Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ(仮)

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、私の脳の外部記憶媒体としてこのブログに収めています。日々感じること、発見したことを記録していきます。同時にそれが、このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:俳優、女優


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神戸国際ギャング


飢えた野獣のような演技で一世を風靡(ふうび)した俳優の菅原文太さんが81年の生涯を閉じた。男がほれるアウトローをリアリティーたっぷりに演じ、広く大衆に愛された。先月10日には、やはり日本を代表する俳優の高倉健さんが亡くなったばかり。相次ぐ名優の訃報に、映画ファンや関係者の間に驚きと悲しみが広がった。

広島やくざ抗争の実態をつづった元暴力団組長の獄中手記を映画化した「仁義なき戦い」シリーズで、東映の任侠(にんきょう)・やくざ路線の看板スターとなった。それ以前の東映は鶴田浩二さんや高倉さんら、時代劇の流れをくむ任侠映画が主流だったが、菅原さんの活力ある“与太者”を主人公にした実録タッチが主流になっていく。

「仁義なき戦い」が上映されたのは昭和48年。当時は全国の大学や高校で学生運動が盛んだった。「仁義なき戦い」はエネルギッシュなチンピラたちの群像劇で、菅原さんが演じた広能昌三(ひろの・しょうぞう)は欲望をギラギラと燃え立たせながら、幹部、組長と、上り詰めていく。そんなアナーキーな映画は、喧噪(けんそう)の時代に熱狂的に受け入れられた。

ど派手な電飾で飾り立てたトラックに乗った男たちを描いた娯楽ロードムービー「トラック野郎」シリーズの「星桃次郎」も当たり役だ。

シリーズは10本製作され、松竹の「男はつらいよ」シリーズと並ぶヒット作となった。星桃次郎は粗暴でおっちょこちょい、そして女好きというキャラクター。だが、「仁義なき戦い」の野獣のようなエネルギーという点で共通する。

任侠映画で一時代を築いた菅原さんと高倉さん。我慢に我慢を重ね、最後に怒りを爆発させる男を演じた高倉さんに対し、狂犬のようにむき出しの怒りをぶちまけた菅原さん。ともに時代が求める男の美学を体現した硬骨の役者だった。 (櫛田寿宏)
昭和の男がまた鬼籍に入ってしまった。自分が子供時代銀幕の大スターだった俳優達が次々と鬼籍に入り、時代の流れ時の流れを感じざるを得ません。
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「仁義なき戦い」シリーズなどのやくざ映画で一世を風靡(ふうび)した俳優の菅原文太(すがわら・ぶんた)さんが死去したことが1日、分かった。81歳だった。

昭和8年、仙台市生まれ。早稲田大に入学したが中退後、ファッションモデルとして活躍した。31年、東宝「哀愁の街に霧が降る」の学生役で映画を初体験。33年に「白線秘密地帯」の端役で俳優として、本格的な映画デビューを果たした。

42年、任侠(にんきょう)やくざ映画の全盛期にあった東映へ移籍し、その第1作が「網走番外地・吹雪の闘争」。その後、「現代やくざ」「関東テキヤ一家」シリーズの主役を務めるなど、“無鉄砲な与太者”という新しいスタイルの魅力をつくり上げた。

48年の広島やくざ抗争の実態を描いた「仁義なき戦い」では、やくざの広能昌三を演じ、実録タッチの現代劇として大ヒット。東映は“実録路線”としてシリーズ化(全5作)し、翌49年からの「新仁義なき戦い」シリーズも3作続いた。その後も「トラック野郎」シリーズ(全10作)がヒットした。

60年前後からは「青春の門」(56年)、「映画女優」(62年)などで重厚な脇役として印象深い演技も披露。テレビでは、NHK大河ドラマ「獅子の時代」(55年)などに主演。舞台も「K2」(58、59年)、「スティング」(平成2、3年)などに主演した。

平成10年に東京から岐阜県清見村(現高山市)へ夫人とともに移住。俳優業だけではなく、農業問題や政治にも関心を示し、全国を飛び回っていた。21年には山梨県で農業を始め、当時、俳優業は「半分、引退した」と話していた。

任侠映画で一時代を築いた菅原さんと高倉さん。我慢に我慢を重ね、最後に怒りを爆発させる男を演じた高倉さんに対し、狂犬のようにむき出しの怒りをぶちまけた菅原さん。ともに時代が求める男の美学を体現した硬骨の役者だった。

菅原文太さんは40代までは無鉄砲な与太者を演じていたが、50を過ぎたころから、健さん同様、成熟した男、ダンディを感じさせる俳優であった。




私は菅原文太の仕事で最も好きだったのが、ゲド戦記のハイタカの声であった。映画は意外に評価されていないのだが、私は好きな映画の一つだ。千と千尋の神隠しの釜爺役もよかったが、ゲド=ハイタカの男の渋さは菅原文太だからこそ出るのだと思った。本当に貴重な俳優/声優を失ってしまった。


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人は老い、命は受け継がれ、そして消えていく。人間が生まれた時からの宿命である。日本では、命の儚さが無常としてとらえています。
日本人は、厳しい無常を見据えた上で、優しく美しく人生を無常と捉え、儚く美しい者としてきました。人生は常ならず、世の中は常ならず、すべてのものは常ならず。栄えるものも、驕れるものも、力を持った者もすべては滅び行くのです。この世はまるで春の世の夢のごとし。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の世の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

  祇園精舎は、古代インドの舎衛城郊外にあった仏教の寺院のことです。沙羅双樹の花は、釈尊入滅のとき、いっせいに色を変えたと言われています。この文章は、日本人の無常観を表現したものの中でもいろは歌とともに日本人血肉となっていると思います。

いろはにほへと ちりぬるを (色は匂へど 散りぬるを)   <諸行無常>
香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。
わかよたれそ つねならむ (我が世誰そ 常ならむ)    <是生滅法>
この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。
うゐのおくやま けふこえて (有為の奥山 今日越えて)  <生滅滅已>
この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて
あさきゆめみし ゑひもせすん (浅き夢見し 酔いもせず) <寂滅為楽>
悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。

日本人にとって無常は落胆のみをもたらすものではありません。なぜなら、人生や世の中は常では無いけれども、それを見据えて諦観し、その上で無常を無常ながらに生きる覚悟を決めているから美しいのです。高倉健さんや菅原文太さんがスクリーンで魅せた男達は、人生の無常を無常であるが故に美しく生きる覚悟を決めた男を演じつづけました。また、二人とも実生活でも、懸命に潔く生きていたように感じます。高倉健さんや菅原文太さんのスクリーンや実生活での生き方や死に方は、日本人の心を捉えて揺さぶるような気がします。

高倉健さんと菅原文太さんの冥途への旅の無事を心から祈ります。



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2014年11月10日 俳優 高倉健さんがお亡くなりました、83歳でした。俳優 高倉健、本名小田剛一さんは最後まで名優 高倉健を演じ続けました。

高倉健さんが亡くなってNHKスペシャル 高倉健という生き方~最後の密着映像100時間~という追悼番組が放送されました。報道ステーションの追悼特集で取り扱われた左翼史観による歪んだ高倉健像と異なり、愚直な日本男児を演じ続け日本人を愛し続けた、高倉健がそこにいました。

これは2012年9月8日放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」を再編集したものです。上記のリンクは直ぐに切れると思います。リンクが着れる前にFC-2動画クリックしてご視聴ください。 切れた後は下のYouTubeで「プロフェッショナル 仕事の流儀」を視聴してください。

抜粋・文字興しby Ddog
――銀幕の中に生きることにこだわり素顔を見せることがほとんどなかった高倉さん 
1:11これから何十年も生きてるわけじゃないんだから 本音の話をちょっと そろそろしておかないと                                      ――― (略)                                          1:51 結局だから 映画が何なのかよくわからない (俳優人生が)始めるときは 生きる為にやっていたんですけどね  良い俳優になりたいとおもったからだろうね。たぶんギャラじゃないよね、それは、そこには来たような気がするね。 

――胸に秘めてきた覚悟の言葉が語られました

――かなり感情がたかぶられているようですが
2:45 まいった

――自ら語った孤高の生き方、名優心の軌跡です                    
高倉健という生き方 ~最後の密着映像100時間~
 
――残された時間についての記者の質問に                        
4:30 ある年齢になると考えだすよね 両親と別れたりさ、いろんな人と別れるじゃないの、そういうのが重なると人の命というのは どう努力したって 限りがあるっていうことを 意識するようになるよね。  

――幼少期生まれ育った九州の炭鉱町で気性が激しい人達にもまれて育った  
8:08 1年に何回も死体を見ましたよ 学校に行くとき けんかで 昨日ここでけんかがあったて ムシロかけられてね。盆踊りとか夏になると必ず1回や2回は死体を見たね。

10:10 米軍の落下傘が開かなくて落ちた死体とか たくさんみましたよ 落ちたところへ消防団より おれ達ガキのほうが勝手知ったる山だから 速かったしね 

なまなましい死体だよ おちたばっかりだもん 死骸を見ても怖くない 今考えればすっさまじいことですよね。 

17:30 ぼくはね ものすごく気が短いんですよ 実は非常に激しい NHKで言うことじゃないですけどね 今までにありましたよ「この野郎 殺してやろうかな」と思うこと 何回もありますよそういうことは だからああいう役をやるんでしょうね やったらお袋が悲しむんですよ 刺青やったりするのね・・・ 僕の中にはとってもあるんです あの血が 血ですねそれは よく今まで罪犯さないでここまで来たなと思いますよ 

――役作りの為に過酷な筋力トレーニングにも取り組みました。任侠映画シリーズは高倉さんをトップスターに押し上げた、毎日朝方まで行われる撮影、それが何年も続くと 高倉さんは心をすり減らしていきます。

20:11 俳優が何だかなんだかわからなくときだったんでしょうね 毎朝遅れてさ 1時くらいしかでないけど9時でだしとけ ・・・って。朝は来ない来てもセリフがロレロレで喋れない そういうのが何年も続き、だんだんなーなーになってくる
まともにやったら体が持たない・・やっぱ自分の体を守る為の防衛本能なのね 理屈を言えばだけど 

――かわいがられていた俳優小林念侍さんは、当時高倉健さんが 失踪騒ぎをおこしたことを明かしました。ポルシェに乗って銭湯に行く途中の助監督を乗っけ3ヶ月旅にでちゃったんですよ・・・それはすごいストレス解消法でしたよ・・・・最高に煮詰まっていたんだろうね。

――そんなある日 高倉さんは映画館に足をはこびます 上映されていたのは自らの主演映画 その客席の様子に衝撃をうけました。                  
22:30 通路も全部(観客が)座っているんだよ ドアが開いちゃって閉らないという 何回か劇場見に行ってね これ何なのかって 思ったことがあるよ わかりません 僕には 何でこんなに熱狂するのかなというのは 明らかに(観客は)観終わったあと 人が違っているものね 

――疲れ果て全力で演じてない自分に 夢中になってくれている人達 湧き上がってくる思いがありました いったい俺は何をやっているのだろう  俳優となって21年目45歳の時 高倉さんは大きな決断をしました。映画会社を辞め独立したのです。       
――敢えて厳しい道を選ばれていますか?                        
23:55 いやー・・・選んだんだね・・・やるって言ったから・・・それは運命ということでしょうね。やっぱり同じパターンのやくざ者ばかり何十本もやってても、それはやっぱ自分が変われないなぁと思って、志願して出てったんだけど・・・それは行った人しかわからない・・・・やっぱり何かそれは良い俳優になりたいと思ったからだね・・・

―― 一本の映画の出演の依頼が着ました、八甲田山、旧陸軍の遭難事故を描いた超大作、舞台は零下30度の冬山、そこで3年にわたる過酷な撮影前代未聞の撮影でした、この映画に高倉さんは俳優人生を掛け臨みました。猛烈な吹雪の中、高倉さんはじめ多くが凍傷になりました。

25:45 それはつらいよね あの雪の中で 体どんどん痩せていくしね じっとしているだけで痩せるんだよね 寒いって 

――3年におよぶ撮影の間 高倉さんは他の仕事をすべて断りました。経済的に苦しくなり次々と財産を処分し現金にかえました。

27:21いまでも覚えているけど 初めて買ったマンションね それからベンツのSL
SLも覚えてるねー・・・・二人乗りの・・・ 売り食いしたんだよ・・・CMもやっていない 何もやらない あれだけにかかりきりでやったから 

――高倉さんは心からやりたいと思える役だけを選び 全身全霊で挑んでいきます不器用だけれど 己の本分を全うしようと 懸命に生きる男を演じ続けました  
31:15笑うとか 泣くとか 怒るとか 刺青入れて 人を斬るとか 芝居には色々あるんだけど こういう人生もあって みなさんどう思いますかという こういう生き方も 悪くないんじゃないですか ということをちょこっと見せたいとかね その人の人生体験と言うか それが俳優さんの価値なんでしょうね 一番勉強されているのは 俺かもしれないね こういうのが良い人間だよということだよと お金もらいながら 教わってきたのかもわからないね 

――しだいに高倉さんは自らに向け一つの問をつきつけるようになります 自分はその役にふさわしい生き方をしているだろうか?

32:32 本人の生き方かな 生き方がやっぱり 出るんでしょうね テクニックではないですよね 柔軟体操も毎日いいトレーニングでやるとやわらかくなる あと本読んで勉強すればある程度の知恵もつくよね ああ、そういう 生き方っていうのは・・・
たぶん一番出るのもその人の・・・普段の生き方じゃないですかね- やー偉そうなこというようですけれど 

――懸命に生きてる人を演じる為には 自らも懸命に生きてはいなければならない
誰よりも映画に打ち込んでいなければならない 高倉さんは最愛の母が危篤になった時も誰にも言わず 撮影を続けました 

34:00 えーでも いま考えたらね 肉親の葬式誰も行ってませんよ それは結構自分に架してる おれはそれで撮影中止にしてもらったことはないよという 俺の中ではそれは あの プライドですね えー言ったら当然中止にしますって・・・3日間4日間中止にしますって なったと思うけど 一度も行ったことが無い 一回もないですね それはどこかで 俺はプロですよと思っていますよ

――苦しいと思われやってこられた?

34:44それは 捨てているもんだと思いますよ 別に捨てなくって やろうと思えばできるんだもんね

――映画の為に多くのものを捨てました 40歳で離婚してからは 家庭的な温かささえ遠ざけ その後独身を貫きました 生きていることは切なく 生きていることは愛おしい 高倉さんはすべてを背負って カメラの前に立ち続けます
演技には生き方が出ると自らを律してきた40年 やわらかい笑顔の向こうに どれだけの日々があったのでしょうか?

――50年以上俳優をやってきて長かったですか?
46:15まあ長かった・・たらながいしね あっというまといえばあっというまだしね

――背負われてきたものは?
46:33まあ無いよそんなもの 

――今の夢は?
46:47夢?なんだろね・・・いろんな国の人と映画を撮りたい。日本だけじゃなくてね それはなんというか強烈な・・・なんというかね 私が出てると日本人だよね そういう俳優になりたい 僕は中国人やりたいとか えーベトナム人になりたいとか思ったことが無い。どんなに舞台が何とかと言われても 何の興味も感じない 
日本人しかやりたくないと思っているから   
映画はかなわないですよ それ以外のピッピッピと刺激するもの 終り 

――高倉健と言う俳優が居ました 信じた生き方を愚直なまでに貫き通した人生でした

このドキュメンタリーを見て驚いたのは、高倉健さんの日常が私の想像していたよりもストイック。プロ中のプロ。現場では座らないで立っている。体を鍛える。ウォーキングを欠かさない。食べ物に気を遣う。酒・タバコはいっさいやらない。それでいて、ロケ現場に見学にきた人たちや撮影スタッフには、限りなく気を遣う。自分には厳しく、他人には優しい。

このドキュメンタリーを見るかぎり、カメラで撮影している間、いつでもどこでも高倉健なのだと・・・・。映画であろうが、密着ドキュメンタリーであろうが、高倉健さんは高倉健さんを演じているかもしえない。いや高倉健さんもやはり生涯、高倉健を演じていたのではないかと思います。それがプロの流儀だと思っていたからこそ、プライベートは明かさず、テレビにもほとんど出演しなかったのかもしれません。


俳優・高倉健さんの訃報が公表され、メディアは連日その死を悼む声を伝えている。高倉さんを30年取材したライターが、その知られざる素顔を明かした。

「本人の生き方が必ず芝居に出るんですよ」
 
 11月10日、悪性リンパ腫のため83歳で亡くなった高倉健さんは口癖のように語っていた。もともと食うために始めた俳優業だった。だが、「悔いなき人生」にこだわり、役になりきり人々を魅了した。出演作205本の大半で、「前科者」、社会の底辺を生きる人々を演じた。

「僕がいちばん大切に思うのは心ある人としての生き方、一つのことを貫く生き方。そういう人間は少なからず孤独な作業に命をさらしている。その状況で揉まれに揉まれ悶え苦しんだ者だけがやさしくてしなやかな心を持つことができる」(「アサヒグラフ」1994年8月5日号)

 ライターとして30年近く取材した谷充代さんは、そんな高倉さんの素顔を見た一人である。その顔は世の中で言われる「寡黙で不器用な男」とは違った。

「高倉さんの一番の趣味はおしゃべりだったと思います。気の置けない人との会話が大好きで、夜型のため、話し始めると、周りを寝かせてくれませんでした」

 人を笑わせるのも好きで、ユーモアのセンスがあった。一度縁を結ぶと、何年たっても冠婚葬祭では贈り物や便りを届けた。その優しさと気づかいの陰には高倉さんの深い孤独があったのではないかと谷さんは見る。

「寂しがり屋で、心を通じ合っていたいというメッセージだと思います。心の奥深いところに埋められない穴があったのではないでしょうか。以前、健さんが愛する人たちを喪(うしな)った悲しみを語ってくれたことがあります」

 高倉さんは、最愛の母が亡くなったとき、撮影中で葬儀にも行けなかった。いつも旅先には鞄に母の写真を忍ばせ、部屋の一番いい場所に飾り、花を手向けたという。

 自宅の全焼、江利チエミさんとの離婚と、「かけがえのないものが一瞬にして消え去る」体験もした。再婚はしなかった。

「情が深い人だったから、人に情をかけると際限なくなるので、自分をあえてストイックな状態に置いたのではないか。まるで修行僧のようでした」

去る11月10日に亡くなっていたことが明らかとなった俳優・高倉健さんを巡る報道について、テレビ朝日系で放送された『報道ステーション』の内容が、あまりに酷すぎると物議を醸している。

これは高倉さんの一斉に死が報じられた、同番組11月18日夜の放送分で、その中で、高倉さんが活躍した時代をなぞるように、「戦後の日本の映像」として学生運動の映像を流したり、当時、こうした運動に参加していた人を「街の声」としてレポートし、その男性から「たった一人の男の思いが時代の革命のエネルギーになっていくのかなという話をしてた」というコメントをピックアップ、高倉さんの功績に関する紹介や死を悼む声とは懸け離れた「別の内容」を紹介していた。そのため、放送直後からネット上では「こじつけだ」「全共闘を美化してやがる」「BPOの審議にかけるべき」といった批判が噴出している。

多くの視聴者が指摘するように、高倉さんが生前に全共闘世代の活動家たちを礼賛した事実はなく、強いて言えば、高倉さんの主演で大ヒットとなった映画の公開時期と、学生運動が盛んであった時期が近かったという程度という接点に過ぎない。同番組に対する批判が相次ぐ中、果たして局側がどのような対応を行うのか、注目されるところだ。

文・葛西敦規  
全共闘を美化した左翼も、反日中国においても高倉健さんは愛されていたようです。もっとも江沢民が反日教育をする前の日中関係は熱烈友好の時代でしたから・・・1979年に中国で公開された高倉健さん主演映画君よ憤怒の河を渉れ』が時代を代表する映画となったようで、あの中国人ですら高倉健さんの魅力に魅せられたようです。

中国人も熱狂、高倉健さんの「生きる流儀」
「プロフェッショナル 仕事の流儀」を見て思う

佐藤 智恵 :作家・コンサルタント  【東洋経済】2014年11月27日

中国で異例の報道
高倉健さんの逝去のニュースを受けて、筆者は海外がどんな反応をするかに注目していました。高倉さんは、『ブラック・レイン』(1989年公開)など、ハリウッドのヒット映画にも出演していたにもかかわらず、欧米メディアはほとんど放送しませんでした。

対照的に大々的に報じたのは中国です。中国では18日夜、国営の中央テレビが、25分間にわたって高倉さんを惜しむ特集を放送。これには驚きました。普段は日本のことを批判してばかりいる放送局が、高倉さんを大々的にたたえたのです。

その後も、外務省が哀悼の意を示したり、共産党系の新聞が追悼記事を掲載したりなど、異例の対応が続いています。そして、よく反日デモの参加者からペンキや卵を投げつけられていた、あの北京の日本大使館に、今、ファンから花が届けられています。

高倉さんは、近年、海外の映画人と映画を制作することに取り組んでいました。NHKのインタビューでも、「いろんな国の人と映画を撮りたい。日本だけじゃなくてね」と夢を語っていました。そうした中で、チャン・イーモウ監督の『単騎、千里を走る。』(2006年日本公開)に出演しました。

しかし、中国人にとって、高倉さんといえば、何と言っても映画『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)です。この映画は、「文化大革命」(1966~1976年)後に中国で初めて公開された外国映画。無実の罪を着せられながらも、真実を追求していく検事を演じ、中国の民衆から圧倒的な支持を受けました。高倉さんは自由の象徴であり、あこがれでした。プロフェッショナルの仕事は国境を超えるのだと、今回の中国での報道を見て思いました。

唐獅子牡丹 全歌詞 作詞・作曲:水城一狼・矢野 亮、唄:高倉健
一.
義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ
俺の心は お見通し
背中(せな)で 吠えてる
唐獅子牡丹(からじしぼたん)

二. 
親の意見を 承知ですねて
曲がりくねった 六区の風よ
つもり重ねた 不孝のかずを
なんと詫びよか おふくろに
背中で泣いてる 唐獅子牡丹

三.
おぼろ月でも 隅田の水に
昔ながらの 濁らぬ光
やがて夜明けの 来るそれまでは
意地でささえる 夢一つ
背中で呼んでる 唐獅子牡丹

四.
エンコ生まれの 浅草育ち
やくざ風情と 言われていても
ドスが怖くて 渡世はできぬ
ショバが命の 男伊達
背中(せな)で吠えてる 唐獅子牡丹

五.
白を黒だと 言わせることも
しょせん畳じゃ 死ねないことも
百も承知の やくざな稼業
何で今さら 悔いはない
ろくでなしよと 夜風が笑う

六.
親にもらった 大事な肌を
入墨(すみ)で汚して 白刃の下で
積もり重ねた 不幸の数を
何と詫びよか おふくろに
背中(せな)で泣いてる 唐獅子牡丹

七.
流れ流れの 旅寝の空で
義理にからんだ 白刃の喧嘩(でいり)
馬鹿な奴だと 笑ってみても
胸に刻んだ 面影が
忘れられよか 唐獅子牡丹

昭和38年生まれの私にとって任侠映画、網走番外地の任侠を演じた高倉健より、昭和52年の八甲田山、幸せの黄色いハンカチ、昭和53年の野生の証明以降の過去の影を背負った愚直な男を演じた高倉健のイメージがつよい。









①高倉健 プロフェッショナル仕事の流儀 2012 追悼 のコピー







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少々旧聞でもうしわけございません。震災のニュースに埋もれてしまいましたが、「ハリウッドで最も美しい女優」と称賛されたエリザベス・テイラーさんが2011年3月23日、ロサンゼルス市内の病院でうっ血性心不全のため死去されました。1932年2月27日ロンドン生まれ79歳でした。

父親は美術商、母親は元舞台女優。1939年7歳のとき、戦渦を避けるため一家でアメリカへ移住する1939年にロサンゼルスへ移住。10歳で子役として映画デビューし、「若草物語」(1949年)、「花嫁の父」(1950年)などでスターの座を獲得した。その後「バターフィールド8」(1960年)でアカデミー賞主演女優賞を初受賞。その後も「クレオパトラ」(1963年)、「いそしぎ」(1965年)などに主演した。
プライベートでは8回結婚した。リズが最も愛したと言われたのはクレオパトラで共演したリチャード・バートンであったという。1974年の離婚を挟んで2度結婚生活を送っている。いそしぎはリチャード・バートンと結婚後初共演の映画で、主題歌『シャドウ・オブ・ユア・スマイル』は第38回アカデミー賞の音楽賞を受賞した。
最近の私はいそしぎのエリザベステーラーが好きである。

概要 

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自由な心を持つ美しい女流画家と、妻子ある学校長との半年間の恋を描くメロドラマ。題名の『いそしぎ』は、ヒロインが海岸で保護した幼鳥の種名(磯鷸)である。羽の折れた幼鳥をヒロインが手当てし、大空へ飛び立たせるエピソードは、登場人物の心情の変化を象徴している。

ストーリー 

シングル・マザーで無名の画家のローラ(エリザベス・テイラー)は、カリフォルニアの海岸の家で、9歳の息子ダニーと暮らしていた。自由な生き方を愛するローラはダニーを学校に通わせず、自宅で教育していたが、ダニーは役所の命令でミッション・スクールの寮に入れられてしまう。
ミッション・スクールの校長で牧師でもあるエドワード(リチャード・バートン)は、温順な妻のクレアと共に学校を切り盛りし、新しい礼拝堂を建設するための寄付金集めに奔走していた。エドワードは、神や社会的な常識を否定するローラを感化しようとするが、逆にローラの自由な心に惹かれ、密かに逢瀬を重ねる仲となる。
ミッション・スクールに礼拝堂を建てるための寄付集めは、実は理事たちの脱税の隠れ蓑だった。エドワードは、校長の座を守るために、理事たちの計画に目をつぶっていた。しかし、ローラの影響で若い頃の情熱を取り戻したエドワードは、理事からの賄賂を突き返す。
理事会に逆らったエドワードは、ローラとの関係を妻のクレアに打ち明け、学校を去る決心をする。ローラもまた、妻とローラの両方を愛しているというエドワードに別れを告げた。エドワードは、考える時間が欲しいと言う妻を残し、ひとり当てもなく旅立って行った。
 
Ddogは40代後半の中年オヤジなので、現在のストライクゾーンのド真中がちょうど「いそしぎ」に出演していた頃のエリザベステーラーかもしれません。
この頃のエリザベステーラーは大人の女性の持つ魅力に包まれ私の心を熱くします。
 
10代や20代の頃アラフォーの大人の女性なんてまったく興味がありませんでした。10代の頃などは30を過ぎ女性なんてもう自分のバットを振り回す対象ではなかったですね。
 
ところが自分が年をとるに従って、年々ストライクゾーンが年を取る分上がっていくから不思議です。今は低めはとても手が出ません。(訂正します、相手にされません。)
今のストライクゾーンはだいぶ高くなってしまいました。自分の年齢+α歳位50代の素敵なご婦人までがストライクゾーンかもしれません。でも最近は打席に立つ機会も無くなり寂しいものです。(笑)
 
その点エリザベステーラーさんは凄い、70過ぎても現役だったようでした・・・・
人間、皆エリザベステーラーのように死ぬ直前まで現役でいたいものですね。
生涯一保種?

彼女は1991年59歳の時に20歳年下の工事現場作業員ラリー・フォーテンスキー氏と8度目の結婚をしました。驚きましたが1996年に離婚しています。2007年には75歳にして9度目の結婚を噂されエリザベステーラー恐るべしと思いましたが・・・
さすがに70を越えての恋は、●をぷんぷん感じて当事者以外にとって不快ですね、あのエリザベス・テーラーですらとても臭い●●を感じてしまいました

ですが映画の中のエリザベス・テーラーは永遠です。UPするのが遅くなってしまいましたが、私はどうしてもエリザベス・テーラーさんの追悼記事を書きたかった。

ご冥福を祈ります。

 

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大原麗子さんがお亡くなりになった。偶然にも今月3日、私の祖母と同じ日に冥途へと旅たたれました。

私の祖母は99歳天寿を全うし、多くの家族親族が見守る中、永眠したそうです。葬式は親戚一同介護にあったた親族の苦労を労い、慰労会の様相で、長女である私の母をはじめ誰一人悲しいとは思っていませんでした。

老衰であった為、病院の医師から、5月末より3回ご親族の方をお呼びになってくださいと言われては持ち直し、今回4度目の召集であった。私は臨席していませんでしたが、おそらく、臨席した母や叔父達の心中は、今度こそは冥途へと旅立ってくれよと思っていたにちがいありませんが、旅立つ本人も未練は無かったと思います。

それに比べ、大原麗子さんの孤独死は悲しすぎる。飯島愛さんともそうであったが、あれほど日本中の男性から愛されたのに、最後を看取る男や友人が居なかったかと思うと悲しすぎる気がします。
119番を呼ぶことも出来ないで死んでいったのかと思うと不憫でなりません・・・

大女優ゆえに、病気の姿を人前に曝すことなく孤高の死を選択したのか?・・・悲しすぎます。
私は孤独で自由だ。だが、自由はどこかしら死に似ている。 サルトル 「嘔吐」

先日、個人的に好きな女優を尋ねられた時に、女優ではないが雅子皇太妃が理想だと答えました。知的で清楚の極みです。そして、清楚な白いブラウスが似合う方がいい、女優でいえば、鈴木杏樹 星野知子、和久井映見、天海祐希、原田知世 若い頃の壇ふみ 小雪さんはちょっと知的ではないがOKと答えましたが。小雪の先代大原麗子さんを忘れていた!

イメージ 1大原麗子さんは、イギリスの詩人キャンベル曰く「美人の涙は、彼女の微笑より愛らしい。」そんな言葉が似合う女性でした。大原麗子=和服が似合う美人=わたせ・せいぞうがモーニングに連載していた「菜」は私の憧れで、とても手が届かない高嶺の花・・・わたせせいぞう氏の「菜」さんのモデルはサントリーのCMに登場する「少し愛して、永く愛して」の大原麗子であったろうと思います。

イギリスの劇作家ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham , 1874年1月25日 - 1965年12月16日)は、「呪われた男」の中で、
「なぜ美人はいつもつまらぬ男と結婚するんだろう?」「賢い男は美人と結婚しないからさ」
と言っています。
森進一との結婚はまさにそれ、当時「なぜ森進一だったんだ」もっと他にいたろうが・・・

フランスの著述家、多宇宙論の啓蒙書、『世界の多数性についての対話』の著者ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル(Bernard le Bovier de Fontenelle、1657年2月11日 - 1757年1月9日)は、
美人なるものは、目には極楽、心には地獄、財布には煉獄である。
とも言っています。

この二つの格言は男性の美人に対する劣等感を表していると私は思うのです。例えば背が高い美人な方は私なんぞ劣等感の塊の男性にとって近寄り難いように、美人過ぎる女性は男性にとって劣等感を抱かせる生き物なのかもしれません。

仕事において、美人な方は人より少しくらい仕事が出来たぐらいでは、「美人は特だね・・・」程度にしか思われず、逆差別を受けているケースが見受けられます。上司に「えこ贔屓」されている、下手をすると上司とお客や取引先寝たとの誹謗中傷を受ける事も少なくない。美人というのもある意味災難である。

地方支店時代同じビルに生命保険のオフィスがあり、エレベーターでの生保の契約社員の女性の会話が今も頭を離れません。「あの女ぶち殺してやる!、ちょっとくらい美人だからって、何さ!絶対あの客と寝たのよ!」今思い出しても本気で殺意のある言葉であったと思います。

同じ生保のオフィスには、背も高くアラフォーなのにミニスカートでモデルさんか思うようなフェロモンを撒き散らしている美人な契約社員の方がいて、おそらくその方のことを他社の私に聞こえるようにエレベーターの中で誹謗中傷したのだと思いました。その悪口雑言を垂れていた女性は顔は醜く雌豚のような中年女性でした。『「美女は醜婦の仇なり。」劉向撰 「説苑」』

私のオフィスにも、ハイミスの女性はいらっしゃるのですが、ご愁傷様ですとしか言いようのない雌豚のような方もいらっしゃいますが、とても美人な私より年上の未婚の女性がいらっしゃいます。

アラフォーというより50代に手が届くその方は、バブルの頃20代後半・・・相手男性は皆ひれ伏し、アッシー君(タクシー代わりのボーイフレンド)メッシー君(ご飯を一緒に食べるだけの彼)をあごで使っていたであろう習性を今でも感じさせられるものを持っています。

ランチをご一緒した時に聞いた話では、今まで結婚願望などまるで無く、多くの言い寄る男性達を討ち死にさせてきたとのことですが、今に至り婚活に動こうかしらとのこと。「結婚しない女」と呼ばれた彼女達は今、迫り来る老いに対し焦り、大原麗子さんの死に恐怖を感じているかもしれません。

年を経るごとに新しい友人を得ることができないと、必ず孤独に悩まされるようになる。常に友情の手入れを怠らぬことだ。
サミュエル・ジョンソン
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