マン・レイ展を乃木坂の国立新美術館で観てまいりました。マン・レイ回顧展であるので、当然出展されているであろう 代表作「アングルのヴァイオリン」(モデルは、モンパルナスの人気者、キキ1924年作品)が写真で出展されていると思って会場を見回したが無かった。



ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル / 『ヴァルパンソンの浴女』 (1808) ルーヴル美術館蔵
そのためだろうか、マン・レイのアート写真の傑作「ガラスの涙」1932年


「メトロノームに張ったリーミラーの目」

BOXアートのぺサージュ

などの代表作品は、あえて出展しなかったのだろうか?正直な気持ちとしては、少々落胆してしまったが、今回の展覧会の趣旨からすれば、納得できなくもない。

また、モデルとなる恋人兼モデル達は、レンズの前でマン・レイの言うがままではなく、自ら表現していったのだ。彼女達はみな多くが芸術の素養があり、マン・レイを導いた。それと同時に自分達の芸術家としての才能を開花させていった点は特筆すべきことではなかろうか?

それにしても、お互いに高めあう事ができる恋人を次々に持つことができたマン・レイに嫉妬してしまう。いや、ただただ羨ましいだなのだが、男と女が出会い、出会った二人は化学反応を起して、お互いに芸術家として高めあうことができるなんて素晴らしいことか!世界中の男の中で、これほど才色兼備の女性達と愛し合えた男は他にいないかもしれない。ピカソ・竹久夢路などもそうか・・・Somebody to love!
1920年代のマンレイの芸術作品でなければヤバイ写真です

この作品があるからBOXアートのぺサージュが傑作なのですよ!

もっと卑猥な写真を検索したのですが・・・ブログの品位が落ちるので・・・残念ながら・・・
1890年、ペンシルベニア州、フィラデルフィアに、ユダヤ系ウクライナ人の父、ユダヤ系ベラルーシ人の母のもとに生まれる。
本名エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Rudsitzky
1912年 NYで画家を目指していた頃 差別から改名Man(男)Ray(光線)と名乗る芸術家マンレイの誕生である。
1914年 年上で嫉妬深いベルギーの詩人であるアドン・ラクロアと結婚

フランス語やロートレアモンやランボーといったフランス文学を教えてもらう。
自作の絵を写すため写真機を購入。マルセル・デュシャンと出会い、のちにニューヨーク・ダダとよばれる運動を、ヨーロッパのダダと同時並行的に進めることとなる(1921年、デュシャンとレイにより「ニューヨーク・ダダ」誌が創刊されている)。10月、絵画とドローイングによる最初の個展を開く
1919年 アドンの浮気で破局(本当だろうか?)
1921年31歳パリに渡る。彼が突然パリに現れた時、マン・レイは過去を語らず、その正体は謎に包まれていました。「私を知れたければ、私の作品を見よ」彼は、そう云います。
しかし・・・、彼の作品を見た者は、ますます頭を抱えました。鋲の出たアイロン、キュビズム風の油絵。パリ到着のわずか三ヵ月後には個展を開きます。ダダの洗礼を受けた謎の芸術家、登場・・・パリでは評判が評判を呼び、多くの芸術家や文化人が彼の個展に駆けつけました。人を面白がらせ、うるさがらせ、困惑させ、煙にまき、考えさせようとしているのであって、ふつう芸術作品とされているオブジェに求められる技巧的なうまさを誉めてもらうつもりはない。パリでは批評も好意的でした。それでも、全く売れませんでした。そんな彼の生活を助けたのがカメラの腕でした。
マン・レイは、芸術家としてよりも、写真家としてその名を挙マン・レイは、芸術家としてよりも、写真家としてその名を挙げていったのです。

そんなある日、モンパルナスのとあるカフェで、マンレイはキキと出会ったのである。

目の前に座る魅力的な女がモデルをやっていると知ると、マンレイはすかさず写真のモデルになってくれないかと頼んだ。その時キキはすでにフジタ、ピカソらエコール・ド・パリの画家たちのモデルとして彼らが競って描き、そして皆から愛されていた。
最初は写真のモデルになることを拒んだ。だが、マン・レイは「君を藤田よりも美しく、世界一美しい写真をとる」と情熱的に口説きモデルになることを承諾した。
一度目は無事にすんだが、二度目にモデルになってもらうはずだった日に、二人はたちまち恋に落ちて、その日は写真を一枚も撮らなかったと彼の自伝に書いてある。二人は同棲し、昼も夜もお互いを高めあったのである。

ブルゴーニュ生まれの私生児、「キキ」ことアリス・プランは12歳でパリに出た。彼女はやがてキスリングのモデルとなり、一夜にしてパリのセックス・シンボルとなった。
少しさみしげで強烈なインパクトの持ち主でした。誰からも愛され、自由に生きた女性です。キキのエネルギッシュな個性は画家たちの心を揺さぶり、創造の力を引き出す魅力が彼女にはあったのです。
少しさみしげで強烈なインパクトの持ち主でした。誰からも愛され、自由に生きた女性です。キキのエネルギッシュな個性は画家たちの心を揺さぶり、創造の力を引き出す魅力が彼女にはあったのです。

「白と黒」という作品が初めて発表されたのは、1926年ファッション誌ヴォーグの誌上である。端正で色白なキキの顔とアフリカ黒光りするお面、都会と野生、男と女、縦と横、生物と物質、自立と支え、完璧なる対比が美しい。単なる写真が芸術にまで高まった瞬間である。
その後もマン・レイとキキは化学反応を起し続け、キキの「ブロマイドは三十万枚売れ」て、1929年5月に「モンパルナスのカフェーで行われた芸術家たちによる美人投票で「女王」に選ばれ」たのだそうである。「キキ・ド・モンパルナス」と呼ばれ、まさにミューズとなり「モンパルナスの女王」と呼ばれるようにまでなるのであった。
1929年 芸術家として才能を伸ばしたキキが新聞記者とNYへ駆け落ちし別れる
キキと別れた初夏助手志願として訪ねてきたリーミラー(Lee Miller)を助手兼モデル兼恋人とする。


「空気の妖精」と言われたリーミラー・・・暗室でマン・レイと情交している際に偶然出来たのがレイヨグラフ(印画紙の上に物を置いて数秒光を当てる。すると、物のシルエットが日光写真のように印画紙に白く抜き出てくる技法)との噂がある???



1932年リーミラーがコクトーの映画(詩人の血)に出演し大スターになる。エジプトの富豪アジズ・エルイ・ベイに走りマンレイと破局。マン・レイは悲しみのあまり数々の作品をつくる。この唇はリーミラーのものだそうだ。





自殺志願1932年
1933年スイス出身シュルレアリストのメレット・オッペンハイムMeret Oppenheimとともに暮す


これって北斎漫画の影響だろうか?

1936年最初の妻アドン・ラクロアと正式離婚 南国グアダルーペ諸島出身のダンサー、アドリエンヌ・フィドゥラン(アディ)と生活。


その間詩人で友人ポールエリュアールの妻ヌッシュ、ピカソの恋人ドラマールとの関係も噂される

1940年ドイツ軍パリ進駐、パリに留まるアディと別れNYの妹一家へ一時避難、意気消沈しロサンゼルスへそこで生涯の伴侶ジュリエット・ブラウナーJuliet Brownerと出会う。主流から外れ、美しき牢獄と例えたロスで職業写真とチェス製作で10年過ごす。




1946年、マックス・エルンストとドロテア・タニング、マン・レイとジュリエット・ブラウナーが合同でビバリーヒルズで結婚。

1951年 妻ジュリエット・ブラウナーと共にパリへ戻る
1953年キキは1953年3月23日、レネック病院で亡くなりました。モンパルナスのすべてのカフェが花輪を贈った。キキがポ-ズをとった高名な画家のなかでフジタとドマンゲだけが、ティエスの墓地まで柩とともに歩いた
1976年パリで生涯を終える 墓はモンパルナス
この展覧会の出口付近で、ジュリエット・ブラウナーがパリのフェルー街にあった終の棲家兼アトリエで、マン・レイとの思いでを語る映画を上映していた。ジュリエット・ブラウナーは、マン・レイの以前の恋人の事を語らず、自分と故人との思いでを語るののみであったが、マン・レイの人生は、すべて女性によって形作られてきた。
最初の妻アドン・ラクロアとの出会いが無ければ、パリへ行かなかったかもしれない。キキとの出会いが無ければ、マン・レイは名を成さなかったかもしれない。
リーミラーとの失恋がなければ、芸術史に名を残さなかったかもしれない。ジュリエット・ブラウナー無くして、幸せな老後を迎えられなかったかもしれない。
しかし、男と女の問題は、とかくその別れ方かもしれない。最初の妻アドンの浮気、キキのひとり立ち、リーミラーもマン・レイを踏み台としている。メレット・オッペンハイムとの別れとアディとの詳しい別れは探せなかったが、それぞれ修羅場はあったろう。でも、マン・レイはある意味別れ上手、振られ上手だったのかもしれない。もしかしたら、キキと、リーミラーはマン・レイの作品だったのかもしれない。
(参考になるなーと思っても・・・・私の妻はどうも才能が無いようで・・・恐ろしい・・・)。
最後にジュリエット・ブラウナーが語る映画で写されるマンレイのアトリエは芸術家マンレイの作品そのもの、謎の芸術家マンレイではなく一人の偉大な画家であり写真家のマンレイの人生がそこにあった。