株と土地を持たないやつはバカだと言われた。これだけの大量の流動性資金がばらまかれたことを考えると、上がるものは株式しかないという時代が訪れる。さらにドル高時代は続という考えから、株以外にはドル関連の商品しかないということになる。
日本はこれまで円安によりエネルギー資源の輸入コストが増大したことなども受けて、2011年以降、貿易収支が30年続いた黒字から一転して赤字へと転落したが、この逆オイルショックはまさに天佑とも言えよう。それでなくとも輸入物価の上昇に伴い増大していた国民の負担感は軽減されることになる。
一方、コア消費者物価指数(CPI)に対して油価下落は当然、押し下げ要因となる。すでに11月のコアCPI(消費増税の影響分を除く)は0.7%に下落しており、このまま原油安が続けば、日銀の「2%目標」はますます遠くに霞んでしまう。
ならば、生鮮食品を除くコアCPIからエネルギーも除いたコアコアCPIへと指標を変更すれば良いのではないか、との議論も聞かれる。しかし、それはゲームの途中でルールを変えるのと同様にアンフェアであり、黒田日銀が採用するとは考えられない。2015年度を中心とする期間に2%程度に達することを目標とする限り、今夏には追加緩和策が打ち出される可能性が高い。エネルギーの大半を海外に依存する日本の貿易収支に対する影響も大きい。財務省貿易統計によると、2013年の日本の輸入額は81.2兆円(輸出69.8兆円、貿易収支赤字11.5兆円)とこれまでの最高だった2008年(78.9兆円)を上回った。
現在の逆オイルショックがいつまで続くか不明だが、ガソリンなどエネルギー関連商品の下落は国民の購買力を増やすこととなり、米国では大型車の売れ行き好調などその兆しが見られる。ガソリンに対する税率が高い日本ではそのような動きは読みにくいが、景気浮揚の引き金になる可能性を十分に秘めていると言えよう。


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