小沢昭一さん83歳で死去 独特な一人語りもう聞けない
俳優でエッセイストの小沢昭一(おざわ・しょういち)さんが10日午前1時20分、前立腺がんのため都内の病院で死去した。83歳だった。個性的な脇役として舞台や映画で活躍したが、日本の伝統芸能に興味を持ち、研究の道へ。芸能にまつわる数々の著書を残すと同時に、劇団を主宰するなど幅広い活動で知られた。1973年にスタートしたTBSラジオの長寿番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」では、名パーソナリティーとして幅広い層に親しまれた。私は浪人時代や学生時代そして就職して社用車で営業をしている際もTBSラジオの小沢さんの番組を聴いておりました。小沢さんが高齢でラジオを降番したときいてそろそろとは思っておりましたが、また一人無二の芸を持つ天才が鬼籍にはいられました。本当に残念です。
40年近い間、ラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」で独特な語り口と豊富な話題でリスナーを楽しませ続けてきた小沢さん。その声を聴くことは、もうできなくなってしまった。
所属事務所によると、1998年に前立腺がんが見つかり、定期的に治療を続けていたが、一昨年、頸椎(けいつい)に転移。今年8月に検診を受けた際、体力低下の診断を受けて入院することになった。一時退院したものの、9月13日に再入院すると同時にラジオの休養を発表。が、入院中は売店に自力で歩いて買い物に行けるほど元気だったという。
本人の意向で10月22日に退院。外出なども控えて療養に専念した。11月にはラジオに肉声でのメッセージを寄せるなど復帰に意欲をみせていたが、今月10日未明に容体が急変。妻の英子さんにみとられながら息を引き取った。
マネジャーを務める津島滋人さん(63)は「ラジオは生活の一部だった。休んでから寂しそうだった」という。先週、小沢さんを見舞った際は、ベッドに横になっていたが、津島さんを確認すると「ヨッ」と右手を上げたという。
早大在学中から演劇に目覚めた小沢さんは俳優座養成所に入所。卒業後、すぐ舞台に立ち、俳優としてのキャリアをスタートさせた。その後、映画に活躍の場を広げ、主に日活作品に出演。三枚目の脇役を好演することが多く、川島雄三監督の「幕末太陽傳」、その弟子で大学時代の同級生でもあった今村昌平監督の「にあんちゃん」など、映画史に残る名作に多数、出演した。
俳優として着々と歩んでいた小沢さんに転機が訪れたのは69年。初の著書「私は河原乞食・考」を出版したことだった。以前から興味を持っていた日本古来の芸を研究した成果と、自分の芸観を発表したことで、自らの中に眠っていた伝統芸能への情熱に火がついた。71年にはレコード「日本の放浪芸」シリーズを発売、同年の日本レコード大賞で企画賞を受賞した。
73年には「小沢昭一的こころ」がスタート。軽妙な一人語りで注目を集め、放送回数が1万回を超す人気番組になった。82年には「劇団しゃぼん玉座」を創設。井上ひさし作品などを全国各地で上演するほか、歌手としてもコンサート活動を行っていた。
芸能のあらゆる分野で精力的な活動を続けていた小沢さん。誰よりも日本の芸能を愛していた人が、静かに逝った。
◆小沢 昭一(おざわ・しょういち)本名・小澤昭一。1929年4月6日、東京都生まれ。51年に初舞台を踏み、映画、舞台で活躍。著書に「ものがたり 芸能と社会」「小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ」など多数。94年に紫綬褒章、2001年に旭日小綬章を受章。04年には愛知・犬山市の「博物館明治村」の村長に就任。「小沢変哲」という俳号の俳人でもあり、永六輔らと「やなぎ句会」を発足している。
就職しても地方に転勤しても地元のラジオ局が「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を放送しておりましたので、たとえFMで音楽番組を聴いていても時間がくれば小沢さんの番組に替えたものです。
小沢さんが週代わりの今週のテーマ(「○○について考える」)と、軽妙な話術で物語る。
「宮坂おとうさん」なる小沢さんの分身ともいえる架空の人物が、主人公を務める。「昭和ヒトケタ」で働き盛り、あまり出世していない悲哀漂うサラリーマンの設定。
妻の尻に敷かれ子供らに疎んじられる「中年男の悲哀」を基本に、「愚痴を交え、斜に構えた蘊蓄を世事に傾ける番組のスタイルでした。このスタイルは・・・このブログの源流の一つかもしれません。
語っている話はたわいの無いことが多く、中年男性の平凡な日常を語るのですが、小沢さんが語ると芸になってしまうから素晴らしい!この巧妙な語り・・・・名人芸だね・・・しばし懐かしんでください。
考えてみると、若者や女性老人の声を取り上げる芸人は居ても働き盛りの中年男性の心情を理解して代弁してくれた芸人は少ない。その点で小沢昭一さんは中年男性の心情を代弁してくれる無二の存在だったのだとと思います。
心よりご冥福をお祈りします。