イメージ 19
 
イメージ 24
 
マン・レイ展を乃木坂の国立新美術館で観てまいりました。マン・レイ回顧展であるので、当然出展されているであろう 代表作「アングルのヴァイオリン」(モデルは、モンパルナスの人気者、キキ1924年作品)が写真で出展されていると思って会場を見回したが無かった。
イメージ 25
 
イメージ 28その代わり、ドローイングが出品されていた。私の思い込みかもしれないが、主催者の意図が読めたような気がして、内心嬉しくなった。このマン・レイ展は画家にして写真家のマン・レイ展として企画されたのだ(おそらく!)。 写真を芸術の域に引き上げたのは誰あろうマン・レイなのだが、本人は、終生画家にして写真家と呼ばれたかった。ところが、世間は写真家にして画家、いや写真家にして芸術家として見ていた。マン・レイにとって写真は自分の作品を記録する手段であって自分としては、写真家の第一人者ではなく、画家として評価されたかったのだ。
 
イメージ 29フランスには”アングルのバイオリン(Le violon de l'angle)”なる慣用句が在るらしい。女性を美しく描く事にかけては世界一と言われたフランス新古典主義絵画の巨匠、ドミニク・アングル(1780-1867)その人のこと。画家の趣味は、バイオリンを弾くことだった。その腕前プロ級で「アングルのバイオリン」とは“文人の余技(かくし芸)”また反対に“下手の横好き”を意味する言葉として伝わっているのだとか、(自動翻訳で検索したのですが・・わかりません)。英語が母国語のマンレイからすれば、面白い慣用句だと思ったに違いない。私はおそらく、慣用句からこの偉大な芸術が生まれるきっかけになったと思う。また、マン・レイはこの絵からもインスピレーションを貰ったと思う。 
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル / 『ヴァルパンソンの浴女』 (1808) ルーヴル美術館蔵
 
そのためだろうか、マン・レイのアート写真の傑作「ガラスの涙」1932年
イメージ 26
 
「メトロノームに張ったリーミラーの目」
イメージ 27
BOXアートのぺサージュ
イメージ 1
 
などの代表作品は、あえて出展しなかったのだろうか?正直な気持ちとしては、少々落胆してしまったが、今回の展覧会の趣旨からすれば、納得できなくもない。 
イメージ 30マンレイの人生には素敵な、女性達に彩られている。まだカメラを持つ前であった最初の妻アドンは別にして、それ以外の彼女たちの芸術的なヌード写真をたくさん写している。また、そのエロさは、例えが卑猥で申し訳ないがモデルの女性の性感帯を舐め尽し、喜び悶えさせてなければ知りえないエロチズム的美しさあると私は思う。

また、モデルとなる恋人兼モデル達は、レンズの前でマン・レイの言うがままではなく、自ら表現していったのだ。彼女達はみな多くが芸術の素養があり、マン・レイを導いた。それと同時に自分達の芸術家としての才能を開花させていった点は特筆すべきことではなかろうか?
イメージ 311920年代欧米では女性の権利を求めるウーマンリブ運動が始まり、女性が社会的進出し始めた時代であった。彼女達はまさに狂乱の時代の象徴でもある。
 
それにしても、お互いに高めあう事ができる恋人を次々に持つことができたマン・レイに嫉妬してしまう。いや、ただただ羨ましいだなのだが、男と女が出会い、出会った二人は化学反応を起して、お互いに芸術家として高めあうことができるなんて素晴らしいことか!世界中の男の中で、これほど才色兼備の女性達と愛し合えた男は他にいないかもしれない。ピカソ・竹久夢路などもそうか・・・Somebody to love!
1920年代のマンレイの芸術作品でなければヤバイ写真です
 
 
イメージ 32
この作品があるからBOXアートのぺサージュが傑作なのですよ!
 
イメージ 33
 もっと卑猥な写真を検索したのですが・・・ブログの品位が落ちるので・・・残念ながら・・・
 
1890年、ペンシルベニア州、フィラデルフィアに、ユダヤ系ウクライナ人の父、ユダヤ系ベラルーシ人の母のもとに生まれる。
本名エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Rudsitzky
1912年 NYで画家を目指していた頃 差別から改名Man(男)Ray(光線)と名乗る芸術家マンレイの誕生である。
1914年 年上で嫉妬深いベルギーの詩人であるアドン・ラクロアと結婚
イメージ 2
フランス語やロートレアモンやランボーといったフランス文学を教えてもらう。
自作の絵を写すため写真機を購入。マルセル・デュシャンと出会い、のちにニューヨーク・ダダとよばれる運動を、ヨーロッパのダダと同時並行的に進めることとなる(1921年、デュシャンとレイにより「ニューヨーク・ダダ」誌が創刊されている)。10月、絵画とドローイングによる最初の個展を開く
 
1919年 アドンの浮気で破局(本当だろうか?)
 
1921年31歳パリに渡る。彼が突然パリに現れた時、マン・レイは過去を語らず、その正体は謎に包まれていました。「私を知れたければ、私の作品を見よ」彼は、そう云います。
 
しかし・・・、彼の作品を見た者は、ますます頭を抱えました。鋲の出たアイロン、キュビズム風の油絵。パリ到着のわずか三ヵ月後には個展を開きます。ダダの洗礼を受けた謎の芸術家、登場・・・パリでは評判が評判を呼び、多くの芸術家や文化人が彼の個展に駆けつけました。人を面白がらせ、うるさがらせ、困惑させ、煙にまき、考えさせようとしているのであって、ふつう芸術作品とされているオブジェに求められる技巧的なうまさを誉めてもらうつもりはない。パリでは批評も好意的でした。それでも、全く売れませんでした。そんな彼の生活を助けたのがカメラの腕でした。

マン・レイは、芸術家としてよりも、写真家としてその名を挙マン・レイは、芸術家としてよりも、写真家としてその名を挙げていったのです。
イメージ 3
 
そんなある日、モンパルナスのとあるカフェで、マンレイはキキと出会ったのである。
 
イメージ 37
 
目の前に座る魅力的な女がモデルをやっていると知ると、マンレイはすかさず写真のモデルになってくれないかと頼んだ。その時キキはすでにフジタ、ピカソらエコール・ド・パリの画家たちのモデルとして彼らが競って描き、そして皆から愛されていた。
 
最初は写真のモデルになることを拒んだ。だが、マン・レイは「君を藤田よりも美しく、世界一美しい写真をとる」と情熱的に口説きモデルになることを承諾した。
 
一度目は無事にすんだが、二度目にモデルになってもらうはずだった日に、二人はたちまち恋に落ちて、その日は写真を一枚も撮らなかったと彼の自伝に書いてある。二人は同棲し、昼も夜もお互いを高めあったのである
 
イメージ 4
ブルゴーニュ生まれの私生児、「キキ」ことアリス・プランは12歳でパリに出た。彼女はやがてキスリングのモデルとなり、一夜にしてパリのセックス・シンボルとなった。
少しさみしげで強烈なインパクトの持ち主でした。誰からも愛され、自由に生きた女性です。キキのエネルギッシュな個性は画家たちの心を揺さぶり、創造の力を引き出す魅力が彼女にはあったのです。
 
イメージ 5
 
白と黒」という作品が初めて発表されたのは、1926年ファッション誌ヴォーグの誌上である。端正で色白なキキの顔とアフリカ黒光りするお面、都会と野生、男と女、縦と横、生物と物質、自立と支え、完璧なる対比が美しい。単なる写真が芸術にまで高まった瞬間である。
 
その後もマン・レイとキキは化学反応を起し続け、キキの「ブロマイドは三十万枚売れ」て、1929年5月に「モンパルナスのカフェーで行われた芸術家たちによる美人投票で「女王」に選ばれ」たのだそうである。「キキ・ド・モンパルナス」と呼ばれ、まさにミューズとなり「モンパルナスの女王」と呼ばれるようにまでなるのであった。
1929年 芸術家として才能を伸ばしたキキが新聞記者とNYへ駆け落ちし別れる
キキと別れた初夏助手志願として訪ねてきたリーミラー(Lee Miller)を助手兼モデル兼恋人とする
イメージ 6
 
イメージ 34
 「空気の妖精」と言われたリーミラー・・・暗室でマン・レイと情交している際に偶然出来たのがレイヨグラフ(印画紙の上に物を置いて数秒光を当てる。すると、物のシルエットが日光写真のように印画紙に白く抜き出てくる技法)との噂がある???
イメージ 7
 
イメージ 35
 
イメージ 8
1932年リーミラーがコクトーの映画(詩人の血)に出演し大スターになる。エジプトの富豪アジズ・エルイ・ベイに走りマンレイと破局。マン・レイは悲しみのあまり数々の作品をつくる。この唇はリーミラーのものだそうだ。
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 36
 
イメージ 38
自殺志願1932年 
1933年スイス出身シュルレアリストのメレット・オッペンハイムMeret Oppenheimとともに暮す
イメージ 12
 
イメージ 13
 これって北斎漫画の影響だろうか?
イメージ 14
 
1936年最初の妻アドン・ラクロアと正式離婚 南国グアダルーペ諸島出身のダンサー、アドリエンヌ・フィドゥラン(アディ)と生活。
 
イメージ 15
 
イメージ 16
その間詩人で友人ポールエリュアールの妻ヌッシュ、ピカソの恋人ドラマールとの関係も噂される
イメージ 17
1940年ドイツ軍パリ進駐、パリに留まるアディと別れNYの妹一家へ一時避難、意気消沈しロサンゼルスへそこで生涯の伴侶ジュリエット・ブラウナーJuliet Brownerと出会う。主流から外れ、美しき牢獄と例えたロスで職業写真とチェス製作で10年過ごす。
 
イメージ 18
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
 
1946年、マックス・エルンストとドロテア・タニング、マン・レイとジュリエット・ブラウナーが合同でビバリーヒルズで結婚。
イメージ 23
1951年 妻ジュリエット・ブラウナーと共にパリへ戻る
1953年キキは1953年3月23日、レネック病院で亡くなりました。モンパルナスのすべてのカフェが花輪を贈った。キキがポ-ズをとった高名な画家のなかでフジタとドマンゲだけが、ティエスの墓地まで柩とともに歩いた
1976年パリで生涯を終える 墓はモンパルナス
 
この展覧会の出口付近で、ジュリエット・ブラウナーがパリのフェルー街にあった終の棲家兼アトリエで、マン・レイとの思いでを語る映画を上映していた。ジュリエット・ブラウナーは、マン・レイの以前の恋人の事を語らず、自分と故人との思いでを語るののみであったが、マン・レイの人生は、すべて女性によって形作られてきた。
 
最初の妻アドン・ラクロアとの出会いが無ければ、パリへ行かなかったかもしれない。キキとの出会いが無ければ、マン・レイは名を成さなかったかもしれない。
リーミラーとの失恋がなければ、芸術史に名を残さなかったかもしれない。ジュリエット・ブラウナー無くして、幸せな老後を迎えられなかったかもしれない。
 
しかし、男と女の問題は、とかくその別れ方かもしれない。最初の妻アドンの浮気、キキのひとり立ち、リーミラーもマン・レイを踏み台としている。メレット・オッペンハイムとの別れとアディとの詳しい別れは探せなかったが、それぞれ修羅場はあったろう。でも、マン・レイはある意味別れ上手、振られ上手だったのかもしれない。もしかしたら、キキと、リーミラーはマン・レイの作品だったのかもしれない。
(参考になるなーと思っても・・・・私の妻はどうも才能が無いようで・・・恐ろしい・・・)。
 
最後にジュリエット・ブラウナーが語る映画で写されるマンレイのアトリエは芸術家マンレイの作品そのもの、謎の芸術家マンレイではなく一人の偉大な画家であり写真家のマンレイの人生がそこにあった。