土日は水戸の実家に帰っていました。
チューブに繋がれ、手はチューブを抜かないよう拘束されていた母であったが、9月の終わりには、すべて裏ごししたペースト状のものだが、物が食べられるようになった。
10月はチューブも外れ、車いすにも乗れ、外の景色も見れるようになり喜んだのもつかの間、現在の日本では長期入院はさせてもらえず、食事が摂れ、車いすに乗れるようになると、病院から退院を余儀なくされます。
退院しても、父に毎食ペースト食を作ることは不可能であり、排便排尿もおむつとチューブで、年老いた父親一人での介護は無理で、退院した途端、行先が無ければ父も母も共倒れになる可能性が高かった。
日頃、神仏を敬っていたせいか?運よく介護施設へ移動できた。もし、施設が無かったら、私が会社を辞め介護する選択肢も考えなくてはいけなかったかもしれない。
あと数年もすると父親も介護が必要になるかもしれない。その時はどうするか?
待て、自分が80過ぎた時は?と考えると・・・とても考えたくもない。
偶然↓の記事を読んだ。
2035年「人口の5割が独身」時代がやってくる
親や配偶者に「依存しすぎ」ていませんか?
【東洋経済】荒川 和久 :ソロ男プロジェクト・リーダー/独身研究家
あまいなー荒川さん。現実は、もっと厳しい。独りで介護施設に入って生きていけるか?わたしも5年10年先を考えるととても恐ろしい・・・
すでに結婚している人も「独身」で生きることに備える必要があります(写真:Jaromir Chalabala / PIXTA)
あなたは、20年後の未来を考えたことがありますか? 国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、約20年後に当たる2035年には、生涯未婚率は男性30%、女性20%と推計されています。
生涯未婚率とは、46~54歳の未婚率の平均値ですが、15歳以上の全年齢層の未婚率で見ると、同じく2035年には男性35.1%、女性24.6%となり、有配偶率は男性55.7%、女性49.3%と、女性の有配偶率が初めて50%を切ります。さらに、離別死別による独身者率も、男性だと9.2%ですが、女性は26.1%ということになります。男女に差が出るのは、女性のほうが男性より長生きするためです。
■人口の半分が独身の「ソロモンの時代」がやってくる!
独身というと、つい未婚者のことを思い浮かべがちですが、有配偶者以外はすべて独身なのです。つまり、15歳以上の全人口に占める独身者(未婚+離別死別者)数は、20年後には男女合わせて4800万人を突破し、全体の48%を占めます。人口の半分が独身生活者となる、「ソロモン」の国に日本はなるのです。日本のソロ社会化は不可避で、確実にやってきます。
帯別に見ても、いまや「単身世帯」が最も多く、かつて標準世帯と呼ばれた「夫婦と子」からなる世帯は、2010年時点ですでに「単身世帯」に抜かれています。2035年には「単身世帯」が4割弱を占め、「夫婦と子世帯」は23%程度にまで縮小すると推計されています。
その一方で、「夫婦のみ世帯」もなだらかに増加しています。これは、ひとつに子を持たない選択をする夫婦の増加があります。もうひとつは、子が独立した後、高齢夫婦だけで暮らす世帯の増加の影響があります。そして、その高齢夫婦世帯がやがて高齢単身世帯へとつながっていくわけです。
■20年後には一人暮らし世帯が全体の4割に?
つまり、日本の20年後とは、独身者が人口の半分を占め、一人暮らしが4割となる社会なのです。そう考えると、同じ屋根の下に、親子が「群」となって暮らす家族の姿は、もはや風前の灯となりつつあると言っても過言ではありません。こうした個人化の流れは、日本だけの話ではなく、先進諸国に共通して見られる傾向です。個人化に伴う「家族」など従来の共同体の崩壊については、多くの社会学者が論説を展開しています。
ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、「昔、家族は、資本主義社会での心のよりどころだった。だが、個人化によって家族はリスクの場に変わりつつある」と分析しました。ベックによれば、従来の伝統的集合体の概念である家族とは、「ゾンビカテゴリー(死に体カテゴリー)の好例である」と表現し、人間にとって家族とはもはや必然的共同体ではなく、その親密性は選択的であるとまで言っています。
ベックと並び称される社会学者ジグムント・バウマンも同様に、個人化について言及しています。バウマンは、かつて個人は、地域や会社や家族といった中間的共同体の中でまとまっていたソリッド(固体)社会にあったが、現代は、個人が流動的に動き回るリキッド(液状)社会となったと表現しました。安心・安全・安定のそれら固体的共同体が失われたことで、人々は自由に動き回れる反面、つねに選択や判断をし続けなければいけない自己責任を負うことになるのです。
ベックもバウマンも、この個人化の流れは宿命的・運命的なものであり、逃れられないとまで言い切っています。
「家族」だけではなく「職場」というコミュニティでも同様の変化が起こっています。かつては一生同じ会社にとどまるという働き方が普通でしたが、いまや自由に転職し、キャリアアップするという考え方が出てきています。副業を認める流れもあります。働く場所をオフィスに限らないノマド的な働き方もそのひとつです。こうした動きによって、労働者が個人としての活躍の場と自由度を拡大したといえるでしょう。
消費の世界においても、個人化は顕著です。大衆という「群」がモノを所有することに価値を見いだした時代はとうに過ぎ去り、人々は個人としての体験に価値を見いだし、それを仲のよい友人やSNSのグループなどの「身近で小さなコミュニティの中」で共有し、価値を再確認するようになりました。ソロ社会化によって、今後も消費動向は劇的に変化すると予想されます。
この個人化の流れから発生するソロ社会化についても真剣に考えるべきなのです。結婚があらゆる人たちの人生の必然だった時代は社会的に終わりつつあります。結婚して、子を産み育て、家族となって暮らす、誰しもがそんな統一レールの上に乗るとは限りません。一度結婚をしても、離別や死別などによって、いつでもソロに戻るリスクがあります。すなわち、結婚したらすべてがハッピーエンドになるわけではないのです。
■昭和的価値観の既婚男性は「ソロ社会」を生き抜けるか
実は、そうしたソロ社会において、最も危機意識のないのは「昭和的な価値観」を引きずる既婚男性の方です。特に、リタイヤ後の高齢既婚男性の配偶者に対する依存度は深刻です。
自殺を例に挙げてみましょう。もともと自殺率は圧倒的に男性のほうが多いのですが、これを配偶関係別で見ると、最も高いのは離別者です。続いて死別者。要するに、配偶関係にあった男性が、妻と離別か死別した場合の自殺率がいちばん高いということになります。
既婚男性の皆さん、想像してみてください。もし、自分より先に妻に先立たれてしまったら? もし、長年連れ添った妻のほうからいきなり離婚を突き付けられてしまったとしたら? あなたはその先、一人で生きていける自信がありますか? 突然一人になったとしたら、はたして生きていけますか?
第一生命経済研究所の有配偶高齢者60~79歳の男女を対象とした調査レポート(2015年)でも、病気や寝たきりになったときに夫の6割が妻を「頼りになる」と回答しているのに対し、妻はたったの2割。逆に「頼りにならない」としている率が42%に達します。また、「生まれ変わっても現在の配偶者とまた結婚したいか」という問いに対しても、夫の6割は「イエス」と答えているのに対し、妻は3割にも満たない。ここにも、配偶者に一方通行で依存する夫の傾向が見てとれます。なんとも切ない話ではありませんか。
■行きすぎた家族依存はかえって危険!
未婚化、晩婚化、少子化、高齢化、離婚やシングルマザー増加などは、それぞれ密接に関連した問題です。未婚者だけではなく、結婚したって誰もが「ソロに戻る可能性」があり、たとえ家族がいても安心はできません。家族の絆を信奉するあまり、家族だけが最後のセーフティネットという考え方に縛られると、やがて家族同士の共依存性を高め、結局は共倒れになる危険性があります。
拙著『超ソロ社会―「独身大国・日本」の衝撃―』にも書きましたが、ソロ社会とは決して孤立社会になるということではありません。ソロで生きるとは、山ごもりの仙人になることではないし、個々人が勝手に生き、他者とのかかわりを遮断する社会でもありません。
逆説的ですが、ソロで生きる力とは、むしろ、誰かとつながる力です。人は誰かとかかわり合いながら生きるものです。自立心とは、誰の力もいっさい頼らないことではなく、頼れる依存先を複数用意できることで生まれるもので、依存先がひとつしかないという状況の方こそ憂うべきです。
それは今後の働き方にもいえることです。30年以上もひとつの職場で勤めあげることは悪いことではありません。が、その先も人生は長く続きます。これから必要になるのは、退職後を考えたサードコミュニティと言うべき多様な関係性を構築する力でしょう。職場だけではない、家族だけではない、新たに人とのつながりを構築し続けること。ソロ社会における自立とは、そうした個人単位でのネットワークの拡充が求められます。
特に、家族のために仕事だけをひたすら頑張ってきた昭和なお父さんたちは、いまこそ意識を変える必要があるかもしれません。
母の入った施設は1フロアー24-5人入居していますが、2-3人の職員で切り盛りしています。特に夜間は1人です。
母は、一人で食事することはできません。夕飯は父が食べさせていますが、朝昼は職員に食べさせてもらっているようだが、退院後介護施設に入所した母は痩せてきた。
職員が母親の食事に付き切りはできないようです。
夕飯に付き合いましたが、食べるのがやっとの母は1時間かけても食べきれていません。1時間半も過ぎても半分近くのこっていました。全部食べきれることもありますが、一日の摂取量を取れているか疑問なのですが、施設は記録をとっており栄養士が考えてくれているとのことでした。少ない職員で母の食事の面倒はとても手が回らないはずです。本当に食べさせてもらっているのか?残念ながら面会は2時以降なので夕飯は父が食べさせています。
おそらく、朝昼は十分に食事が摂れてないと思った父が朝昼も介助したいと申し出ましたが、何故か認められませんでした。施設と喧嘩をしたくない為、父は夕飯だけ介助しています。
今の日本の介護の現実は施設に入れたとしても家族がいなければ食事も摂れないかもしれないのだ・・・・
たとえ日本における殺人の加害者のほとんどが家族だからといっても・・・
面倒を考えると家族はいらないって考える方もいるらしいが・・・そんなのは間違っている。
いまは、女として妻を見ていないし、娘の母で、家族という経済ユニットの相棒にすぎないし、誰だって過度に家族に負担などかけたくはないが、やはり家族は最後の砦だ。
妻が癌で入院した際は、着替えの用意とか、娘の面倒など、なんやかやの手続きとか、家族がいればこそのことも多かった。家族がいなければ困難なことが多過ぎる。
私は入院した経験は2001年一度だけあった。妻と2歳娘が妻の実家に帰る日だった、熱っぽいなと思いつつ、妻と娘を駅に送った後、病院に行くと40度の熱があり、インフルエンザで意識も朦朧としていたので、即入院だった。家族はいたが、妻と娘は電車の中、福知山でただ一人だったので、それはそれは大変だった。ふらふらになりながら、独りで手続きをして・・・3日ほど入院し退院した。
熱は37度に下がったふらふらで車を運転し、家に帰り、退院しても家で2日ほど過ごし出社したが、独りで入院する心細さといったらない。いや、独りで雪の中過ごした2日間の方が心細かったかもしれない。
サードコミュニティと言ったって、多様な人と関わったって、たかが知れている。
一度くらいはお見舞いに来てくれても、毎日介護なんてしてくれるわけはない。
家族に依存することは危険と言いつつも、月に一度お見舞いにくる親不孝な息子がいるだけでも、父は幸せかもしれない。
実家は母が入院して、目も当てられない状況になっている。毎回帰って、トイレ、ふろ、掃除機をかけ、ゴミだし、片づけをする。
昨日は、見て見ぬふりをしていた堀こたつの中だが、遂に看過できなくなった。
炬燵に入ると、何か動くものが足に触れた感触があった。炬燵は一年中出しっぱなしで、この夏は布団も外さず、最低でも1年以上掃除していないはずだった。下手をすると母が元気だった頃から数年・・・炬燵の中を掃除はしていないかもしれない。
堀炬燵を動かすと、そこには阿鼻叫喚の凄まじい光景があった・・・・
当初掃除機で掃除しようと思ったが、掃除機は・・・・使えなかった。
母の汚れた下着とか、使ったティッシュ、埃まみれ父の靴下etc
とりあえず、ごみ袋片手にゴミの除去。炬燵は、畳より5-60cm低く中央は更に掘ってありますが、中央は練炭七輪を置くように更に5-60cm掘ってあります。コンクリートに足が触れないように高さ15cmほどの木製の足置きを設置しているが、予想はしていましたが、なにやら前日足に触れた動く黒い動く物体。
足置きを外すと・・・・大小あわせて十数匹のゴキブリ!
「ウォー」と絶叫しながら用意した殺虫剤を全力で噴霧・・・黒い物体は一段低い七輪のあった場所に逃げ込むが、殺虫剤を噴霧し続け、殺虫剤は空気より重いようで、黒く動く物体は、全て退治。まさに戦場でした。十数匹のゴキブリの死骸・・・無数のゴミ・・・・掃除機ではなく、ほうきと塵取りで黒い物体とゴミを除去。最後にデッキブラシで洗剤で水洗い・・・
よくもまあ、こんな炬燵に平気で足を突っ込んでいられたものだ・・・・
85才の父にはとても炬燵を動かし掃除する気力がなかったようだ。
勿論、トイレは月に一度私が掃除しなければ父は掃除していない。母の入院した病院にしか行かず、2-3ヵ月実家に帰らないと、真黄色で、付着物があるトイレはこの世のものではない。掃除をしていない公衆便所以上に汚い。とても家族以外掃除はできない。家族である妹達はあまりの惨状でトイレに行くのも躊躇してしまうようで、実家に近づかない。私が掃除したと聞くと実家に現れるらしい。
庭も、刈った草が堆肥のように積み重なり、45ℓの水戸市のごみ袋4袋に草木のゴミ、1袋に家のゴミを詰め、ゴミの日に父に出すよう言って帰ってきた。
父がいなければ、母の面倒はみれず、父が倒れたら・・・どうしたら良いものか?
家族がなくてすべて独りではとても完結できるものではない・・・
自治体や公的な介護などとてもあてにできるものではない。
確かに家族をあてにするのも良くないが、家族は無いより有った方がよい。
>サードコミュニティと言うべき多様な関係性を構築する。まあ、それは大切かも知れません。私も妻には言えないのも含め幾つかつくっています。

(笑)



>頼れる依存先を複数用意 



無理無理・・・





いくら仲間をつくっても、最後介護の面倒までみてくれる他人などいないとおもます。
大変ですよ荒川さん・・・