Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ(仮)

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タグ:宗教


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p202-205
「それが私の心だ」

日本経済新聞が「A級戦犯靖国合祀、昭和天皇が不快感」の大みだしで富田メモをスタープ報道したのは、二〇〇六年(平成十八)七月二十日である。メモの記録者である富田朝彦(一九二〇-二○○三)は警察官僚の出身、一九七四年宮内庁次長、七八年五月から昭和天皇が崩御した半年前の八八年六月まで宮内庁長官の職にあった。

残された在任中の日記とメモを未亡人が旧知の井上亮記者を通じ日経新聞へ託したのが○六年四月で、社内チームが読解に当り、半藤一利と秦(著者)の検証を経て公開した。私たちは一読して徳川元侍従長の回想録などの既存情報と符合し、「やはりそうだったのか」の思いを深め、全体として天皇の肉声を伝える第一級の歴史的記録と判定する。

とくに各方面で衝撃的な反響を呼んだのは、八八年四月二十八日に昭和天皇がA級合祀について語った部分であった。次にメモの原文をそのまま引用したい。

私は 或る時に、A級が合祀されその上松岡、白取(ママ)までも、が、
筑波は慎心に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない、それが私の心だ

 同じ紙面に私が寄せたコメントは「富田氏は政治的な動きをつつしむ気配りの人だったようだそれだけにメモの信頼性は高いと思う。昭和天皇の靖国神社不参拝問題は関係者の証言が乏しく憶測で議論が続いてきたが、今回、決定的とみられるメモが出てきたため、今後はこの〈事実〉を踏まえた議論になるだろう」というものだった。

しかし公開直後は有力な識者の間でもネガテ「多くの人は、見たいと欲する現実
しか見ない」(ユリウスーカエサル)という警句を思いだした。
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私も当初富田メモの信憑性を疑った、だが、富田メモが正しいという決定的な証拠が出た、「ト部亮吾侍従日記」である。私も富田メモを疑ったことを自己批判してする。現在は富田メモの信憑性を信じている。

p207-211
「ト部亮吾侍従日記」(朝日新聞社2007年)で、富田が天皇発言をメモした同じ日(一九八八年四月二十八日)の項に、「お召しにあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発旨のこと」と記されていた。
徳川発言説は最終的に否定されたわけである。関連して二〇〇一年七月と八月のト部日記には、ダメ押しともいえる二つの記事が見つかった。

日記の七月三十一日には「朝日の岩井記者来……靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と、八月十五日にはその日の朝日新聞朝刊、が「陛下は、合祀を聞いた時点で参拝をやめるご意向を示されていた」という元側近談を報じたことについて、「合祀を受け人れた松平永芳は大馬鹿」と書きこんでいた。

もうひとつの新資料は、昭和天皇の作歌を指導していた歌人岡野弘彦が、○六年末に刊行した『昭和天皇御製 四季の歌』の記述である。それによると、徳川侍従長が八六年秋、持参した御製三、四十首のなかに、
この年のこの日にもまた靖国の
みやしろのことにうれひはふかし
(一九八六年八月十五日)
という歌があり「何をどう憂いていられるのか」を尋ねると、徳川は次のように答えたという。

ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を表していられました。ただ、後年、その人達の魂を靖国神社へ合祀せよという意見がおこってきた時、お上はそのことに反対の考えを持っていられました。 その理由は二つあって・・・戦士した人々のみ魂を鎮める社であるのに、その性格が変ると、
もう一つは、あの幟争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとお考えなのです……お上のお気持は、旧皇族のご出身の筑波宮司はよくご承知で、ずっと合祀を押さえてこられたのです、が……松平宮司になるとすぐ、お上のお耳に入れることもなく合祀を決行してし まいました。それからお上は、靖国神社へ参拝なさることも無くなりました。

やや舌足らずの感がなくもない富田メモの核心部分は、徳川の回想録やその後の新資料によって裏付けられ、補足されたと言えよう。すなわち昭和天皇と筑波宮司は対内、対外的配慮からA級合祀に反対であり、松平宮司は「ご内意」を知りつつ、あえて合祀を強行した。そのやり方に不快感というより怒り、嘆きを抱いた昭和天皇は、親拝の中止で翻心を期待した、が、松平に応じる気がなかったのは明らかだ。
富田メモやト部日記を通読しての推測だが、最晩年の昭和天皇がもっとも気にかけ、望んでいたのは沖縄訪問と靖国参拝の再開ではなかったかと私は思う。八八年五月二十日の富田メモにも走り書きながら、四月二十八日のメモとほぼ同主旨の天皇発言があり、参りたくても行けない悩みを富田に伝えておこうとする強い意志を感じるというのが、研究委員会メンバーの共通した見解であった。富田がメモを生前に焼却しなかったのも、昭和天皇の遺志を伝えたいと考えてのことだった可能性も捨て切れない。

十数回に及んだ富田メモの研究委員会で議論を重ねても、なかなか解釈が一致しなかったのは「親の心子知らず」のくだりだった。なにしろ最後の宮内大臣だった松平慶民の日記や資料を継嗣の永芳が焼いてしまい、宮内庁が進めている『昭和天皇紀』の編纂事業に支障を来しているくらいだから、慶民の言行、とくに「平和に強い考があった」かどうかを検証するのは容易でない。

しかし「私心が全く無く、美しい勇気を持ち、天皇の信任が厚かった」(入江相政)ことを推測させる情報は、いくつか見つかった。ひとつは一丸四六年から四八年にかけ天皇退位問題が盛んに論じられていたときの事情を、天皇が稲田周一侍従長に語った記録で、「もし退位した場合は……靖国神社の宮司にまつりあげて何かしようとしている人々もあるとの噂もあり、又摂政になると予期して……動きを見せた皇族もあるから、退位はなさらない方がよいと言ってくれたのは松平慶民言だったというのである。

退位すべきかどうか迷っていた昭和天皇は、この頃には「熟慮の上、苦難に堪え日本再建に尽す決意」を固めていたが、芦田首相をふくむ有力な退位論者は少なくなかった。慶民、が天皇の思いに沿って冷静に手を打ったようすが窺える。四八年四月には、GHQ民政局の意向を受けた芦田首相が松平と大金侍従長の同時更迭を求めるが、昭和天皇は二人とも「よく気が合う」のでと、すぐには承知せず、吉田茂(前首相)は慶民の留任を訴えた手紙をマッカーサー元帥へ送った。

後任の候補は三転、四転する。天皇と松平は小泉信三を希望したが芦田は賛成せず、候補は金森徳次郎、南原繁、堀内謙介と転々して最終的に田島道治へおちついた。
A級合祀はいっのまにか、「ゴルディアスの結び目」さながら解きがたい難題とないてしまった。それを解きほぐすカギは、まだ見つかっていないようである。

私は靖國神社の英霊達に心から感謝をしています。
しかし、A級戦犯の合祀は松平宮司が暴走した感があり、残念でなりません。
昭和天皇のお心内を考えると、松平宮司への静かな抗議が神社への参拝の停止です。

ご神体となってしまったからには今更分社化すると、禽獣国家中国・朝鮮の圧力に畏くも神国日本の神を冒涜したことを認めてしまうことになる。合祀したことは残念であるが現状維持を続けるしかないであろう。







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本書は靖國神社の祭神について書かれています。
靖國神社とは日本国を誕生させ国家の犠牲となった方々がいかなる人なのかを明らかにすることにより、国家とは何かについて考えさせられる本でした。

たとえば維新前の反乱である水戸藩の天狗党乱の武田耕雲斎や蛤御門の変で御所を攻撃した久坂玄端が祭神とされているが、西郷隆盛や白虎隊は祭神にされていない。

また、維新の元勲で朝鮮人に暗殺された伊藤博文や殉死した乃木希典も祭神ではない。戊辰戦争で後方輸送に従事していて銃弾に倒れた秋田藩の女性農夫山城美与(女性合祀1号)はじめ日清戦争の後方病院のコレラ病棟でコレラで倒れた看護婦岩崎ゆきはじめ56161柱合祀されている。

理不尽なノモンハン事件での未合祀者など、捕虜生還の例など祭神選定は問題なきとは言えない。

そして現在の靖國神社の祭神といえば所謂A級戦犯問題である・・・

A級戦犯の合祀問題は東京裁判史観の否定で肯定すべきところだが、合祀後なぜ昭和天皇が参拝中止になったか?で、我々保守側の人間はA級戦犯の合祀問題を的確に回答できない。

地政学の記事で昭和天皇は「脱亜・親米英」で一貫していたことを書きました。
なるほどと感心したのですが、日独伊三国同盟を推進し、日本を第二次世界大戦に巻き込み日本の国益を著しく害した松岡洋右や白鳥敏夫を昭和天皇が絶対許さなかった。

本書によればA級戦犯合祀以降昭和天皇が参拝しなくなった理由を、昭和天皇のご意志に反して合祀を独断で強行した松平宮司への反発説が大きな理由であったとしている。

p160-161
BC級裁判では、「命令は絶対」の時代なのに実行者が処罰され、命令者は責任逃れする例が少なくなかった。実際には実行者が将校の場合はともかく、下級兵士は極刑を免れる例が多かったが、数多い「報復裁判」のなかにはドラマのようなケースもありえたろう。無実を訴えた遺書を残す死刑囚もいたので、BC級の大多数は無実の罪を負ったらしいというイメージが広がる。
今となっては当時の捜査や判決を再検分するすべはない、が、打合せの審議では厚生省担当官の「人違いによって処刑された者が二百名ぐらいある」とか、「審査に甲乙を付することは困難」といった発言が記録されている。裏を返せば、半ば以上は妥当な判決だが、寛厳の程度に異論の余地があることを認めているともとれる。
また、大岡昇平の『ながい旅』が描いた岡田資中将(東海軍管区司令官)のような姿勢で臨んだ戦犯もいた。岡田は名古屋地区を爆撃して捕虜となった米軍飛行士たちを既定の軍律会議に付すのを省略して、司令官の判断で処刑したかどで米軍の横浜裁判にかけられる。岡田は全責任を負うと明言して部下の責任を引き受ける一方、米軍の無差別爆撃は国際法違反だと主張して「法戦」を挑み、一歩も退かなかった。その立論に検事や裁判官もたじたじとなった、が、所詮は「勝者の裁き」であり、絞首刑の判決を免れなかった。

(略)
ではどんな論理で、戦犯の合祀を正当化したのだろうか。戦争受刑者世話会の藤原銀次郎理事長は、二十八年一月十六日付の吉田首相あて請願で「ポ宣言受諾の国策に従うという公務に就いたものであり、戦争にさいし偶々執行した公務のある事項が敵によって罪に問われ……刑死者は外国の裁判で処罰されたもので国内犯罪でないことは……政府も屡々言明しているところであり、戦闘行為中に死亡した者と何ら異らない」と述べている。 のちに松平水芳宮司がA級合祀に踏み切ったさいの理由づけに似ているが、この件については靖国神社は早くから積極的で、二十九年に (以下略 )
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第五章 A級合祀の日 ―― 一九七八年十月

半年後のスクープ記事

A級戦犯の合祀が各新聞に報じられたのは、合祀から半年後の一九七九年(昭和五十四)四月十九日である。スクープしたのは共同通信社の三ヶ野大典記者(編集委員)で、地方新聞など加盟紙は朝刊で報じたが、毎日、読売は夕刊掲載となった。
次に三大紙のみだしの一部を紹介しよう(傍点筆者)。
「東条元首相ら十四人 ひそかに殉難者として」「戦争肯定につながる」(朝日)
「昨秋、ひそかに 『軍国の罪ぼかすI強い反発の声』」(毎日)
「戦争責任どうなる 神社に遺族の電話次々」(読売)
十年近くもめつづけたあと流産した靖国の国家護持法案や首相の参拝をめぐって新聞の話題を賑わしてきたにしては、前年十月十七日の合祀から半年もその事実が明るみに出なかったのは奇異に思えるが、朝日と毎日が「ひそかに」と特筆したのは、その口惜しさからかもしれない。

識者や市民の反応を眺めると積極的支持は見当らず、「柔軟に考えては」とか「やむをえず認めよう」が精々で、「”戦犯の美化”こわい」「戦争責任はだれが取るのか」「内緒はよくない」のような批判的感想が多い。だからこそ神社も公表をためらったのだろう。

神社側は三紙とも藤田勝重権宮司が質疑に応じたが、「不満の人もあることから、いちいち遺族の承諾を求めるものではないと判断し、案内も出さなかった……関係者にあらぬ刺激を与えたくなかったが、無理にかくす気持ちもなかった。あくまで、まつられるべき時期にきたと思っている」(毎日)とか「仏教の世界でいう三十三回忌の過ぎた昨年、改めて(総代の)皆さんに相談、おまつりすることにした」(読売)と釈明している。
整理すると、提起された批判の論点は、
1、神社側から公表するつもりはなかった。
2、遺族へ事前の了解を求めず通知もしなかった。
3、加害者側と被害者側、がともに祀られることで、戦争責任の問題がうやむやにされる。
にしぼられる。
だが遺族には合祀の直後に通知していたから、いずれ洩れるのは必定なのに伏せておいたのは、政治やマスコミの「雑音」に惑わされず、独自路線を進もうとする松平永芳新宮司の姿勢表明だったのかもしれない。

その松平は合祀報道以後の数年はマスコミのインタビューを拒みつづけたが、スクープの立役者である三ヶ野大典記者が四月十八日に神社を訪れたときは顔を出し、「A級戦犯受難者の合祀は、私が昨年七月、宮司に着任して以来、懸案の事項だった。十四人はA級ということで、これまで見送られてきたが、時期を見て当然、まつられるべき方々と考えていた。戦後三十余年たち、なすべきことがらであるとの見地から踏み切ったことです」と語っている。後年の言動に比べると、当りさわりのない抑えた調子のコメントだが、とりあえずはマスコミの反応ぶりを自身で確めておきたいと思ったのだろう。
p173-174
 終戦直後に学習院の同級生だった高松宮の推挙で靖国神社の宮司に就任した筑波は、のびやかで開明的な気風を導入した。社報で「将来再び戦の悲しみを繰返す事なく、相たずさえて楽しき世界」を築こうとか、「我国のみはとの自己中心の幼稚なる殻にとじこもっている間、真の平和は得られぬ」と呼びかけ、平和主義、国際主義への志向を強調している。この志向は一九六〇年代に入って、一段と強まっていく。

一九六三年夏、松下正寿(クリスチャンの立教大学総長)を団長とする「核兵器禁止宗教者平和使節団」に加わり、ローマ教皇やカンタベリー天主教、さらにウ・タント国連事務総長らを歴訪して核兵器の廃絶と軍縮を訴えた筑波は、帰国すると本殿の左横に全世界の戦没者を祀る「鎮霊社」という小さな木造の社を創建、六五年七月に鎮座祭を挙行した。

不特定多数、しかも外国の戦没者を祀ることには神社内にもかなり異論が出たが、筑波の強い意向で実現したのである。翌年年頭の社報は、その主旨を「本当に平和を望むなら、かつての敵味方が手を取り合って……一般の戦争犠牲者と共に万邦の英霊をも合祀致しました」と説明、社前には「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰める為、昭和四十年七月に建立し、万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する」(傍点筆者)という由来を記した案内札が立てられた。

「合祀されぬ人々」のなかに旧賊軍の西郷隆盛や白虎隊の少年などがふくまれているのは確実だが、保留のままになっていたA級戦犯の受け入れ先も兼ねたのではないか、という見方もある。

現在は祭神名票が届いた六六年二月から本殿に合祀された七八年十月まで、A級の霊魂は本殿内陣の相殿で待機していたというのが神社の見解だが、いずれにせよ筑波宮司は、内外の世論を刺激するであろうA級合祀への消極的姿勢を崩さなかった。

その理由を公言した証跡は見当らないが、馬場久夫(神社弘報課長)は私的な場で筑波から「お祀りはするが、時機がある。私たちが生きている間は無理だろう」と聞いたことがある。理由を尋ねると「宮内庁の関係だ」としか答えず、そのときは判じかねたが、のちになって思いあたったと回想している。

筑波自身は「戦犯という言葉は相手、が一方的に付けた方々」だから「将来当然神社にお祀り申上ぐ可きだ」と社報(一九五三年八月と五五年一月)に書いたぐらいだから、主として天皇や宮内庁の意向を汲んでの処置だったのかもしれない。
筑波藤麿宮司は昭和天皇の意向を汲みA級戦犯合祀に踏み切らなかったのだ。


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 『信ずる宗教、感ずる宗教 山折哲雄/著(中央公論新社)』を読む 




















その1 信ずる神と感ずるカミ http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34285065.html
その2 役行者・最澄・空海・道元・源信・法然・親鸞 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34331139.html
 
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言葉の魔術師、道元
道元とは何者。比叡山に登って出家をしたが、二年も経たないうちに山を降りた。山上の世界に絶望したからだが、その決断の早さは群を抜く。二十四歳のとき日本人の師・明全とともに入朱したが、やがて中国人の師・如浄に出会い、坐禅に打ちこんで見心脱落の体験をえた。
からだと心が透明になって輝いた、というのである。鮮やかな留学体験といっていい。
帰国後、京都で伝道活動に入るが、のち越前に移り、永平寺をつくって弟子の養成にあたった。その厳しさは峻烈をきわめ、その点で「弟子一人ももたず」といった親鸞とは対極に立つ。
親鸞は弟子捨てに新境地を開いたが、道元は弟子のしつけに全精力をついやした。
その主著『正法眼蔵』は思索の書であるが、同時に、自然にふれて感動した体験が美しい言葉で表玩されている。かれは日本語を自由自在に駆使した点で、空海と並ぶ言葉の魔術師であり錬金術師であった。その思想がしぱしぱハイデッガーやサルトルなどと比較されてきたのも、言葉と体験が一体のものとして輝きを放っていたからにちがいたい。
もう一つ、道元の思想と坐禅体験は、のちに世阿弥や利休を通して禅文化の世界で大輪の花を咲かせることになった。能や茶道の世界だけではない。武道や華道、そして礼法などの領域にもそれは浸透している。日本文化における型の重要性を認識させる上で、はかりしれたい影響を与えているのである。
 
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日蓮、社会生活に深く浸透
日蓮とは何者。親鸞と道元の同時代者で、法華経信仰とその独自の解釈によって鎌倉仏教に新風を吹きこんだ。千葉の辺境(安房国の小湊)に漁師の子として生まれたが、比叡山に留学し、のち鎌倉に出て精力的な街頭伝道をはじめた。

法華経思想による国家の改造を論じた『立正安国論』を前執権の北条時頼に提出し、また執権北条時宗に書を送って、外敵来襲の危機を訴えた。
この宗教による政治への異議申し立てによって、度重なる迫害と流罪の試練にさらされたが、かれの警告はやがて的中し、蒙古が九州に来襲した。、
信仰の欠如によって内乱と外圧の危機が発生すると説く点で、日蓮はきわ立っていた。また自分は辺境の低い身分の出身であるが、同時に世界の中心に立つ予言者である、との強い自覚をもっていた。インターナショナルた視野とナショナルな自己認識をいつも手放さたかったのである。
日蓮は、江戸時代になってしぼしぱ義太夫、浄瑠璃たどにとりあげられ、歌舞伎荏言の題材にもなった。また近代になって、法華経を信奉する日蓮主義の信仰活動がしぼしぼ国家主義的な政治運動と結びついた。
さらに第二次大戦後の状況でいえぼ、新宗教運動の多くが法華経と日蓮の教えにもとづいて発展してきている点も見逃せたい。
そこに共通する特色をあげるとすれぼ、日蓮の思想と行動がいつも民衆の心情につよく訴え、その社会生活に深く浸透していたということではないか。
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日本入の「こころ」好きの源流
仏教とて、その内容は時代によって変わる。とにかくインド、中国、朝鮮半島と、長い旅を重ねてきたのだ。もちろんその長い長い過程で、変化しないところもあっただろう。仏教のエッセンス、といったものである。しかし変容を重ねて、もとの姿をすっかり変えてしまったようたところも少なくたい。いったいどこが変わったのか。
最澄に、よく知られた「道心」という言葉がある。道を求める心、悟りの道を求める心、という意味だ。ところで同時代の空海は、「十住心」ということをいっていた。大作といっていい著述までものしている。人問が住む心には十段階がある、ということだ。動物レベルの欲望にまみれた心から、小乗仏教の心、大乗仏教の心をへて真言密教の心まで、十のレベルを設けて、心の成長過程について論じている。
鎌倉時代に入ると、法然と親鸞は「二種深信」ということを説いた。二種の深い信心ということである。自分を罪深い存在と思う心、そしてそこから救われたいと願う心、の二種の心である。また親鸞と同時代の道元は、「身心脱落」ということを唱えた。心とからだが一体になって透明になった、という自分の体験をいったものだ。
心を重視する態度が、最澄から道元まで一貫していることに注意しよう。心の成長にたいする関心の強さである。日本人の「こころ」好きの源流の一つが、そこにみられるのである。
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無我のインド、無私の日本
日本の仏教は心の探求を重視した、そういう歴史について書いてみた。日本人における「こころ」好きの伝統の一端に、そういう形でふれたのである。
そのように考えて、あらためてインドの仏教を見直してみると、そこに無我の哲学が脈々と受けつがれていたということに気づかされる。無我とは、むろん我の否定ということだ。自我の否定、自己の否定、といってもいい。人間のエゴイズムを真っ向から拒否し抑圧しようとす
る態度である。欲望とか愛欲といったものに過激なまでにネガティブに立ち向かおうとした点で、インドの仏教や哲学は世界に冠たるものといわなけれぼならない。
無我の仏教である。自我(エゴ)の究極的な無化を目的とする生き方である。とすると、さきの心の探求を重視する日本の仏教を、いったい何と呼んだらよいか。一言でいえぼそれは、最終的に無心、無私の状態をめざすものではなかったかと思う。あえていえぼ無私の仏教であ
る。無私というのは自我(私)を否定するのでは在い。それはむしろエゴイズムの純化をねらっている。心は変化し、成熟し、そして美しく結晶する、ということを信じている思想である。
むろんインドの仏教にも心の探求、心の純化を主張する流れがなかったわけではない。しかし全体の傾向を眺めれぼ、無我の態度を鮮明にする態度がきわ立っているのである。
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長期の平和を支えた信仰
日本の歴史を大きく眺めると、長期にわたる平和の時代が二度もあったことに気づく。一つは平安時代。まさに読んで字のごとくであるが、桓武天皇の平安遷都から保元・平治の乱がはじまるまでほぼ三百五十年である。多少の内乱状態がたかったわけではないが、王朝政権の基盤が大きく崩れることはなかった。二つ目が江戸時代の二百五十年である。家康の江戸開幕から幕末維新までの時期にあたるが、これは完全な平和の時代であったといっていいだろう。
このように長期にわたる平和の時代が二度にわたってつづいた例は、まず世界の歴史のどこにもみられない。ヨーロッパはもちろんインドや中国の歴史においても見出すことができないのである。いったいどうしてそんたことが可能となったのだろうか。それがよくわからない。
そして驚くべきことに、この問題を正面からとりあげた研究がほとんど見あたらたいのである。
その原因としては、むろんいろいろな事柄が考えられるであろう。それらがまた複雑にからまりあっているにちがいない。慎重に検討したけれぼたらないところだが、私はその重要な原因の一つとして、国家と宗教の相性がきわめてよかったからではないかと思っている。社会や政治を維持していく上で、この日本列島に生まれ育った人々の信仰のあり方がかなりの程度有効にはたらいたためではないかと考えているのである。
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神仏習合、国を鎮める
平安時代は三百五十年のあいだ「平和」の時代がつづいた。それは何故か。それがここで提出した間題だった。いろいろな原因が挙げられるが、ポイントは国家と宗教の関係が良好だったからではないか、それが私の仮説であった。国家と宗教の相性が良かったといったのである。それなら、その中味はいったいどういうものだったのか。
神仏共存のシステムがつくられていたからである。神の領域と仏の領域が棲み分けられ、社会的な必要に応じて協力の関係を維持していたからだ。それをわれわれは「神仏習合」といい慣わしてきた。そのことによって、土着の固有文化一神道一と外来の異文化(仏教一が、征服と被征服、対立と葛藤という泥沼のジレンマに陥ることをまぬがれたのである。受信機能のみごと次達成といっていいだろう。その結果生みだされたのが、崇りと鎮魂の儀礼であった。
この時代の日本列島人は、地上における異変はヒトやカミの霊による崇りであると考えた。
災害や政治的無秩序、そして病気や死など、地上における異常た事件は、怨霊やもののけたどの病原体によって生ずる崇りである、と診断したのである。その崇りを鎮めコントロールするために、仏教僧と神官が総動員された。仏教と神道の専門家が協力して、清め祓いと鎮魂の儀礼をおこたった。こうして国家と杜会が、このような神仏共存のシステムによってマイルドに「鎮護」されることになったのである。
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 その1に続き、山折氏の日本仏教に影響を与えた、偉大な宗教者の評についてもご紹介させていただきたいと思います。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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仏教に影響を与えた役行者
役行者とは何者か。修験道を開いた祖といわれるが、要するに日本における山岳宗教の元祖。七世紀末、大和の葛城山で修行し、鬼神を駆使してさまざまの威力を誇ったという。
伝説に包まれた人物で、一言主神の讒言(ざんげん)によって伊豆島に流されたとか、富士山で修行し仙人にたって昇天したとかいわれる。稲作をもちこんだ平地民によって山岳に追いやられた山地民の、守護神的た地位に祀りあげられた人物なのであろう。中央にたいする辺境、征服民にたいする被征服民、権力にたいする反逆、を象徴する一種の超人としてあがめられ、異端思想の源流に位置づけられる。その野生的な山の宗教はやがて神道、陰陽道、密教などの影響をうけ、平安末期にたって修験道という実践的で過酷な修行システムをつくりあげた。その主たる担い手が山伏であり、そこから山野を活動舞台とする戦闘的な野武士なども発生した。面白いのはこの山岳宗教の流れが、逆に土着神道の儀礼化を促進するとともに、外来宗教としての仏教につよい衝撃を与え、その性格を変えることに大きく貢献したということだ。
奈良時代の仏教が概して都市型の知識仏教であったのにたいし、平安時代の仏教が比叡山や高野山を拠点とする山の仏教として日本化・土着化の道を歩んだのも、この野生的な山岳宗教の伝統がはるか以前から縄文文化の遺風を伝えながら、この日本列島に存在していたからだと考えられる。その意味において役行者は、聖徳太子の文化的対立者であったといえるだろう。
 
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最澄と「引きこもり」の意味
最澄とは何者。天台宗の開祖である。遣唐使とともに中国に留学(八〇四年)、法華経にもとづく天台教学を学んで帰国した。留学期問は八か月と短く、通訳をともたっていた。帰国後は桓武天皇の庇護のもと比叡山に天台宗を開創し、弟子の教育にあたるとともに山中修行を重視する「山の仏教」を確立した。かれの主張する山中修行は坐禅瞑想を主軸とするものだったが、とくに山中に十二年こもって修行することを義務づけたところに特徴がある。それを「籠山十二年」という。
同時にかれは法華経の大乗思想にもとづいて、誰でも仏になることができると説いた。万人成仏思想であり、禁欲的な戒律にこだわる必要はないと考えた。そのため伝統的な保守派とのあいだに対立が生じ、相手を論破するためつぎつぎと著作をだしていった。かれは果敢な論争家でもあったのだ。
が、問題はそこから生じた。なぜならもしも万人誰しも成仏することができるというのであるなら、なぜきびしい山中修行をしなけれぼたらないのか、という疑問がつきつけられることになったからである。この疑間にはらまれているジレンマは、人間そのものにかかわる根本的矛盾であった。いわぼ永遠の宗教的な問いだったわけであるが、その問いの理論的な提出者が最澄である。「籠山十二年」はその問いに答えたものであるが、今日、杜会的た病理とされている「引きこもり」の意味を明らかにする上でも、それは参考にたるだろう。
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空海、密教思想を体系化
空海とは何者。真言宗の開祖である。最澄と同時期に中国に留学し、密教を学んで帰国した。
留学前、四国の室戸岬などではげしい修行に没頭し、二十四歳の若さで儒教.道教.仏教の優劣を論じた比較宗教論『三教指帰』を書いた。
帰国してからは高野山に山の修行道場・金剛峰寺を開き、また京都に進出して中央への前線基地.東寺を建てた。そして基言密教を最高位におく仏教概論(『十住心論』)と、肉身のまま仏になるための実践論(『即身成仏義』)を著し、密教思想を体系化した。
空海密教が日本の歴史の上ではたした役割に二つある。一つは、かれが中国で学んでわが国にもたらしたマンダラ(曼陀羅)の思想である。これはマクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)を有機的に統合する理論で、日本人の人間観はもとより自然観や美意識の形成に新鮮な刺激を与えた。もう一つが加持祈祷の儀礼であった。これは平安時代以降に意識されるように恋った怨霊と崇りの信仰とかかわり、その鎮魂・慰撫の儀礼として発展することになった。それは一面で悪霊払いの技術として珍重されるとともに、人間の嫉妬や不安と結びつく政治・経済上の混乱を収拾する儀礼として活用されたのである。
空海はまた貯水池を開いて杜会事業にも意欲を示すと同時に、わが国最初の大学である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創設している。その上、その書は天馬空を行く趣があった。
61
「魂は山高く」の万葉人信仰
『万葉集』には、知られているように相聞歌と挽歌がたくさんでてくる。歌は死者をいたむ歌だ。相聞歌は愛の歌、挽挽歌についていうと、死んだ人の魂が山中深くのぼっていくという歌が比較的多い。山をとり巻く雲、霧、そして頂上へとのぼっていく。ともかく死者の魂は高いところにのぼっていく傾向を示している。
ところが面白いことに、あとに残された遺体にかんする関心はきわめて希薄である。いや、そういうものはほとんどないといっていい。いってみれぼ万葉人は、もっぱら死者の魂の行方を気にしていたのであって、あとに残された遺体や遺骨の運命についてはきわめて冷淡だった
ことがわかる。人の死は霊魂と肉体を分離させる機会なのであって、そこには霊肉二元の考えにもとづく霊魂重視の態度がきわ立っていたといっていいだろう。
魂が山にのぼるという信仰をかりに万葉人感覚と呼んでいいとなると、この感覚は仏教を積極的にとり入れようとした聖徳太子も、そして最澄や空海もともに共有していたものではないろうか。聖徳太子が死んだのち河内・磯長の丘陵に葬られたのもそうした信仰の影響だろう。
最澄が比叡山、空海が高野山という山岳に修行道場をつくったのも、そこが死者の魂の霊気にみたされた空問だったからではたいかと思う。そしてそのようた山岳で神話的な文化英雄の役割をはたしたのが修験道の祖とされる役行老である。かれは仏教と山岳信仰を結びつけるキーパーソンだった。
 63
道元と寺田寅彦が共有していた感覚
この日本列島では、山に向かうとカミの声がきこえてくるといった人がたくさんいる。たとえぼ物理学老の寺田寅彦だ。地震学の権威であるが、震動する大地の恐ろしさを骨身にしみて感じた人である。それだからこそ山や森に向かうときは謙虚になり、その自然のたかにカミの声をききわけたのである。「日本人の自然観」という文章でそういっている。
一方、山に向かうとホトケの声がきこえてくるといった人も、この国にはたくさんいる。たとえば十三世紀の道元である。その主著『正法眼蔵』の「渓声山色」にそのことがでてくる。
庭にでて坐禅をしていると、いつのまにか山が説法し、谷川の流れがホトケの道を語りだす。
自分(道元)が説法しているのではない。山や川が説法しているのであるといっている。道元は自然のなかにホトケの声をきいていたということにたるだろう。
ここで大切なのは、道元と寅彦のあいだに何百年という時間が流れているにもかかわらず、自然のなかにカミやホトケを感ずる心が生き続けていたということだろう。そしてそれはまた、宗教老の道元と科学者の寺田寅彦によって同じように共有されていた感覚だったということだ。
もう一つ面白いことは、この場合カミもホトケもほとんど同じ水準のものと感じられていたということではないか。道元はホトケという代わりにカミといってもよかったのであり、寅彦もカミといわずにホトケといってもよかったのである
 66
仏教ホスピスを生んだ源信
源信とは誰か。平安時代の中期、比叡山で修行し学問に打ち込んだ天台僧である。四十四歳のとき『往生要集』を書き、浄土思想をはじめて体系的にまとめあげた。インド・中国の教典を縦横に引用して地獄と極楽の様相を詳述し、浄土に往生するための修行の道がどのようなものであるべきかを克明に描きだしている。この作品はその後の日本人の浄土信仰に決定的な影響を与え、建築や絵画.彫刻などの仏教芸従、および民問における来世観や葬儀のやり方に数知れない刺激を及ぼした。日本における「地獄学」「極楽学」の基礎をつくったといっても過言ではない。
また源信は「二十五三昧会」という念仏結社を組織して、人間いかに死ぬべきかの課題に答えようとした。二十五人の同志が毎月十五日に集まり、徹夜で念仏を唱えたのである。同志のなかに病人が出れば、当番制によって二十四時間体制の看護にあたった。今日いうところの仏教ホスピスの原型であり、末期医療の浄土教版といってもいいだろう。病人がそのまま死去した場合は、墓所(安養廟)に埋葬し、死者の「尊霊」を浄土に送りとどける儀式をおこなった。
死者の霊魂が往生する主体である、と考えられていたのである。
ちなみに『源氏物語』の宇治十帖に登場する横川の僧都は、入水自殺をはかった浮舟を助ける高僧として知られるが、この人物のモデルが源信であるともいわれている。もってその人気のほどがしのぽれるであろう。
67
法然の三つの顔
法然とは何者か。かれは今日、浄土宗の開祖とされているが、この人物を語るのに三つの方法があると思う。
第一は、山の仏教を里の仏教へと転換さ娃た最大の功労者、エリート中心の知的な浄土教を大衆的で情的な浄土教へと拡大させた戦略家、と考える方法である。かれは十五歳のとき比叡山で出家したが、やがて山を下り東山吉水に根拠を定めて、民間伝道に献身した。
第二にかれは、仏教の歴史を総点検し、さまざまな流派の思想課題とその長短を批判的に整理した分析家の顔をもつ。その結果選びとられた信仰のエッセンスが、念仏だけで救われるとする「専修念仏」の立場だった。もっぱら念仏のみを唱えよ、と説く求心的た情熟家の顔がそこにのぞいている。
第三が、弟子の親鸞との関係を通してその人物像を浮かび上がらせる方法である。もしも親鸞が存在しなかったら、法然はその名を後世に大きくのこすことはなかったかもしれない。親鸞による法然讃歎の言葉はじつに美しく、そして深い。そのことで師・法然の存在がまさに世界に開示されたといっていいだろう。だがむろん、待てよ、という声がきこえないではない。
親鸞の思想と信仰のすべては、あの有名な「悪人正機」の説を含めてすでに法然の内部で発芽し発酵していた、とする声である。先覚者・法然の顔だ。親鸞という独創的で気むずかしい思想家に多大の感化を与えた教育者の肖像である。
68
親鸞の"脱日本人的"意識
親鸞とは何者か。一言でいうのがこれほど難しい人物もいないのではないか。
九歳から二十九歳までの青春の二十年を比叡山で過ごしている。生まじめな難行苦行時代だったのか、自由奔放な修行と研学の生活だったのか、それがよくわからない。山に絶望して法然(源空)の念仏集団に身を投じたが、やがて越後に流された。すでにこのころ結婚し子供をえている。
そして自分の名を三度も変えている。綽空から善信へ、そして親鸞へと。自己を確立するための危機の時代であったといっていい。面白いのはその過程で、自分は僧でもなけれぼ俗人でもないという自覚をもったということだ。非僧非俗の宣言である。アイデンティティの危機と改名への渇望が重なり合い、そこからしぼり出された言葉だ。
親鷲は、自分が真に自分にたったのは七人の先輩僧がいたからだといっている。インド人の龍樹と天親、中国人の曇鸞、道綽、善導、そして日本人の源信、源空の七人の高僧たちである。
みての通り、はじめの綽空と善信の名称は中国人と日本人の名からとっている。ところが最後の親鸞は、インド人の天親と中国人の曇鸞から合作したものだ。
かれは最終的に親鸞の名を得たとき、それまでの日本人の仏教を否定し去ったのではないか。
源信と源空の日本思想からの離陸をはじめたのだろう。阿弥陀仏のみによって救われるというかれの一神教的思考は、おそらくそのようた脱日本人的な意識に発していたのである。
 
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著者ロバート・D・アーマン教授は、キリスト教を熱心に信仰するあまり、強い信仰心から聖書の成立や、中身を深く研究した。
 
ところが見えてきたのは矛盾に満ちた聖書の内容、や聖書の筆者は一人ではなく、長年書き写されていくなかで付け加えられたり削られたりして聖書が成立していったその課程が見えてきてしまった。
 
キリスト教も必ずしもイエス・キリストの教えをそのまま伝えているのではなく、初期キリスト教会に携わった人々の創作であることを本書は明らかにしています。
 
 350ページぎっしり詰った文字で、読むのに苦労しましたが、たいへん面白い内容でした。 
 
まえがき……………9

第一章信仰に突きつけられた歴史的挑戦……………13
神学生のための聖書概論
聖書が抱える問題
神学校から説教壇へ
歴史的・批判的手法の受容

第二章矛盾に満ちた世界 ……………33
例証の手始め『マルコ』と『ヨハネ』におけるイエスの死
イエスの死と生涯に関する記述の矛盾
イエスの誕生/イエスの系譜/イエスの生涯に関する記述のその他の矛盾/受難物語における矛盾
パウロの生涯と書簡に見られる矛盾
結論

第三章山積する様々な見解 ……………81
序説『マルコによる福音書』と『ルカによる福音書』におけるイエスの死
『マルコ』におけるイエスの死/『ルカ』におけるイエスの死/結論
『ヨハネによる福音書』と共観福音書の主要な違い
多岐にわたる内容/カ点が置かれているテーマの違い/イエスの奇跡
パウロと福音書記者の主要な違い
パウロとマタイの描く救済と律法
新約聖書における他の様々な見解
なぜイエスは死んだのか?/イエスはいつ神の子、主、そしてメシアになったのか?/
神は偶像崇拝者の無知を見逃してきたのか?/ローマ国家は善の勢カか、それとも悪の勢カか?
結論

第四章誰が聖書を書いたのか? ……………126
誰が福音書を書いたのか?
序論目撃証言としての福音書/福音書記者/パピアスの証言/イレナエウスらの証言/
新約聖書には偽造文書が含まれているのか?
吉代におけるスーデピグラフィー/初期キリスト教の偽文書/
パウロの偽書簡
『テサロニケの信徒への手紙二』/『コロサイの信徒への手紙』と『エフェソの信徒への手紙』/『牧会書簡』
新約聖書の他の書を書いたのは誰か?
結論 誰が聖書を書いたのか?

第五章嘘つき、狂人あるいは主?歴史的なイエスを求めて……………167
イエスに関する初期史料
口頭伝承/イエスの生涯を再構築するための他の史料/歴史資料の正確性を確立する基準
黙示思想的預言者としてのイエス
イエスの教え/イエスの行いと活動
補説イエスの牛涯で起きた復活やその他の奇跡

第六章いかにして私たちは聖書を手に入れたのか……………214
新約聖書の「オリジナル」テキスト
聖書正典の成立
初期キリスト教教会の驚くべき多様性
外典
エビオン派の福音書/コプト語の『トマスによる福音書』/『テクラ行伝』/『コリントの信徒への手紙三』/
『バルナバの手紙』/『ペトロの黙示録』/コプト語の『ぺトロの黙示録』
正典成立に至るまでの議論
『ぺトロによる福音書』の場合/正典をめぐる試み-『ムラトリ正典目録』/
初期教会における正統と異端
エウセビオスから見た正統と異端/ヴァルター・バウアーの爆弾/バウアー以後
闘争のための武器
聖職者/信条/正典
結論

第七章誰がキリスト教を発明したのか? ……………261
苦悩するメシア
キリスト教徒のメシア観/ユダヤ教徒が待望するメシアの到来/キリスト教徒の主張の根拠
独自の、反ユダヤ的宗教としてのキリスト教
イエスの宗教と最初期の信者/後世の信者の反ユダヤ的教え/キリスト教の反ユダヤ主義の出現
イエスの神性
イエスはいつ神の子になったのか?/ヨハネの共同体におけるキリストの神性/
同じ目的地に向かう異なる道
三位一体の教義
神は何人いるのか?いくつかの答え/二つの非正統的.正統的解決法
天国と地獄
死後の世界に対する初期の黙示思想的解釈/黙示思想的展望の変遷
結論

第八章それでも信仰は可能か? ……………314
歴史的批判と信仰/歴史と神話/信仰との決別/歴史的批判の神学的価値/
それならなぜ聖書を研究するのか?
原註…330
訳註…345
翻訳にあたり参考にした文献…346
訳者あとがき…348
 
p30~31
最初に私の頭を悩ませた大問題は、聖書のオリジナルテキストが現存せず、そのほとんどが何世紀も後に作られた写本であるという歴史的事実である。
 
そして、聖書の一言一句に至るまで神の霊感が授けられているという考えは、どんどんおかしいと思えてきた。
 
もし私たちの手元にそうした言葉が残されていないなら、もし現存するテキストに何千箇所も修正が加えられており、そのはとんどが些細な修正である一方で、極めて重大な修正も数多くあるというなら、聖書が神から与えられた言葉だとは、到底考えられないからだ。
 
もし神が、私たちに自分の言葉を伝えたかったたら、なぜ彼は原文のままにしておいてくれなかったのだろう?

聖書に神の霊感が宿っていることを疑い始めた同じ時期に、私は歴史的.批判的観点から聖書について教える聖書学の講義に感化されるようになった。
 
私は聖書の抱える矛盾に気づき始めた。聖書を構成する書が互いに矛盾をきたしているという事実を認識するようになった。
 
聖書の一部の書の著者が、記されている名前とは別人であるということを確信するようにたった。そして私が長らく疑いもしなかった、キリストの神性や三位一体といったキリスト教の伝統的な教義の多くが、最初期の新約聖書には書かれておらず、長い年月をかけて形成され、イエスや使徒の本来の教えから乖離していったことにも目を向けるようになった 。

こうした発見は、私の信仰に多大な影響を与えた。わたしのクラスメイトだった神学生の多くも、同じような経験をしただろうし、今日の神学生についても同じことを言えるだろう。しかし、神学校時代の友人のほとんどが聖書への敬度なアプローチに回帰する中で、神学の修士号を取得した後も、私はそうはしなかった。
 
聖書を歴史的観点から研究することに、さらに熱中したのだ。そして聖書によって教えられたと思っていたキリスト教への信仰についての研究にも打ち込んだ。
 
神学校に入学した当時は、再生派の原理主義者だった私は、卒業する頃には、リベラルな福音主義的クリスチャンに近づいていた。依然聖書は神の重要な教えを自らの民に伝えるものであると考えていたが、それと同時に、聖書が人為的な見解や誤りに満ちている事実も受げ入れた。

時とともに、私の見解も変容していった。一夜にして福音伝道者から不可知論者に変貌したわけではない。そうそう簡単に物事は進まないものだ。
 
聖書の言葉に神の霊感が宿っているという考えと決別した後も、十五年ほど私は敬度なクリスチャンであり続けた。教会に通い、神を信じ、懺悔する模範的なクリスチャソだ。
 
確かに私はますますリベラルな方向に傾いてはいた。研究を通して、自分の信仰の重要な側面に疑念を抱くようになっていた。神学校を卒業してまもない頃も、私は神をまだ完全に信じてはいたが、聖書の記述を額面通り受け取るのではなく、その裏に隠された意味を探ることで理解するまでになっていた。
 
つまり、聖書は、神の霊感が宿る情報の源であり、そうした情報が神についての正しくかつ有益な思索を触発してくれるものなのだと確信していた。しかしそれと同時に、聖書は人間の手による産物であるからして、いかなる人間の所業も免れられない、多種多様な間違いを含んでいるのだと、私は考えたのだ。

やがて私が信仰と決別する時が訪れる。歴史的批判を学んだためではなく、自分の神への信仰と、私を取り巻く現実世界の有様に、どうあがいても折り合いをつけることができなくなってしまったのだ。
 
この問題については、私の著書である『破綻した神キリスト』で詳しく論じている。ともかく、世界には、あまりに理不尽な苦痛や苦難が多過ぎて、この世を支配する慈愛に満ちた善なる神が存在するとは、どうしても信じることができなくたってしまったのである。
 
もちろん、人ぴとから口にするお決まりの反論は、重々承知している。
  p312~313
私たちが伝統的なキリスト教と考えているものは、天から降ってきたのではなく、イエスの宣教活動直後から、著しい発展を遂げた。
 
それはまた、単にイエスの教えから直接発生したのではない。多くの点で、後にキリスト教と呼ばれるようになった宗教は、イエスの教えから大きく乖離することで成立した。批評的な歴史学者が、ずっと前から認めているように、キリスト教は、イエスの宗教ではなく、イエスについての宗教たのだ。

この章で私が論じた伝統的なキリスト教のあらゆる側面は、初期教会の創作と考えることができる。

このような初期教会の発展を考察する一部の学者は、イエスが登場する以前から存在していたものとの確かな連続性を見い出している。
 
キリスト教神学者は、キリスト教の発展の背後に、神の手が働いていると考えるかもしれない。しかし他の学者は、むしろその断絶に注目している。
 
つまり、「正統な」キリスト教思想は、イエスや初期の弟子の教えから必然的に導き出されたというよりは、後世のキリスト教徒に影響を与えた、歴史的・文化的要因によって、形成されていった教義だと、彼らは考えている。

後代に成立したこうした教義は、最終的に、後の教会において、広く受容され、「常識」にさえなった (教義が形成されるプロセスに、神が関わっていたかどうかは別にして)。

初期キリスト教の発展の連続性を強調するにしろ、不連続性を強調するにしろ、後世の信者が信じるようになった信仰や思想が、イエス自身が奉じていた宗教とは別物であることに変わりはない。私たちがキリスト教とみなしているものの発明、すなわち一連の神学的な革新は、パウロだけが成し遂げたわけではない。
 
イエスの宗教をイエスについての宗教へ変質させた人々の改かで、最も大きな働きをしたのも、パウロではない。無数のキリスト教徒が、キリスト教のこのような変質に関わり、その大多数は、古代の霧の中へと消えていった、名もたきキリスト教思想家であり、説教者だった。
 
彼らは、イエスにまつわる伝承を、自分たちの時代に合わせて再解釈した。現代に生きる私たちは、歴史的・文化的な力によって導かれ、形作られた、そうした再解釈について、時に推測し、あれこれ思いをめぐらすことしかできない。

私たちが知るキリスト教は、一夜にして出現したわけでは、決してない。それは、競合する思想、教義、見解、正典および規律をめぐる、苦闘と議論と争いに彩られた長い年月をかけて出来上がったのだ。

最終的に成立したキリスト教は、紛れもなく、人間の発明だった。そして、歴史的・文化的重要性という観点からすると、それは、西洋文明の歴史の最も偉大な発明であったことに異論の余地はないだろう。
宗教の成立とは、ある日突然空から降ってきたものではなく、人類が長い年月を掛け練りこんできた経験や思想に神話を絡めて成立した一つの哲学であると私は思っています。ただ、この世には人知では解決できない心霊現象や死後の世界といった神秘学が存在し、この哲学と結合したものを宗教というものだと思います。
 
日本人の宗教家の多くは現実主義者であり、密教を除くと神秘学的呪術は霊能者に任せだ。宗教家の多くは神秘学的なこと(超常現象等)を全否定はしていない。
 
アーマン教授の主張は、少々原理主義的に考えすぎで、もう少し日本人の宗教家のように寛容に考えてはいかがなものかと思います。本当に神の存在を信じなくては宗教は成立しないのでは、誰が蒙昧な大衆の魂を救うのか?単に宗教が必要であると認めればよいのではないかと私は思うのであります。
 
しかし、典型的日本人である私のような宗教に対する考え方をアーマン教授はとても受け入れることができないであろうと思う。
 
教授も宗教的に寛容な日本に生まれば悩まずに済んだかもしれない。
 
 
 
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幼い子供を残して自殺する母親・・・
いったい・・・残された子供はどうしたらいいのか?4歳といえば「ママ、ママ」と母親が最も必要な時期ではないか?先日も日本テレビアナウンサーの山本真純アナウンサーが5ヶ月の乳児を残して自殺した・・
 
84年の歌手デビュー組から訃報が続いていることだ。岡田有希子さん(86年4月8日没)、可愛かずみさん(97年5月9日没)、戸川京子さん(2002年7月18日没)。理由はさまざまだが、いずれも自殺・・・一種の呪術に罹っていると考える人もいるだろう。
 
やはり、日本には宗教や縛りが少なく自殺に至る垣根が低いのではないだろうか? 
p60
しかし、現代社会では、もはやこの日本的宗教観も崩れつつあります。いま、内田先生は「縛り」とおっしゃいましたが、宗教的な行為様式の基盤が崩れたことで、霊性にかかわる問題にかえって縛られるという側面が出てきている。たとえば都市生活には土俗の宗教性がありません。でも、人間はなんらかの意味の「縛り」がなくては生活できません。そこで「占い」や「スピリチュアル」がブームとなる。「占い」が都市部ほど盛んなのは、都市生活者がなんらかの縛りを求めていることの表れの一つなんじゃないでしょうか。

内田:「占い」は擬似宗教ですからね。
釈:日本みたいに、全民放テレビが毎朝「今日の占い一を放送したり、占いのコーナーがどの雑誌にもあるというのは、他の文化圏ではちょつと考えられない現象です。しかも都市部ほど関心が高い傾向がある。つまり、土俗の宗教性がないところほど占いが求められるというのは、やつぱり人はどこか縛られたがっているというか、何か規制をかけられることによって安心するのだと想います。土俗の宗教性が希薄なところは、タブーや縛りも希薄ですから。近頃は、占いを見てからでないと外へ一歩も出られない「占い依存症」というのがあるそうです。しかも、占いの結果が悪かつたら、会社や学校を休むことまであるらしい。
ちょっとうそっぽいなぁ・・・
大衆の生活に入り込んでいた民間宗教者
p71
釈:話を戻しますと、言葉や呼び名一つをとっても、常に宗教性と関連していることが少し実感できたでしょうか。その場その場の土俗のものの意昧を、読み替えることで変換してきたわけです。そして、そうした呼び名を変えるなどの試みは、その村や土地に住んでいた、「民間宗教者」が担ってきたと思うんですね。
ここからはそのことについて考えてみたい。なぜなら、「現代霊性」を考える場合、民間宗教者の果たしている役割を避けて通るわけにはいかないからです。あまり議論の俎上に載ることはないテーマなのですが、まず民間宗教者と、「教団宗教者」との相違を押さえておきたいと思います。

宗教を学校で勉強すると、空海、親鸞、日蓮など、習うのはだいたい(現代の視点から見た)教団宗教者の話に偏りがちです。有名な宗教者の多くは、現在も続く伝統教団をクリェイトしてきた人たちですからね。もちろん、そうした宗教者の思想は、人間の根源的で普遍的な問題を深く考察したからこそ、世代を超えて語り継がれていくのですが。

一方いつの時代でも、民間宗教者が大衆の中で果たしてきた役割があることも間違いありません。シャーマンとして、霊能者として、カウンセラーとして、民間宗教者は大衆の生活に入り込み、機能してきました。ただし民間宗教者は教団宗教者と違い、個人芸のようなものなので、名前が残りにくいという面もあります。
民間宗教者のことを、よく関西では、「拝み屋」「拝み屋さん」って言うんですけど。先生、関東のほうではどうでしょうか?

内田:聞いたことないですね。

釈:そういうの、ありませんか?古い村だとだいたい、「あそこは何代も続く拝み屋さんや」などと言われる人がいます。教団宗教者と民間宗教者という区別も、私の勝手な思いつきなので、その呼び名が適切かどうかわからないですけれど、昔から人々は、日常の悩みとか苦しみ、生活の相談などにおいて、教団宗教者と民間宗教者を使い分けてきたわけです。法事とか、仏教のお話を聞くときはお寺に括参りするけれど、崇りや掻き物などは民間宗教者に拝んでもらったり、お祓いしてもらったり、故人の霊を呼んでもらったりしてきた。

民間宗教者は「シャーマン系の人」と「霊能者系の人」とに大きく分けられると思います。霊能者系は、占いとか占星術や、ヒーリングなどの癒す技術を身につけている人ですね。自分が身につけた技術を駆使して相談者に対応します。これに対して、シャーマン系の人は、降霊や憑依によって霊の言葉を伝えるという手法になります。今、ウケている人で言えば、江原啓之は霊能者系ですね。ご存じですか?

内田:江原啓之って、テレビに出てる人ですね。
 
釈:あの人や細木数子はきっと霊能者系なのでしょう。民間宗教は、いつの時代においても教団宗教とともに、常に機能してきたと僕は思います。この系譜をまったく排除して宗教を語るわけにはいきません。

また、民間宗教者が教団宗教者と違うところは、その場、その相手にしか機能しない点でしょう。そのとき目の前にいる相手を救うことが先立つ技術の駆使が特徴だと思うんですよ。これが教団宗教者にはできない。私もやはり浄土真宗という教団に属する宗教者なので、民間宗教者の手法に対してはすごく抵抗があって、できないんですね。ちょうど教団宗教者ができない霊性の仕事の部分を、民間宗教者が担っている、そんな構図でしょうな。
細木が島倉千代子を食い物にしたヤクザの情婦あがりである事は知っていたがあんな下品な女ヤクザが霊能者だとは知らなかった。占い師といってもね・・・六星占術は「算命学」「0学占術」のパクリだしね・・・。釈先生も世間知らずですね。
 
宗教の本質と魔境
p85~86
釈:たとえば内田先生みたいな、強い常識力といいますか、ある意味タフな心身を持っておられる方はいいんです。「日常の外部」と、ほどよい距離感を持っておられるから。でも、世の中にはもっと真面目で純真な人もいて-・…内田先生みたいに悪い人ばかりじゃないんですよね(笑)。
 
釈:そういう真面目な人はほんとうに、まるで強追神経症にでもなつたかのように、何かに縛られてしまうんですね。「呪術的なもの」をとにかく気にしてしまって、しかも次から次へと新しい情報に振り回される。ぐるぐると鼻面を引きずり回されるような、そういう状況に陥ってしまう。そういう例をこれまで数多く見てきたので、スピリチュアル.ブームを煽つている人々は、ほんとうに罪作りといいますか、酷なことをしているなあと考えています。

宗教の持つ一種の魅カというか魔力に引きずり回されないためには、やはり自分の在り様や立ち位置、また生きる方向性についてきちんと向き合う作業が必要だと思います。そこに無自覚だと、呪術に振り回されることになります。
なにしろ現代のスピリチュアリズムは個人的な、ごく私的な体験を重視する傾向が強いんです。その手のものに足をすくわれないためには、伝統的主流宗教への理解や学習が必要だろうと思います。霊性やスピリチュアリティの「毒」を避けるためには、やはり体系的に制度宗教を知ることは必要じゃないでしょうか。伝統宗教教団は、長い間かかって鍛錬されてきた鋼のような体系を持っていますから。

ただ単にエンターテインメントとしてスピリチュアルな文化を楽しむというのはもちろん否定しませんが、やはり危険性が隠れていると考えたほうがいい。たとえば、荒行や坐禅や瞑想をすることで、この世と外部をつなぐ回路が開いて、いろんなものが見えたり聞こえたりするのを、伝統宗教では「単なる生理現象だから、宗教の本質には関係ない」とばつさり切って捨てます。

内田:「魔境」というやつですね。
釈:はい。
内田:人間は何か具合が悪くなったりすると、生存戦略上、どこかにバイパスを作って回避しようとします。「魔境」もそのようなメカニズムで起こるんでしょうね。
釈:禅などもいろいろと心身に生理的負荷をかけますから。
内田:生理的負荷をかけられると、そこを避けるためにバイパスができる。それは一見救われたかのように見えるけど、実は危険でもある。
カルト宗教というのは、オウム真理教もそうだったが、自分のところの教義にあわせあっちこっちの宗教教義をパクって、パッチワーク的に繋ぎ合わせをしている。
魔境というものを体験すると、それが生理現象によるものだと理解できずに、超自然的な体験と感じてしまうようです。ちゃんとした師匠につけば、それが単なる生理現象である魔境にすぎないことを諭してくれるが、新興宗教はそれをもって自己の正統性を主張してしまう点が問題なのだろう。
 
オウムも麻原の人格が破綻していたにもかかわらず、それを見抜けない真面目な秀才達が魔境を体験してしまったことにその悲劇と災難の原因があったのではなかろうか?
執筆中
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半年前に一度本書を読みブログで取り上げようとは思っていたが、時間が無く後回しにしていた。実は、我が家でちょっとした事件があり、改めて読み直したので、今回ブログで取り上ることにした。
 
その事件とは
2週間ほど前、前日窓拭きをしたはずの我が家のリビングのガラス戸に小さい子供の手形がついていた!娘のものではなく、しかも手形の持ち主と思われる子供の背の高さでは到底届かぬ175cmほどの位置であり、引っ越してから我が家にそのような子供は招いていないのだった。~m( --)m (x_x;).
しかも、発見する前夜私は原因不明の肋間神経痛で痛くて深夜一度目覚めている!
実は、前のマンションでも3.4年前寝室の小さな鏡(床から直ぐの位置に設置)に不自然な小さな指紋のようなものがついていたことがあった。
 
ちなみに我が家には水子はいません。霊感が強い我が娘も、引っ越してからずっと「新居には何かが居るこの家怖い」と引っ越してきてからずっと言い張るが、「そんな馬鹿な・・・」と思っていました。( ̄_ ̄|||)どよ~ ん
 
早速お世話になっている霊能者の方に聞くと、「前に我が家を貸していた方の水子さんが、居心地が良く残ってらっしゃる」とのご宣託 ~m( --)m
でした。L(・o・)」 オーマイガ。ちなみに、「前夜の肋間神経痛は?」と尋ねると「関係ないですね、運動不足じゃないですか?」・・・だと。ミ(ノ_ _)ノ=3 ドテッ

そして事件が起きた。その手形のあった翌々日の夜妻が突如、 (..;)σ∥「今!廊下で子供の影を見て、スッと消えた!!!」と言い張るのである。妻が錯乱したのかと思いつつも、出た廊下の場所に立つと急に背筋が寒くなり、一瞬強い恐怖を感じた・・・ \(>o<)/ギャーッ!(私は感じただけで見てはいません。)

翌日、少し冷静になって考えたら「ひょっとしてあれは『座敷童子』様ではなかろうか?」と妻も私もそう思った。座敷わらしさんであれば 『ありがたや・・・』是非もう一度お会いしたい」という思いに変った。
。°・:,。\(^-^ )♪( ^-^)/,。・:・°
気持ちが変化したら不思議なもので、今度は恐怖心がなくなり、毎日出現をお待ちするようになったのだが・・・
。°・:,。\(^-^ )♪いらっしゃいませ!!お待ちしてます♪( ^-^)/★,。・:・°
あれから2週間・・・「座敷わらし」様は一切の兆候がありません・・・・
 (´∩`;) ・・・・・ 
やっぱり妻が子供の中学受験のプレッシャーから錯乱しただけだったのかなぁ?(>_<)  残念!
ちなみに、数年前座敷わらしさんが出現する旅館が燃えたニュースを聴いた時に妻は「座敷わらしさん!是非我が家に来てください!!!」とTVに向かって叫ぶように祈っていたことを忘れておりました・・・   (^○^) アハハ   
 
ということで・・・・
 
 
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現代霊性論 内田樹・釈徹宗/著(講談社)
 
第一章
霊って何だろう? ………009
はじめに――神さまや幽霊については現象学的アプローチか有効です
WHOによる霊性への取り組み/日本の祖霊信仰と死生観の変遷
地名と「場の力」/繁華街の多くは霊的スポット?/身体感度を鈍くする現代人
 
第二章
名前は呪い? ………035
名づけることは呪うこと/霊に個性はあるのか
名前の持つ力/男女共同参画社会の欺瞞
「自明の前提」を系譜的に考えてみる/「葬式をやらない」は許されない
 
第三章
シャーマン、霊能者、カウンセラー――民間宗教者のお仕事………063
供養とは故人のふるまいを繰り返すこと/コミュニケーションの三タイプ
大衆の生活に入り込んでいた民間宗教者/名医とシャーマニズム医療
 
第四章
スピリチュアルブームの正体………081
都市ほど占いが流行る/宗教の本質と「魔境」
メジャー宗教の裏バージョン/「ハレ・ケ・ケガレ」の三態
「ハレの常態化」とその危険/ポスト新宗教とナシヨナリズム,
危険な宗教の「つまみ食い」/オウム真理教はマジだからああなった
 
第五章
日本の宗教性はメタ宗教にあり………113
大本を作った出口王仁三郎/鈴木大拙が考えた霊性
コナン・ドイルとスピリチュアリズム
宗教と国家権力/シャーロック・ホームズの推理法
村上春樹の作品に見る霊的な説話/本物の哲学者は幽霊の話をする?
ポスト新宗教に影響を与えた「神智学協会」
アメリカの宗教性の変遷/ヨーガ、スピリチュアル・ケアから『死ぬ瞬間』まで
日本独自の「スピリチュアル.コンベンション」
第六章
第三期・宗教ブーム――一九七五年起源説………149
日本に三度あった宗教ブーム/カルトかどうかのチエック・ポイント
宗教が持つ三つの特徴/一九七五年という分岐点
新入社員のポーナスが五百万円だった時代
カウンセラーは信用できない/閉じた教団には要注意
 
第七章
靖國問題で考える「政治と宗教」 ………175
首相の靖國参拝に反対する理由/高橋哲哉と小林よしのりの共通性
死者を正しく祀らないと崇る/「死者の声が聞こえる」という傲慢
宗教を道具化する靖國問題/靖國神社に求められる覚悟
世俗と宗教を分離するイスラム/国民国家は新しい概念
 
第八章
宗教の本質は儀礼にあり………199
ユダヤ教が繋いだユダヤ人の民族性
イスラムにおける「ラマダーン」の絆/宗教と一流詐欺師の共通点
「お悔やみ」の難しさ/「共食」と「個(孤)食」
 
第九章
宗教とタブー ………219
「いただきます」は宗教行為か?
「お清めの塩」の問題/生き物から食べ物への移行
儀礼か軽視されてきた近代社会
「お経はわからないから、ありかたい」場合もある
儀礼の持つコ暴の顔」/インドには泥棒のカーストがある
だんじり祭の美意識/タブーとしての「豚食」
事件は橋の上で起こっている/クロスロードは異界へのドア
起源が言えないのが儀礼の本質
質問の時間………252
おわりに………295

図表「おもな新宗教・ポスト新宗教の推移」………100
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内田樹とは会った事も話した事もないが、憲法九条を擁護する人間は根本的に嫌いです。生理的に嫌悪感を感じ、虫唾がはしってしまいます。誰だって争いごとなど好むはずが無く、平和な世界がいいと思うのは当たり前ですが、ところが護憲派は自分達が東京裁判の呪縛に罹っていることに気がつかずに、東京裁判史観の焼き直しにすぎない彼らの主張は普遍の平和の真理だと信じきっている。
 
そして改憲を主張する我々保守派を右翼だの軍国主義者といった彼らからすれば罵倒の言葉を浴びせる。自分こそ「パー」のくせに改憲派を頭が悪いネットウヨと書き込む馬鹿もいる。本書でも度々内田樹はナショナリズムを否定することを書いている。
p92~93
少し前まではインターネツトを使えない人たちが、「デジタルデバイド」により情報にキャッチアップできなくて下流に吹き寄せられると言われてましたけど、現実には、ネットのための初期投資はどんどん安くなっている。今は五万円くらいでパソコン本体が買えますし、ネット接続料も安くなっている。だから、インターネットで遊んでいるのが一番お金がかからない。それが「引きこもり」状態をより容易にしている。この若いネットピープルたちが好む娯楽は、ロックコンサート観賞とスポーツ観戦なんだそうです。年収が下がるほど、スポーツ観戦とロックフェスティバルに惹きつけられる。でも、こういうのは広告代理店が仕切っているイベントでしょう。そういう管理化された擬似イベントに何十万という人たちが集められて、代理店とテレビ局に仕切られた祝祭によって「ガス抜き一をしてもらい、また一人ひとりの密室に戻っていく。あまり心温まる風景じゃないですよね、管理された擬似祝祭的なイベントに若者が集まるというのは。
「ネット右翼」はこの杜会集団を母体としている。コンピュータの前に座って、排外主義的で暴力的な言辞を吐き散らしている若者たちです。政治意識に関しても三浦さんは調べていますが、いわゆる「上流」における自民党の支持率は8.3%で、民主党が16%ぐらい。
75%が支持政党なし。ところが「下流」層では、自民党支持者が圧倒的に多い。よく見るテレビ局はフジテレビ。フジテレビと自民党が好きで、インターネットから毎日情報を得て、ときどきサッカー観戦などに行っては顔にペィンティングをして、日章旗を振っているのが三浦さんの描いた「典型的な下流の若者像」なんですけれど、これはかなり説得力のある描写だと思います。
これだから、内田は嫌いだ!皆さんもそう思うでしょう。
p176~177
僕が首相の公式参拝に反対なのは、政治的な問題として捉えた場合、政治家、特に為政者は個人的な信教よりも日本の国益を優先的に配慮すべきであると思うからです。小泉純一郎や安倍晋三がどのような宗教的信念を持っていても、それをどのような儀礼を通じて表現されようとも、それは純然たる私事であると僕は思います。それに対しては誰も口を差し挟むことはできない。
でも、首相という立場で宗教的な儀礼を行う場合は、それほど原則的なことは言えない。
というのは「公人」というのは、どのようなプライベートなふるまいであっても、それをパブリックな文脈で解釈されることに同意した人のことを指すからです。俚諺に「瓜田に履を納れず。李下に冠を正さず」と言うとおり、公人とは「瓜畑でははきものが脱げてもしゃがまない(瓜泥棒だと思われるかもしれないから)。冠の紐がゆるんでも、すももの木の下では直さない(すもも泥棒だと思われるかもしれないから)」人のことです。自分にとつてはごく自然でかつ理にかなった行為であっても、それが他人の眼から見たらそれとは違う不利な解釈をされる可能性があるなら、あえて自制する。それが君子の道であると古代中国の賢人は諌めたわけです。
同じことは日本の総理大臣にも当てはまるだろうと僕は思います。
靖國神社に行って戦死者の霊を慰めたいという考え方は私人としては別に問題のない行為でしょうが、その同じふるまいは隣国の中国、韓国、北朝鮮、台湾などかつての被侵略国の人たちからは侵略戦争と植民地化政策そのものを正当化する政治的シグナルだと解釈される可能性がある。これは外交的には日本に不利益をもたらす。
慰霊行為によって首相個人にもたらされる宗教的な納得感と、慰霊行為によってもたらされるかもしれない外交的な失点を考量する場合に、統治者たるものは私的な利益よりも公的な不利益を優先的に配慮すべきであろうというのが僕の考え方です。
どこの国でもの首相や大統領が、祖国のために戦った英雄に感謝する当たり前の事を、内田は「李下に冠を正さず」のような泥棒と紛らわしい行為だと主張している。前の戦争で戦死した英霊を尊敬しない国の兵士がはたして己の命を懸けて祖国を守るだろうか? 特亜諸国の内政干渉も甚だしい主張に総理大臣が迎合することが国益だと思い込むのは軽薄な考えだ!内田樹はいくら、中立を装っても、「三つ子の魂百まで」「馬鹿は死ななきゃ治らない」!所詮1950年~54生まれの全共闘世代だ。全共闘世代は東京裁判史観=戦後教育の害毒が身体に染み付いてしまっている!
 
ただ、内田樹は、頑固で頭が悪い護憲派のリベラルの論客と思いきや、彼の主張には、全共闘世代にもかかわらず純粋左翼でもなく合気道など武道を嗜む保守的側面を持っていて、それほど押し付けがましくもなく、かついい加減なところがあり、そのいい加減具合もちょっと憎めない。そのあたりが、「下流志向」「日本辺境論」などベストセラーを連発しているのではないかと思っています。
 
 本書は先日私のブログでも取り上げた『不干斎ハビアン――一神も仏も棄てた宗教者』の著者 釈徹宗教授と内田教授二人で2005年9月から半年間神戸女学院で行われた「現代霊性論」の掛け合い講義に加筆されたものです。
 
フランス現代思想が専門の内田樹と浄土真宗の住職でもある釈教授の掛け合いは、内田樹の思い込みの持論展開をたびたび釈教授が修正したり、やんわりと内田を抑え込んでいて、なかなかボケと突っ込み具合が面白かった。
 
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次に「妙貞問答」における神道・儒教だが、後のキリスト教批判書、『破提宇子』では、孔子と子貢の問答「天、何をか言うや。四時行なわれ、百物生ず。天、何をか言うや」という孔子の発言があり、ハビアンに言わせれば、『論語』にも天という万物の主宰の存在は説かれている、創造主思想は、何もめずらしくないと書いてありますが、「妙貞問答」では、三教一致で、これら三教には、創造主が無く、この世が存在する理由が書いていないという。
 p66~69
幽貞は「仏教は善悪不二・邪正一如などと言い放つので、人の道を説く儒教は嫌っております」と語り始める。

天道とは「太極」のことを指す、太極がすべての根源であり、これが分化したのが陰陽だ、と幽貞は説明する。そして、幽貞は『朱子文集』を引用しながら、「陰陽すなわち太極、陰陽すなわち天道」ということに儒道はきわまれると述べている。
(略)
天の星から、一人一人の個人、石ころひとつに至るまで、すべて太極の働きが説かれる、そしてその太極は無辺の真理であり、しかも遠く離れた彼方にあるのではない。
人の心の働きはすなわち太極なのだ。つまり天地万物は人の心の働きに他ならないのである、ということは、仏教の「虚空法界」「三界唯心」と軌を一にしているのだ、と「三教一致(儒教・仏教.道教はひとつ)」論を述べる。すっきりとしたわかりやすい理届である。
(略)
ここで幽貞は、造物主なければ塵ひとつ生成するはずはないのに、そんな自然・天然の理屈からこの天地が生ずるはずはなかろう、と主張する。

天地陰陽はひとりでに成立したものではないという幽貞に対して、妙秀は「いや、『中庸』には、鬼神によって(つまり陰陽の気の働き)によって万物は生成されるとあります」と反論する。しかし、幽貞はこれを受けて「『中庸」には、『鬼神は天地の功用にして、造化のあとなり』とあり、張子は『鬼神は二気の良能なり』とあります」と応える。つまり鬼神も天地陰陽から出たもの。では、その天地陰陽の作者は?
それをきちんと教えるのはキリシタンしかない、そのような理路へと導くのである。
 
次に妙秀は「儒教には魂魄ということを説いていますが、これはどうでしょうか」と幽貞に問いかける。幽貞は、『朱子文集』を引いて魂魄によって人は存在しており、それも陰陽の働きと連関していることについて述べ、「人が死ねば魂は天に帰し、精魄(身体を構成していたもの)は地に帰す」と続ける。この「魂塊」という考え方に対して、ハビアンはそれほど抵抗がないのかもしれない。そんなニュアンスが感じられる。考えてみれば、日本人の生死観はシンクレティズム(習合信仰)によって支えられている。それは、仏教の「輸廻」や儒教の「魂魄」の他にも、「成仏」や「祖霊」などが混交しており、まことに雑多である。
 
魂魄の説明に続き、朱子学の「事と理と性と気」の話になる。「天地に有っては理と、云い、人に有っては心と云い、物に有っては性と云う」と述べ、私心なく、仁義礼楽を治める徳が語られる。
 
そして、このあたりは、キリシタンの教えにも通じるところであると儒教を高く評価している。ここで幽貞は儒教を「ナツウラの教え」と評している。ナツウラとは、キリシタン用語で、自然(ネイチャー)のことである。人も動物も草木もその性は変わらないというところが間違っていると批判する。
 
ここは晩年の『破提宇子』でも俎上に乗せた論点である。

さて、朱子学はキリシタンと並ぶ当時の二大新思潮であった。キリシタン教団はこの傾向に警戒して、マテオ・リッチの『天主実義』を日本へと取り寄せている。そのような思想の動乱期において、諾宗教に先駆けて朱子学に基づいた儒教論が書かれたこの「中巻」は刮目の業績である。

井手勝美は、これはハビアンが初めて俎上に乗せた事柄であり日本思想史上において注目すべきことであると指摘している。
 p66~73
神道のカミ

儒教について教導を受けた妙秀は、次に「さてその神代の事はいか様なる義にてそうろうや」と尋ねる。

幽貞は「お尋ねなくともお話ししようと思っておりました」と受けた上で、神道を三形態に分ける。ひとつは、「本迹縁起の神道(後の著作である『破提宇子』では本地垂迹説と書いている)」、そして「両部神道」、もうひとつ「還本宗源の神道」である。この分類法は、『唯一神道名法要集』に主張されている。
(略)
さて、ひとつ目の「本迹縁起の神道」とは、本地垂迹の義を立てる神道、すなわち仏教を主体とした神道だ。仏教と神道が習合する際、本地(本体)である仏教の如来や菩薩は日本の神々となって姿を現した(垂迹)と考えたのである。次の「両部神道」とは、真言密教において成立した神道で、幽貞は「弘法大師が吉田家の神道を取り入れて出来上がった」と述べている。

最後の「還本宗源の神道」は、唯一神道とも言い、本地垂迹説を廃して、神道こそが諸宗教の本源であると主張した神道である。そこでは、神代十二代から始まり、『日本書紀』を軸とした神道における神の系譜が語られる。
妙秀は「神道には、国常立(くにとこたち)尊を初めとして、きちんと天地開闢のことを説いておりますが」
と質間している。幽貞は「そう問われると思っていました。実は国常立尊の天地開闢は間違っております」と応答する。「『日本書紀』にも、開けたる天地から国常立尊が誕生したことが記されております。つまり、国常立尊が天地を生成したのではないのです」と続ける。

妙秀は「いやいや、なんでもそう軽々しく説いてしまってはなりません。なにしろ神道は不可思議のことわりがあります。中でも"還本宗源の神遺"は、吉田家の嫡流相伝であって、外には知らさぬそうではありませんか」と反論。この妙秀という人も、かなり幅広い知識をもった人である。
幽貞は、そのように神秘的に語り、かつ「何事も信心から」と説いて、尊くありがたいもののように見せかけるだけなのだ、と一刀両断に切り捨てる。神道はもっともらしく語っているが、たいした奥行きもないのだ、と言う。ハビアンの宗教観を垣間見ることができる部分だ。そして、国常立尊、国狭槌尊、豊掛淳神……と、次々に神の名を挙げてその語義と性格を分析する。分析の結果、神道の説くところは、夫婦が性行為をして、子供を生み為すことになぞらえて神を語っているだけなのだ、これが神道の秘密であると結論、づけるのである。
(略)
幽貞は、宗教を天照大神やスサノオの神話、天の岩戸の話も、自然現象を語るものであるとして、日食や月食、冬至や夏至の話をする。さらには、「馬は馬を産み、牛は牛、人は人を産む。
天照が子を産んだら、太陽でなければならない。でも、太陽はひとつだ。つまり天照は太陽のこと空言っているだけである」と、天照大神の正体は素朴な太陽信仰にほかならないと結論づける。
妙秀は、「よくわかりました。我慢偏執の心さえなくば誰でも理解できることですね」と、言う。なかなか科学的な態度である。この妙秀は、宗教への造詣が深い人でありながら、あっさりと納得するたいした人なのである。
そして幽貞は、「吉田家が神をコントロールしているのであれば、神は吉田家よりも下に位置するではないか。いずれにしても、天地創造の神ではないということである」と述べる。
このあたり、日本の「神」の特性をよく押さえて語っていることがわかる。日本の「神」は、もちろんキリシタンの神(デウス)とはまったく別物である(近代になって、「GOD」に「神」という訳を使うようになったのは、キリスト教にとって大きな蹟きだったかもしれない)。本居宣長が言うように「尋常ではないほどすごいもの」が神ならば、尋常ではないほどの能力があったり、功績があったり、とにかく普通ではないものを神として祀ることとなる。
 ここは釈先生の力が入っている箇所で、ほとんどコピペしてしまいました。
皆さん、私が紹介しているのはこの本のほんの一角です。是非本書を手にとって読んでください。

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
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この各宗派の批判は逆に優れた仏教の解説書ともなっております。
52 65
「倶舎・成実・律宗は、小乗仏教なのでレベルが低い」と語り、それぞれを解説する。
倶舎宗は「修因感果」を説く。修因感果とは、善根功徳という(原)因は楽という(結)果をもたらし、悪業という因は苦という果をもたらすという因果律のことである。仏教では「自因自果」と言って、自らの行為は自らが責務と結果を背負わねばならないと考える。そしてハビアンは「これはレベルの低い教えである」と切って捨てるのである。ハビアンの眼から見れば、ここには慈悲も救いも説かれてないということなのだろう。

成実宗は「成は能入(悟りに入ること)、実は所入(入る悟りのこと)」のことであり、その悟りとは「空」の義である。つまりすべての現象は「空」であると覚るということ、これは一見大乗仏教のようであるが、最澄や嘉祥などは小乗であるとしている、とハビアンは述べている。

律宗は戒を説く宗派であり、その戒はつきつめれば止持(悪を為さざること)と作持(善を行うこと)との二つである、と解説する。このように、各宗派の体系を「つきつめれば、こうなのである」とか「その体系をたどれば、つまりこういうことを言っているとわかる」というまとめ方は『妙貞問答』に一貫して見られる態度である。このあたりハビアンが「知」「合理」が先行する人間だと評される所以だろう。
この項でハビアンは、「仏教では、救いや善や悪、すべては即"真如"(ありのままの存在。真実の姿)に決着する」と結論づけている。これは、後述のキリシタンとの相違を際立たせるための伏線となっている。

学派仏教
幽貞は、大乗仏教・小乗仏教という大枠を述べた後、当時の仏教諾派をひとつひとつ取り上げて語る。まずは奈良仏教の「法相宗」「三論宗」「華厳宗」である。
(略)
法相宗と三論宗は、一応、大乗仏教とされているが、実は小乗的な部分もあって、「権大乗」と言い、やはりレベルが低いと評している。そして、法相宗の唯識理論を詳述し、「唯心論」だと言って批判する。確かに法相では(ハビアンも書いているが)、すべては心の投影であり、心の外に実体は存在しないと考える。そして、その心(認識)を智慧へと転換することを説くのである(転識得智てんしきとくち)。このあたり、ハビアンの筆は冴える。後に述べられる、「絶対なる神」という衝撃の概念を提示するための前段階だからである。巧妙に、そして着実に論理は組み立てられていく。

(略)
幽貞は、三論宗にも煩瑣な教学があるものの、結局は「執着を捨てて、空を覚ればよいのだと説く」ことを明らかにする。
南都六宗は、現在の宗派のような独立したものではなく、一種の学派である。ゆえに法相を学ぶものは倶舎を学び、成実宗は三論の属宗であった。このあたりの事情も、ハビアンは了解していたようである。
そして幽貞の解説は、稀有壮大な体系をもつ華厳宗へと進む。
(略)
『華厳経』の体系は哲学的思弁的であって、一筋縄ではいかない。ここでは、まず華厳では五教を立てて仏教全体を分類することから解説を始める。そして、「此別教一乗、別於彼三乗(三種類の仏道を説く小乗仏教ではなく、すべての人が平等である一乗すなわち大乗仏教の教えである)」を述べて、事と理の無礙であることを説明し、華厳も「空即是仏」と結論づけ、「何モナキ処、即、仏ト也。アラ勿体ナノ事ヤ」と椰楡する。

こうしてみると、ハビアンが各体系のメインラインを見抜いて分類する手法を取るのは、やはり仏教を学ぶことで鍛え上げられたのではないかと思われる。

(略)

幽貞は、天台宗を「究極の大乗仏教なので、その教えは広大深遠であられます」と賞賛し、次いで「五時四教(通常は五時と八教で考える)」を解説する。

これは有名な天台大師による教相判釈(仏教の体系を整理して各教典や宗派の位置づけを明確にすること)で、成道以降の釈尊の一生を五つの時期に分けて考え、それぞれに仏教経典をあてはめることで『法華経』の優位性を説いたものである。

さらに「四諦(「なぜ苦悩は生じるのか」「どうすれば苦悩を解体できるのか」という仏教の根幹を、四つの因果律の構図で説明したもの)」「十二因縁(人間の苦悩が成立するメカニズムを十二の項目で系統的に説明したもの)」「四向四果(出家者の「四つの修行目標」と「四つの到達境地」)」を述べるあたりは、仏教の基本教理をきちんと押さえながらの解説となっており、ここの章は筆に力が入っていることがわかる。

また幽貞は、日蓮宗のファンダメンタリスティックな傾向を見抜き、『法華経』でなければ助からぬというのは仏法を見誤っている、と批判している。
(略)
妙秀は、これまでの仏教解説を聞いて、仏教は基本的にこの現世の話ばかりであることに気づく(これも後に展開される「キリシタンの教え」との差異を語るための伏線である)。

すなわち、「仏教にも一応の来世観があるものの、すべての現象を心の働きで説明しようとする"唯心論"であって、しかもその心にも本体はないのだから、すべては"空"へと行き着くのだ」というのがハビアンの仏教論なのである。そして、これに対してキリシタンには「絶対なる存在」「来世の救い」がある、という方向へと論を展開していく。

さて、妙秀は、幽貞の天台宗解説を堪能した後、「真言宗は密教と言って、なにやら格別の宗派らしいのですが」と問う。真言宗は「密教」である。つまり、師の導きによって体験しなければ理解できない教えなのだ。

(略)

幽貞は、「おっしゃる通り、一見、密教はその他の宗派とは違うように思えることでしょう。でも、これも天台宗と相違するところがあるわけではありませぬ」と答える。「天台は顕教、真言は密教と言っておりますが、それは、手を握れば拳と呼び、開けば掌と呼ぶのと同じことです」と語っている。

このような、「仏法は各宗派あれども、つきつめれば同じ」という態度に、多分にハビアンの禅僧的体質を読み取ることができる。とりわけ臨済禅の香りがする。臨済宗の禅は、人に本来そなわる仏性(悟りを開く性質)を、禅を通して自覚するという教えを説く。

その自覚へと至るために、坐禅、公案、作務などを修するのである。つまり、究極には「あるがまま」へと至る、と考える傾向が強い。これは道教に大きく影響を受けている理念であり、仏も来世もワシには関係ない、などと言い放つ豪放轟落なところも兼ね備えている。また、仏教にはハビアンが言うように、「すべては無や空だと言ってしまって救いがない」と見えなくもない面がある。

真言では、大日如来こそが本尊であり、この世界そのものであるが、これを「体・相・用」の三つに分けて説明する。

大日の「体」とは六大(地・水・火・風・空・識)である。そのうち四大(地・水・火・風)
は物質であるが、「空」は虚空のことであり、「識」は分別のことである.ハビアンはここで、「識とは、『柳は緑、花は紅』と知り分けることだ」と述べている。これはよく禅僧が「あるがまま」を表現するのに使う言葉である。

また「相」とは、四曼(大曼茶羅・三昧耶曼茶羅・法曼茶羅・羯磨曼茶羅)で、「用」とは、三密(身密・口密・意密)である。身に印を結び、口に真言を唱乏、心を悟りの境地に住する。

つまり、体は本性、相は形相、用は作用のことである。体から相が表出し、相から用が出る。

(略)
密教では、すべての根本である大日如来でさえ、「そんなもの何が尊いのだ」とハビアンが言い放つのも禅的言説の感性なのかもしれない。

いずれにしても、仏教は人間中心の教義であり、キリシタンとはずいぶん違う、と幽貞は述べる。ハビアン(を窓口としたキリシタン教団)が仏教を批判しているのは、「終始一貫して観念的」「人間中心」ということであるようだ。この節でハビアンは妙秀に、「キリシタンの教えこそ、神もなく仏もなし、地獄も天道もないと思っていた」と語らせている。巧妙なレトリックである。

またこの「真言宗之事」では、「阿字観」について解説しているのだが、ここにも注目したい。
ハビアンは、阿字観という瞑想のメカニズムを読み解き、この瞑想の要は息であると考えている。呼吸を整えコントロールすることによって、生命も判断も感情もそこにすべてこめられるのだと述べている。そして、阿弥陀仏も観音菩薩もみんなそこに内包される。

(略)

(禅宗については)
あらゆる現象には本来性は無く、諸条件によって善にも悪にもなる、「これを無法の法もまた法なりと言う」などと幽貞は語っている。そして、善も悪もすべて意味をもたない、という禅的ニヒリズムに言及し、キリシタンから見れば邪法とするしかないと断じる。次に禅の「師資相承」が解説され、中国における「五家七宗(臨済宗・曹洞宗・雲門宗などの禅仏教各派のこと)」を紹介している。「本来無一物」「祖師西来意・庭前の柏樹子」「即心即仏」など、有名な公案が次々と語られていく。臨済の禅は、公案に参ずることで悟りへ導く。

(略)
「浄土宗」に続いて「浄土真宗」にも少し言及している要約すると、「親鸞というだは自ら結婚して世間に隠すこともなかった。この教えは今、えらく世の中に広まっている。しかし、これほど上出来な宗旨もない。なにしろ、持戒も破戒も
ないのだ。こんなお気楽でありがたい教えはない」といった調子で、あからさまに椰楡している。

キリシタンを特徴づける教えのひとつに「倫理」があった。特にセクシュアリティに関する規範はそれまでの日本社会にはそれほど意識されてこなかった部分であった。「キリシタンの教えはいいのだが、一夫一妻などと口うるさいのがかなわん。それさえなければ改宗してもいいのだが」などと当時の大名も言っている。秀吉が「側室を認めるならキリシタンになってやってもよいぞ」という冗談をパードレ(神父)やイルマンに言った話も残っている。この倫理感を盾にキリシタンは仏僧たちを批判したのである。ここでの浄土真宗に対する嘲笑も、その傾向がうかがえる。

実は、浄土仏教はキリスト教のプロテスタントと共通した部分をもつ。その証拠に、来日した修道会の宣教師たちは、浄土真宗を見て、なぜこのようにプロテスタントに似た宗教があるのかと驚愕し、これこそ我らの真の敵であると語っている。『妙貞問答』における浄土真宗の記述は、その当時庶民を中心として日本最大級の規模を誇った仏教教団にしては、あまりに少ない。しかもほとんど『仏法之次第略抜書』を模写している。ハビアンが浄土真宗について深く思索した形跡なし、ということである。なぜハビアンは浄土真宗について語ろうとしなかったのだろうか。

そもそも「上巻」の分量配分から考えて、浄土宗の記述もかなり少ない。さらに浄土真宗は、浄土宗に付属したような扱いで数行書いているのみである。おそらくハビアンは、天台宗や禅仏教などに比べてそれほど浄土仏教に精通していなかったため、このような扱いになったのであろう。

また、浄土宗の教義はシンプルであるし、浄土宗と浄土真宗の教義的な相違が大きくないことも要因のひとつだったかもしれない。

以上、ハビアンの仏教批判は、おおよそ「釈迦や諸仏は人間である」「仏教の本質は空・無である」「仏教ではすべての存在は自分の心が生み出したものとする」といった三点に集約できる。


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釈徹宗 Shaku Tesshu
 
1961年大阪府生まれ。浄土真宗本願寺派・如
来寺住職。兵庫大学准教授。専門は宗教思想。
著書に『親鷺の思想構造』『いきなりはじめる
仏教生活』『仏教ではこう考える』、内田樹氏と
の共著『インターネット持仏堂1・2』がある。 
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先日、内田樹との共著である「現代霊性論」を読んだ。2005年9月からの半年間、神戸女学院大学で行われた授業を収録したもの。
 
靖国神社についてもふれていたが、現代霊性論を読み、人間は、葬送儀礼を始めたときから動物から切り離され、どんな民族にも人を弔う儀礼ができ、宗教は人の弔い方ではないかと私は気がついた。弔い方が気に入らないからと言って、死者が化けて出ることはないが、政治と宗教の関わり、宗教とはどうあるべきかを考えさせる良書であった。釈氏によれば靖國神社に合祀された御霊を分ける事が可能かというのは純粋に靖国神社側の判断であり、政治的にはなんら判断は出来ないとのこと。日本では近代になるまで死んだ霊は大いなる全体に還る、という考えが一般的だったという。しかし儒教の影響から、位牌が作られるようになり、死んだ後も魂は個別に生きているときと同じように存在すると思われるようになったなど、宗教者の意見も参考になった。内田樹のいい加減な話をうまく修正して、日本人と宗教について楽しく読むことができた。「現代霊性論」は後日書評を書こうと思っている。この本で、私は俄然釈氏に興味が湧き、早速釈氏の近著「不干斎ハビアン」を読みました。 是非皆様にも読んでいただきたいと推薦したくなる1冊です。
 
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イメージ 5「不干斎ハビアン」とは、かの山本七平氏の名著「日本教について」「日本教徒」で最初の日本教徒として紹介され、元々興味があったところに、最近読んだ「イソップを知っていますか 阿刀田高/著」でもハビアンが日本最初のイソップ物語(伊曾保物語)の訳者の一人でもある事を知り本書に飛びついたわけです。
 
山本七平氏の「日本教徒」では、ハビアンの「破提宇子」を中心に、日本人の宗教に対する接し方を「日本教」として纏めた本であるが、本書は「妙貞問答」を中心に、比較宗教論者としてのハビアンをとりあげ、比較宗教論としても本書を読める。
 
まえがきp3~4
(略)
1565(永禄八)年ごろの生まれ。禅僧であったが、後にクリスチャンヘと改宗。日本人キリシタンの理論的支柱として活躍、仏教・儒教・道教・神道・キリスト教を比較し論じた『妙貞問答(みょうていもんどう)』を著した。当時(天正年間から慶長年間にかけて)は、キリシタン全盛の時代。ハビアンは日本人キリシタンの第一人者であった。ところが、突如、ハビアンはキリシタンの信仰を棄てて行方をくらませる。そして、晩年に再び筆を取り、『破提宇子(はだいうす)』というキリシタン批判書を執筆し発表した。キリシタン側は、この書を「地獄のペスト」と呼んで恐れたという記録が残っている。
 
(略)
 
この『妙貞問答』。おそらく世界で初めて仏教・神道・儒教・道教・キリスト教を比較して論じた書である。すでに十七世紀初頭において、このような書が書かれていたことは、驚嘆すべきである。ヨーロッパでも近代に入ってからやっと本格的に論じられたような各宗教思想の比較論が、なぜ長く混乱期が続きやっと政治・経済が安定期に入ろうかといった時期の日本で成立したのか。いくつかの複合的要因はあるが、なんといっても著者であるハビアンという男の特異な経歴に因るところが大きい。
当時の世界で唯一人、仏教・神道・儒教・道教・キリスト教を相対化した人物、不干斎ハビアン。ひょっとするとこの男、日本思想史上、重要なポジションに立っているのではないか。少なくとも、そのような視点で再読してみる作業は必要なのではないか。いやいや、まずは拙速な仮説に帰納させず、本書では、ハビアンの宗教性を追いながら、そこから派生するさまざまな宗教論を語ってみようと思う。
 本書は、キリシタンとしてのハビアンの主張である『妙貞問答』をテキストに比較宗教論を行っている。まずは、『妙貞問答』その上巻仏教批判から。
 
p44~46
近年において不干斎ハビアンの名を世に知らしめたのは山本七平である。山本は、思想研究書やキリシタン研究書としてではなく、一般書でハビアンを取り上げ、さらにはハビアンを足がかりとした日本文化論を展開した。山本の著作によってハビアンを知った人も多いであろう。山本 七平は『妙貞問答』を「既存の日本の宗教のすべてを批判したという点で、日本最初のものであり、それまでに存在した神道.仏教・儒教の相互批判とは本質的に異なり、脱既存宗教を説いている点に特色がある」(『日本教徒』、1997)と高く評価している。山本は『妙貞問答』の思考プロセスを驚嘆すべきものであると評価した。『妙貞問答』は、既存の日本宗教、そのすべてを批判した最初の書である。

キリシタン体系の結実『妙貞問答』

『妙貞問答」は、ハビアンが婦女子を対象にキリシタン入門書として著述したものだと考えられる。しかし、山本が指摘するように、『妙貞問答』は当時大きなフィールドをもっていた既存宗教のすべてを批判するという稀有な書であり、かつ日本人の手になる最高のキリシタン護教論書である。さらに、キリシタンの立場から神仏儒のすべてを語り批判した、個人の著作としては日本思想史上唯一のものなのだ。その後のキリシタンの理論的支柱となったとさえ言われる『妙貞
問答』。その内容を概観してみよう。
『妙貞間答』は上・中・下の全三巻の構成になっている。全編通じて(パトス的ではなく)ロゴス的であって、あふれる信仰の情熱、といった感は少ない印象を受ける。現在、『妙貞閉答』の写本はわずか二本のみ。吉田家旧蔵本(上・中・下巻。現天理図書館所蔵)と、林崎文庫旧蔵本(中・下巻のみ。現神宮文庫所蔵)である。
『妙貞問答』は妙秀と幽貞という二人の尼僧が対話するという形式になっている。主に妙秀が質問して、幽貞が答えている。この妙秀は関ヶ原の合戦において石田三成方で戦い、討ち死にした武将の未亡人という設定だ。
「上巻」で幽貞は仏教の基本理念から、日本仏教各宗派の特徴をダイジェストで語る。そしてそれぞれの宗派の相違はあるものの、仏教である限り「無」「空」の一点へと到ることを論証する。
さらに幽貞は、「中巻」で儒教・道教を解説し、仏教・儒教・道教の三教が一致すると述べる。
また神道についても妙秀に教示し、神道の正体は夫婦・子育てを神の名のもとに語っているだけだと切って捨てる。そして「下巻」でキリシタンの教理を語り、いかに他宗教と相違するかを提示するのである。
(略)
『妙貞問答』「上巻」で語られる仏教批判の骨子は、「無や空に帰着するので救いがない」「絶対者の概念がない。釈迦も諸仏も人間であり、造物主ではない」
に集約できる。
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地球を宇宙から眺めた現代人にとっては、下らない話であるが、仏教が説く世界観で、世界の中心にある須弥山が海抜八万由旬=33,333里(1億3333万2千m:13万3332Km、地球の直径が12700Km)なら日本から見えないのは、無いからではないか。須弥山が無ければそこにいる33天・帝釈天も存在しないので、仏教が説く三界(俗界・色界・無色界)の俗界は存在しないといった理詰めで読者に仏教の虚構を説明している。
 p49~51
(妙秀が)「三界が虚構であったとしても、仏法で後生が助かるのであれば、それで充分ではないですか」
と言うのである。この反論は実に興味深い。つまり「宗教機能論」なのだ。たとえ虚構のストーリーであっても、最終的にその人が救われるのであればそれは立派な宗教ではないのか、という機能論は現在でもしばしば論点のひとつとされる。そして、このような機能論的視点に立脚するのは仏教思想における特性のひとつでもある。このあたり、『ドチリイナ・キリシタン』にも『日本のカテキズモ』にも『仏法之次第略抜書』にもない、ハビアンによる感性であろう。この質問からは「仏僧であった」「機能論的に宗教を把握する」といったハビアンの特性を見てとることができる。
しかし、幽貞は「その通り、後生が助かるのであれば、何の不足もありません。しかし、そこが問題なのです」と応答する。そして、釈迦の一代記を語り、一人の人問であったことを強調する。例えば、釈迦が誕生時に「天上天下唯我独尊」と発言したことについて、雲門禅師の「そんな傍若無人なことを言う赤子、ワシがその場に居たなら叩き殺して火に喰わせる」といった故事を引いて、傲慢で徳が無いと批判する。仏教の批判をするのに、禅僧のエピソードをもちだすあたり、どこか元臨済の禅僧であることを感じさせる。またどこかユーモラスでもある。『妙貞問答』が、婦女子の読み物としても十分耐えうるものであったことが窺えるのである。
(略)
さらに幽貞は続けて、「インドではブッダと呼び、中国では覚者と呼ぶ。覚者とは覚った人ということ」と解説し、何を覚ったかと言うと「畢竟は空である。ゆえに仏も衆坐も地獄も極楽もつきつめれば無いのだ」ということなのだと厳ずる。つまり、仏教を極めればここに至るのだと幽貞は述べる。
そして、「釈迦は人間ではないか。元は一人の凡夫ではないか」という結論へと導かれる。ここだ。キリシタンによる仏教批判の軸のひとつが、「釈迦も阿弥陀仏も神(造物主)ではない。単に人間が悟りを開いた存在じゃないか」という主張である。キリシタンの「デウス(神)」を理解するのにはわかりやすい対比である。また、キリシタンが他宗教に対して優位性を確保するのに大変有効だ。
(略)
妙秀は「いやいや、仏は単に人間であるとするのもあやまりですぞ」と反論する。
(略)
「仏教がすべて無に帰着するから来世を否定するというのも間違っております。なぜなら仏教では断見(すべては無である)も常見一死後も存続する)も両方否定するからです。この無と有から離れるところに悟りはあるのです、これを中道と言います」と幽貞に語る。
(略)
しかし、幽貞はこの妙秀の反論を一応はそのように言うのであるが、つきつめれば仏教が説いているのは、すべての存在は四大五蘊と呼ばれる構成要素によって成り立っており本体は空である、ということにつきるのだ」と一蹴する。確かに仏教では永遠不滅の魂が否定されている。仏教という宗教の特徴である。すべては一時的状態だと考えるのである。そして幽貞は「中道というのも、仏性というのも、心の有り様を説いているだけであって、これも空の異名なのだ」と少々強引な結論へと導く。幽貞の論旨は、宗派によって用語や多少の解釈の相違はあるが、仏教は「一切が空だ」というところへ行き着くのだ、といったものなのである。
 圧巻なのはこの後、当時、八宗と呼ばれた、倶舎、成実、律宗、法相、三論、華巌、天台、真言、の他に禅宗・浄土宗・一向宗・日蓮宗を加えた十二の宗派を大乗と小乗に分け解説しつつ「駄目出し」していくのである。
 
江戸時代の初期あたりまでは宗論(仏教各派同士の論争。あるいは異宗教間の論争)が盛んであり、ディベートの手法も発達していた。ディベートの大技としてしばしば「与奪」と呼ばれた手法が使われる事があった。一旦、相手に答えさせておいて(与)、その返答を使って反論を行う(奪)のである。
 
ハビアンは、禅僧として与奪の修行もしただろうが、当代随一の知識人でなければ、各宗派の要点を突き、キリシタン信仰に帰依するか「妙貞問答」でこれだけ説得できない。

 
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